Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年10月30日(土) 命を人質にしているのは、テロリストだけではない


「 私を破滅させないものが、私を強くする 」

                   フリードリヒ・ニーチェ ( 哲学者、詩人 )

What does not destroy me, makes me strong.

                         FRIEDRICH NIETZSCHE



映画や小説では、「 破滅的な生き方 」 を美学として描かれることもある。

そんな ヒーロー は危機に瀕しても、「 助けて 」 などと泣き言を吐かない。


ビルの屋上、手摺の向こう側に一人の男が立っている。

靴が揃えられ、その中には 「 遺書 」 と書かれた封筒が入っている。

そこへ駆けつけた警察官が、「 早まるなっ、馬鹿なことはやめろっ 」 と叫びながら近づくと、男は大声で 「 近づくな、近づくと飛び降りるぞ 」 と返す。

そんなやり取りをしながら、いつのまにか警察官は男の背後まで近づいて、小刻みに体を震わせている男の背中を、「 ちょん 」 と指でつつく。

「 わっ、危ないじゃないかっ! 死んだらどうするんだよっ! 」 と男が叫ぶ。


それは、使い古された 「 コント の ネタ 」 である。

変形バージョンとして、男が 「 ほっといてくれよ 」 と叫ぶと、「 はい、わかりました 」 と答え、何事もないかのように掃除を始めるパターンもある。

この寸劇における 「 芝居どころ 」 は自殺を図る男の表情で、自分の行動を 「 手伝われる 」 のも、「 無視される 」 のにも嫌な反応をするところだ。

これは、「 自殺は忌み嫌われるもの 」 であり、「 他人は傍観せず、止めようとするもの 」 という概念が相互理解にあって、それを大前提としている。

だから、舞台上の登場人物が、それを裏切ったり、暗黙のルールに反した行動をとることで、自殺企図者は狼狽し、観客の笑いにつながる仕組みだ。


勝手に危険地帯へ侵入し、テロリストの人質になった青年もこれに似たもので、「 死 」 や 「 危機 」 に対して、微塵の覚悟もない。

政府の意思に逆らい、異議を唱えることを常としながらも、わが身に危険が及ぶと、目の敵にしている政府へ 「 救済 」 を求めてはばからない。

彼らにとって政府は、自ら選んだリスクを幇助する立場でも、傍観する立場でもなく、「 助けるのが当たり前 」 という認識をしているらしい。

役人が奔走し、多額の公金を用いて助けたところで、命拾いした彼らが国に感謝するとは思えず、「 対応が遅い 」 などと文句を言うのがオチだろう。

それでも、国は彼らを見捨てないのだから、日本という国がいかに寛容で、愚か者や狂人にとっての 「 パラダイス 」 であるかは周知の事実である。


目立ちたがり屋の彼らや、自殺企図者にとって 「 自己の生命 」 というものは、ある意味 「 交渉の道具 」 として用いられている。

そういう意味では、テロリストに捕らえられなくとも、彼らは自分の生命を 「 人質 」 として、常に他人と交渉する習慣がついているのだ。

他人の関心を惹きたくて、「 かまってくれなきゃ死んじゃうぞ 」 と脅しているのだから、拉致されようがされまいが、結局は同じである。

共通しているのは、「 他人に殺されるのは嫌だ 」 というところで、自己犠牲の精神など微塵もなく、実際のところはものすごく往生際が悪い。

彼らにとって 「 自分の生命 」 は 「 大事な商売道具 」 なのであって、自分が粗末に扱うことは平気だが、他人に蹂躙されるのは許せないのである。


自殺することの罪悪など 「 屁 」 とも思っていない輩が、新潟の被災者に対する政府の救済措置に文句をつけたり、しきりに生命の尊さを説く。

一見、矛盾だらけに思える話だが、「 生命は、誰のものであっても尊い 」 という認識ではなく、単なる 「 自分の財産 」 と考えるのが彼らの特徴だ。

うんざりする世の中に別れを告げたいと思う一方で、「 自分だけが優遇される楽しい世界なら、生き続けていたい 」 という想いは、人一倍強い。

だから彼らは、地震が起きても、誰かが拉致されても、常に 「 明日は我が身に忍び寄るかもしれない危惧 」 を憂い、対策を政府に要求する。

本当に死ぬ覚悟があるなら、ぐだぐだと泣き言を並べて他人の関心を惹くことなどせず、さっさと人知れず死んでいるはずである。


他人の痛みが理解できて、エゴや、わがままではなく、誰もが等しく健康で豊かな生活を過ごす機会を望む人間と、彼らは本質的に異なる。

当然、愚か者であっても救済する姿勢を忘れてはならないが、過度の思いやりは 「 馬鹿を増長させ、思い上がらせる 」 結果にもつながる。

生還したあかつきには、同調する左翼系メディアの視聴率稼ぎに利用させず、「 騒乱罪 」 を適用して刑務所に入れることが望ましい。

実際、それでなくとも新潟の地震で役所がてんやわんやしているご時世で、馬鹿一人が及ぼした 「 迷惑 」 は、計り知れないものである。

相当な 「 お灸 」 をすえることが、「 馬鹿再発 」 を予防するうえでは最善手であり、テロ被害に対する認識を深めることにも結びつくだろう。

( 本日のおさらい )

「 自分の命を粗末にする馬鹿に、命の尊さを語る資格などない 」






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2004年10月27日(水) 日本人の強さ


「 あなたが倒れたことは、どうでもいいのです。

  私は、あなたが立ち直ることに関心があるのです 」

       エイブラハム・リンカーン ( アメリカ合衆国第16代大統領 )

I am not concerned that you have fallen - I am concerned that you arise.

                           ABRAHAM LINCOLN



新潟の皆様は今も、繰り返される余震の中、不安な時を過ごされている。

一刻も早く、平穏な日々が回復されることを、心からお祈り申し上げる。


同情や憐れみよりも、なにより 「 復興 」 を優先するほうが正しい。

一人でも犠牲者が少なく、少しでも被災者の苦難や悲しみが和らぐように、多くの人々が寝食を忘れて尽力している。

阪神大震災のときもそうだったが、善意ある名も無き人々の地道な活動は、世間が 「 冷たさ 」 や 「 殺伐さ 」 だけではないと改めて知らされる。

されど、具体的な行動を起せはしないが、被災者の無事を祈ることもまた、同胞として、同じ人間として、それは意味のあることだろう。

そして、同じような災厄に見舞われたとき、犠牲を最小限に止められる準備を日頃から心掛けておくことも、やはり大切なことだと思う。


残念なことではあるが、起きてしまった災厄を憂えてもはじまらない。

道路は分断され、崩落した瓦礫と土砂に埋まり、多くの人々が住み慣れた家と、あるいは 「 村そのもの 」 を失ってしまった。

ご無事ではいても、避難先で不自由な思いをされている方も多いだろう。

しかし、苦難よりも回復に、後悔よりも前進と復興に、私は興味がある。

過去の脅威と同様に、日本人には力を合わせて苦境を乗り越え、それまで以上の発展を遂げる意志と底力を携えているものと、私は信じている。


これは 「 理屈 」 ではない。

たとえば、海外で飛行機が墜落した際に 「 日本人の死傷者がいるか 」 ということばかりに注意が向くような 「 仲間意識 」 が、日本人には強い。

それは偏重した 「 民族的思考 」 のように捉えられる側面もあるが、同胞の痛みを共有できるという 「 団結力 」 にも繋がるものだ。

照れ隠しに 「 対岸の火事 」 という顔をしてみせても、雨が降れば新潟の人々を気遣い、テレビに余震の速報が流れれば、新潟の人々を気遣う。

一つの村が滅びても、我々は日本という同じ 「 村 」 に住む同志、命あるかぎり手を結びながら、明日へと向かっていけるはずである。


( 本日のおさらい )

「 新潟県中越地震 被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます 」






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2004年10月25日(月) 震災の影に美談あり


「 人にものを与えてもそんなことは覚えていず、人から貰ったことは

  忘れない人たちは幸いである 」

      エリザベス・ビベスコ ( イギリス首相を務めた Asquith の娘 )

Blessed are those who give without remembering and take without forgetting.

                          ELIZABETH BIBESCO



そんな人が本当に居るのかというと、実は居るのである。

新潟で起きた地震の報に触れ、ふと数年ぶりに思い出した。


京阪神で暮らす者にとって、「 阪神大震災 」 は未曾有の大惨事だった。

おそらく、この先数十年の歳月を経たとしても、当時の衝撃が記憶の中で薄まることなどなく、それはきっと孫子の代まで語り継がれていくことだろう。

あの地震が起きるまで、私を含めた関西に住む多くの人は 「 関西には大地震が起きない 」 という盲信を、さしたる根拠も無く抱いていたように思う。

事実、それまでは、東京に住んでいた頃には日常茶飯事だった小規模の地震すら、大阪で体験することなど滅多になかった。

震災が発生した瞬間も、私の脳裏に浮かんだのは、「 大阪でこんなに揺れているのだから、東京は壊滅したのではないか 」 という不安だった。


怖いモノの代表として、昔から 「 地震、雷、火事、親父 」 が挙げられる。

最近では 「 親父 」 の威厳が損なわれてしまい、どうも代表を降板したほうがよさそうな気配もあるが、他の三つについては、伝統を受け継いでいる。

しかしそれも、関西人にとっては 「 震災以後 」 の話であり、それ以前には地震の脅威について、どうもピンとこない人が多かったはずだ。

さすがに今は 「 関西を震源地とした地震も起き得る 」 という説が浸透しており、地震がどれほどの被害を及ぼすのか、その恐怖も悟っている。

少し揺れただけでも、「 阪神大震災の再来か 」 と身構え、警戒するようになってきたのは、トラウマというより、地震に対する無知が改善された為だ。


私自身も、遠い親戚の姉さんを震災で亡くしたが、それはかなり後になってから知らされた訃報で、当初は、知人に被害が出ているとは知らなかった。

大阪も被災したが、交通機関やライフラインが途絶えることもなく、西隣の兵庫県へのアクセスが分断されただけで、大きな被害はなかったのだ。

地震発生から、まる一日を過ぎる頃、すぐ隣の兵庫県が 「 陸の孤島 」 のような有様に晒されており、物心両面で救援を必要としていることを知った。

当時の心情を神戸の知人に聞くと、「 本土から置き去りにされた沖縄県民の気持ちが少しわかった 」 という声もあったほどだ。

それで、仲間に声を掛け、被災地に救援物資を運んだり、余暇を活用して何かの役に立つ方法はないかと、思案をめぐらせた。


既に多数のボランティアが活動を開始していたし、素人の小集団に出来ることも限られていたので、我々は被災地の知人を訪ねることにした。

特に気になっていたのは、芦屋市 ( 兵庫県有数の高級住宅街 ) の山手にそびえる豪邸に住む某女史のことであった。

彼女は 「 超 」 が付くほどの大金持ちの一人娘で、何度か遊んだことはあるけれど、浮世離れしているというか、まるで庶民的な部分がなかった。

きっと、心細い思いをしているだろうし、庶民に比べ 「 サバイバル能力 」 が欠けているだろうから、飲まず食わずで困窮しているに違いない。

そう確信した我々は、ペットボトルの水と、ありったけの食料を担いで、電車が西宮まで復旧した途端、そこから芦屋を目指して歩いたのである。


西へ向かうほど建物の損壊が激しく、道路の陥没、軌道の歪みなどが視界をよぎり、死傷者を見たわけでもないのに、自然と目頭が熱くなってくる。

相手は違えど、いつもデートコースの定番にしていた神戸の街が、修羅場と化していることを思うと、胸が詰まる思いだった。

大阪を出る頃には 「 ピクニック気分 」 だった者も、しだいに口数が少なくなり、皆、荷物を担いで黙々と歩を進める。

やがて、彼女の家に近づくと、我々は 「 無事でいろよ、俺たちが来たから大丈夫だ 」 という思いで結束し、最後の急坂を一気に駆け上った。

うれしい誤算だったが、予測に反して彼女の家は目立った損壊もなさそうで、この様子ならきっと 「 間違いなく生きている 」 と誰もが確信した。


立派な門構えは激震に耐え、威風堂々とした佇まいを保っている。

一同を代表して私が呼鈴を押し、彼女に不安を与えないよう、全員が微笑を浮かべながら返答を待った。

しかしながら返答はなく、二度、三度と繰り返してみるものの、邸内からは人の気配すら漂ってこないので、だんだんと不安になってくる。

呼鈴が壊れている可能性もあるので、中庭を覗きながら名前を呼んだり、裏口に回ったりして、各人が声をあげた。

ほどなく、隣家のご夫人が現れ、必死の形相の我々に声を掛けた。


「 あのぉ、○○さんなら、ご一家で大阪の “ △△△ホテル ( 超高級ホテル ) ” に滞在なされてますよ 」

いわゆる 「 あんぐりと口を開ける 」 というのは、当時の我々のような間抜け面を指すのであろう。

物資を 「 十分にあるから要らない 」 と拒む隣家のご夫人 ( やっぱり同じく大金持ち ) に押し付け、身軽になった我々は帰路についた。

後日、ホテルに彼女を訪ねると、震災直後、お父上の会社の方が一目散に駆けつけ、その日の内にチェックインしたそうである。

とりあえず 「 2ヶ月間 」 はスイートルームを抑えてあるのだと、贅を極めた極上の部屋で、優雅に 「 アフタヌーンティー 」 を啜り、彼女は答えた。


誰も悪くないのだが、ちょっと 「 ムカツク 」 話であった。

その気分を変えてくれたのは、彼女の 「 お父上 」 の美談である。

震災後、彼女のお父上に対して、某自治体の方から 「 多額の寄付金 」 をくださるという連絡が来たそうである。

彼女のお父上自身、「 自分は金持ちである 」 ということは自覚しているので、我々同様、「 どうして寄付をくれるのか 」 という疑問に首を傾げた。

当の本人は、そんな自治体に 「 一度も 」 行ったことがないのである。


実は、阪神大震災 ( 1995年1月 ) の少し前 ( 前年の年末 )、東北で大きな地震があり、その際に彼は多額の寄付をしていたのである。

1ヶ月も経っていない間に彼自身が被災したので、某自治体は 「 お気の毒なので返上しますが・・・ 」 という意志で、打診してきたらしい。

それを聞いても彼は、「 そうだっけ? 」 と覚えていない様子である。

当然、「 お金が有り余っているから 」 とは言わず、ご好意は誠に有り難いが、お気遣いなくという返事をし、丁重に申し出を断ったそうだ。

徒労に終わった我々の慰問にも大感激してくださり、豪華な食事をご馳走してくださったことも、ちょっとほろ苦い 「 美談の思い出 」 である。


( 本日のおさらい )

「 あれはけして “ ボケ ” ではなく、美談だった ( と思いたい ) 」






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2004年10月24日(日) 汚れ役に依存する日本


「 ハニー、かわすのを忘れちまったんだ 」

                    ジャック・デンプシー ( プロボクサー )

       〜 1926年、ジーン・タニー戦に負けたあと、妻にむかって 〜

Honey, I forgot to duck.

                              JACK DEMPSEY



ボクシングにかぎらず格闘技の基本は、「 攻撃 」 と 「 防御 」 にある。

どちらか一方でも欠けているようでは、まともな試合が期待できない。


また、「 攻撃は最大の防御 」 という言葉もよく使われる。

この意は、「 こちらの攻撃力を示すことで相手の警戒心を促し、むやみに攻撃を仕掛けられないようにすべし 」 という戦法の極意である。

大国が 「 戦争の抑止力 」 として 「 核兵器 」 を保有している論理もこれに通じており、現在の世界平和はこのような危い均衡の上に成り立っている。

それが 「 良いことか、悪いことか 」 はさておき、紛れも無い事実である。

またそれは、日本のように 「 核を保有しない国 」 にとって、自力で防衛する手段の妨げとなっていることも、自明の理といえるだろう。


日本の防衛システムは、ご存知の通り 「 専守防衛 」 である。

相手が明らかに戦意をもって攻撃してきた際にかぎり、迎撃することが可能となっており、それまでは 「 威嚇 」 も 「 攻撃 」 もできない。

たとえば、北朝鮮からミサイルが飛んできたとしても、それが領空内にまで侵入し、これが人命に危害を加えると確認されないかぎり、何もできない。

以前、「 テポドン 」 とおぼしき飛行物体が日本列島を縦断し、太平洋に着水した事件が大騒動となったが、あれが着弾していたとしても同じことだ。

結局、レーダーで航跡を追う以外に、できることは何もないのである。


一見、平和的にもみえる 「 専守防衛 」 という仕組みには、実は根本的な欠陥と、現代戦においての矛盾がある。

まず第一に、「 第一波の攻撃を受けたあとでも、戦力が維持されている 」 という大前提のうえに立った発想であるという問題だ。

最初の一撃により首都が崩壊させられ、反撃能力を失ってしまった後では 「 やられたら、やりかえせ 」 という概念自体、まるで意味を成さなくなる。

つまりは、「 やったもん勝ち 」 の先手必勝という構造である。

それを防ぐには、「 同盟国による報復 」 という切り札を使わざるを得ないわけで、日本が防衛面でアメリカと連携している理由は、その点が大きい。


最近は自衛隊の装備も発達し、イージス艦やら、レーダー網の配備によって、早期に索敵する技術も高まってはきている。

それを活用し、飛来するミサイルを自衛隊が 「 直前で撃ち落せばよい 」 と考える人も多いようだが、それには二つの障害がある。

まず、最近のミサイルというのは命中精度が高く、一度 「 ロックオン 」 されてしまえば、ほとんど目標を外すということが考えられない。

同時に数発のミサイルが襲ってきた場合、すべてを確実に迎撃する術は皆無であり、事実上、攻撃を無傷でかわすことは不可能である。

また、仮にそれが 「 可能 」 であったとしても、「 専守 」 という二番目の理由で、被害を受ける前に迎撃する法整備が、日本には敷かれていない。


そのような理由から 「 日本の平和は、同盟国への依存なくしては成立しない 」 ことが明らかなので、アメリカとの連携が不可欠となっている。

第二次大戦直後から東西冷戦終結後までの間、日本国内にアメリカ軍の基地が配備された理由は 「 反共の防波堤 」 という側面も大きかった。

しかし現在は、対アジア、中東方面への補給基地という役割と、「 日本の防衛 」 という意味合いが強く、少なからず日本は恩恵を受けている。

これを全面的に撤廃しようすれば、日本は軍備を高め、専守防衛を見直すための 「 抜本的な法律の見直し 」 が必要となるが、当然、反対は多い。

つまりは、アメリカに 「 汚れ役 」 をさせておいて、「 日本は平和憲法を遵守する優等生 」 を名乗っているのが、客観的にみた民意の実情である。


結論としては、「 日本が憲法9条を固持するには、米軍基地が不可欠 」 という事実から目を背けることはできないのである。

だから、「 憲法は変えない、米軍は出て行け 」 という論理には 「 国が滅ぶ危険 」 が孕んでおり、実現できる可能性は少なく、するべきでもない。

では、どうするのか・・・

日本は先の大戦によるトラウマから脱し、いつまでもアメリカに頼るばかりでなく、そろそろ 「 自主防衛 」 に目を向けるべきではないだろうか。

ミサイルに滅ぼされるのも嫌だが、他国の用心棒に頼るのではなく、やはり 「 守るべき国家 」 を自分たちで守る姿勢が望ましいように思う。


有事法制をはじめ 「 自力による現実的な防衛手段 」 を高めながら、段階的に米軍基地は縮小していくことが妥当であろう。

国内に展開する米軍の基地数、兵力数は、たしかに多すぎる。

有事の際に連携をするにしても、いまのままでは指揮権、決定権などの面で日本が 「 イニシアティブ 」 を執るには心もとない。

もちろん、世界から戦争がなくなり、核などの大量殺戮兵器が根絶されれば何の心配もないし、その必要もなくなるだろう。

ただ、そのためにはアメリカが今以上に 「 汚れ役 」 を務めなければならないのは明白で、それを許さない人間が多くいる以上、可能性は少ない。


( 本日のおさらい )

「 アメリカに “ 汚れ役 ” をさせておいて、平和国家もクソもない 」






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2004年10月21日(木) シンプル・イズ・ベスト


「 私はね、男性にとって鳥以上の重たい存在になりたくなかったの 」

                        ココ・シャネル ( シャネル創業者 )

I never wanted to weigh more heavily on a man than a bird.

                                COCO CHANEL



記者が 「 恋人の誰とも結婚しなかったのは何故か 」 と尋ねたときのこと。

彼女はさらりと、冒頭の台詞を吐いたそうである。


最近のSF映画や、アクション映画の一部には、厄介な傾向がある。

本来なら、その手の映画は 「 単純明快 」 が信条だったはずなのに、物語の展開に凝りすぎて、なんとも 「 わかりづらい 」 作品が多いのだ。

たとえば、キアヌ・リーブス主演作の 『 マトリックス 』 という映画にいたっては、続編が公開される度に、ますます難解さが深まるばかりである。

完結編とされる 『 マトリックス・レボリューションズ ( 2003 米 ) 』 も観たが、どうにも複雑すぎて、まったく自分の頭の中では 「 完結 」 していない。

歳をとって脳が硬化してしまったのか、私のようなオジサンには意味不明なところが多く、もうちょっと話を簡単にしてもらいたいものである。


男女の恋愛にも、似たような部分がある。

特定の異性に魅力を感じ、触れたい、抱きしめたいという性的な衝動から始まる恋は、ごく自然な人間感情の現れとも言えるだろう。

けれども、自分の好意を告げるには 「 段階と手続き 」 という概念が存在し、なんとなくそこに 「 必然性 」 や 「 正当性 」 を求めたがる傾向にある。

つまり、「 私は、こういう事情で貴方を好きになりました 」 だとか、「 こういうお付き合いを考えています 」 とか、面倒な解説を必要とされやすい。

そういった 「 プレゼンテーション 」 も、恋の愉しみの一部ではあるけれど、論拠を明確にしようとすればするほど、難解な淵へと陥ることが多い。


中には、「 理屈は抜きで、ストレートに激情をぶつけてくれるほうがいい 」 という人もいるが、それにも最低限の 「 段階と手続き 」 は要る。

たとえ喉が渇いていなくても、深く知り合うまでは 「 ちょっと、その辺でお茶でも・・・ 」 と誘うのが、正しいアプローチの手法といえよう。

それが本音でも、「 ちょっと、その辺でセックスでも・・・ 」 とは言えない。

もちろん、「 お茶 」 から “ そこ ” までのプロセスが、更に愛情を深めることも事実だし、ちょっとした 「 じれったさ 」 も、恋の醍醐味ではある。

ただ、お互いに大事な存在であることを知らしめ、「 鳥以上の重量感 」 を相手に与えようとすれば、それが面倒な作業になることも多いだろう。


30代には 「 けして、苦ではなかった 」 それら一連の作業が、どうも最近は面倒に思えてならず、ちょっと敬遠ぎみである。

いい歳をしたオジサンが 「 純愛 」 を語るほど 「 こっ恥ずかしい 」 ものはないし、どう贔屓目に見ても、美しいとは思えない。

妙齢のご夫人方が 『 冬のソナタ 』 にハマるのも、同世代の男性や、既婚者の場合は伴侶に対し、そんな場面を期待できない要因もあるだろう。

また、実際にはそうでもないのだろうが、歳をとると 「 恋する相手に対する責任が重い 」 ような気がして、なかなか本音が吐きづらくなってくる。

それで、素直な恋愛感情よりも、「 この恋の必然性、正当性 」 みたいなものを大義名分化しようとして、つまんない台詞しか吐けない自分に気づく。


先日、疲れた顔で地下鉄に乗っていたら、30代前半ぐらいのキレイな女性が、ふとこちらを見て、会釈しながら近づいてきた。

どこかで見た顔だと思ったら、3年ほど前によく通っていた飲食店に勤めていた女性で、いまは某企業の事務職に就いているのだと言う。

当時の話をするうちに、「 お茶でも・・・ 」 ということになった。

次のアポまで時間もあったし、安易な気持ちで誘ったのだが、記憶を辿っていくうちに、ちょっと 「 具合の悪い話 」 を思い出してしまった。

この女性は 「 酔った拍子に口説いた上、しかも素っ気無くフラれた 」 相手であることを、すっかり忘れていたのだ。


気まずい空気を察したのか、彼女のほうから近況やら、仕事の内容などを積極的に話してくれ、こちらの近況についても興味深く尋ねてくれた。

やがて、おそるおそる過去の件について触れると、こちらは 「 酔った拍子 」 であったにも関わらず、その内容はかなり 「 理屈っぽかった 」 らしい。

日々の日記をご覧の方もご存知のように、私の物言いは 「 理屈っぽい 」 可能性が高く、その点を指摘されると否定できないものがある。

結局、こちらは言葉巧みに口説こうとしたのだけど、相手にはその意志などまったく伝わってなくて、「 何がしたいのかわからなかった 」 そうである。

恋愛に大きな意味を持たせようと、陳腐な言葉を並べ立てた挙句が、話が複雑になりすぎて 「 マトリックス化 」 してしまったようだ。


その後、短い期間で何度か会っているが、お互いにいまは 「 フリー 」 なので、たぶんそれは 「 デート 」 と呼べるものだろう。

この一週間、日記の更新が出来なかった最大の理由が、そこにあることも事実で、かなり急速に仲良くなっている。

どこまでの関係かは語らないが、今回は難しい口説き方はしていない。

ただ、「 僕らにはお互いをもっと知る必要があり、その方法は “ 言葉 ” が最良の手段とはかぎらない 」 という話をしただけだ。

いまは、それが 「 鳥以上 」 かどうかは後から考えることで、先に気にしすぎても仕方がないような気がしている。


( 本日のおさらい )

「 単純な話をもったいぶって複雑化することは、愚の骨頂である 」






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2004年10月15日(金) 思想なき妬み


「 他人がいい思いをしているだろうと、あれこれ考えるのが嫉妬です 」

                             エリカ・ジョング ( 詩人 )

Jealousy is all the fun you think they had.

                                  ERICA JONG



女性の 「 ヤキモチ 」 は、まだ 「 可愛げ 」 がある。

どうしようもないのは、いい歳をした男性の 「 妬み 」 であろう。


管理職に就いた経験のある方の多くは、「 部下というものは、エコひいきに敏感である 」 という習性をご理解いただけるだろう。

結果の良かった者に高い評価を与えることは当然なので、それに対しては妬みを抱く者も少ない。

むしろ仕事以外の面で、たとえば、飲みに誘わなかったり、酒席で何気なく他の部下を誉めたりすると、途端に機嫌の悪くなる人がいる。

こういった 「 男のジェラシー 」 というのは陰湿で、男女間のそれとは違う 「 心の暗闇 」 というものを孕んでおり、実に気持ち悪い。

仲間の成功を喜べなかったり、他人の長所を素直に認められないという人は、そういった傾向がないか、自問したほうがよいだろう。


北朝鮮やアルカイダなど、いわゆる 「 テロ国家 ( あるいは組織 ) 」 による主張には共通するところがあり、要約すると同じような思想にまとまる。

最近の “ それ ” は、「 アメリカの悪事を暴き、それに追随する国家の政府関係者を糾弾する 」 といった類のものが、どうやら 「 主流 」 のようだ。

面白いことに、彼らから 「 悪の権化 」 のように思われているアメリカやら、「 子分 」 と名指しされている日本にも、同様の主張を展開する人がいる。

その目的は様々で、「 お金儲け 」 に利用できると考える人もいれば、人と違った意見を繰り出すことで目立ちたいとか、色々である。

逆に、そういった打算的な意図も無く、「 純粋な気持ち 」 でそう信じている場合は、「 テロ国家の思想を肯定し、それに協力する 」 人物ということだ。


もちろん日本には 「 思想の自由 」 が保障されているし、北朝鮮その他のテロ集団に同調しようが、それで罰せられるものではない。

それに、アメリカの悪口や、日本政府、小泉首相に対する罵詈雑言を並べているからといって、彼らを 「 北朝鮮の手先 」 だとも思わない。

彼らをそういう発言に走らせる要因は、基本的に 「 妬み 」 である。

昔からアメリカに批判的な人は、そこに象徴される 「 強さ 」、「 大きさ 」、「 明るさ 」 などのイメージに対する心理的コンプレックスのある人が多い。

その原因は一様ではなく、身体能力が低かったり、性的能力が弱かったり、色々な理由が考えられるので、一纏めに特定することは難しい。


何らかの原因で自信を喪失し、「 ネガティブ 」 になっている人が多いことは事実で、ストレスのやり場を “ そこ ” に求めている傾向も強い。

いづれにせよ、それを 「 非国民 」 だとか 「 左翼的 」 となじるのは間違いで、偏見というよりも 「 誤解 」 であるといえる。

そういった思想的な性質ではなく、むしろ 「 個人的な妬みの背景 」 が奥底に溢れているとみたほうが、的を得ているように思う。

商業主義のマスコミはともかく、個人のサイトなどでそういう意見を発信している人物への評価は、誰に尋ねてもほぼ同じである。

そう考えると 「 お気の毒な話 」 なのだが、やっぱり 「 キモい 」 のである。


( 本日のおさらい )

「 男の妬みはみっともない 」






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2004年10月13日(水) 自殺を防ぐ手段


「 哲学で唯一深刻な問題は、自殺である 」

                           アルベール・カミュ ( 作家 )

There is but one truly serious philosophical problem and that is suicide.

                               ALBERT CAMUS



都会では、自殺する若者が増えている。

井上陽水さんの 『 傘がない 』 という歌の、最初の部分である。


インターネットで知り合った見知らぬ者同士が、車の中で練炭を燃やしたりして、いわゆる 「 集団自殺 」 を謀るという事件が、各地で勃発している。

他人を信じたり、友好を築く能力に欠けている者達が、ネット上の関係という 「 都合の悪い部分は見えない関係 」 で、架空の 「 同志 」 を獲得する。

それは、ただ単に 「 よく知らない相手だから、嫌いな部分が見えていない 」 だけなのだが、短絡思考の人間には、違った錯覚を起させる。

つまり、「 彼こそが、初めて知り合った “ 理解しあえる同士 ” 」 なのではないかという誤解であり、生身の人間が抱く友情とは異なる。

人間の奥底にある 「 ドロドロしたもの 」 を見ることも、他人に見せることからも逃避した者達による、うわべだけのコミュニケーションの始まりである。


そもそも、自殺すること自体が 「 逃避行動 」 であり、卑劣な臆病者であることを示しているが、一人でやり遂げる意志もないのは最悪の部類である。

なんとかして 「 共犯者 」 を手繰り寄せ、自分だけが 「 落伍者 」、「 根性なし 」 ではないかのように、みじめったらしい末路を美化しようとする。

年間、国内で3万5千人近くも自殺しているのだから、これは自殺する個人の問題ではなくて、世間が悪いのだと詭弁する連中もいる。

でも、裏返せば 「 国民の99%以上は自殺しない 」 のも事実で、やはりは世間よりも、自殺する個人に、大きな問題があると考えるほうが正しい。

つまりは、「 世間が悪くなった 」 ことよりも、「 自殺という卑劣な行為に走る狂人 」 が増えたと理解するほうが、より実態に近いはずである。


一部のマスコミなどは、それを面白おかしく、社会の問題として複雑化させようとし、自殺という行為自体は本来の 「 憎悪の対象 」 から遠ざける。

たしかに、そういう不心得者が増えている背景に、社会全体の問題があり、課題を残していることも、まるっきり否定はできまい。

しかしながら、現実的に自殺を減少させるためには、たとえそれが 「 言論統制 」 と罵られようが、反社会的な分子を殲滅するほかない。

ネット上の 「 自殺サイト 」、「 自殺支援サイト 」 を排除し、世の中から自殺を美化する思想を消し去らないと、精神の弱い者はどんどん巻き込まれる。

また、過去に自殺を企図した者は 「 要注意人物 」 としてマークし、不遜な暴論を社会に撒き散らさないよう、監視を徹底すべきである。


己の生命を軽んじている者は、自殺することを 「 自由な権利 」 だと誤解している大馬鹿者が大半で、根本的に間違っているのである。

本来なら、自殺企図 ( 未遂 ) があった時点で、実行者は捕らえ、徹底的に思考の矯正を行うことが望ましい。

施設に収容し、少しづつ痛い目に遭わすなどして、「 生きたい 」 とか、「 生きることの有り難さ 」 を思い知らせるべきなのである。

現実問題としてそれが不可能であれば、せめて、そういう輩の 「 社会における発言権 」 を奪い、連鎖的に他者へ影響を与えることは防ぐべきだ。

どうしても自殺がしたければ、何人にも遺体を発見されないような方法で、人知れず、自分だけが消滅する方法しか無いようにすべきなのである。


いつの時代にあっても、世の中がどれほど素晴らしいものであっても、自殺する者は存在するわけで、やはり社会より個人に問題がある。

それを穿き違えてはならず、まずは自殺という行為を 「 忌むべき、最低の行為 」 として、共通認識を徹底することが大事だ。

自殺が増えている背景には、不況などの社会情勢以上に、それを許す 「 生命に対する社会認識の甘さ 」 があるのではないか。

やるならやれ、ただし失敗すると 「 地獄が待ってるぜ 」 というぐらいの制裁を準備し、自殺に対する畏怖を与えるなどしないと、問題は解決しない。

自殺という行為を蔑み、自殺企図者に対して厳しい目を向けていかないと、世の中は悪い方向に引きづられてゆくことを忘れてはならない。


( 本日のおさらい )

「 自殺は、個人に与えられた権利ではない 」






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2004年10月11日(月) GOD!BUDDHA!YAGI!


「 経営方針の手引書が必要なら、十戒を印刷することだ 」

        ロバート・タウンゼンド ( エイビス CEO=最高経営責任者 )

If you have to have a policy manual, publish the Ten Commandments.

                            ROBERT TOWNSEND



ビジネスの世界では、なかなか 「 きれいごと 」 が通用しにくい。

だからといって、非合法な手段を用いれば、それなりの報いを受ける。


つまりは、「 たとえ困難でも、正しい方法で成功する 」 ことがルールであり、それに背いては、長期的な繁栄など期待できないのである。

また、「 己の身の丈に合った商売に徹する 」 ことも大事で、無理な資金繰りで過剰な投資を行うことは、常に危険に身をさらす状態へと陥る。

その程度のことは、普通の能力を備えた経営者なら、誰でも理解しているはずなのだが、ちょっとした 「 気の迷い 」 で基本を忘れる者も多い。

いわゆる 「 初心忘れるべからず 」 ということなのだが、事業規模の拡大や変化の波にさらされ、「 初心 」 は 「 変化への対応 」 に打ち負けやすい。

周囲からみれば 「 驕り 」 と 「 傲慢 」 に冒された 「 単なる愚か者 」 なのだが、本人はいたって真面目に 「 経営者 」 のつもりなので、たちが悪い。


敗戦後の日本は、未曾有の好景気に沸き、経済は隆盛を極めた。

まことに結構な話なのだが、経済最優先の世の中にあって、産業の裏側に潜む 「 公害 」 や 「 環境破壊 」 に対する配慮は、二の次にされてきた。

それらが社会問題として脚光を浴びたのは、人々が窮乏から立ち直って、経済大国の仲間入りを果たした後のことである。

極端な好景気の渦中にあっては、物事の本質や正当性が置き去りにされ、物質的な豊かさと、虚飾の繁栄に、社会全体が狂奔しやすいものだ。

バブル崩壊後の社会は、食品業界の不祥事や自動車会社の怠慢を暴き、年金の将来性を憂い、不良債権など 「 過去の贖罪 」 に目を向け始めた。


そういう意味では多くの人々にとって、不況の期間というのは 「 物事の本質や正当性を、改めて考え直す時間 」 でもある。

好景気に沸いている時期は、それを 「 後ろ向きな意見 」 と捉えられたり、進化や成長を 「 妨げる因子 」 と判断されかねない。

それに、「 作れば売れる 」 というような好況では、誰もがお金を稼ぐことに必死で、悠長に社会問題など語り合っている 「 暇 」 も少ないのである。

もし、日本に再び経済的繁栄の機会が訪れるなら、今の不況が糧になるよう、いまのうちに 「 企業は本来どうあるべきか 」 を考えておくほうがいい。

厳しい環境にあってこそ、「 見えないものが見えてくる 」 こともあるのだ。


先日、ある企業を訪問したときのこと。

玄関の見通せる応接室で先方の社長と会談していると、取引先とおぼしきスーツ姿の二人連れが、後からやってきた。

若い方 ( 20代後半 ) の男性が、受け付けの女性に 「 社長への面談 」 を申し込んでいるのだが、事前にアポは取っていなかったらしい。

女性が 「 あいにく社長は面談中なので、お待ちください 」 と告げると、彼は年配の連れ ( 50代前半 ) に、こそこそと耳打ちをした。

そして、「 すぐに済みますから、ちょっとだけ先に時間をください 」 と、かなり強引に詰め寄り始めたのである。


やりとりの一部始終を見ていた私から、社長に 「 今日は時間に余裕があるので、あちらの方をお先にどうぞ 」 と進言した。

社長は、私に対してすまなそうにしながら玄関へ向かい、問題の二人連れと10分ほどの短い会話を交わし、怪訝そうな顔をしながら戻ってきた。

彼らは、某都市銀行のスタッフで、年配の方が 「 次長 」 なのだそうだが、急な人事異動があって部署を離れるので、その挨拶に来たらしい。

後任は誰かと尋ねると、「 人員削減の折から、欠員の補充はない 」 ということで、そこで社長が 「 大変ですね 」 と労ったようだ。

すると彼らは、堰を切ったように自分たちの不遇な立場を語り続け、会話の大半は、愚痴を聞かされるだけの内容だったという。


挨拶といえば聞こえはよいが、自分たちの言い分だけを伝え、取引先へのサービスがどうなるのか、一切、何の説明もしないで帰っていく。

事前のアポも無く、つねに 「 自分たちは最優先だろ 」 という姿勢で、先客がいてもお構いなしに面談を申し込んでくる。

順番を譲った私に対して、何の挨拶も、感謝の言葉もない。

どこの銀行だか名指しはしないが、「 先ごろ、金融庁から “ 隠蔽工作 ” があった 」 と不正を指摘された、某都市銀行といえばおわかりだろう。

一事が万事とは言わないし、経済の崩壊を銀行だけの責任とは思わないが、この傲慢さと権威主義が 「 諸悪の根源 」 であることは間違いない。


経営とは 「 継営 」 であり、継続的な繁栄が目的でなければならない。

実力主義社会という言葉が流行し、「 努力 」 よりも 「 結果 」 が重視される世の中になったが、やはり正しい結果は、正しい努力から生まれるものだ。

稀に、一時的な成果が努力なしで生まれることはあっても、永続的な発展が、努力の裏付けなしで成し得ることは、まず考えられないだろう。

人間も企業も、長年の地道な努力と、日々において繰り返される基本的なロジックの積み重ねで、「 信頼 」 を獲得し、成果に繋げていくものである。

先に挙げた某都市銀行も、社是においてはそれを謳っているし、創業者の理念はそこにあったと思うのだが、横暴な輩が歪めてしまったのだろう。


話は変わるが、阪神タイガースで 「 神さま、仏さま、八木さま 」 とファンに親しまれ、愛された 「 八木 選手 」 が引退した。

彼は、代打の切り札として18年間、タイガース一筋に働いてきた選手で、派手な大記録はないが、寡黙にして堅実な 「 職人 」 である。

どちらかというと、昨年の優勝には目立った貢献をしておらず、タイガースが低迷していた頃に、一人で気を吐いていた記憶が強い。

いわゆる 「 過去の選手 」、「 地味な選手 」 で、タイガースの気風は、そのようなタイプの選手の引退を、あまり華々しく飾った歴史が無い。

今夜、彼が詰め掛けた多くのファンの声援と、敵味方双方の選手に暖かく見送られた背景には、「 継続的な努力への礼賛 」 が含まれていた。


( 本日のおさらい )

「 努力とは、正しいロジックの積み重ね 」






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2004年10月10日(日) やらされる人の苦痛


「 金儲けのために、無駄にする時間はない 」

           ジャン・ルイ・アガシ ( アメリカの物理学者、氷河学者 )

I cannot afford to waste my time making money.

                          JEAN LOUIS AGASSIZ



このところ、三つの仕事に就いているので、極めて忙しい。

特に、最近始めた仕事が、一番忙しくて、しかも一番儲からない。


それでも、その仕事を続けている理由は、「 やりがい 」 とか 「 好奇心 」 のような自己満足的な部分と、あるいは 「 自己のスキルアップ 」 が狙いだ。

仕事とは、「 人生においてとても重要だが、手段であって目的ではない 」 というのが私の持論なので、この仕事も一つの 「 手段 」 である。

だから、心身を壊すほど没入するような 「 自己犠牲の精神 」 も必要ないし、儲けたお金を使う間もないほど働くのは、本末転倒というものだろう。

もちろん、長く働く間には、一時的に無理をしなければならない期間やら、過剰な負担を強いられる瞬間があるのは、どんな職業でも避けられない。

問題は、それが 「 当たり前のこと 」 のように続くのか、本来あるべき姿が明確で、健全な労働環境に軌道修正していけるかの違いであろう。


私の友人は総じて、よく働き ( work hard )、よく遊ぶ ( play hard )。

小学校で 「 よく学び、よく遊べ 」 と教えられた通りに実践しているわけで、それぞれに、なかなか優秀である。

同じように激務を体験した人でも、それに耐えて豊かな暮らしを手に入れた人と、耐え切れずに頓挫したり、あるいは精神を病んでしまう人がいる。

天賦の才能や、体力や、精神力の差もあるだろうが、それ以上に、仕事に対するスタンスの違いが、両者の決定的な違いとなっていることが多い。

それは、簡単にいうと 「 やっている 」 か 「 やらされている 」 かの違いだ。


ほとんどの人にとって、仕事をしている時間よりも、趣味に没頭したり、遊んでいる時間のほうが楽しいはずである。

それでも働くのは、生活のために 「 糧を得る 」 必要があるからだろう。

当然の話なのだが、それだけを目的として働くと単なる苦痛にしかならず、人生の中で多くの時間を占める労働が、とても虚しいものとなる。

趣味や遊びとは異なるけれど、その 「 やり方 」 を工夫したり、やりがいや楽しさを見出すことで、仕事からも、ある種の充足感、達成感を得られる。

自分自身の仕事を 「 そういうもの 」 にしている人は、けして無理に仕事を 「 やらされる 」 ことはなく、受身ではなく積極的に 「 やっている 」 ものだ。


だいたい、人に命令されたり、強制的に 「 やらされる 」 と嫌なものであるが、それは 「 命令される側 」 にも問題のある場合が多い。

常にやるべきことを自覚していれば、指示や命令が発動される前に、自発的に 「 既にやっている 」 わけで、あらためて「 やらされる 」 必要も無い。

仕事に無気力、無関心だったり、気配りに欠けていたり、行動を開始するのが遅い人のほうが、いちいち指示されたり、「 やらされる 」 場面が多い。

逆に、「 この人は、なにも指示しなくても、ちゃんとやっている 」 と思われているような人には、あまり細かい指示や命令を下さないものである。

だから、働いた時間や、結果としての仕事量は同じでも、「 やっている人 」 への評価は高く、「 やらされている人 」 よりは、ストレスも少ない。


あまり好きな言葉ではないが、「 勝ち組、負け組 」 という言葉がある。

だいたい 「 勝ち組の個人 」 は 「 やっている人 」 で、「 やらされている人 」 は 「 負け組の個人 」 となる。

仕事以外の面でも、そういう人は 「 うまくいかない原因 」、「 不幸な原因 」 を他人に求め、つねに上司や、政府など 「 上の組織 」 のせいにする。

ずっと 「 やらされている 」 ことにばかり慣れて来たので、自分自身が何を成すべきかよりも、上からの 「 良い命令 」 を待っているのである。

他人まかせの人生で、世の愚痴を吐き続けるよりも、工夫して楽しみながら働き、お金を貯めてまた遊ぶのが、人生に対する 「 私の流儀 」 である。


( 本日のおさらい )

「 指示待ち人間は愚痴ばかり 」






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2004年10月04日(月) お母ちゃんが悪いんだい


「 だから、私の友、アメリカ国民の皆さん、祖国が自分たちに何をしてくれ

 るか問うのではなく、自分たちが祖国に何ができるかを問うてください 」

            ジョン・F・ケネディ ( アメリカ合衆国 第35代大統領 )


And so, my fellow Americans, ask not what your country can do for you;
ask what you can do for your country.

                              JOHN・F・KENNEDY



とても有名な、ケネディ大統領による 「 所信表明演説 」 の一節である。

文法上、「 not A but B 」 の形で、but を省き ask を繰り返すのが特徴だ。


古今東西、「 悪いこと、思い通りにならないことは、すべて国のせい 」 だと考える 「 甘っちょろい人 」 がいるようで、どうにも困ったものである。

おそらく、幸せな人や、幸せに暮らせるように自力で精進している人の場合は、そういう偏った思考に走ることもないだろう。

救いようのないほど不幸だったり、あるいは ( こちらのほうが多いと思うが )、さほど不幸でもないのに、幸福を実感できない人の特徴ともいえる。

不幸の原因をなんでも国のせいにして、愚痴ばっかり漏らして前進しないから、余計に不幸になる 「 不幸の悪循環 」 に陥っているのだ。

少し視点を変えたり、なんでも 「 他責 」 にしたり、他人に頼ることをせず、物事を自己責任で解決する努力をすれば、大半は改善できるのだが。


小さい子供が転んだり、オモチャを買ってもらえなくて悔しいとき、傍に母親の姿を見つけ、「 お母ちゃんが悪いんだい 」 と、理不尽な難癖をつける。

会社、上司の愚痴や、政府、宰相に対して文句ばかり言う人は、大人になってもその習慣が抜けていないのである。

特に男性の場合には、いわゆる 「 マザコン 」 の傾向が強く、周囲を母親と同じく、自分のわがままを聞き入れて、守ってくれる存在だと認識している。

だから、政府がアメリカ寄りの政策を打ち出すと、「 他所の子を可愛がっているように見える 」 ので、拗ねたり、ふてくされたりする。

さんざん文句を言う反面、どっぷりと国に頼りきっている部分もあり、攻撃されたり、痛いとこを突かれると、すぐに 「 名誉毀損だ 」 と 法 に泣きつく。


もちろん、政府の方針が必ずしも正しいとはかぎらない。

しかしながら、それでも大半の人は、文句を並べるばかりではなく、限られた条件の中でも楽しみを見出し、嫌なことばかりに固執しないものである。

生きていく中では、死にたいほどツライことや、苦しい思いも体験するだろうけれど、工夫してそれを乗り越え、生きる責任を放棄することはない。

そんな簡単なことが人並みにできないのは、毎日のように国や政府の悪口を吐き続け、何の感謝もなく、怒りと憎しみだけに固執しているせいだ。

たとえば、「 いま、自分が自由に国の悪口を言えている 」 という事実を考えるだけでも、自由な国に生まれて良かったと、感謝してもよいはずである。


国や政府の悪口を言う人の中でも、状況に応じて攻撃対象を変える人と、なんでもかんでも 「 総理大臣が悪い 」 と帰結させる人がいる。

ご存知の通り、年金制度も、自衛隊も、拉致問題も、総理大臣が自由勝手に決めているわけでなく、むしろ、総理が独断で決められる事柄など稀だ。

もちろん、「 国政の最終責任は総理大臣にある 」 という意見に反対はしないけれど、かといって、すべて総理大臣が悪いと決め付けるのもおかしい。

こういう人にとって、総理大臣はまさに 「 お母ちゃん 」 なのであり、自分の不幸や不平不満を八つ当たりするのには、もってこいの存在なのである。

だから、ほぼ毎日のように 「 お母ちゃん 」 の背中を叩くのだが、いい歳をしたオッサンなので、見ているほうがウンザリしてくる。


過去を責めるつもりはないし、どうでもいいことである。

ただ、そろそろ大人になり、遅まきながら 「 親孝行 」 してはどうか。

冒頭の演説にもあるように、国や政府に甘えっぱなしではなく、より建設的に社会へ貢献する気構えを持っても、バチは当たるまい。

たとえば、「 イラク戦争で多数の死傷者が出ている 」 と言うけれど、日本の自殺者数は、それをはるかに上回っている。

社会問題を提起しているようなフリをする以前に、自分自身が社会問題の種になり、世間に迷惑をかけている事実を反省し、改めるのも一手だろう。


社会は 「 個人 」 の集まりであり、国や政府に形はない。

暗い顔でうつむいた人間が集まって、明るい国など出来るわけがなく、国政に問題があるのなら、それは 「 国民 」 にも問題があるはずだ。

いまの日本で、総理大臣をファシスト扱いしても、そういう宰相が生まれ得る環境に無いことは、少し頭の良い外国人なら、みんな知っている。

国に文句をわめくことは、「 天に唾吐く 」 のと同じことで、その弊害は総理大臣ではなく、自分自身に降りかかってくるだけのことだ。

そろそろ、誰もが 「 乳離れ 」 して、「 お母ちゃんに八つ当たり 」 するようなレベルの低い話は、やめたほうが望ましいと思う。


( 今日のおさらい )

「 総理大臣は、お母ちゃんではありません 」






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2004年10月03日(日) イチロー という男


「 世界中で一番美しいもの。 それは観衆で埋め尽くされた野球場だ 」

            ビル・ヴィーク ( シカゴ・ホワイトソックスのオーナー )


The most beautiful thing in the world is a ballpark filled with people.

                                  BILL VEECK



その瞬間、観客も、敵も、味方も、すべてが一つになった。

一人の青年が成し遂げた偉業に、惜しみない賞賛の拍手が鳴り止まない。


多忙の折、シアトルまで観にいくことは叶わなかったが、たとえテレビの前であっても、「 この瞬間 」 を観れたことは幸いだった。

彼自身が、別に目標として定め挑んだわけでもないだろうが、前人未到の 「 258安打 」 を放ったことで、明らかに彼は頂点に立ったのである。

過去の記録保持者に比べると、若干、試合数が多くなったという利点もあるが、とにかく 「 84年ぶり 」 に記録が更新される快挙であった。

メジャーリーグの歴史上、年間 250を超える安打数を放った野手は何名かいるが、イチロー以外はすべて 60年以上も前の記録である。

変化球の種類が増え、投球技術が格段に進歩した現代にあっては、いかにこの記録を塗り替えることが困難であるのか、素人にも想像はつく。


タイ記録に並んだ 「 257 」 を放った後、彼は一塁ベース上でヘルメットを脱ぎ、スタンドからのファンの声援に応えたが、まったく無表情だった。

第二打席、単独で頂点に立つ 「 258 」 を放った後も、彼は先の塁を狙えるかどうか、真剣な眼差しで打球の行方を眺め、表情を崩さない。

そして、ようやく走者として一塁ベースに落ち着いてから、おもむろにファンに手を振り、ベンチから飛び出してきた仲間たちと抱擁を交わした。

記録に浮かれ、打った瞬間にガッツポーズをするようなこともなく、雌雄が決するまではけして手を抜かない 「 スキのなさ 」 が、いかにも彼らしい。

歴史を塗り替える大記録の前にあっても、けして油断せず、ベストを尽くし続ける姿勢こそが、彼の真骨頂であり、「 並みの打者 」 との違いだろう。


シアトルでの彼の活躍が、日本の野球に与える影響も大きい。

今季、パリーグ2球団の合併問題や、球界初のストなどもあり、日本のプロ野球には 「 将来に暗い影を落とす 」 ような話題が多かった。

それは、未来におけるプロ野球の発展を危惧する事態であり、野球選手を目指す子供たちや、ファンにとっては 「 夢の芽を摘む 」 失態である。

優秀な選手が大リーグに流出する課題はあっても、イチローをはじめ数名の日本人選手による活躍は、ファンの 「 野球離れ 」 に歯止めをかける。

特に、今回の偉業については、大リーグだけでなく、日本のプロ野球機構、選手会、その他関係する団体のすべてが、彼に感謝すべきであろう。


けして油断したり、慢心することなく、どんな状況にあっても目の前の仕事を完璧にやり遂げるため、それだけに全力を尽くす。

そして、その積み重ねを着実に続けることに、すべての集中力を捧げる。

もしも彼が、プロ野球ではなく別の職業を選んでいたとしても、その姿勢があるかぎり、おそらくは人並み以上の成功を収めただろう。

過去の 「 257本 」 と同じように、打球の行方を見守りながら、あわよくば次の塁を獲ろうとした 「 258本目 」 の塁に立ったイチロー。

怒涛の如き観客の声援と、駆け寄る仲間達に気づくまでは 「 自分の仕事に没頭した 」 彼の姿を見て、改めて 「 偉大さ 」 を感じた瞬間だった。


( 今日のおさらい )

「 油断せず、慢心せず、集中してこそ 『 大仕事 』 は成就する 」






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Oldsoldier TAKA [MAIL]

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