Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年12月31日(金) 大晦日の決意



「 忙しいだけでは十分でない。 問題は何で忙しいかである 」

                ヘンリー・デービッド・ソロー ( 歴史家、作家 )

It's not enough to be busy. The question is what we are busy with.

                        HENRY DAVID THOREAU



ご多分に漏れず私も、年の瀬で慌しくしている。

こんな日にも日記を読んでくださる方がいるのは、嬉しいかぎりだ。


奈良では、鬼畜とも思える犯行の加害者が、ようやく逮捕された。

彼ほどではないにしても、「 間違った ベクトル に エネルギー を放出するのに忙しい 」 という御仁は、けっこういるだろう。

人も企業も、かぎられた資産や能力を、正しい方向に集中させてこそ、効果的に結果を出せるものであり、そうありたいものだ。

ただし、一見、無駄と思える行為でも必要なものはあるし、生産性が高いからといって、そこばかりに注力すればよいというものでもない。

仕事において、「 何で忙しいか 」 ということは、実は難しい課題なのだ。


この一年において、私が一番よく働いたのは 11月 であった。

自分の会社を経営しながら、二つの企業の顧問と、役員をしていた。

現在、その一つからは解放されたのだが、最後の大仕事として 11月 には 280時間を割いて、ご奉公させてもらったのである。

最後の仕事だからこそ、全力を尽くして改革したい事柄が多かった。

故事に 「 発つ鳥、跡を濁さず 」 という言葉もあるが、何も残さないというのは簡単な話で、「 良い仕事を残し、良い跡を濁す 」 ことが望ましい。


今年を振り返ると、正直、あまり儲かった年とは言えなかった。

それでも、忙しく動いた成果が、来年への期待にはつながっている。

来年は新しい雇用を創出できそうだし、ちょいと暇ができたら、スキーやら、旅行やらに行けそうな目途もついてきた。

三歩進んで、二歩下がる。

それでも前には向かっているのだし、いつかは 「 千歩進んで、一歩も下がらない 」 という日を目指して、頑張っていけばよい。


世間では中高年と呼ばれる年齢になったが、まだまだ青いところがある。

いまだに失敗も多いし、未知の事柄に出会い、はっとしたり、瑣末なことで喜んだり、青ざめたり、今後も勉強しなければならないことが多い。

それでも、無駄や失敗に落ち込むことなく、あとの人生で、それを肥やしに変える努力や、研鑚を続けていけば、必ず実を結ぶと信じていこう。

親にもらった頑健な体と、明日への希望があるかぎり、未来は明るい。

来年も忙しい一年になりそうだが、頑張っていきたいと思う。


( 本日のおさらい )

「 正しい目的に向かって、“ 忙しい ” ことが肝要 」






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2004年12月30日(木) 自然のなかで最も弱いもの



「 人間は一本の葦にすぎない。 自然のなかで最も弱いものだ。

  しかし、人間は考える葦である 」

         ブレーズ・パスカル ( フランスの科学者、思想家、文学者 )

Man is no more than a reed, the weakest in nature.
But he is a thinking reed.

                               BLAISE PASCAL



年末の土壇場にきて、「 未曾有の大災害 」 がアジア広域を襲った。

いかに津波の脅威が恐ろしいものなのか、初めて知った人も多いだろう。


現在も行方不明者の捜索が続いており、最終的な被害の状況は明らかにされていないが、死傷者の総数は 「 10万人 」 を超える可能性もある。

地球温暖化による異常気象、大地震、季節はずれの台風など、日本国内でも自然災害の被害が多かった一年だが、これほどの災害は類をみない。

今回の津波による被害で、少なくとも40名以上の死者を出した スリランカ 南東の 「 ヤラ 国立公園 」 では、驚くべき報告が伝えられている。

同国立公園には、豹や、数百頭の野生の象が生息していたのだが、奇妙なことに 「 動物の死骸 」 が、まったく発見されないというのだ。

専門家の弁によると、「 動物には天災を感知する能力がある 」 とのことで、彼らは事前に 「 第六感 」 で異変を察知し、危機を逃れたのだという。


それが事実であるならば、人間とは、なんと弱い生き物なのだろう。

火を恐れず、道具を使い、数々の機械を発明し、言葉という ツール を操りながら コミュニケーション を展開し、芸術や文化を創造した。

地球の支配者として君臨し、資源や、他の動物の生態系を管理する。

万物の頂上に輝く 「 王 」 のような存在でありながら、いとも簡単に生命を落とし、災いを予知することも、逃れることもできない。

自然の脅威だけではなく、お互いの争いごとや、瑣末な欲望のために同類を殺し、なかには生きること自体を放棄して、自殺する臆病者までいる。


いかに 「 王 」 のごとく振舞っても、人の生命とは脆いものである。

だからこそ、与えられた生命を大切にし、悔いのない一生であるように努めなければならず、それは、今このときも例外ではない。

パスカル が言うように、人間は弱いけれども 「 考える 」 という能力を他の動植物よりも過分に与えられた存在である。

何事も、十分に考え、そして限りある生命を謳歌するように、自らの意思で積極的に行動することが、責務でもあるし、また楽しみでもある。

この 「 楽しむ 」 という部分が大事で、たとえば 「 食べる 」 という行為にしても、人は 「 生命を維持するため 」 以外に 「 楽しむ 」 という面がある。


仕事も、これと同じである。

毎日を大切に生き、よく考え、悔いの残らないように行動し、それを楽しむ。

たまに、「 仕事は嫌々やって、オフ にだけ楽しむ 」 という人もいるが、なるべくなら、多くの時間を過ごす仕事においても、楽しいほうがいい。

仕事を楽しくする秘訣は、まず、「 成功すること 」 である。

成功すれば、大抵は待遇にも恵まれるし、周囲の期待に応えられ、賞賛を浴びるし、そうでない職場を変革することも、成功者なら可能になる。


いつ、大きな自然災害や、犯罪の被害に遭遇し、命を失うかもしれない。

それでなくても、人の一生とは短いもので、一度しか与えられないせっかくの機会を、十分に楽しまなくてどうするのだ。

仕事に必死で、「 心の満足を求めたり、人生を楽しむ余裕なんてない 」 などと言う人もいるが、けしてそうではないはずだ。

むしろ、「 自分の人生を楽しもうとしない人には、いい仕事ができるはずがない 」 ように私は思う。

被災した死傷者のご冥福を祈ると共に、生きている者の努めとして、仕事と人生を エンジョイ することを、ここに誓う。


( 本日のおさらい )

「 人生は短いからこそ、“ 楽しむ ” ことが大事 」






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2004年12月29日(水) プレゼンテーションの極意 その3



「 ずば抜けた仕事をやらないなら、はじめからやるな。

  ずば抜けた仕事でなければ、儲かりもしないし、面白くもない。

  面白くも儲かりもしない仕事をやって、一体何になるんだ。  」

       ロバート・タウンゼント ( エイビス CEO = 最高経営責任者 )

If you don't do it excellently, don't do it at all.
Because if it's not excellent, it won't be profitable or fun.
and if you're not in business for fun or profit, what the hell
are you doing there?

                           ROBERT TOWNSEND



まったくもって、その通りである。

いい加減な仕事で 「 そこそこの 」 実績を挙げても、まるで意味がない。


なんとはなく始めてしまった 「 プレゼンテーションの極意 」 だが、具体的な手法を説いてないので、ちょいと名前負けした企画かもしれない。

技術的な面や、資料作りの ノウハウ については、なかなか文字だけで伝えることは難しく、また 「 すべての人に通用する 」 マニュアル は無い。

あくまでも 「 心構え 」 として、参考にしていただければ幸いである。

今年 ヒット した邦画に 『 世界の中心で愛を叫ぶ 』 という作品もあったが、プレゼンテーション を行う人の スタンス は、まさしくそれにあたる。

自分が 「 世界の中心 」 に位置し、すべての聴衆を巻き込むほどの勢いをもって、その場を魅了するぐらいの情熱と、覚悟があってほしい。


私は外資系の企業に長く勤めていたが、外資では 「 英語の堪能な人 」 か 「 プレゼンテーション の巧みな人 」 への評価が高いと言われている。

そのせいか、社内には 「 プレゼンテーション の巧みな人 」 が多く、全体的な水準も、世間一般に比べて、かなり高かったように思う。

PC の普及や、ビジネスモデル の変化などによって、近頃は日本の企業でも 「 プレゼンテーション の重要性 」 が問われる時代になってきた。

その結果、昔と違って 「 猫も杓子も 」 パワーポイント で資料をつくり、いろんな人が プレゼンテーション を行うのだが、出来の良い物は少ない。

資料そのものは遜色ない仕上がりでも、発表者の熱意が伝わらなかったり、簡単な質問に答えられなかったり、私を満足させた例は皆無に等しい。


前回の日記で、『 ジャパネット たかた 』 の話を例に挙げたが、あの CM に出演している 「 高田 社長 」 の プレゼンテーション は、質が良い。

流暢ともいえない語り口と、全国放送には不具合な、「 地方独特の訛り 」 があるけれども、それを克服して余りある 「 情熱 」 が画面から伝わる。

彼らは社内に 「 テレビスタジオ 」 を持っており、撮影も、調整も、司会も、ナレーションも、すべて社員が担当する 「 手作り 」 を特徴としている。

最近の流れと逆行した話だが、「 大事なことは アウトソーシング ( 外部委託 ) しない 」 という信条に基づき、それを 「 自前主義 」 と名付けている。

社員がやるからこそ、スピーディ で、すべて統一した理念のもとに責任ある サービス を徹底するという方針は、経営の王道として理にかなったものだ。


最近の PC や、デジタル 家電というものは、日進月歩で技術革新が進み、かなり短いサイクルで、次々と新製品が生まれてくる。

同じ商品の PR を続けていたのでは、すぐに消費者から飽きられて、取り扱い商品の鮮度と価値は目減りしてしまう。

自社で スタジオ を武装していれば、午前中に入荷した新製品を、午後からの作業で収録し、その日の夜には放映することも可能である。

この 「 斬新で大胆な発想 」 が、彼らの躍進する原動力となった。

長崎の佐世保に本社を置いている不便さも、この 「 仕組み 」 が克服しており、東京の小売店にも負けない競争力を擁しているのである。


また、高田 社長 自らが出演し、実際に製品を操作しながら解説するという手法にも、かなりの工夫がみられる。

ただ使ってみせて、物を売るだけなら 「 バナナの叩き売り 」 や 「 包丁の実演販売 」 と変わりないのだが、もちろん、そうではない。

彼らは 「 大道芸人 」 とは違って、「 ワンショットビジネス 」 では成り立たない企業組織と、責任を背負っている。

継続的に需要を求めることが責務であり、「 使わないかもしれない、満足しないかもしれないが、買ってください 」 という姿勢では、成立しないのだ。

お客に、「 使ってもらって、満足してもらって 」 明日の需要につなげる必要があるので、社長自身が使い方や機能を熟知していなければならない。


高田 社長 の プレゼンテーション からは、「 買ってください 」 ではなくて、「 使ってください 」 という メッセージ が伝わってくる。

彼は、ある番組の中で 「 衝動買いでも、満足が得られるのなら許される 」 という発言をしていたが、これはなかなかの名言だと思う。

そのような 「 強い信念 」 や、「 商品に対する誇り 」、「 自社の仕組みについての自信 」 などが、「 強い プレゼンテーション 」 に反映されている。

他社の人も、「 その商品が、どのような経緯で開発されたのか 」 だとか、「 消費者にどのような利益をもたらすのか 」 という点を研究するべきだ。

それなりに知識や技術があっても、そのあたりが 「 薄っぺらい 」 ようでは、「 ずば抜けた仕事 」 はできず、壁を破ることができないのである。


( 本日のおさらい )

「 プレゼンは、相手に捧げる “ 愛の言葉 ” 」






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2004年12月28日(火) プレゼンテーションの極意 その2



「 幸運とは、準備が機会に出会うことである 」

                  オプラ・ウィンフリー ( トークショーのMC )

Luck is a matter of preparation meeting opportunity.

                              OPRAH WINFREY



実際、人は 「 運 」 という不規則な事象に振り回されることがある。

予期せぬ不運や、思いがけない幸運というものを、誰しも経験したはずだ。


それでも、できるだけ 「 幸運 」 に恵まれやすい環境はつくることができる。

成否の鍵は、不規則に訪れる 「 運 」 という機会に備え、日ごろから準備を怠らないようにしておくことで、そうすることによって、幸運に恵まれやすい。

必ずしもそうだとは言い切れないが、そこが 「 運の良い人 」 と 「 そうではない人 」 を分かつ差となっている事例は、たしかに数多くみられる。

あるいは、「 運の良い人 」 というより、「 幸運を引き寄せられる人 」 と言い換えたならば、さらに理解しやすいかもしれない。

いつ訪れるのかわからない 「 “ 運 ” という名の機会 」 だからこそ、たえず準備を整え、それが評価の対象に当たらないときも、手を抜かないことだ。


仕事の経験というものは、単に 「 結果 」 を出すだけの作業にとどまらず、積み重ねることによって、自己を 「 鍛錬 」 する効果がある。

業界を問わず、長年にわたって良い仕事を続けてきた人をみると、彼らが人間としても素晴らしく磨かれた 「 好人物 」 であったりもする。

大抵の場合において、長く続けられた秘訣、成功の秘訣は、常人に真似の出来ないような 「 荒唐無稽な技術 」 ではなく、もっと地道なものだ。

たとえば、他人が見ていないときも ベスト を尽くすとか、同じ作業を人よりも多くこなすとか、そういった類の努力による結果である。

なかでも、「 準備 」 に手間をかける習慣を持つ人は、ゆとりを持った仕事ができることもあり、成功する確率が高いのではないだろうか。


プレゼンテーションの場合も、「 準備 」 が大切であり、それによって成否が決まるといっても過言ではない。

この場合の 「 準備 」 とは、資料の作成や、MC の練習などといった事柄だけではなく、事前の心構え、予測される質問への備えなど多岐にわたる。

たとえば、企業に就職する際の 「 面接 」 なども プレゼンテーション の一種だが、万全に 「 準備 」 を整えているという人は少ない。

予測もつかない質問に面食らうのは仕方がないとしても、「 志望の動機 」 などの、当然、尋ねられるであろう質問にもうろたえる人がいる。

質疑に対する 「 想定問答集 」 を準備して、面接者の質問に対し、さらりと答える人は、けして 「 口が達者 」 なわけではない。


さらに言えば、プレゼンテーション をすることが決まってから準備する人よりも、普段からその テーマ に対して 「 問題意識 」 を持っている人が勝る。

入社したその日から、「 自分はこう思う 」、「 自分なら会社をこうしたい 」 といった理念を追求するような姿勢が、いざという時の発言に現れる。

粋な会話ができるとか、パワーポイント の操作に長けているとか、そういう 「 小手先の テクニック 」 で競おうとする人は、だいたい失敗するものだ。

プレゼンテーション を受ける側が関心を持つ ポイント は、まず内容、そして、いかに内容が伝わるかという点と、発言者の 「 情熱 」 である。

発言者が信念と情熱を持ち、「 感動を呼ぶ プレゼンテーション 」 を行うことが、なによりも大事で、そのためには 「 準備 」 が大切になる。


きちんと準備を整えて プレゼンテーション に挑むことは、その成果だけではなく、その後の 「 スキルアップ 」 にも好影響を与え、成長につながる。

また、他人の プレゼンテーション に耳を傾けたり、わからない部分を積極的に尋ねることも、能力の開発には欠かせない。

社内で参考になる対象がなくても、技術を磨くことはできる。

たとえば、テレビ通販 『 ジャパネット たかた 』 の CM を観ながら、良い点を チェック してみるのも勉強になるし、教材としては面白い。

さらに、自分が同じ商品を視聴者に向けて紹介する 「 ロールプレイング 」 などを行えば、トレーニング としてかなりの成果が得られるだろう。


仕事の性質上、私は プレゼンテーション を行う機会が多い。

その度に、秘訣とか極意を尋ねられるのだが、技術面については 「 回数をこなせば、大抵は上達する 」 と答えるようにしている。

それよりも大事なことは、発表する中身 ( 商品なり、サービスなり ) に対する思い入れや、「 情熱 」 のようなものではないかと思う。

巧く喋ろうとか、その場しのぎの発言では、相手の胸に言葉が届かない。

誰よりも内容を理解し、周到に準備し、情熱をもって臨んでこそ、人の心を揺さぶることも可能で、それが本物の プレゼンテーション となる。


( 本日のおさらい )

「 プレゼンは、自分の “ 情熱 ” を知らしめる場である 」






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2004年12月27日(月) プレゼンテーションの極意



「 不可解なわけのわからない専門用語で、職業がわかる 」

              キングマン・ブリュースター ( 元駐英アメリカ大使 )

Incomprehensible jargon is the hallmark of a profession.

                           KINGMAN BREWSTER



言葉の文化というものには、ファッションと同じく流行がある。

時代と共に生まれ、隆盛し、陳腐化したり、なかには消滅したりする。


江戸時代にまで タイムスリップ しなくても、ある日突然、100年前ぐらいの日本に弾き飛ばされたとしたら、日常会話にも不自由するだろう。

だいたいの意味は理解できたとしても、常用的に使っている英語、外来語の類や、新造語などの 「 現代ことば 」 が通じない場面は多いはずだ。

あるいは20年前、いや、わずか5年前でも、多少の違和感があるだろう。

最近、ケーブルテレビに加入したことから、昔のテレビ番組などが観られるようになったが、そのあたりの 「 台詞回し 」 には笑ってしまうものがある。

当時 「 トレンディドラマ 」 と呼ばれていたものほど、古臭く、視聴する側のほうが、おもわず照れてしまうような会話が多い。


私的な日記や、手紙の類はともかく、後に残すようなビジネス文書の場合、なるべく 「 普遍的な言葉 」 を用いるほうが、賢明というものだろう。

何年か先に、かつて自分の書いた文書を、部下や後輩に発掘され、失笑を買ってしまったのでは、威厳も面目も丸つぶれである。

また、それが業界独自の 「 専門用語 」 だったりする場合には、注釈などを入れておかないと、それが未来で 「 死語 」 になると理解されなくなる。

実際に、何年も前に使われていた表現が死語となり風化したことで、書いた本人すら、前後の文章を読まなければ思い出せないなんて事例もある。

日常的に使い慣れていない言葉は、会話に 「 知的な印象 」 を与えたり、それなりの インパクト を持つが、欠点もあることを忘れてはならない。


最悪なのは、言っている本人が 「 意味もよくわからずに 」 使う場合だ。

言葉の使い方を微妙に間違っていたり、使い所が適切でないため、本当の意味を知っている者から、誤解を受けたり、失笑を買うことが多い。

同じメンバーで、会議や、プレゼンテーションなどを続けていると、発言者の特徴がわかってくるのだが、どこの会社にも 「 そういう人 」 が居る。

つまり 「 誰にでもわかる言葉で、丁寧に内容を伝える 」 という作業よりも、難解な用語を交えて話を複雑にし、発言そのものに価値を与えようとする。

素人相手なら騙せても、その道の 「 プロ 」 を相手にすればまったくの茶番で、カッコいいと思っているのは自分だけなのだが、当事者は気づかない。


たとえば、「 問題点を、戦略的に解決します 」 などという人がいる。

そういう人に私は、先ず、「 問題点 」 やら 「 戦略的 」 という言葉の定義を尋ねてみることにしている。

大抵、簡潔明快に答えられる御仁は少なく、「 それならば 」 難しい言葉など使わずに、もっと具体的に、わかりやすく要点を発表するように求める。

ちなみに、何が正解というわけでもないと思うが、私が思う 「 問題点という言葉の定義 」 とは、「 本来あるべき姿と、現状との差 」 である。

また 「 戦略的という言葉の定義 」 については、「 5W1H ( 誰が、いつ、どこで、何を、どのように、どうするのか ) 」 ということにあると思っている。


専門用語や、難解な言葉を発言する際には、まず、自分自身が熟知していることが大事で、しかも、会場に居る全員が、理解している必要がある。

もちろん、凡庸な言葉では重要度や、緊急性が伝わらないこともある。

大切なことは、言葉の優劣ではなく、真意が 「 届く発言 」 であるかどうかという部分にあり、そこを誤解してはならないのだ。

私自身、プレゼンをする機会が多く、また他人のプレゼンも無数に見てきたが、「 巧いプレゼン 」、「 勝つプレゼン 」 をする人は、そこが違う。

事前に列席者の顔ぶれをみて、それぞれの理解度と、要求水準を見極めたうえで、それぞれの胸に 「 届く発言 」 をすることが、プレゼンの極意だ。


( 本日のおさらい )

「 プレゼンは、相手に “ 届く言葉 ” を投げる作業 」






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2004年12月26日(日) 中高年よ、大志をいだけ


「 あなたがなれたかもしれない人になるのに、遅すぎることはない 」

                          ジョージ・エリオット ( 作家 )

It's never too late to be who you might have been.

                               GEORGE ELIOT



今回から 「 仕事 」 のカテゴリーで、再び日記を書いてみようと思う。

以前は 「 時事/社会 」 のカテゴリーに登録していたが、お引越しである。


20代 〜 30代の人に対して、「 若いんだから、やりたいことをやりなさい 」 などと諭す人の姿を、巷でよく目にする。

たしかに 「 若い 」 ということは 「 失敗 」 というマイナス面を考慮した場合、なんとなく 「 やり直しがきく 」 という印象につながりやすい。

しかし逆に考えると、いま 「 やりたいことをやらない 」 でも、若いのだから後からでも 「 やろうと思えばできる 」 わけだ。

近頃の若い人は無気力で 「 若いんだから、やりたいことをやれ 」 と励ましても積極的に動かないと嘆く管理職もいるが、それは間違いである。

その世代に私なら、「 やりたいことを見つけなさい 」 とは言うが、いづれにせよ、「 やりたいこと 」 なんて言葉で ハッパ をかけられるものではない。


むしろ、「 やりたいこと 」 という言葉に価値を感じているのは、40代以上の中高年で、憧れ、羨望、そして絶望的な 「 あきらめ 」 の対象となっている。

一見、「 やりたいことをやる 」 とか、「 生きたいように生きる 」 というのは、それがもっとも自然で、シンプルなことのようにもみえる。

ところが実際には、ほとんど大半の人が、その生き方を選ばない。

その背景に潜み、自然にあるがままの生き方を遮っているのは、「 人並みの暮らし 」 とか 「 世間体 」 といった 「 安定という名の呪縛 」 である。

多くの者が、「 安定 」 のために 「 やりたいこと 」 を犠牲にする中で、素直に己の本能に従う生き方とは、それなりの覚悟を伴うものなのだ。


もちろん、生活の糧を得るためには、「 やりたくないこと 」 でも請け負わなければならない状況もあるだろう。

それをすべて 「 性に合わない 」 といって遠ざけたり、逃れたりするだけでは、単なる 「 わがまま 」 と判断されても否めない。

しかしながら、「 安定 」 だけが価値基準というのも淋しい話だ。

このあたりの 「 バランス 」 が実は大事で、しっかりと生活基盤が構築できていて、なおかつ、いきいきと人生を楽しんでいくための必須要項である。

それは、言い換えれば 「 生き方のセンス 」 と呼んでもいいだろう。


昔と違って、日本経済は混迷を極め、「 安定 」 した企業が少なくなった。

企業自体は 「 安定 」 していても、そこに働く人々の生活がどこまでも保障されているかといえば、甚だ疑問である場合も多い。

大事な自分の一生を捧げ、「 やりたいこと 」 をすべて犠牲にしたとしても、その引き換えに 「 安定 」 を得られる時代ではなくなってきたのである。

ならば、こんな時代だからこそ、曖昧な 「 安定 」 に心身を委ねるよりも、「 やりたいこと 」 に比重をかけたほうが、得なのではないかと思う。

生活に必要な最低限の収入と、僅かな保障だけを維持しつつ、自分本来の生き方とか、無限の夢に挑戦することが、今の時勢には合っている。


私にとって 「 仕事 」 とは何か。

それは、たしかに重要ではあるけれど、手段であって目的ではない。

人間が死ぬ直前に後悔することは、「 できなかったこと 」 などではなくて、おそらくは 「 やらなかったこと 」 であろう。

そう考えると、「 やれる時間 」 が少なくなっている分だけ、若い人達よりも中高年のほうが、いま 「 やりたいこと 」 をやらなければならないのだ。

これから 「 仕事 」 について日記を書いていく予定だけれども、単に 「 稼ぐ手段 」 というだけでなく、そのような視点で書いていきたいと思っている。


( 本日のおさらい )

「 中高年こそ、いま “ やりたいこと ” をやるべき 」






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2004年12月18日(土) 長い間、ありがとうございました ( とりあえず最終回 )



「 哲学で唯一深刻な問題は、自殺である 」

                            アルベール・カミュ ( 作家 )

There is but one truly serious philosophical problem and that is suicide.

                            ALBERT CAMUS



年の瀬を控え、放火、殺人、強盗と、凶悪犯罪が連発する。

世の中には様々な 「 けしからん奴 」 がいるものだ。


もちろん、他人の生命や財産を侵害する者は 「 けしからん 」 存在だ。

それは、世間の誰もが認め、何の異論もないだろう。

しかしながら、「 では、誰が一番、けしからんか 」 ということについて私は、「 自分の人生を大切にしない奴 」 という意見を譲らない。

その最たるものが 「 自殺企図者 」 であり、忌むべき存在である。

そんな 「 人間のクズ 」 ともいえる連中が、美化され、保護される現代社会の風潮は、まさに 「 国家存亡の危機 」 ともいえる状況にある。


彼らを糾弾すると、一部の方からは 「 TAKA さんは弱者に冷たい 」 などとお叱りを受けるが、自分自身はそう思っていない。

連中は 「 弱者 」 などではなく、単なる 「 怠け者 」 である。

それを疑うならば、彼らに 「 適当な病名 」 をつけてお茶を濁している医師や、専門家に 「 本音 」 を尋ねてみればよい。

彼らの精神が異常な原因は 「 病気のせい 」 ではなく、「 本人のせい 」 であり、それを否定するなら大半の犯罪者は 「 無罪 」 になる矛盾がある。

先天的な症例は別にして、大半の 「 人格障害者 」 は単なる 「 ダメ人間 」 なのに、周囲が甘やかすので、その数は増える一方である。


かたや、身体的な障害や、先天的な知能の障害などを乗り越えて、健気に努力を重ねている人たち、あるいは、彼らを支援する人たちもいる。

私もかつて ( 年齢面で引退を勧められたが ) スポーツの分野でお手伝いをしたり、現在も間接的に協力をさせていただいている。

彼らの姿を目の当たりにした立場からみれば、「 仕事のストレスに負けて、精神科の世話になった 」 みたいな連中は、かばう気がしないのである。

他人のことなどお構いなく 「 自分のことしか考えない 」 人格障害者らは、自分たちこそが不幸だと主張するだろうが、そうなのだろうか。

一生、歩けない体でも泣き言ひとつ漏らさずに努力する人間を前にしても、彼らは同じような 「 言い分 」 を力説できるのだろうか。


それを 「 怠け者 」、「 根性なし 」 とみるのが 「 古い考え 」 で、「 責任感が強く、有能であるがゆえの問題 」 とみるのが 「 進歩的な考え 」 なのか。

私には、どうしても理解できない。

しかしながら、どうやら私の認識は 「 間違っている 」 らしい。

人格障害者が発信する暴論に異議を唱えると 「 お叱り 」 を受けるし、彼らの支持者というのも ( 信じられない話だが ) 相当数、存在するのだという。

そのうえで 「 自分こそが正しい 」 と主張する気もないし ( 病人相手に )、はっきり言って日記を書くこと自体が、なんだか馬鹿らしくなってきた。


それで、しばらくは 「 休載 」 することにした。

人格障害者の暴論を支持したい人を咎める気もないし、それが現代の価値観というものならば、こちらが身を引いたほうが望ましいだろう。

ペンネームどおり、「 老兵は死なず、ただ去り行くのみ 」 である。

近い将来、もしも再開するとしても、エンピツさんの 「 時事/社会 」 というカテゴリーに登録するつもりはない。

この日記を 「 時事/社会 」 だからという理由でご拝読くださった皆様とは、これで最後ということになるだろう。


お別れに、この 「 時事/社会 」 で私がお奨めする日記をご紹介したい。

『 あんた何様日記 』http://www.enpitu.ne.jp/usr4/45126/diary.html

『 日々の映像 』http://www.enpitu.ne.jp/usr2/22831/diary.html

前者は、やや 「 クセが強い 」 部分や、誇張された表現もあるけれど、若者らしい素直な視点と、読み飽きさせない文章力が特徴である。

後者は、きわめて客観的、中立的な記述で、「 真実が伝わりやすい 」 という点においては、もっとも信頼できるサイトではないかと思っている。


年末で慌しいということもあるし、たぶん年内は日記を休むと思う。

来年、再開するとしたら、たぶん 「 ビジネス 」 を中心とした日記か、あるいはお気楽に 「 恋の話 」 か 「 ファッションの話 」 でも書いてみたい。

すくなくとも、「 病気をかさにきて、のうのうと政府の悪口を書き連ねる 」 ような人がいないカテゴリーを探して、腰を落ち着けたいと思う。

もちろん、そんな日記をご覧の方を止めはしないし、賛同して 「 顰蹙を買う 」 ことをお望みなら、ご自由になさって結構である。

とりあえず、本日までご愛顧くださった皆様に御礼を申し上げ、再開の折には、再びお目にかかれることを楽しみにさせていただく所存であります。


( 本日のおさらい )

「 皆様、よいお年を! ( と、言いつつ、すぐに再開するかも?! ) 」


おわり



2004年12月14日(火) 荒療治の是非



「 この世に存在する一切のものに、不要なものなどなにもない 」

                       松下 幸之助 ( 松下電器創業者 )

Nothing that exists in this world is unnecessary.

                       KOUNOSUKE MATSUSHITA



もしも 「 経営の神様 」 が生きていたら、この不況をどう乗り切っただろう。

彼が遺した名言の数々は、挑戦する意欲への 「 無限の広がり 」 がある。


冒頭の言葉だが、本当は、幸之助翁は 「 もの 」 ではなく 「 人 」 のことを言いたかったのではないかという気がする。

世の中には、金持ち、貧乏人、元気な人、病弱な人、仕事のできる人、できない人、賢い人、物覚えが悪い人など、さまざまな人がいる。

いないのは、「 生まれてこなければよかった人 」 である。

もちろん、凶悪な犯罪を実行し 「 死刑 」 を言い渡される例や、人質の生命が危険に晒されているので 「 射殺 」 される例などもあるだろう。

しかしそれは、もともと 「 生まれてこなければよかった 」 わけではなくて、価値ある人生を棒に振り、無駄にした愚かな責任の所為である。


最近、新しい仕事を始めた関係で、いろいろな経歴の人に会うことが多い。

その中に 「 カウンセラー 」 という資格を持っている人や、これから取得しようとする人たちがいて、なかには、私にまで取得を奨められる。

精神科の医師と同じように、ビジネスマンの悩みを聞いたり、効果的なアドバイスをしたりすることが仕事なのだが、これがなかなか大変なのである。

私も、過去に多くの部下を育てた経験はあるが、その場合 「 脱落者 」 や、「落伍者 」 を出したとしても、それは本人の問題として片付けられた。

彼ら 「 カウンセラー 」 たちは、脱落者を出さないばかりか、場合によっては 「 脱落者のみ 」 を対象にして指導する立場にいる。


もう少し年をとって、柔和な人格に変われば話も別だが、いまのところ私には 「 カウンセラー 」 などという仕事ができそうにない。

取得を奨める人も多いのだが、相手が間違った主張を繰り広げるのに対して 「 なるほどね 」 などと悠長に相槌を打てる性分ではないのだ。

彼らが特に気を遣うのが 「 うつ病患者 」 で、精神科と違う点は、ただ休養を取らせるだけでなく、働く意欲を与えたりしなければならない。

当然、「 頑張れ 」、「 根性を出せ 」 はタブーで、やんわりと、相手を褒めちぎりながら、自信を回復させることに努めておられる。

話を聞いているだけで 「 イライラ 」 してしまう私には、とうてい無理な作業であり、いくら仕事といえども、やる気の起こらない話である。


病人を責めても仕方のない話かもしれないが、甘やかすことが 「 治療 」 になっているとも思えない。

もちろん、ある程度は 「 回復 」 までのプロセスとして、慈愛をかけることが必要とは思うが、カウンセラーの努力にも限界はある。

ひとたび外に出れば、厳しい世の中の現実というものがあり、すべての人々がカウンセラーではないのだから、優しくばかりもしてくれないだろう。

彼らを 「 癒す 」 立場の人間がいても、彼らに 「 弾力性 」 や 「 強靭さ 」 を植え付ける人間がいなければ、たちまち窮地に追い込まれる。

悪気がなくても、「 頑張れ 」 ぐらいは普通の会話において発するわけだし、それを 「 言った奴が悪い 」 という論理など、まったく通用しない。


当時はまだ、今ほど 「 うつ病 」 が深刻な社会問題ではなかったけれども、思い起こすと部下の中に、それらしき人物がいた記憶がある。

責めても、誉めても、やる気が起こらない様子で、しまいには 「 死にたい 」 とまで呟く始末なので、かなり手を焼いたものだ。

ほとんど特別扱いはしなかったが、仕事が残ってたら一緒に残業を手伝い、その後は 「 可愛い子ちゃん 」 がいるラウンジで朝まで騒いだりした。

で、酔ったフリをして、ときどき首を絞めて 「 死ぬか 」 と聞くと、「 グヘぇ、助けてくだちゃい 」 と情けない声を出し、笑わせてくれた。

朝の4時まで残業したこともあったが、おかげで 「 優秀部門賞 」 も獲得でき、お互いに給料も上がった頃、病気の影など失せていた。


あのとき、彼が 「 死にたい、やる気がない 」 と言ったときに、私は 「 なるほどね 」 とか、「 無理しないでね 」 と言えばよかったのか。

医者は反論するかもしれないが、私はそうは思わない。

彼らに同調する言葉をかけても、それは 「 裸の王様 」 と同じで、皆が気を遣って 「 本当のこと 」 を言ってないだけである。

誰かが悪者になってでも、「 おまえ、裸やんけ 」 と言わなければ、本人は馬鹿にされっぱなし、恥のかきっぱなしではないのか。

元来、プライドの高い御仁が多いのだから、それが 「 カッコ悪い 」 のだと気づけば、なんとか努力して立ち直ろうともするはずである。


けして彼らも、「 生まれてこなければよかった 」 ような人間ではない。

ただ、このままでは周囲に迷惑をかけ、厄介な存在でしかない立場に、自分自身を追い込んでしまう危険が大きい。

彼らの 「 治療 」 を阻んでいるのは、誰あろう 「 同情的な偽善者 」 たちであり、裸の王様に媚びへつらう従者たちである。

それが 「 うつ病 」 であろうが、「 癌 」 であろうが、「 痔 」 であろうが、病人は 「 自分が病気であること 」 を素直に認め、治療に励まねばならない。

今の世の中は、なぜか 「 うつ病 」 に対して美化する風潮が強く、一部の患者はそれを勲章のように掲げ、世間に甘えようとする。


WEB日記の管理人にも、そういう人がいる。

以前、そのことで 「 個人を中傷した 」 と思われたようだが、特定の人物にかぎらず、数限りなく、まるで珍しいことでもない。

だから、「 誰が 」 ということでなく、そういう方々に忠告したい。

いくら 「 小泉が狂ってる 」、「 ブッシュはアホだ 」 とわめきちらしても、医者からお墨付きの 「 病人 」 はどちらなのか、読む人は知っているのだ。

誰にでも、ただ 「 存在する 」 だけでなく、「 幸せに生きる権利 」 があるし、そのための努力が必要なのだから、その方向に注力すべしである。


( 本日のおさらい )

「 精神疾患は、周囲に甘えているだけでは回復しない 」






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2004年12月13日(月) 動く罪と、動かない罪


「 たくさんの人たちがこの世界の混乱ぶりを歌ってるけど、皆いつも

  そんなことばかり聞きたくはないんじゃないかなと私は思う 」

                            マライア・キャリー ( 歌手 )

A lot of people are singing how screwed up the world is, and I don't think
that everybody wants to hear about that all the time.

                                MARIAH CAREY



よく、「 最近は暗いニュースが多いね 」 などと言う人がいる。

だが過去に、「 明るいニュースの方が多い時代 」 など、あっただろうか。


何がニュースに値する、値しないを決めているのは我々 “ 大衆 ” である。

たぶん我々は本能的に、危険を察知させる情報への欲求が強く、必然的に悲劇的な出来事こそをニュースとして値する習慣がついているのだろう。

捏造された事件でもなければ、それは、マスコミの所業とも言い難い。

マスコミは、事件の真実に “ 否定的な強調 ” を付け加えてみたり、あるいはカモフラージュすることで、バランスをとっている存在に過ぎない。

彼らは皆、大衆が求めた 「 暗いニュース 」 を、望みどおり配信している。


また一年、イラクへの自衛隊派遣が延長されることになった。

後方支援でも、「 武装集団 」 を海外に派遣するのは 「 おだやかな話 」 でなく、そこには暗い戦争のイメージや、不安で悲劇的な印象がある。

現在、日本国内では戦争も、さしあたってテロの脅威に晒されている実感もなく、イラクへ行く自衛隊員だけが、特別な環境に置かれることになる。

これは、その先にある 「 死 」 の不安を思うと、暗いニュースになる。

だから、それを否定する意見があるのも、わからない話ではない。


第二次大戦のさなか、ヨーロッパではファシズムの嵐が吹き荒れた。

ナチスの 「 民族浄化政策 」 によって窮地に立たされた人々や、あるいは無力な抵抗者たちは、すぐに応援に駆けつけない連合軍に苛立っていた。

ようやく、アメリカがヨーロッパの解放に動き始めたとき、彼らは歓喜して出迎え、そこに新しい 「 希望の光 」 を見出したのである。

それは、「 明るいニュース 」 として、ヨーロッパ中に伝えられた。

事実、彼らの派兵があと一年遅れていたら、何万、何十万の犠牲者が増えたことは明らかで、疑う余地もない。


当時、不遇な人々にとっては、アメリカが動かないことは 「 暗いニュース 」 であり、アメリカが動き出したことは 「 明るいニュース 」 であった。

日本の降伏は、アメリカ中が沸いた 「 明るいニュース 」 で、かつてない大規模な戦争の終焉を告げる福音となった。

それを、戦後の日本人が 「 明るいニュース 」 だったと結果的に悟ったのは後の話で、終戦直後の日本人には、「 暗いニュース 」 でしかなかった。

立場により、もたらされる結果により、同じ事実が 「 ニュースの明暗 」 を分けるのは必定で、特に勝敗が決する戦争の場合はなおさらだろう。

戦争とは 「 そんなもの 」 なのだから、仕方がないのである。


日本にどこかの国が責めてきて、占領され、国民が苦しめられたとする。

国連は 「 静観 」 し、各国が 「 話し合いで解決 」 しようとするが、事態は収拾せず、毎日、罪もない日本人が虐殺され、略奪されていく。

そこへ、超大国である 「 A国 」 は強大な軍事力を背景に、盟友の危機を救おうと進軍を行い、それは 「 国連の命に背いた 」 ことで非難を浴びる。

平和憲章によって武力行使を行えない 「 B国 」 は、「 A国 」 の呼びかけによって 「 後方支援 」 に参加したが、国内では反対論が巻き起こる。

結果、「 A国 」 の武力と、「 B国 」 の支援活動が功を奏し、多くの日本人の人命が救われ、平和と秩序が回復する。


この場合に、「 国連の裁定に従わなかった A国 」 や、それに追随をした 「 B国 」 の決定を、日本人は 「 悪い連中 」 と考えるだろうか。

あるいは、武力行使に反対した 「 国連 」 や、その意見を支持した諸外国に対して、日本人は 「 平和的な意思 」 と尊重するだろうか。

そしてなにより、「 日本になんか、軍隊を行かせるな 」、「 後方支援も必要ない 」 と騒ぎ立てた海外の 「 民意 」 を、どのように評価するのか。

大国には 「 動いた責任 」 と、「 動かなかった責任 」 がつきまとい、いづれの場合も、反対論や、恨みを買う宿命を背負っている。

一般論や、善悪の判断だけで、戦争の脅威からは逃れられない。


一年後、イラクに平和が訪れたなら、自衛隊の派遣は 「 明るいニュース 」 となるだろうし、多くの犠牲者が出たら 「 暗いニュース 」 とされる。

それを恐れ、「 見て見ぬフリ 」 をするのも、日本の選択肢ではある。

そこに 「 明らかな混乱と、不幸な状況 」 があることを知りながら、そこから目を背け、遠巻きに見守ることが 「 平和的な善意 」 なのだろうか。

ここで撤退することを政府に要求する人々もいるようだが、その 「 理由 」 というのが、はたして世界中の誰もを納得させられるものなのか。

否定的な暗い面ばかりでなく、自衛隊がイラクの平和や、復興に寄与する貢献を叶えられる機会を助け、希望を持つことも重要ではないかと思う。


( 本日のおさらい )

「 彼らは、国益や、アメリカのためだけに行くわけではない 」






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2004年12月08日(水) 「 法 」 でも 「 善 」 でもなく


「 人々の善が最高の法律である 」

                   キケロ ( 古代ローマの雄弁家、哲学者 )

The good of the people is the greatest law.

                                     CICERO



さらっと流し読めば見過ごしがちだが、なかなか複雑な論理である。

なぜならば、何が 「 善 」 か、「 法 」 か、を見極めることが難しいからだ。


大国への対抗手段として卑劣なテロや誘拐を繰り返す連中に 「 善 」 などなく、当然、そんな自分勝手な理屈が最高の法律では在り得ない。

それを鎮めるため、強大な軍事力で制圧しようとすることも、他に解決する方法がないといえばそうなのだが、けして 「 善 」 ではない。

他人事さと、そ知らぬ顔をしている別の大国にも 「 善 」 はなく、後方支援をせざるを得ない同盟国も 「 最善手 」 ではあるが 「 善意 」 ではない。

どうすれば世界の平和が保たれるか考えようともしないで、最悪の輩を支持するかのごとく、大国のやり方を批判するヒネクレ者も 「 善 」 ではない。

以上、イラク戦争を例に挙げても、どこにも 「 善 」 など見当たらない。


大事なことは、「 何が善か 」、「 何が法か 」 ではないような気がする。

改憲の論議をみてもわかるように、いつの間にやら 「 法の精神 」 よりも、「 法そのもの 」 を重んじるような風潮ができてしまった。

賛成する側にも、反対する側も、お互いを罵る悪意ばかりが目立ち、大声を張り上げている連中の顔からは、いづれも 「 善 」 など窺えない。

これは、私自身もおおいに反省すべき点で、冷静に最近の日記を読み返してみると、どうも 「 論点がずれてきている 」 ような印象を受ける。

個人的には、そこに 「 善 」 が無いのなら、せめて 「 義 」 だとか、「 志 」 のようなものを求めたいのだが、それらを論点にする時代ではないようだ。


とまぁ、哲学的な 「 前フリ 」 から始めてみたが、すべてはこれから書くことの 「 言い訳 」 で、今夜はまるっきり 「 柔らかい話 」 である。

ただ、「 柔らかい話 」 とは言っても、ちょいと悩んでいることでもある。

つまりそれは、きわめて個人的な問題であって、天下国家の話でもなければ、人々に夢や感動を与える話でも、お得な儲け話でもない。

他人様には 「 どーでもいい 」 ような、中年男の恋の話である。

なかには、「 おっ、久しぶりッ! 」 と興味を示された古くからの読者もいらっしゃるだろうが、興味のない人は、ここで読み終えてもらって差し支えない。


私の好きな 「 ジェフリー・アーチャー 」 という作家は、短編集 → 中篇 → 大長編 といったふうに、書く順番にリズムを持っているのが特徴だ。

私の恋愛もそれに似ており、ちょいとした付き合い → 山あり谷ありの付き合い → 結婚まで考えるマジな付き合い といった順に、妙なリズムがある。

モールス信号でいうなら 「 ツー 」 のあとに 「 トン 」 があり、「 ツーツー 」 ときて、「 ツー 」、「 トン 」 みたいな感じだ。

なんだかよくわからない話かもしれないが、それが実態である。

最近の数年間を振り返ると、「 ツーツー、ツー、トン、ツー、トン、トン、トン、トン、ツーツー、トン 」 といったところか。


私は、恋愛は仕事と違って 「 経験が蓄積しないもの 」 と捉えている。

他人からみたら 「 似たりよったり 」 でも、その都度、新しい気持ちで対応しているし、「 今回は簡単な仕事だ 」 などと、ナメてかかったことも無い。

だから、「 ツーツー 」 であろうが、「 トン 」 であろうが、毎回、真摯な気持ちで挑戦者の立場に構え、持てる技術のすべてを出し惜しみしない。

それで、駄目なものは駄目で仕方ないし、「 縁 」 とか 「 相性 」 の問題でもあるので、あんまりクヨクヨしたり、打ち明ける前に悩むことも少ない。

少々、痛い目に遭ったとしても、「 二十年前の二日酔い 」 みたいなもので、また性懲りも無く、年甲斐もなく、異性に惹かれてしまうのである。


軽薄と言われればそれまでだが、あまり最初から 「 命がけの恋 」 だとか、「 運命を感じる恋 」 とは思わなくて、ただなんとなく好きになることが多い。

また、「 三角関係 」 だとか、どろどろした恋愛は苦手なので、不倫だとか、「 好きになってはいけない相手 」 に惚れたりすることも少ない。

だから、自堕落かもしれないが、自由きままにやってこれたし、夜も眠れないほどに悩んだり、落ち込んだりもしない代わりに、長続きもしなかった。

統計学的に考えて、わざわざ 「 好きになってはいけない相手 」 なぞ選ばなくても、代わりの異性はいくらでもいるわけで、あまり意味も無い。

ネット友達で、「 北陸地区、不倫撲滅委員会 」 の会長でもある 「 U さん 」 の反感を買うのも嫌だし、罪のない、軽い恋愛を心がけてきた。


で、いま 「 悩んでいる 」 のである。

いまのところ 「 軽はずみな言動 」 は謹んでいるし、何があったというわけでもないのだが、胸のモールスが 「 ツーツー 」 鳴りっぱなしである。

外見だけではなく、性格的にも相性が抜群で、一緒にいると時間を忘れるし、遭う度に 「 他人さんが見れば、明らかに恋人同士 」 の図柄に近づく。

もちろん 「 こちらの思い過ごし 」 である可能性も無くはないが、あと一歩、踏み出してしまえば、たぶん 「 U さん の敵 」 になりそうな雰囲気だ。

しかも、ちょっとした事情で頻繁に会わざるを得ない機会が増えており、嫌でも ( 嫌じゃないけど ) 会わないわけにはいかない関係にある。


それでも、この話が 「 進展 」 することはないだろう。

私は 「 善 」 でもないし、「 法 」 の守護者でもないけれど、幸いなことに 「 臆病な小心者 」 だし、身のほどぐらいはわきまえているつもりだ。

自分がハッピーに過ごすためには努力するが、誰かを不幸にすることなど好まないし、好きな相手に 「 裏切り者 」 の汚名を着せたくもない。

彼女を嫌いになろうと努めるのではなく、お互いに競い合い、助け合う姿勢に徹することで、「 法 」 に関わらず、距離と関係を保ちたいと思う。

大事なことは 「 法 」 ではなく、相手の立場を認め、敬い、思いやる気持ちであり、きっと、神様はそんな私に 「 別のご褒美 」 をくださるだろう。


( 本日のおさらい )

「 ちっぽけな男のやせ我慢と、強がりは、最低限の “ プライド ” です 」






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2004年12月06日(月) ルールに拘る人々


「 私たちと同じ立場の人が仮に百人いたとしても、このユダヤ人たちを

  助けようとはしないかもしれない。 でも、僕たちはやろうか 」

                             杉原 千畝 ( 外交官 )

If there were a hundred people in our position, none of them
would want to help those Jewish people. But shall we do it ?

                             CHIUNE SUGIHARA



1940年8月、リトアニアの日本領事館前に、数百のユダヤ人が集まった。

彼らは一様に、「 日本通過のビザ 」 を求めていた。


当時、ナチスドイツによる 「 ユダヤ人狩り 」 が始まっていたのである。

リトアニアの領事館代理であった 杉原 氏 は、本国へビザを発給する許可を求めたが、外務省の返答は 「 ノー 」 であった。

外務省の命令に逆らえば、外交官としての未来がなくなるばかりではなく、同盟国に対する裏切り行為として、軍部から糾弾される恐れもある。

しかし、その代わりに領事館の外で待つ人々は助かるかもしれない。

そんな 「 重大な選択 」 を迫られた中、夫人に向けて発した冒頭の言葉だが、「 僕たちは・・・ 」 という表現の通り、それは二人の決断でもあった。


結果的に、彼は 「 六千人 」 ものユダヤ人の命を救ったのだが、彼に、これほどまでに勇気ある行動を起こさせた原因は何だったのか。

その答えは、彼が遺したもう一つの、以下の名言の中にある。

「 私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。
  でなければ、私は神に背くことになる        」

I cannnot forsake those people who come to me for help.
If I did, I would be turnning against God.

彼は、定められた 「 ルール 」 ではなく、己の信念に基づいて行動し、その勇気が多くの人命を救い、後の世の人々から賞賛されることとなった。


いま、憲法改正論議が、多くの人々の関心を集めている。

今から60年も前の、しかも 「 占領軍 」 から押し付けられたような憲法を、いつまでも見直さないというのは不自然だ。

しかし、中には 「 戦後、日本が平和にやってこれた 」 のは、すべて憲法のおかげだと盲信する人をはじめ、根拠無く、今の憲法に執着する人も多い。

たとえば、「 イラク国内へ自衛隊員を派遣すること 」 について、それが憲法に違反するか否かを、もっとも重要な争点だと示す人もいる。

はたして、憲法とは、そういうものなのだろうか。


ご存知の通り、日本は 「 法治国家 」 であって、国民は等しく 「 法 」 を遵守することが義務付けられている。

たしかに、「 刑法 」 とか 「 憲法 」 とか、秩序に関するガイドラインというものは必要で、それがなければ 「 無法地帯 」 と化してしまう。

しかし、本当に 「 法 」 がすべてに優先され、「 法 」 がすべてを解決できるものなのだろうか。

前述の 杉原 氏 が、国家で定めた手続きに従ってビザの発給をしなかった場合、六千の無実の人々は命を失うこととなったが、彼には何の罪も無い。

彼は、当時の 「 法 」 に従わなかったことで、人命を救ったのだ。


たしかに 「 法 」 は大切だが、その前に 「 道徳 」 というものがある。

ルールに拘ることよりも、「 人の道を誤らないこと 」 のほうが、なにより優先される社会こそ、本来あるべき姿ではないだろうか。

イラク戦争にかぎらず、戦争は、けして 「 正しい行為 」 ではない。

ただし、「 戦争を仕掛けた者 = 悪 」、「 被害を受けた者 = 善 」 といった二元論では処理できない背景というものも、そこには存在する。

イラクへの自衛隊派遣に賛成する意見も、反対する意見も、それぞれ尊重されるべきとは思うが、「 憲法違反だから 」 という論点では、幼稚すぎる。


つまり、「 法 」 とは、あくまでも我々が秩序正しく、安全に暮らしていくための手段であって、それを守ること自体が目的ではない。

たまに、「 憲法改正を “ 命がけで阻止する ” ぞ 」 みたいなことを言う人もいるが、よく考えてみると本末転倒も甚だしい。

つまらないことで命を危険に晒したくないから 「 法 」 が必要なのに、それを決めるのに命をやりとりするなどという発想は、愚の骨頂である。

どこぞの自殺バカが 「 こんな危険な世の中じゃ不安なので、自殺します 」 とほざいているのと同じで、「 手段 」 と 「 目的 」 が倒錯している。

けして 「 法 」 を軽んじるつもりはないが、その前に 「 道徳 」 とか 「 誠意 」 とか 「 思いやり 」 というものが、大切にされる社会でありたいと願う。


また、武士道に代表されるような 「 義 」 の精神が日本にはある。

杓子定規なことしか言えない輩には理解し難いだろうが、ちょいとルールを破ってでも、困っている人や、弱っている人を助けてやりたい場合もある。

中東の某国で悪徳独裁者が民衆を苦しめ、利権のある者が横暴を振るう。

そんなとき、理屈の通じない相手を前にして 「 法 」 は無力で、実際には、あまり誉められたやり方ではないが、より強力な 「 武力 」 がものをいう。

それを咎めるのも間違ってはいないが、糾弾を恐れて 「 義 」 の心を捨てると、戦争で失う以上の人命が危険に晒され、「 法 」 はただ見守るだけだ。


平和主義か、武闘派かは別として、杉原 氏 は 「 サムライ 」 である。

どこぞの 「 憲法を遵守して、戦争には反対しましょうよ 」 みたいな無機質のデモを、アホの一つ覚えのように繰り返す連中とは、わけがちがう。

目の前で誰かが死ぬとか、隣国の脅威がすぐそばに迫っているというときに、「 憲法改正反対 」 とか、「 戦争反対 」 と連呼しても、何の意味も無い。

私自身は正直なところ、「 憲法 」 が改正されようと、されまいと、どっちでもいいと思っている。

ただ、同朋が殺されたり、同盟国が危機に瀕したときに、多くの日本人が 「 法 」 よりも 「 義 」 を選ぶことを、望むばかりである。


( 本日のおさらい )

「 今の憲法じゃ、“ 見殺し ” にされるかもね 」






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2004年12月04日(土) 母の愛


「 偉大な人物にはかならず、偉大な母親がいた 」

                 オリーブ・シュライナー ( 南アフリカの作家 )

There was never a great man who had not a great mother.

                              OLIVE SHREINER



先日、日記の冒頭で 「 乙武 洋匡 氏 」 の名言を引用した。

まったくの偶然だが、今日、ある女性との会話でも、彼の話が出た。


彼が勇気ある人物であるという点で意見は一致したが、彼女に言わせると 「 彼も偉いが、彼の両親もまた、立派な人たちなのだろう 」 とのこと。

もし、自分が彼の母親だったなら、ずっと家の中に閉じこもり、己と我が子に課せられた運命を呪いながら、日陰を歩いたことだろうと、彼女は語る。

そして、「 今日死のうか、明日死のうか 」 という意識の下、それ以外は何も考えられなかったのではないだろうかと続けた。

乙武 氏 の両親は、彼を 「 普通に 」 育てたそうである。

それがどれほど大変なことであったか、我々には容易に想像できないけれど、彼が魅力的に成長した事実から、その 「 効果 」 は証明されている。


中国の故事に、「 孟母三遷の教え 」 というものがある。

孟子の母親が、最初は墓所の近くにあった家を、孟子の教育を考慮して、市場の近く、それから学校の近くへと、三度引越しをしたという話だ。

我が子を想う母親の愛ほど 「 強い愛 」 は他になく、しかも偉大な母親には類稀なる叡智が存在しうることを称えた逸話として、日本にも伝わった。

もちろん、親の愛に恵まれずとも立派に成長した人物もいるし、偉大な系譜から、とんでもない悪童が産み落とされることもある。

だが、それでも 「 子供の人間的な成長にとって、母親の影響は大きい 」 という説は揺るがず、その存在は不動の山のごとく大きなものである。


近頃、巷で 「 NEET [ Not in Employment,Education or Training ] = ニート 」 という言葉を耳にする機会が多い。

これは、「 職に就かず、学校にも行かず、就労に向けての具体的な動きをしていない 」 という、無気力で、無計画的な今の若者を揶揄する言葉だ。

その中には、享楽的に 「 今を楽しむことしか考えていない 」 ヤンキーのような者もいれば、社会から逃避した 「 引きこもり 」 みたいなタイプもいる。

あるいは、夢を求めて社会人になったものの、何かの拍子で挫折してしまい自信を喪失した者や、働くことへの恐怖が先行し、行き詰まる者もいる。

いづれにしても、本人にとって、また、社会全体にとっても、喜ばしい成果が期待できる話ではなく、国を挙げて取り組むべき問題だろう。


このような無軌道な若者達が、すべて世の中を悪くしているとは言わない。

しかし、「 集団自殺 」、「 両親惨殺 」など、凶悪な若者犯罪や事件の主犯たちに 「 NEET 」 の割合が高いことも事実で、無関係とも言い難い。

それは本人たちの 「 自己責任 」 であるけれども、彼らの両親が、いったいどのような育て方をしたのか、その影響は大きいだろう。

いわゆる 「 親の顔がみたい 」 という感情である。

親が子供を大切に思い、愛情と、また厳しさをもって育てているならば、そうやすやすと犯罪に手を染めたり、無気力に彷徨う輩は生まれないはずだ。


個の家庭だけではなく、今は社会全体が 「 母性 」 を失いつつある。

他人に無関心だったり、あるいは極端に 「 過保護 」 な甘やかせ方をする風潮が、わがままで自分勝手な人格の持ち主を、社会にはびこらせる。

特に、偏狭的な 「 過保護 」 というものが、社会への適応能力を鍛える機会を逸し、強靭さや、弾力性といった資質を、個人が養えなくなっている。

精神がヤワだったり、能力が低いために企業で脱落する者がいても、それは 「 病気だから、本人のせいではなく、庇護しない会社が悪い 」 と詰る。

昔なら 「 負い目 」 を感じて努力することが当たり前だったはずが、今は精神科で 「 病気 」 と認められたことを、勲章のようにひけらかす。


病気に対して 「 偏見を持て 」 という気はないが、それで開き直り、大手をふって社会に甘える傾向や、それを寛容する風潮には問題がある。

たとえば、「 うつ病 」 の人へは医師から 「 仕事ができて、責任感の強い人ほど “ うつ病 ” になりやすいんですよ 」 と、よく言われる。

実際には、自分のストレスを管理し、体調を整えることも 「 仕事 」 の一部なので、ハードな仕事で神経を痛める者に 「 仕事ができる 」 はずがない。

また、「 責任感 」 とは、「 使命を、最後までやり遂げること 」 であり、失敗して首を吊るような愚か者は、「 責任感の強い人間 」 では在り得ない。

医者もそのぐらいはわかっているのだが、「 とりあえず慰めるしか手がない 」 ので安易に 「 責任感 」 という言葉を使い、過保護に見守っている。


それを、医者から 「 君は仕事ができて、責任感が強い人だねぇ 」 と言われたことで過度の自信を持ち、勘違いした言動を繰り返す者もいる。

これが病人にとっての 「 気休め 」 になるだけなら良いが、自分の欠点や、病んでいることに気がつかず、いつまでも改められないのでは逆効果だ。

昔は、社会がそれほど 「 甘やかす 」 ことをしなかったので、彼らには偏見も集中しただろうが、社会に適応するための努力もしたはずである。

いまは、そういうことに社会が寛容すぎて、過保護なために 「 責められはしないが、いつまでも病気が治らない 」 という人たちが多い。

以前にも書いた 「 ぬるい世の中 」 の弊害が、随所に現れている。


ちなみに社会が 「 ぬるい 」 からといって、精神を病んでいる者が得をするわけではなく、むしろ、その逆である。

ひとたび彼らが犯罪に荷担したり、自分に迷惑を及ぼしたりするようになると、大衆の心理というものは一変する。

とたんに 「 死刑にしろ 」、「 こんな奴を野放しにするな 」 と、まるで手のひらを返したように言及し、寛容さなどは微塵もなく消え去るのが普通だ。

つまり、彼らに厳しいことを言わないのは 「 無関心 」 だったり、「 どうでもいい 」 と考えていることの裏返しで、本当の優しさではない。

日ごろから、耳の痛いことでも 「 お前は間違っている 」 と指摘し、生きていく強さや、社会への適応能力を養うことが、「 母の愛 」 である。


( 本日のおさらい )

「 本人が言われたくないことを言ってあげるのが、母の愛の強さ 」






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2004年12月02日(木) 皇室に対するマスコミの優柔不断な姿勢


「 愛しているから結婚するのです 」

                       明仁皇太子 ( 現天皇陛下 )

I am marrying her because I love her.

                       AKIHITO



日本の皇室で 「 初めて平民と結婚する 」 にあたっての、ご発言だった。

短いけれど、揺るぎない信念と、愛情の深さが偲ばれる名言である。


戦後、天皇の存在は 「 神 」 から 「 国民の象徴 」 へと変わった。

この 「 象徴 」 という表現に対する理解は難しく、学校教育でもそのあたりは 「 さらっと流すだけ 」 で、ほとんど明確な説明を受けた記憶がない。

何をもって 「 国民の象徴 」 と考えるのかは人によりけりだが、その生き方を庶民が模範とするには、あまりにも置かれた環境が異なりすぎる。

これは、戦前、戦中における 「 天皇のカリスマ性 」 を危険視した占領軍が、「 国民の心の拠り所 」 であった事実も鑑みたうえでの配慮である。

現憲法と同じく、すべては 「 占領政策 」 に基づいた取り決め事であって、けして日本人が自ら望んで決めた結論ではない。


イラクのフセインや、北朝鮮の金正日と違って、天皇は戦争責任者でありながらも、けして 「 独裁者 」 としてのレッテルを貼られることはなかった。

その違いは、自らの地位に執着して独善的な判断を下したり、己の野心のために好戦的な姿勢をとらなかったことなどからも、明白である。

また、占領軍司令官のマッカーサーに対して、「 すべての責任は私にある 」 と潔く語り、その身を犠牲にして国民を守ろうとした美談も有名だ。

昭和天皇は、たしかに 「 神 」 ではなかったが、すぐれた人格者であったことは紛れも無く、敵国の司令官にさえ深い感銘を与えたという。

同じ総領でも、某国のチンケな独裁者とは、そこが大きく異なる点であり、国民の崇拝、信奉という意識にも、明らかな違いがあったはずだ。


実際、現在でも 「 天皇を敬いなさい 」 といった国民に対する強制や圧力が無いにも関わらず、ほとんどの国民は皇室を 「 ないがしろ 」 にしない。

あるいは日本人の血液に 「 皇室崇拝のDNA 」 みたいなものが遺伝的に含まれているのかもしれないが、おそらく、それだけの問題ではない。

皇室ご一家のご努力やら、それを支える周囲の献身というものがあって、理想的な秩序や、品格の維持というものが、国民の信頼を勝ち得ている。

そのあたりの 「 システム 」 とか、それが 「 良いか、悪いか 」、「 天皇制が必要か、否か 」 などの議論は、一口に結論が下せないものだろう。

現在、それに対し賛成でも、反対でも、罰せられるものではない。


現天皇がご成婚をなされた折には、「 初めて平民と結婚する 」 ということが国民の関心を集め、皇室内でも大騒ぎになったようだ。

そこで陛下 ( 当時、皇太子 ) は、「 愛しているから結婚するのです 」 という短い言葉で、待ち構えた記者団を圧倒されたそうである。

それは 「 開かれた皇室 」 をアピールするためのキャンペーンなどではなく、純粋に、陛下の御心を偲ばせる微笑ましい伝説となった。

シンプルで 「 当たり前の台詞 」 でもあるのだが、陛下のお立場というものを考えると、勇気の要る発言であったかもしれない。

そんな台詞を語らなければならなかった背景には、執拗なマスコミの取材というものが存在し、昔も今も、マスコミは 「 下卑た性質 」 を帯びている。


現皇太子殿下の 「 人格否定 」 発言は波紋を広げたが、いままた、それに対する秋篠宮殿下の 「 驚いた、残念 」 という発言が話題になっている。

関係者でもないので深くは知り得ないが、皇室ご一家は仲睦まじく、最近も、皆様そろって健やかにお過ごしのようである。

それを、あたかも 「 身内の不調和 」 である如く、面白おかしくチョッカイを出し、国民の好奇心を煽ろうとするマスコミの下劣さには辟易となる。

前にも述べたように、天皇制を否定しようが、敬意を表さないでいようが、それは各人の自由であり、もちろん、マスコミも強制は受けないで良い。

許せないのは、ご成婚やら、ご崩御の際には、こぞって 「 天皇の権威 」 を認める報道をするくせに、こういう時には手のひらを返すところである。


世が世なら、こういう輩は 「 銃殺 」 である。

こういう時世なので 「 バチあたり 」 と咎めはしないが、展開によって天皇を敬ったり、芸能人のように 「 スクープのネタ 」 にするのでは節操がない。

仮に、「 天皇だって一般市民だ 」 と割り切って、不仲説やら、ゴシップやらをぶちまけるのなら、それはそれでもよい。

ただし、それならば、ご崩御やご成婚の折にも、特別の言葉遣いや、独特の言い回しによる 「 天皇崇拝的 」 な報道をすることがおかしい。

つまりは、片側で ( 国民の大多数と同じく ) 皇室を 「 特別な存在 」 として認識しているフリをして国民に同調し、隙あらば 「 ネタ 」 にするのである。


よく、「 ○○新聞は左翼的だ 」 とか、マスコミの思想が議論になる。

右でも左でも、本当に 「 思想 」 があるならば、それはそれでよい。

ところが実態は、今回の皇室問題に関する報道でも明確なように、国民の大多数に背を向けることなく迎合しながらも、チョイと煽ってみたりする。

そんな姑息で 「 思想も信念も何もない 」 連中が、民意に敬遠されないように顔色を窺いながら、「 売るため、売り込むため 」 に画策している状態だ。

マスコミのみならず、「 民主党 」 もこの手法を乱用しているので嫌いなのだが、今はそういう 「 日和見主義 」 がウケる時代なのかもしれない。


( 本日のおさらい )

「 国民の顔色を窺いながら、思想や信念のある “ フリ ” をする連中 」






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