Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年02月28日(月) 新たなエネルギー源



「 尻を濡らさずに、鱒を捕ることは不可能である 」

                ミゲール・デ・セルバンテス ( スペインの作家 )

There's no taking trout with dry breeches.

                        MIGUEL.DE.CERVANTES



ようするに、「 成功のためには地道な努力が必要 」 ということ。

歴史に名立たる発明家の多くも、似たような格言を遺している。


お食事中の方には申し訳ないが、家畜の 「 糞 」 から電気をつくれるという画期的な機械が、このたび発明されたそうである。

静岡大工学部の教授が中心となり、糞を完全分解する装置を開発したが、有害物質を発生させないだけでなく、余熱で発電することが可能だという。

650度、150気圧という、超高温、高圧状態の 「 超臨海水 」 を利用して完全分解し、余熱で電気を発生させる。

ダイオキシンなどの有害物質も分解でき、1トンの糞で重油70リットル分の電気をつくり、二酸化炭素の発生量も56キロ削減できる。

牧場では、大量の糞を処分する手段に頭を悩ませているところも多いが、この機械が実用化されれば 「 新たなエネルギー源 」 となる可能性もある。


未来の人類のためにも、限りある資源を無駄に使うことは避けたい。

かといって、ハイテク化された電気製品類を捨て、原始的な生活に戻ろうと呼びかけても、それに従う人は少ないはずだ。

その溝を埋めるのが 「 リサイクル 」 という発想で、使った資源をもう一度、再利用することで 「 資源の節約 」 を図りつつ、文化的な生活を維持する。

既に一部の業界では、「 再生資源の有効活用 」 が進められている。

今回のように、およそ 「 肥料 」 以外の目的では使途が見当たらなかったような 「 糞 」 を、エネルギー源に変えれるというのは画期的である。


科学的な知識に疎いので、具体的にどうすればいいのか説明できないが、子供の頃から考えていた 「 極めてシンプルなリサイクル 」 の発想がある。

それは、「 夏の暑さを、寒い冬に温存できないか 」 というものだ。

いまは 「 寒い、寒い 」 といって ヒーター に石油を入れ、数ヵ月の後には 「 暑い、暑い 」 といって クーラー の電源を入れる。

考えてみれば、ずいぶん無駄な作業である。

たぶん 「 寒さ 」 というのは エネルギー化 できないが、「 暑さ 」 に関しては、なんとか工夫次第で 「 熱源 」 になるのではないかと思ったりする。


なんとも子供じみた発想だが、専門家に話を聞いてみると、残念なことに 「 ほんの小規模なら理論上は可能だが、実現は無理 」 なのだそうである。

詳細は忘れたが、太陽電池を無数に並べるとか、費用がバカ高くつくわりには、投資に対する効果が小さいので 「 無理 」 だったと記憶している。

それじゃ、「 台風の風力を利用して・・・ 」 てなことも話したが、どの場合も一時的な熱量や勢いを長期間備蓄することは、現実問題として難しい。

そんなことを考えるより、寒いときは体を動かすとか、暑いときには木陰で涼むとか、なるべく資源を使わずに快適に過ごす方法を考えるのがよい。

ちなみに、部屋の石油ファンヒーターが壊れ、エアコンを暖房にしてみたがイマイチ暖まらず、「 買い換えるにも中途半端な時期 」 なので悩んでいる。






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2005年02月27日(日) 情報漏洩の危機



「 ビジネスの秘訣は、他の誰も知らないことを知ることである 」

            アリストテル・オナシス ( ギリシャの企業家、海運王 )

The secret of business is to know something that nobody eise knows.

                           ARISTOTLE ONASSIS



10代でアルゼンチンに渡り、タバコの取引で成功し、海運業界に進出。

海運王となり、ケネディ大統領の未亡人ジャクリーンと結婚し話題となった。


未来が読めたなら、どんなビジネスでも成功できる。

タイムマシンが無いのでそれは不可能だが、少なくとも現時点で、誰も知らない 「 有益な情報 」 を武装していれば、圧倒的に有利な立場に立てる。

代表的な例でいうと 「 株 」 の世界がそうで、知れ渡ると株価の上下に影響するような情報を擁する者が売買を行うことは、法で規制されている。

この法律は 「 インサイダー取引規制 」 と呼ばれ、一般の株主が知り得ない情報によって、不公正な取引が行われることを制限するためにある。

それでも、「 事前に情報を入手していたかどうか 」 を明確に証明できない事例もあり、「 限りなく疑わしいが、告発されていない 」 人たちも多い。


企業情報だけでなく、最近では個人情報も 「 お金になる 」 ということから、一部の良からぬ連中が不正に入手し、闇ルートで売買するケースも多い。

出所は、公官庁、銀行、カード会社、プロバイダなど、個人情報が集積されているところならどこでも、可能性として考えられる。

我々のような 「 人材会社 」 も、個人の履歴書、職務経歴書などを預かる関係で、個人情報のデータバンクになっている。

それらは 「 個人情報保護法案 」 によって厳粛に管理されることとなっているが、4月からは、そのガイドラインがさらに厳密化される。

現実問題としては、いくら法律で厳しく制限しても、データを不正に売買する輩は後を絶たず、大きな社会問題として深刻化している。


りそなカードは25日、「 東横イン ( ビジネスホテル ) 」 との提携カード会員439人の個人情報が流出し、不正利用されていたことを発表した。

同社によると、1月中旬からインターネット通販などで、カードの名前や番号などが勝手に使われ、会員の住所とは違うところに送られたとのこと。

ほとんどは 「 不正検知システム 」 で利用を止めたが、パソコンやデジカメなど一部の取引は行われ、被害総額は約100万円とみられる。

庶民の財布を預かる金融機関が、このように個人情報を 「 悪意の者 」 に流出させてしまうのは、まことにけしからん話である。

個人情報保護に関する管理方法やら、彼らのモラルについての考え方を、いま一度、厳しく追及していく必要があるだろう。


口座を開いたり、銀行系のカードに申し込んだりする時に記入した情報を、すべて 「 銀行員 」 が管理していると思い込んでいる人も多い。

実際には、それらを管理する 「 事務センター 」 みたいな建物が銀行以外の場所にあって、ほとんどの作業はそこで行われている。

そこで、利用者からの問い合わせやら各種の手続きに携わっているのは、ほとんどが臨時雇いの派遣社員や、パート、アルバイトの人たちである。

その仕事に従事していた派遣社員の人に聞くと、電話を発信する業務では、一人あたり百人までの名簿を渡され、相手先に電話をかける。

受信業務では、全体のデータがインプットされている端末にアクセスでき、住所、氏名をはじめとする大体の個人情報を覗き見ることが可能だ。


いくら機械化が進み、法律を整備したところで、人間が情報に接する瞬間を皆無にはできず、どこかで誰かの目には曝される。

せいぜい、一度に多人数の情報をアウトプットできないようにするか、CD、FD などの持ち運びを禁止する程度の管理しかできないはずだ。

現時点では、それそらも徹底されていない。

一度に大量の情報が流出する場合は 「 言語道断 」 で、管理の杜撰さと、情報を扱う者としての 「 倫理観の欠如 」 に問題があるとしか言えない。

利用者が身を守るには、「 なるべく必要最小限のカードしかつくらない 」 、「 過去に問題を起こした業者は避ける 」 程度の対策しかないだろう。






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2005年02月26日(土) 人材派遣会社の害悪



「 この人にはこれだけしか能力がないなどと決め付けていては、

  能力は引き出せません 」

                           井深 大 ( ソニー 創設者 )

If you label a person as having only so much ability,
you will never bring out his true potential.

                               MASARU IBUKA



1978年、世界最小の 「 ヘッドフォンステレオ 」 が ソニー から生まれた。

私自身、最初に試聴したときの驚きを、今でもよく覚えている。


今では、「 カセットテープ 」 自体が陳腐化してしまい、もっと小型で、もっと音質に優れ、録音内容が劣化しない代替品に、主役の座を奪われている。

戦時中、官憲の仕事だけに関わっていた井深氏は、仕様書通りのモノだけを作らされ、技術的な進歩を感じず、面白くないと思っていたそうだ。

戦後は、一般消費者向け製品を作るという懸案に取り掛かり、盛田昭夫氏らを含む8人で 「 東京通信研究所 」 を設立し、ソニー の礎を築いた。

彼が最初に目をつけた製品は 「 テープレコーダー 」 で、それは GHQ で初めて見て、音を聞き、何もないところから始めた仕事だった。

そうして完成した 「 国産初のテープレコーダー 」 は、重さが45kgもあったが、次々と改良を重ねて、日本中、そして世界中に行き渡っていった。


冒頭の言葉が示す通り、彼らの足跡を辿ると 「 技術者への深い信頼 」 が無ければ、今日の繁栄も成し得なかったことが明白である。

従業員の能力を見極め、適正に合った仕事を期待する場面も必要だが、人間の持つ 「 無限の創造性 」 を大切にすることも、ときには重要となる。

研究、開発にあたる技術職だけでなく、総合職の分野にあっても、独創的なアイディアで、業界、職能の分野を切り拓いてきた先駆者がいる。

いわゆる 「 仕事を任せる 」 というのはそういうことで、それができる経営者のいる会社と、そうでない会社の違いが、企業の明暗を分けたりもする。

業務を細かく分解し、パッチワーク的に 「 これだけやれれば結構 」 という仕事のみを与え、各人の潜在能力を引き出せない企業には限界がある。


人材派遣会社最大手 「 スタッフサービス 」 が、サービス残業をさせた全国の社員と退職者約4,000人に対し、総額約30億円の支払いを開始した。

大阪労働局が 「 労働基準法違反 ( 割増賃金不払いなど ) 」 の疑いありとして、同社を家宅捜索し、書類送検に及んだことが発端となっている。

関係者によると、就業規則で労働時間が午前九時から午後五時半と定められているにも関わらず、実質的には13時間を越えていたそうである。

土曜、日曜の休日出勤も恒常化し、全国的に長時間労働とサービス残業が行われており、あまりにも酷い実情から、今回の告発に至った模様だ。

過去二年間にさかのぼって未払いを調べた結果、その総額は約30億円にのぼり、人材事業を 「 看板 」 にする資格、倫理観に非難が集中している。


人材を扱うビジネスには、主に正社員を企業へ斡旋する 「 人材紹介業 」 と、パートタイマーを派遣する 「 人材派遣業 」 などがある。

私自身、「 人材紹介業 」 を生業としているのだが、一応、免許、資格としては 「 人材派遣業 」 も行うことは可能になっている。

しかしながら、「 人材派遣制度が国を滅ぼす 」 といった揺るぎない信念を持っているので、今後も、手を染めることはないと思う。

もちろん、労働形態の多様化や、人によっては 「 短時間だけ働きたい 」 という立場も尊重しなければならないが、それならアルバイトで十分である。

組織的にパートタイマーを斡旋し、その 「 上前をはねる 」 ような職質には、どうしても納得できないし、少なくとも私の気質には合わない。


各企業が省力化を推進し、その結果として正社員数を減らし、雇用負担の少ない派遣社員、パートタイマーへの 「 切り替え 」 が進んでいる。

最近の若い子は 「 フリーター 」 が多いと言うが、社会が正社員の雇用を減らし、パート、アルバイトの雇用を増やしたのだから当然の話だ。

働くことに変わりはなく、パート、アルバイトに対する偏見を向けるわけではないが、正社員に比べると、長期的に安定した収入が保証されていない。

将来的な収入が保証されていないのだから、結婚をしようとか、自分たちの子供をつくろうとする意気込みも、当然のことながら低下する傾向にある。

つまり、「 人材派遣 」 という制度には、労働意欲の低下、少子化の増進といった、マイナスの 「 社会的な害悪 」 が副作用として潜んでいるのだ。


それぞれの企業は、人件費のコストダウンがはかれ、一時的に収益が改善されたと喜んでも、社会への 「 マイナスの経済効果 」 は極めて大きい。

社会経済が低迷すると、当然、その 「 しっぺ返し 」 は企業にもはね返ってくるわけで、「 モノが売れない 」 とか、困った問題に発展する。

企業の業績が伸びて、経済は回復しているという報告がなされているわりに、国民の 「 不景気感 」 が改善されていないのも、この実態による。

いくら企業の内容を改善しても、国民の賃金水準を下げたり、福利厚生を低下させていたのでは、消費が伸びるはずもなく、内需は拡大しない。

そういった傾向を推し進めんとする 「 人材派遣業 」 は、まさしく社会悪の象徴であり、下手をするとこの制度が 「 国を滅ぼす 」 危険も大きい。


いまこそ社会は、一企業の私利私欲にばかり囚われず、将来へ向けての社会が発展することを願うならば、「 派遣制度 」 を亡くすべきである。

短時間労働の機会は、企業が労働者を 「 直接、アルバイト雇用する 」 ことで問題ないし、フルタイムの雇用は、原則 「 正社員 」 で扱われるべきだ。

派遣社員として働く知人の中には、能力の高い人もいるが、正社員に比べると、どうしても労働意欲や、組織への参加意識に欠ける部分が否めない。

いくら本人が 「 その気 」 になっても、責任の重大な仕事や、企業の将来に関わる要件を任される機会が少なく、その人の真価が発揮されにくい。

人はロボットと違い、「 クリエイティブな活動 」 の出来ることが最大の長所であり、それを阻害する派遣制度には、断固、反対するものである。






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2005年02月25日(金) 心を聴くという習慣



「 問題を解決するには、コミュニケーションによるほかはない 」

  サー・デビッド・アッテンボロー ( イギリスのナチュラリスト、テレビ作家 )

The only way you're going to solve problems is by communication.

                       SIR.DAVID.ATTENBOROUGH



俳優、映画監督で有名な 「 リチャード・アッテンボロー 」 氏の弟である。

斬新な教育番組を制作した功績を認められて、85年に爵位を叙された。


この言葉通り、日々の生活において「 コミュニケーション 」 が占める役割は大きく、たった一人、無人島にでも住まないかぎり、避けては通れない。

世の中には、自分の思いを上手く相手に伝えられない人や、仮に気持ちが伝わっても、相手に快く理解させるのが苦手な人もいる。

それを叶えるには 「 表現力 」 とか 「 伝達力 」 というものを要するのだが、それらをまとめて 「 コミュニケーション能力 」 と呼ぶ場合もある。

あるいは、もっと簡潔に 「 対人能力 」 とも呼ばれる。

携帯電話やインターネットの普及で、道具としてのコミュニケーションツールは発達したものの、現代人の対人能力が向上したかというと疑問である。


一般的に、「 非言語的な表現 = ノンバーバル・コミュニケーション 」 は、「 言語的な表現 = バーバル・コミュニケーション 」 以上に意味がある。

文字で示しただけでは表れない、相手の話し方、表情、目つき、態度、姿勢などには、多くの 「 心理的メッセージ 」 が含まれている。

電話や、メールのやりとりだけでは伝わらない、相手の 「 心を聴く 」 というところに、実は 「 コミュニケーションの重要性 」 が潜んでいる。

実際に会って話をしても、相手の発信する一連の 「 サイン 」 に気付かないようでは、円滑な人間関係、信頼関係を構築することが難しい。

誰からも教えられなくても、それが最初から出来る人と、いくら注意を促しても出来ない人があり、それは対人能力というより 「 センス 」 の違いだろう。


対人能力を高めたければ、「 話す能力 」 より先に 「 聴く能力 」 について、まずは優先的に磨くことが上達の近道である。

温かく相手を受け入れるような雰囲気で視線を向け、表情を観察しながら 「 あなたに関心をもっていますよ 」 という サイン を送りつつ、話を聴く。

会話の最中は、うなづいたり、適度に相槌をうちながら聴く。

話の内容に合わせて、「 大変だったね 」、「 さぞ辛かったろうね 」、「 それは嬉しかっただろうね 」 などと、共感的な表情、態度、言葉で接する。

相手に賛同したり、認めたり、是認をし、支持をする。


この一連の流れ 「 アイコンタクト → 共感 → 支持 」 が、相手の心を開き、素直に話させるためには効果的であると、心理学では実証されている。

支持的フィードバックや励ましを与えることで、話し相手は 「 I am OK 」 の 「 肯定的自己概念 」 を次第に形成できるようになっていく。

相手は、前向きに問題を捉えたり、解決しようという姿勢が生まれる。

根気のいる作業だけれど、ここまでやると、相手は 「 自分の話をわかってもらえた安心感 」 を持ち、気持ちが落ち着くことが多い。

その結果、こちら側が真剣に聴き、正しく 「 自分を理解してくれた体験 」 を相手に与えることで、こちらに対する相手の信頼感が芽生える。


最初に 「 この体験 」 をしておくと、こちら側から話す内容について、相手が素直に聞き入れてくれる率は、ぐんと高くなる。

相手の意見を否定したり、話の腰を折るのは、その後にしたほうがいい。

商品を販売するときも、異性を口説くときも、出会ってすぐ 「 この体験 」 を持つことが、成功の鍵にもなり、円滑なコミュニケーションの礎ともなる。

話下手な人でも、この 「 心を聴く 」 という作業を積極的に心がけることで、相手と打ち解けたり、仲良くなれる公算が大きい。

ただし、これは 「 出会って間がない 」 相手でなければ成功率は低いので、自分に対する固定概念や先入観の完成する前に、試したほうが望ましい。






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2005年02月24日(木) ナマニエル夫人



「 たいていの男は、わりと簡単に “ 愛してるよ ” と言う。

  本当に難しいのは、“ 僕と結婚してくれるかい ” と言わせること 」

                             イルカ・チェイス ( 女優 )

On the whole, I haven't found men unduly loath say, “ I love you. ”
The real trick is to get them say, “ Will you marry me? ”

                                  ILKA CHASE



このところ堅い話が続いたので、久々に柔らかめの話題にしたい。

本日は、「 大人の恋 」 の話でいこう。


ご存知の方も多いと思うが、「 18禁うさぎ 」 という人気サイトがある。

少々 「 毒気は強い 」 が、巧みな文章で飽きさせない才女が運営されており、一度面白さに “ ハマる ” と、ちょっと病みつきになる。

独創的な日記が最大の見所だが、WEB上にひしめく無数のサイトの中から、彼女が 「 面白い 」 と判断したサイトを紹介し、批評されることも多い。

ここでいう 「 面白い 」 というのは、内容がどうかということもあるが、主には “ 突っ込みどころが多い ” という意味である。

主張に矛盾があったり、理解不可能な倫理観であったり、管理人が 「 変 」 だったり、その基準は千差万別のようである。


かくいう私も、幸か不幸か、名誉か不名誉か、たまに取り上げられる。

また、「 魔法の財布を持つ紳士 」 などという称号も、与えられている。

たぶん、「 いまどき、ずいぶん “ スカした野郎だな ” 」 という感じで評価をされているのではないかなと、自分なりに「 選考理由 」 を推察している。

しかしながら、毎回、指摘される内容は納得のいくもので、まだまだ自分も 「 ケツが青い 」 なぁと、己の至らなさに気づかせてくれることが多い。

そんなわけで、標的にされているにも関わらず、仲良く、交流を深めさせていただいている次第である。


私なんぞは彼女の日記にとっては 「 ほんの箸休め 」 であって、 「 メイン 」 に取り上げておられるのは、だいたい 「 不倫関係のサイト 」 である。

その執拗な攻勢は、しばしば 「 食傷気味 」 になり、多少 うんざり したり、あるいは 「 羨ましいのかな? 」 と感じたりする部分もある。

同じ事を感じている読者は他にもいるようで、彼女と親しくさせていただいていることを日記に書くと、別の方からメールで異論を頂戴することもある。

あまり 「 意固地になる 」 のはどうかと思うが、不倫が世の中のモラルにおいて 「 よくないこと 」 であるのは事実で、間違ったことは書かれていない。

だいたい、「 ユーモア 」 と 「 悪ふざけ 」 は紙一重のところにあり、強烈な面白さを放とうとすれば、多少の批判を受けるのも宿命なのだろう。


そんな日記を書いているせいか、彼女のサイトの 「 掲示板 」 では、標的にされた 「 不倫チーム 」 と 「 日記支持チーム 」 の争いが展開されている。

以前は、あまり関心もなく、そのやりとりを眺めることもなかったのだけど、最近、ある 「 書き込み 」 を見てから、頻繁に覗き見るようになった。

なぜ 「 不倫がよくないのか 」 という意見に対し、不倫さん側も反論をして、お互いに論戦が過熱するなか、ついに不倫さん側の 「 論拠 」 が尽きた。

そこで、不倫さん側の放った応酬が、たった一言 「 ブス 」 である。

不覚にも、深夜の自室で久しぶりに 「 爆笑 」 してしまった。


我々の小さい頃には、「 お前の母ちゃん、デベソ 」 などという シンプル で、古典的な言論攻撃を行う習慣もあったが、最近は 「 死語 」 になっている。

論理的な反論に対し、まさか 「 ブス 」 とか 「 デブ 」 とか 「 死ね 」 みたいな、「 たった二文字の威嚇 」 で切り返すとは、予想もつかなかった。

この勝負、どちらが正しいかはともかく、「 ブス 」 と言った方の勝ちである。

包丁でも、銃でも、核攻撃でも、ネットウイルスでもなく、彼が勇気を奮って用いた最終兵器は、いまどきの小学生でも使わない 「 ブス 」 であった。

負けたチームが、これに対抗するには、「 ハゲ 」 か 「 バカ 」 しかない。


不倫については、私自身 「 どうでもいい 」 程度の感覚しかない。

なぜかというと、過去にお付き合いをした女性の 「 職業欄 」 の中では、「 デパガ 」 が一位で、ずーっと下がって、「 人妻 」 は最下位である。

自分が結婚していたとき ( 短かったが ) には浮気をしなかったし、女癖が悪いわりには、あまり 「 不倫 」 には無縁な生き方をしてきた。

だからといって、「 不倫なんて許せない 」 と言うつもりもない。

結婚生活を長く続けている人の気持ちはわからないし、その立場になってみないと、なにが 「 普通 」 なのかを偉そうに語れるものでもないだろう。


ただ、既婚者の中に 「 女性として魅力を感じる人 」 がいることは認める。

口説きはしなくても、一緒にいて 「 ドキドキ 」 したり、なにやら口実をつけては食事をするとか、お茶を飲むとか、そんな風に誘うこともある。

ときには、「 ええい、このまま誘っちゃえ 」 という衝動にかられることもあるが、大抵の場合、なんらかの 「 ブレーキ 」 で自動的に制御される。

それは、たぶん 「 理性 」 などの類ではなく、過去の経験による学習から、「 イマイチ、つまらない 」 と思うことを知っているからだろう。

いくら 「 愛 」 だの 「 恋 」 だの熱っぽく語ったところで、デートが終わって 「 バイバイ 」 したら、相手は 「 家族 」 の居る家に帰るのである。


こんなことを白状すると、世の 「 不倫進行形の男性 」 を敵に回すかもしれないが、ある種の男性は簡単に 「 愛してるよ 」 ぐらい言うものだ。

心からそう思う相手には言えず、「 言っといたほうがいいかな 」 と思う程度の相手には言えたりする場合もある。

後から、「 “ 愛してるよ ” って、言ったじゃない 」 と言われても、「 うーん、そう言ったほうがいいかなって思ったんだもん 」 としかいえない。

もちろん、冒頭の名言のように、「 結婚してくれる? 」 などと言う台詞まで出る場合は、その愛情が 「 本物 」 である確率も高いだろう。

少なくとも、「 そのときは 」 であるが。


それに、「 不倫をしている人 」 の心情と、「 それをネットで公開する人 」 の心情は、少し違うような気もする。

不倫そのものは 「 恋愛依存症 」 とか 「 自己愛型精神構造 」 とかいった心理面の兆候にも関係深いが、それを公開する心理は、異質なものだ。

どちらかというと、「 武勇伝 」 を語りたいといったケースや、罪悪感を解放したいというケースのほうが、圧倒的に多いのではないだろうか。

私も、「 武勇伝 」 を語りたいタイプなのだが、生々しく具体例を列挙すると、おそらく読者全員が 「 ひいてしまう 」 恐れがあるので、遠慮したい。

これ以上 アクセス が減ると、日記を書く意気込みも萎えてしまう。


美しい人妻さんとの関係は、「 生煮え 」 ぐらいが丁度いい。

実際に深く関わってしまうと、感情や、逢瀬の配慮や、いろんなことを処理するのに 「 かなり複雑な 」 苦労がつきまとう。

これ以上親しくなると 「 なんか、あるかもね 」 ぐらいのところで止めておいたほうが、お互いによろしいのではないだろうか。

この日記の読者層は、「 人妻 」 の方が多いというデータもあるが、そういうわけなので、私は 「 無害 」 であることを付け加えておきたい。

もちろん、「 どうしても 」 と仰る場合は検討の余地もあるので、写真付きの履歴書、職務経歴書を、メールしていただいても問題はない。






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2005年02月23日(水) 心の旅



「 その人を好きか嫌いかを知るのに、一緒に旅をするよりも

  確実な方法はない 」

                            マーク・トウェイン ( 作家 )

There ain't no surer way to find our whether you like people or hate them than to travel together with them.

                                 MARK TWAIN



インフルエンザが大流行中で、病院はどこも大盛況だという。

ただの風邪ではなく重い症状を伴う、厄介な 「 悪い病気 」 である。


当然の話だが、インフルエンザに感染した人が 「 悪い人 」 ではない。

悪いのは 「 病気 」 であり、それに感染した人には何の罪もない。

以前から、私の 「 うつ病嫌い 」 は有名で、この日記上でも何度となく取り上げてきたが、若干、誤解をされている方もいるらしい。

嫌いなのは 「 うつ病 」 であり、「 うつ病患者 」 ではないのだ。

インフルエンザを撲滅したいと願うことが 「 患者への偏見 」 ではないことと同じく、それを 「 うつ病患者への偏見 」 と解釈されるのは間違っている。


カウンセリングの仕事をしていると、「 うつ病 」 で悩む人の相談に乗る機会も多く、当然、それなりの知識は武装している。

面と向かって 「 頑張れ 」 とは言わないし、そういう刺激もしない。

ただ、それは 「 病気への配慮 」 であって、その病気になった人が与えられる 「 権利 」 などではない。

彼らの立場で、すべての他人に要求することなど、できるはずもない。

それを、「 さも当然の権利 」 のごとく押し付けるタイプの人たちは、あまり 「 模範的な病人 」 とはいえず、そう思い込んでいると苦しむことになる。


よほど重傷の人は、専門医を紹介するなり、特別な対処をしている。

そうでない人に人材会社では、我々のような 「 資格を受けたカウンセラー 」 が、本人の自己理解を支援し、就職、転職などの支援をする。

特別に医師から 「 うつ病 」 と判定された人でなくとも、企業を解雇された人や、リストラの不安に怯える人の中には、精神状態の不安定な人も多い。

キャリアに対する不安や葛藤など、「 情緒的問題 」 の解決を支援するためには、まずは 「 心を開かせ、悩みを聞く 」 ことが最初の作業となる。

そんな仕事を、「 落伍者は置き去りにする 」 という世界で働いてきた人間が、こなせるのだろうかという心配もあったが、今のところは順調のようだ。


できるだけ話の腰を折らずに、相手が間違っていると思っても、とりあえず 「 なるほどね 」 と頷きながら、じっくりと真剣に聴く。

それだけは、過去の自分と違うスタンスかもしれないが、それ以外は、以前の自分と同じ姿勢や考え方で、彼らと話をし、解決の糸口を探っている。

基本的に、最低10回は 「 キャリアガイダンス 」 と呼ばれる、学校でいうと授業みたいなことを、マンツーマンで一時間づつ行う。

その後も、就職が決まるまで、一年間の契約期間中は何度でも随時、必要に応じて話し合う機会を持ち、お互いを理解しながら問題を解決していく。

私は、平均よりも早く一線を退いて、セカンドキャリアを 「 引退は、他人のキャリアを支援するスタートでもある 」 という考えから、この仕事を選んだ。


カウンセラーの中には、心の病気を 「 肯定的 」 に扱おうとする人もいる。

どちらが正解だともいえないが、私自身は 「 否定的 」 に捉え、対象となるクライアントと共に、病気をやっつけて、課題を克服しようとしている。

憎むべきは 「 病気 」 であり、それに甘えたり、打ちのめされることなどないように、お互いが 「 戦友 」 として タッグ を組むという考え方だ。

未経験の 「 重傷者 」 には難しいと思うが、すぐにでも就職が可能な状態の人には効果を挙げているし、先輩のカウンセラーからも評価されている。

既にこの方法で、数十名の方を企業に紹介し、正社員の職に就かせた。


彼らと体験する ガイダンス は、一つの 「 旅 」 に似ている。

お互いを深く理解しあい、協力関係を強化しながら、最終の目的地をどこにするのかを決め、そこへ向かう道程を探り、具体的な努力を進めていく。

どの事例も 「 すべて特別 」 なものであり、それぞれの人生に深く関わっていくものだから、一つとして 「 同じ展開 」 などあり得ない。

やりがいはあるし、たいへん興味深く、自分自身の勉強にもなる。

ただ、この仕事だけでは 「 さほど稼げない 」 ので、私のように別に事業をしているとか、年金などの副収入が無い人には、少し厳しい仕事だ。


カウンセラーや精神医にも様々なタイプがあり、ちょっと厄介なのは、以前に別のカウンセラーから、別のカウンセリングを受けている人の場合だ。

それが、優れたカウンセリングならば問題はないが、中には成果の上がらない 「 妙なカウンセリング 」 を受けた人も、数多くいるのが実態だ。

特に 「 うつ病 」 の場合は、「 病気はよくないので、きちんと治しましょう 」 といった前向きな指導を受けた人と、そうではない人が存在する。

あるいは、カウンセラーは間違っていないのだが、本人が曲解して、病気を 「 勲章 」 のようにひけらかし、万能の言い訳に用いる人もいるようだ。

そんな 「 便利な病気 」 などあるはずもなく、完治はせずとも、それを克服し、健康を求める姿勢に導くことこそ、問題解決の第一歩になるだろう。






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2005年02月22日(火) 死刑という抑止力の低下



「 終始一貫して私が自分の漫画の中で描こうとしてきたのは、

  次の大きな主張です “ 生命を大事にしよう! ” 」

                               手塚治虫 ( 漫画家 )

What I have been consistently trying to depict in my cartoons is the big assertion “ Let's respect life ! ”

                               OSAMU TEZUKA



死刑制度の是非については、長年にわたって討議され続けている。

最近の調査では 「 8割以上 」 の国民が、継続を容認しているらしい。


この問題について、私の意見は 「 死刑以上の罰則がないのなら容認するしかない 」 というもので、従って現段階では 「 死刑制度賛成 」 である。

遺族にとっては、「 簡単に殺したぐらいでは怒りがおさまらない 」 といった類の凶悪犯もいるはずで、死刑以上の厳罰が無いのも悲しい話だ。

子供の頃に観た映画 ( たぶん 『 宝島 』 だったと思うが ) の劇中で、囚われた主人公に、海賊の手下が以下のような 「 脅し 」 をかける場面がある。

「 死ぬ奴は運がいいほうだ 」

これはなかなかに恐ろしい名台詞で、「 死ぬよりつらい 」 目に遭わされるのかと思うと、身悶えてしまうところがある。


だいたい、日本国内の自殺者は年間で 「 3万人以上 」 もいる。

そんな時代に、「 命を奪われる 」 ことが、犯罪の抑止力になるだろうか。

近頃の凶悪事件を振り返ると、犯罪者が 「 逃走経路を準備していない 」 例や、「 逃走する意志がない 」 ケースなども多い。

寝屋川市で起きた小学校内での殺人事件も、犯行後、犯人の少年は凶器を所持したままタバコを吸ってその場にとどまり、逃走の意志がなかった。

生命や金品を奪った後、逃げようと画策するでもなく、警察官に取り押さえられるまで動かないという 「 覚悟の犯行 」 が増えているのである。


彼らの目的は、その犯行によって計画的に自分の利益を得ることではなく、むしろ 「 警察に捕まること 」 にあるようにもみえる。

数年前、池田市の小学校で児童を殺傷した犯人の場合は、逮捕後の供述において、死刑になることを承知で凶行に及んだという言動がみられた。

そう考えると、彼らもまた 「 自殺志願者 」 なのである。

精神的なプレッッシャーに押し潰され、落伍者になったような絶望感から 「 死 」 を選ぶプロセスは、自殺企図者と衝動殺人者の共通点でもある。

そんな人間に 「 法の裁きとしての死 」 を与えても、苦役とはいえない。


これだけ 「 死にたがっている愚か者 」 が多い世の中で、極刑が死刑というだけでは、それが 「 犯罪の未然防止策 」 として成立しにくい。

その中には、「 死にたいのだが、自分で ケリ をつける度胸も無い 」 という輩もかなりいて、連中は、たえず 「 楽な死に方 」 を模索している。

こんな人種に対して、「 人を殺せば、楽に殺してあげますよ 」 などと宣伝をすることは、犯罪予防どころか 「 甘い誘い 」 になってしまう危険もある。

先日も、交番に包丁を持った男が現れ、警官に 「 自殺したいので、拳銃を貸してください 」 と頼んだ 「 漫画みたいな奴 」 がいたという。

自殺企図者をはじめとする 「 人格障害者 」 が溢れる現代社会において、「 生命を代償とする 」 ことが秩序の安寧につながるとは考え難いのだ。


どこにも 「 マトモ の基準 」 などあるわけではないが、最低限、自分自身の生命を守ろうとする 「 生存本能 」 を亡くしては、「 マトモ 」 とはいえない。

死刑制度に賛成の人も、反対の人も、この 「 マトモ 」 な感覚をベースとして、量刑の大小を考えているのではないだろうか。

つらい目、しんどい目に遭うぐらいなら、自分の命など 「 屁 」 とも思わずに粗末にする連中に対して、けして死刑制度は 「 万能 」 ではない。

そんな軟弱で情けない連中は、簡単に 「 安楽死 」 を与えるよりも、絶対に自殺できないように監視しながら、天命まで苦役を強いるほうが望ましい。

それでも遺族の無念が、「 死 」 を以って償わせるしかないなら、電気椅子や絞首刑などという生易しい方法より、更に痛みのある死を与えるべきだ。


ネットでは、犯罪や、戦争や、天災や、さまざまな 「 身の危険 」 に対して、いろんな人がいろんな意見を述べている。

しかしながら、「 生命 」 を語る上で、自分の生命をないがしろにしている人間の主張など 「 なんの説得力も無い 」 わけで、ただ、虚しいだけだ。

自分の命なんだから 「 自分の裁量で好きに扱える 」 という意見もあるが、私には、その発想が正しいとは思えない。

死刑の是非を語る以前に、「 死 」 とはなにか、「 生 」 とはなにかといった問題について、もう少し共通の意識、共通言語を浸透させる必要がある。

いづれにせよ、「 死刑など恐れない、むしろ生き続けることを恐れる 」 などといった連中が増えていることは、現代社会の悪しき病巣といえるだろう。






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2005年02月21日(月) おかげさまで三周年



「 幸せとは、健康で記憶力が悪いこと 」

                       イングリッド・バーグマン ( 女優 )

Happiness is good health and a bad memory.

                             INGRID BERGMAN



清楚な美貌で一世を風靡した、スウェーデン生まれの国際派女優である。

代表作に 『 カサブランカ 』、『 ガス燈 』、『 追想 』 などがある。


記憶力と幸せの関係については、 ニーチェ も以下の名言を遺している。

「 記憶力が悪いことの利点は、同じよいものを何度も初めてのものとして楽しむことができるということである 」

The advantage of a bad memory is that one enjoys several times the same good things for the first time.

前に観た映画や、お気に入りの小説を繰り返し楽しむのにも、細部に至るまで完璧に覚えているより、ちょっとぐらい忘れているほうが面白い。

そういった純粋な 「 記憶忘れ 」 もあれば、中には一部の政治家みたいに 「 都合の悪いことは意図的に忘れる 」 ような御仁もいるだろう。


この日記を書き始めたのは、「 2002年2月22日 」 である。

つまり、「 丸三年 」 が経過したわけで、最初はすぐに飽きて辞めてしまうのだろうと思っていたけれど、ずいぶん長く続けることができた。

この三年間での大きな変化は、会社を辞め、事業を興したことだろう。

お付き合いをした女性も何人か変わったが、指折り数えてもあまり意味が無いし、一部は 「 政治家的に 」 忘れたい記憶もあったりする。

でも、それで仕事のスタイルが変わったわけでもなく、女性との向き合い方が変わったわけでもないので、進歩も後退もない 「 昔のまま 」 である。


日記の文体や内容については、それを上達とみるのか、退化とみるのかは別として、少しづつ変わってきているように思う。

少し前に、「 昔の日記の方がよかった 」 という厳しいご批判も頂戴したが、なんとなく、その意味はわかる気がする。

たまに ( よっぽど暇なとき ) 過去の日記を読み返したりすると、たしかに 「 そつがない 」 というか 「 害がない 」 ような文章が多い。

同時に、なんとなく 「 優等生ぽい 」 書き方に偏向していたり、誰にともなく 「 気を遣いすぎる 」 ような空々しい文章も目に付く。

おそらく、初期の頃は掲示板など、日記以外のコンテンツも充実させていたし、頑張って更新していたので 「 閲覧者の視線 」 を気にしていたのだろう。


私的な日記でも、ノートにこっそり書くのと、WEBで公開するものは違う。

どちらも自己満足の領域は脱しないが、後者は 「 他人を巻き込んだ自己満足 」 であり、それゆえに制約があったり、周囲を気にすることも必定だ。

今よりアクセス数が多く、また、それを増やそうと努力していた当時の日記は、最近のものよりも 「 その兆候 」 が強かったのではないかと思う。

過去のものほど内容が 「 理想論 」 に近くて、ちょいと 「 奇麗事 」 のような感じがし、最近のものは 「 現実論 」 に則した内容が多いようだ。

比較的に、以前の方が 「 緻密な内容 」 のものが多いのは、日記にかける時間の大小にも関係しており、忙しくなって雑になった点は否めない。


最近は殆ど 「 思いつき 」 で書いているが、以前は事前に書く内容を検討し、場合によっては 「 資料 」 まで準備し、けっこう真剣に書いていた。

毎回、必ず一、二回は読み返し、よほど気に入らなければ全文を削除し、書き直したことさえあったほどだ。

だから、おかしな話だが、自分の書いた日記にも関わらず、過去の日記を読んで 「 へえ、なるほどね 」 などと感心したりするものもあったりする。

論文じゃないんだから、最近の 「 思いつき 」 で書いたもののほうが、日記らしいような気もする。

ひょっとすると、過去の日記と最近のを比べて 「 違和感 」 や 「 矛盾 」 を感じる人がいるかもしれないが、思考や感情はたいして変わらないはずだ。


人生においては、予測のつく出来事と、予想外の出来事が起きるものだ。

偶然におきる予期せぬ出来事からも、自分のキャリアは形成され開発されるものであり、それを大いに活用し、偶然を必然化する努力が求められる。

物事を計画的に推し進めることも大事だが、不測の事態や、変化する状況への柔軟な対応力がなくては、長丁場を乗り切ることが難しい。

だから、「 日記に書いていることが以前と違う 」 点があるとすれば、新しい情報によって考え方が変わったり、意見を変えた部分もあるのだろう。

それを 「 素直 」 と評価してくださるか、「 優柔不断 」 と非難されるのかは読者によって異なるだろうが、できれば良い風に捉えてもらいたい。


三年も続けると思わなかったので、この先のことはあまり考えていない。

毎夜、「 日記に書きたいこと 」 は山のようにあって ネタ には困らないのだが、「 何が相応しいのか 」 という部分で悩むことは多い。

これから忙しくなりそうなので、ちょっと更新が滞ることがあるかもしれいが、読んでくれる人もいるし、書きたいこともあるので、続けたいと思う。

INDEX の上部コメント欄に、「 百本に一本の割合で当たりがあります 」 と書いているのには理由がある。

個人的感想だが、「 百本に一本 」 ぐらいの割合で、「 今夜の日記は満足できる出来栄え 」 と思えるものがあり、一応、その水準を目指している。






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2005年02月20日(日) 優秀な常識人であれ



「 若者よ、私の成功の秘訣は、若くして自分は神ではないと悟ったことだ 」

          オリバー・ウェンデル・ホームズ ( アメリカの医者、作家 )

Young man, the secret of my success is that at an early age
I discovered I was not God.

                      OLIVER WENDELL HOLMES



何事にも 「 自信たっぷり 」 で、悠然と構えている人がいる。

かと思えば、何事にも 「 弱気 」 で、常に オドオド している人もいる。


一般論として、「 自信を持つこと 」 は良しとされるが、「 過信 」 にまで及ぶと周囲に疎んじられ、あまり好ましい印象を持たれ難い。

では、「 自信 」 と 「 過信 」 では、どこが違うのか。

一つには、「 相応の謙虚さ 」 の有無という点にあるだろう。

物事を人並み以上にやり遂げる熱意やら、その根拠となる資質を、過去の学習や鍛錬、実績などから、自分と他人に示せれば、それは自信となる。

ただし、そこに 「 驕り高ぶり 」 が感じられたり、「 未知の不安 」 というものに対する畏れが無ければ、「 謙虚さが足りない 」 と周囲は判断しやすい。


ライブドアとフジテレビの騒動は、どうやら長期戦になりそうな気配で、現在のところ決着はついていない。

世論も二分しており、堀江氏の挑戦を 「 快挙 」 とみる人もいれば、単なる 「 思い上がり 」 と評価する人もいるようだ。

いわゆる 「 小 」 が 「 大 」 に挑むためには奇策も必要なのだが、崇高な目的を掲げているわりには、少し 「 やり方 」 がどうかと思う部分もある。

企業買収には 「 闇 」 の側面もあり、けして 「 奇麗事 」 にこだわる必要もないが、「 乗っ取り屋 」 と同じ手口で業界の革命など起こせるのだろうか。

彼の弁によると、「 業界に新風を巻き起こしたい 」 とのことだが、そのための手段が 「 使い古された老獪な手口 」 というのでは、どうも共感し難い。


関係者や従業員、あるいは多くの視聴者にとって重要なことは、この騒動で 「 どちらが勝つか 」 という点での興味ではない。

もし堀江氏が勝利した場合に、「 今後、どのように変わるか 」 ということのほうが大事で、それが公益に寄与するものかどうかこそ、肝心なところだ。

その理解を広く浸透させ、支持を集めるためには、主旨を説得する必要があるし、リーダーの人柄や個性についても、相応の評価が求められる。

水面下で秘密裏に進行していたならともかく、これだけ世間の関心を集めてしまったのだから、その部分を 「 おざなり 」 にすることはできない。

そういう観点でみると、どうも堀江氏には 「 誠実さを他人に示そう 」 という意識が希薄な印象もあって、巨大メディアの首領としての信頼感に欠ける。


もちろん、民間企業のトップの座は、国会議員のように選挙で決めるわけではなく、資力、経済力で勝ちとるものである。

だから、国民の 「 人気取り 」 に奔走する必要も無い。

彼自身が語るところによる 「 お金で買えないモノはない 」 という哲学で突き進んでも、すべてが間違いというわけではない。

ただし、「 高級な犬をペットに飼ったところで、尻尾をふるとはかぎらない 」 のも事実で、人心を掌握する技術というのは、別のところにもある。

優秀な経営者になりたければ、同時に 「 尊敬に値する人物 」 を目指すことも大事で、単にマネー・ファンドに長けているだけでは限界がある。


大多数の尊敬を集め、一目置かれる存在になるためには、当たり前のことが当たり前にできる 「 優秀な常識人 」 であることが、必須条件となる。

特殊な技能や裁量は、むしろ オマケ 的な 「 付加価値 」 に過ぎない。

優秀な常識人として認められる要素の中には 「 謙虚さ 」 も含まれており、消極的に構える必要はないが、「 不可知の畏れ 」 に備える姿勢も要る。

堀江氏の弱点は、そのあたりにあるのではなかろうか。

それに、「 お金で買えないものはない 」 というが、たとえば 「 お金に興味のない人の関心 」 などは買えないわけで、ちょっと矛盾した話である。






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2005年02月18日(金) 若き管理職の方のお悩み



「 人をリードするのに、ひっぱたいてはならない。

  それは暴行であり、リーダーシップではない 」

       ドワイト・D・アイゼンハワー ( アメリカ合衆国第34代大統領 )

You do not lead by hitting people over the head - that's assault,
not leadership.

                        DWIGHT.D.EISENHOWER



仕事の出来ない部下や、同僚に対して、イライラする気持ちはわかる。

それは、しだいに 「 焦り 」 から 「 怒り 」 に変わることも多い。


いくら上司だからといって、部下のすべてを監督できるわけはないし、指導できる範囲や責任に関しても、限界というものがある。

若い人の気配りやマナーに関していうと、「 親の躾 」 に拠る部分も大きく、会社で学ぶような事柄は、むしろ少ないのかもしれない。

とはいえ、部下の失敗や、失態について、「 それは彼自身に問題がある 」 などと、レポートするわけにもいかない。

20代後半から30代前半ぐらいの 「 若い管理職 」 には、このような部下に対する責任や、リーダーシップの在り方についての悩みが多い。

振り返れば私自身も、その頃が一番、仕事が気になって眠れなかったり、情熱は溢れているのだけれど 「 空回り 」 することが多かった時期である。


結論からいうと、「 できない人間に、やらせた方が悪い 」 のである。

部署の使命は、すべて 「 所属長の責任 」 であり、各人の役割分担を決める裁量は、原則として所属長に委ねられるべきものである。

極端な例を挙げるなら、たとえば 「 100人分の仕事を、100人の部署に任せた 」 のだが、所属長以外はまるで 「 できなかった 」 としよう。

この場合、「 所属長1人で100人分の仕事をする 」 でも構わないし、全員を一人前に教育する方法をとっても構わない。

期限内に、目標が達成できれば、プロセスは 「 一通り 」 でなくてよい。


仕事というものは、本来 「 やるべき人がやる 」 ことが正しいが、この場合の 「 やるべき人 」 というのは、部下のことではなく、責任者のことだ。

自分と部下を同格に置いて、心のどこかで 「 俺は出来ているのに、どうしてコイツはできないんだ 」 などと舌打ちしているから、焦り、苛立つのである。

自分は 「 やらねばならない人間 」 で、部下は 「 やらなくてもよい存在 」 というぐらいにしか期待しなければ、腹をたてることなどない。

そのぐらいに考えていれば、たとえ僅かでも貢献してくれたら、同じ成果でも批判でなく、感謝するようになるものだ。

よほどの 「 お馬鹿 」 でないかぎり、部下の方も仕事の出来栄えは自覚しているもので、それを貶されるよりは、誉められたほうが、気分よく動く。


職位を与えられ、部下を従えたときに心がけることは、「 リーダー 」 になることであり、その心意気がない者は、引き受けるべきではない。

また、それは、人として 「 偉くなった 」 わけではなく、自分の中にある特別な才能を認められたことと理解することが正しい。

自分が偉いのではなく、自分には 「 仕事を成功に導く 」 使命が与えられたのであり、部下は 「 家来 」 でもなければ 「 駒 」 でもない。

ことさらに部下へ関心を示さず、自分が最も正しいと思う方法で仕事をすればよいだけで、それが本当に良策なら、部下も、成果も、後からついてくる。

それでも部下が動かないなら、リーダーとして影響力を与えられない不甲斐なさか、部下の能力が極端に不足しているかで、いずれにせよ決着はつく。


板前の世界に代表されるような 「 徒弟制度 」 では、仕事のできない人間に対して 「 それでも仕事を与える 」 ようなことはない。

それが、けして最良の方法というわけでもないが、長所もある。

まだ仕事を覚えていないので 「 皿洗い 」 しかさせてもらえない者は、先輩が包丁を操ったり、調理に腕を振るう姿をみて 「 仕事に憧れ 」 を抱く。

そして、機会が与えられたときには、最善の努力をして頑張るのだ。

出来の悪い会社員は、仕事もできないうちに 「 参加する機会 」 を簡単に与えられた為に、半人前でも 「 それなりの価値 」 を自分につけてしまう。


部下の仕事振りに 「 うんざり 」 して、ため息をついている管理職の人たちは、この部分を大いに反省すべきかもしれない。

出来ない人には、なにも 「 与えてはいけない 」 のである。

山本五十六大将の名言に、「 やってみて、やらせてみて、誉めてやらねば人は動かず 」 というものもあるが、それは 「 そこそこの部下 」 の話だ。

まるで出来ない人には仕事など与えず、「 どうすれば仕事に参加させてもらえるか 」 という部分から、自分で考えさせることが重要だと思う。

もちろん、その間は、部下の戦力を失うことにもなるが、レベルの低い者の手を借りるよりも、仕事のクオリティを維持するほうが優先されるべきだ。


10人の営業マンがいて、売上の一位から十位までが存在する。

この場合に、一位の成績をどんどん上げる方法と、下位の成績を少しでも押し上げようと指導する方法がある。

統計的に、これは前者の方法が 「 圧倒的に 」 効果が高い。

より優れた業績を伸ばす者の存在が、他者に競争意識や、自分のレベルに満足させない効果を生み、結果として全体の底上げにつながる。

もちろん、落ちこぼれた者を救済することも無駄ではないが、動機付けや、助言は与えても、手を貸すことは本人の為にも、全体の為にもならない。


リーダーの使命は、まず、目標を達成することにある。

自力で出来ればそれでよいし、どうしても部下の手を借りねば出来ないのなら、それは 「 自分の落ち度 」 と考え、協力を得る必要がある。

あえて部下の育成ということに主眼を置くのならば、それは彼らに 「 自分で考え、自分で行動させる 」 力量を身に付けさせることだろう。

ただ、30代前半あたりまでに、そこまで 「 達観 」 できる人は少なく、私の場合も、常に怒鳴り散らし、机に 「 蹴り 」 を入れていた記憶がある。

その直後、指導力のある上司に恵まれて、「 リーダーシップとは何か 」 を学ぶ機会に恵まれたからこそ考えが変わったわけで、自己発想ではない。






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2005年02月17日(木) 責任能力の無い者に、自由を与える矛盾



「 東海岸の自由の女神は、西海岸の責任の女神によって

  補完されるべきである 」

             ヴィクター・フランクル ( オーストリアの精神分析医 )

I recommend that the Statue of Liberty on the East Coast should be supplemented by the Statue of Responsibility on the West Coast.

                             VICTOR.E.FRANKL



彼は第二次大戦中、ナチの強制収容所に入れられ、生き残った人である。

その体験を綴った 「 夜と霧 」 の著者として、世界的に知られている。


その当時、既に医師だった彼は、悪夢のような厳しい収容所生活の中で、次々と人が耐え切れずに死んでいく様を目撃した。

不思議なことに、体が頑強な連中が次々と死んでいく一方、華奢な体つきをした人たちが生き残っている。

やがて彼は、「 生き残る確率の高い人 」 について、ある法則を発見する。

それは、「 収容所の中の生活であっても、そこに何らかの意味を創造した人たちである 」 というもので、実際、その通りであろう。

この本は、世界中で数百万部も売れている 「 超ベストセラー 」 となった。


有名な自由の女神に対比する 「 責任の女神 」 という表現は、この本の中に登場するのだが、冒頭の文章の前に、以下の説明が補足されている。

自由は責任という観点から生きなければ、単なるわがままに堕落する危険がある = Freedom is in danger of degenerating into mere arbitrariness unless it is lived in terms of responsibleness.

いまから数十年前、戦争の最中、地獄のような収容所にあっても、人間が心に感じることは、今と、さほど変わらないことに気がつく。

将来に絶望し、社会にケチばかりつけて自殺を図る者は 「 強制収容所 」 でなく、まるで極楽のような 「 エアコンの完備した部屋 」 にだっている。

生き残れるかどうかは、「 与えられた環境が良いか、悪いか 」 ではなくて、そこに意味を求め、生き抜こうとする人の意志の強さに大きく影響される。


また、「 自由が先か、責任が先か 」 なんて論議も、現代と変わらない。

マスコミや、様々な団体が、他人には 「 その両方を要求 」 し、他者側から求められた場合は、どちらにも応じない。

出所した精神異常者が再犯を起こすと、「 野放しとは、無責任な話だ 」 と騒ぎ出し、それでは拘束しようとなると 「 自由はどうした 」 と騒ぎ出す。

ずっとこんな調子で、最初から反対意見を準備したうえで、賛意を求めているようなケースや、天邪鬼な話で大衆を欺き、翻弄している。

誰のための自由か、何のための責任かすら、殆ど明確でない。


寝屋川市の事件以後、わずか二日の間に、あちこちの小学校付近に不審人物が出没し、駆けつけた警察官に 「 御用 」 となっている。

前回の日記で、彼らをある意味 「 隔離 」 する意見を述べたが、必ずしも、そうしなければいけないわけではない。

今まで通り、社会に絶望して病気になったり、死のうとしたり、適当な道連れを探している連中に、すべての 「 自由 」 を与えるのも一つの方策だ。

彼らに対し、学校の近くをうろついたり、反社会的な意見を発信したりする権利を与え、共に同じ社会で暮らしていくことも悪くはない。

ただし、自由な彼らに 「 責任能力 」 など無く、その状態が続けば、やはり今まで通り、「 まっとうな市民が犠牲になる 」 ことは覚悟すべきだろう。






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2005年02月16日(水) 小学校を異常者から守る方法



「 解決策がわからないのではない。 問題がわかっていないのだ 」

         G.K.チェスタートン ( イギリスの評論家、小説家、詩人 )

It isn't that they can't see the solution.
It is that they can't see the problem.

                             G.K.CHESTERTON



どうすれば、小学校を 「 絶対に安全な場所 」 に出来るのか。

寝屋川の事件を経て、全国の学校関係者は頭を痛めているだろう。


正常な大人は、小学校へ 「 包丁を携え、誰かを刺しに 」 は行かない。

だから、「 正門に鍵が掛かっていれば入らないだろう 」 とか、監視カメラが整備されているから 「 躊躇するだろう 」 という推論は、あまり意味が無い。

これらの 「 だろう 」 は、守る側の期待通りに犯人が行動するという予測が前提になっており、それは 「 正常な大人 」 を対象に考えられている。

金品が目当ての場合や、犯行後、正体を明かさずに逃走したい犯人には有効かもしれないが、いま問題になっているのは、そんな犯人像ではない。

後先のことなど考えず、「 とにかく誰かを刺したい 」 と衝動的に飛び込んでくる 「 狂気 」 から、生徒や職員を守るにはどうすればいいのか。


先に結論を述べると、小学校の建物を 「 絶対的に安全な場所 」 に改修することは、現実問題として 「 不可能 」 である。

もちろん、費用や、人的投資を無尽蔵に行えば可能ではあるが、すべての公立小学校に対して実施できるわけがない。

つまり、これからも各小学校では 「 安全対策 」 を強化していくのだろうが、外敵の侵入を完璧に阻止できる公算は少ない。

それに、たとえ建物や、その警備に大金を投じて 「 要塞 」 のような小学校を建立したところで、子供たちの安全が保障されるとはかぎらない。

建物を要塞化し、侵入を絶ったところで、門から一歩出たところを待ち伏せされ 「 ブスリ 」 とやられれば、ほとんど同じことである。


最近の、子供を狙った事件には、大抵 「 異常者の影 」 が潜む。

昔のように、子供を誘拐して身代金を親から奪おうとか、そういった営利を目的とする事件は、どちらかというと少ないようだ。

むしろ、それよりも 「 営利が目的ではない事件 」 の方が多い。

つまり、金品への関心からではなく、性的、暴力的な虐待を加えたり、あるいは、人生に絶望した犯人に 「 道連れ 」 にされてしまうような事件だ。

今週、寝屋川市の小学校に侵入し、職員を殺害した少年も、曖昧な供述を語り始めているらしいが、精神が 「 正常 」 とは判断し難い。


池田市の児童殺傷事件と、今回の事件は 「 小学校内で事件が発生 」 したという ショッキング な共通点があり、どうしても比較される。

でも重要なことは、それが 「 学校の敷地内か、外か 」 といった問題よりも、生徒や職員の安全が保てるかという部分であることを、忘れてはならない。

なかには 「 空港のように、金属探知ゲートを取り付けては? 」 などという荒唐無稽なアイディアを語る先生もいたが、本当にそれで安全なのか。

もし、そのようなゲートを実際に設けるのなら、学校の正門ではなく、学校を囲む 「 登下校エリアの境界線 」 に配備しなければ意味が無い。

不審者が、校内ではなく 「 登下校圏内 」 に侵入した時点で警報を発令し、警察と連動した 「 早期警戒システム 」 を作動させねば間に合わない。


ここからの話は、少し 「 差別 」 や 「 偏見 」 と受け取られるかもしれないが、「 現実問題として、避けては通れない 」 と感じる事柄である。

私自身も カウンセラー として、中には、心の問題を抱える人たちの相談に乗ったり、精神面でのサポートもしているが、大半は 「 異常者 」 ではない。

しかしながら、差別を撤廃し、仲間に入れてあげたくても、どうしても社会に順応できなかったり、他人を傷つけてしまう 「 異常者 」 も世間にはいる。

現在、「 性犯罪者の住所を公開する必要性 」 が討論されているけれども、では、「 前科の無い異常者 」 については、どう対処していくのか。

個人の病歴は 「 守秘義務 」 によって保護され、それを言及すると差別に直結するのも事実だが、かといって 「 放置 」 することが ベスト なのか。


まだ人を刺してもいないし、幼児に下半身を押し付けてもいないが、そのような衝動を露にしたり、犯行を予告するような行動をする者がいたとする。

彼らの行動を制限することには、「 人権上の問題 」 がある。

しかし、自分の子供が通う登下校圏内に出没し、「 犯罪 」 として取り締まるほどではない 「 奇怪な言動 」 を繰り返した場合、親御さんは心配だろう。

たぶん、人権団体や、各種団体の猛反対に遭って 「 法制化は不可能 」 だと思うが、「 異常者を識別し、児童に近づけない機能 」 を望む声もある。

相手が誰であっても、個人の人権は尊重されるべきだし、かといって、現実的な危険から児童を守りたいし、なかなか難しい問題である。


ある意味、現在の社会は、「 刑務所、病院 」 といった厚生施設と、それら以外の一般社会に 「 二分化 」 されていて、その中間が無い。

一般社会の中でも 「 学校のある地域 」 というものに、別の限定を加える。

たとえば、「 この人は、刑務所にも、病院にも入らないで良いけれど、このエリアにだけは入らないように 」 という仕組みが、あっても良い気がする。

アパルトヘイトみたいに、住宅地を差別的に色分けするのではなく、各地区の小学校から半径○km以内といった具合に、立入禁止枠をつくるのだ。

そのぐらいしないと、「 少子化が進行する速度 」 と、「 異常者が増殖する速度 」 のバランスからみて、今に子供を見かけなくなるかもしれない。






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2005年02月15日(火) 過去にこだわるという愚考



「 あなたが育った家庭は、これからあなたが持つ家庭ほど大切ではない 」

           リング・ラードナー ( アメリカのジャーナリスト、小説家 )

The family you come from isn't as important as the family you're going to have.

                                RING LARDNER



毎日、日記の冒頭で 「 著名人の名言 」 をご紹介している。

その中でも、上記の一文は 「 多くの人に覚えてもらいたい 」 秀作と思う。


ワイドショーや報道番組では、なにか凶悪な事件が起きた後に、犯人像の心理分析を行うことが慣例化している。

それは、さも 「 重要な意義がある 」 ように語られるが、どうなのだろうか。

犯人が判明すると、幼い頃の家庭環境などが毎回のように取りざたされ、凶暴な性格や、反社会的な行動の原点を、そこに求めようとする。

たしかに、そこに何らかの 「 因果関係 」 がある確率も高い。

しかしながら、同じような境遇で育っても、社会に順応し、貢献できる人物に成長する人もいて、必ずしも 「 それだけが原因 」 とは言い切れない。


最近は、程度の大小はともかく、「 精神を病んでいる人 」 が多い。

彼らの一部は、「 カウンセリング慣れ 」 したことで、自らが患者であるという実情を忘れ、自分自身を 「 精神医学をかじった人間 」 と思い込んでいる。

それで、他人や、あるいは自分自身の 「 幼少時の境遇 」 に思いを馳せ、生半可な心理分析を始める人もいる。

それ自体に大きな問題はないのだが、自分を正当化するために、両親や、自分とは別の部分に 「 失敗の原因 」 を求め、言い訳にすることも多い。

そんな人に対し、冒頭の名言にあるような 「 過去よりも未来が大事だ 」 という発想を伝えてあげることが、なにより重要なのではないだろうか。


大学を卒業後、「 カウンセラー 」 という資格を得る過程では、数十年ぶりに心理学を学び、現在、別の資格のためにより専門的な学習を続けている。

カウンセラーの種類や、それぞれの範疇は多岐にわたり、無資格で出来るものもあれば、なかには 「 医者と同等の知識 」 が必要なものもある。

場合によっては、カウンセリングの途中で 「 専門医の協力を仰ぐ 」 必要の生じるケースもあり、「 人の相談を受ける仕事 」 も、なかなか難しい。

精神科医ではない 「 キャリア・カウンセラー 」 や、「 産業カウンセラー 」 でもこんな調子なのだから、専門医の苦労はたいへんなものである。

逆の見方をすれば、精神科に通っていない人でも、転職や、失業といった環境の変化で、精神に変調をきたしている人が増えているのも実情だろう。


大阪の寝屋川市にある小学校では、同校の卒業生である17歳の少年が侵入し、教諭3人を包丁で襲い、1人を殺傷するという事件が起きた。

現在のところ、黙秘を続けているので動機などは不明である。

明日以降、別の少年事件と同様に、今回も彼の生い立ちや、家庭環境などにスポットを当て、特集する報道が組まれるであろう。

問題は、同じような境遇を過ごしたか、あるいは本人の誤解、曲解により、自分は 「 不幸な幼少期を過ごした 」 と感じている人への影響である。

社会は “ それ ” を 「 犯行へのエクスキューズ 」 にしてはならず、マスコミには、「 だから、仕方がない 」 という結論に、及んでもらいたくないのだ。


大抵の悪い出来事には 「 問題 」 があって、「 結果 」 がある。

それは事実だけれど、「 生い立ちや、幼少期の環境は人格形成に影響がある 」 と認めてしまうことが、同じ苦悩を抱える人々を救うとはかぎらない。

むしろ、「 そんなことは何の言い訳にもならない 」 とか、「 すべては本人の責任である 」 と断じるほうが、新たな犯罪の抑止力にもなるはずである。

マスコミや公共団体は、片方で 「 生い立ちによる就職差別をなくそう 」 などと謳いながら、一方では “ それ ” にこだわった報道をしたりする。

精神の病んだ人たちを 「 事件の主役 」 にしてしまう背景には、このような 「 特別扱い 」 や、「 当事者の過去 」 への、マスコミの執拗な追求もある。






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2005年02月14日(月) 神経過敏な人々による パニック の誘発



「 この世は、考える者にとっては喜劇であり、

  感じる者にとっては悲劇である 」

                  ホラス・ウォルポール ( イギリスの著述家 )

This world is a comedy to those that think; a tragedy to those that feel.

                             HORACE WALPOLE



どうしても、何があっても、そんなに 「 牛丼 」 が食べたいのだろうか。

一日限定の販売には、さまざまな悲喜劇があった模様だ。


大手牛丼チェーン 「 吉野家 」 が牛丼の販売を中止してから、およそ一年が過ぎた11日、「 一日限定 」 の販売が再開された。

各店舗には長蛇の列ができ、軒並み好評だったようだ。

私は、家で牛丼をつくって食べるのは好きだが、あの 「 汁気の多い牛丼 」 が好きじゃないので、ほとんど利用する機会はなかった。

したがって、今回も食べに行くことはなかった。

それでも、全国には 「 吉野家の牛丼の愛好者 」 が数多いと理解しており、今回の盛況ぶりは 「 根強い支持 」 を示している証拠と改めて認識した。


一部の店舗では、ちょっとしたトラブルや、事故があったらしい。

限定販売のため、遅い時刻に入店したお客さんへの対応が間に合わず、「 売り切れ 」 という説明を不服とし、従業員に暴行をはたらく例もあった。

開店前に、店舗の横にある駐車場へ車を停めようとしたお客さんが、焦ってアクセルとブレーキを踏み間違え、店舗の側面を大破させた例もある。

運転技術の問題もあるだろうが、既に行列が並んでいるし、お腹は空いているし、限定販売だし、という焦りが重なって、思わぬ事故に至ったようだ。

それこそ、お腹が 「 ギュウ 」 と鳴って、車が 「 ドーン 」 とぶつかったという事故で、この日の騒動を象徴するエピソードだったように思う。


なにかと 「 食の安全性 」 が指摘される昨今において、我々が一体、なにを食べればよいか、なにを食べない方がよいかは、難しい問題である。

酒やタバコと同じく、それが人体にどのような影響を及ぼすか、それを知ることも、たしなむことも、個人の裁量に委ねられる部分が大きい。

ただし、よほど 「 危険性が高い 」 と推察されるものは、厚生労働省をはじめとする各種公的機関から、輸入や販売を禁止する措置が講じられる。

その一つに、「 BSE ( 牛海綿状脳症 ) 」 に感染した牛肉が混じる危険を恐れ、アメリカ産牛肉を輸入停止する措置があり、現在も続けられている。

それによって、最大の供給ルートを絶たれた吉野家が、牛丼の販売を続けられなくなった背景は、皆様すでにご承知の通りであろう。


哲学的な話をするつもりはないが、我々は生きていく上で 「 他の動植物を殺して、その屍を糧とする 」 宿命を負っている。

それが 「 可愛そう 」 などと言っていては生きていけないわけで、動物性の肉を食べない ベジタリアン でも、植物を採取する恩恵に浴している。

病気になった牛を 「 悪い牛 」 と判断するのも人間のエゴで、牛にしてみれば 「 病気になったおかげで、食べられずに長生きできた 」 可能性もある。

それを、「 健康に育ち、人間に美味しく食べられることが牛の幸せ 」 と決め付けるのは、ちょっと虫が良すぎる話かもしれない。

いづれにせよ彼ら ( 牛 ) の病気は、彼ら自身が抱えている窮状ではなく、人間にとっての 「 困った問題 」 として、大きな不安材料になっている。


物事を 「 考える習慣 」 の多い人と、「 感じる習慣 」 の多い人では、悩み事の種類や、生き方の 「 クセ 」 みたいなものが異なる。

たとえば、「 鯨は栄養価が高く、美味しく、食物資源として有益 」 と考える人と、「 鯨を食べては可愛そう 」 という感情論の人では意見が分かれる。

そこまで極端な例でなくても、「 栄養があるから食べる 」 という科学的根拠に基づく意見と、「 美味しいから食べる 」 という感覚的な意見は違う。

もちろん、感覚を優先するからといって 「 考えが浅い 」 というわけではなく、栄養が無いのは承知のうえで、美味しいから食べるという場合もある。

大事なことは、本質をよく考えもしないで、感情論で結論を求めすぎたなら、それは後悔する結果、間違った結果に陥りやすいという事実である。


アメリカ牛肉の問題でいうならば、BSE の影響で 「 亡くなったアメリカ人 」 の数について、あまり関心が持たれていないことを不思議に思う。

未知の危険を恐れるあまり、「 確率 」 にスポットを当てていない気もする。

飛行機に乗るとき、それは墜落に伴う 「 数多くの危険要因 」 を孕んでいるわけで、いくら機械が進歩しても、その危険が 「 0 」 にはならない。

それでも、地上における交通事故の発生件数より 「 事故率が少ない 」 ことを根拠として、その利便性を活用する人が多い。

食べ物も、基本的には 「 それと同じ 」 ことではないだろうか。


農薬や、環境破壊や、それに伴う河川、土壌の汚染から鑑みて、絶対的に安全な食べ物など、この世には存在しないような気がする。

アメリカ牛肉を輸入しないのは、それが 「 危険だから 」 というよりも、他に 「 替わるものがあるから 」 という理由の方が大きいのではないか。

和牛、オーストラリア牛など、いろいろな国の牛肉が流通している中で、あえて危険の指摘されているアメリカ牛を輸入する必要性は少ない。

それを取り違えて、神経過敏に 「 食の危険 」 だと騒ぎすぎるのは、その他の食物を摂取したり、流通させるうえでも、あまり良い兆候とは思えない。

利害面にこだわるのは結構だが、「 感覚的な毛嫌い 」 で物事を判断する習慣がはびこると、世の中は面倒なことが多くなっていくものである。


悩み事も、「 考え過ぎて 」 困っている人というのは救いようがある。

ちゃんとした 「 原因 」 があって、原因があるからには大抵 「 対策 」 もあるわけで、できる、できないは別としても、解決方法はある。

それに対し、「 感じ過ぎて 」 悩んでいる人は、ちょっと厄介である。

とりたてて問題でもないのに、本人だけが深刻に落ち込んでいたり、些細な事柄に 「 死ぬの、生きるの 」 と苦悶していたりする。

そういう人たちは、パニック を先導し、皆が 「 悩む 」 ように仕向けることを好む傾向にあり、アメリカ牛問題も少なからず影響を受けている。


私自身は、アメリカによく行くので、現地では必ずアメリカ牛を食べる。

いまのところ、死んでいないし、大病を患ったこともない。

そのうち 「 死んじゃう 」 かもしれないが、たぶん、「 なんとなくアメリカ牛肉が怖いので、ビクビクしながら暮らしています 」 という人よりは長生きする。

吉野家の肩を持つ気はないが、他の食べ物に比べて特に 「 アメリカ牛が危険 」 という根拠は乏しいように思うし、過剰に警戒し過ぎな気がする。

それに、週末の様子を見ればわかるように、「 あれだけ大勢の人が待ち望んでいる 」 ならば、リスクと比較しても門戸を開放するべきかと思う。






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2005年02月13日(日) 「 負 」 の イメージ



「 ビジネスにおける最悪のミスは、事業がうまくいかない時ではなく、

  うまくいっている時に起こる 」

              トーマス・J・ワトソン・シニア ( アメリカの実業家 )

The worst mistakes in business are made in good times,
not in bad times.

                        THOMAS.J.WATSON.SR



彼の名はあまり有名でないが、かの 「 IBM の創立者 」 である。

さすがに、「 含蓄のあるお言葉 」 を遺しておられた。


ライブドアによる 「 フジTV 買収工作 」 は、どうやら失敗のようである。

最初に 「 その野望 」 を知ったときには、なかなか妙案を企てたものだなと感心もしたが、そう簡単に物事が運ぶものではない。

それに、株の世界では 「 とりたてて珍しい戦術でもない 」 わけで、それに対抗する手立ても、大抵は用意されている。

私自身も、「 M&A を得意とする企業 」 に居た経験を持つが、このような小手先の仕手戦を 「 M&A 」 と思っているなら、少し程度が低いだろう。

この件に関しては、手法の是非よりも 「 堀江社長が メディア を手に入れたい目的と、それにかける情熱の大きさ 」 の方に、むしろ私は興味がある。


過去の報道を通じて、堀江氏の人間像を見聞きした中では、とても共感の持てる部分や、経営者として評価できる点と、そうではないところもある。

最大の 「 評価ポイント 」 は、若くして起業し、成功に導いた点である。

また、昨年の 「 プロ野球機構への新規参入計画 」 に象徴される、斬新なアイディアと行動力、決断力については、賞賛に値するだろう。

ただし、結果として彼は楽天との競争に 「 負けた 」 ことも事実であり、仮にそれが 「 宣伝効果として成功 」 であっても、勝敗が覆るものではない。

彼ら自身、「 知名度が上がった敗者 」 であることを、忘れるべきではない。


どんな口実があろうと、勝負に 「 二連敗 」 することは避けたほうがいい。

それは、その企業に 「 負 」 のイメージを定着させる危険を孕み、積極的ではあるが、いささか 「 軽率 」 な印象を与える要素となる。

よほど確実な 「 勝てる根拠 」 が無いかぎり、大きな敗北を喫した直後に、大衆の見守る中で一騎打ちに挑むことは、どう考えてもリスクが大きい。

優秀な経営者というものは同時に、卓越した戦略家でなければならず、戦うタイミングや、その目的、あるいは 「 戦後処理 」 についても責任を負う。

ただ単に、「 敵の陣地を奪ったから勝ち 」 という次元ではなくて、その目的や必然性、公共の利益についても、大衆の賛同を得られる準備が必要だ。


挑戦する姿勢は尊重するけれども、経営は 「 継営 」 でもあり、堅実かつ、継続性をもって、事業を安定させる使命を帯びている。

その為には、けして 「 長いものに巻かれろ 」 とは言わないが、「 身の程 」 を知ることや、たえず 「 勝算 」 に気を配ることが不可欠となる。

特に、「 小 が 大 に勝つ戦略 」 というものは難しく、些細なミスやほころびから、致命的な 「 落とし穴 」 に陥る危険も潜んでいる。

巨大企業に挑戦状を叩きつける気迫は大いに結構だし、堀江氏にはその力量と、将来へのかぎりない可能性が、たしかに感じられる。

だからこそ、「 天狗 」 になってはいけないし、周到な準備と、緻密な計算、十分すぎるほどの 「 慎重さ 」 を、重んじてもらいたいと個人的に思う。






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2005年02月11日(金) 真のコミュニケーションとは



「 将来においては、二種類の会社があるだろう。

  ウェブサイトを持つところと、廃業したところ 」

                       ビル・ゲイツ ( マイクロソフト会長 )

In the future, there will be two kinds of companies −
the ones with websites and those no longer in business.

                                  BILL GATES



初めて彼が 「 コンピューターのプログラミング 」 をしたのは、13歳のとき。

20歳で彼は、IT 事業に全力を投じるため、ハーバードを二年で中退した。


彼が会長を務める 「 マイクロソフト・コーポレーション 」 は、世界78カ国で50,000人以上の従業員を擁し、売上高は3,000億ドルに迫っている。

もし、彼が地上に存在しなかったら、あるいは、別の生き方を選んでいたとしたら、世の中は少し違ったものになっていたかもしれない。

たとえば、ささやかな 「 この日記 」 も存在しなかったかもしれない。

ハイテクは、人と人とのつながりにおいて、過去では考えられなかったような結びつきに寄与し、多くの人々がその利便性を享受している。

いまや、インターネットが無い生活など、考えられなくなった。


携帯電話やインターネットのなどのことを、「 コミュニケーション・ツール 」 という呼び方をする場面も多い。

それは、「 コミュニケーション 」 という言葉の意味を、お互いの意思疎通だとか、情報伝達の手段として理解する機会が多いためであろう。

もちろん間違いではなく、「 コミュニケーションが良い 」 という言葉は、意思疎通ができていたり、円滑な情報交換が行われている様子を指す。

しかしながら、携帯電話が普及したことで、あるいは、インターネットを利用する人が増えたことで、本当に人間同士の交流は深まったのか。

通信機器の発達によって、情報発信の総量が増えたことは事実だけれど、世界中の人々が仲良くなったり、距離の壁が打ち破られたのだろうか。


その答は、「 ノー 」 と言わざるを得ないだろう。

いくら情報のやり取りが頻繁に行われても、それで 「 コミュニケーション 」 が良くなったと認められるものではない。

わだかまりのある相手に対して、受け入れられない主張を何度も発信したところで、お互いの溝が埋まるはずがない。

数年前に比べると、北朝鮮からの情報は格段に増えたが、国家間の親睦が深まったかどうかは、はなはだ疑問である。

相手に言葉を送れるようになることが、すなわち 「 コミュニケーション 」 というわけでもないことを、我々はもう少し認識したほうがよいのではないか。


本当の 「 コミュニケーション 」 というものは、単なる情報の送信ではなく、お互いの理解を深めるとか、別のところにあるような気がする。

さらに言えば、「 コミュニケーション 」 というものは、「 行う 」 ものではなく、「 起きる 」 ものなのかもしれない。

一方的に 「 行おう 」 としても、相手側に受け入れられなければ成立しないわけで、相手が理解し、受け入れて初めて 「 起きる 」 ものではないか。

それは、人と人の関係に留まらず、「 人と機械の関係 」 にも当てはまる。

某大手銀行では、「 バリュー・コミュニケーション 」 というスローガンを掲げた直後、大規模なシステム障害が発生し、利用者に多大な迷惑が及んだ。


あるいは、「 食品の品質向上 」 というポスターを工場内に掲げた大企業が 「 偽装工作事件 」 を起こした例もある。

安全対策が不十分で、事故の多い現場において 「 安全第一 」 という文字の垂れ幕だけが、深い考えもなしに貼り出されているところもあるようだ。

どちらかというと 「 コミュニケーション 」 という言葉を、手段とか方法という意味で使っている人は多いが、結果として捉えている人は少ない。

本来、発達した通信機器などを大いに活用して交流を深め、お互いの心情を理解し合い、打ち解けることによって 「 コミュニケーション 」 は生まれる。

回を重ね、信頼を積み重ねた結果として、それは 「 起きる 」 ものであったり、自然に 「 沸いてくる 」 ようなもののはずだ。


大手ファイナンシャル・グループの 「 三井住友 」 と 「 大和証券 」 が、本年度中の経営統合を目指して、動き始めたという。

両者の総資産を併せると 「 140兆円 」 となり、現状、国内最大級である 「 みずほファイナンシャル・グループ 」 に並ぶらしい。

幅広いサービスを提供することで、収益力の高い総合金融グループの形成を目指すことが狙いとのことだが、はたして、その通りになるだろうか。

方針や哲学の異なる大手二社が合併する場合、必ず問題になるのが前述の 「 コミュニケーション 」 であり、そこから生まれる 「 ひずみ 」 だ。

そこに、努力やプロセスを講じることが 「 コミュニケーション 」 だと盲信するトップがいた場合、あまり良い結果は期待できず、どうにも不安は大きい。






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2005年02月10日(木) テレビにくぎづけ



「 スポーツとは、人間生活のおもちゃ部である 」

                   ハワード・コセル ( スポーツ・キャスター )

Sports is the toy department of human life.

                              HOWARD COSELL



サッカー・ワールドカップ予選 北朝鮮戦は、2−1 で日本が快勝した。

終盤まで勝敗の予測がつかない激戦で、見応えのある試合内容だった。


試合を前にして、マスコミ各社は 「 うんざり 」 するほどに、北朝鮮の戦力は未知の恐ろしさがあるとか、警戒すべきだという報道で過熱していた。

FIFA ( 国際サッカー連盟 ) のランキングでみると、日本と北朝鮮では雲泥の差があり、それを思うと、少々騒ぎすぎではないかと感じたりもした。

試合が始まり観戦していると、勝敗はともかく、白熱した好試合が展開され、どちらも譲らぬ熱戦が繰り広げられることとなった。

専門家ではないので、どちらのチームが普段以上の力を出しているのか、あるいは逆に本来の力を発揮できていないのか、詳しくはわからない。

そんな難しい話は抜きにして、双方、死力を尽くして競技したと思うし、日本が接戦を制したのは、結果として喜ばしいかぎりである。


試合中は、我々にとって外交上の脅威でもあり、拉致事件の仇敵でもある国のチームといった 「 政治的背景 」 も忘れるほど、試合にのめりこんだ。

それこそが 「 スポーツの良さ 」 であり、醍醐味でもある。

競技場では、両チームのサポーターが接触しないように配慮したり、厳重な警備体制を敷いたりしていたようだが、大きなトラブルもなかった。

できれば、北朝鮮で行われる 「 アウェー 」 の試合でも、同様の好ゲームが粛々と行われるように期待したい。

日本チームの今後の躍進と、ますますの健闘を祈る。







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2005年02月09日(水) なぜ市民は怒っているのか



「 良心の問題に関しては、多数決の法則は適用されない 」

                   モハンダス・ガンジー ( インド建国の父 )

In matters of conscience, the law of majority has no place.

                                 M.K.GANDHI



子供の頃から、彼の名は 「 マハトマ・ガンジー 」 だと思い続けていた。

マハトマは 「 偉大なる魂 」 という意味の通称で、本名は違うのだという。


とても極端な話をすると、「 アホな人が99人、賢い人が1人 」 という環境の中で多数決を取り、その結果が 「 99対 1 」 だったとする。

その場合、「 99の意見 」 を採用すべきか、「 1の意見 」 に従うべきか。

事柄にもよるが、よほど支障がないかぎり私は、「 99の意見 」 を採用することが望ましいと思っている。

少数意見を無視してよいわけではないが、多数決の採択は 「 民主主義の原則 」 であって、民意を尊重するにはそれが一番の方法でもある。

それに 「 99対 1 でアホな人が多い国 」 は、「 アホのための国 」 であり、アホの望む採択を選ぶことがなによりの良策ではないか。


ただし、「 一億の常識人が居る国の中にある、アホ4万人の団体 」 の中において、「 3万9千人の意見だから採択してよい 」 とは認められない。

大阪市は現在、「 市職員の厚遇問題 」 で揺れている。

昔から彼らは市民グループから、ヤミ年金や、スーツの支給、私的な飲食に伴う公費支出などについて、抗議や、場合によっては訴訟を受けてきた。

他の自治体でも似たような話はあるが、普通は、公費乱脈問題が発覚するたびに改革が行われ、少しづつ改善、浄化されていくものである。

ところが彼らの場合は、まったく反省の色も、改善の形跡も見当たらない。


それで大阪市側は、「 総額年180億円分の、福利厚生や手当てに関わる10項目の削減案 」 というものを提出することになった。

たとえば、民間では考えられない話だが、「 団体生命共済への掛け金 」 を公費負担 ( 約7億円相当 ) していたのをやめるとか、そういう話である。

すると、市職員の七つの組合でつくる 「 市労働組合連合会 ( 約4万人 ) 」 が烈火の如く反発し、過去の労働条件を正当化しようと争い始めた。

それに対して市民グループをはじめ、一般市民からは批判が飛んでいる。

組合側からは 「 事前の根回しが無い 」 などと、筋違いな意見が多くみられ、この ゴタゴタ は当分、簡単には収まりそうにない。


彼らを 「 アホ 」 とは思わないが、「 身勝手で世間知らず 」 だとは思う。

たしかに、既得権益を奪われるのは困るということも実情だろうが、それは 「 今までより苦しくなる 」 のではなく、「 今までが間違っていた 」 のである。

制服として使うという名目で 「 プライベートの時も着れるスーツ 」 を公費で賄ったり、そういうことは 「 民間企業ではあり得ない話 」 なのだ。

自分たちの待遇を主張する前に、「 なぜ、市民から強い批判を浴びているのか 」 という疑問を、持たないことに問題がある。

自分たちが 「 常識 」 と思い込んでいる内容が、世間の 「 非常識 」 であるならば、その溝を埋めようと努力するのは当たり前のことであろう。


また、この問題以外にも大阪市は、理解しがたい 「 変 」 な実態が多い。

たとえば、大阪市には 「 逓送便 」 という制度があり、77人の職員がこれに当たり、年間約5億8千万円の人件費を割いている。

なにをするのかというと、各部局から持ち込まれる書類を、それぞれの職員が宛先まで、ハンドキャリーで配達に出向くのである。

電子メールが一般化した昨今、しかも対外的に大阪市は 「 電子自治体 」 などとアピールしている一方で、非効率で、時代遅れなことをやっている。

大事な情報が含まれるとか、大義名分はあるのだろうが、他にもっと良い方法はあるはずで、江戸時代じゃあるまいし 「 飛脚 」 を使うことはない。


閉ざされた特殊な環境の中でしか通用しない 「 独自の慣習 」 が、世間のそれとは隔たりのある価値観や、倫理観、金銭感覚のギャップを生む。

そこに順応した人々には、罪悪感などなく 「 なにがいけないのか 」 本当にわからなくなっており、それを周囲から指摘されても判断がつかない。

過去もずっと 「 それでやってきた 」 という固定概念を打破できず、伝統的な 「 ならわし 」 なのか、それとも悪習なのかさえ、まるで理解が及ばない。

解決策は、「 下界を眺めてみる 」 ことである。

世間の感覚がどんなものであるのか、目からウロコも落ちるはずで、早くしないと 「 財政難を克服する気があるのか 」 と、市民から信頼を亡くす。






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2005年02月08日(火) 見つめてほしい人



「 じっと目を見れば、真実と美とコンタクトレンズだけでなく、

  能力の有無も見えてくるものだ 」

                     ローレンス・J・ピーター ( 教育学者 )

Competence, like truth, beauty, and contact lenses,
is in the eye of the beholder.

                           LAURENCE.J.PETER



昔から、「 目は口ほどにものをいう 」 などと言われてきた。

たしかに、100%とは言い切れないが、そういう傾向は強いように思う。


たとえば、その人物に 「 覇気があるかどうか 」 という判断は、目の印象によって左右されることが多いようだ。  

また、過去の経験や能力を尋ねたときの 「 目の輝き具合 」 を見て、それに対する自信の有無を確認したり、ある程度の能力判断に利用できる。

稀に、仕事相手などに対して 「 人の目を見て話せない 」 という極度に内気な人もいるが、こういうタイプはコミュニケーション能力が低いとみなされる。

企業の採用面接では、「 圧倒的な不利 」 となるので改善も必要だ。

特にコミュニケーション能力の高さを要求されない職種でも、そういう人物を 「 同僚として迎え入れたい 」 と思う人は少ないので、落とされやすい。


別に、整形手術まで施す必要はないが、大事な場面では 「 目 」 の状態を最適に保ち、良好なコンデションで臨むように努めたい。

寝不足とか、前夜の深酒で 「 目が充血している 」 なんてことでは、相手に良い印象を与えることが困難で、いささかマナーにも反する。

甘ったるい 「 トロンとした目 」 も、夜にはセクシーに映るかもしれないが、ビジネスの場面で相応しいとはいえない。

視線は、基本的に相手の 「 顔 」 に集中させるが、あまり見つめすぎると息苦しくなるので、キョロキョロしない程度に若干の分散をさせる。 

相手との距離にもよるが、先方の 「 ネクタイの結び目 」 あたりを凝視しつつ、大事なポイントでは、しっかりと相手の目を見つめるぐらいが良い。


できている人にとっては 「 当たり前 」 の作法だが、これができないという人もいて、現在、四苦八苦しながら指導をしている。 

50歳近い年上の人で、本人は 「 しようとしている 」 らしいが、相手と目が合うと逸らしてしまったり、うつむいてしまったりして上手くいかない。  

これでは、企業の面接官に良い印象を与えることができないので、先輩のカウンセラーにも協力してもらって、毎週、特訓を繰り返している。

赤面するわけでもなく、言葉は快活に発するのだが、顔を上げられない。 

あの手、この手で試してみたり、専門家の 「 心理カウンセラー 」 に相談したりしているが、いまのところ解決の糸口が見つかっていない。


こういった 「 病気というほどではない 」 程度の 「 他の人と同じようにできない悩み 」 を抱えた人たちが、相当数、就職できずに困っている。

私を含めて、カウンセラーといえども、元は営業畑出身の者が多く、ずっと 「 出来の悪い人は置き去られる 」 という前線で働いてきた経緯を持つ。

根気よく、気長に彼らと向き合うのは、けっこう骨の折れる作業だ。

企業のコンサルタントとしては、「 省力化 」、「 過剰、不要人員の整理 」 を推し進め、産業カウンセラーとしては、彼ら個人の再就職を支援する。

そのあたり、若干の矛盾や戸惑いを感じつつも、企業の再生と個人の救済に励み、関係者全員がハッピーになれるよう、精進する毎日である。 






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2005年02月07日(月) 助成金を申請しない企業



「 環境さえ整っていれば、僕のような障害者は、障害者でなくなる 」

                               乙武 洋匡 ( 作家 )

If the environment is properly conditioned, a physically handicapped person like me ceases to be physically handicapped person.

                           HIROTADA OTOTAKE



お金は大切なものだが、人生は 「 それがすべて 」 ではない。

働くこともまた、お金を稼ぐだけの行為とはいえない。


私は人材を育成する仕事において、より多くの人に 「 働く喜び 」 を知ってもらいたいと願うし、そのためのお手伝いができれば幸いに思う。

その考えは、自分自身の過去の体験によるところが大きく、仕事というものは苦痛ではなく、本来、楽しいものだということを感じてきた。

もちろん、「 遊んでいるほうが楽しい 」 ことは否定しないが、仕事を通じて体験する楽しさは、遊びの場面で得る楽しさとは少し質が違う。

現実には、「 ただ苦痛でしかない仕事 」 に明け暮れて、苦しんでいる人がいるのも事実だが、職場の選択や、働く姿勢に問題のあることが多い。

そう言うと、「 生活のためだから仕方がない 」 と反論されるのだが、ならば、生活そのものが 「 身の丈 」 に合っているか、検証する必要もある。


個人の 「 労働力 」 は、「 その人の能力 × 情熱 」 ではないかと思う。

いくら能力が高くても、「 やる気 」 が不足していると良い結果が出ないし、やる気だけでは処理できない仕事というものもある。

あるいは、「 質 × 量 」 というケースも多い。

営業マンでいうなら、商談のスキルが高く、訪問頻度 ( あるいは回数 ) の多い人が、大抵は良い結果を残しているものだ。

だから、スキルを磨くことばかりに注力せず、「 情熱を保つ 」 ように心がけることも大事で、そのためには 「 仕事を楽しむ 」 姿勢が不可欠となる。


それには、当たり前の話だが 「 楽しめる仕事 」 を選ぶのが一番である。

やりがいを感じるとか、得意分野で実力を発揮できるとか、きわめて待遇が良いとか、職場の雰囲気が気に入っているとか、そういう仕事のことだ。

とはいえ、近頃の 「 就職難 」 という時勢で、そのような 「 性に合う仕事 」 を見つけることは難しく、なかなか理想通りにはいかない。

多少、気に入らない面があったり、自分と 「 マッチングしない 」 要素などがあっても、その溝を埋める努力や、条件を妥協する判断を求められる。

その場合には、与えられた環境の中で 「 最大限に仕事を楽しむ 」 ことがベストであり、それが 「 できない 」 人は、職場を移ったほうがよいだろう。


もちろん、どんな仕事でも辛いことや、苦しいことがあるけれど、苦痛ばかりで、まったく楽しさを感じないというのでは 「 不幸 」 でしかない。

仕事のストレスを他のことで紛らわそうとしても、それには限界がある。

ちなみに、曜日別にみると 「 サラリーマンが自殺を図る日 」 では突出して 「 月曜日 」 が多く、休日を楽しんだところで、なんの解決にもなっていない。

仕事帰りの一杯や、軽い憂さ晴らしも悪くないが、やはり仕事のストレスは 「 仕事で解消する 」 のが一番で、そのように習慣づけることが望ましい。

自分の仕事のどこかに 「 楽しさ 」 がないか探し、どうしても見つからなければ他の仕事に移ればよい話で、そんなことのために死ぬ必要などない。


それに、「 仕事が辛くて悩んでいる人 」 は、周囲が見えていない。

世の中には、その 「 仕事 」 に就きたくても、働けない人がいるのだ。

近頃の失業率が高いとはいっても、体さえ丈夫で、贅沢さえ言わなければ、なんらかの仕事に就くことは可能で、働く機会は与えられるものだ。

その点、「 障害者 」 と呼ばれる人たちが活躍できる職場は少ない。

いくら福祉や保護が行き届いていたとしても、彼らに 「 働く喜び 」 を与えることについて真剣に考える人や、企業の数は、まだまだ少ないのである。


障害者を雇用する事業主への補助金を 「 助成金 」 という名目で支給する制度もあり、最近では若干の雇用も創出され始めた。

ただし、一部の企業では、「 補助金がもらえる 」 ことだけを目当てとして、指導や育成が 「 おざなり 」 になっているケースも少なくない。

彼らが働きやすい環境づくりも、「 改装に助成金が出ないならやらない 」 と露骨に口にしたり、あるいはそれを 「 悪用 」 する企業まである。

つまり、もともと改修する予定のあった工場などに、障害者を雇い入れて、改装の費用を 「 助成金で浮かそう 」 とするのだ。

このような 「 誠意を踏みにじる 」 企業に対して、行政側におけるチェックは甘く、せっかくの予算が無駄に空回りしているという現実もある。


知り合いの企業に、「 O さん 」 という20代の障害者が働いている。

彼は既に5年以上、ここで働いているが、企業は助成金を申請していない。

社長以下全員、社員は 「 O さん 」 に厳しく、障害によって出来ないことはさせないが、「 できることはすべてやらせる 」 方針を徹底している。

手を抜けば、「 馬鹿野郎! 」 の激が飛び、最初の頃は休み時間に泣いていたり、辛くて欠勤することも多かったが、最近はそれもない。

今では 「 その会社に欠かせないメンバー 」 として明るく働いており、訪問すれば笑顔で挨拶を交わす 「 私の友人 」 でもある。


ここの常務さんに 「 助成金 」 の話をしたところ、制度自体はよくご存知で、たしかに 「 儲け 」 にはつながると認識しておられた。

しかしながら、「 彼を口実に助成金をもらうことは、彼に対して失礼である 」 という理由から、今後も申請はしないという。

また、「 うちは “ 人助け ” をするほどの企業ではない 」 と笑い、今後、彼以外の障害者を雇用する予定もないと話した。

彼らは障害者としてではなく、仲間として 「 O さん 」 を認めており、だからこそ彼は、汗をかきつつ笑顔で働き、叱られ、また働いている。

常務さんに 「 だいぶ仕事に慣れてきたみたいですね 」 と言うと、笑いながら 「 調子に乗ってやがるから、喝を入れんとな 」 と、返事がかえってきた。


障害者の雇用といえば、福祉団体が主催する催しだとか、あるいは民間の場合、大勢が働く軽作業的な工場勤務といったイメージが強い。

前述の企業みたいに、「 本人の個性、能力、人柄 」 などを考慮して、単体で一個人として採用し、分け隔てなく 「 戦力 」 として扱う企業もある。

しいて 「 健常者との違い 」 を挙げると、健常者の 「 情熱 」 が時間と共にへばってくるのに対し、彼らのやる気は、尻上がりに伸びていくようだ。

なかなか雇ってくれる企業もない中、やっと就職でき、汗と涙で仕事を覚えた彼らには、働く喜びや誇りというものがあり、とても充実している。

慣れるほどに仕事への自信がついていくのだから、情熱は尻上がりに伸びてゆき、とても良い 「 仕事の顔 」 をする彼らに、学ぶところは大きい。






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2005年02月06日(日) 企業の 「 再生 」 と、個人の 「 救済 」



「 人間に必要なのは困ることだ。

  絶体絶命に追い込まれたときに出る力が、本当の力です 」

                            本田 宗一郎 ( 実業家 )

What people need are problems.
The power that emerges when faced with a problem,
where you would lose everything, is your true power.

                            SOUICHIRO HONDA



漢字で 「 本田 」 と書くより、「 HONDA 」 の方が ピン とくる。

世界の 「 HONDA 」 を創業した人物らしい、質実剛健たる一言だ。


要するに、「 調子の良いときは、誰でもゴキゲンに活動できる 」 ものだが、「 調子の悪いときに、どれだけ頑張れるか 」 で、底力の差が出る。

一流と呼ばれる学校を出て、大手の企業でエリートコースに進みながらも、ちょっとした失敗や挫折で、ヘナヘナと崩れる人もいる。

あるいは、「 悪いことはすべて他人のせい 」 にし、自分の落ち度に気づかなかったり、物事を 「 他責 」 にばかりして、まったく進歩しない人もいる。

昔に比べ、社会はそういう人たちに対して寛容、あるいは過保護になっていて、憂えたり、「 本人の為にならぬ 」 と書いたなら、誰からか抗議される。

彼らには 「 平常時の能力 」 はあっても、「 底力 」 というものがなく、危機的状況での 「 救世主になる底力 」 も、「 そうなろうとする意志 」 もない。


2月末期で 「 ダイエー 」 は、約 4,100億円の債務超過になる。

金融機関から 4,050億円の債権放棄を受け、スポンサー企業と再生機構が 1,000億円の増資をするので、財務状況は来年2月期で回復する。

いまのところ、赤字が続いているのは再生計画の範疇なので仕方ないが、問題は、ここにきて 「 小売事業の不振 」 が予測を上回っていることだ。

ご承知のように、「 再生は可能 」 と判断されたから再生機構を活用しているわけで、それが 「 焼け石に水 」 ということでは、まるで意味がない。

いくら追加支援をしても、言葉は悪いが 「 盗人に追い銭 」 といった結果に終わる心配が、ここにきて急浮上しているような状況である。


ダイエーの関係者によると、店舗では、「 改革にやる気のある従業員 」 と、「 リストラを恐れてやる気をなくした従業員 」 の二極化が起きているという。

私が再生の指揮者なら、「 勇気なき者は去れ 」 という指令を下すに違いないが、それは 「 現代的でない 」 のかもしれない。

不安のある従業員には専任のカウンセラーによって 「 心のケア 」 を施し、にっこりと微笑みかけ、けして 「 頑張れ 」 と言ってはならない。

十分に休養を与え、誰も 「 嫌味 」 を言ったり、顔に出すこともしない。

それでも回復しない場合は、徹底的に悩みを聞いてやり、たとえ 「 アホか 」 と思うような意見でも、とりあえずは 「 なるほどね 」 と相槌をうつ。


実を言うと、いま勉強中の 「 カウンセラー 」 のテキストにも、そんな手法が随所に記載されていて、これは 「 学術的に正しい理論 」 だそうである。

その度に、テキストの頁を 「 引きちぎりそうになる 」 衝動に襲われる私には、「 カウンセラーとしての適正が無いのではないか 」 と不安を感じる。

ところが、適性検査の結果は 「 ◎ 」 で、実際、いま担当している 「 カウンセリー ( カウンセリングを受ける人 ) 」 の評判も良いのだという。

それで、先輩のカウンセラー ( 大ベテランの人 ) やら、各方面の専門家に意見を伺うと、皆、「 思いは似たようなもの 」 なのだという。

誰しも、「 それが正しい 」 とは思っていないが、相手の目線に合わすにはやむを得なかったり、そんな相手には 「 そうするしかない 」 ようである。


言われてみれば私も、自分のカウンセリーに対して 「 言葉を選んで 」 話しているし、非常識な相手にも 「 表情に出さない 」 ようにしている。

それが 「 プロ 」 というもので、このようなプライベートな日記で 「 辛らつ 」 な意見を述べても、仕事となれば 「 自分を抑える 」 習性なのだろう。

ただしそれは、「 抑えている 」 だけなので、自分の本音というのは別のところにあり、やっぱり 「 勇気なき者は去れ 」 に帰結するはずだ。

このように、カウンセラーも悩み多き職業で、将来的には 「 カウンセラーの悩みを解決するカウンセラー 」 という職種が繁盛するかもしれない。

まして、私のように 「 企業の悩みを解決するコンサルタント 」 と、「 個人の悩みを解決するカウンセラー 」 という二つの顔を持つと、複雑極まりない。


いづれにせよダイエーの場合は、あまり 「 悠長 」 な策は適切でない。

すべての人が救済されることは理想だけれど、何の 「 犠牲 」 も、「 痛み 」 もなく、どん底に落ちた企業を再生することは不可能に近い。

特に、「 良いときだけ 」 を体験してきた人たちの中には、現在の置かれている状況を 「 絶望的に悲観することしかできない人 」 も多いようだ。

厳しいようだが、「 悪貨は良貨を駆逐する ( 質の悪い人間がはびこって、優れた人間が姿を消す ) 」 という言葉もある。

最前線で、「 やる気のある人 」、「 やる気をなくした人 」 が混在する状況は、全体のモチベーションに悪影響を及ぼすとみて間違いない。


できるなら、ダイエーという企業も、働く従業員も、すべてを救済したい。

そのためには、「 皆が平等に不幸になる 」 ことが正しいとは思わない。

現状は、勇気をもって再生に取り組む人たちで固め、再生が叶った際には、彼らにそれなりの処遇を与えるなり、再出発の機会を与えて欲しい。

また、「 やる気を取り戻せない人たち 」 は、すでに 「 その場所で働くことに絶望している 」 のだから、方向転換を促したほうが望ましい。

人それぞれ、「 同じ場所でハッピーになる必要はない 」 のだし、絶望だけ抱えて働くほど虚しいことはないので、早急に措置を講じるべきかと思う。






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2005年02月05日(土) 45歳の始動



「 今日という日は、残りの人生の第一日目である 」

                                    作者不詳

Today is the first day of the rest of your life.

                                ANONYMOUS



今日は、「 2005年2月5日 」 である。

私がこの世に生を受けて、45回目の 「 第一日目 」 が始まる。


よく、「 平均寿命 」 が上がったとか、下がったとか、そういう話題に接するが、我々にとってもっと興味深いのは 「 平均余命 」 である。

たとえば、乳幼児のうちに亡くなった人も、100歳まで長生きした人も、すべてひっくるめて平均を出したものが 「 平均寿命 」 となる。

それに対して 「 平均余命 」 というのは、たとえば、45歳まで生きた人が、「 あと何年ぐらい生きられるか 」 という平均を算出したものである。

当然、その年齢までに亡くなったケースは除外されているわけで、こちらのほうが 「 高い数字 」 を示すことになる。

ちなみに、平成14年度の資料で 「 45歳男性の平均余命は34,97年 」 となっており、80歳ぐらいまで生きる人が多いことを示している。


若い頃には考えもしなかったが、人の一生というものは短い。

あれもやりたい、これもやりたいと望んでも、世界中を見て回りたいだとか、あらゆる体験をしたいと思っても、やれることには限界がある。

その中で一体、自分は何を選び、どう生きていくのか。

誰にも、その 「 正解 」 はわからないし、たとえ親や周囲がその心配をして、進路を誘導しようとしても、未来に対する保障はない。

人生を無駄にしても、有意義に過ごしたとしても、せいぜい100年かそこらで終わりが来るわけで、そう考えると虚しいものでもある。


そんな短くて虚しい人生で、せめて自ら 「 限界 」 を決め付けてしまわないことが、私には大事なことのように思う。

自分の評価は、自分自身の満足度であると同時に、周囲の他人が決めるものでもあり、社会が 「 その貢献度 」 を判断するものでもある。

全力を出し切ってさえ、どこかに 「 限界 」 があるのに、そこまで行かない間に挫折したり、妥協したり、立ち止まってしまったのではもったいない。

意義のある行動を起こしても、ぼんやり寝て過ごしても、同じように時間は経ってしまい、カレンダーをめくるように、残された日々は減っていく。

だったら、今日は何もできなくても、明日、何かができるように、新しい日に希望を持って生きていきたいものだと思う。


話は変わるが、「 自分の “ 銅像 ” を建てたがるのは、男性だけである 」 という話を、どこかで聞いたことがある。

それは何故かというと、いくら世界が 「 ジェンダーフリー 」 になっても、男性には 「 絶対、できないこと 」 があるからだという。

それは、「 子供を産む 」 という能力だ。

女性と違って、根本的に 「 この世に生きた証を残す 」 という身体的能力が欠如しているわけで、それを “ 偶像 ” に託そうとするらしい。

年をとって、お金や地位に対する欲望より、名誉や、後世に何かを残したいという欲求が強くなってくると、そんな風に考える人もいるのだという。


お金を貯めて、人通りが多い一等地の小さな土地を買って、なるべく通行の邪魔になるようなところに “ 銅像 ” を建てるのも一興ではある。

歩行者から 「 なんだよこれ、邪魔だなぁ 」 と迷惑がられ、いつまでも人々の記憶に残すのも、なかなか面白いかもしれない。

そのうち、区画整理か何かで撤去されるかもしれないが、田舎の山奥で埃を被ってしまい、誰にも関心を示されないよりは 「 マシ 」 な気もする。

よっぽどの有名人にでもならない限り、そこを訪れる人は少ないだろう。

いづれにせよ、多分、私には縁のない話で、いまのところそんな気はない。


今年は、春頃から 「 新しい仕事 」 に取り組む予定がある。

20代の若者を相当数お預かりして、ビジネスマンとしての教育を施し、企業に再配置することが 「 使命と役割 」 で、面白いけれど責任の重い仕事だ。

そのために、自分自身も 「 勉強中 」 で、新しい資格を昨年中に取得したし、今年も別の資格を取得するために、日々、若干の時間を割いている。

たぶんこれが 「 45歳のときの仕事 」 として、後から振り返れるようなものになるだろうし、自分でも成果を期待している。

立派そうな仕事だが、「 ボランティアではない 」 ので、いやらしい話だけど 「 お金 」 も、けっこう儲かるのである。


それまでの間は、一部の企業と、関係する 「 お役所 」 への往復が忙しく、たいして投資は必要ないが、かなりの時間を浪費することになるだろう。

また、この仕事の詳細は 「 守秘義務 」 があるので、あまり話せない。

この日記でも、デュアルタイムに書くことには制約があるので、もう少し先になって 「 時効 」 がくれば、苦労話など載せたいと思う。

それまで 「 日記 」 が続いていればの話だけれど、「 喋りたがり 」 の私のことだから、どこかで報告させていただく機会もあるだろう。

そんな決意と希望をもって、私の45歳を 「 始動 」 することにしよう。






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2005年02月04日(金) 最強の企業が持つ 「 魔法 」



「 人のやったことは、まだ人のやれることの百分の一にすぎない 」

                         豊田 佐吉 ( 発明家、事業家 )

What people have done is only one-hundredth of what they are capable of.

                              SAKICHI TOYOTA



豊田 佐吉 氏 は、自動織機の開発などで知られる 「 発明王 」 である。

彼の息子 喜一朗 がつくった自動車会社は、現在の 「 トヨタ自動車 」 だ。


低迷する日本経済界において、トヨタ自動車は二年連続して一兆円を超える純利益が計上できる見通しで、今期は 「 史上最高益 」 となりそうだ。

全体が悪い時期に、堅調な企業があることも珍しくはないけれども、それはベンチャーや、小さい企業である場合が多い。

大企業であればあるほど、市場の影響を受けやすい環境にもあり、消費の低迷が直撃しやすい状況にあるからだ。

そんな中で、世界販売を堅調に伸ばし、経費削減効果によって営業利益を400億円も押し上げたトヨタの偉業は、賞賛に値する。

名実ともに 「 日本を代表する企業 」 として、彼らは頂点に立っている。


過去において、トヨタは 「 トヨタ方式 」 という言葉で内外から注目を集めたことが二度あり、自動車業界のみならず、世界中がそれを学ぼうとした。

最初は 1973年 「 オイルショック 」 のときで、次は 1991年 「 バブル崩壊 」 直後のことである。

どちらも飛躍的な経済成長に 「 突然の逆風 」 が吹き荒れた時期で、急激な経済環境の変化により、多くの企業は軒並み赤字に転落していた。

ところが、トヨタだけは黒字を保ち続けていたのである。

数ある企業の中で 「 どうしてトヨタだけが 」 という疑問が沸き立ち、それはやがて 「 環境の変化に強い経営戦略 」 という答につながっていった。


1970年代、それは 「 世界最強 」 といわれたアメリカの製造業が、敗戦から立ち直った日本の製造業に敗れるという 「 歴史的瞬間 」 でもあった。

アメリカが、なぜ日本に負けることになったのかを調べていくうちに浮き彫りとなったものの代表格が 「 トヨタ方式 」 である。

当時のアメリカにおける製造業には、経営戦略はあっても、「 製造戦略 」、あるいは 「 現場戦略 」 がなかった。

この事実を、主にトヨタの生産方式を調べることで、彼らは知り得たのだ。

その後、注目を浴びたトヨタ方式は 1980年代にアメリカへ、1990年代にはヨーロッパへ浸透し、世界の製造業で導入、展開され、現在に至っている。


面白いのは、トヨタの社員に 「 “ トヨタ方式 ” とはなにか? 」 と尋ねたら、三種類の答 ( 解釈 ) が返ってくるというところだ。

たとえば、生産現場の作業員に聴くと 「 それは “ トヨタ生産方式 ” だ 」 として、「 ものづくり 」 の在り方だという答が返ってくる。

リーダークラスの作業者や、技術者、管理者、事務系スタッフに尋ねると、「 それは “ トヨタ改善方式 ” である 」 という答が返ってくる。

無駄を徹底的に排除する “ トヨタ の改善姿勢 ” を思い浮かべる人が多く、それこそが 「 トヨタ方式 」 と信じて疑わない。

また、経営層に尋ねると 「 それは “ トヨタ経営方式 ” だ 」 と答え、変化し続ける経営思想こそが、「 最強の経営理念 」 という解釈になっている。


大事なことは、「 どれが正解か 」 ということではない。

職種や階層を超越した、あらゆる部署で 「 自分は最強の “ トヨタ方式 ” で仕事をしなければならない 」 という理念が浸透していることが素晴らしい。

これまでに、さまざまな国の、ありとあらゆる業種、業態を持つ企業がトヨタを見学し、「 トヨタ方式 」 を享受しようと試みてきた。

それで実績の上がった企業もあれば、相変わらずのところもある。

業務の効率化や、生産性の向上といった 「 技術的な側面 」 ばかりに囚われて、真の 「 強み 」 に気づかない企業には、あまり効果がないようだ。






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2005年02月03日(木) 敗北宣言



「 ほんのわずか謙虚だったら、私は申し分なかったんだが 」

                         テッド・ターナー ( CNN社長 )

If I only had a little humility, I'd be perfect.

                                TED TURNER



デュアルタイムで観た兄と、再放送でしか観た記憶のない私。

二人揃ってケーブルテレビで、数十年ぶりに 『 隠密剣士 』 を鑑賞した。


兄いわく、「 デュアルタイムで観たときより、映像がキレイな気がする 」 とのことだったが、保存状態が良いか、技術的な処理が施されているのだろう。

あるいは、当時の白黒テレビよりも、受像機が発達したせいかもしれない。

この 『 隠密剣士 』 は、1962年に放映された “ テレビ時代劇 ” で、主演は 『 月光仮面 』 と同じ 大瀬 康一 さん である。

この作品は、空前の 「 忍者ブーム 」 を巻き起こし、当時の子供たちが刀を振り回して、チャンバラごっこに興じるキッカケとなった。

滅多に兄を招くこともないのだが、あまりの懐かしさに驚き、録画して、二人で観ることにしたのだ。


ケーブルテレビで他に観たものは、やはり昔懐かしい 『 ナポレオン・ソロ 』 という、60年代アメリカの “ スパイ活劇シリーズ ” である。

他は、せわしなくチャンネルを変えて、ぼんやりと数十チャンネルを見比べるだけで、これといって観たい番組もなく、あまり役に立っていない。

料金は 月額 ¥ 5,040− ( 税込み ) で、口座から引き落とされる。

若干、もったいない気もするけど、兄に 『 隠密剣士 』 を見せてやれたし、今後、さらに観たい番組が放映される期待もある。

多チャンネルなので、どこかで好きな番組が放映される可能性は高い。


以前、「 NHK の受信料は払わん 」 と日記に書いたが、そのことについて、とある場所の掲示板でお叱りを受けた。

どうやら、世間の良識ある皆様の大部分は 「 きちんと支払っておられる 」 ようで、堂々と 「 ケチって払わない 」 と宣するのは、不行儀なようだ。

たしかに、「 放送法 」 で定められているし、生活に負担となる額でもなく、支払いに応じないことは 「 違法 」 なのかもしれない。

しかしながら、どうしても私には 「 支払うべき理由 」 が見出せず、徴収人をはじめ、いろんな人が説明してくれるのだが、納得のいく話が無い。

それを 「 ケチ 」 だと言われれば、そうかもしれないし、「 難癖 」 をつけていると言われれば、そうではないとも言い切れない。


自慢にできる話でもないが、「 税金 」 はきちんと収めている。

光熱費や電話代などの 「 公共料金 」 も、遅延なく支払っている。

それは、「 法律で決まっているから 」 という理由よりも、支払う目的や意義に賛同できるからであったり、あるいは 「 無いと困るから 」 だったりする。

その点、いくら 「 放送法で決まってますよ 」 と言われても、無くても困らないと思っている NHK に対し、お金を払う理由がわからない。

つまり、これだけはどうしても 「 納得できないので払えない 」 のである。


観てもいない ( チラッとは観たかもしれないが ) 怪しげな アダルトサイト から、ある日突然、法外な 「 料金請求 」 が来たとする。

観てないと断っても、「 いや、絶対に観たはずだ 」 と言われ、挙句の果てには 「 観てなくても、こっちは放送したんだから払え 」 と執拗に督促する。

快く受信料を支払っている皆様には信じられないだろうが、私の持つ NHK の徴収システム の印象は、まさにこんな感じなのである。

ケーブルテレビのように、「 観る、観ない 」 の選択肢が与えられず、納得していないのに 「 国民にとって必要なもの 」 との価値観を押し付けられる。

理由をつけて支払わないことが 「 難癖 」 なのか、その徴収理由こそが 「 難癖 」 なのか、本当に理解が及ばないのである。


それで、私に 「 受信料を支払わなければならない、納得できる理由 」 を説明してくださる方がいれば、考えを改めてもよいと思っていた。

当然、本音としては 「 この不払い理由には確固たる根拠があって、簡単に論破できるものではない 」 という自信があってのことだ。

たとえ裁判になろうと、小泉首相が説明に来ようと、「 私のほうが正しい 」 と主張するつもりだったし、誰にも 「 負けん 」 と自負していた。

それに、私は 「 頑固 」 なところがあり、「 負けん気 」 が強く、一度、こうと思ったら、意地になってでも、なかなか 「 負け 」 を認めないだろう。

なぁに、それに反論するのは 「 主婦の皆さんが集まる掲示板 」 で、この私にとって 「 歯ごたえのある敵 」 にもなるまい・・・と見くびっていた。


ところがいきなり、かなり 「 揺さぶられる意見 」 が返ってきた。

たとえば、「 災害時に24時間、報道する局が他にあるか? 」 という意見。

多チャンネルになったことで、「 他局にない特徴など無いわ 」 と思い込んでいた私にとっては、ちょっと 「 目からウロコ 」 の真実である。

しいて言い返すならば、「 災害の現地では、テレビを見る余裕などない 」 と言えなくもないが、他地域の人々が報道に接することも無意味ではない。

たしかに、ここを突っ込まれると、なかなか反論できない。


それ以上に印象強い意見 ( 先ほどと同じ人から ) は、「 海外との連携 」 という点に関する指摘である。

特に、「 国の動向を海外に流す役割 」 を担っている責任を、「 不要 」 とするのは暴論で、たしかに認めざるを得ない。

まことに悔しいけれど、この勝負 「 私の負け 」 である。

ただ、最後に負け惜しみを言わせていただくならば、NHK に負けたのではなく、私は 「 餡子 さん 」 に負けたのである。

20年間、不払いだった人間が 「 この時期 」 に払うと、かなり天邪鬼な奴だと思われるかもしれないが、今週中には手続きを済ませる予定である。






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2005年02月02日(水) 語りたいお年頃


「 年齢の話をするなんて、退屈の極みです 」

                            ルース・ゴードン ( 女優 )

Discussing how old you are is the temple of boredom.

                               RUTH GORDON



あと三日で、私も 「 45歳 」 の誕生日を迎える。

いつの間に、そんなに年をとってしまったのか、まったく記憶に無い。


年長者が若者に対して 「 俺達の若い頃は 」 から始まる口上を語るのは、誰が最初なのか定かでないが、古くからの慣わしで、今後も続くだろう。

それが別に 「 悪い 」 とも 「 良い 」 とも思わないし、気にする必要もない。

熱く語りかけ、真摯に受け止めても良いし、語る方が 「 教訓 」 と信じ込み、聴く方は 「 自慢話 」 だと評価しても、さほど害のあることではない。

大抵の場合、年長者の方が立場的に優位なので、こちらは過ぎ去りし日の情景に想いを巡らせ、気持ちよく話していることが多い。

難しい顔をして、時勢を嘆きつつも、目の前の若造との 「 世代間ギャップ 」 を愉しんだり、自分の過去を都合よく 「 改ざん 」 したりする余裕がある。


聴いている側は不利な力関係にあり、それを強制される場面も多い。

ときには、物分りが良さそうな顔をして 「 参考になればと思って 」 だとか、「 嫌なら聴かなくてもいいんだけど 」 など、前置きをつける語り手もいる。

実際には、「 参考になりませんし、忙しいので聴きたくありません 」 と冷たく断れないケースが大半なので、この前置きにはあまり意味がない。

どっちみち聴かされるのなら、「 そこに座れ、俺の話を黙って聴け 」 ぐらいの強引さで居直られるほうが、よっぽどマシだったりする。

反論すると 「 経験が足らん 」 と決め付けられ、同意すると 「 お前みたいな青二才に、何がわかるのだ 」 と逆ギレされたりするので、対応は難しい。


私は 「 仕事帰りに サラリーマン が立ち寄る居酒屋 」 みたいな場所が好きではなく、滅多に足を運ばないのだが、そういう場所が好きな人もいる。

それで、仕方なく一緒に行ったりすると、店のアチコチで 「 俺の若い頃は 」 の イントロ から、上司らしき人間が部下に訓示を垂れる姿に遭遇する。

酒がすすむにつれ、たまに 「 飲んどるかぁッ! 」 と大声を発してみたり、「 飲め、飲め、食え、食えッ! 」 と、無意味に勢いをつけたりしている。

酒なんて、自分のペースで飲むから旨いのであり、いくら 「 タダ酒 」 だったとしても、説教されたり、愚痴られたり、いきなり飲めといわれても旨くない。

こういう人の話を聴いて、過去に 「 ためになった 」 と感じた記憶もないし、なるべく付き合わないのだが、どことなく憎めなく、慣れてくると面白い。


そんな経験を積んで、自分だけは 「 そんな中年になりたくない 」 と決意し、年齢を重ねていった人も多いだろう。

私もその一人で、「 部下には部下のプライベートもある 」 と知っているし、仕事が終わってまで付き合うのも、付き合わせるのも控えている。

それでも、たまに残業で遅くなったり、悩み事があるような様子に気づくと、「 軽く付き合え 」 という場面も皆無ではない。

できるだけ、仕事の話は避けるようにしているが、やっぱり 「 友達同士 」 ではないので、おのずから共通の興味がある 「 仕事 」 に話題が向く。

ここで 「 説教 」 したり、過去の成功事例を語っては 「 俺の若い頃は 」 の世界に浸ってしまうので、話し方には気をつかっているつもりだ。


そういう時には、なるべく 「 部下に喋らせる 」 と、上手くいくことが多い。

仕事中は、命令系統の関係もあって、ゆっくりと部下の意見を聴いたりする余裕に乏しく、一方的に指示したり、仕事を教えたりする場面が多くなる。

ちょっとぐらい間違っていたり、勘違いしていると感じても、飲みにいったときぐらいは、茶々を入れずに部下の気持ちを吐露させるのも良いだろう。

話すことで優越感に浸ったり、あるいは仕事のストレスが解消されることも多く、相手の本音を探ったり、意外な一面に気づくことだってある。

いま思うと、「 俺の若い頃は 」 を話していた上司は、自分の話を逆らわずに聴いてくれる部下と飲んで、ストレスを紛らわせていたのかもしれない。


一通り部下の話を聴いて、どうしても否定したいことや、反論がある場合には、その場で 「 処理 」 したほうが良い。

翌日まで引きずって、職場で 「 昨夜の居酒屋の話だけど 」 なんて切り出すのは、あまり具合のよい話とはいえない。

あるいは、その場で議論が決着しなかったなら、すっぱりとその話は忘れ、「 なかったこと 」 にしてしまったほうが良いだろう。

先日、30代前半の男女十数名と、お洒落な居酒屋に出かけてきた。

あとで参加者の一人と、その夜の思い出話をすると、たしかに 「 自慢話 」 は語らなかったが、しきりに 「 飲んどるかあッ! 」 とは叫んでいたらしい。






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2005年02月01日(火) ファンの期待はいま、どこにあるのかという問題



「 お客さんに喜んでもらって、お金を稼ぐのがプロ。 

  楽しくやって、観ている人を魅了し、夢を与えられるようになりたい 」

                           野茂 英雄 ( プロ野球選手 )

A professional makes money by entertaining people.
I want to enjoy myself playing baseball, and let audiences enjoy and get inspired.

                                  HIDEO NOMO



私が好きな英単語を一つ挙げるなら、それは 「 enjoy 」 かもしれない。

人生は 「 楽しく 」 あるべきで、努力も修練も、そのためにこそ存在する。


日本人は、スポーツ競技の名称に 「 道 」 を付けるのが好きな民族だ。

たとえば 「 野球道 」 とか、「 スキー道 」 とか、いった具合に。

これは 「 武士道 」 から引き継いだ精神世界の戒律めいたもので、肉体や技術を鍛えると同時に、崇高な精神を培うことを旨とする傾向にある。

私も若い頃からスポーツは好きだが、それを 「 楽しめる 」 ようになったのは、年をとって 「 競技 」 などとは縁遠くなってからのことだ。

現役で張り合っている頃には、とても 「 楽しむ 」 余裕などなかった。


数あるスポーツの中でも、日本人に広く好まれる競技が 「 マラソン 」 だ。

実際にフルマラソンを走る人は少ないが、「 TV中継 」 の視聴率は高くて、老若男女を問わず、幅広い視聴者層を獲得している。

その理由として、第一に 「 ルールが単純明快で、誰にでも理解できる 」 ということが挙げられる。

第二に、「 苦しそうに頑張っている人を、思わず応援したくなる 」 といった 「 根性礼賛 」 の気質を、潜在的に備え持つ人が多いのではないだろうか。

体調万全の選手が余裕を残して勝つよりも、大怪我から立ち直った選手がヘロヘロになってゴールインするほうが、「 よう頑張った 」 と称えられる。


そういった 「 根性至上主義 」 も、競技によっては変化が出始めている。

当然、良い結果を出すためには 「 それなりの努力 」 を必要とするのだが、それを大衆に 「 悟られまい 」 とする選手も、一部に現れ始めた。

たとえば、「 日本ハム・ファイターズ の 新庄 選手 」 などは、野球に対して 「 真摯に取り組む 」 という印象だけに留まらず、多彩な魅力をふりまく。

それを 「 ファンサービス 」 として評価する人もいれば、不謹慎ではないかと眉間にしわを寄せ、あまり快く思わない人もいる。

野球を 「 ショービジネス 」 として観戦するか、「 野球道 」 として立ち会うかの違いが、その差にあるのかもしれない。


野茂選手が最初に大リーグへ挑んだとき、「 野球を楽しんできます 」 という言葉を日本のファンに残して、旅立っていったそうである。

これは従来の日本野球には無かった発想で、当時、鮮烈な印象があった。

結果として、彼は大リーグ挑戦一年目にして13勝6敗という好成績を挙げ、見事に 「 新人王 」 に輝いたのである。

日本に居たときも幾多の栄誉を掌中に収めており、球界を代表するスターではあったが、当時は 「 正当な評価を受けていなかった 」 気もする。

愛嬌をふりまくかどうかは別としても、「 質実剛健 」 と 「 楽しむ 」 の間には、根の深い溝のような価値観の違いがあったのではなかろうか。


彼の後から 「 イチロー 」、「 松井 」 らの選手が続いて、大リーグが身近になったと同時に、日本野球に対するファンの感覚も変わってきた。

結果さえ出せば、それを 「 苦しそうにやる 」 ことも 「 楽しそうにやる 」 ことも、あるいは 「 ストイックにやる 」 ことも、それぞれに認められてきた。

今年も数名の選手が大リーグ入りを表明しており、新しい挑戦が始まる。

それ自体に問題はないのだが、ちょっと気になるケースも現れはじめた。

球界を代表する人気チーム 「 巨人 」 と 「 阪神 」 の両エースが、電撃的に大リーグへの移籍を口にし始めたのである。


もちろん、エース級の力を持つ選手だからこそ、挑戦する意欲も、期待度も高いのだが、いきなり 「 手続き 」 を省いて突進することには問題がある。

たとえば 「 イチロー 選手 」 の例をみると、二年ぐらい前から 「 意思表示 」 を示し、穏便に球団との交渉を繰り返していた。

阪神大震災の年には、「 頑張ろう神戸 」 の腕章を巻いてチームを優勝に導き、被災した地元ファンに最高のプレゼントを贈る結果を残した。

ファンの多くは、彼の勇姿が目近に観られないことを惜しみつつも、本人が希望するならぜひ 「 行かせてあげたい 」 と、快く送り出したのである。

ある日突然に、ファンを置き去りにして 「 自分勝手な要求 」 を叩きつけたわけでなく、それなりの準備と熱い情熱に対して、ファンが後押ししたのだ。


その点、今回の 「 上原 」、「 井川 」 両選手の場合はどうか。

昨年、選手会によるストライキで 「 ファンを無視するな 」 とオーナー会議に苦言を呈した意向に、自ら背く姿勢をとることは許されない。

夢や憧れを持つことは、けして悪いことではないし、より高みに自分を置いて挑戦する姿勢も、それは大いに評価する。

しかしながら、プロである以上 「 自分も楽しみ、観る人も魅了する 」 ことが大切で、ファンの期待がいま 「 どこにあるのか 」 を忘れてはならない。

それは、それが 「 ショービジネス 」 であっても 「 野球道 」 であっても変わらない事実で、一番肝心なところではないかと思う。






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