「 悲観主義者はどのような好機にあっても難点を見る。
楽観主義者はいかなる困難な状況にも好機を見る 」
ウィンストン・チャーチル ( イギリスの首相 )
A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty.
WINSTON CHURCHILL
ホリエモンは 「 金で買えないものはない 」 と言ったが、はたしてそうか。
金持ちで不幸な人もいれば、貧乏でも幸せに暮らす人がいる。
英語のジョークには、「 The optimist sees the bagel: the pessimist sees the hole.( 楽観主義者はベーグルを見て、悲観主義者は穴を見る ) 」 もある。
同じ品物を見ても、両者の視点は異なり、お互いに違う印象を持つ。
どちらがエライというものではないが、双方の生き方を比較すると、たぶん悲観主義者のほうが 「 疲れる 」 のではないかと思う。
世の中には自分一人の力で変えようのない事柄や、どうしようもない問題があり、それをビクビク心配したところで、あまり意味がない。
脳天気すぎるのも考えものだが、不安ばかりでは人生を楽しめない。
たまに、私の日記と、ある人物の日記が、まるでリンクされているかのように論戦になっているという指摘を受けることがある。
相手がどう思っているかは知らないけれど、少なくとも私は相手の日記の 「 愛読者 」 であり、たしかに触発されていることを認めよう。
ただ、この場合の 「 愛読者 」 というのは、「 とても興味深く読んでいる 」 という意味であり、けして 「 共感者 」 という立場ではない。
彼と私は、ほぼ年齢も同じぐらいなので、なんとなく言いたいことはわかるのだが、発想が後ろ向きすぎて、どうにも一体感が持てない。
生真面目で几帳面なところは評価できるが、私の信条である 「 結局、人生は楽しまなければ損 」 という考えとは、常に対極の位置に交差している。
けして、ケチをつけるために拝読しているわけではない。
研究のためとは言わないが、心理学やら人物研究に興味のある人間なら、たぶん誰でも彼の日記に関心を持つはずである。
文体、主張、結論の導き出し方に性格的な特徴があり、毎回、すさまじいまでに強烈な自己愛と羨望が染み出している。
逆に普段は、愚痴の一つも言わず、抑圧された模範的な生活態度をおくり、真面目に勤めておられるのだろうと思う。
匿名のWEB日記で暴論を展開したり、愚痴を発散したりしている人たちのほうが、普段は寡黙でおとなしいというのが実情なのだろう。
特に身体が悪いわけでもないのに、いつも心配で不安な人がいる。
あるいは、いつも自分が何か失敗したとか、相手に悪いことをしただとか、あとになってくよくよ悔やんだり、自分を責めたりする人がいる。
そんなことは誰にでもあるのだが、そのことにとりつかれ、ほかのことが目に入らないで、そのことばかりを気にするのが悲観的人間の特徴だ。
こんな気持ちに陥ると、なかなか気分転換ができず、楽しく明るい気持ちを取り戻せないし、そこにまた、何かくよくよ悔やむことが起きる。
その人の暮らしは、「 悔やみの暮らし 」 に化してしまう。
私はカウンセラーをしているが、相手の状況や心理の程度問題を見据えて、できるだけ 「 甘やかさない 」 ように努め、成果を挙げている。
また、接し方にもよるが、悲観的な人間ばかりが集まっているよりは、楽天的な人間と交わったほうが、気分が明るく楽になることが多い。
事実、前述の日記書きさんも、私と論戦する以前に比べると、かなり読み手を意識した文章に変わってきたし、少しは明るくなってきたと思う。
周囲から見れば敵対しているだけに見えるかもしれないが、そこには奇妙な友情が存在すると、少なくとも私は感じている。
生い立ちと環境は違っても、同じ世代を闘ってきた我々2人は、いわば同じカードの 「 表と裏 」 なのではないだろうか。
美しいものを見て魅了されたり、醜いものに顔を歪めたりするのは人の常であり、それを差別だから悪いというのなら、美的感覚は否定される。
だから、多くの鬱病患者と接してきた私にも、鬱病や悲観主義者に対する偏見がまったくないわけではない。
また、あまり余計なお節介をするタイプでもないのだが、そういった人たちが身近にいて、黙って眺めているのも心苦しいという気持ちがある。
明るく振舞うだけではなく、こうやって、自分の心情を吐露できるのが、実は楽観主義のよいところでもある。
泣いても一生、笑っても一生なのだから、バカと思われても私は、これからも楽観主義で暮らしていくだろう。
「 ねたみは、記憶のように持続し、鼻かぜのように治りにくい 」
ハリー・スタイン ( アメリカの作家 )
Envy is as persistent as memory, as intractable as a head cold.
HARRY STEIN
成功すると誰かにねたまれたり、中傷されたりすることがある。
問題は、ねたむ側も、ねたまれる側も、それに気付いていないところだ。
数十年に亘って韓国と争っている 「 竹島問題 」 も、あるいは 「 靖国神社参拝問題 」 も、基本的には 「 ねたみ 」 の様相が強い。
もしも日本の戦後復興が遅れ、豊かになっていなければ、周辺諸国からの風当たりも弱く、目の仇にされることなどなかっただろう。
自分より豊かな者、幸せそうな者、力量の勝る者に対して、ねたみを抱くのは自然な現象で、それが国家単位になると戦争の原因にまで発展する。
かといって、日々の国民生活を考えると、軋轢を避けるために成長を止めることもできないので、このような争いは解決しにくい問題なのである。
プラス思考が優れているとは言わないが、マイナス思考の人間がイマイチ幸せになれないのも、このような 「 ねたみ 」 が災いしていることが多い。
精神分析では 「 嫉妬 」 と 「 羨望 」 を明確に区別しているが、嫉妬というのは簡単にいうと 「 やきもち 」 のことである。
彼氏または彼女、夫または妻が、自分以外の誰かに好意を寄せていたり、上司が自分に興味を持ってくれなかったりしたときに起こる感情だ。
それに対して羨望というのは、いわゆる 「 ねたみ 」 や 「 うらやみ 」 の類であり、相手が自分よりも才能や幸せに恵まれていると感じる気持ちである。
このような感情は誰にでもあるものだが、強すぎると、怒りや恨みの感情に変わり、相手や自分までもを破壊してしまうほどの心理状態に発展する。
心の中で、相手が失脚したり、破壊されたりすることを願い、そんな自分に気付いたとき、今度は自己嫌悪のジレンマから抜け出せなくなる。
羨望を公然と主張して、反体制運動に身を投じて革命家になるような人物もいるが、彼らが指導者になった国は、大国への敵意をあらわにする。
実際には、そんな人物は稀であり、もっと陰湿に、表面上は上司や政府に従いながら、長く心の中でねたみの気持ちに虐げられる人が大半である。
英国の精神分析学者メラニー・クラインは、「 羨望が人間のあらゆる破壊性の根源だ 」 と著書に記し、ねたみに秘められた危険を指摘している。
シーザーが暗殺されたのも、あまりにもローマ市民の英雄になってしまったことで、他の政治家たちが権力の一極集中を恐れたからだ。
心の平穏を保つためには、自分の心の中にある攻撃性、破壊性を直視して、きちんと自分の心の中で対処できるようになることが不可欠である。
うつ病患者の多くは、「 自己愛型人格障害 」 の傾向が強く、自己愛と羨望は強い因果関係で結びついている。
けして彼らが、もともと自己愛の強い人間だったわけではない。
むしろ、部下や子供の成長を自分のことのように喜び、自分と相手を同一化し、相手の成功が自分の成功だと思っているようなタイプのほうが多い。
親子関係でも、会社関係でも、この同一化が崩れ、一体感を失ったときに、羨望が起こり、それに対処できない結果として鬱状態に陥るのだ。
部下や子供に同一化し、一生懸命に指導している間はよいが、彼らが成長して自分の言うことを聞かなくなると、その一体感が崩れてしまう。
リストラや転勤で鬱状態になる人が多いのも、長年尽くした会社との一体感が崩れたという感情に起因している。
会社に対して、「 あんなに会社のために働いたのに、裏切られた 」 という気持ちが強い人は、途端に不機嫌で孤独になる。
真面目に働いてきたという自負が強かったり、部下や子供に対して面倒見のよかった人ほど、相手から 「 裏切られた 」 という思い込みが激しい。
しかも、自分は不遇だが、調子よく成功している人間もいると知るや、病的な羨望にとりつかれ、破壊的な衝動の虜になってしまう例も多い。
ちょっとしたことでも羨望の感情が高まって、それを相手にぶつけられないために、怒りや攻撃性が自分に向いて、憂鬱に陥っていくのである。
昔から日本社会では、嫉妬や羨望を 「 醜いもの 」、「 卑しい感情 」 であるとみなされてきたので、そういった人々は本音を吐露しにくい。
だから、たとえば個人のホームページで、他人やら政府のアラ探しをしては中傷記事を書いたりして、羨望の感情を代替して表現する人物が多い。
心の中の攻撃性、破壊性を代替して 「 ウサ晴らし 」 しているだけなので、主張は矛盾だらけだが、書き方は実に几帳面で細かい。
本当は、そんなことをしている暇があったなら、自分が幸せになれるように努力したほうがいいのだと、誰よりも彼ら自身が気付いてはいるはずだ。
掲示板に共感者が書き込むと一体感が得られるのでご機嫌になり、異論を申し立てられると見下して 「 バカ扱い 」 するのもこのタイプである。
ねたむ側にも問題点はあるが、「 ねたまれやすいタイプの人 」 というのも、ちょっと困った人たちである。
成功をしたときに他人からの羨望をかわすためには、たとえば挨拶などで頻繁に 「 おかげさまで 」 という言葉を使うなどの方法がある。
自分が今日あるのは、支えてくれた人々のおかげであるというふうに、成功しても感謝の気持ちを忘れてはいないという意志を示すことが望ましい。
竹島問題にしても、靖国問題にしても、国際世論は日本の主張を支持するだろうが、我々は 「 ねたまれている 」 ことを忘れないほうがよい。
言うべきことは言うけれど、お金や握手や笑顔だけではなく、復興を助けてくれたという感謝の意志を示すことも、大事なように思ったりする。
2006年04月26日(水) |
あなたは共謀罪が成立すると困りますか |
「 自由は貴重なものである。
貴重だからこそ、制限して配らなければならない 」
ウラジーミル・レーニン ( ロシア共産主義革命の指導者 )
Liberty is precious - so precious that it must be rationed.
VLADIMIR LENIN
犯罪が実際に行われなくても、共謀した段階で処罰されたらどうなるか。
賛否両論の 「 共謀罪 」 に関して、論戦が繰り返されている。
反対派は、憲法で保障された 「 思想・表現の自由 」 を奪う可能性が高いとして、共謀罪の成立を阻止せんと息巻いている。
現在の刑法では 「 犯罪行為 」 が実行されて初めて処罰の対象となるのが大原則だけれど、共謀罪が成立すると、その根幹が大きく変わってくる。
悪事を考えたり、話し合ったりしただけで、処罰の対象とされるのだ。
テロや麻薬、銃器などの絡む組織犯罪を未然に防ぐことが目的で、従来の組織犯罪処罰法に、新たに加えられる法案として検討されている。
謀議を事前に把握することがテロ撲滅には効果的な手段だが、捜査の行き過ぎや、乱用につながりかねないとして、過去に二回、廃案となっている。
たしかに、迂闊に冗談も言えないとか、不安を感じる方も多いだろう。
しかしながら、実際には 「 特定の団体 」 が対象とされるはずで、善良なる一般市民を標的にすることなど考えられない。
この 「 特定の団体 」 が明確でないために、反対意見を述べる方が多いという事情もあり、若干の修正を加えたほうが望ましいとも思う。
ただ、日本の刑法がどうこうというより、情報収集能力に乏しい我が政府の事情と、テロや国際犯罪の現状を鑑みれば、必要な措置でもある。
個人的には、もう少し 「 対象を絞り込んで明文化する 」 という形で、法案の成立を急いだほうが賢明ではないだろうかと考えている。
自由や基本的人権というものは、すべての国民に保障された権利であり、それは相手がテロリストでも、ヤクザでも、同じことである。
しかし、たとえば貴方や、貴方の大切な人間に対して、人相の悪い連中が集まって、傷つけたり、殺害する計画を話し合っていても平気だろうか。
犯罪は 「 行為 」 をもって初めて成立するのだから、その段階では咎めず、実際に傷つけられたり、殺されてから処罰を申し出ることが正しい方法か。
もちろん、危険を察知した段階で警察署に保護を願い出ることも可能だが、現在の刑法ではそれを処罰したり、相手を拘束する強制力を持たない。
そんな危険な立場に追い込まれ、「 彼らにも基本的人権はあるのだから、謀議することは自由 」 などと言える人は、かなり勇気のある御仁だろう。
日本の犯罪検挙率が下落した背景に、「 被疑者の基本的人権を強く擁護する 」 という風潮が影響していることは、紛れも無い事実である。
その結果、冤罪問題が減少したとか、たしかに社会的な利点もあるのだけれど、治安や秩序といった面では、昔より住み難い環境になってしまった。
子供を外で遊ばせられないため、対人能力や基礎体力が低下したり、引きこもりが増えたり、犯罪以外に各人の成長過程にも影響が出ている。
ごく一部の犯罪者の 「 人権 」 を守るために、大多数の一般市民が不安や弊害を強いられる図式が、あちらこちらで見受けられるのも事実だ。
もちろん、彼らとて人間なのだから、ある程度の人権擁護は認められるが、社会秩序の安寧を望むならば、そこには 「 歯止め 」 が必要となる。
現在の日本では、どんな法律ができようとも、真面目に生きているかぎり、理不尽に処罰されたり、国家権力から迫害される可能性は極めて少ない。
共謀罪の成立で 「 迂闊に他人を傷つける計画も話し合えない 」 と言う人もいるようだが、そんな謀議をすることは、けして誉められた話ではない。
一般市民に共謀罪が適用されるとも思えないが、もし、そういうことがあったとしても、それは親が子供に対して行う 「 躾 ( しつけ ) 」 のようなものだ。
犯罪に当たるかどうかはともかく、礼節や道徳心など、道義上の観点から考えても、そのような恥ずべき振る舞いはしないほうがよい。
私としては、弁護士は別として、この法案に目くじらを立てて反対する人々の真意が、どう考えても理解できないのである。
「 必ず生き延びると約束してくれ 」
映画 『 タイタニック 』 より
You must promise me that you will survive.
TITANIC
なんやかんやで、ずいぶん久しぶりの更新である。
何度か書こうとしたが、間が開きすぎると書き難くなるものだ。
もともとが 「 どうでもいいこと 」 しか書いていない日記なので、書かなくてもどうってことはないのだが、それでも 「 見たい 」 と言ってくれる方がいる。
そんなわけで、久しぶりに書こうと思うのだが、何から書いたものやら考えつかないので、今回は、更新を休んでいた近況から書いてみようと思う。
実は、この2ヶ月間に関していうと、かなり 「 不運 」 続きで、ほとんど明るい話題に恵まれなかったというのが実態である。
もちろん、「 運も実力のうち 」 という言葉通り、自分の努力不足に依るところが大きいので反省すべき点も多いのだけれど、なんとも絶不調状態だ。
こんなときは日記など書いてないで、さっさと寝るのが一番なので、更新しなかった代償に、十分な睡眠と早起きの習慣を手に入れていた。
一番の不幸は、結婚する予定だった彼女と別れたことだろう。
理由は、彼女が病気で手術をすることになり、私としては 「 そんなときだからこそ 」 一緒になりたいと望んだのだが、断られてしまった。
奇遇な話だが、以前に付き合っていた彼女も、別れてから同じ病気になり、入院して手術を受けたらしい。
やはり手術前は不安が大きかったようだけれど、さほど手術痕も残らず、今は元気に暮らしているという。
そんな話も聞いていたので、なんとか予定通りに交際を続けようと持ちかけたのだが、結局、離れてしまうことになった。
さほど若くもない女性から、卵巣にできた腫瘍を除去するという話を聞いたとき、アホな男は 「 悪いモノなら、さっさと切っちゃえ 」 と言ってしまう。
そんな男は全体の数パーセントにすぎないのかもしれないが、残念ながら私は、その 「 数パーセントに属するタイプ 」 の人間であった。
女性は何歳になっても女性であり、男には理解し難い感情を携えている。
慰めの言葉をもって、傷痕が残るとか、子供が産めないといった現実的な不安だけを和らげても、それだけでは解消できない 「 憂い 」 が存在する。
営業歴20年の間に人並みの説得力を培ったつもりだったが、彼女は、「 女じゃなくなるから 」 という台詞を吐いて、他の女性を選べと告げた。
映画 『 タイタニック 』 の後半では、死を目前にしたディカプリオから恋人に “ And you’re going to die an old lady, warm in your bed.” と囁かれる。
彼女を勇気付け、「 死ぬのは老婆になってから、暖かいベッドの上で 」 と励ます台詞である。
その後、“ Not here. Not this night. Not like this.Do you understand me? ( こんな場所じゃない。今夜じゃない。わかるね? ) ” と続く。
沈没による事故は事実でも、この物語はフィクションなのだが、この場面はなかなかに感動的で、多くの観客の胸に残るクライマックスとなった。
極限状態の最中にあっても、相手の幸福を願う誠実な気持ちが胸に響く。
それに比べると、気持ちのどこかに 「 えー、式場まで予約してるのに、なんだよー 」 みたいな邪心が、自分にはあったのかもしれない。
相手の心配をしているようで、実は自分の都合を考えているような、そんな部分がなかったとは言い切れないのである。
そういう邪心は、いくら器用に言葉を操っても、ショックを受け傷ついた相手には伝わりやすいもので、一度失敗すると簡単には修復できない。
今は状況が好転することを願い、静かに時を待つのみである。
人生は失敗の繰り返しだが、生きてさえいれば 「 敗者復活戦 」 のチャンスが訪れるかもしれないし、お互いに別の幸せを手にする可能性も高い。
映画の中でディカプリオは、何があっても、どんなに絶望しても、あきらめずに生き続けることを恋人に望んだ。
多分、あの主人公のように純粋な気持ちにはなれないけれど、それだけは同じ気持ちでいる。
違うのは、私自身が健康で、死の危険が身近に迫っていないところか。
君が死ぬのなら一緒に死んでやるさと言っても、「 嘘つき 」 と言われるか、「 要らない 」 と言われるか、どっちかだったろうと思う。
そんなわけで今年の春は、女心の難しさと、自分の力不足を同時に感じる少し悲しい幕開けとなってしまった。
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