「 この世には、成功が近づいたときと同じく、災難や破滅が近づいても
毅然として歓喜に酔える人がいる 」
: ウインストン・チャーチル ( イギリスの首相 )
There are men in the world who derive as stern an exaltation from the proximity of disaster and ruin, as others from success.
: WINSTON CHURCHIL
この言葉には二つの解釈があるようで、どちらが正解ともいえない。
一つは 「 ポジティブな意味 」 で、もう一つは 「 狂気 」 を指す。
たとえば交通事故に遭って骨折したとき、それは周囲から見れば災難なのだが、平然と 「 死ななくて幸運だった 」 と笑っている人がいる。
まわりの心配をよそに、「 こんなことでもなければ、のんびりできないしね 」 などと、以前から興味を持っていた本を読み、落ち込む素振りもない。
怪我や、その他の損害について、もちろん痛みは感じているのだけれど、それを被害なんて言葉で憂いてみても、あまり得をする話ではない。
やせ我慢と言う人もいるだろうが、家族や見舞い客が心配しすぎないように、気骨をもって配慮する余裕がある人は、なかなか恰好良いものだ。
不幸をひけらかして同情を買うような人より、たとえ悪い結果であっても真正面から受け止め、「 だったらどうするか 」 を考える人のほうが頼もしい。
そういう 「 ポジティブな人 」 とは対極に、たとえば社会の混乱を、野次馬的に期待している連中がいる。
個人のサイトを見回しても、日本人でありながら、「 日本なんぞ滅びろ 」 とか、「 日本人は馬鹿だ 」 などと罵ることを 「 芸風 」 にする者も多い。
こういう連中は、たとえば自衛隊のイラク派遣などについても、熱っぽく反対意見を語りつつ、実は人的被害が出ることを期待しているように見える。
アクシデントに見舞われた途端、嬉々として 「 それみたことか 」 とまくしたてる様子には、同意見でも良識ある人から見れば、不快の極みであろう。
逆境にあってこそ、他人を叱責したり、批難することよりも、よりよい未来への可能性について、前向きに考える姿勢が望ましい。
このところ、成人式で騒動を起こす連中がいる。
彼らの中には、目立ちたいとか、かまって欲しいといった子供じみた心理が多く含まれているように思うが、さほど大それた悪意はない。
むしろ、トピックスを報道しようと待ち構えているマスコミや、ひそかに期待して見守っている周囲の輩に、なんともいえない嫌悪を感じる。
厳粛で、思い出深い成人式を構築したいと望んでいるのは、一部の真面目な実行委員と、新成人を子に持つ親御さんぐらいではないだろうか。
愚かな大人、賢ぶった 「 狂人 」 が多い世の中が、若者の歩を誤らせており、その背後には良識を失いつつあるマスコミの影響が大きいと思う。
一口に騒動を起こすといっても、いろいろなパターンがある。
酒を飲んで暴れたり、街中で暴走行為を繰り広げるばかりではなく、十分に意図が察せられる 「 反逆 」 も、今回の式典にはあったようだ。
とある会場の成人式では、国会議員、県議、市議、市幹部などが順繰りに挨拶し、それだけで約50分の時間が費やされたという。
そのあとで登場した新成人の代表は、予め用意していた挨拶をとりやめ、「 これでは、成人式の主旨が伝わってこない 」 と、反旗を翻した。
本来なら、新成人が社会で生きるために自立し、励ます会にしようということなのに、議員らによる 「 選挙目当ての集まり 」 に抗議したかったそうだ。
彼は式典の実施主体である企画実施委員会の委員で、関係者によると 「 熱心に活動していた 」 らしく、普段は真面目な好青年だという。
騒動を起こした責任は避けられないし、その後、当然のごとく長々と説教を受けたそうだが、彼の気持ちはわからないでもない。
たしかに、町内主催の運動会やら、友達の披露宴などに、議員が現れては 「 式典にかこつけた選挙運動 」 を展開するのは、よくある話だ。
その度に大半の聴衆は、「 うざいなぁ、早く終れよ 」 と内心は思っているのだけれど、式典に 「 ハクがつく 」 し、そこは我慢のしどころなのだ。
主張の方法が悪くて騒動になった点には非があるが、本来の主旨から逸れても 「 長いものに巻かれるのが大人 」 という認識も、けして正しくはない。
また、別の式場では、携帯電話を使ったイベントが行われたという。
これは、さんざん注意しても携帯電話の使用を止めない新成人に対して、それならば、逆に携帯を使ったプレゼント企画をしようという趣旨である。
予め聞いておいた電話番号を抽選し、いろいろな景品がもらえる。
なかなか面白いアイディアで、抽選会の前後は、たしかに携帯電話でメールをする者や、会話をする者は激減したのだという。
電話を 「 かけさせない 」 のではなく、自発的に 「 かけないようにする 」 という点には知恵が感じられる企画で、ちょっと唸る話だ。
せいぜい二時間かそこらの式典を、大人しく座っていられないということに問題は感じるが、不要なトラブルなら、事前に避けるほうが望ましい。
無理に新成人へ 「 大人のルール 」 なんぞ押し付けなくても、彼らが社会へ出て、たとえば企業に就職したりすれば、いづれは体験もするだろう。
やみくもに、「 こうしなさい 」、「 こうあるべき 」 などと教訓めいた話をするよりも、真に彼らのことを思えば、別の方策もあるような気がする。
どうも、何十人、何百人に一人は 「 騒動を起こすだろう 」 という前提において、議員は演説し、マスコミは煽っているように感じる。
騒動を云々するよりも、前途ある若者にとって有益で、満足度の高い式典を実施することを考えるほうが、「 大人の務め 」 ではないだろうか。
2004年01月12日(月) |
日本で暮らすことの収支 |
「 したがって、貧しさというのは比較の問題だった。 尺度は自在だから、
自分より金持ちの尺度で測れば、いつも貧しかったのである 」
: マーガレット・ドラブル ( イギリスの作家 )
Poverty, therefore, was comparative. One measured it by a sliding scale. One was always poor, in terms of those who were richer.
: MARGARET DRABBLE
徐々に景気は回復しつつあるというが、さほど内需は伸びていないようだ。
年金や保険制度の将来が不透明で、消費者の不安は払拭されていない。
靖国参拝やらイラクへの派兵に関心が集まっても、それは一時的な話題であって、国民生活にとって最も重要なポイントは、やはり経済政策である。
これだけの超低金利にあっても、産業が活発化しないというのは未曾有の事態であり、なにか別の切り口を準備しなければ、改善の気配もない。
マクロ経済的な視点で語れば、株価が一定水準に持ち直したことや、一部産業の貿易収支からみて 「 回復基調 」 ともいえるが、実際はどうだろう。
政府として、すべてを救済する義務もないし、過去のような 「 護送船団 」 ではなく、実力主義、個人生産主義への転換に異論もない。
ただ現状の方策は、資金力のない若年層が経営の場面で実力を発揮する舞台が整っておらず、これを 「 実力主義 」 と評価するには問題が多い。
数年前からだと思うが、「 勝ち組、負け組 」 という言葉が一般化してきた。
私はこの言葉が嫌いで、あまり使うことはないのだが、しきりに使いたがる人もいるので、最近のビジネス用語として認めざるをえないようだ。
なぜ、この言葉が嫌いかというと、それは 「 結果論 」 を語るときに用いる人が圧倒的に多いことと、現象面での評価に留まる人が多いせいだろう。
数ヶ月前に人事面接を行った際、私が志望動機を尋ねたところ、「 貴社は勝ち組だと思うので・・・ 」 などという、意味不明な回答をする者がいた。
彼が言うには、人生には勝ち組と負け組があって、自分が勝ち組になりたかったら、勝ち組の組織に入らなければならないのだそうである。
その場で熱く議論を交わすほど、さして期待に値するほどの人物とも思えなかったので、「 はぁ、そうですか 」 と適当に答え、不採用の扱いにした。
たしかに世の中には勝者と敗者があったり、成功する者、失敗する者がいるのは事実だが、それは 「 他人が決めることではない 」 ようにも思う。
たとえば、出世して大金を手に入れても、大病を患って苦しみ続ける人もいるだろうし、家庭の不和に悩んだりしている人もいるだろう。
逆に、わずかな収入しかないようでも、心身が健康で、家族仲良く、毎日を明るく楽しく過ごしている人もいるはずだ。
ビジネスや所得に限定しても、勝ち組と呼ばれる企業に属する人がすべて勝ち組とは限らないし、逆の組織にも、勝者が存在する可能性はある。
陽は沈み、陽はまた昇る。
私の生きた数十年の間にも、かつては優良企業と呼ばれた会社が破綻し、日本の花形産業と思われた業界が、衰退の憂き目に遭ったりしている。
景気の良い企業に属したからといって将来が安泰ではなく、誰も我が身の未来を保証してくれるものではない。
偏差値の高い学校に入学したり、有望な企業に配属されることは、長い旅の初めの一区間を、徒歩で進むか、タクシーに乗るかぐらいの差である。
人生の目的をハッキリと見定め、結果論としての勝ち負けを語らず、日々、明日の戦いに勝つことを考え続けないと、どこにいても成功はしない。
幸せはお金では買えないし、それが最も重要なものではない。
ただ、やっぱりお金がないと苦労するし、お金が最も重要ではないと理解していながら、お金のために、生き方を変える必要も生じてくるものだ。
そのためにも、お金を上手に稼ぎ、上手に使う訓練を、若い頃から身につけることが望ましいと思う。
今日は新成人を祝う日にあたるが、私は若い人や、友人の子供などには、普段から外国語の収得を口酸っぱく説いている。
それは、就職に有利とかいう些細な観点ではなく、海外でも暮らせるという広い選択肢を武装する意味もあり、さらに今後は重要な点となるだろう。
老後というものを考えたとき、いくらの資産があれば安心だろうか。
私は、自分が60歳になったときに、2億円の資産があれば、比較的にお金の心配をせず、余生をおくれるのではないかと試算している。
実際には、そこまでの金額を貯めることは困難を伴うが、それは 「 日本に住み続ける 」 という前提での試算であり、国によっては状況が異なる。
こんなにお金がかかる国で、どんどん税金や保険料を徴収されたのでは、いくらも資産が増やせないうちに老後を迎えなければならない。
それを思うと、終生、日本に住み続けることの難しさ、不安というものを感じるので、今後は海外移住を視野に入れる人も増えるような気がする。
「 それは一人の人間にとっては小さな一歩であるが、人類にとっては
偉大なる跳躍である 」
: ニール・アームストロング ( 宇宙飛行士 )
That's one small step for a man, one giant leap for mankind.
: NEIL ARMSTORONG
アメリカは、スペース・シャトルに代わる新たな宇宙開発構想に着手する。
現在のシャトルは、4〜5年の内に退役となる見通しだ。
新しいシステムは、「 乗員探査ビークル 」 ( CEV ) と呼ばれ、宇宙飛行士や機材を宇宙ステーションに運んだり、月面着陸ができるようにする。
将来的には、火星へ向けての有人飛行に利用される予定で、アポロ計画の21世紀版として、宇宙開発の未来を担うプロジェクトになりそうだ。
アポロからスペース・シャトルへと続く道のりで、アメリカの宇宙開発は多くの人的被害を生み出しており、現在の技術に至る犠牲を払ってきた。
特にスペース・シャトルでは、二度の惨事が衆人の見守る中で起きたことも記憶に新しく、それぞれに衝撃的な出来事であった。
その経験を活かし、人類の未来にとって明るい平和的な宇宙開発を、安全面にも留意しながら行ってほしいと願うものである。
冷戦時代に競い合った米ソの宇宙開発は、必ずしも 「 人類全体の未来 」 を意識したものではなく、それぞれの国家による思惑が大きかった。
先に人工衛星の打ち上げに成功したのはソ連で、生物衛星、有人衛星など、特に衛星に関するプロジェクトでは、常にソ連が先んじて成功した。
人工衛星と 「 ICBM ( 大陸間弾道弾 ) 」 を併用することにより、核弾頭を直接、相手国に打ち込むことができる。
その脅威は当然、アメリカを震え上がらせ、対抗する開発も過熱した。
月面を制覇したことは軍事目的と異なるだろうが、どちらの開発が進んでいるのか、世界へ向けてのパフォーマンスとしては、かなりの成果があった。
冒頭に挙げたアームストロング船長の言葉は、歴史に残る名言である。
ただし、当時の様子から考えると、それは 「 人類にとって 」 というよりも、「 アメリカにとって 」 偉大な一歩であったのかもしれない。
もしも、アメリカが多額の費用を投じてアポロ計画を推進していなかったら、東西の勢力バランスや、その後の世界は違っていた可能性もある。
昨年の10月、中国が有人ロケットの打ち上げに成功したが、宇宙開発には軍事的な効用も考えられるので、そこに脅威がないとも言い切れない。
日本は、技術面で各国の宇宙開発に多大な貢献をしたが、国内での開発に投じる予算が圧倒的に低いこともあり、国家事業としては遅れている。
冷戦が終わり、アメリカは仮想敵国の影に怯えることなく、むしろ、ロシアと協調するスタイルで、以前よりも効率的な宇宙開発に取り組める。
今後は、お互いの技術や資産を分かち合い、文字どおり 「 人類にとって 」 意義のある開発や研究を、連携して行える土壌ができつつあるのだ。
数々の団体が行った調査では、地球の資源というものには限りがあって、いづれは消費し尽くしてしまうだろうという報告がなされている。
宇宙をくまなく探索したからといって、我々の子孫に役立つ資源や、生活に適した土地が見つかるとは限らないが、それも一つの投資といえるだろう。
それに、我々が子供の頃、月面着陸をわくわくしながら眺めたように、宇宙開発というものには 「 未来への夢 」 があり、ロマンに満ち溢れている。
先ほども述べたが、日本の宇宙開発への投資は僅かで、国家予算に占める割合からみても、先進国として十分な責任を果たしているとはいえない。
宇宙開発には、科学、文化、通信、軍事、資源調査など広範な目的があると思われるが、日本の場合は 「 経済的収支 」 に拘りすぎているようだ。
単に経済的視点から判断すると、高い経済的効果を挙げているけれども、直近のビジネスだけで評価を下すのは、将来的に問題があると思う。
あらゆる資源を輸入に頼る 「 脆弱な国家 」 であればこそ、国際協力なども含め、もっと積極的に開発を進めるべき分野のような気がする。
財政難であることも十分に理解できるが、子供たちに夢と目標を与え、学術研究の向上や、高質なスキルの養成など、プラス面も多いはずである。
ちなみに、アポロ11号が月面着陸に成功した瞬間、両親を含め日本中は大騒ぎしてテレビに釘付けだったが、私はさほど関心を示さなかった。
白黒テレビに映る月面の画像はお世辞にも 「 鮮明 」 とは言えなかったし、説明がなければ何の映像かさえも判別し難かったのである。
それに、男子小学生の集中力は、何時間も持続できるものではない。
興味を持ったのは、帰還後、鮮明な写真やスライドが見れ、母船や着陸船のプラモデルが発売された頃で、じっくり観たのは再放送の記憶である。
それでも、「 子供の頃にあったビッグイベント 」 として、東京オリンピック、月面着陸、大阪万博の三つは、強く印象に焼きついて離れない。
「 売れないのは、品物が悪いのではなく、ご自分のせいです 」
: エスティ・ローダー ( 化粧品会社役員 )
If you don't sell, it's not the product that's wrong, it's you.
: ESTEE LAUDER
日本人のビールの年間消費量は、一人あたり 「 大瓶90本弱 」 である。
一位はチェコで、だいたい日本の三倍ぐらいを消費するのだという。
一人あたりの量は世界で二十五位くらいだが、総消費量では世界第五位〜六位くらいの数字となるので、日本は 「 ビール大国 」 といえるだろう。
私自身はウイスキー、ブランデーの類が好きで、ビールやら発泡酒などはあまり好まないのだが、それでも、なにかとビールを飲む機会が多い。
会食や、ちょっとした集まりのときに、まず最初にビールで乾杯することが習慣化されているし、そういうときにビールが無いと、どうも物足りない。
ワインやシャンペンで始まるパーティもあるが、気取らない普段着の集まりや、庶民的な飲み会のほうが圧倒的に多いのだから、まるで量が違う。
個人的な嗜好はともかくとして、日本人の飲食文化にビールというものは、欠かせない存在になっているといえるだろう。
サントリーが8日に発表した03年のビール・発泡酒の販売実績は、前年比7.6%減で、社長曰く、冷夏の影響などもあり、芳しくなかったそうだ。
驚いたことに、サントリーにおけるビール事業の収支というものは、同社が参入して以来、実に 「 40年連続の赤字 」 なのだという。
同社の国内におけるビール・発泡酒のシェアは約10.5%で、それなりのポジションは獲得しているのだが、それが利潤に還元されていないようだ。
たしかに、「 好きなビールの銘柄 」 は人それぞれだが、キリンやアサヒやサッポロを指名する人はいても、サントリーと答える人は少ないように思う。
味に問題があるのか、マーケティング的な要素で失敗しているのか不明だが、大手企業のビジネスとしては、ちょっと無惨な業績ではないだろうか。
日本には、「 石の上にも三年 」 という諺があり、つらくても根気よく辛抱すれば必ず成功するという教えになっている。
西洋にも、「 Perseverance will always win in the end. = 最後にはいつも忍耐が勝つ 」 という言葉があり、だいたい同じような意味で使われている。
しかしながら、三年ならともかく 「 40年連続の赤字 」 というのは、忍耐の限度においても、ビジネスの常識から考えても、尋常ではない。
サントリーは今年、悲願の黒字化に向けて、積極的に新商品の投入をはかるそうで、赤字体質に甘んじて妥協したり、勝負を捨ててはいないようだ。
彼らの健闘にエールを贈るが、過去の敗北を知るならば 「 冷夏の影響 」 なんて釈明をしないことが、成功への第一歩ではないかとも思う。
「 年をとるという、おそろしく高い代償を払って、人は円熟する 」
: トム・ストッパード ( 劇作家 )
Age is a very high price to pay for maturity.
: TOM STOPPARD
昨日の日記は、一部 ( 男性のみ ) の読者に共感をいただけたらしい。
時節柄、暗い話題が多いので、たまには柔らかい話もよいかもしれない。
公に男女の秘め事について語ることは慎重さを期すべきで、冬休みが終る時期を選んで書いたつもりだが、男子高校生の方からも反響があった。
男と女の問題というのは、世代を超え、国境を越え、普遍的で根深い要素が含まれており、そこには不動の定理みたいなものが存在するようだ。
総体的には需給バランスの問題で、消費者の財布の紐が緩くなれば経済が活性化するように、女性の貞操が緩くなれば男性の下心も活発になる。
昨日の日記に登場したような、思わせぶりでも 「 やらせない女性 」 が多いと、「 やるせない男性 」 が増えるのも、いわば自然の摂理であろう。
ただ、私を含め男性側が己の我侭として反省すべき点は、女性の性に対して、「 私には寛容で、他人には貞淑でいて欲しい 」 と望むところにある。
以前にも書いたが、ここの日記は 『 エンピツ 』 というレンタル日記サイトをお借りして、掲載させていただいている。
ここには日記のカテゴリーが区分けされていて、当方は 「 時事/社会 」 というジャンルに登録されているのが現状だ。
したがって、あまり時事問題に関係しない話、些細な身の上 ( 身の下? )話ばかり書くのは、ちょっとルール違反だと思うので気がひける。
そこで、最近のニュースから 「 男女にまつわる話 ( 深刻でないもの ) 」 を探してみたところ、なんとか適当と思われるものを発見した。
今夜はその話題について、またもや自分本位な理屈を語ってみよう。
セイコーが発表した 「 今年の新成人に対する意識調査 」 にて、オジサンは40歳からなのに、オバサンは30歳からとした回答が多かったそうだ。
老化に対する印象というものは、その人の個性や風貌の違いから個人差があるので、一概に実年齢では処理できないようにも思う。
単に年齢だけを思い浮かべ、それが 「 お姉さん 」 なのか 「 オバサン 」 であるのかをイメージさせた場合、新成人はこう答えたという結果である。
だから、「 明日、30歳の誕生日を迎える 」 という女性が、「 お姉さん 」 の地位に訣別したり、「 オバサン 」 になる準備を整える必要も無い。
もし仮に、新成人から見れば 「 オバサン 」 でも、「 オジサン 」 と呼ばれる我々から見れば、まだまだ 「 お嬢さん 」 であることも事実だ。
年齢を重ねることで人間的に成長したり、円熟することは有意義なことだ。
たぶん、「 若い 」 という言葉には、「 幼い、青臭い 」 などというマイナスのイメージもあり、場合によっては、頼りない印象が災いすることもある。
しかし逆に、それは肉体的、精神的に 「 美の象徴 」 であったり、行動的な躍動感であったりするので、できれば、その要素は保ち続けたいものだ。
人間というのは欲深いもので、若いときは 「 早く大人になりたい 」 と大人の利点を求め、年をとると 「 若返りたい 」 などと願ったりもする。
自分のことならまだしも、他人にもそれを望んだりするので、はた迷惑というか、厄介なところがある。
若い頃から芸能人やアイドルと呼ばれる人たちに対して、どちらかというと関心が無かったのだけれど、それでも 「 素敵だなぁ 」 と感じた人はいる。
名前は出さないが、日本映画界を代表する巨匠監督の息子さんと結婚した、私より一歳年上の女性に、ほんの一時期だが、憧れたこともあった。
その当時、彼女の唄う歌も知らなかったし、熱心にテレビを観たわけでもないのだが、友達が持っていた雑誌に載っていた写真に夢中になったのだ。
そこに写る彼女は、若々しい清廉さに加え、なんともいえない大人の色香を漂わせ、その性的魅力の刺激は、当時の自分にとって衝撃的だった。
若くして結婚するという報に触れたとき、「 こんな女性と結婚できたのなら、すべてを失っても幸せだろう 」 とさえ、思ったものである。
その後しばらく、彼女をテレビで観る機会がなかったのだが、最近になって昼間のワイドショーとか、バラエティ番組で見かけるようになった。
この日記は極力、全国の皆様にわかりやすいようにと 「 標準語 」 で記述するようにしているが、その印象はちょっと標準語では表し難い。
常用の大阪弁で語ることをお許し願うと、「 うっとぉしいオバハン 」 というのが、もっとも適切な評価になる。
歳月は人を変えると言うが、あまりにも 「 変わりすぎ 」 である。
他人様の風貌や個性についてケチをつけるというのもなんだが、著名人であるかぎり、多少はそのへんの責任も感じてもらいたい気がする。
私は昔から、あまり 「 漫画 」 というものにも興味は薄かったが、それでも子供の頃に大ヒットした 『 あしたのジョー 』 という漫画の印象は強い。
ボクシングの世界チャンピオンを目指す主人公が、歴戦の過程で世界中の強豪と対戦していくのが、物語の骨子となっている。
劇中で、「 カルロス・リベラ 」 という名の対戦相手が出てくるのだが、彼は主人公との死闘を引き分けたのち、世界王者にKOされ廃人になる。
少年漫画には珍しく、スポーツ界の 「 影の部分 」 を描かれたことで印象的だったのだが、盛者必衰の侘しさ、悲しさというか、憂いを感じたものだ。
昔、恋心を抱いた憧れの女性が変貌する様は、なんとなくそれに似ており、「 誰がこんなにしちまったんだ 」 と、思わず泣き叫びそうになる。
きっと男女の間で、それはお互い様の問題であって、お互いの老けゆく様を達観して、楽しみながら、味わいながら生きるのが利口というものだろう。
ただし、たぶん相手を失望させてしまうのは、顔や体の変化よりも、根底に流れる 「 精神 = スピリット [ spirit ] 」 の部分が大きいように思う。
いくら化粧品やエステに投資して見た目の若さを維持したとしても、人との接し方や、感性の部分が老齢化してしまっては、元も子もない。
30歳でオバサンというのは、ちょっと早すぎるし、酷な評価だとは思うけれども、なんとなくそのあたりに原因があるような気もする。
かくいう私は、「 同級生はオジサンだけれど、自分は違う 」 などとひそかに自惚れているのだけれど、世間ではそれを 「 独りよがり 」 というのだろう。
「 男が牛耳っている社会だっていいわ。自分が女でいられるかぎりね 」
: マリリン・モンロー ( 女優 )
I don't mind living in a man's world as long as I can be a woman in it.
: MARILYN MONROE
児童・学生の諸君は冬休みも終わり、そろそろ学校が始まる時期だろう。
そこで今夜は久々に、ちょっと艶っぽい話でも書いてみよう。
先日、テレビのニュース番組を観ていたら、懐かしい風景に遭遇した。
それは、福岡市の繁華街からほど近い場所で、都市近郊のベッドタウンと呼ぶに相応しい住宅街である。
20代後半から30代後半までの約10年間、出張で九州方面を訪れる機会が多かったけれど、宿泊は当然、ホテルを利用することが大半だった。
例外として、一時期、ご当地の女性と交際していたことがあり、その間には彼女のマンションに泊まって、そこから仕事先へ向かった。
上司と一緒に出張した際には、同じホテルにチェックインして、夜中に彼女のマンションへ抜け出し、朝早くに戻るという 「 離れ技 」 も経験した。
実は、テレビで観た 「 懐かしい土地 」 というのは、そこのことではない。
こちらは、たった一度だけだが、それとは別の女性の部屋に泊めてもらったことがあり、数多い福岡出張の中でも、初めて訪れた地域だった。
当時は、誰とも特定のお付き合いはしていなかったのだが、得意先の接待で同行したラウンジで、なぜか初対面の美女と意気投合した。
調子に乗って閉店まで飲み続け、得意先をタクシーまで見送り、さてホテルへ戻ろうと歩き出すと、背後から肩を叩かれた。
振り返るとそこには、さきほどの美女が笑顔で立っていたのである。
ちょっと小腹が空いていたので、なにか食べにいこうかという話になり、近くの寿司屋さんへ寄ることになった。
福岡の歓楽街 :中州 は、深夜遅くまで賑やかなところで、かなり遅い時間でも、新鮮で美味しい寿司を良心的な価格で食べさせてくれる店がある。
それから、小粋なショットバーで飲み直し、時刻は既に2時を回っていた。
実はこの日、まだホテルに チェックイン をしていなかったので、既に2回、ホテルに対して遅くなる旨を電話で伝えていた。
もう一度、念のために電話を掛けようと立ち上がったとき、彼女は私の肩越しに、 「 今からチェックインするのは、もったいない 」 と囁いたのである。
彼女は、「 キャンセルして、自宅のマンションに泊まればいい 」 と言う。
思えば小さい頃、「 お菓子やオモチャを買ってくれるという知らない人には、ついていってはいけません 」 などと、親に指導されたものである。
しかし、「 見知らぬ美女のマンションに行ってはいけません 」 とは言われたこともないし、もし言われていたとしても、都合良く忘れていただろう。
当時は、今よりもずっと元気だったし、警戒心も薄かったので、喜び勇んでタクシーに乗り、平静を装いつつも、胸中はパラダイスの気分だった。
そして、辿り着いたのが 「 懐かしい土地 」 である。
部屋に入るとすぐにシャワーを借り、交代して彼女が浴びた。
別に、シャワーから出ると財布が盗まれていたとか、「 美人局 」 みたいに怖いお兄さんが登場したというようなこともなく、静かな夜である。
部屋の中にはベッドとソファーがあり、一応、紳士的に 「 どこで寝ればいいのか 」 と尋ねたら、彼女は不思議そうな顔をして、ベッドを指差した。
だいたい、「 美味しい話 」 というものは、どこかに落とし穴があったりすることが多いけれど、ここまで来れば完璧で、一部の隙もないものだ。
しかも彼女は、ベッドに広げた私の腕を枕にして、灯りを消し、「 おやすみ 」 と呟いたのである。
ここで、「 おやすみ 」 と言われて、本当に寝るほど疲れてもいなかったし、無粋な人間でもなかったので、当然、それなりのアクションを開始した。
すると彼女は、驚いたように上体を起こし、飛び跳ねた。
照れているのかと思い、執拗に迫ると、今度は泣き出す有様である。
それも、「 しくしく 」 ではなく 「 うわーん 」 という感じで、恥かしくて泣いているというより、むしろ号泣に近い。
無作法はなかったと確信しているが、私には泣かれる意味がさっぱりわからなかったので、ちょっと途方にくれてしまった。
彼女の弁によると、「 泊まれ 」 とは言ったけど、「 SEX しよう 」 とは言ってないとのことである。
たしかに、そりゃそうだけれど、世の中には 「 あうんの呼吸 」 というものがあるし、前後の経緯から判断すれば、誰でも考えることは一つだろう。
しかしながら、別にからかわれているわけでもなくて、彼女としては本当に、一緒に泊まるだけと考えていたようで、お互いの見解は違っていた。
こちらとしては、「 旅先でのロマンスか 」 と思っていても、彼女からすると、「 親切に泊めてやったら、レイプ魔だったよ 」 みたいな言い草である。
しかも彼女は、「 私のボディガード 」 と呼ぶ猫を飼っていて、彼女が騒ぎ出したことで、猫まで 「 ふしゅぅー 」 と唸りだす始末で、困ってしまった。
当時、それほど女性に不自由していたわけでもないし、一連のやりとりですっかり冷めてしまったので、結局、「 もういいや 」 と諦めた。
それでも念のために、「 俺とは嫌か? 」 と尋ねてみると、「 好きなタイプなんだけど、よく知らないし 」 などという、トンチンカンな答えが返ってきた。
私は、「 じゃあ君は、よく知らない相手と同じベッドで寝るのか 」 という質問を投げかけたのだが、彼女の倫理観としてそれは 「 OK 」 なのだそうだ。
実際に、彼氏でもない普通の男友達と一緒に寝たりすることも多いそうで、だからといって、その場で親密な関係になったことはないのだと言う。
その後、ほとんど眠れない状態で朝を迎え、「 懐かしい風景 」 で見覚えのある駅から、西鉄に乗って仕事先へ向かったのである。
こういう 「 特殊な考え方の女性 」 は日本中に一人だけかと思っていたら、後日になって、実はそうでもなく、他にもいることがわかった。
ちょっと前に交際していた東京の女性も、後輩の男性と同じ部屋で一緒に寝たりして平気なのだと言っていた。
たしかに、貴女は平気かもしれないが、一緒に寝る男性が 「 平気 」 なのだとは言い切れないし、誤解を招くには十分すぎるほどの設定だろう。
しかも許せないのは、「 では、彼氏が他の女性と、何もしないけど一緒に寝るというのは平気か 」 と尋ねると、両者とも答えは 「 NO 」 なのである。
その理由は、「 私は真面目だから何もしないけど、あなたを含め男性は、いやらしいからダメ 」 なのだそうで、たしかに当たっているが腹立たしい。
世間では、よく 「 男社会 」 などという表現が使われ、男性の横暴さにより、女性は軽視され、蹂躙されているような話をよく聞く。
しかし、男は加害者にされたまま、被害者であり続けるような部分もある。
今度、生まれ変わったら 「 いい女 」 になって、こんな 「 トラップ ( 罠 ) 」 をいっぱい仕掛けてやろうかとも思う。
この一件から、なんとなく女性に対する猜疑心が強くなって、「 女は魔物 」 みたいな教訓を植え付けられたような気がしている。
あの駅がテレビに写った瞬間、懐かしいというか、苦い思い出が甦った。
「 運命は鷲ではなく、どぶねずみのように忍び寄ってくる 」
: エリザベス・ボーエン ( 作家 )
Fate is not an eagle, it creeps like a rat.
: ELIZABETH BOWEN
北朝鮮はミサイルの照準を、東京に合わせているという説がある。
嘘か真かは別としても、危機感をもって臨む必要があるだろう。
核戦争の歯止めとしての定番は 「 抑止力 」 と呼ばれるもので、ようするに敵対するお互いの国が核を保有することで、脅威を防ごうという手段だ。
その発想が良いか悪いかは別として、第二次大戦以降に核兵器を実際に用いて相手を攻撃したという例は一度も無い。
日本の場合は、「 持たず、つくらず、持ち込ませず 」 という非核三原則があり、核をもって核に対峙するという姿勢を示すことはなかった。
現在、「 ミサイル迎撃構想 」 というものが動き始めているが、これは飛来するミサイルを着弾前に打ち落とすという構想で、核抑止とは異なる。
実際のところは、同盟国のアメリカが十分な量の核を擁しているのだから、核を切り札に敵対する国が現れたとしても、自ら保有する必要は少ない。
冷戦時代、核戦争の恐怖を描いた映画というものが、大量につくられた。
印象的なのは、『 渚にて ( 1959米 ) 』、『 未知への飛行 ( 1964米 ) 』、『 博士の異常な愛情 ( 1964英・米 ) 』 の三本だ。
それ以外にも秀作、話題作はあるが、好きな俳優が出演していたり、脚本が面白かったりといった理由から、個人的に、この三作品の印象が強い。
三作とも、ほとんど戦闘場面など描かれておらず、戦争映画というよりは、破滅的な終焉を予感させるサスペンス的な色彩が濃い作品である。
機会があればレンタルなどでご覧いただくと、いかがだろうか。
グレゴリー・ペック主演 『 渚にて 』 は、核戦争によって北半球が壊滅した後のオーストラリアという設定から、物語が始まる。
ここにやってきたのは、一隻のアメリカ原子力潜水艦。
潜水艦の艦長は、死の灰が近づきつつあるオーストラリアで迫り来る死期を待つか、壊滅した祖国アメリカに帰港するかの決断に迫られる。
そんな中、既に死滅したはずのサンディエゴの町からモールス信号を受信し、潜水艦は調査のため、一路サンフランシスコを目指す。
未見の人のためにラストは明かさないが、「 信号を送っていたのは誰か 」 という部分で、衝撃的な結末が核の恐ろしさを表現している。
ヘンリー・フォンダ主演 『 未知への飛行 』 は、アメリカ軍コンピューターの誤作動によって、モスクワへの核攻撃指示が発動されるという物語だ。
アメリカ大統領は、第三次世界大戦の勃発、人類滅亡を回避するために、指示の撤回を図りつつ、ソ連の書記長とも連絡を取り合う。
ところが、両軍の機密保持や、それぞれの思惑に阻まれ、飛び立った爆撃機を止める手段は、ことごとく失敗を重ねる。
これも未見の人のため、衝撃のラストシーンは話せないが、最終的にモスクワが破壊された場合に、最終戦争を避ける大胆なプランが登場する。
スリリングな展開と脚本の上手さからいうと、映画的にはこの作品が一番優れているが、日本での劇場公開が10年遅れたことから、知名度は低い。
ピーター・セラーズ主演の 『 博士の異常な愛情 』 は、『 未知への飛行 』 と酷似した物語で、公開時には盗作の疑いから裁判にもなった。
こちらはブラック・コメディ的な作品に仕上がっていて、登場人物はすべて 「 道化 」 として、人間の愚かさを笑うような内容になっている。
監督は、4年後に 『 2001年宇宙の旅 』 を撮るスタンリー・キューブリックで、彼の出世作としても映画通には広く知られている。
この三作以外にも、たとえば 『 007シリーズ 』 などでは、核戦争を阻止するという題材が多く扱われたり、数え上げればキリがないほどだ。
反戦を唱える人などからみれば不謹慎と思われるかもしれないが、核戦争の恐怖というものは映画の題材として、たしかに扱われやすいのである。
核戦争による人類滅亡の恐怖というものを考えるとき、これらの作品を観ることによって実感がわくという人も多いのではないかと思う。
小競り合いの地上戦が良くて核戦争が悪いというわけではないが、少なくとも人類が、自らの手によって生み出した兵器で破滅するのは愚かしい。
そういう見地からみても、多くの人がこれらの作品を観て、核に対する警戒心を高めることは重要だが、一つだけ注意すべき点がある。
それは、これらの作品群が 「 米ソの冷戦中 」 につくられた作品であって、大国同士の核保有、核抑止と、現在の核危機とは異なるところだ。
後先を考えずに捨て身の姿勢で迫る 「 狂人が支配する手負いの小国 」 には、対抗する核の保有も、良識も、抑止力としての効果は薄いだろう。
2004年01月06日(火) |
ちょっと早いけど秋の話題 |
「 やるべきことはやる。自分がどうなろうとも、いかなる障害、危険、圧力が
あろうとも。これは人間道徳の基本である 」
: ジョン・F・ケネディ ( アメリカ第三十五代大統領 )
A man does what he must - in spite of personal consequences, in spite of obstacles and dangers and pressures and that is the basis of all human morality.
: JOHN.F.KENNEDY
今年は、米大統領選挙 ( 11月2日投票 ) の年である。
イラク戦の是非も含め、米国民の審判について、注目が集まるだろう。
イラク情勢が泥沼化し、一時はブッシュ大統領の再選は絶望視された感もあったが、ここにきて形勢は逆転、再選ムードが高まりつつある。
米経済回復の加速、フセインの拘束、リビアの最高指導者カダフィ大佐の大量破壊兵器廃棄表明などで支持率が上昇したことが、大きな要因だ。
ブッシュ陣営 ( 共和党 ) に対抗する民主党の中にも、イラク戦争の是非については容認する者もいて、その政策が最大の焦点とも言い難い。
むしろ多くの国民が関心を寄せているのは経済政策で、今後の景気動向が、実際の投票に影響する可能性のほうが大きいようだ。
現政権としては、どうしても景気を回復させるべく、昨年から追加減税や、超低金利などの策を用いて、個人消費を刺激する試みを続けている。
ブッシュ政権の 「 やり方 」 について批判が多いのは、「 単独行動主義 」 と呼ばれる部分で、民主党陣営は国際協調主義への転換を唱えている。
強硬策は対テロ戦だけにとどまらず、北朝鮮の核開発問題や、あるいは、通商上の問題にも当てはまる。
財政赤字が史上最悪の規模に達した今、新たな施策としては輸入を制限し、通商保護主義によって国内産業を支援するぐらいしかない。
この点については民主党も似たり寄ったりの考え方で、大統領選に向けてアメリカが急速な景気拡大策をとれば、世界経済に大きな波紋を及ぼす。
マスコミは、派手な戦争ばかりをクローズアップして報道するが、アメリカが世界に与える影響というものは、我々の日常的な生活にも関連が深い。
歴代のアメリカ大統領の演説には、正義 [ justice ] とか、道徳 [ moral ] という言葉が多用される。
赴任時に、たまたま戦争の渦中にいるか、比較的平穏な時期にあるのかの違いによって受ける印象が違うだけで、発言の中身はそう変わらない。
海外との摩擦を和らげ、国民の支持を得るための手法は、時代を超越して普遍的なものであり、その根底には当然の如く 「 利害 」 が存在する。
日本人の多くは、正義や道徳などの美辞麗句に惑わされることなく、日本とアメリカの利害が相容れるかどうかにこそ、関心を持っているはずだ。
ならば、大統領や首相の言葉尻をとって、「 ああ言った、こう言った 」 などと揶揄する人たちは、ちょっと幼すぎるような気がする。
2004年01月05日(月) |
ブラビッシモとブォニッシモ |
「 ベストセラーナンバーワンは料理の本、ナンバーツウは減量の本 −
つまり、料理の作り方を勉強したら、今度は、それをどうやったら
食べないかを勉強するわけだ 」
: アンディ・ルーニー ( ジャーナリスト )
The biggest seller is cookbooks and the secound is diet books - how not to eat what you've just learned how to cook.
: ANDY ROONEY
イタリア・セリエAで活躍する中田選手が、現地で注目を浴びている。
パルマからボローニャに移籍し、初の練習試合で大物ぶりをみせた。
元来、彼のポジションは MF=ミッドフィールダー といって、試合の中盤を支配することによって、守りでも攻撃でも、要 ( かなめ ) となるところだ。
この試合では、その才能と運動能力をいかんなく発揮して、絶妙のパスで先制点をアシストし、その後、自らのシュートによっても得点を挙げた。
海外で日本人選手が活躍する話題を耳にすると、なんとなく痛快である。
また、世界の舞台に立ち、果敢に挑戦する選手が増えてから、日本代表によるサッカーの国際Aマッチが善戦できるようになってきた。
狭い島国の頂点では満足せず、さらに上の水準で自分を磨くという挑戦が、個々の能力のみならず、全体の力量を向上させていくものだろう。
話は変わるが、イタリアの話題を聞くと、美味しいパスタが食べたくなる。
昨年の3月にイタリアへ行くまで、あまりイタリア料理が好きではなかったのだが、帰ってきてからというもの、食べる頻度が格段に増えた。
現地で食べたものが美味しかったことも一因だが、しばらく滞在したことにより、「 日常的にパスタを食べる習慣 」 が身についたようだ。
もともと麺類は好きだったが、「 スパゲッティを食べるくらいなら、饂飩か、蕎麦を食べる 」 と決めていた概念が、少しづつ変わってきた。
外食にイタリア料理店を選んだり、家でパスタを茹でる機会が増えたのだ。
日本蕎麦や饂飩に比べて、パスタはバリエーションが豊富である。
ロングパスタの仲間には、スパゲッティの他に、楕円形のリングイネやら、平打ちのフェットチーネなどがあり、それぞれに食感が異なる。
ショートパスタには、カネロ二やペンネなど筒状のマカロニタイプのものや、トルテリーニ、ラビオリのような具入りのフィリングタイプなどがある。
調理方法も多彩で、スパゲッティのようにソースと和えたり、ラザニアのようにオーブンで焼いたり、サラダやスープの具材にも使う。
個人的な嗜好にもよるが、パスタの種類を変え、味付けや調理方法を工夫すると、けっこう食べ飽きないものである。
中田選手の活躍で、ボローニャの観客から 「 ブラビッシモ=bravissimo 」 という声が上がったそうである。
これは、ブラボーの最上級で 「 超最高! 」 という賛辞にあたる。
あまりイタリア語は覚えていないのだが、「 ブォニッシモ=buonissimo 」 というのが、「 とても美味しい 」 という意味だというのは知っている。
イタリア語では、最上級を指すときに 「 issimo 」 が付くらしい。
そういう話を考えはじめると、たまらなくパスタが食べたくなるので、明日は奮発して美味しいパスタでも食べにいくとしよう。
「 真の和解というのは、ただ過去を忘れるということではない 」
: ネルソン・マンデラ ( 南アフリカの政治家 )
True reconciliation does not consist in merely forgetting the past.
: NELSON MANDELA
学生時代の仲間には、郷里を離れて海外で活躍している者もいる。
お盆やお正月は、彼らと再開できるチャンスも多く、それもまた嬉しい。
どちらかというと、欧米の先進国に出向いている者よりも、情報量の少ない小さな国で活躍する者の話に、とても興味深いものが多い。
たとえば、僻地ならではの不便さや、日本では考えられない習慣など、思わず身を乗り出して聞き入ってしまう話もあり、いつも驚かされる。
単調な生活に飽き気味の時などは、抑えていた冒険心を刺激され、すぐにでも一緒に飛び立ちたい衝動にかられる。
ただ、そういう仕事はえてして 「 銭 」 にならないものである。
たまには大儲けしたという話も聞かないわけではないが、かなりのリスクを負う割には堅実性に乏しいので、半端な意気込みでは大成しない。
同級生だからといって、すべてが昔から 「 気が合った 」 わけではない。
一人、二人ならば友も選べるが、クラス会などはそうもいかないものだ。
毎月のように幼馴染と会ったり、小規模な同窓会と称して酒を呑んだりするし、年に一度は部活のOB会に参加するので、旧友と会う機会は多い。
学生時代に、お互いに少し不仲だったり、苦手に感じた相手もいるのだが、その大半は、数十年を経た今となると、笑いあえる関係になった。
時が経てば、嫌な思い出は忘れ、懐かしさだけが甦るようだ。
人の性格とか相性というものは、なかなか変わらないものかもしれない。
男女を問わず、第一印象で好意を持った相手は、たいてい、時間が経っても好きだし、苦手なタイプと打ち解けるには時間が掛かる。
ただ、子供の頃に出会った相手の場合は、ちょっと状況が違う。
けして性格が変わったわけではないのだろうが、精神的に未発達だったので、本来の性分を曝け出せてなかったり、誤解されることも多いのだ。
世間では 「 子供は素直 」 ともいうが、若気の至りで不本意な言葉を口にするし、大人になって再会したほうが、素直に感情を吐露することもある。
そんなわけで、たぶん大人になってから仲良くできるようになった相手とは、おそらく子供の頃になんらかの 「 失敗 」 があったのだろうと思う。
虚勢を張ったり、嘘をついたり、自分の真意を正直に伝えられないといったコミュニケーションの不具合が、どこかにあったような気がする。
いま、お互いに酒を酌み交わしながら、森羅万象について気の合う喜びを感じつつも、とても残念に思うことがある。
子供の頃に、もっと素直に彼と接することができていれば、きっとお互いに親友として、さらに多くの思い出をつくれたはずだ。
お互いに口には出さないけれど、この 「 無駄に失った数十年 」 に思いを巡らせ、再会を約束しながら、今宵も酔って帰ったのである。
「 どんなことでも小さな仕事に分ければ、特に難しいことはない 」
: ヘンリー・フォード ( アメリカの自動車王 )
Nothing is particularly hard if you divide it into small jobs.
: HENRY FORD
元旦早々に掃除をすると、「 福 」 が去るという言い伝えがある。
初風呂も2日が慣わしで、掃除や風呂は大晦日に済ましておくものだ。
独身男の部屋だからといっても、清掃は完璧でなければならない。
綺麗になった部屋で、一年の戦略を練ったり、大挙して押し寄せてきそうな酔客を迎える準備をしなければならないのである。
そこで、1月2日に 「 新春大掃除大会 」 を賑々しく開催した。
これはあくまでも 「 新春大掃除 」 である。
けして、年末の大掃除を途中で諦めたとか、やりかけたまま嫌になって読書にふけっていたことが理由ではない・・・と、自分には言い聞かせている。
掃除やら後片付けというものは、溜め込むとけっこう大仕事になる。
年末にある程度、捨てるものは処分したのだが、残した物の整理ができていないので、書籍などが未だに山積みとなっている。
山積みとはいっても、現在、私の視界には何も散らかっていない。
我が家には使用していない空き部屋があり、そこを物置代わりにしているので、その中に何もかもが押し込められているのである。
つまり、こうしてパソコンのキーを叩いている 「 書斎兼寝室 」 から、生活に必要最低限の品物以外を、隣りの部屋に移動しただけのことだ。
そういうわけなので、この空間にいるかぎり ( 隣りのドアを開けなければ ) 快適な環境とも思えるのだが、やはり気になるものである。
それに、放っておくとまた物が増えてしまうし、いつかは片付けなければならないのだから、この際に整理しておいたほうが良いに決まっている。
書籍類も、ビジネス書、小説などのジャンルに区分し、版の大きさや厚みなどを考慮しながら、棚に並べていった。
けっこう時間も掛かったが、「 今日はこれだけやろう 」 とか、各パート毎に分けて取り組めば、それほど煩わしい作業でもない。
つまりは、「 日頃から少しづつ片付ける 」 という習慣を励行していれば何の問題もないのだが、三日経てば苦労を忘れるところが、困ったものである。
こういう場合に、「 奥さん 」 という存在が居れば、状況が違うだろうか。
親切な人なら、自分の代わりに片付けてくれるかもしれない。
しかし、中には勝手に片付けられると困ってしまうモノもあるだろうし、自分で片付けるのと違って、どこに収納したのか瞬時に判別できないだろう。
逆に、自分と同じか、それ以上に怠惰な人であれば、片付けることなど期待できないし、同居人が増えた分だけ、かえって荷物が増える結果になる。
それでは、ちょいと最悪である。
親切で、几帳面で、なおかつ 「 私にとって、何が必要なのか解る人 」 ならば、何も問題はないだろうか。
というか、「 奥さん 」 という存在が側に居れば、好き放題に散らかすという生活習慣そのものが、自主的に改善されるものかもしれない。
整理整頓という見地からみれば、たしかにそれは望ましいことだけれども、この 「 好き放題に散らかす 」 という習慣も、全て失うと淋しい気がする。
それは怠惰で背徳的な快楽なのだろうが、「 奥さん 」 に諌められたり、「 私は掃除婦じゃないのよ! 」 などと怒られるのも辛いように思う。
好きで結婚したのに、そんなことで諍いになったり、気まずい思いをするのは、どうにも悲しい話だが、世間には 「 よくあること 」 だと聞いている。
また、私の部屋を見て、「 綺麗にしている 」 という人もいれば、人によって 「 散らかっている 」 と評価されることもある。
あるいは、「 綺麗にしている 」 と答えた人も、「 独身男にしては 」 といった注釈が割愛されているのかもしれない。
自分では綺麗にしているつもりでも、潔癖症な人からみれば違う評価を下すかもしれないし、そのあたりは難しいところであろう。
他人と同じ空間を共有する場合、それが 「 独りよがり 」 ではトラブルやら不仲の原因になることもあるだろうし、けっこう重要な問題である。
掃除や整理整頓だけを考えても、長く同居するには気を遣うものだ。
結婚とは 「 縁 ( えん ) のもの 」 と答えるようにしているが、実際のところは、ちょっと違うかもしれない。
他人に気を遣い続けるのが苦手な人や、好きな相手に怠惰な部分を見せたくない人などは、心理的に躊躇する要素も含まれている。
今まで大病を患ったこともなく、比較的に健康でハッピーな暮らしを続けてきたように思うので、あまり独り身を 「 心細い 」 と感じたこともない。
周囲にいる多くの人は 「 奥さん 」 というものを勧めようとするのだが、片方で彼らは、「 独身は気楽でいいよね 」 みたいなことも言う。
年とともに 「 今さらねェ 」 という気もするし、部屋の掃除一つとってみても、ちょっと躊躇してしまう問題なのである。
「 外国旅行をするには、その前に自分の国のことも多少は、
知っておかなければならない 」
: ローレンス・スターン ( イギリスの小説家 )
A man should know something of his own country, too, before he goes abroad.
: LAURENCE STEME
お正月休みを利用して、海外旅行に出かけている方も多いだろう。
それぞれの国の歴史や文化を体感することは、視野を広げるのに役立つ。
昔に比べると手軽に海外へ行けるようになり、最近では海外旅行に行ったことのない人のほうが珍しいくらいである。
米ソ冷戦時代には、アメリカへの渡航歴が多い人間がソ連に行くビザを取れなかったり、航空運賃などの経済的要因以外にも不自由が多かった。
日本と国交の無い国などは別として、今は、たいていの国へは行ける。
その大半が、日本よりも治安が悪かったり、言葉が通じ難いなどの不安があるので心配する方も多いが、そんな理由で行かないのも悔いが残る。
せっかく、この世に生を受けたのなら、狭い日本に留まらずに、可能な限り世界中を見て回りたいと思うのも、私だけではないだろう。
日本人に人気の観光地などについては、多数のガイドブックも出ている。
海外で日本人観光客に遭うと、たいていは、その手の本を携帯している。
史跡などで隣り合わせた日本人と話したりするとき、特に若い人の場合に、その土地の情報に詳しくても、意外と日本の知識に疎いことが多い。
たとえば、エリザベス朝時代と聞いて、それが関ヶ原の頃だということがピンとくる人などが少ないのである。
外国へ出かけるときにも、日本史や日本文化の知識を携えて行って、互いに比較しながら見聞きするほうが、より勉強になるのではないかと思う。
首相が元旦早々に、靖国神社を参拝した。
ただの初詣ではあるが、靖国神社に関しては、特に一部近隣諸国の関心が高いので、首相が参拝したことがニュースになる。
この靖国神社については、あまりに外野がうるさいせいか、日本人の中でも正確な知識を有している人が少ない。
意図的かどうかは別として、日本に反撥する諸外国の宣伝や、悪評を鵜呑みに盲信している人も多く、かなり長い間、誤った知識が横行している。
あるいは、隙有れば政府の批難でもしたいというヒネクレ者が、事実を湾曲して騒ぎ立てるという 「 非国民的 」 な言論も目立つ。
靖国神社に関して、「 太平洋戦争での戦死者を奉っている 」 という説は、たしかに間違いではないけれども、それだけでは説明が不十分だ。
明治二年に、戊辰戦争の戦死者を奉るために建立されたもので、以来は、国内の戦争というものが無かったので、海外との戦死者を奉ってきた。
だから、諸外国のいう 「 A級戦犯を奉っている 」 との認識も、間違いだとはいえないのだが、かなり部分的に誇張した表現なのである。
他の神社と同様に 「 御祭神 」 というものがあるけれど、靖国神社だけは、たまたまそのような事情から、二百四十六万余の御祭神を有している。
御祭神の数が飛躍的に多いということを除けば、他の神社と変わりない。
だいたいどの国の宗教でも、死者に対する畏敬の念は共通している。
いかなる理由があれど、先祖を供養したり、神仏に参ることを妨げることは、野蛮で下劣で、なにより 「 バチ当たり 」 な行為である。
国家元首だからとか、終戦記念日だからとか、元旦だからというようなことが論点になるのもナンセンスで、内政干渉以前の問題だといえる。
誰が、いつ、どんな理由でお参りしようが、信仰の自由である。
そんなことに敏感に反応する諸国もオカシイが、靖国神社の基礎知識も知らないで是非を云々する日本人の多いことには、毎年、辟易してしまう。
信仰は自由なので、他人に靖国参拝を強要するつもりなどない。
しかし、先祖を敬い、死者を弔う気持ちは大切にすべきと思う。
特に日本には古くから 「 祖霊信仰 」 という習慣があり、先祖を大切に敬うことで、子々孫々が繁栄するのだという意識が根強い。
科学的な根拠を求められると根も葉もない話なのだが、それが美徳として浸透していることも事実で、情緒的な習慣は認めざるを得ないのである。
だから、わざわざ原宿まで参拝に行かなくてもよいが、他人の参拝を邪魔するようなことは、けしてしないほうがよいように思う。
「 すべてのものの鍵は忍耐である。
卵をつぶすのではなく、卵をかえしてこそ、ひよこは得られる 」
: エレン・グラスゴー ( アメリカの作家 )
The key to everything is patience. You get the chicken by hatching the eggs - not by smashing them.
: ELLEN GLASGOW
新年、あけましておめでとうございます。
本年も、よろしくお付き合いの程、お願い申し上げます。
昨年の元旦は、「 平和と繁栄 」 について願ったが、世界的な不況の傾向はさほど緩和されず、平和に至っては、もってのほかという結果に終った。
かといって、すべての人間や、世間を憎むことはない。
世の中を悪くしているのは、一握りの悪党と、諸悪の根源を見極めることのできぬ 「 偏向的な 」 愚か者の一団ぐらいである。
私の知るかぎり、洋の東西をとわず、人類の大半は良識的な尺度を持ち合わせた個人で構成されており、未来は暗いものでもない。
厳しい時代だからこそ、希望を捨てず、オツムの怪しい連中による愚痴や、まことしやかな批難には耳を貸さないことが、肝要ではないかと思う。
特に日本人の場合は、なにかしら体制を批判したり、やたらと平和を叫んでみたりすることが恰好良いような風潮が強い ( 戦後日本の話 )。
もちろん、平和を重視することも、政府の施策を監視することも大事な作業だが、論拠も無く、それに酔っているだけの集団が目立って多い。
年端のいかない teen-ager 以外で、恥かしげも無くそんな稚拙な話のできる人間は海外の知人にはおらず、私の周囲では日本人だけである。
大人は、「 平和をはじめ全てのものは、それを求めるだけでは得られぬ 」 ということを知っていて、具体性の有る施策を支持するものだ。
現実にはその通りでないかもしれないが、そうあってほしいと願う。
日本人にアホな思想がはびこるのには、複合的な原因が考えられる。
一つは、富国強兵を誇った日本が敗戦国となり、近隣諸国からの監視が強まる中、愛国心や、ベクトルの統合化を排除される憂き目にあったこと。
ファシストのような愛国心は必要ないが、周囲を武装した集団に囲まれた中を丸腰で歩く環境の中、生き残る術は卑屈さと、従属に変わった。
また、規律を守れない者、心身の健全さに劣る者、怠け者にとって、「 自由と平和の精神 」 は、悪い意味で 「 居心地の良さ 」 につながってしまった。
戦前の様子を知らないし、懐古するつもりもないが、良い悪いではなくて、強い弱いという尺度で判断すると、弱体化したことは否めないだろう。
二つ目は、マスコミの功罪である。
戦時中、各新聞が政府軍部のご用機関に成り下がった遺恨からか、日本の報道機関というものは、民意に対して主導権を持ちたがる。
その洗脳ぶりは、戦前に軍部が民間人に行ったものや、得たいの知れぬ新興宗教が信者に行ったもの以上に、長く強く続けられてきた。
自分は洗脳されていないと否定する人も多いが、かくいう私自身も海外での生活をはじめて、やっと気づく驚きというものを、何度も体験している。
この国で、こんなテレビを観て、こんな新聞を読み、こんな学校教育を受けていただけでは、気にならない 「 意識の欠如 」 というものがある。
島国が大きな変革を遂げるのは、「 外圧 」 の力が大きい。
黒船が来航して近代化が始まり、進駐軍が来て今日の原型ができた。
外圧でしか変われないというのも虚しい話だが、テロリズムによる国際社会の治安の変化や、仮想敵国の出現が日本を変えていくだろう。
それを悲観したり、意味不明の抗議を繰り返しても、問題は解決しない。
現実から逃れず、具体的な施策に立ち向かいクリアーしていくことで、日本は新たなポジションを獲得し、生き延びていけるものだと思う。
ここは、耐えなければならない。
武力で立ち向かうことを是とは言わないが、日本は国際社会の一員として、夢と理想だけではなく、現実に対峙する意思決定を求められてゆく。
たとえ過去の価値観を打ち砕かれようとも、日本は自由主義勢力の中で、強く誇りをもって存続していかねばならない。
きっとそこには、いままでとは異質の忍耐や、価値観を求められる場面に遭遇する可能性も高いが、未来に希望を託して耐えることが肝要となる。
元旦早々、ちょっと右翼的に捉えられたかもしれないが、真の国際的秩序の回復と日本の将来に向けて、「 耐える 」 というキーワードを提唱した。
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