Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年01月31日(月) 韓国とは仲良く、中国とは距離をおいて



「 ライオンとドラゴンもし戦わば、両雄ともに死す 」

                      足立 正 ( 日本商工会議所会頭 )

If the lion and dragon fight, they will both die.

                              TADASHI ADACHI



世界経済フォーラム年次総会は30日、5日間の日程を終えて閉幕した。

関心はもっぱら、「 中国経済の動向 」 に集中していたらしい。


旧ソ連の崩壊は、同時に 「 米ソ冷戦 」 の終焉でもあり、平和を願う人々の夢を叶え、当時は、手放しで喜ぶべき歴史的瞬間にさえ思えた。

ところがそれは、経済面でも、軍事面でも、世界情勢に思いがけない変革をもたらし、意外な副作用を及ぼし始めている。

大国同士が睨み合うことをやめた途端に、抑圧を解かれた小国が暴走したり、あるいは内乱が勃発したり、始末におえない事態も目に付く。

仮想大敵を失ったアメリカは、世界から 「 一国支配 」 のように恐れられ、また、煙たがられている。

実際には、それだけの支配力も強制力もないのだが、かといって、他国の窮状に 「 知らん顔 」 もできないという現実がある。


戦争の 「 是か非か 」 を問えば、それは 「 非 」 ということになるのだけれど、実際はそんな単純な話でもない。

誰だって 「 好きで戦争をやってる 」 わけじゃなく、過去の日本もそうなのだが、「 やらざるを得ない理由 」 がそこにはある。

結果論としては、「 やめときゃよかった 」 こともあるだろうけど、開戦前には未知数の事柄や、「 やめどき 」 を失ってしまうこともある。

また、そんな 「 損得勘定 」 を度外視しても、戦わねばならぬ場合もある。

世界秩序の安寧は、いまや当該地域だけの問題でもなく、良くも悪くもその行方は、アメリカの双肩にかかっている負担が重い。


アメリカが非効率な支出に翻弄されている一方、めきめきと経済力を蓄え、自由経済のありがたみを覚え始めたのが 「 中国 」 である。

ソ連の失敗を間近に見てきた彼らは、共産主義の看板を掲げつつも、過去にはない柔軟さをもって政策に取り組み、目ざましい成果を示している。

かねてより軍事力においては、けしてアメリカにひけをとらぬ大国が、経済においても合理性を追求してきたのだから、これは 「 脅威 」 である。

おそらくは、経済が発展し続けると、現在のような共産主義的支配構造にも変化が現れ、国民の意識も変わり、求められる指導者像も変わるだろう。

しかしながら、距離的な問題よりも、歴史的背景、民族的気質などの違いから、彼らには彼らの政策があり、どこかで西欧と交わらない可能性は高い。


さらなる発展を遂げた後の 「 中国 」 が、世界の中でどのようなポジションを得ようとしていくのか、まだまだ不明な点が多い。

低い賃金を売り物にしていた、いわゆる 「 世界の工場 」 という立場はすぐに過ぎ去り、特定の分野においては主導的役割を担い始めるはずだ。

日本と違って 「 軍隊 」 を保持している環境から、アメリカと衝突する危険も十分に考えられるだろう。

見方によっては、「 靖国問題 」 やら 「 台湾問題 」 などについても、日本をけん制しながら 「 アメリカの反応 」 を確かめている可能性もある。

いづれにせよ、彼らが現在の 「 団結 」 を維持しながら、経済力を増していくことは、アジアの支配権のみならず、世界情勢に大きな影響を与える。


日本が対抗して 「 軍備 」 を拡充することは難しく、彼らの 「 伸び率 」 以上に経済面で巻き返すことも不可能に近い。

かといって、民主党が推進しているような 「 中国のご機嫌とり 」 をしてみたところで、彼らが恩義を感じて一歩退いてくれるとも思えない。

ならば、韓国と協調してアメリカに組するしか手立てがないのだが、左寄りの文化人や、「 アメリカ嫌い 」 の連中が常に反目する。

最近、そういう連中が日本を 「 破滅 」 に導いていく不安を感じる。

将来の世界情勢を鑑みると、「 韓国とは仲良く、中国とは距離をおいて 」 付き合うのが正攻法のように思うのだが、どうなのだろうか。






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2005年01月29日(土) 自分だけが 「 特別な仕事をしている 」 という勘違い



「 あなたの自我を、自分の地位に近づけてはいけない。

  地位が下がることで、自我もだめになってしまうから。 」

                   コリン・パウエル ( アメリカの国務長官 )

Avoid having your ego so close to your position that when your position falls, your ego goes with it.

                               COLIN POWELL



どうにも 「 エゴ [ ego ] 」 という言葉には、悪い印象がつきまとう。

日本語にすると 「 自我 」 であり、それ自体が悪い意味ではない。


1937年生まれの パウエル氏 は、なかなかの 「 苦労人 」 である。

ジャマイカ移民の家庭に生まれ、今よりも 「 生い立ちがモノをいう 」 時代に猛烈な努力をし、レーガン政権では国家安全保障会議議長になった。

89年、ブッシュ政権で黒人初の統合参謀本部議長に就任し、91年勃発の湾岸戦争では、多国籍軍において事実上の最高司令官を務めた。

2001年、二代目ブッシュの政権下で国務長官に就任。

最近、同職を辞した ( 政権内での孤立が原因といわれている ) が、黒人初の大統領も夢ではないと語られるほど、米国では人気の高い人物だ。


冒頭に挙げた短文にも、そんな 「 苦労人 」 の人柄が偲ばれる。

誰にでも 「 自我 」 というものはあるが、それを 「 自分の地位 」 に結びつけて考える傾向が強い人も、たまにはいるようだ。

もし自分が、今とはまるで違う地位にいたとしても、同じ考えを持つか。

そのような疑問を抱かずに、「 自分は特別な人間である 」 かのような傲慢さで、他人の価値観など気にせずに、物事を処理しようとする人もいる。

大衆は、そういった 「 庶民感覚に乏しい 」 人物に反感を持ちやすく、彼らが自分たちの 「 利益代表 」 であることを、快くは支持しない。


海老沢氏が NHK の会長職を辞した翌日、「 顧問 」 に就任した。

この ニュース を聞いて、「 ナメとんのか 」 と激怒した国民も多かったはずだし、NHK 職員でつくる日本放送労働組合からも、反対の声が上がった。

反響の大きさに驚いた NHK、及び海老沢氏ら3人の顧問は、就任を撤回し、記者会見を開いた橋本新会長が、その旨を報告した。

しかしながら問題は、橋本氏が海老沢氏を顧問に任命したことについて、「 判断としては間違っていない 」 と強調している点にある。

これは言い換えれば、「 私は正しい判断で海老沢氏を顧問に任命したが、判断力のない連中が騒ぐので、顧問就任はとりやめる 」 と同じ弁である。


この騒動について、ジャーナリストや識者らは 「 危機感がない 」 といった内容の意見を報じているが、そんな 「 難しい話 」 が事の原因ではない。

実際のところは、もっと単純な部分にあると思う。

彼らの中に、自分たちは非常に 「 特別な仕事 」 をしている人間という自負があり、大衆の心理や評価などは、はなから気に留めていないのである。

大衆を欺こうとか騙そうという悪意はなく、すべて 「 それが視聴者のため 」 という 「 間違った信念 」 のもとに暴走し、軌道を外れてしまうのだ。

地位に固執した自我から生まれる信念は、なにが 「 危機 」 なのかを理解することもできず、したがって 「 危機感 」 など存在しようがないのである。


アーサー・ヘイリーの小説 『 大空港 』 の中で、空港長を務める主人公と、傲慢な性格を持つパイロットの義兄が、随所で対立するくだりがある。

パイロットは空港長を 「 ペンギンのように、地上に這いつくばった存在 」 と揶揄し、飛行機を飛ばすことができるのは自分たちの力だと豪語する。

実際には、地上で勤務する整備士や、管制官、航空会社の係員、その他大勢の職員による活躍がなければ、航空機というものは機能しない。

それを忘れ、自分だけが 「 特別な仕事 」 をしているのだという思い上がりを持つ人間は、他人に対する配慮や、感謝する心が欠落している。

これぞ、「 自我を地位に近づける 」 典型的な悪い例である。


全員がそうだとは言わないが、日本の 「 銀行 」 には “ そういう人物 ” が多く、権威主義で、他人を値踏みするようなタイプが目に付く。

だから、とことん悪くなるまで 「 自分たちの問題点 」 に気づかず、最悪の状態になってから ジタバタ する羽目に陥ってしまった。

NHK会長 と同じく、周囲はとっくに気がついていたのに、「 自分たちは特別な地位にあり、特別な仕事をする、特別な人間 」 という妄想があった。

それが 「 自我 」 という呪縛に発展すると、世間の 「 一般常識 」 さえ迎合できない厄介者になり、総スカンを食う存在に陥りやすい。

もちろん、銀行以外の企業でも 「 その手の勘違い 」 をしている人はあり、盛時には困らなくても、落ちぶれると 「 生きる術さえ失う 」 危険がある。


新しい NHK会長 は、就任時の挨拶において 「 おごらず、たかぶらず 」 を座右の銘として挙げたという。

本人に 「 驕り、高ぶっている 」 という自覚が無いのだから、これを 「 嘘 」 だと糾弾したところで、反省を促すことは難しいだろう。

それよりも、冒頭に挙げた パウエル氏 の名言を心に留めてほしい。

会見では、海老沢氏が 「 院政 」 をひく影響について、「 私に影響を与えるものは何もない。私の判断で経営をやっていけばいい 」 とも述べたそうだ。

国民から 「 受信料 」 を徴収しているのだから、「 私の判断 」 ではなくて、「 納付者の判断 」 が重要だということに、早く気づくと良いのだが。






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2005年01月28日(金) 在日外国人に対する認識



「 ローマへ行ったら、ローマの人々がするようにせよ 」

                                    欧米の格言

When in Rome, do as the Romans do.

                                    PROVERB



日本にも同様の意味を示す格言で、「 郷に入れば、郷に従え 」 がある。

異国の環境で順応するには、その土地の風俗や習慣に従うべきだろう。


類似する欧米の格言で、「 どんな国にも、それぞれの法 ( 流儀 ) がある = Every country has its laws [ fashion ] 」 も、各地で広く使われている。

それは、国際社会の 「 ルール 」 であり、「 マナー 」 でもあるだろう。

どうしても、それが不服で、従えないというのなら、その土地で暮らすことを諦め、自分に合った土地へ移り住むほうが望ましい。

国や地域の成り立ちというものは、そこにある文化や風俗、習慣や法律といったすべてを含めたものであり、けして、それ抜きでは語れない。

たとえば、「 アメリカは好きですか? 」 と尋ねられ、「 ええ、アメリカ人さえ居なかったら素敵な場所ですね 」 などと答えるわけにはいかないのだ。


在日外国人が 「 公務員に就けても、管理職になれない 」 ということを不服として、裁判所へ訴え出るという事件が起きた。

これは、「 外国人に対する差別 」 ではないかという問題提起だ。

私の知る範囲でも、たとえば 「 在日韓国人 」 ということで就職に不利益を被ったり、差別的待遇を受けたという人は実際にいる。

国籍や生い立ちなど気にせず、「 能力の高い人を採用すればよいのに 」 と思うし、ケチくさい民族主義など 「 クソくらえ 」 だと感じてきた。

ただし、それは 「 民間企業 」 の話であって、「 公務員 」 の場合は事情が違うことを認識しておかねばならないだろう。


それは、「 外国人に参政権を与えるかどうか 」 という別の議論と、まったく同じ意味での大きな問題点がある。

たとえば、北朝鮮出身の在日外国人が公務員となり、仮に管理職への切符を手にして 「 外務省 」 の上級管理職になったとする。

日本人の大半が 「 北朝鮮に経済制裁をしろ 」 と叫ぶ中、唯一、孤軍奮闘して反対すれば世論の標的となるし、国民の憎悪が彼に集中する。

逆に、いくら職務とはいえども、生まれ故郷を窮地に追いやる決定を下さなければならないのも、それは彼にとって、辛く、過酷な試練である。

公務員といえば 「 市役所 」 や 「 村役場 」 を連想しがちだが、けしてその限りではないし、管理職ともなればなおさら、重要なポストも含まれる。


諸外国の例をみても、外国人を 「 管理職はおろか、公務員にすら 」 採用しないところが大部分で、日本は制度上 「 外国人に寛容 」 な部類である。

これを 「 懐が狭い 」 とか、「 迫害だ 」 などと批判し、国際化の潮流に乗り遅れているような印象を持つのは、大きな間違いだといえる。

他国の支配や干渉を受けず、独立した意思と国策を携えてこそ、国際社会に対して堂々と名乗りを上げる 「 国家 」 として認められるものだ。

公務員とは、文字通り 「 公務 」 に就く仕事であって、政治家と同じように、国民にとっての 「 利益代表 」 であらねばならない。

国家の利益というものは、場合によっては諸外国と 「 利害で争う 」 場面も考えられるわけで、通商上の観点や、外交面での政策にも影響を及ぼす。


そんなわけで、在日外国人を 「 管理職級の公務員にする 」 ことに対しても、「 参政権を与える 」 ことにも、私は 「 大反対 」 である。

これはけして、偏見による差別的な意識が招いた結論ではなく、論理的な根拠に基づき 「 当然、そうするしかない 」 と、自信を持って言える答えだ。

それが、「 諸外国に比べて日本は、外国人が住みづらい 」 ことに結びつくとは考えられないし、国際的な法規の水準から逸脱しているわけでもない。

何人に対しても、職業選択の自由や、個人的な人権は擁護するけれども、政治や行政に 「 外国人の干渉する余地を与える 」 ことは許されない。

公務員として管理職になれる機会や、参政権をすべて与えた結果、日本の総理も、外務省の上層部も、すべて 「 北朝鮮人 」 になったらどうする。


そこまで極端なことはあり得ないだろうが、少子高齢化によって人口減少が進む国内において、「 一気に外国人へ門戸を開放する 」 ことは危険だ。

いろいろ 「 ご不満 」 もあるだろうが、「 郷に入れば、郷に従え 」 の言葉が示す通り、窮屈かもしれないが、少しは 「 我慢 」 もお願いしたいと思う。

ただし、それとまったく逆の話となるけれど、民間企業の皆様方は、なるべく民族や生い立ちの壁を取り払い、差別のない雇用を推進してもらいたい。

私が心配しているのは、今回の騒動の当事者である方が、かなり感情的に暴論をぶちまけたことで、むしろ在日外国人のイメージが悪化したことだ。

あの様子をみて、一部の経営者からは実際に 「 在日外国人を幹部に据えるのは怖いなぁ 」 という発言も聞こえており、悪影響が出るのは免れない。






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2005年01月27日(木) 「 NHK 」 って、要りますか?



「 この世で本当の無知と良心的な愚かさほど危険なものはない 」

      マーチン・ルーサー・キング・ジュニア ( 公民権運動の指導者 )

Nothing in all the world is more dangerous than sincere ignorance and conscientious stupidity.

                       MARTIN LUTHER KING JR



ケーブルTVに加入したのは、やはり間違いだったかもしれない。

なにしろTVなんて、日に1時間も観ないことのほうが多い。


冒頭の文にある 「 良心的な愚かさ [ conscientious stupidity ] 」 という語句をみて、ふと 「 NHK 」 を連想するのは私だけだろうか。

不祥事があったと思えば 「 高圧的 」 な会長が出て訳のわからない説明を述べ、ほとぼりも冷めぬ間に 「 政治家の圧力が・・・ 」 的な騒ぎが起きる。

民放が 「 企業努力 」 によって無料で放送を提供するのに対して、資金は全国民から強制的に徴収するという、まことに 「 ご立派な放送局 」 だ。

現在、50万世帯が受信料を払わないらしいが、当たり前の話である。

私も数十年にわたって、「 絶対に払わない 」 姿勢を示しているが、むしろ、どうして支払うのか、その理由のほうが理解に苦しむ。


徴収の理由 その一は、「 放送法によって、支払う義務が定められている 」 というものである。

だったら、「 税金で課金しなさい 」 というのが私の回答だ。

義務というけれど、実際には支払いを拒否している所帯も多く、罰則規定も無ければ、まったく何の特典もない。

そういう意味では、「 選挙に行くかどうか 」 の議論に似ていなくもないが、選挙に参加するしないの問題より、「 国民への影響 」 は無いように思う。

国会が無くなったら困るが、NHKなんて無くなっても、少なくとも私は何にも不自由を感じないと思うし、むしろ、スッキリして気持ちが良いぐらいだ。


徴収の理由 その二は、「 特定のスポンサーを持たないことで、中立的な番組をつくれる 」 というものである。

たしかに、番組のスポンサーになってもらっている大企業の不祥事などを、民放の立場で、番組内において追求することは難しいかもしれない。

一見、筋が通っているように思えるこの理屈だが、本当にそうなのか。

過去において、民放が圧力に屈して報道できなかったような事件を、彼らがもろ肌脱いで 「 大企業をバッサと斬りまくった 」 ことがあっただろうか。

むしろ、その公共的な立場から鑑みると 「 民放よりも圧力を受けやすい 」 ような気がするし、昨今の左寄りな番組を観るかぎり、中立とは認め難い。


徴収の理由 その三は、「 弱者向けの放送をする 」 というものだ。

そういった放送は高い視聴率が期待できないため、民放各局は敬遠しがちだが、NHKでは積極的に制作、放映していますという補足が付く。

これは、昔 ( 放送局の少なかった時代 ) に通用した理屈かもしれないが、現在のようにケーブルTV全盛の 「 多チャンネル時代 」 には通じない。

一日中、将棋ばっかり映している局や、田舎の風景ばかり映している局もあるわけで、「 終日、弱者向け放送ばかりの局 」 だって立派に成立する。

もしも、そういう局が 「 運営に困っているので、受信料を払ってください 」 と訪ねてきたら、観ないけれども 「 NHK受信料の二倍 」 を払ってもよい。


どちらかというと、全体的には 「 民放と競って視聴率を稼ぎにいく 」 ような番組をつくり、上記 ( 三 ) は 「 大義名分上の付足し 」 程度の感じだ。

躍起になって 「 紅白歌合戦 」 に人気歌手を呼ぼうとし、徴収をする際でのごたいそうな 「 名目 」 とは、まるで違う目的に対してお金を使っている。

そういえば 「 紅白 」 で思い出したが、歌手の 「 中島みゆき さん 」 が野外中継という条件で、以前に出演したことがある。

その理由は、「 出演はやぶさかでないが、あの “ クスッ とも笑えない寒いコント ” に参加させられるのだけは勘弁してほしい 」 というものだった。

会場にさえ居なければ、悪夢の 「 罰ゲーム 」 に加わることから逃れられるわけで、なるほどよくわかる理由であった。


せめて心を入れ替え、国を愛し、日本の良さを啓蒙する番組をつくるなら、そんなに高い金額でもないので、受信料ぐらい払ってもよいとは思う。

実際に放送はされなかったが、いま問題になっているような 「 馬鹿番組 」 を制作したり、無駄なこと、売国的なことに浪費を重ねているではないか。

公共放送の名のもとにお金を集め、一体、何をやろうとしているのか。

不遜な態度の海老沢会長は 「 辞任 」 であっても 「 解任 」 ではないから、退職金を受け取るのであろうか。

そんなことに 「 腹も立たない 」 のは、受信料を払っていない自分の特権であり、文句を言う権利も義務もない 「 ささやかな幸せ 」 なのである。






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2005年01月26日(水) 狭き門



「 求めなさい、そうすればあなたに与えられます。

  さがしなさい、そうすれば見つかります。

  ノックしてみなさい、そうすれば門はあなたに向かって開かれます 」

                                        聖書

Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find: knock, and it shall be opend unto you.

                                   THE BIBLE



冒頭の名言は、新約聖書 「 マタイによる福音書 」 の一節から。

文中の [ ye ] は、[ you ] の古い形である。


粗鋼関連などをはじめとして、徐々に景気の良い業種が現れはじめた。

まだまだ安泰には程遠いが、失業率も改善され、多少は持ち直している。

しかしながら、新卒者を取り巻いている就職環境は、あいかわらず厳しく、彼らにとって寒風が身にしみるのは、気候のせいだけでもなさそうだ。

なかでも、「 短大生 」 の平均就職内定率が極めて低い。

その一因は、短大の学生が多く希望する 「 事務 」 や 「 販売 」 などの職種に、パートや派遣社員への切り替えが進み、採用が減っているせいだ。


前回も書いたが、「 派遣社員という制度 」 は、一部企業の効率化を推進するけれども、社会全体の雇用に影響を及ぼす 「 両刃の剣 」 でもある。

しばらくは、特に 「 短大生 」 にとって、受難の時代が続くだろう。

ある中国地方の短大では、10月末時点での平均就職内定率が、全体の 「 二割程度 」 しかなく、五人に一人しか就職が決まらない状況だという。

この実情を知らずして、「 最近の若者はフリーターで満足する者が多い 」 だとか、労働意欲が足りないなどの 「 若者バッシング 」 をする人もいる。

たしかに、怠け者の存在が皆無ではないが、いくら働きたくても目の前の 「 狭き門 」 が固く閉ざされ、身動きもできない学生の姿が多く目立つ。


希望する職種が 「 狭き門 」 のため、夢を諦めたり、現実と向き合って妥協しながら、軌道を修正して別の職種に就く若者もいる。

その副作用として、就職はしたけれど短期間ですぐに退社してしまうという 「 若年就労者による定着性の低さ 」 が、別の問題として浮上しはじめた。

周囲の大人たちは、すぐに辞める若者に対し 「 もっと、本当にやりがいを感じられる仕事を選びなさい 」 と、彼らの判断力を批判する。

ところが、やりたい仕事に固執して、なかなか内定の決まらない若者には、「 ぜいたくばかり言ってないで、とにかく働け 」 と、まるで逆のことを言う。

社会や企業体は、若者たちに 「 苦難 」 と 「 重圧 」 だけを与え、かつてはあったはずの 「 就職口 」 と、明日への 「 希望 」 を奪っている。


こんな状態で、若者たちの 「 勤労意欲 」 が上がるはずもなく、大学の卒業が目の前に迫った今となっては、もはや 「 グレる 」 にも遅すぎる。

少子化の進む世の中で、希少な若者たちには我々以上に頑張ってもらい、これから負担の大きくなる 「 年金 」 の原資を、担ってもらわねばならない。

それなのに、この 「 扱い 」 はいかがなものか。

こんなに若者をイジメておいて、将来は 「 年をとったから面倒をみてくれ 」 なんて頼むことが、はたして許されるのだろうか。

老人問題や、高齢者の雇用促進などばかりに焦点を当てず、若者に夢と、働き甲斐のある就職環境を整備することに、政財界は注意を払うべきだ。






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2005年01月25日(火) 日本経済が悪くなった原因 その三



「 勤勉は幸運の母である 」

           ベンジャミン・フランクリン ( 科学者、政治家、文筆家 )

Diligence is the mother of good luck.

                           BENJAMIN FRANKLIN



誰にとっても、働いて対価を稼ぐことだけが、人生のすべてではない。

だがそれは、重要な生活の手段であり、個人の貴重な体験でもある。


ときどき、「 ある日突然、大金を手にしたらどうする? 」 という冗談めいた質問を、楽しそうに投げかける人がいる。

ここでいう 「 大金 」 とは、だいたい 3億円 ぐらいを指すことが多い。

それは、宝くじの1等賞金の金額でもあり、我々世代には 「 3億円事件 」 を連想させる数値でもあって、いわゆる 「 大金 」 を想起させる金額だ。

何に使うかは人それぞれだろうが、大別すると二種類の人がいる。

その二種類とは、それを契機に 「 今の仕事を辞める 」 というグループと、「 続ける 」 というグループである。


その人の事情にもよるが、たいていの場合、手元に 3億円 の現金があるならば、死ぬまでの間、働かなくても人並みの生活を続けられるだろう。

だから 「 働かない 」 という人の論理は、たしかに間違っていない。

あるいは、「 所得を気にせず、本当にしたかった仕事に打ち込む 」 という人の意見も、当然のことながら尊重されるものである。

また、「 現在の仕事を辞める理由には結びつかない 」 と考え、貯蓄に余裕ができたぐらいの意識で、極端に生活習慣を変えない方法も考えられる。

他人に迷惑をかけないかぎり、どのような生き方を選ぼうが自由だ。


私を含む大部分の人にとって、好きなことをやって遊んでいる時間のほうが、責任を負いながら働いているよりも楽しいものである。

特に若いうちは、「 お金さえあれば、あくせく働かなくてもいいのに 」 なんて思ったり、労働を 「 報酬の対価 」 以外の見方で捉える機会が少ない。

しかしながら今にして振り返れば、自分が仕事を通じて得たものは、けして 「 お金 」 だけではなかったということに、気がつくこともある。

個人の人格形成や、知識、技術の多くは、仕事に携わった経験から磨かれたものも多く、良くも悪くも 「 いまの自分 」 に影響していることは明らかだ。

もし、自分が大金持ちで、まったく働かずに現在の年齢に至ったとすれば、自分自身に誇れるものがあるのかと問われたとき、答えに窮してしまう。


そう考えると、「 人生は楽しむためにあるが、仕事もまた生活の一部 」 だと捉えてよいのではないかという気がする。

人と仕事の関係は、それが 「 楽しい 」 場合も、「 苦痛 」 であっても、一生懸命に取り組めば、必ず 「 なにか 」 を返してくれるものである。

お金が目的だと割り切って働いたとしても、その事実は変わらない。

特に日本人は 「 勤勉な民族性 」 を備えた人種という評価が強く、もちろん個人差はあるけれども、勤労意欲の平均水準が高いと認められてきた。

敗戦による貧困や、過去の経済危機を乗り切ってきた背景には、そのような仕事に対する積極的な関わりや、高い勤労意識が大いに関係している。


日本の経済が悪くなった原因に、「 勤労意欲の低下 」 が挙げられる。

学卒後、未就労の若者達は100万人を超え、基礎的生活条件を親に委ねつつ、自分は小遣い稼ぎ程度に、たまにアルバイトをするような人も多い。

時代は 「 就職難 」 で、働き甲斐を感じられるような職場、魅力のある職種に就きにくいことから、いまいち就職に対して積極性がない。

えり好みをしない場合でも、有効求人倍率が低かったりするので、全体像を鑑みれば、正社員の雇用自体が少なく、全求職者を受け入れられない。

片や、正社員以外の雇用 ( アルバイト、パート ) や、派遣社員、契約社員などの雇用は数多くあり、常に 「 人手不足 」 だったりもする。


特に、この 「 派遣社員 」 という制度は、日本経済に悪影響を与えている。

派遣社員を利用する際、企業は 「 派遣会社 」 に手数料を支払うために、時間給に換算すると、正社員よりも高い賃金を払わされることが多い。

しかしながら、「 必要なときだけ利用できる 」 ことや、各人の福利厚生などの雇用負担が軽減されるので、長期的に判断するとロスが少ない。

そのため、業界によっては正社員数を必要最小限まで削り落とし、労働力の大半を派遣社員によって賄っている企業もある。

実際、それを 「 省力化 」 とか、「 ローコストオペレーション 」 などと呼んで励行し、実績を挙げた例も多く、最近では広く浸透している。


この派遣社員という制度は、たしかに一企業にとっては有効な戦術である場合も認められるが、全体的には思わぬ 「 害悪 」 をもたらしている。

最大の問題は、「 正社員の雇用 」 が激減したことにある。

正社員でも派遣社員でも、働くことに変わりはないのだが、いつ契約が終わるかもしれないという立場と、長く働く正社員では、スタンスに差がある。

かつての旧態然とした 「 忠誠心 」 などは必要ないにしても、時間を切り売りする労働体系と、全体的な成果を分かち合うという姿勢は明確に異なる。

けっして、派遣社員の人のモチベーションが低いわけではないが、正社員と同じような期待をかけたり、責任を負ってもらうには限度というものがある。


企業が 「 助っ人 」 を多用して、正社員の採用枠を減らしたことが、現在の就職難に拍車をかけたことは事実で、失業問題の 「 癌 」 になっている。

働く側も、責任や義務感ばかり押し付けられ、待遇の良くない正社員への難関を目指すより、割りの良い派遣や、パート、アルバイトを気軽に選ぶ。

最近の若者には 「 フリーター 」 が多く、職を転々とすると嘆く人も多いが、全体の雇用傾向が招いた、いわば 「 必然的な結果 」 なのである。

もともと、企業のコスト削減を目的として始まった方策だが、全体に及ぼす害悪が大きく、この風潮にはどこかで 「 終止符 」 を打たねばならない。

たとえば、再建支援の必要な企業だけに限定するなどして、現在のような 「 猫も杓子も 」 という対応に歯止めをかけることが望ましいだろう。







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2005年01月24日(月) 日本経済が悪くなった原因 その二



「 専門家とは、非常に狭い分野で、あらゆる間違いを犯した人のことだ 」

                  ニールス・ボーア ( デンマークの物理学者 )

An expert is a man who has made all the mistakes which can be made, is a very narrow field.

                                  NIELS BOHR



失業率は、不況の深刻さを計るうえでの、一種のバロメーターでもある。

経済を上向きにさせるには、安定した雇用の創出が不可欠ともいえよう。


現在、さまざまな分野において、民間の資金とノウハウを活用して、公共の事業を民間企業に委託する動きが活発化してきている。

失業対策としては、たとえば、自治体が民間の人材会社に失業者を預け、カウンセリングや、就職に関する技術的な指導を受けさせている。

人材会社のカウンセラーは、失業者の 「 精神面のサポート 」 をするため、相談相手になってやったり、悩み事を聞いてあげる存在となる。

同時に、履歴書や職務経歴書の正しい書き方を教え、面接での話法など、技術的な指導をすることで、彼らの就職を効果的に支援する。

また、カウンセラー以外の職員は、その失業者に見合った具体的な就職先を探し出し、企業の採用官に交渉して、面接を受ける機会を与えてもらう。


この方法は、「 アウトプレースメント 」 といって、企業がリストラを行う際に、離職者が再就職先を見つけ出す 「 手助け 」 を支援する措置である。

解雇を行う企業は、相場として、だいたい一人当たり 「 80 〜 100万円 」 ぐらいの費用を人材会社に支払って契約していることが多い。

この費用は、名目上 「 離職者が再就職に困らないように 」 という主旨であるが、実際には 「 人事担当者の心理負担を和らげる 」 目的も含まれる。

解雇される人も辛いが、一度に何十人、何百人を解雇する人事担当者も、精神的には極度のストレスを強いられる立場にある。

人材会社と 「 アウトプレースメント 」 の契約を結ぶことで、解雇通告をするときにも、少しは離職者に安心感を与え、動揺を軽減する作用につながる。


この制度を、いま 「 自治体 」 によって活用する動きが出始めている。

ハローワークで求職活動中の長期失業者に対し、自治体が希望者を募り、民間の人材会社に 「 アウトプレースメント 」 のサービスを提供させる。

この場合での費用は、厚生労働省の許可を得て 「 自治体 」 が負担をする仕組みになっているのだが、彼らはなぜ、そこまでやろうとするのか。

それは、失業者が就労することによって生じる 「 納税 」 と、長く失業状態が続くことによって発生する 「 保護 」 を天秤にかければわかる。

一時的に費用を負担しても、働いて納税してもらえば税収が上がり、逆に、未就労者に生活保護などを支払うことは、財政の圧迫につながっていく。


郵政の民営化について、さほど重要な意義を感じない人も多いだろう。

たしかに、それ自体が 「 経済の救世主 」 となる期待には欠けるが、他の省庁や、公共事業への 「 官民一体 」 という発想に好影響を与えている。

前述の新制度なども、長期失業者の雇用を促進する 「 効果的な措置 」 といえるが、従来にない 「 柔軟で、斬新なアイディア 」 ではないだろうか。

いわゆる 「 お役所仕事 」 の垣根を取り払い、民間の資産や、ノウハウを活用するという思考は、小泉内閣の大いなる功績として評価できる。

ただそれが、国民の大部分が求める 「 即効性のある経済対策 」 だとして認められるかどうかは別問題で、これだけでは不十分なのも事実である。


公共性が伴う事業を民間企業に委ね、国や自治体はそれを監視する。

過去においても、たとえば高速道路や橋をつくるときには当然のように行われてきたが、その範疇は意外と狭く、対象となる分野が限られていた。

公共サービスの種類によっては、公的機関と民間企業が仕事を奪い合ったり、競合して悪しき価格競争に陥るケースなども、随所にみられている。

これらの 「 ロス 」 を無くして、「 官 」 と 「 民 」 が併せ持つ 「 日本全体の資産とノウハウ 」 を最大限に活用することには、大きな意義がある。

片方では省力化を行い、余剰となった資産や人員を動員して、新たな事業展開を推進すれば、それは雇用の創出にも結びつき、増収にもつながる。


日本経済を悪くした原因として、過去にこのような発想が乏しく、「 官 」 が 「 民 」 の邪魔をしたり、連携する機会が少なかった点も挙げられる。

狭い日本列島の中で、官と民が入り乱れての 「 重複する事業合戦 」 などやっているのは、まったく無駄な話であり、それはすべて 「 ロス 」 である。

業種によっては、民間だけでも 「 オーバーストア ( 店舗が多すぎて、需要を供給が大きく上回ってしまっている ) 」 なのに、馬鹿げた話ではないか。

国や自治体が予算と人員を割いていながらも、民間のパワーに比べると、期待される成果をあげていない事業などは、まだまだ無数にある。

現在、「 PFI = Private Finance Initiative プライベート・ファイナンス・イニシアティブ 」 の推進など、新たな官民のパートナーシップが見直されている。







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2005年01月23日(日) 日本経済が悪くなった原因 その一



「 経済学者とは、昨日予言したことがなぜ今日起きなかったのかを

  明日になって知る専門家である 」

                 ローレンス・J・ピーター ( カナダの経営学者 )

An economisut is an expert who will know tomorrow why the things he predicted yesterday didn't happen today.

                            LAWRENCE・J・PETER



小泉首相の施政方針演説は、あまり芳しい内容とは思えなかった。

重要でないとは思わないが、「 郵政民営化 」 中心ではネタ不足だ。


どうみても国民の関心は 「 年金問題 」 や 「 景気対策 」 にあり、具体的な打開策が無いからといって、そこを避けて置き去りにはできない。

対策が無くても、それを優先的に取り組むのだという意思表示だけは示しておかなければ、産業界のみならず大衆の民意も離れてしまう危険がある。

当然のこと、具体案を準備しないで 「 景気対策 」 を語れば、待ってましたとばかりに野党の総攻撃を喰らうだろうが、それでも気にすることはない。

吠える野党議員に対し、「 ほお、では何か妙案があれば教えて下さい 」 と尋ねれば済む話である。

どこを見回しても、すぐに不況から簡単に抜け出せる妙案など見当たらず、誰に委ねたところで、状況が好転するような気配は感じられない。


日本を不況に導いた諸悪の根源は、どう考えても 「 銀行 」 である。

もちろん、政治が悪いとか、それぞれの企業が悪いという見方もできるが、政治も、経済活動も、その根幹は 「 お金 」 が原動力となっている。

日本経済を人の体にたとえるなら、お金は 「 血液 」 のようなものであって、それが正しく適切な場所に行き渡らなければ、具合が悪くなるのも当然だ。

傷口が開いて出血の止まらない所ばかりに、どんどん血液を流し込んだり、必要とする健全な個所に循環させなかったりすると、どうなるだろう。

資金流通のコントロールを担うべき銀行の、過去における誤った判断や、それを正そうともしなかった驕りこそが、「 経済崩壊のA級戦犯 」 である。


最近になってようやく、政府側も彼らの悪行に気づき、政策的に厳しくメスを入れ始めたので、各行の不良債権も減少に転じてきた。

たしかに不良債権が減ると銀行の収支と健全性は改善されるが、それだけで金融機関としての社会的責任が果たせているわけではない。

今後は、過去のように不公正な偏った融資方針を改め、正しく出資先への分析と評価を行うことが求められるのだが、その点が大いに心配である。

なぜなら、彼らの多くは 「 権威主義の象徴 」 みたいな人物が多く、企業や個人の能力には目もくれず、やたらと 「 権威 」 にばかり関心を示す。

あまり個人的には銀行の世話にもなっていないのだが、仕事の関係で彼らと話をしても、出身校やら、資産やら、そんなことばかりを尋ねてくる。


私自身も、「 学歴 」 はとても重要なことだと思う。

ただ、それは出身校がどこかという 「 学校歴 」 のことではない。

たとえ中学しか出ていなくても、社会人になってから立派に勉強している人もいるし、大学を出た頃がピークで、すっかり学ばなくなった人もいる。

それなのに、「 ほぉ、TAKAさんは○○大ですか 」 なんて感心されても、「 あいつは△△大ごときの奴だ 」 なんて話されても、まるで意味がない。

それを諭しても理解できない人物が多いので、わざとこちらから権威を振りかざし、「 ええぃ、頭が高いわっ! 」 とおちょくってやったりすると面白い。


むしろ、一部の地方銀行や、信用金庫みたいなところのほうが、人間的にはバランスのとれた好人物と出会うことがある。

彼らは大手よりも一格下の 「 名も無い中小企業 」 と取引する機会が多いので、企業の知名度には惑わされず、純粋に取引先の分析をしている。

一社に偏向的な融資をすると、連鎖的危機に見舞われるリスクも高いから、こつこつと小口の取引を慎重かつ誠実に行う姿勢が身についている。

もちろん、中小の金融機関にも 「 ダメな人 」 はいるけれど、大手行の陥りがちな 「 権威病 」 に感染している人は、比較的に少ないようだ。

ただし、独立資本が小さいことや、逆風に弱い体質もあってか、現実的には中小の金融機関のほうが、破綻の憂き目に遭っていることは多い。


日本の大手銀行は、どうやら大きな 「 勘違い 」 をしているようだ。

公的資金を導入しても、大手が借金を踏み倒しても、そこから何か教訓を学ぼうという姿勢も、過去に自分達が犯した過ちを反省する動きもない。

預金という 「 人質 」 を盾にし、国が預金者保護をするかぎり、自分たちも安泰であるという 「 特権 」 意識を抱え、妄想に浸っているのではないか。

リストラでもされれば少しは痛みもわかるはずだが、まだまだ他業種に比べれば規模的に甘いし、そこに至った 「 理由 」 を理解する人も少ない。

再就職も 「 権威 」 と 「 コネ 」 でなんとかしようとなさるので、それが通用しない企業さんには、ずいぶん面接での評判は悪いことが多い。


最近、銀行が 「 ローン会社 」 と提携しているケースも目立つ。

カードローンの支払いや借り入れが、銀行のATMで利用できるらしい。

それについて、「 便利で良いなぁ 」 などと呑気に考える人もいるだろうが、実際は、ちょっと問題のある現象ではないだろうか。

銀行は消費者への直接融資を積極的に行わず、ローン会社に投資して、そこから高い金利で貸し付けを行っているのである。

低いプライムレートで融資を受けなかったばかりに破綻する企業や、あるいは個人破産などの元凶にも、銀行のエゴがつながっている可能性は高い。







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2005年01月22日(土) 墓穴を掘った大新聞社



「 君の意見には賛成しないが、君の発言する権利は死んでも擁護しよう 」

        フランソワ = マリー・A・ヴォルテール ( フランスの文学者 )

I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.

                   FRANQOIS = MARIE・A・VOLTAIRE



マスコミには 「 報道の自由 」 があり、各社はそれを主張する。

それが彼らの使命だし、それは尊重されるべき彼らの精神でもある。


朝日新聞がNHKに対し、「 公共電波で一方的に誹謗した 」 という理由で、提訴を前提として、訂正と謝罪放送を求める文書を送ったらしい。

事の成り行きは既にご承知だと思うが、例の 「 アレ 」 である。

NHKが、内容に正確性を欠いた 「 問題のある特番 」 をつくり、実際には放送しなかった理由について、様々な憶測が乱れ飛んでいる。

反社会的な団体が制作に携わっていただとか、政治家から圧力があったとか、朝日新聞が関与していたとか、いろいろな噂が飛び交う。

誰かが 「 嘘 」 をついているのは明白だが、真理は明らかでない。


この件に関して、「 誰が悪い 」 ということに興味は無い。

個人的な価値観で申せば、日本人でありながら日本の悪態ばかりをついている連中は嫌いだが、それ自体が 「 反逆罪 」 になるわけでもない。

今の日本の憲法は、思想や表現の自由が認められているのである。

ただ、片方に 「 放送法 」 というものや、マスコミに求められる倫理観というものがあるので、放送内容に問題があれば、それを訂正する必要がある。

既に放送してしまったのならまだしも、放送前に気がついたのであるなら、放送を見合わせる処置も、当然の配慮といえるだろう。


番組の 「 適合性 」 については、その番組が放送されなかったのだから、それが適切だったのか、問題があるのか、明確な判断はできない。

ただ、これだけ話題に上っても放送しないということは、NHK側で熟考した結果、「 やはり放送するべきでない 」 という結論に達したのだろう。

それに対して朝日新聞側は、「 放送して、国民の判断をあおぐべき 」 という趣旨の報道を、数日前には唱えていた記憶がある。

よほど悪質な内容でないかぎり、その意見は正しいようにも思う。

それが 「 善でも、悪でも 」、あるいは 「 右でも、左でも 」、放送して国民の審判をあおごうじゃないかという意見は、マスコミの論理に適っている。


私が朝日新聞に 「 不信感 」 を抱くのは、その問題自体よりも、NHKから 「 誹謗された 」 と文句をつけているところだ。

これには 「 矛盾 」 を感じるし、あまりの身勝手さに立腹する。

自ら、「 報道の自由 」 を主張しつつ、他人が批判的な報道や、自分たちに都合の悪い報道をすると激しく反発するというのは、いかがなものか。

前述の 「 放送して国民の審判をあおぐ 」 という論拠を是とするのならば、彼らの正当性もまた、「 放送して国民の審判をあおぐ 」 ことで試される。

反対意見に耳を塞ぎ、「 圧力をもって糾弾を許さず 」 とする姿勢は、彼ら自身がもっとも抵抗してきた 「 悪政 」 ではなかったのか。


私が嫌いなのは ( 誰でもそうだろうが )、「 自分に甘く、他人に厳しい 」 という自分勝手な人間や、企業や、団体である。

他人の問題は容赦なく追求し、自分たちは 「 国民の知る権利 」 を委任された代弁者のごとく、報道の自由の名のもとに取材し、それを流布する。

ところが、逆に 「 対象者 」 とされた途端、固く口を閉ざし、あるいは圧力をもってこれを制すとは、なんたることか。

この時点で朝日は、「 マスコミの風上にもおけない存在 」 に成り果てた。

日本を代表する大手新聞社としては、なんとも情けなく、みっともない。


人は誰しも失敗をするし、大きな 「 間違い 」 を犯すこともある。

もちろん、そうならないように気をつけることが大事なのだが、そこに至っては、潔く罪を認め、反省する姿勢が肝要である。

あるいは、「 無罪 」 を主張する場合でも、追求する側に圧力をかけたり、脅したりするような蛮行に及べば、誰の賛意も支持も失ってしまうものだ。

彼らもまた、「 思い上がり 」 をした愚鈍な集団に陥りかけている。

どんな意見を持とうが、論評を連ねようがかまわないけれど、自分たちの手によって 「 報道の自由 」 を否定する行為だけは、断じて許されない。







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2005年01月21日(金) セクハラ をする経営者



「 どこにでも、少なくとも一人はいるはずだよ。

“ 狂うんじゃないか ” と恐れている経営者がね  」

                          ジョセフ・ヘラー ( 海軍軍医 )

I think in every country that there is at least one exective who is scared of going crazy.

                              JOSEPH HELLER



昔から、「 天才と狂人は紙一重 」 などと言われている。

優れた頭脳も、ちょっと歯車が狂えば、とんでもない行動を起こす。


週間文春によると、西武グループ総帥の 「 堤 義明 氏 」 が、元五輪代表スケーターの 「 渡部 絵美 さん 」 に、セクハラを行っていたという。

本人の弁明を聞いていないので真偽のほどは明らかでないが、もし事実だとすれば、これは忌々しき大問題である。

先日も、同グループ系の 「 プリンスホテル 」 支配人が、社員旅行の際に同席した女子社員に対するセクハラ行為が、発覚したばかりだ。

また、ダイエー系企業の幹部が、「 強制わいせつ 」 の罪で告発され、本人も起訴事実を認める供述をしている。

民間企業ばかりでなく、青森の知事、信大の教授、北海道警察の警部も、セクハラ行為に対する告発を受けており、まことに遺憾の極みである。


彼らの行為は紛れも無い 「 性犯罪 」 であり、それぞれに厳しく罰せられるべきだと思うが、犯行に及ぶ経緯において、普通の性犯罪者とは異なる。

おそらく彼らに 「 権力 」 という アイテム が無くて、他人への影響力を持ち合わせていなかったら、そのような行為に及んだ可能性は低いだろう。

一般的な性犯罪者とは違って、衝動的な性欲にまかせ、通りすがりの女性を襲うような凶暴性も、度胸もなく、ごく普通の生活を営んでいたはずだ。

だからといって、許されたり、罪が軽減されるわけではなく、むしろ、そのような行為が悪質で、忌むべきものと知っていただけに 「 重罪 」 である。

きっと、部下には 「 セクハラは慎みなさい 」 と訓示をたれたりしていたはずで、まことに許しがたい犯行であるといえる。


先日の日記の続きみたいになるが、彼らの罪状もまた 「 思い上がり 」 の延長であり、身の程を知らない愚かさが招いた結果でもある。

組織のピラミッドにおいて、上のほうに立つと 「 王様 」 のような気分になるものだが、それで 「 偉い人間になったような錯覚 」 を起こしてはならない。

あくまでもそれは、「 組織上の役割分担 」 であって、社長なら社長の仕事、課長は課長の仕事をしなさいという 「 業務分掌 」 にすぎないのである。

小さいけれど私も、自分の会社を持っていて、可愛い従業員もいる。

私は役職で呼ばれるのが嫌いなので、皆 「 社長 」 とは呼ばず名前で呼ぶし、私も彼らのことを、けして 「 ○○ くん、○○ ちゃん 」 とは呼ばない。


特に、セクハラがどうこうという話ではなくて、普段から部下や従業員のことを、自分よりも 「 目下、格下 」 だと考える思想に問題がある。

関西では、上級職の人を 「 偉いさん 」 などと言ったりするが、働きもしない上司より、有能で行動的な部下のほうが 「 偉い 」 に決まっている。

もちろん、職務上 「 命令 」 を下すことはあるが、それは 「 偉い 」 からではなく、あくまでも仕事の一部なのである。

ましてや、仕事以外のことで 「 上下関係 」 を匂わせたり、威圧的な態度を示すなどとは、けしからん話であり、言語道断といってよいだろう。

仕事の上でも、オフのときも、相手は 「 対等の立場にある人間 」 であり、それぞれの役割が異なるだけで、誰も自分の 「 家来 」 などではない。


たしかに、そういう 「 思い上がり 」 もわからないではない。

私なんかの場合も、20代で初めて役職に就いたときは、かなり 「 天狗 」 にもなったし、生意気で、高圧的な態度をとった時期もあった。

いま思えば恥ずかしい話で、当時の部下には嫌な思いもさせただろう。

ただし、元来が 「 女好きな性格 」 と自覚していたので、せめて仕事関係の女性だけは手を出さないという 「 最低限のルール 」 を自分に課していた。

また、部下には 「 それぞれの役割に見合った成果を挙げているかどうか 」 という興味しかなかったので、それ以上の関心を示すこともなかった。


知り合いの 「 セクハラ好きな男性 」 をみると、そういった行為に及ぶことに関して、それが 「 役得 」 だと勘違いしている人もいる。

また、最近まで法整備が進んでいなかったこともあって、働く女性の中にも 「 仕事の一部 」 だと諦めたり、泣き寝入りをする人も多かったようだ。

そういった労使環境が、不穏な 「 セクハラの舞台 」 を生み出す。

どこにも、自分の部下にセクハラを行ってもよい 「 役得 」 などあり得ないわけで、また、それを拒否できない関係など、どこにも、ある訳がない。

冷静に話すと、それが理解できないような経営者はいないのだが、目の前に 「 獲物 」 の匂いを感じると、一時的に発狂する人がいるのである。


この前、そんな 「 セクハラおじさん 」 に会ったら、最近は社会問題になっているので、少し用心しているとのことだった。

どのように用心しているのかというと、飲みに誘ったりするときなど、「 ねぇ、これはセクハラじゃないよね、ねっ、ねっ 」 と念を押すのだという。

脂ぎった赤ら顔のおじさんに、すり寄られ、ニンニク臭い息を吐きかけられながらそんなことを言われたら、それこそ立派に 「 セクハラ 」 である。

私が若い女の子なら、その時点で泣くか、殴ってしまいそうな話だ。

当然、「 ダメです 」 という理由を説明し、意味も無くプライベートには接触をしないように諭したが、はたして効果があったのか心配ではある。







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2005年01月20日(木) 思い上がりしていた人々



「 我々は今や、イエスキリストより有名だ 」

                      ジョン・レノン ( 歌手 = ビートルズ )

We're more popular than Jesus Christ now.

                                JOHN LENNON



昭和32年、大阪の千林商店街に 「 主婦の店 ダイエー 」 は生まれた。

開店時の従業員数は、13名であった。


40年後、ダイエー・グループの従業員数は 「 13万人 」 を超えた。

しかしながら、平家物語の冒頭にある 「 盛者必衰 」 の言葉通り、その栄華もいま、息絶えようとしている。

彼らはどこで、道を誤ってしまったのか。

あるいは、はじめからそうなる運命だったのか。

巨大企業が崩壊する背景には、瞬間的な選択の誤りよりも、もっと大きな 「 何か 」 があったはずで、他社の経営者もそれを学ぶ必要がある。


数年前に、「 ユニクロ ( 社名:ファーストリテイリング ) 」 という企業が台頭してきた頃、彼らは業界の 「 厄介者 」 であった。

当時、けして 「 談合 」 というわけでもないが、衣料品業界では売価の水準を 「 ある一定のところ 」 で販売するという暗黙の了解があった。

そこへ、「 価格破壊 」 を旗印にして突き進む企業が出現してきたことに、業界関係者は戸惑いを隠せず、彼らの存在を良く思う者は少なかった。

有名メーカーは商品の出し渋りをしたり、あるいは彼ら向けに品質の劣った粗悪品を売りつけようとする不心得者も、少なくなかったのである。

それは丁度、「 主婦の店 ダイエー 」 が安売りで台頭してきた頃の様子に酷似しており、当時を知る人から 「 流通の革命児、再来 」 とも言われた。


その頃、ダイエーを含む大型量販店各社は経営不振に苦しんでいたが、その理由について、ユニクロの創業者 「 柳井 正 氏 」 は次のように語った。

最大の理由は、「 彼らは “ オーソリティ ” になってしまった 」 というもので、いわゆる 「 権威主義に走ったことが、失敗の要因 」 ということだった。

ダイエーとユニクロでは、価格を下げる方法や、販売の形態も目的も異なるが、あえて柳井氏はそこに言及せず、「 権威主義 」 を一番に挙げた。

当初、なりふりかまわずに 「 安売り 」 を看板にしていたダイエーの姿は、あまり格好の良いものではなかったが、それはそれで認められるという。

それがいつの間にか、企業の成長と共に 「 儲からないこと 」 をやってみたり、度々 「 儲からない方法 」 を選択する機会が多くなったのである。


これらは、彼らの 「 もはや安売り店ではない 」 という自負や、社会的地位の向上に伴う責任感のようなものにも起因しているだろう。

しかし、それだけではない。

規模が大きくなった影響で、当初の商売における 「 きめ細かさ 」 は失われ、ずいぶん荒っぽい拡大政策や、諸々の施策が目につきだしてきた。

社員が多くなり過ぎたことで、トップの経営理念と、現場担当者の判断にも温度差が生じ、簡単には修復できない亀裂も発生している。

特に、企業が成熟してから入社した社員の中には、それが自分達の努力による成果ではないのに、取引先に対して高圧的に接する輩も多かった。


最近の情報ではないが、かなりの店舗数までユニクロが隆盛してきた時も、ユニクロの社員は取引先に対し腰が低く、対応は丁寧であった。

あくまでも 「 売っていただいている 」 という姿勢で、かたやダイエーの若いバイヤーの中には、「 買ってやっている 」 という態度の人が多かった。

ダイエーでも、上層部の人々や、創業時の苦労を経験している人ほど腰は低く、彼らは威張ることよりも、取引先との信頼関係を大切にしていた。

ある高級幹部などは、「 こちらから頭を下げることで安くしてもらえるなら、いくらでも頭を下げます 」 と笑顔で語る人もいたぐらいである。

逆に、「 取引さえなければ殴ってやる 」 と、仕入先各社の販売担当者から憎まれていた若いバイヤーも、私の知るかぎりでも、かなりいたようである。


ダイエーの崩壊が決定的なものになり、過去の失敗を追及されだした現在でも、私は創業者の 「 中内 功 氏 」 に対しては、あまり悪い印象がない。

当然、重大責任があることも事実だが、裸一貫で何のコネもなく商売を始めて、これほどまでの大企業を一代で興した業績は、並大抵の力ではない。

問題は、社員のひとり一人まで彼の哲学を浸透させなかった点や、企業が大きいことで自分の身の程や役割を 「 思い違い 」 させた罪にあるだろう。

各々の利害という点においては、ダイエーの崩壊を窮地と思う仕入先でも、感情的にはダイエーの社員が 「 苦しめばよい 」 と思っている人も多い。

彼らから脅迫まがいな要求や、高圧的な態度を押し付けられ、苦しめられた仕入先も数限りなく、それは 「 ビジネス以外の部分 」 にも及んでいる。


大企業に入ることも、そこで出世を目指すことも、悪いことではない。

ただし、「 偉くなる 」 ことと、「 偉そうにする 」 ことは違うし、所属する企業や、そこで与えられた評価が、人間の優劣を決めるものでもない。

不確かな 「 権威 」 に翻弄され、それを振りかざしたり、振りかざされたりしたところで、何の実利も得ないばかりか、ロスになることのほうが多い。

今後、ダイエー関連で多くの失業者が生じ、再就職に向けての活動を開始することになると思うが、そこで彼らも 「 己の市場価値 」 に気づくだろう。

常に、どんな立場にいようとも、空虚な権威など忘れ、自己の 「 真の実力 」 と、与えられた責務や役割にのみ集中することが、なにより肝心である。







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2005年01月19日(水) 恒例の “ あれ ”



「 いいか、野球ってのは、面白くなくちゃいかん。

  面白くするためには、勝つことだ。       」

               ディブ・ブリストル ( シンシナティ・レッズの監督 )

Boy's, baseball is a game where you gotta have fun,
You do that by winning.

                                DAVE BRISTOL



1967年、ディブ・ブリストルが監督に就任したときの挨拶である。

自信の無いチームも、開幕前は一応 「 優勝 」 を目指しているものだ。


ある方から、「 忘れてるのでは? 」 という表題のメールをいただいた。

それは何かというと、プロ野球の 「 今年の優勝チーム予想 」 である。

偶然ではあるが、実は昨年の 「 中日 」、一昨年の 「 阪神 」 と、私はこの日記上で 「 セ・リーグの優勝チーム予想 」 をし、ズバリ的中させている。

一昨年の阪神については、冗談半分で 「 まぁ、無いだろう 」 と思って書いたが、大方の評論家が 「 Bクラス 」 と予測する中で、言い当ててしまった。

昨年の中日については、かなり熟考して的中させたので、こちらの予想に関しては、ちょいと自慢にしている。


残念ながらパ・リーグについては、「 優勝はロッテ 」 と書いたが大ハズレで、ご存知の通り、ダイエーが錦を飾る結果となった。

ロッテは、「 バレンタイン監督が好き 」 という個人的な理由で支持してみたのだが、やはり野球は 「 選手が頑張ってなんぼ 」 の競技であった。

しかしながら、セ・リーグに比べて人気が無いせいか、パ・リーグをハズしたことについては、あまり言及する人もいなかったので助かっている。

自分自身、最近はそれほど野球を熱心に観ていないので、予想のことなど忘れてしまっていたのだが、覚えている人は覚えているものらしい。

セ・リーグに関しては、「 プロ野球ニュースの解説陣をしのぎ、予想に実績がある 」 との評価をいただいた読者の方から、催促のメールが来たのだ。


それで、今年も大胆に予想してみることにした。

2005年、セ・リーグの優勝チームは 「 中日ドラゴンズ 」 だ。

もし実現すれば 「 連覇 」 ということになるが、予想した根拠も昨年と同じ 「 なんとなく、そんな気がするから 」 である。

ついでにパ・リーグも予測してみよう。

こちらは、「 福岡ソフトバンクホークス 」 が優勝する・・・気がする。


あくまでも 「 そんな気がする 」 程度の話なので、ハズレても責任は取りませんし、大目に見ていただきたいのである。

また、論理的な根拠を尋ねられても、お答えできるものではない。

10月ごろには結果が明らかになるだろうけれど、形勢が悪くなってきたら、いきなり日記を閉鎖して、うやむやにしてしまう作戦もある。

あるいは、過去ログを修正して 「 ほらね、当たってるでしょ 」 という姑息な手段にうったえる手も、物理的には可能だろう。

特に応援しているチームも無いので、こんなことでもしないと野球に興味がわかないのも事実であり、ずいぶん 「 テキトーな予想 」 なのである。







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2005年01月18日(火) 震災から10年



「 体験が判断力をつける。 卓越した判断力は苦い体験から生まれる 」

                     ボブ・パックウッド ( アメリカ上院議員 )

Judgment comes from experience and great judgment comes from bad experience.

                               BOB PACKWOOD



退くか進むか、右か左か、とっさの判断は誰にも相談できない。

その結果が 「 人命 」 に関わる場合も、その事実に変わりはない。


人はよく 「 備えあれば憂いなし 」 などと言うが、実際のところは 「 危険が迫らないと、備えまで手が回らない 」 ことが多いのではないだろうか。

私の場合も、阪神大震災が起きるまで、災害の恐ろしさを頭では理解していたつもりでも、地震など 「 他人事 」 のように考えていたような気がする。

昨年末は 「 スマトラ地震、津波 」 の影響で多数の死傷者が発生し、目を覆いたくなるような悲惨な状況が、現地から繰り返し報道されていた。

それに対する日本の支援体制や、実際の対応について、あれこれ批判的な意見を述べる人や、空虚な推論を展開する人もいる。

意見を出すのは自由だが、その中には 「 似たような地獄 」 を体験した人は少なく、「 机上論と現場の問題 」 に温度差を感じるものが多い。


阪神大震災で、自身も被災し、血を流しながら働いた消防士がいる。

右も左も地獄絵図の中で、消防士の制服を見るや、「 あそこに生き埋めになっている人がいるから、助けてくれ 」 と、駆けつけた人々が声をかける。

消化中の建物に人がいる気配があり、その場を離れるわけにはいかない。

やむを得ずに、「 近所の人々で協力して、なんとかしてください 」 と断ると、周囲から怒声が起こり、「 あとで訴えてやる 」 と涙ながらに叫ぶ声がする。

周囲の360度から煙が上がり、泣き叫ぶ声と、うめき声がこだましている。


要請を受け、救急車で現地に向かった隊員たちは、目的地に到着するまでずっと、各地で人々に追いかけられ、徐行するたびに車のドアを叩かれた。

赤いパトランプに吸い寄せられるように、重傷を負った家族を運んでもらいたい被災者が、数かぎりなく後を追ってくるのだ。

誰も、「 人命救助という仕事を、疎かに考えている者 」 などいない。

全員を救えない口惜しさに苛立ち、涙を拭いながら目的地に向かう隊員の背中に、「 人でなし 」 と叫ぶ人々の罵声が浴びせられる。

辛いのは、けして被災者だけではなかった。


呼吸も、心音も聞こえなくなった体を引き離し、次の怪我人のもとへ蘇生に用いる器具を運ぼうとすると、遺族から殴られた隊員もいる。

当時、社会党の村山総理が政権を担当していたことから、自衛隊や、海外への協力要請が遅れた点を指摘した人も多かった。

それは、たしかに 「 不幸な事実 」 としては認められるが、村山氏の人命に対する意識が希薄だったとか、おざなりだったとは思わない。

私の大嫌いな 「 自殺企図者 」 や 「 凶悪犯罪者 」 を除けば、自分や他人の生命を疎かに考えている人間など、ましてや総理たるもの考えられない。

何の責任も、プレッシャーもない立場で、スマトラに対する小泉内閣の支援体制を非難する人間の意見など、マトモに取り合う気はしない。


阪神大震災は、関西の人々に 「 防災に関する心構え 」 という課題を残し、あまりにも高い代償を犠牲として、後の時代に 「 苦い体験 」 を与えた。

これが、「 卓越した判断力 」 に結びつくかどうかは、これからの大きな問題になっているはずで、それこそが同時に 「 犠牲者への追悼 」 でもある。

たとえば京阪神では、幹線道路の一部が災害時には 「 緊急車専用 」 へと切り替えられる措置や、諸々の法整備、環境整備が進められている。

災厄が繰り返されても、同じ悲劇を繰り返さないよう、被害が最小限で収まるように、国も、自治体も、企業も、そして個人も、意識改革が必要である。

震災後10年のこの日に、すべての犠牲者に対するご冥福をお祈りすると共に、二度と同じような惨事が起こらないことを祈念する次第である。







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2005年01月17日(月) 「 カンフー・ハッスル 」 は面白い



「 駄作を撮る場合でも、一番マシな駄作でありたいね 」

                          リチャード・バートン ( 俳優 )

If you're going to make rubbish, be the best rubbish in it.

                             RICHARD BURTON



長い間、心に残る映画ではなくても、純粋に 「 面白い映画 」 がある。

現在、その製作者として、香港の 「 チャウ・シンチー 」 が注目されている。


彼は、2001年に 「 少林サッカー 」 という映画を撮り、香港を皮切りにアジア全土で大ヒットを記録し、一躍、映画製作者としての知名度を上げた。

日本でも興行的に成功したので、ご覧になった方も多いだろう。

いわゆる 「 ナンセンス・コメディ 」 と呼ばれる代物で、リアリティを追求してみたり、作品のテーマを探るような映画ではない。

ただ単純に、頭を空にして笑うことが、十分に楽しむための秘訣だ。

すべての映画がこんな調子でも困るが、たまにはお腹を抱えて、無邪気に笑えるような作品があっても良い。


現在、劇場では彼の最新作 「 カンフー・ハッスル ( 2004 香港 ) 」 が公開されており、以前から楽しみにしていたので、私も足を運んでみた。

鑑賞後の感想としては、「 前作よりも面白い 」 と評価できるように思う。

ただ、コメディというのは、個人的なセンスというか、好みというか、いわゆる 「 笑いのツボ 」 みたいなものが異なるので、万人向けの保証はできない。

もし、面白くないと言う人がいれば、たぶんそれは 「 クダラナイ 」 からという理由だと思うが、その 「 クダラナイ 」 ところが作品の持ち味でもある。

そういう映画にトライしてみたい方は、ぜひ、ご覧いただきたいと思う。


ちなみに、外国映画を劇場で観る場合、たまに 「 字幕版 」 と、日本語の 「 吹き替え版 」 を選べる作品がある。

他の作品では、無条件で 「 字幕版 」 を選ぶのだが、この作品にかぎっては 「 吹き替え版 」 の方をお勧めする。

前作 「 少林サッカー 」 のDVDを持っているのだが、なぜか広東語の映画というのは、あまり馴染めない感じがするのだ。

うまく説明できないが、広東語で観ると 「 カンフー映画 」 という印象が強くなりすぎて、作品の持つ世界観に入り込みにくいのである。

劇場側もそれを心得ているらしく、「 吹き替え版 」 で上映しているところの方が多いようだ ( 少なくとも、関西地区の映画館は吹き替え版が多い )。


内容は、「 豚小屋 」 と呼ばれる貧民窟に住む人々と、「 斧頭会 」 と名乗る暴力団の抗争を描いた物語が主軸になっている。

主人公の 「 チャウ・シンチー 」 は、元々正義感の強い人間だったが、真面目に生きてもロクなことがないので、悪の手下になることを望んでいる。

それで、「 斧頭会 」 の手先として 「 豚小屋 」 を攻撃しに行くのだが、そこには、かつて 「 カンフーの達人 」 と呼ばれた住人達が隠れ住んでいた。

歯が立たないと知った 「 斧頭会 」 は、対抗する力を持つ達人を探してきて、白熱した闘いが繰り広げられていく。

あわや、「 豚小屋 」 は全滅かと思われたときに、主人公が良心に目覚め、悪に闘いを挑むという、単純明快な 「 ヒーロー活劇 」 である。


この 「 チャウ・シンチー 」 という人は、「 エンターティンメント 」 というものをよく理解しており、映画の楽しさ、醍醐味を、随所にちりばめている。

コメディを主軸に、アクション、恋愛、はてはミュージカルのような要素まで、贅沢なほどに取り入れ、観客を楽しませることに力を惜しまない。

本人は 「 ブルース・リー 」 の大ファンだったそうで、2作品ともに共通しているのは、「 カンフー 」 を愛する姿勢である。

今回の作品では、かつて 「 ブルース・リー 」 や 「 ジャッキー・チェン 」 らが出演した作品で、俳優やスタントマンを演じた人が多く参加している。

28年ぶりに映画出演をした俳優さんもいて、今は亡き 「 ブルース・リー 」 に捧げるオマージュのような部分も、あるのではないかと思う。


一緒に映画を観た女性と、「 チャウ・シンチー 」 は “ 男前なのかどうか ” という話になって、彼女の口から面白い解説を聞いた。

映画を観ればわかるが、2作品とも主人公の男女以外は、かなり 「 個性的な顔 」 をした俳優さん、女優さんばかりが出演している。

もっとわかりやすい言葉で表現すると、全員が 「 ブサイク 」 なのである。

こんなに 「 ブサイク 」 な俳優さん、女優さんばかりが出ている映画というのは、他に類がないといっても過言ではないだろう。

つまり、「 周りに “ ブサイク ” を配して、全体の質を下げることで、主人公の男女のキャラが立つようにしている 」 という、珍しい作品なのである。


男前かどうかはともかく、人を楽しませる才能については秀でている。

早くも次回作に対する期待と、DVDが発売される日を心待ちにしているような気分であり、少なくとも私は 「 ツボにはまった 」 ようである。

こういう映画は 「 名作 」 と位置付けられることなく、「 B級 」 として分類される宿命を負っているが、堅苦しい制約がない分、単純に面白い。

日々のストレスを忘れ、無条件に笑うことができる作品だといえる。

嫌なこと、辛いことがあった人は、「 気分転換 」 のためにもお勧めする。







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2005年01月16日(日) 黙して語らず



「 木を知って、忍耐の意味がわかる。

  草を知り、ねばることの意義を知る 」

                            ハル・ボーランド ( 作家 )

Knowing trees, I understand the meaning of patience.
Knowing grass, I can appreciate persistence.

                               HAL BORLAND



ヤンキースから日本のオリックスに、一人の外国人選手が移籍する。

期待の外野手、「 ガルシア選手 」 である。


彼は来日するにあたり、元同僚の 「 松井選手 」 から、日本の野球に関して注意すべき点などを尋ねたという。

その質問に対し松井選手は一言、「 ペイシェンス [ patience ] = 忍耐 」 だと答えたらしいが、これはなかなか的を得た名答であると思う。

もちろん、アメリカ人にも 「 忍耐 」 という概念が無いわけではないが、日本の “ それ ” と比べれば、かなり意識の違いもあり、慣れないと苦労する。

野球選手に限らず、日本で雇用される立場の人間は、ちょっと理不尽とも思えるような 「 忍耐 」 を要求される場合が多い。

これを知らねば、日本球界に居つくことさえ難しいかもしれない。


たとえば、どのあたりが具体的に異なるのか。

労使間や、階級差によって生じる軋轢など、アメリカでは実力さえ認められれば 「 フレンドリー 」 に交わされる関係が、そうはいかなかったりもする。

年長者、先輩に対する 「 非論理的な気配り 」 を求められることも多い。

けして、合理的とはいえない習性だが、日本のスポーツマンは技術と共に 「 礼節 」 を学ぶことが当たり前になっており、それを欠いては許されない。

すべて 「 礼に始まり、礼に終わる 」 といわれるほど、礼節を重んじる組織に置かれた日本人にとって、それは 「 美徳 」 というより 「 当然 」 である。


実力を認められた者にとって、それなりの 「 特別待遇 」 を与えられることが普通の社会においては、日本の 「 礼節 」 が理解されにくい。

試合で満足できる成果を挙げても、練習方法に関する意見の食い違いや、選手の起用法が気に入らないなどの理由で、外国人選手はよく対立する。

彼らの中には 「 大リーグで活躍してきた 」 というプライドと、日本の野球に対する違和感というものが、たえず存在している。

また、異国の地に訪れた孤独感や、焦燥感も、少なからず携えている。

仲間はずれにされても嫌だが、新人や、二軍の選手と同様に扱われるのも不愉快だったりするので、彼ら自身、なんとも難しい立場なのである。


一昔前に、「 “ ノー ” と言えない日本人 」 なんて本も流行ったが、世渡りのためなら嫌なこと、理不尽なことでも我慢する気質が、たしかにある。

思ったことを素直に表せなかったり、自己主張を控える背景には、技術的、知識的に未熟なことだけではなく、習慣的な抑圧による要素も多い。

たとえ 「 当然の権利 」 であったとしても、押し通すと 「 わがまま 」 に捉えられたり、反逆者のレッテルを貼られたりすることも珍しくない。

そんな居心地の悪いことを美徳だと考える 「 奇異の国 」 に赴くのだから、意に添わないことでも我慢できるだけの 「 忍耐 」 も必要となる。

野球の世界に限らず、日本というのは “ そういう国 ” なのである。


私が 「 外資系企業 」 の合理的な考えや、学閥などを気にかけない自由度に 「 水が合った 」 のも、そういう点が大きかったように思う。

とかく日本では、自分の意見を発するときに 「 周囲の顔色を窺う 」 ような不自由さ、窮屈さがあって、どうにも面倒なことが多い。

昔に比べれば、日本の企業も少しは変わってきたのだろうけれど、いまでも伝統的に、そのような体質を保持し続けているところがある。

けして 「 礼節を重んじること 」 や 「 年長者を敬うこと 」 が悪いというわけではないのだが、実際の利益や、本来の目的よりも優先されがちだ。

そんなとき 「 黙して従う 」 ことは、異邦人にとって忍耐の要る作業である。


練習で技術を磨いたり、自己を鍛練する必要性は、どこにいても同じだ。

また、いくら努力しても 「 実戦で成果を挙げる 」 ことができなければ、良い評価を与えられないことについても、日米の違いはない。

だから、松井選手の言う 「 忍耐 」 を 「 自己の研鑚 」 に留めて考えると、せっかくのアドバイスが功を奏さない可能性もある。

言いたいことが山ほどあっても、自分を律して 「 黙して語らず 」 の姿勢を求められる場面や、自己犠牲を期待される局面が、必ずやってくる。

それが 「 善いか、悪いか 」 は解釈にもよるが、私が 「 メジャーリーガー 」 ならば、けして日本でのプレーを望まないだろうと思う。







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2005年01月13日(木) 酔って候



「 全世界は、酒三杯分遅れている 」

                          ハンフリー・ボガート ( 俳優 )

The whole world is about three drinks behind.

                           HUMPHREY BOGART



わかるような、わからないような文章である。

わからないので酒を飲んでみても、やっぱりよくわからない。


最近、よく飲んでいるのが 「 鍛高譚 ( たんたかたん ) 」 という焼酎だ。

これは、北海道旭川市の合同酒精という会社から発売されており、北海道白糠町 ( しらぬかちょう ) 特産の 「 紫蘇 ( しそ ) 」 を原料に使っている。

代表的な焼酎の原料には 「 芋 」 とか 「 麦 」 がよく使われているものだが、「 紫蘇 」 を原料にしているものは珍しい。

いまは全国的に流通しているようで、大阪でも簡単に手に入る。

飲んだ途端に 「 紫蘇 」 の風味が漂い、口当たりが良く爽やかなので女性にも人気があり、「 お湯割り 」 なんかにすると、いくらでも飲めてしまう。


というわけで、今夜はけっこう 「 へべれけ 」 である。

私は、ビール、ワイン、日本酒など 「 そのまま飲む酒 」 には弱いのだが、ウイスキー、ブランデー、焼酎など 「 割って飲む酒 」 にはかなり強い。

したがって、そういう酒を飲むとつい、多量に摂取する傾向がある。

タクシーに乗るまでは何でもなかったのだが、帰宅した途端に 「 酔い 」 が回ってきて、けっこう 「 へべれけ 」 で PC に向かっている。

そういうわけで、「 今夜の気分 」 は 「 へべれけ気分 」 である。


日記を休もうかとも思ったのだが、一つだけ書きたいことがある。

それは、たぶん少し前のことなのだろうけれど、いつの間にか、この日記の累計アクセス数が 「 10万 」 を超えていた。

それで、いままでご覧いただいた皆様に、ひとことお礼を申し上げたい。

以前は、「 キリ番 」 の方に記念品を差し上げたりしていたのだが、最近は不精して、そういう面倒な作業は敬遠してきた。

今回も、何も差し上げることはできないが、ただ、このような稚拙な日記を読んでいただいた、述べ10万の皆様に、心から感謝申し上げる次第だ。


友達と集まって美味い酒を飲むと、本当にキリがない。

この 「 酔い 」 は、一人の部屋に戻った淋しさに、さきほどまでの賑わいの余韻を与えてくれ、冷たいベッドに沈んで眠る手助けをしてくれる。

ハンフリー・ボガート氏が言うように、世界が 「 酒三杯分遅れている 」 のだとしたら、今夜の私は 「 ずいぶん先の未来 」 へ出かけたことになる。

その未来は、陽気で楽しく、平和なものだったから、どうぞ皆さんは安心していただきたいと思う。

明日はまた、「 ちょっとだけ先の未来 」 を覗いてくる予定。







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2005年01月12日(水) ある愛の詩



「 愛に触れると、誰でも詩人になる 」

                              プラトン ( 哲学者 )

At the touch of love, everyone becomes a poet.

                                    PLATO



それが本当なら、私は 「 愛 」 に触れたことがないのだろう。

私の手からは、「 詩 」 などひねり出したことが一度も無い。


奈良県は11日、結婚に夢を持ってもらうことで少子化対策につなげようと公募していた 「 プロポーズの言葉100選 」 の審査結果を発表した。

参加者の中には、たとえばタレントの 「 松本人志さん 」 など、未婚の人もいて、この公募のために考えた 「 愛の言葉 」 も含まれている。

しかしながら、未使用の 「 造られた 」 愛の言葉よりも、実際に生身の夫婦が交わした言葉のほうが、生々しいけれど迫力を感じたりもする。

たとえば、「 しあわせ部門 」 で大賞に輝いた 「 時計は時を知らせてくれるが、あんたは時を忘れさせてくれる 」 なんてのは、しみじみと秀逸である。

この文では 「 あんた 」 という表現がさりげなく、それが 「 あなた 」 であるならば、ちょっと 「 キザっぽい、ウソ臭い感じ 」 がするように思う。


あるいは、「 ドラマチック部門 」 にて大賞をとった 「 ぼ、僕とお付き合いを前提に結婚してください!! 」 というのも、実に素晴らしい。

二作品とも、数十年前に実際に使われた言葉だという。

後者の言葉を告げられた女性は、「 ここは突っ込むべきか 」 と首を傾げながらも大笑いしてしまい、そのまま交際して結婚に至ったという。

それを 「 プロポーズの言葉 」 とは判断し難い面もあるのだけど、この際、そんな細かな判定はどうでもよい。

いかに、相手の胸に届いて、響き、揺り動かすかという点が重要である。


これらは、緻密に計算してひねり出した 「 口説き文句 」 とは違う。

相手を想い、自然に口をついて出た 「 愛の言葉 」 というのは、だからこそ感動を与え、力強く、真実ゆえの迫力を醸し出している。

私が日記の冒頭に 「 著名人の名言集 」 を引用している背景には、過去の人間がそれぞれ実際に口にした 「 生きた言葉 」 だからという理由がある。

彼らに比べれば、いかに自分が毎日の暮らしの中で、上っ面を取り繕うための薄っぺらい言葉をさもしく発しているのか、後悔することしきりだ。

単に言葉を選ぶだけではなく、その言葉に生活の息吹やら行動の集積が感じられるような、そんな自分でありたいし、そんな言葉を遺したいと思う。


ちなみに、この企画を提案した 「 奈良県の職員 」 は立派である。

目標に対する効果のほどはともかく、なかなか粋で、面白い試みだ。

これで急速に 「 少子化 」 が解決するとも、歯止めが掛かるとも思えないが、少なくとも 「 奈良県のイメージアップ、PR 」 には功績が大きい。

お金をかけないで、世の中をちょっと明るくしたり、楽しませたりすることができるということの、試金石としても評価できるだろう。

ひょっとすると、どこかの 「 代理店 」 が広報の手助けをしたのかもしれないが、それでも、それを採用した県側の勇気に、エールを贈りたい。







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2005年01月11日(火) 寄生から自立へ



「 何をやるにも絶対に必要なもの。

  それは、何をやるのか選んで、それを愛し、夢中で取り組むこと 」

                        ナディア・ブーランジェ ( 作曲家 )

The essential of everything you do...must be choice,love,passion.

                             NADIA BOULANGER



各地で成人式が行われ、今年も数多くの 「 新社会人 」 が誕生した。

実際は19歳も20歳も見た目に変わらないが、気分の問題だろう。


最近、よく 「 パラサイト・シングル 」 という言葉を耳にする。

英語で 「 パラサイト [ parasite ] 」 は 「 寄生 」 という意味を持ち、ここでの 「 シングル [ single ] 」 は 「 独身者 」 のことを指す。

つまりは 「 親と同居している独身者 」 という意味で、学卒後も親と同居を続け、住居費、食費などの基礎的生活条件を依存している若者達のこと。

それぞれに事情もあるようだが、世間的にあまり良い印象ではない。

現在、学卒後34歳までの 「 パラサイト・シングル 」 は全国に 1,000万人以上居るといわれ、その数はさらに増加する傾向にある。


もちろん、親と同居をしていても、生活費の大部分を負担していたり、逆に親の介護をしたり、面倒を看るような立場にある人は、これに属さない。

また、身体的な障害などの理由で一緒に暮らしている人も、該当しない。

あくまでも、「 自立し、別居する意思のない若者 」 が対象となっている。

世間の評価はともかく、たとえば 「 子供と一緒に暮らしていたい 」 という親にとっては 「 親孝行な話 」 かもしれないし、一概に悪い事とはいえない。

意味も無く別居するよりは、はるかに 「 経済的 」 だし、お金も貯めやすい。


良いとか悪いとかの問題ではなくて、これは 「 流行 」 なのだろう。

我々の世代や、少し上の世代の人々の中には、なんとなく、学校を出たら 「 親という呪縛 」 から逃れたいとか、そういう人も多かったように思う。

それほど厳しく育てられたわけでもないが、独立して自由きままに暮らしてみたいとか、一人暮らしへの憧れ、好奇心みたいなものが強かった。

いまは、親子間の 「 世代的な断絶 」 みたいなものが薄くて、けっこう同居していても苦にならないというか、居心地が悪くもないのだろうか。

ただ、いくつになっても親からみれば 「 子供 」 であることに変わりはなく、自分を 「 子供扱い 」 する人間がそばにいる影響は、あるかもしれない。


私の場合は、東京の大学に入った時点で、一人暮らしを始めた。

以来、ずっと ( 一時的に人数が増えたことはあったが ) 一人暮らしだ。

それが当たり前のように暮らしてきたので、大人になっても親と暮らすことが、どのようなものなのか、感覚的に理解しにくい。

先に 「 流行 」 と述べたが、個人の 「 性分 」 みたいなものもあって、人によっては一人が楽だったり、家族といるのが楽だったりするのだろう。

ただ、大抵の場合、親は先に死ぬので、いつかは一人になる。


自分で 「 一人で暮らす 」 と決めていても、状況の変わることはある。

愛する人ができ、かたときも離れずに一緒にいたいとか、遅ればせながらも二人の子供をつくりたいとか思えば、結婚する可能性もあるだろう。

それと同じように、いまは親と暮らすことに満足していても、なにかの拍子に独立を決意することだって、考えられると思う。

おそらく、「 パラサイト 」 と呼ばれる人々の多くは、そのタイミングを逸してしまったか、あるいは 「 機会 」 を待っているのではないか。

それならそれでよいのだが、ただ家に引きこもっていても 「 機会 」 は訪れないものなので、働くなり、恋をするなどして、能動的に動いたほうがよい。


仕事でも、趣味でも、恋愛でも、それを愛し、夢中になって取り組めるものが見つかったときに、それが人生の大きな 「 転機 」 となることが多い。

なぜならば、それこそが自分の人生で自分を 「 主役 」 に置く瞬間となる。

それで、生活の中心が 「 内 」 から 「 外 」 へ向くとは限らないが、他人の人生に寄生する生活が、主体的なものに激変する可能性は高いはずだ。

また、自分でお金を稼ぎ、収入も支出もコントロールする立場にありたいと望むことが、「 寄生 」 から 「 自立 」 への転換をもたらすことにもなる。

ちょっとぐらい時間がかかっても、遠回りをしてもかまわないから、新社会人の皆さんが、本当に 「 夢中になれるもの 」 を見つけられることを祈る。







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2005年01月10日(月) サービスへの対価



「 チップをもらったウェイトレスは、こぼさない 」

                                    作者不詳

Waitresses who are tipped don't spill.

                                ANONYMOUS



感じの良い 「 サービス 」 には、食事や宿泊の質を高める効果がある。

そこで、日本にも 「 チップ制 」 を導入すべきだと、私は思っている。


日本のホテルやレストランの多くは 「 チップ 」 が要らない代わりに、食事や宿泊の代金以外に 「 サービス料 」 が加算される仕組みになっている。

私は、この制度に矛盾を感じたり、納得のいかない面が多いのだ。

たしかに、いちいち 「 チップ 」 を気にして、ポケットの小銭を探したり、渡すのも手間ではあるが、「 サービスの質 」 というものには個人差がある。

良いサービスを受ければ、それ相応の対価を与えたいと思うし、不愉快な扱いを受けたりすると、一円たりとも渡したくはない。

それを、「 サービス料 」 という名目で一律に加算されるのは腑に落ちない。


ましてや、ホテルなどでは 「 特別なサービスを受けた記憶がない 」 のに、堂々と 「 サービス料 」 を請求するところも多い。

予約をしたホテルのフロントに行き、名前を告げてチェックインの手続きを済ませ、代金と引き換えに鍵を受け取り、自分で荷物を運び部屋に入る。

食事の際には鍵を持ったまま外出し、適当な時間に部屋へ戻る。

疲れたら狭苦しいユニットバスに浸かり、朝になればシャワーを浴び、髭を剃って身支度を整え、また自分で荷物を持ってフロントへ向かう。

鍵を返し、チェックアウトの作業が終われば、「 さようなら 」 である。


この間、どこに 「 サービス料を請求されるようなサービス 」 があるのか。

すべては、客の 「 セルフサービス 」 によって行われているわけで、従業員と接触を持ったのは、到着時、出発時の清算だけである。

お客さんによっては、付近の地理を尋ねたり、夜中に体調を崩して救急車を呼んでもらったり、財布が見当たらないので探してもらうこともあるだろう。

近所の 「 安くて美味しい店 」 を教えてもらったり、穴場のデートスポットを耳打ちしてもらったり、特別な 「 サービス 」 を享受することもある。

そういった 「 便宜をはかってもらったとき 」 に、それ相応のサービスへの謝意を 「 結果に対して 」 支払うのが、本来の 「 サービス料 」 だろう。


先日、そういった不信感をホテルマンに話すと、日本の 「 サービス料 」 というのは、「 料金の一部である 」 という感覚なのだとの答が返ってきた。

同じホテルを利用するにしても、サービスを受けようとする範囲というものは客によって違うし、その日の状況によっても異なるだろう。

また、そこで働く従業員全員がすべて、提供するサービスの質に差がないということも、現実的には考えにくい。

それなのに、誰に対しても、誰が応対しても、一律同じ 「 サービス料 」 を客に課すというのは、対価という尺度で考えると、逆に不公平な話だ。

部屋代は、立地条件や、内装の具合、備品の充実度などによって設定し、サービス料は、提供するサービスの質と量によって決められるべきである。


この 「 一律 」 という概念でいくと、「 使ったもん勝ち 」 なので、我侭な客は無尽蔵にサービスの提供を要求し、なんでもかんでも甘える危険がある。

ホテル側、従業員側は、「 やっても、やらなくても儲けは同じ 」 なのだから、競ってサービスの向上に努めようとする意欲が湧きにくい。

これを 「 チップ制 」 にすれば、些細なことなら、客はなるべく自分で解決しようと心がけるし、あまり無茶な要求は控えるようになる。

従業員側は、客の要求が 「 報酬 」 に直結するので、たえず客の動向には気を配り、なにか困ってそうなら、笑顔で飛んでいくような習慣が身につく。

ホテル側では、従業員に対して 「 チップを稼ぐ機会を提供している 」 ということで、彼らに対して支払う賃金を、最下限に抑えることもできるはずだ。


もちろん、「 チップ 」 など取らなくても、質の良いサービスを心がけている人や、誠意ある対応に努めている人も、たくさんいる。

しかしながら、特に日本人というのは、お店で優れた接客を受けても、素直に感謝の気持ちを述べたり、言葉で伝えようとする人が少ない。

あるいは、不愉快な思いをしても、黙って 「 泣き寝入り 」 する人もいる。

これを 「 チップ 」 という 「 形の見える基準 」 に置き換えることで、顧客の満足度や、自分のサービスに対する価値などが、明確に見えてくる。

旅館では、仲居さんに 「 こころづけ 」 を渡す習慣があるけれども、あれは到着時に渡すものなので、「 結果に対して支払う 」 チップとは性格が違う。


日本国内で 「 チップ制 」 は、習慣的に浸透しにくいかもしれない。

人によっては、「 チップ目当てで働いている 」 という姿勢を、こころよく思わなかったり、違和感、嫌悪感を抱く可能性も否定できないだろう。

しかしながら、商品を売って代金を得るのと同じように、提供したサービスの結果に対して、相応しい対価を得るのは当然のことでもある。

欲得や報酬にこだわらず、「 お客さんの笑顔が一番です 」 みたいな図式は、たしかに清廉ではあるけれども 「 プロの論理 」 ではない。

ホテル、レストラン、タクシー、ゴルフ場など、「 サービスのプロ 」 を養成することを目指している企業なら、導入を検討されてはいかがだろうか。







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2005年01月08日(土) 自分という存在



「 あなたという存在は、あなたへの神からの贈り物である。

  自分をどのような存在にするかは、神へのあなたからの贈り物である 」

                              アンソニー・デラ・ヴィラ

What you are is God's gift to you.
What you make of it is your gift to God.

                          ANTHONY DELLA VILLA



ふと、最近の私の仕事について、ここに書いていないことに気づいた。

少しだけ、そこにも触れておきたいと思う。


現在、私は一般的に 「 コンサルタント 」 と呼ばれる職業に従事していて、一つは企業向けの 「 経営指南 」 みたいなことを、自営で行っている。

それと、もう一つは 「 就職したい人 」 や、「 求人をしたい企業 」 に向けて、相談に乗ったり、お手伝いをする仕事を昨年から始めた。

いわゆる 「 人材ビジネス 」 という職種で、実はかなり前から興味があり、やろうか、どうしようかと悩んでいたところ、知人から誘いがあったのだ。

今すぐ収益に結びつけるのは厳しいが、本業とも交差する部分が多いし、勉強になることも多く、やりがいも感じるので、続けてみようと思っている。

先月の実績でいうと、4人の求職者を、各企業に就職させていただいた。


この仕事では、「 カウンセリング 」 が重要な役割を担っている。

私自身は、まだ 「 カウンセラー 」 の資格を取得していないので、有資格者との共同作業によって、求職者のお世話をする方法をとっている。

法的にも 「 人材紹介業 」 というのは免許制になっており、設備やら、資格を持つスタッフやら、いろいろと整備しなければ始められない。

だから今は、某企業の 「 顧問 」 という形で、この仕事に携わっている。

将来的に 「 やっていけそう 」 な自信がつけば、自分の会社に人や資金を投下して、すべて自前でやるかもしれないが、現在は 「 修行中 」 だ。


就職活動をする人は、まず 「 セルフ・アウェアネス [ Self-Awareness ] 」 から作業を始めなければならない。

これは、簡単にいうと 「 自分の状態に気づくこと 」 である。

自分自身のことだから、わからないはずがないと思われがちだが、意外と、この作業が難しく、人によってはものすごく時間のかかる場合がある。

大抵の人は、認めたくない欠点や、他人からの評価よりも自信を持っている点、あるいは、他人は気にも留めないのに気にし過ぎる劣等感がある。

そういったものを総合した 「 自分の市場価値 」 というものが、一体、どの程度のものなのか、正確に理解している人は皆無に等しい。


もちろん、ここでいう 「 市場価値 」 というのは、希望する職種に就業するという範疇の話で、それが即ち 「 その人の値打ち 」 というものではない。

また、業種、業態によって、当然のことながら、尺度は変わってくる。

いくら能力が高くても、若者に比べれば中高年の就職は難しいし、希望する報酬が高かったりすると、求められる水準も高くなってくるものだ。

ここでは、そういった 「 プライド 」 とか 「 こだわり 」 のようなものを脱ぎ捨て、裸の自分の 「 たな卸し 」 をする作業が必要となる。

簡単なようだが、素直に自分の価値を受け入れるには、勇気が要る。


また、「 自分は何をしたいのか 」 を知ることも重要だ。

経験があるからとか、得意だからというだけで仕事を選んでいたら、あとで後悔する可能性も高く、せっかく勤めても長続きしない場合が多い。

就職難だから、自分の意志ばかりを押し通すのも難しいが、希望する条件や、どうしても譲れない事柄があるなら、先に整理しておいたほうがいい。

企業としても、能力が高いだけで 「 やる気がない 」 ような人を選んでしまうようでは、よい結果に結びつかないので、得策とはいえない。

むしろ、当初は経験不足でも、情熱を持って吸収していくような人材を採用したほうが、双方にとって成果が望めるというものだ。


これらを総合して、自分は 「 何をやってきたのか 」、「 何ができるのか 」、「 何をやろうとしているのか 」 を分析し、その答を見出していく。

そして、その 「 答 」 に相応しい職場を探し、果敢に挑戦する。

こうして見つけた仕事なら、面接官から志望動機を尋ねられても、その場でうろたえたり、「 貴社の将来性が・・・ 」 などと、ありきたりな返事はしない。

きちんと、「 私はこういう人間です。だから、貴社にこのような利益をもたらします 」 と、核心をついた解答が明確に述べられるようになる。

これこそが、「 勝つ面接 」、「 勝つ就職活動 」 の極意ともいえるだろう。


私の仕事は、各求職者をそのように誘導することと、彼らの希望する条件と適正に見合った就職先を探し出し、面接まで 「 お膳立て 」 する作業だ。

人それぞれだが、大抵は難しいし、彼らの人生に大きな影響のある仕事なので責任も重いが、その分、やりがいもあるし、面白い仕事でもある。

希望する職場へ就職ができた人や、理想の人材が獲得できた企業からはとても感謝され、間接的には 「 本業 」 のほうにも相乗効果がある。

おそらく、こんな 「 他人の世話を焼く 」 ような仕事をやるようになったのは、自分が年をとったせいで、10年前ならやらなかっただろうと思う。

それに、自分自身が 「 ある程度の人生経験 」 を積んでいなければ出来ない仕事なので、あまり若すぎても難しいのではないだろうか。


私は、晴れて就職を果たした人たちには、「 これからが本当の勝負だ 」 ということも話している。

彼らを舞台に上げ、活躍する機会を与えるまでの手伝いは出来ても、その先は彼ら自身が、自らの力で切り拓いていかなければならない。

この仕事を通じて、大阪府や、厚生労働省の方々と話す機会も増えた。

今年は、「 ニート [ Not in Employment, Education or Training ] 」 と呼ばれる、無職の若者たちへの就職支援にも、力を貸すように求められている。

そんなわけで、なかなかに忙しく、温泉も、スキーも我慢して、恋する暇さえありゃしないのが、ここ最近の状況なのである。


( 本日のおさらい )

「 “ NEET ” VS “ OLDSOLDIER ” どちらが勝つか、お楽しみ 」






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2005年01月07日(金) 今年、売れそうな商品



「 愛とは、この女性がほかの女性とは違うという幻想である 」

                            H・L・メンケン ( 評論家 )

Love is the delusion that one woman differs from another.

                                H・L・MENCKEN



恋人に 「 愛 」 を打ち明けるためには、それなりの覚悟がいる。

それは 「 勇気 」 だったり、あるいは 「 思い込み 」 だったりもする。


偽りの愛は除いて、普通は 「 真実の愛 」 を告白する場合、二人の人間に対して、なんらかの 「 暗示 」 をかけなければならない。

一人目はもちろん 「 告白する相手 」 であり、自分の愛情がいかに深くて、清廉で慈しみに満ちたものであるか、相手の胸に伝えたいと願う。

もう一人は 「 告白する自分自身 」 で、その気持ちが真実であり、間違っても 「 一時的な気の迷い 」 ではないのだと、自分に言い聞かせようとする。

自然に、なんの計算もなく、素直な気持ちを伝えているつもりでも、あとから振り返ってよく考えてみると、そんな葛藤があったように思う。

たとえ 「 幻想 」 ではなくても、世界中の女性と付き合ったわけでもないのに 「 世界で一番、君が好き 」 というのは、やっぱり 「 思い込み 」 である。


愛されたいと願う気持ちは万国共通だが、そのための努力だとか方法には個人差があるし、ひょっとすると 「 民族性の違い 」 もあるかもしれない。

お隣の韓国では 「 美容整形をしたことのある女性 」 の数が、日本人女性の数倍にも上るという話は有名だ。

その韓国で、愛用者が多いといわれているのが 「 瞳の大きくなるコンタクトレンズ 」 という代物で、徐々に日本でも流行の兆しが現れている。

日本人には 「 三白眼 」 といって、黒目が小さくて白目の部分が広い人や、黒目が上に寄って白目の左右が空いている人が多い。

この 「 瞳の大きくなるコンタクトレンズ 」 をすると、黒目の部分だけ一回り大きく見せる効果があるので、かなり瞳の印象が変わってくる。


黒目が大きくなると、子供のような 「 あどけなさ 」、「 幼さ 」 が生じて、人によっては 「 愛らしく見える 」 のだという。

あるいは、瞳全体の印象が 「 力強く 」 なり、快活な感じになることもある。

黒目といっても、色は 「 黒 」 だけでなく、「 ブルー 」 や 「 ブラウン 」 などと豊富に揃っており、瞳中央の 「 虹彩部分 」 の デザイン も色々ある。

いまのところは、従来の 「 カラーコンタクトレンズ 」 などよりも割高なので、それほど浸透していないが、量産体制に入れば安くもなるだろう。

この 「 瞳の大きくなるコンタクトレンズ 」 が、今年度の 「 売れ筋商品 」 になるような予感がするのだが、どうだろうか。


個人的な好みだろうが、私は 「 カラーコンタクト 」 をした女性には違和感をおぼえるほうなので、どうも苦手である。

以前、付き合っていた女性が着用してきた時も、「 えっ、緑内障 ( 眼圧が高くなる眼の病気 ) ? 」 と驚き、ちょっと心配してしまった。

だいたい、どこからどう見ても日本人なのに、目の玉だけが青かったり、緑だったりしても、違和感まるだしではないだろうか。

本人の好みだし、自分では 「 エキゾチック 」 と思って満足しているのだろうけれど、「 エキゾチック 」 と 「 変 」 なのは同義語でない。

その点、色さえ違和感が無ければ、「 瞳の大きい 」 ぐらいは許せるように思うので、私みたいな偏屈男でも受け入れられるような気がする。


過剰な 「 思い込み 」 には閉口してしまうが、男性も女性も 「 自分に自信を持つ 」 のは良いことで、そのために努力してもよいと思う。

かといって、美しくなるために整形手術までするとなると、金銭的負担ばかりでなく、肉体的な痛みや、えもしれぬ恐怖心を感じる人も多いだろう。

あるいは、人によっては 「 罪悪感 」 を持つ人もいるという。

もっとお手軽に、ちょっと 「 おしゃれ感覚 」 でも楽しめる 「 瞳の大きくなるコンタクトレンズ 」 あたりは、なかなか可愛くてよいのではないか。

ちなみに、「 その業界に宣伝を頼まれた 」 わけではないし、それが売れても私は儲からないので、興味の無い人は買っていただかなくて結構である。


( 本日のおさらい )

「 女性が美しくなるよう努力なさるのは、“ 男性代表 ” として大歓迎です 」






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2005年01月02日(日) 飲酒運転はやめましょう



「 友達は、友達に酔っ払い運転をさせない 」

         ニューヨーク・タイムズに掲載された全米放送協会の広告

Friends don't let friends drive drunk.

        NATIONAL ASSOCIATION OF BROADCASTERS



いやー、飲んだ、飲んだ。

久しぶりに 「 飲んだ 」 と実感できるまで、しっかり飲んできた。


電車や飛行機の大部分が禁煙席なのに、「 禁酒席 」 というものは無い。

世間には 「 酔っ払い 」 が嫌いな人もいるし、酒臭いのが苦手な人にとっては、タバコの煙を避けたい人と同様に、隔離したいという願望もある。

なのに、「 禁煙席 」 はあっても 「 禁酒席 」 は無い。

ヘビースモーカーが他人にからむ確率より、泥酔者がからむ確率のほうが、圧倒的に高いにもかかわらず、公共交通手段は飲酒者に寛容だ。

そのあたりに、昔から矛盾を感じ、なんとも理不尽に思うことが多い。


私自身は、酒も飲むし、タバコもよく吸う。

ただし、他人の飲んだ酒の匂いを嗅がされたり、酔っ払いの醜態を見るのは嫌なので、自分が酒を飲んだ場合は、なるべくタクシーで帰る。

それでも、タクシーの運転手さんに多少の迷惑が掛かることは避けられないが、なるべく不快な思いをさせないようにして、利用させてもらっている。

幸い、「 酒癖が悪い 」 という評価はされたことがないし、あまり悪酔いをすることもないので、深酒をしたことでの失敗談も少ない。

たまに、飲んだあと 「 どうやって帰ったのか、覚えていない 」 などという話をする人もいるが、そこまで正体を失うほど酩酊することもない。


元旦から出かける予定はなかったし、酒を飲むつもりもなかった。

さほど遠方でもない友達と、電話で年賀のやり取りをしているうちに、今日は暇なので、「 ちょいと寄るわ 」 という話になった。

自家用車で出かけたのだが、すっかり 「 正月 」 ということを忘れていた。

普段は宵の口から酒など飲む相手ではなかったが、着いた途端に出来上がっていて、料理上手な奥さんから、肴やら、酒やら、もてなされた。

車の置き場は確保されているが、飲むと運転して帰れなくなる。


冒頭の広告にある通り、本当の友達は 「 飲酒運転 」 など勧めない。

彼も当然、私に 「 飲酒運転 」 なぞさせる気はないが、酒は勧める。

つまり、「 泊まっていくか、タクシーで帰れ 」 という魂胆であり、できれば 「 久しぶりなので朝まで飲もう 」 と誘ってくるのだ。

普段なら断るのだが、どうせ帰ってもやることが無いし、正月ぐらいは深酒しようかという話になり、だらだらと杯を重ねることとなった。

結婚はしているが子供のいない家庭だし、奥さんとも面識があったので、気兼ねなく、おせちやら雑煮やら、ごちそうになりつつ、時間が過ぎていった。


ふと気づくと、気持ちよくて 「 うたた寝 」 をしてしまっていた。

しかも、友人と奥さんまで、同じように眠っているではないか。

友人を起こすと、私が眠ったという記憶がないらしく、目をこすりながら続いて起きだした奥さんも、「 誰が先に寝たのか、覚えていない 」 という。

三人とも、最後のほうは朦朧と、独り言でも呟きながら手酌で飲んでいたようで、なんとも 「 ぼんやりと油断しまくった 」 間抜けな光景である。

正月とはいえど、なんとも気の緩んだ話に、三人とも吹きだして笑いあい、寝覚めにまた、今度は 「 酒抜き 」 で長話に及んだ。


すっかり酒は抜けたし、眠気もなかったが、タクシーで帰ることにした。

大丈夫だと言っても、車で帰れば多少は心配もかけるだろう。

慣れた者にとって、車の運転は簡単なものだが、その安易さには釣り合いが取れないほどの、重い 「 責任 」 を負っていることを忘れてはならない。

もちろん、体調が万全でも、絶対に事故を起こさないという保証はないが、ベストの状態でしか運転しないという理念を、曲げてはならないものだ。

車は翌日にでも、また取りにいけば済む話だ。


自分の人生や、大事な友人を、大切だと思う気持ちがあるならば、つまらぬことで横着をしたり、瑣末な事柄に リスク を背負うべきではない。

もちろん、道交法を含めた法の遵守や、社会道徳にも背くべきでない。

いくら仕事で頑張っても、お金や名声を得たとしても、そんなことでは償えない、取り戻せない失敗が、その先には潜んでいる。

理想的なビジネスマンの姿勢とは、仕事を離れた部分でも 「 できるだけあらゆる面において、模範的でなければならない 」 という側面も持つ。

正月は酒席の多い時期だが、自分の人生は 「 飲酒運転による不始末で、投げ出してもよいようなものではない 」 と、心に命じておくべきだ。


( 本日のおさらい )

「 正月は、“ 飲酒運転による事故 ” が多いので注意しましょう 」






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2005年01月01日(土) 2005年の夜明け



「 すべての問題は、その手の中にあなたへの贈り物を持っている 」

                            リチャード・バック ( 作家 )

Every problem has a gift for you in its hands.

                                RICHARD BACH



新年あけましておめでとうございます。

本年も、よろしくお願い申し上げます。


暖冬が続くかと思いきや、元旦の日本列島は雪が舞う荒天となりそうだ。

昨年は台風や地震など、各地で天災の被害が多い一年だったが、今年は平穏な年となることを祈りたい。

治安の面では、これ以上、思わず目や耳を覆いたくなるような凶悪な事件が増えないように、誰もが他人や自分自身を傷つけないように望みたい。

外交面では、日本の国際貢献を正しく評価され、隣国との関係が穏やかで、さらなる不安や、緊迫が増すことのないように願いたいものだ。

経済は、活気を取り戻し、もう少し全体の水準が余裕のある環境に置かれるよう、国をあげて振興されるよう、改善されることを期待する。


とはいえ、「 他責 」 に期待するのは不安定で、心もとない。

やはり、幸せは自分の手で掴むべきで、他人に与えられるものではない。

厳しい時代にあってこそ、個々の力量が試される機会であり、そこから逃れることはできないし、傍観することも許されない。

こういうときは、逆境を好機と捉える人が 「 運気 」 を得る。

窮地に追い込まれたとき、それらを上手に乗り切る技量と精神力が好機を生み、手応えのある収穫に至ることを、信じて行動することが大事だ。


プラス思考というほどのことでもないが、「 問題 」 の中に 「 贈り物 」 があると考えれば、少しは気も楽になるし、前へ進む勇気もでる。

たとえば、「 不景気で残業が減り、給料も少ない 」 と嘆くより、自由な時間が増えたのだから、英会話を学ぶとか、趣味の時間を持つのも良い。

忙しいときには出来ないことを成し遂げて、自己の成長につなげてみる。

逆に 「 忙しすぎて、寝る暇もない 」 という人は、作業の効率化を図ったり、生産性をあげる トレーニング だと思って、果敢に挑戦してみる。

自分の課題や、試練に対して、それはすべて 「 贈り物 」 だと考える習慣が、逆境に強い自分を磨く意味で、なによりの鍛錬となる。


どれだけ皆が頑張って、どれだけ心を豊かにしても、世界は急速に良くならないもので、今が厳しい時代だとすれば、この状況はしばらく続く。

厳しい時代とは、「 強さ 」 を求められる時代でもある。

優秀とか、有能とかいった形容詞よりも、「 強いビジネスマン 」 であることが、この時代を乗り切る必須要項となるだろう。

そのためには、いつ何時も体調を万全に保つことや、気力を失わないこと、そして、未来への ビジョン をしっかり見据え、己の哲学を貫く姿勢が要る。

問題点の中にある 「 贈り物 」 は、幸せへの扉を開く鍵であり、それを手にしたあと、そこには本当の宝物が待っている。


( 本日のおさらい )

「 ヘビーな時代に、求められるのは “ 強いビジネスマン ” 」






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