Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年11月27日(土) 「 ぬるい 」 の補足


「 障害を持っていても、僕は毎日が楽しいよ 」

                              乙武 洋匡 ( 作家 )

Even though I'm handicapped, every day is fun.

                          HIROTADA OTOTAKE



乙竹氏の書かれた 『 五体不満足 』 は、韓国でもベストセラーになった。

現在、英語をはじめ、さまざまな言語への翻訳も進められている。


前回、「 ぬるい社会 」 について書いたが、一部、誤解を招いたようだ。

あれを 「 落ちこぼれる者を救済する必要などない 」 という見方で読むと、たしかに 「 行き過ぎた資本主義の弊害 」 という悪夢につながる。

才覚や、身体能力に劣る人を、すべて 「 落伍者、無能力者 」 として処理する社会が、けして良い社会でないことは、誰の目にも明らかだろう。

本当の 「 優れた国家 」 というものは、「 個人の業績は評価するけれども、誰もがある程度の幸福を分け与えられる国家 」 という姿が理想的である。

今も昔も、私自身、それを否定するつもりはない。


ただしそれは、あくまでも 「 国家 」 が中心になって行う仕事である。

それを企業に求め、各企業が生産性の低い人材に足並みを揃え、ゆったりと水準を下げていくことなど、誰のためにもならない。

それは、資本主義であろうが、社会主義であろうが同じである。

企業は、最も効率が高く、生産性の挙がる手法で経済活動を行い、そこから発生する利潤に見合う形で納税をし、社会福祉活動にも参加する。

そこを勘違いしては、なんの解決にもならないはずである。


私は、「 自分がハッピーでなければ、誰もハッピーにはできない 」 という考え方の人間なので、「 滅私奉公型 」 の日本企業には長く勤めなかった。

企業も、利益を挙げ、従業員が健やかで豊かな暮らしをできるようになってこそ、はじめて社会への貢献を成し得るものではないだろうか。

身体が丈夫でも、企業内でその 「 足を引っ張る者 」 は、むしろ社会福祉の観点からみれば、マイナスの存在といえなくもない。

たしかに、「 心の病気 」 も立派な病気なのだろうが、企業にその 「 庇護 」 を求めるのは、いささか筋が違うように思う。

現在の職務で 「 心の病気 」 が改善されないのなら、企業に 「 ぬるさ 」 を求めて甘えるより、自分から舞台を変わるなり、変化するべきだろう。


日本は、体の不自由な障害者に対しては、ずいぶんと対応が遅れている。

乙武氏は、先天性四肢切断という障害を持って生まれてきたが、車椅子からにこやかに語りかけ、障害の問題について 「 革命 」 を起こした。

彼は 「 心のバリアフリー 」 という言葉をもって、静かだが、これ以上はないというほどの説得力を携え、その壁に風穴を開けたと思う。

それは、過去において誰も成し遂げられなかったような素晴らしい業績であり、大いに評価できるものだ。

彼の行動力、プレゼンテーション能力は、健常者と比しても遜色がない。


乙武氏が立派なのは、「 自分の可能性 」 に挑戦しているところでもある。

他人の物真似ではなく、彼は、彼にしかできない方法と努力によって、世の中を 「 より良い社会 」 にしようと頑張っている。

それに比べ、「 心の病気 」 に対し企業へ寛容さを求める人たちは、少し、自分勝手で、社会がどうこう言いながら、自分に都合の良い論理だけだ。

そんな 「 甘えん坊 」 さえも、国家が面倒をみてあげられるなら、もちろん、それにこしたことはないわけで、増殖しているなら避けられないだろう。

ただし、一企業に要求できる 「 わがまま 」 ではなく、そんな人物を押し付けられる企業の立場になれば、たまったものではない。


つまり、「 企業にも社会責任の一端を担う努めはあるが、それがすべてではない 」 ということを忘れてはならないのである。

大半の企業では、経済活動のほうが優先され、そこには 「 個人の甘え 」 などが介入できる余地は少ない。

だから、「 心の病気 」 や身体の障害を持った人たちも、出来うるかぎりは自分で努力し、足りない部分は一企業でなく、国家が支える責務がある。

誰とは言わないが、日ごろから 「 日本政府に対する悪態 」 ばかりを罵っている御仁には、いまさら国の庇護を受け難いだろうが、それが事実だ。

それを 「 経済優先で、福祉がないがしろになっている 」 と考えるのは曲解というもので、「 税 」 や 「 年金制度 」 は、そのためにも存在する。


( 本日のおさらい )

「 儲かってない企業は、結局、誰もハッピーにできないよ 」






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2004年11月24日(水) ぬるい社会


「 厳しい状況で自信を持っていられるのは、偉大な選手である証だ 」

                  ジョン・マッケンロー ( テニス・プレイヤー )

I think it's the mark of a great player to be confident in tough situations.

                              JOHN MCENROE



一流と呼ばれる人間は、追い込まれたときにこそ真価を発揮する。

それは、スポーツの世界にかぎった話ではない。


人生では、なんらかの形で 「 競争 」 とか 「 戦い 」 といった局面に遭遇することがあり、それらとはまったく無縁であるという人は少ない。

他人と比較することを避けたとしても、たとえば 「 自分との戦い 」 みたいなものからは逃れようがないはずだ。

当然、そこには 「 勝者 」 が在れば 「 敗者 」 も在るわけで、常に勝ち続けることができるとはかぎらないし、そこには 「 好不調の波 」 もある。

好調の際に活躍するのは誰も同じで、不調のときに頑張ったり、ある程度のところで踏ん張れる能力を持っているのが 「 一流 」 の証ともいえる。

反対に、ちょっとの困難でへこたれたり、くさったり、むくれたり、弱音を吐き挫折するようでは、なんとも情けない話である。


厚生労働省では、企業向けの 「 労働者の心の健康づくりのための指針 ( メンタルヘルス指針 ) 」 を、2000年の策定以来、初めて見直すという。

その中で、従業員がうつ病になった時の上司や産業医の対処方法だとか、治療を早く受けやすくする職場環境整備の具体策などが提示される。

他に、従業員が治療を受けるにあたってのプライバシー保護対策や、復帰した際の受け入れ態勢、再発防止に必要な職場環境も示されるらしい。

この指針は企業にとっての努力規定で、守らなくとも罰則はない。

しかし、「 従業員の精神疾患は企業にも責任があるので、労使で積極的にこの問題に取り組んでもらいたい 」 というのが、厚生労働省の見解だ。


流し読みすると、一見 「 マトモな話 」 のようにも思える。

昨年度、うつ病などの精神疾患になったとして労働基準監督署に出された労災補償の請求数は438件で、そのうち108件が認定を受けている。

請求数、認定数ともに、いづれも過去最高の数字を示しており、なんらかの原因により 「 仕事を通じて精神疾患に陥る 」 人は増えているようだ。

すべての職場が、心身の健康を損ねず、誰もが笑顔で働けるような環境になれば、もちろん、それは理想的な姿であり、まことに結構な話である。

しかし、現実的に考えて、そのような状況に達し得るものだろうか。


たしかに、うつ病と職場環境の因果関係は存在するだろうし、その職場が劣悪な労働環境を含んでいるのだとしたら、改善の必要がある。

ただ、すべての事例において 「 同じ環境で、うつ病にならずに頑張っている人間 」 もいるわけで、それが明らかに企業側の責任とも言い難い。

一人の脱落者も出ないような 「 ぬるい環境 」 にすれば、精神疾患に陥る人間も減るだろうが、たいていの場合、その職場の生産性は落ちる。

ごく一握りの 「 か弱い人々 」 のために、企業の経営を悪化させることが、はたして全体の幸福に結びつくのだろうか。

企業側の利益というものを考えると、彼らを解雇して 「 タフな人材 」 と入れ替えるほうが、冷たいようだが 「 理に叶っている 」 はずである。


誤解の無いように申し上げるが、病人を責めるわけではない。

しかし、企業というものは、自社の労働力を高い水準に求め、より良い成果を挙げる活動を行う責務を帯びており、その呪縛からは逃れられない。

その中に一人でも、「 僕、つらいです 」 と泣き言を漏らす者がいる度に、「 ごめんね、もうちょっとノンビリやりましょう 」 というわけにはいかない。

つまり、そういう場合には、その本人さんが 「 勤まる能力に見合った職場へ移る 」 か、職場に留まりたければ、欠点を克服してもらうしかない。

それを、「 非情だ 」、「 無慈悲だ 」 と糾弾されても、慈善事業じゃないかぎりは、企業側からレベルを下げることはできないだろう。


どんな職場でも、長く勤めようと思えば 「 弾力性 」 と 「 強靭さ 」 が求められるもので、うつ病の人にはその片方か、あるいは両方が足りない。

少し探せば、なんとか勤まる職場があるもので、賢い人は精神がボロボロになる前に、給料は下がっても 「 身の丈にあった企業 」 へ転進している。

タチが悪いのは中高年のうつ病患者で、「 昔は、バリバリ働いていた 」 という自負のある、変なプライドだけが高い 「 自称 エリートさん 」 達である。

彼らの多くは、「 昔は精神が健康だったので、厳しい環境にも適応できた 」 と思い込んでいるが、実際に話してみると 「 勘違い 」 していることが多い。

変化したのは 「 己の健康 」 ではなく、市場の動向や、景気そのものだったりして、つまりは若い頃から潜在的に 「 心身が弱かった 」 のである。


病人にも 「 良い病人 」 と 「 悪い病人 」 があり、己の立場や役割、置かれている環境と正面から向き合い、ちゃんと努力している人もいる。

激務によるストレスから自分を解放するために、働いていた会社を辞めて、楽な軽作業に従事しながら、治療に取り組んでいる人も知っている。

かたや、ネット上で罵詈雑言を撒き散らし、ストレスを発散しているつもりが 「 余計にストレスを抱える結果 」 に陥っている人もいるようだ。

それでは、いつまでたっても治らないのだが、指摘すると 「 俺は病人なんだぞ 」 と逆ギレされるので、なんとも手の施しようがない。

こんな人物が世の中に増え、なんとも難しく複雑な社会になってきている。


荒療治かもしれないが、自転車の乗り方を覚えるまでには何度か転倒して 「 体で感覚をつかむ 」 必要がある。

自転車に乗れない人のために、ふわふわのスポンジで出来た練習走路を用意したり、行き詰まったときに絵本を読んで慰めても、上達などしない。

それと同じく、厚生労働省による指針のような 「 ぬるい社会づくり 」 だけでは、精神疾患に陥った人たちを社会に適合させることなど難しい。

うつ病患者を追い込んだら 「 自殺に走る 」 という警戒心から、誰もキツイことを言いたがらないが、実際はそうである。

さらに社会背景が厳しくなる中、「 ぬるい社会 」 を目指すことは、はたして 「 強く生きる方法 」 を教えることよりも、本当に優先されるのだろうか。


( 本日のおさらい )

「 “ 優しさ ” と “ ぬるさ ” を勘違いしてはいけない 」






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2004年11月22日(月) 映画 『 SAW 』 は面白い


「 SAW ( ソウ ) 」

[ 動詞 ] SEE の過去形

[ 名詞 ] のこぎり

[ 名詞 ] 諺、格言



話題の映画 『 SAW 』 ( R−15指定 ) を観てきた。

面白いが、心臓の弱い人はちょっと、控えたほうがよい作品である。


今年一月の 「 サンダンス映画祭 」 の話題をかっさらい、その噂は瞬く間に 「 カンヌ映画祭 」 に波及し、全世界のバイヤーが争奪戦を繰り広げた。

日本では上映館が少ないので、興行収入的には伸びないかもしれないが、これは紛れも無い 「 B級映画の傑作 」 として語り継がれるだろう。

どんな映画なのかというと、「 異常性格の連続殺人鬼 」 が登場するので、ジャンル分けするならば 「 サイコホラー・サスペンス 」 というところか。

おぞましい猟奇殺人の恐怖もさることながら、なにか考えさせられる部分もあり、クライマックスには アッ と驚く 「 どんでん返し 」 が用意されている。

アカデミー賞を狙えるような映画ではないけれど、「 ゾクっとする映画 」 を観たい向きには、是非ともオススメしたい一本である。


冒頭の場面は、だだっ広く汚いバスルームの対角線上に、二人の男性が片足を壁に鎖で繋がれているところから始まる。

二人とも何者かに誘拐され、知らない間に拉致され、目覚めたのだ。

向かい合った彼らの中央には、片手に拳銃を握ったまま、醜く変形した頭を血溜まりに漬けている 「 死体 」 が横たわっている。

やがて、その部屋をひそかに監視している犯人側から 「 死のゲーム 」 の内容が告げられ、制限時間内に条件を満たせば解放されることを知る。

ただしそれは、相応の覚悟と、多大な犠牲を伴うものであった。


とまあ、こんな感じの映画である。

二人とも、犯人が 「 最近、世間を騒がせている連続殺人鬼 」 であることを知っており、過去の犯行を知っているだけに、さらに恐怖が倍加する。

この犯人は、「 命を大切にしない者 」 を標的に選び、極限的な死の恐怖を味わせることで、被害者の 「 生への執着 」 を試している。

過去の被害者の一人は連続放火魔で、やはり密室に監禁されていた。

彼は全身に可燃性の液体を塗られ、犯人から 「 暗闇でロウソクを頼りに、壁一面に書かれた数字を合計する 」 という指令を与えられる。


制限時間に焦った被害者は手を滑らせ、全身火だるまになって焼死する。

別の事件では、自殺癖のある中年男性がターゲットにされた。

彼は、かみそり状のワイヤーを張り巡らせた密室の中に監禁されており、時間内にそれをくぐり抜けて脱出すれば助かるという指令を受ける。

そのまま居れば餓死するのだが、助かろうと奮闘することで、自殺企図が 「 単に周囲の目をひきたいだけの愚かな行為 」 であったことが露呈する。

結局、彼は助かりたい一心で強引にワイヤーを抜けようとするのだが、血まみれになった状態で時間切れを迎え、むごたらしく死んでしまう。


唯一、犯人との 「 ゲームに勝利した 」 女性の生存者もいる。

彼女は、麻薬中毒者なのだが、同じ密室内に拉致されているルームメイトの胃袋の中に、拘束を解く 「 鍵 」 が忍ばせられている。

助かりたければ、彼の胃袋を引き裂いて、そこから鍵を取り出さなければならないのだが、彼は無抵抗ながら、まだ死んではいない。

彼女は悩んだ末、生きることを選択し、そして実行した。

警察の取調べで彼女は、「 生きることの尊さを教えてくれた 」 と犯人には感謝をし、それ以降、崇拝するという奇妙なエピソードも描かれる。


突然の不条理な誘拐によって、見知らぬ場所に監禁されているという設定は、映画 『 CUBE 』 にも登場している。

また、独自の正義に基づいて連続殺人を仕掛けるサイコキラーが登場するという点で、映画 『 セブン 』 を髣髴とさせる要素もある。

しかしながらこの作品は、どちらとも似ていないし、両方の作品を足したよりも、はるかに面白い仕上がりになっているといえるだろう。

脚本、主演を努めた リー・ワネル も、監督の ジェームズ・ワン も共に26歳という新鋭で、かつてない斬新な映像感覚も衝撃的だ。

犯人は誰かという 「 謎解き 」 の面白さや、トリックの妙味もあるところが、本作品を単に 「 グロテスクな悪趣味映画 」 で終わらせていない。


タイトルの 『 SAW 』 という単語には、いろいろな意味がある。

作品の中で、それが 「 語呂合わせ的に 」 登場するところも見逃せない。

当然、犯人に感情移入することなどできないし、その目的を肯定することなど許されないのだが、各被害者には共通する 「 問題点 」 がある。

自分から命を粗末にしているくせに、窮地に追い込まれると 「 人殺し 」 とか、「 助けろ 」 とか、犯人の冷酷さ、非情さに憤懣するのだ。

そういうことに 「 思い当たるフシ 」 がある人は、この映画を観ると、きっと普通の人よりも恐さが倍増して、よりスリリングな気分になれるだろう。


( 本日のおさらい )

「 ちょっと気持ち悪いのを我慢して、ぜひ映画館でご覧ください 」






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2004年11月20日(土) 異常者パラダイス日本


「 中国語で “ crisis ” という単語は、二つの漢字から成っている。

  一つは危険を意味し、もう一つは機会を意味する 」

            ジョン・F・ケネディ ( アメリカ合衆国第35代大統領 )

When written in Chinese, the word “ crisis ” is composed of two characters
− one represents danger and one represents opportunity.

                              JOHN・F・KENNEDY



普段から何気なく使っている漢字を、あえて分解して考えることは少ない。

言われてみれば、たしかに 「 危機 」 という漢字は、そのように成っている。


もしそうなら、それは 「 危険が及ぶ機会 」 ではなく、「 危険から学ぶ機会 」 であってほしいものだ。

人間は誰でも失敗をする。

だから、そのこと自体を責める気はないが、そこから何も習得せずに失敗を繰り返すのではなく、マイナスの経験を活かすことが大事だろう。

つまり、「 失敗をしないこと 」 よりも、「 失敗から学ぶ 」 とか、失敗を反省することにこそ、人としての真価が問われるのではないだろうか。

良い社会をつくるためにも、当然、その努力は不可欠である。


小学生が誘拐され、さしたる理由もなく惨殺される。

世の中は、どんどん 「 マトモな人々 」 にとって、暮らし難くなっている。

犯人は未だ逮捕されていないが、まず間違いなく 「 人格障害者 」、「 異常性欲者 」 の類とみて狂いはないだろう。

アイルランドという国家は 「 暮らしやすい国ナンバーワン 」 だそうで、わが日本は17位なのだそうだが、それは 「 マトモな人々 」 の基準である。

いわゆる 「 異常者 」 にとって、この国は 「 地上の楽園 」 といってもよいほど保護されており、まさに 「 住みやすさナンバーワン 」 かもしれない。


精神異常者は、いたるところに居り、それは静かに身を潜めているばかりでなく、我々の周囲を堂々と闊歩している。

薬物を乱用して発狂した者もいれば、日常生活での瑣末なストレスに負けて心のコントロールを失ってしまう者、理性の利かない者もいる。

日ごろから暴力をふるったり、あるいは自殺癖があって己の体を傷つける者、軽微な犯罪の習慣から抜け出せない者もいるだろう。

共通しているのは、「 ある日、突然に人を殺した 」 わけではなく、それまでによく観察していれば、必ず異常な兆候があったところである。

近所の幼児にいたづらをしたり、ネットで異常な書き込みを重ねていたり、異常者には 「 病的な犯歴 」 があるもので、今回も例外ではないだろう。


警察の検挙率が落ちたのにも関連しているが、とにかく最近の日本社会は 「 異常者の人権 」 について、それこそ異常に庇う傾向にある。

薬物中毒者、リストカッター、性犯罪歴者などに対し、とにかく寛容で、犯罪や事件との結びつきを疑うことさえも許さないような風潮が蔓延している。

法曹界も、医師会も、人権団体も、異常者を 「 上得意先 」 のように扱い、万が一、事件に関与していたとしても、それを 「 無実 」 だと主張する。

誤解のないように申し上げるが、ここでいう 「 異常者 」 とは先天的な精神薄弱者などではなく、「 己の弱さで精神が破綻した者 」 のことだ。

けして可愛そうな病人達ではなく、薬物や嗜好品の誘惑に負けたり、歪んだ根性で卑屈にならざるを得なかった 「 異常者 」 のことを指す。


もちろん、彼らには彼らなりの抗弁があるだろうし、精神の弱さは 「 病気 」 といえなくもないし、多少は慈悲をかける必要もあるだろう。

しかしながら、一般市民に被害の及ぶ可能性があるかぎり、野放しにすることは 「 危険 」 で、たえず監視下に置く必要はある。

思想統制などしなくても良いが、あきらかに 「 特定の思想ではなく、自分の憤懣を異常な形で表している 」 とみられる者には、目を光らせるべきだ。

そうでもしないと、この 「 異常者パラダイス 」 に 「 マトモな人々 」 は食い尽くされ、いづれは絶滅してしまう危険すら感じられる。

まぁ、そこまで行き着くまでには世論も変化するだろうが、いまのところは、過去の凄惨な事件の 「 反省 」 が、ほとんど現れていない状況にある。


イラク問題しかり、北朝鮮問題しかり、なんだかんだいっても日本人には、やっぱり 「 危機意識 」 が足りないといわざるを得ない。

平和だ、人権尊重だと叫んでいれば、必ずバチは当たるまいと信じ込んでいるお人好しと、その方向に結論づけたい異常者が、あまりにも多すぎる。

もちろん、多すぎるとはいっても 「 マジョリティ 」 ではなく、ごく一部の人格障害者のことなのだが、割合的にみて多いと感じる。

それらを糾弾することは、思想統制でも弾圧でもなく、社会秩序の安寧と、国際社会における国家としての責務であり、人権問題にも抵触しない。

なのに、何を恐れて 「 あなたは人格障害者ですよ 」 と明言できないのか、矯正したり隔離したりできないのか、とにかく不思議である。


このままでは、異常な事件が影を潜めることはない。

異常者が陽の当たる場所を堂々と闊歩し、幼児に接触しようが、反社会的な発言を繰り返そうが 「 お咎めなし 」 なのだから、当然の結果だ。

人権擁護団体のトップが家族を異常者に殺されたり、マスコミが標的にされたりすれば状況は変わるだろうが、それを待つわけにもいかない。

そろそろ、人格障害者に対して 「 あんた異常だよ 」 と言える程度の社会には変えていかないと、悲しい事件は後を絶たないはずである。

被害者のご冥福を祈るとともに、その死がもたらす 「 社会の怒り 」 が無駄にならないことを、心より願うばかりである。


( 本日のおさらい )

「 人格障害者に過保護すぎるのは、彼らのためにもならない 」






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2004年11月14日(日) 頑張れ自衛隊


「 もしもあなたが、私の足元にハリネズミを投げこみ始めたら、

  私はヤマアラシをあなたの足元に投げつけますからね 」

                   二キータ・フルシチョフ ( 旧ソ連邦首相 )

If you start throwing hedgehogs under me,
I shall throw a couple of porcupines under you.

                          NIKITA KHRUSHCHEV



実に、正直な人である。

人間、やられたら ( あるいは、やられる前に ) やり返すのが普通だ。


フルシチョフは嫌いだが、アホの一つ覚えのように 「 戦争反対、自衛隊の派遣は違憲だ 」 と、心にもない台詞を繰り返す偽善者よりは信用できる。

そんな 「 エセ平和主義者 」 は、こちらが戦争を放棄すれば、戦争も日本を放棄してくれると思っているようだが、現実はそんなに生易しくない。

どこも攻撃せず平和に暮らしているのに、隣国は潜水艦を差し向けている。

日本の対潜哨戒能力は世界第二位 ( 当然、一位はアメリカ ) といわれているが、攻撃を仕掛けられないのだから、相手は調子に乗って暴れる。

日本の首相が靖国詣でをしただけで猛抗議するくせに、「 ごめんね、調べとくよ 」 の一言で、すべて真相は闇の中 ( 海底の中か? ) である。


我らが 「 平和大好き日本 」 は、不審船が通っても静観するだけで、相手が核爆弾を発射して、それが着弾して人が死ぬのを、まず見届ける。

それから、お偉いさん方が集まって、会議が始まる。

で、放っておいたら次に何をされるかわからないし、これで泣き寝入りとはあんまりなので、ちょいと威嚇の意味も含め反撃してみる。

すると、近隣諸国から 「 ほら、やっぱり日本は野蛮だ 」 と罵られ、呼応した野党が国会で吼え、人格破綻者は嬉々としてネットで国の悪口を書く。

平和は大好きだけど、国防には理解が乏しいので、一体、誰のために銃を構え、国を守っているのかわからないような状態に、陥ってしまうのである。


イラクに自衛隊が駐留することを肯定すると、他人事なので関心が無いように判断する 「 短絡思考の人間 」 もいる。

実際のところは、イラクで比較的に安全そうな地域に居たほうが、日本海で不審船の追尾などしているよりは 「 安全 」 ではないだろうか。

しかし、威勢良く 「 危険だからイラクから撤退させろ 」 と怒鳴っている連中が、「 不審船は危ないから、近づかないほうがいいよ 」 とは言わない。

イラクがどうなろうと知ったこっちゃないが、不審船は自分の周囲が危険に晒される可能性があるので、徹底的に見張って欲しいのである。

自衛隊の心配をしているフリをしながら、実際には 「 自衛隊は命を張って、俺を守れよ 」 と思っているわけで、そのほうがよほど 「 他人事 」 である。


それもこれも、日本が 「 平和 」 だから成り立っているような与太話なので、そういう傾向は、あながち悪い状態でもないのだろう。

だいたい、ネットで政府の悪口を吐き散らしている連中は、うまく社会生活に適応できていない者が多く、たぶん会社や家庭でも疎まれている。

どんなに世の中が平和でも、そういう輩は集団自殺したり、線路に飛び降りたりするので、あまりテロや戦争で命を落とす心配はないだろう。

問題は、そうじゃない 「 マトモな市民 」 の危機管理で、たしかに、イラクへばかり目を向けずに、不審船など、沿岸の警戒には力を入れて欲しい。

いづれにせよ、このごろは自衛隊の役割が大きくなる一方だ。


喧嘩や格闘技と同じで、「 専守防衛 」 は圧倒的に不利である。

核をはじめ大量破壊兵器の存在は、明らかに 「 先手必勝 」 の傾向を強めており、最初に大きなダメージを与えられる恐怖がつきまとう。

きれいごとの 「 武力では解決しませんよ 」 などという眠たい話はもちろん通じないし、最初に壊滅的な打撃を受ければ、反撃がおぼつかない。

もし、最初の一撃が 「 首都への核攻撃 」 だったり、アメリカ本土をも攻撃できるという 「 米軍最大の基地 」 を含んだ沖縄の制圧ならどうする。

当然、「 やられる前に、やっちまえ 」 などという乱暴な策もとれないけれど、領海内の不審船あたりは、制止に背けば撃沈してよいだろう。


自衛隊派遣に関する小泉批判で、一つだけ納得できる部分がある。

それは、小泉首相が 「 宿営地には危険がない 」 といっているけれど、とてもじゃないが信じられないという話だ。

これだけは、批判者のほうが正しくて、小泉首相は間違っている。

首相は、宿営地の危険を尋ねられたら、「 安全ですよ 」 などと嘘の発言をせず、「 危険だからこそ、自衛隊を行かせてんだろ、馬鹿 」 と言うべきだ。

自衛隊が危険な場所に出向くのは 「 可愛そう 」 ではなく、任務なのだから仕方の無いことで、人質になった物見遊山の連中とは目的が違う。


はたして日本は、この先も戦争と無関係でいられるだろうか。

先のことはわからないが、歴史を振り返ってみても、長い間、他国とのいさかいを起こさずに共存することは難しいように思う。

それは、外交上の問題よりも、経済の不平等や、飢餓、貧困といった地域の不具合が、大きなうねりとなって先進国を脅かすのではないかと思う。

幸せの絶対量は決まっていて、世界人類にまんべんなく分け与えるには量が少なすぎて、それがテロや戦争の引き金になる可能性も高い。

その日のため、自衛隊はイラクで経験を積んだほうがよいかもしれない。


( 本日のおさらい )

「 自衛隊の活躍にエールを贈りましょう 」






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2004年11月12日(金) 教育論


「 もしあなたが、自分の子供たちによくなってもらいたければ、今の倍の

 時間を子供たちと過ごし、半分のお金を彼らのために使いなさい 」

            アビゲイル・ヴァン・ブレン ( アメリカのコラムニスト )

If you want your children to turn out well, spend twice as much time

with them, and half as much money on them.

                           ABIGAIL VAN BUREN



アビゲイル・ヴァン・ブレンは、アメリカの人気コラムニストである。

テレビの “ Dear Abby” という人生相談のコーナーで有名になった。


子供に対して 「 何が、最良の教育なのか 」 ということについては、太古の昔から多くの識者が意見を述べているが、なかなか難しいテーマである。

親が規範を示すべきという人もいれば、子供のために良い環境を整えるべきという人もいたりするが、すべてが正解であり、不正解でもあるのだろう。

確率はさておき、親が無くとも立派に育つ場合や、劣悪な環境から身を建て直し、立派な功績を残したという人物も実際に存在する。

あるいは、「 放っときゃいいのに、親が口を挟み過ぎて子を駄目にする 」 ようなケースもあり、どこまでが親の責任なのかという点も難しい。

愛情があろうとなかろうと、方法を間違えては、良い結果が期待できない。


ちなみに私は独身だが、別れた妻との間に一人娘がいる。

仕事が忙しくても、できるだけ会うようにしており、そういう関係だからこそかもしれないが、まあまあ 「 良い関係、良い距離 」 を保っていると思う。

別に喧嘩別れしたわけでもないので、三人で一緒に食事をしたり、近況や将来の夢について話し合う機会も多い。

三人の共通点は、「 誰にも縛られずに、やりたいことをやる 」 という部分で一致しており、過去の経緯についても、それなりに理解は得ているようだ。

苦労をかけたことやら、辛い思いをさせたのではないかと思ったりもするのだが、どちらに似たのか 「 泣き言 」 を吐かない娘なので、助かっている。


血は争えないというが、やはり性格は似るものらしい。

時事問題、社会問題に関しても同じような認識で、「 やや右より 」 といったあたりも共通しているようだ。

よく遊び、よく学び、運動神経に優れ、母親譲りの美貌を携えている。

あまり書くと 「 親ばか 」 になるが、近頃の風潮に流されるばかりではなく、しっかりと自分の考えをもって生きているように評価できる。

周囲から、「 良いお子さんに育てられましたね 」 と誉められたときには、「 育てたのは彼女ですよ 」 と、元奥さんを指差すようにしている。


子育てに関しては、人に偉そうなことを言えた立場でもないのだが、「 自分がハッピーでなければ、子供もハッピーに育て難い 」 のではないかと思う。

我々親子は、お互いに競争をするかのように、それぞれの 「 ハッピー 」 を追求し、それなりの努力や修練を惜しまない 「 良きライバル 」 でもある。

もちろん、自分だけの努力によって成し得たわけではなく、周囲や、そしてなにより家族の協力があったおかげで、自分はハッピーにやってこれた。

それが、純粋に 「 子供のため 」 という目的ではなかったのだけれど、今にして思えば、どうやら 「 良い結果 」 に結びついているような気もする。

愛情とか、お金とか、そういう二極化した問題ばかりでもなく、もう少し複雑で曖昧だけど、親子ならではのコミュニケーションが存在するはずだ。


それを他人に口で説明することは難しく、また、適切でもない。

うまく言えないが、「 親子が持つ共通の遺伝子に語りかける 」 ような形で、手探りで確認しながら前へ進むことが、成功の秘訣かもしれない。

だから、他人が自分と同じことをしたからといって、それが良い結果をもたらすとは限らないわけで、万人に通じる 「 教育論 」 など、私は持っていない。

私の遺伝子が 「 たとえ親子であっても、他人を幸せにするために、自分のすべては犠牲にしない 」 という性質だったので、これで良かったのだろう。

代々、「 滅私奉公 」 という気質を育んできた血流の遺伝子に、そのような語りかけをしたところで、その方の子育てに巧く作用するとは思えない。


そんなわけで、万人に向けた 「 良い教育方法 」 を考えることは難しいが、逆に 「 悪い教育 」 というものは、いくつか考えられる。

世を恨み、世間に背を向けた発言ばかりしたり、すべてを 「 他責 」 にするような生き方をするのは、子供の教育上、とてもマズイだろう。

不遜な態度の子供を指して 「 親の顔が見たい 」 などともらす人もいるが、実際には 「 見なくても想像がつく 」 のである。

お金があるとか、健康がどうかという問題を超えて、そのような親御さんが 「 ハッピー 」 なはずもなく、何かが狂っていたり、病んでいたりする。

嫌なことがあっても、子供の前では情けない顔などせず、世間に八つ当たりしないように生きていくことが、「 親の努め 」 なのかもしれない。


( 本日のおさらい )

「 子供は親の姿を映す鏡 」






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2004年11月10日(水) 被災地への便り


「 手紙とは、封筒に込められた期待です 」

                  シャナ・アレキサンダー ( ジャーナリスト )

Letters are expectation packaged in an envelope.

                           SHANA ALEXANDER



昭和四十年からの十年間に、「 電話 」 の普及率は飛躍的に伸びた。

国民百人あたり七・五台から、約四倍の二十八・二台に急増したという。


同じ時期に、逆に激減したのが 「 電報 」 の需要で、通数は八千五百万通から、五千五百万通へと下降している。

最盛期、昭和三十八年には九千五百万通もあった電報は、電話やファクスの普及とともに減り続け、昭和六十年には四千万通にまで落ち込んだ。

その後、電報は 「 メロディ電報 」 や 「 押し花電報 」 といったパッケージの高級化、父の日、母の日向けのプレゼントとしての需要を開拓する。

そして、わずかに上向きかけた後、今度は携帯電話、Eメールなどの新しい通信メディアにおされ、ついには三千万通台にまで数を減らした。

もはや電報は、慶弔関連の需要も含め、通信手段というよりは 「 ギフト 」 としての性格でしか、人々に用いられる機会がなくなってきている。


現在、電報の九割以上は一刻を争って配達するものでなく、お祝いやお悔やみといった慶弔電報であり、決められた日時に届けられるものだ。

数十年前、往時の電報は 「 とにかく早く届けなければならないもの 」 として何よりも優先され、人々の暮らしの中に根付いていた。

配達者は、雨の日も雪の日も自転車を駆り、全速力で電報を届けた。

経験者の話では 「 電報屋とわかれば、必ず競争を仕掛けてくる奴がいた 」 そうだが、日ごろの鍛錬により、路上レースでは不敗を誇っていたという。

立ち入り禁止場所でも、雑踏の中でも、彼らは常に道を譲られ、真夜中に寝ている人をたたき起こしても、一度も文句を言われたことはないらしい。


マルチメディアの世の中になって、電報は 「 ご用済み 」 となり、いづれ安らかに死を迎えることになるのだろうと、誰もが思い始めていた。

だが、そうではなかった。

電報はギフトメッセージではなく、通信メディアとしての力をちゃんと持っていたことが証明されたのである。

阪神・淡路大震災の折り、電話線が破壊され、また殺到した通話のため、ラインの容量がパンクし、通話不能の状態が長く続いた。

そのとき、昔日の記憶がある五十代以上の人々は、見舞いや安否を気遣うために、現地へ電報を打ったのである。


あの日、自衛隊と相前後して、東京、東海、兵庫県以外の関西地区から、多数の電報配達員たちが被災地へ駆けつけた。

彼らは自らの危険も顧みず、瓦礫を乗り越えて電報を届けていた。

電話やガス、電気の復旧については新聞やテレビのニュースが刻々と伝えていたが、その事実はまったく報道されていない。

焼け落ちた建物の壁に人間の形にすすがついていたり、道にはまだ遺体があったりしたが、それでも彼らは配達を続けた。

それは、「 この電報だけは、どうしても届けなければならない 」 という、昔と変わらぬ 「 電報屋の心意気 」 というものがあったからだろう。


携帯電話は便利だし、メールの手軽さは通信に 「 楽しさ 」 を与えた。

しかし、人の手から手に渡る手紙や電報の重みは、それとは違う 「 何か 」 があり、受け取った場面や、背景も含め、記憶に残ることがある。

単に、アナログに回顧するノスタルジックな想いだけではなく、災害時など、先端技術が無力化した際には、切り札として頼みの綱になることもある。

新潟へ、電報に想いを託した方も多いだろう。

現在、電報は NTT から配達業務を請け負っている 「 財団法人 電気通信共済会 」 他、民間の委託会社によって届けられている。


( 本日のおさらい )

「 アナログを馬鹿にするなかれ 」






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2004年11月08日(月) 民衆本位の政治


「 民衆の声は神の声である 」

                  古代ローマの格言

The voice of the people is the voice of God.

                  LATIN PROVERB



まさしく、その通りである。

政治の本質的な部分は、昔から何も変わっていない。


ブッシュが勝った ( 予想通りに ) 途端に、人格破綻者による負け惜しみのような悪口と、ついでに小泉批判 ( 予想通りに ) が始まった。

あまりにも先が読めているので 「 もう、うんざり 」 という感じだが、言いたくてしょうがない連中には、一種の 「 祭り 」 みたいなもんだろう。

こういう輩の特徴は、くどくどと難解で高尚な能書きを、さも論理的な解説のごとく書き連ねても、最後には結局 「 ボロ 」 が出る点である。

政治がどうこう、戦争が、国際情勢がどうこうと語りながら、文章の最後は 「 だからアメリカ人は馬鹿 」 といった、子供の口喧嘩で結ばれてしまう。

何か参考になる情報でもあるのかしらと思えば、やっぱり今回も、読者は 「 個人的な憂さ晴らし 」 に付き合わされるのね。。。といった感じだろう。


どの候補者なり政党を支持しようが、それは勝手である。

対立候補の悪口を並べ立てるのも、気に入らない政党に罵声を浴びせるのも、それは個人の自由だし、好きにやればいいことだ。

ただし、自分と意見が異なるからといって、「 アメリカ人は馬鹿だ 」 だとか、大衆を軽んじた発言をする人間は、それこそが愚か者である。

以前、支持政党ではないが、ネット上にコラムを寄せる 「 某市会議員氏 」 の日記を愛読しており、お気に入りに追加していた。

しかし、ある日の記述で、過半数が自民党を支持することに触れ 「 日本人は馬鹿だ 」 という記述をされた途端に、底の浅い人間だと気づいた。


日本人が馬鹿だろうと、アメリカ人が馬鹿だろうと、日本は日本人のため、アメリカはアメリカ人のために、大衆が満足を得る政治に励むべきだ。

無論それは、世界から孤立した利己主義に固まったものではなく、国民として、世界市民として、施策が高い水準にあることも必須条件となる。

しかしながら、それ以前に 「 大衆が選んだ判断 」 を真摯に受け止められる度量の無い者は、政治を語る資格などない。

それを軽んじ、粗末に扱うことは 「 天にツバ吐く行為 」 であり、大衆の利害を無視して自己主張に走る者が、一体、どこを目指すというのか。

プロでも、アマチュアでも、「 国民は馬鹿 」、「 大衆は愚か者 」 などと言う人間の意見には、まともに耳を貸さないほうが良いだろう。


それに、「 ブッシュが勝った 」 とはいっても僅差である。

この結果を参照して、「 ブッシュを支持する 」 という民意なのか、「 ケリーを支持しない 」 という民意なのかを判定するのも難しい。

ただ、五分五分という結果から、現職のブッシュ氏に対する平均的な国民感情は、「 さほど悪い印象ばかりでもない 」 ということが言えるだろう。

伝統的にアメリカ人は、資質として 「 強い大統領を望む 」 傾向にある。

今回の両候補とも、その面では及第点に達しており、対テロ政策で強硬論を打ち出しているところなど、どちらも 「 似たりよったり 」 であったようだ。


個人的にはブッシュ氏支持だったが、もちろん、気に入らない点もある。

イラク統治、派兵には賛成だが、「 正義の軍隊 」 などと名乗るのはおこがましいと思うし、なにやら聖戦めいた発言が多いのも不服だ。

戦争に 「 正しい戦争 」 なぞあり得ないわけで、「 正しいから 」 戦争を肯定しているのではなく、「 他に方法がない 」 という理由で認めているだけだ。

このように、「 ブッシュ支持 」 といっても色々な意見があるわけで、それを一まとめにして 「 馬鹿 」 と片付けるのは、あまりにも短絡すぎる。

いづれにせよ、これからの四年間、ブッシュ氏には 「 選ばれた責任 」 を、民衆は 「 選んだ責任 」 を果たすため、おおいに頑張ってもらいたい。


( 本日のおさらい )

「 日本人は馬鹿よねー・・・って言うお前は、何人だ? 」






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2004年11月04日(木) 道を拓く人


「 試合はワイフだ。 

  忠誠心と責任を要求されるが、達成感と安らぎを返してくれる 」

            マイケル・ジョーダン ( NBA バスケットボール選手 )

The game is my wife. It demands loyalty and responsibility,
and it gives me back fulfilment and peace.

                             MICHAEL JORDAN



イチロー、松井もすごいが、またすごい男が現れた。

日本人初の、NBAプレイヤー “ 田臥 ( たぶせ ) ” の誕生だ。


田臥の身長は 173cmと、日本人選手の中でも小柄な部類に入る。

よく、スポーツの世界では 「 心・技・体 」 の三拍子が揃っていることこそが好条件とみなされるけれども、競技によって、それぞれの比重は異なる。

バスケットボールにおいての 「 体格差 」 は、なかなか技術力で補えるものではなく、特に身長面でのハンディキャップは、圧倒的な不利につながる。

もちろん、小柄で活躍している選手も少なくはないのだが、小柄といっても、せいぜい 「 180cm前後 」 の選手を指す。

この身長で、世界最高峰のプロ集団から 「 戦力 」 として認められたということは、とにかく “ すごい ” ことなのである。


彼が期待通りの活躍を遂げたなら、おそらく日本国内のバスケットボール熱は高まり、競技人口の増加に貢献するだろう。

京の五条の橋の上、大男の弁慶が振りおろす薙刀から、ひらりと身をかわす牛若丸は、古今東西、日本人が好きなタイプの “ ヒーロー像 ” である。

もちろん、小兵というだけではなく、卓越した膝のバネや、スタミナ、敏捷性といった面で、彼には類稀なる才能と資質が備わっている。

2mを越す大男のガードをかいくぐり、俊敏なステップでコートを自在に駆け巡る田臥のプレーは、現地でも多くのファンを獲得するだろう。

バスケットは、日本では少し人気が薄い競技であることを残念に思っていたけれど、彼が新しい “ ムーブメント ” を起こしてくれるかもしれない。


新しいことに挑戦する人の姿には、新鮮な感動を与えられる。

まして、「 不可能 」 といわれ続けてきた障壁に、体当たりで風穴を開けるという偉業を成し遂げた勇者には、惜しみなく賞賛を贈りたい。

凡人はすぐに、「 体が小さいから 」 とか 「 教育機関がないから 」 などと、ことあるごとに 「 できない言い訳 」 を探してしまうものである。

しかし、必ずやり遂げるという強い意志と、不断の努力をもってすれば、たとえすべての夢は叶わなくとも、薄明かりでも道が拓けるのではないか。

彼の姿に、またひとつ勇気を与えられた気がする。


( 本日のおさらい )

「 どんな環境にいても、自分を磨くことはできる 」






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2004年11月02日(火) テロリスト的発想の蔓延


「 日本は偉大な国だ。

  そろそろ、それにふさわしい行動をとっていい頃だ 」

Japan is a great nation. It should begin to act like one.

           ジョン・C・ダンフォース ( アメリカ上院貿易小委員長 )

                            JOHN・C・DANFORTH



自由な発言が許されている国では、いろんな意見が飛び交う。

あれこれ、国に楯突く者がいるのは、日本だけにかぎった現象ではない。


外国人が日本という国や、その愛国心に関して疑問を抱くのは、そういった 「 思想の多様性 」 などという生易しい部分ではない。

それよりも、「 ハイスクールの卒業式で、唖然とする生徒を前にし、国旗を揚げる、揚げないでモメている教師たち 」 の姿が、衝撃的なのだという。

たしかに、内乱やクーデターに明け暮れる国でさえ、それほどまでに自らの国を自虐的に貶める騒ぎを起こす姿は、ほとんど見られない。

国旗や国歌に対して 「 敬意 」 を示さないように生徒を懐柔し、社会へ送り出そうとする連中が、いまや日本の 「 聖職者 」 なのである。

それでいて、「 青少年の犯罪が増えましたね 」 とか、「 近頃の若いもんはなっとらん 」 などと語ったりするのだから、ずいぶん、ユニークなお国柄だ。


日本人の青年がイラクで、非業の死を遂げた。

ご冥福を祈りたいとは思うが、たとえそれが 「 自衛隊を撤収しろという圧力に屈さなかった結果 」 だとしても、政府の決定には何の問題も無い。

基本的に 「 別問題 」 であり、関連付けて考える必要などまったくない。

むしろ、誰かが 「 敵討ち 」 をしてやらねばならんような話で、新たに隊員を投入し、犯人を探し出し、日本人の手で制裁を加えてもよいぐらいだ。

逆に、「 死人も出たことだし、ここらでお開きにしましょう 」 みたいな対応では、後に悪影響を残すし、死者への顔向けもできないはずである。


最近の人質事件における流行は、人質を 「 交渉材料 」 ではなく、みせしめのパフォーマンスとして 「 殺してしまう 」 パターンが増えている。

彼らテロリストは、お金が欲しいわけでもなく、自衛隊をイラクから撤退させてほしいわけでもない。

もし、そういった目的があるならば、再交渉に臨むとか、徐々に威嚇したり、拷問したりなんかして、もっと交渉に執着するはずである。

ちゃっちゃと殺してしまう背景には、人質を盾にとり利益を得ようとすることよりも、己の組織の残虐性や、実行力を世間に知らしめる目論見がある。

つまり、最初から話し合いに応じる気などないわけで、日本政府がどのような対応をしたところで、同じ結果しか望めないというわけだ。


アメリカにも、イラク戦争に反対する人は多い。

ただし彼らの大部分 ( マトモな頭の人 ) は、むやみやたらに反対を唱えているわけではなく、それが 「 避けられない事態 」 であることも知っている。

米軍が独善的に暴走することを拒み、周囲 ( 日本や、他国の軍隊 ) にも協力を促そうとする意見や、国連に委ねようとする主張も聞かれる。

国連の決定に従うという意見を、単純に 「 公正で平和的な解決 」 と捉えるお馬鹿さんもいるが、果たしてそうだろうか。

いざ、国連が 「 殺せ、ぶっ潰せ 」 という裁定を下した場合、さらにより多くの複合的な戦力が 「 お墨付き 」 で、イラクを焦土と化すのである。


学校での 「 日の丸、君が代問題 」 をはじめ、日本の 「 反体制派 」 とおぼしき輩は、不満をぶつける矛先や、行動の起こし方が適正でない。

異論を唱えること自体は間違っていないが、無垢な子供を巻き込んだり、はた迷惑ということにまで神経を通わせる配慮がない。

それは、自分たちの信念や主張を通すための行動ではなく、派手な演出で衝撃を与えることが目的の 「 テロリストの誘拐 」 と同じ次元にある。

マジョリティの意見を 「 愚民、馬鹿な国民 」 と愚弄し、さも自分だけが正しいかのような 「 エゴ 」 を撒き散らす、そういう風潮が増えている。

まぁ、その大部分は 「 物陰からしか文句が言えない “ 根性なし ” 」 なので、さしたる危険はないが、テロリストと同じく自分勝手な性質である。


( 本日のおさらい )

「 テロリストにとって人質は、交渉ではなく宣伝の材料 」






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