Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年02月29日(日) 1/1461 の確率


暦のうえで、今日は四年に一度の 「 2月29日 」 である。

閏 ( うるう ) 年を実感するのは、オリンピックと2月29日だ。


子供の頃、「 2月29日生まれの人は、四年に一度しか年をとらないのか 」 ということについて、珍妙な論議を展開した記憶がある。

私が生まれたのも閏年だが、周囲に閏日生まれの人がいなかったし、識者に尋ねるほどの関心もなかったので、真相は不明のままだった。

法的には、「 閏年以外の年は、2月28日の終了時 」 をもって年齢が加算される仕組みで、未成年かどうかの判断などで適用されるらしい。

俳優の原田芳雄さん、飯島直子さん、作家の赤川次郎さんらは閏日生まれだそうで、それを知った周囲の人からは、珍しがられたのだろうなと思う。

単純に計算しても、「 1/1461 の確率 」 である。


歴史上の大きな出来事も、あまり記録にない。

しいていえば、「 2.26事件 」 の年が閏年で、26日のクーデター発生後、鎮圧をされたのが、その年の2月29日であったそうだ。

それよりずっと昔、後醍醐天皇が元号を 「 建武 」 から 「 延元 」 に改元し、南北朝時代のはじまりとなったのも、2月29日とされている。

ただし、歴史上の出来事は年号で学ぶことが大半で、日付まで試験に出るようなことは皆無なので、あまり覚えておく必要はないだろう。

だいいち、後醍醐天皇の時代は 「 閏年 」 という概念など無かったはずで、閏日に合わせて特別な行事が行われたというわけでもない。


今年は日曜日にあたったが、閏日は 「 例年より一日多い オマケの日 」 という見方もできるわけで、そう考えると面白い。

この日だけはと決めて、学業に、仕事に、スポーツに、ライバルと差をつけるために必死で頑張るのも良いし、逆に思い切って休むのも良い。

誕生日とか、クリスマスとか、結婚記念日とか、一年に一度の行事でさえも面倒な人が 「 四年に一度なら・・・ 」 と、なにか始めるのもいいだろう。

私自身の人生において、特に2月29日に関する思い出はないが、初恋を皮切りに、「 閏年には楽しい出来事があった 」 ように記憶している。

いまのところ、あまり芳しい話はないのだけれど、あと10ヶ月も残されているのだから、後半に期待して努力してみるつもりだ。



2004年02月27日(金) ローマ字の功罪


日本人は、外国語の習得能力が低いと言う人がいる。

そうかもしれないが、それは 「 語学力 」 とは別の問題だろう。


むしろ日本人の平均的な語学力は、世界でも群を抜いていると思う。

世界の 「 文字 」 を検証すると、アルファベットや、カタカナや、ひらがななどの 「 表音文字 」 と、漢字、象形文字などの 「 表意文字 」 が存在する。

表音文字というのは音を表す文字で、文字自体には意味を持っておらず、表意文字というのは、文字自体が意味を表すという特徴を持っている。

日本語を流暢に操ろうとすれば、カタカナ、ひらがなの表音文字をはじめ、漢字という表意文字までも巧みに組み合わせて用いることが必要となる。

さらに外来語や、日常に深く浸透した外国語の数々まで、大半の日本人は使いこなしており、これほど幅広く文字を使い分けるのは日本人だけだ。


そういう意味でも 「 読む、書く 」 という能力に関しては、平均的に日本人は比類なき語学力の修練を積んでおり、その能力は世界の水準に劣らない。

ただし、発音の音域が少ないため、「 会話 」 という作業については、新たに外国語を学ぼうとする際、未知の音域を習得せねばならない。

それが、たとえば英語でいうと 「 R 」 と 「 L 」 の違いであったり、「 V 」 や 「 th 」 の発音であったりするわけである。

だから、複雑多岐な発音には慣れている中国人のほうが、新たに英会話をマスターしようとした場合に覚えが早く、同じ努力でも流暢に通じやすい。

つまり 「 日本語には使用されない音 」 というものがあって、それを無意識に使いこなせるまでの作業に、英会話上達までの大きな壁がある。


諸説あるだろうが、私としては、小学校で学ぶ 「 ローマ字 」 というものに、大きな疑問を抱いており、あれは本当に必要なのだろうかと思う。

必要とされる方の意見として、「 英語学習の準備 」 という大儀を掲げる人が多いのだが、それならば、最初から英語を教えればよいのではないか。

もともと発音が異なるのだから、無理に五十音をアルファベットに変換するプロセスなど経ずに、最初から基礎英語を学ぶほうが、混乱は少ない。

たとえば中学時代の級友で、「 Knife ( ナイフ ) 」 を 「 クニフェ 」 と読んで嘲笑われた者がいたけれど、それはまさに 「 ローマ字学習の功罪 」 だ。

それでもまだ、教育界には 「 ローマ字の必要性 」 を説く意見が根強くて、小学校4年生くらいになると、必須授業としてローマ字学習が行われる。


ローマ字を覚える意義として、「 アルファベット恐怖症 」 の子を生み出さないように、本格学習の事前準備だと唱える声もある。

中学になって、いきなり英語の授業が始まると、見慣れない文字に対する不安から、臆してしまう子がいるといけないというのだ。

それならば逆に、小学校低学年とか、もっと早い段階から幼児向けの英語学習を始めればよいことであって、ローマ字だけが有効な手段ではない。

あくまでも慣れることが目的なので、セサミストリートを観せたり、学習というよりも、気楽に馴染ませる程度のことなので、簡単な話であろう。

ローマ字を習うことだけが解決法ではないし、この意見は同意しかねる。


あるいは、ローマ字で 「 子音と母音の組み合わせ 」 を覚えることにより、英語のスペルを学ぶときに役立つのではないかという意見もある。

この意見にも無理があり、たとえばローマ字なら 「 カ行の言葉 」 はすべて 「 K 」 で始まると覚えるけれど、英語では 「 C 」 で始まる語句も多い。

カリフォルニアは California であって、Kalifornia では通用しない。

また、「 サ行の言葉 」 はすべて 「 S 」 と覚えるけれども、ここでも Chicago のように、英語では 「 C 」 で始まる語句が少なくない。

実際の英語とは異なる規則性を、最初に 「 大前提であるが如く 」 認識してしまうと、日本人は勤勉な農耕民族の血をひくせいか、混乱に陥りやすい。


発音記号を読みやすくするために、ローマ字が有効と語る説もある。

ローマ字が読めない子供に発音記号を教えようとするのは、かなり困難であり、そのためにもローマ字学習は必要だとする意見だ。

これも個人的に 「 腑に落ちない話 」 で、なぜならば、発音記号なんてものは、英語学習の初期から読めなくてもいいと思うからである。

前述したように、小学校低学年ぐらいから英語に馴染ませておき、ある程度の単語を認識できるようになったうえで、教えれば済む話だ。

こっちの単語にある 「 O 」 とあっちの 「 O 」 は同じ発音をするでしょ、でもこっちの単語の 「 O 」 は違うよね・・・といった具合に教えればいい。


もちろん、ローマ字の存在だけが日本人の英語学習を阻害しているなどとはいわないし、それなりに意義も認められる。

ただ、もともと大幅に異なる言語を、手近なところから結びつけようとしても矛盾が多く、特に、「 文字に頼る 」 ところからスタートするのは危険だ。

日本人は 「 読む、書く 」 といった能力に関しては長けた資質が備わっており、そのためか、どうしても新しい知識を文字で覚えようとする。

しかし、日本人も欧米人も、あるいは世界中どこの民族であっても、赤ん坊が始めて言葉に出会うのは 「 文字ではなく音声 」 から始まるものだ。

以上の理由から、ローマ字教育には反対なのだが、どうしてもというなら、ヘボン式 ( si ではなく shi、hu ではなく fu ) から始める改革を求めたい。



2004年02月26日(木) お得を感じない問題


ふとした瞬間に、年齢を感じることがある。

それは、けして体力の衰えにかぎったことではない。


人間は急に老けるわけではなくて、無意識のうちに、日々ゆっくりと成長 ( あるいは衰退 ) をしていくものだ。

久しぶりに会った友人とか親戚の変貌には気付きやすく、その話を肴にして酒を酌み交わしたり、別の知人に報告したりもしやすい。

意外とギリギリまで気付かないのが 「 自分自身の変化 」 であって、毎朝、鏡に向かっているからこそか、ちょっと前との比較を忘れている。

外見はともかく、内面的な変化ともなればさらに気付き難く、ある日突然、「 オッサンじゃん 」 と驚いてしまうことも珍しくない。

仕方のない話ではあるけれど、それはなんとも淋しいものである。


自分の年齢を相手が 「 何歳ぐらいだと思っているか 」 ということについては、多分、女性の場合は世代を超越して、若く思われたいものだろう。

男性の場合は少し事情があって、必要以上に 「 年寄り扱い 」 されるのも嫌だが、あまり 「 若造扱い 」 されるのも不愉快なときがある。

特に若い頃は、なんとなく、相手に 「 ナメられているのではないか 」 などと勘ぐったり、それを避けるために虚勢を張ったりもしたものだ。

しかし、年齢を重ねて、「 どこからどう見たって、20代には見えぬ 」 ようになってくると、男性も概ね無条件に、若く見られたほうが嬉しくなってくる。

40歳を過ぎると、「 若造 」 とか 「 青二才 」 なんて呼ばれることはないけれど、もし呼ばれたら、きっと喜んでしまうのではないだろうか。


人間はたいてい、成長したいという願望を持っているが、老いたいと願っているような変わり者は少ないはずである。

ある程度の年齢になると、「 あの人は子供っぽいね 」 と揶揄されるよりも、「 あの人は大人だねぇ 」 と評価されるほうが、なんだか立派な気がする。

しかしながら、ルックスや感性、行動力などの面においては、いつまでも若々しいイメージを他人に与え続けたいと思うことも事実だ。

つまりは、しっかりした良識ある大人なんだけど、老け込まずに若々しく生きているなどという、かなり無理のある 「 絶妙のバランス 」 を求めている。

それは 「 大人の理想像 」 であり、永遠の憧れともいえるだろう。


本音の部分で自分は、自分自身をどう評価しているだろう。

他人と接する折には 「 いやいや、もう中年ですから 」 と笑っているが、心の中では 「 俺は実年齢よりも、ずっと若いんだ 」 といった自惚れがある。

まさか 「 爽やかな好青年 」 などと思わないが、「 オッサンの割には、若い世代とも自然に交流できる 」 ぐらいのポジションを維持したいところだ。

昔に比べると、駅の階段を駆け上がれなくなったり、すぐに腰が痛くなることも事実だけれど、若い子でも、そういう人はいるはずだ。

だから、「 目立って若い子と差がある 」 などとは自覚しておらず、逆に言い換えれば、「 若い子とは明確に異なる 」 点に気付く時、老いを感じる。


先週は強風が続き、スカートの裾を押さえて歩く女性の姿も多かった。

ちょうど、私の前を歩いていた女性が短めのフレアースカートで、風が強く吹く度に、裾が翻りそうで、ちょっとハラハラしてしまったことがある。

このとき、私は 「 ハッ 」 と、老いに対する危機感を感じてしまった。

若い頃なら、それは 「 ハラハラ 」 ではなく、「 ドキドキ 」 だったり、あるいは 「 ワクワク 」 だったのではないだろうか。

実にクダラナイ尺度かもしれないが、これは 「 若い頃との明確な違い 」 に通じる点であり、老いたる兆候といえるかもしれない。


強風に煽られ、女性のスカートがめくれ、下着が見えるような 「 不測の事態 」 について、若い健康な男性の大半は 「 幸運 」 と捉えるはずだ。

事実、私自身も以前は 「 得をした気分 」 になった覚えがあるのだが、なぜだか最近は、そういった感覚が無いのである。

もちろん、「 損をした気分 」 にもならないが、その瞬間の気分を言葉にするなら、以前は 「 ラッキー♪ 」 だったのが、現在は 「 ありゃりゃ 」 である。

たぶんこれは、性欲の衰えといったほどの問題ではなくて、「 見えないはずのもの 」 との遭遇に期待する意識の変化だろうと推察する。

性的興奮が萎えたというよりも、「 下着が見える程度の刺激 」 には慣れて鈍感になり、価値を見出せなくなってしまったというほうが相応しいだろう。


たぶん、「 パンツが見えてラッキー♪ 」 と思う人がスケベで、そうではない人が真面目という論理にはならないし、精力の違いにもつながらない。

女性の下着を観て異様に興奮するのもどうかと思うが、「 下着なんて見飽きたから、さっさと脱いじゃえ 」 という男性も考えものであろう。

思えば我々の若い頃は、アダルトビデオも無ければ、ヘアヌードも無くて、異性に対する情報量に関しては、圧倒的に不足した時代であった。

同年輩の男性なら共感されると思うが、国語辞典の 「 陰 」 で始まる語句を見つけては、密かに興奮した記憶さえある。

そんな 「 若造 」 が、パンツとの遭遇を喜べなくなることは大異変であって、老いの兆候としては 「 かつてないほどの大問題 」 なのかもしれない。



2004年02月25日(水) オウムとアルカイダ


昨夜のテレビで、オウム真理教の再現ドラマが放映されていた。

麻原被告に審理の判決が下る27日までは、特番が続くだろう。


再現ドラマだから多少の脚色はあると思うけれど、警察官役の出演者が 「 これは戦争だ 」 と呟く台詞があった。

当時、オウムは山梨県の上九一色村に要塞を構え、全国の主要都市にはアジトを配しており、ロシアなど海外にも拠点を設けていた。

さほど利口な集団とも思えず、組織力も十分とはいえなかったが、信者には、薬品や、あるいは暴力的な脅威によって 「 洗脳 」 が施されていた。

麻原や教団幹部の私利私欲を満たすためにテロ活動の手先となったのは、その大半が洗脳に組した信者たちであり、殉教者気取りだったろう。

妄信的に狂人を慕うことも同じく狂気の沙汰ではあるが、犠牲者にしてみれば 「 精神異常者だから仕方ないね 」 では済まされない。


異常な精神状態だった者を裁くことについて、それは弱者に対する偏見を誘発するだとか、人権問題に及ぶといった意見も多い。

しかしながら、「 犯罪に関与した異常者 」 を罰すことが、平穏に日常生活を営んでいる精神病患者に対する偏見には通じないように思う。

また、それが誰であっても、殺人という行為に及ぶこと自体、その瞬間には常軌を逸しているわけで、すなわち 「 異常な精神状態にある 」 はずだ。

そのあたりの見極めというか、犯罪性の有無を問わずに精神状態の如何で判断する理不尽な昨今の風潮が、社会全体の秩序を危うくしている。

頭がおかしくても 「 悪い者は悪い 」 のであって、まっとうな生活を善良に営んでいる人々に危害が及ぶ事態は、なんとしても避けねばならない。


北朝鮮やアルカイダなどのテロ組織も、オウム真理教と大差ない。

フセイン政権下のイラクも同じことで、「 親分のためには、命じられるままに誰でも殺しまっせ 」 という集団は、周囲からみれば困った存在だ。

オウムに対して警察官が 「 これは戦争だ 」 と呟いたように、悪党を殲滅する作戦が大掛かりになればなるほど、それは戦争の様を呈していく。

もちろん、何でもかんでも戦争によって解決すればよいというわけではなく、平和的に解決する手間を惜しんではいけないが、決着しない場合もある。

アホの一つ覚えのように、戦争反対ばかりを叫んで手をこまねいている間に、大勢の罪も無い人々が死んでいくことも知る必要があるだろう。


オウム事件では、地下鉄サリン事件の4ヶ月前 ( 松本サリン事件のあと ) に、警察が上九一色村のオウム施設を一斉捜索するプランがあった。

しかし、それは実行されず、地下鉄サリン事件で多くの犠牲者を出した後に、警察は重い腰を上げ、事件の解明に至ったのである。

もし、早い時期にテロ集団の殲滅を果たしていたら、地下鉄で命を落とす人も救われたのにと、当時の警察庁幹部は語るという。

これは警察の手落ちというよりも、自由や人権を声高に叫ぶ団体さんや、それに乗せられて一緒に騒ぐ 「 お馬鹿な人たち 」 の影響が大きい。

世論というのは面白いもので、田舎のガス騒ぎには寛容だが、身近な都心で人が死に、自分達にも危害が及ぶようになると、ほぼ一斉に翻る。


イラク問題も同じで、それが遠い中東の問題だから反対する人が多い。

もし、自分が通勤する電車に爆弾が仕掛けられたり、息子の通う小学校にサリンが撒かれたなら、誰が自衛隊の出動に反対するだろうか。

そこで、「 総理、自衛隊の派遣先は安全なんですか? 」 なんてナンセンスな質問を繰り返す野党の代議士がいたら、それこそ失笑の的である。

上九一色村の人々はオウムを、拉致被害者の家族は北朝鮮を、それがたとえ強硬な手段であったとしても、早くなんとかしてもらいたかったはずだ。

身近に危険が差し迫るまで、妄信的に戦争反対を唱える連中は、その間に何人の罪も無い人々が死に至るかということに、目をそらしてはいないか。


イラクにおける役割について、日本の自衛隊や、アメリカの軍隊が問われている最大の焦点は、「 他国にどこまで干渉するか 」 という部分にある。

日本の示す態度としては、テロ組織による中東の危機を傍観し、そのような責任を引き受ける力はないと、白状することもできるだろう。

また、我々の自由の概念を尊敬し、その生き方を見習おうとする全世界の善良な人々に対し、勇気とリーダーシップを発揮することもできる。

圧政や迫害に苦しむ人々を見殺しにすることもできるし、彼らが民主主義を受け入れることを応援することもできる。

そう考えると、はたして派兵反対を唱えてデモを練り歩く人々が平和的で、派兵を賛成する意見が 「 好戦的 」 であるとなど、いえるのだろうか。


いづれにせよ、日本の軍備は増強され、近いうちに憲法は改正される。

それは野党やマスコミが騒ぐような国家権力の陰謀ではなく、危険が身近に迫ってくるために民意が求める結果として、そうなるはずである。

イラク問題は 「 対岸の火事 」 でも、日本には別の危険が潜む。

その場合は、遠方の国々からみれば 「 対岸の火事 」 ということになるのだが、自由主義諸国の役割を果たさずして、助けを求められるだろうか。

オウムにしても、イラクにしても、世論は流動的なもので、政府やアメリカを悪者扱いする愚かな人々が多い間は、まぁ、一安心の状態だともいえる。



2004年02月24日(火) ジェフリー・アーチャー評


あともう少しで、読みかけの小説が最終章に辿り着く。

ジェフリー・アーチャー 久々の新刊 『 運命の息子 』 である。


アーチャー氏は英国の代表的な作家で、実生活も波乱に満ちている。

英国議会に当選したかと思えば、週刊誌で売春行為を暴露され、名誉毀損で裁判を起こし、逆にその裁判中に偽証をして禁固刑に処されたりもした。

数多くの作品を生み出しているが、短期間に量産し、私生活のせいで間隔があって、忘れかけた頃に新作が書店に並ぶといった具合だ。

今回は久々の新作で期待したのだが、さほど評価できる出来ではない。

しかしながら、個人的に彼の作風が好きで、この作品にも随所に 「 らしさ 」 が織り込まれており、十分に楽しませてもらった。


映画を観たり、小説を読んだりする場合、それは作品の優劣もさることながら、自分にとって 「 好きか、嫌いか 」 という価値基準こそ大きいものだ。

良い映画とはいえないけれど、好きな俳優が出演しているから観たいとか、好きな作家による小説だから読みたいとか、誰しも経験があるだろう。

私にとって、アーチャー作品はまさにそれで、過去に出版をされた全作品を少なくとも二回以上は読んでいる。

もし、これから読もうとする方がいるなら、初期の名作 『 ケインとアベル 』、『 めざせダウニング街10番地 』 などをオススメする。

上・下巻にわたるような長編が苦手という方には、短編集の中にも傑作が多く含まれているので、そちらから読み始めてもいいだろう。


彼が新作を発表するパターンには一種の規則性があって、彼が得意とする上・下巻組の大長編の後には中篇か、ときには短編を出すことが多い。

だから次回は、久々の短編が出るのではないかと、今から待ち遠しく楽しみにしている次第だ。

短編集は、『 十二枚のだまし絵』、『 十二本の毒矢 』、『 十四の嘘と真実 』 があり、一冊の中に12〜14本の話が含まれている。

他の作家による短編集に比べて、私が読み飽きない理由は、サスペンス、笑い、感動など、逸話ごとに違った味付けが施されている点にあるだろう。

特に、サスペンス仕立ての短編には、ヒッチコック作品を彷彿とさせるような趣のある傑作もあり、長編の感動とは一味違う楽しみになっている。


短編の中で最も印象に残っている作品の一つに、『 高速道路の悪魔 』 という題名のサスペンスがあり、最後のオチには嘆息を漏らしてしまった。

ここから数行は “ ネタばれ ” になってしまうので、これから読むのだという方は飛ばして欲しいのだが、そうでない方のためにお教えしよう。

ある町の高速道路上において、連続通り魔殺人が発生する。

それをラジオから聴いて恐れる女性が運転する車を、一台の車が猛追し、車線を変えても、速度を上げても、どこまでも追いかけてくる。

やがて本線をはずれ、激突した彼女の車の後部座席には、ナイフを持った犯人が潜んでいて、後方の車は、危険を知らせようとしていたのだ。


このような絶妙のトリックや仕掛けが随所にあって、また、サスペンス調の話ばかりでもないので、それぞれの作品が新鮮な驚きを与えてくれる。

もちろん長編も、彼の作風に 「 ハマる 」 方にとっては一気に読めてしまう面白さなのだが、短編のほうが 「 万人ウケ 」 する仕上がりといえる。

アーサー・ヘイリー、シドニー・シェルダンなども似たような作風で、どちらも好きな作家だが、個人的にはアーチャー作品が一番面白いと思う。

それは、ひょっとすると彼自身の破天荒な性格や、波乱万丈の人生に味付けされたエッセンスのせいかもしれない。

未読の方は、ご覧いただいてはいかがだろうか。



2004年02月22日(日) 即席麺


たぶん私がテレビを視聴する時間数は、日本人の平均を下回ると思う。

あえて観ないわけではないが、定期的に観る番組が少ないからであろう。


比較的に欠かさず観ているのは 「 大河ドラマ 」 ぐらいだが、あれは観そこなわないように、うまく工夫されているようだ。

日曜日の夜八時にNHKで放送され、同じ日の夜十時から衛星第二放送、六日後の土曜日午後にはまたNHKでと、同じ回の放送を三度も観れる。

ほとんどは過去に映画化されたり、ドラマ化された作品ばかりであるが、約一年にわたりオンエアされるのだから、とにかく放送量が多い。

量が多いということは、細部にわたって描かれているということなので、映画などでは割愛される些細なエピソードなども楽しめることになる。

逆に、原作や史実にはない 「 取って付けたような話 」 も、場合によっては尺を埋めるために織り込まれてしまうといった事情も存在するようだ。


大河ドラマ以外は観ないのかというと、そんなわけでもない。

ただ、たとえば特定の番組を観たいから早く帰宅するとか、わざわざVTRに録画して観ようとか、そうやって定期的に鑑賞するほどの番組はない。

たまたまテレビをつけた時に面白そうな番組をやっていたら観るし、選局を変えても興味深いものが無ければ観ないといった感じだ。

だから、「 あの番組は面白いね 」 といった番組も、いくつかは思い当たるのだけれど、何曜日だったか、どこの局だったかという記憶が曖昧である。

たまに、曜日も局も覚えておいて、「 さて、観よう 」 とチャンネルを合わせたら、放送時間を勘違いしていて、既に終わっていたりもする。


そんなわけで、連続ドラマの物語などといった話題には参加できないが、巷で評判になっている番組の多くは、たぶん一度くらい観ているだろう。

土曜の夜に放送される 「 Sma・STATION 」 という番組を、ご覧になった方は多いと思う。

メイン・キャスターが人気アイドルグループ 「 SMAP 」 の香取慎吾さんなので、たぶん視聴率的にも高い数字を挙げているのではないだろうか。

この番組は、若年層をターゲットにした新しいニュース番組というポジションを確立しつつあり、他の報道番組よりも解説がわかりやすい。

大人が観るには 「 まわりくどい 」 と感じるかもしれないが、時事問題への予備知識がない人に対しても、今日的な問題をうまく伝えていると思う。


番組の中で、香取氏と共に英語を学ぼうというコーナーがあって、日常的に用いることの多い表現や、海外旅行に役立つ英会話が多く登場する。

このコーナーで紹介される英語表現は、どれも簡単だが、日本人が意外と口に出せないようなものが多く、なかなかオススメである。

つまりは、大学まで英語を学習した日本人が話せず、アメリカの幼稚園児がスラスラと話せるような言葉といえば、伝わりやすいだろう。

日本式の学校教育による英語は中学までにして、高校生以上は、このようなシチュエーションから学ぶスタイルにしたほうが、ずっと役に立つ。

事実、英語の授業は常に満点だったのに、外国人と満足に挨拶も交わせないような人も多く、「 使える英語 」 を教える番組の登場は好ましい。


昨夜の放送を観ていたら、英語のコーナーではないが、前の週に放送した番組の一部に 「 不適切な表現 」 があったとかで、番組中に陳謝していた。

どうやら、「 インスタントラーメンが脳梗塞の原因になる 」 という誤解を招くような表現があったらしく、生産者らに対する謝罪だったようだ。

たしかに、それで即席麺の売上が落ちたりしたらメーカーは困るし、明確な因果関係が立証できないのなら、軽率に放送すべき発言ではない。

ただ、脳梗塞につながるかどうかはわからないが、即席麺が体に良いものと考える人も少ないような気がする。

塩分は多そうだし、あまり栄養価が高いようにも見受けられない。

野菜などを一緒に入れて煮ると良いのだろうが、消費者は、即席麺の長所である 「 手軽さ 」 に魅力を感じることが多く、そこまでする人も少ない。


どんな食品でも同じかもしれないが、偏食すると体に良くないものだ。

兄の友人が大学時代に、約1ヶ月ほど即席麺だけを食べて過ごしたところ、道端で倒れて動けなくなってしまったそうである。

この逸話は摂取量に問題があるので、たぶん、このようなことを書いても、「 日本即席工業協会 」 から叱られることはないと思う。

しかし子供時代の私にとって、この話は強く印象に残っており、即席麺を食べ過ぎると体に良くないのだということを、切実に思い知らされた。

なぜ即席麺だけを食べていたのかというと、お金がなかったことと、即席麺が大好きだったからだそうである。


即席麺の歴史は古く、私の子供時代にもポピュラーな食べ物だった。

大きな変革は、たしか昭和45年前後だと思うが、「 カップヌードル 」 をはじめとするカップ麺の登場である。

それまでの 「 鍋で煮ます 」 から、「 お湯をかけるだけ 」 になった変化は、他の物にたとえるならば、固定電話と携帯電話ぐらいの特徴差を感じた。

価格も従来の即席麺に比べると高かったが、具材も入っているし、お湯のある場所なら野外でも食べられるので、一気に需要は広がったのである。

これこそは、日本が誇る大発明といえるかもしれない。


ちょっと話が脱線したが、ようするに食べ物というのは、毒にもなるし、薬にもなるもので、バランスよく摂取することが肝要であろう。

1ヶ月間を即席麺だけで過ごすと倒れるし、雪山で遭難した人に即席麺を食べさせると命をつなぐことだってある。

逆に、体に良いからといってサプリメント類ばかりを多量に摂取するのも、あまり感心できるものではない。

以前、お付き合いをした女性で、即席麺の罪悪性を説き、サプリメントを神の如く信奉している人がいたけれど、それは間違っているように思う。

どっちも化学的に合成された物に変わりなく、たぶん人間にとっては、自然のものをバランスよく食べることが、一番望ましいのではないだろうか。



2004年02月20日(金) 夢と現実


ごく稀にだが、面白い夢をみることがある。

今朝の夢もその一つで、とにかく支離滅裂な話だった。


どこかのテーマパークに自分がいて、知らない男女達と、なにやらイベントの打ち合わせをしている。

その中にいる若い女性の一人が、いまから火星に旅立つのだが、初めての飛行なので、ずいぶん不安に感じている様子だ。

そろそろ出発の時間なのに、どうするよということになり、じゃあしょうがないから、私が代わりに操縦しましょうと提案する。

そのときの私は、「 ついこの前も月まで飛んだばかりだしね 」 と話し、私も周囲の連中も、なぜか納得している様子である。

で、「 まぁ、火星のことは置いといて、とりあえず次の100m競争だけれど、どこでやる? 」 と、別のイベントについて考えている最中に目覚めた。


たぶん、すごく短い夢だったように思うが、面白いのは、壮大な宇宙の話をしているのに、周りにロケットもなければ、そのような設備もない。

参加者は皆、普段着で、あまり真剣な面持ちでもなさそうだ。

昔、心理学を少しかじったことがあって、夢分析についてはある程度の知識があるつもりだけど、こういうのは分析しにくい。

宇宙のことは話題に出ているだけなので、それは 「 宇宙の夢 」 とは言い難いし、実際に飛んでいたりする場面もまったく無い。

終始、ただ単に路上で話し合いをしているだけで、デカい話の割にはチンケな背景しか出てこず、ずいぶんいいかげんな夢である。


興味深いのは、自分が 「 ちょっと前にも月へ行ったし 」 と話している部分で、そういうデタラメを他人に語る夢というのは、初めての経験だ。

夢の時点で、それは嘘を吹聴しているのではなく、たしかに月へ行ったものと自分で思い込んでおり、その理由がちょっと思い当たらない。

また、火星に行くという大それた話と、100m競争のイベントを同列に扱う登場人物たちのリアクションも、ずいぶん現実離れしている。

無理やり解説を付けるとすれば、「 未来 ( 宇宙 ) も大事だけど、目の前の現実的な問題もちゃんとやらないとね 」 みたいな心理分析だろうか。

それが当たっているかどうか定かではないが、予知夢 ( 夢の影響で行動を制御されるなどして、夢が現実になること ) でないことはたしかだろう。


過去に覚えている一番印象的な夢は、20代前半にみた夢の話。

大阪府堺市 ( 知らない場所なのに、そこが堺市内だと思い込んでいる ) で、自分が夜道を一人で歩いている。

すると、前から浮浪者の集団がゾンビのようにフラフラと歩いてきて、なんとか避けようとするのだが、体にぶつかってくる。

だんだん恐くなって懸命に避けながら進むのだが、行けども行けども相手の数は増え続け、道路のほかに避難する場所も見当たらない。

ついに、自分は取り囲まれ、首には腕を回されて、体中から自由が奪われ、もがけど、もがけど、振りほどくことができなくなってしまう。


苦しい、苦しいともがきながら、なんとかそこで目が覚めた。

同じベッドでは、当時交際していた少し太めの女性が、私の首に腕を回し、ちょうどプロレスの 「 コブラツイスト 」 をかけた状態で、眠っている。

彼女だけ眠った状態で、なんとか体を離し、しばらく様子をみた。

すると、何度も向きを変えたが、やっぱり 「 抱きまくら 」 のように、腕と足を絡めてきて、かなり強烈な力で挑んでくる。

それは、抱くというよりも 「 絞める 」 といった形容が妥当で、目覚めたあとも悪夢が続いているようで、身の危険を感じてしまった。


ほどなく彼女とは別れたが、もちろん、その出来事だけが原因ではない。

ただ、その後 「 体重のある甘えん坊さん 」 とは、あまり深いお付き合いをしないようになった気がする。

それは、トラウマというほどのことではないし、女性を見た目で判断するということでもないと思うのだが、結果的にそうなっているのだ。

よく思い出してみると、若い頃はポッチャリした女性が好みだったはずが、いつからかスレンダーな女性との交際が多くなっている。

ちなみにそれ以来、「 首を絞められる夢 」 を見たことはない。



2004年02月19日(木) オマーン

スポーツは勝てばいいというものでもなくて、内容の質も問われる。

ワールドカップ一次予選 オマーン戦 は、予想外の苦戦を強いられた。


素人が偉そうに論じれるものでもないが、韓国に 5−0 で敗れているとか、世界ランキングが日本よりも低いと聞いていたので、それは意外だった。

事実、終始優勢に日本側が攻撃を仕掛けていたのだが、肝心の得点には結びつかず、後半のロスタイムに突入後、ようやく辛勝を収めたのである。

それは、日本チームにマズイ面があったのか、あるいはオマーンの選手たちが下馬評を上回る活躍を示したのか、その原因は詳しくわからない。

ただ、「 楽勝 」 と思われた相手にてこずったことで、勝利はしたけれども、これからの戦い方に不安を感じた人も多いのではないだろうか。

あるいは、別の対戦国などが試合を観戦していたとすれば、「 なんだ、日本もたいしたことないじゃん 」 と、脅威を和らげてしまったかもしれない。


技術面については、私ごときの知識で多くを語れないが、日本のサッカーも少し変わってきたように感じるのは、サポーター、観客の反応である。

格下とみなされた相手から点を奪えず前半を終了したとき、観客席の一部からは ブーイング が発せられたという。

以前なら、負けていればともかく、緒戦の中間を同点で折り返した際には、多少の不満はあっても、それなりに健闘を称える人が大部分だった。

良くも悪くも、結果は二の次で、「 頑張っている者は賞賛する 」 というのが代表的日本人気質みたいなものだったが、そこに変化がみられる。

前回のワールドカップで決勝リーグに勝ち進んだことから、観客はプロセスよりも 「 結果 」 を求めるようになり、その期待は大きくなっているのだ。


選手たちにとってはプレッシャーかもしれないが、他人から期待され、結果を出せば、さらに次回はそれ以上の期待を寄せられるものである。

スポーツの世界では、その繰り返しが各自の奮起を高め、全体的な水準を向上させることも周知の事実であり、強くなるために必要な道程といえる。

つまりは、日本のサッカーも草創期を過ぎ、新しい段階に入ったということなのではないだろうか。

オマーンには日本の 「 Jリーグ 」 のようなプロ・リーグがなく、唯一、ゴールキーパーの選手だけが海外のプロチームに所属しているのだという。

単に勝ち負けの問題だけでなく、そういった 「 サッカー後進国 」 に対しては模範的な戦い方を示すことも、強くなった日本チームの使命かもしれない。


ちなみに、オマーンがどこの、どんな国か、ご存知だろうか。

地理的にはサウジアラビアやアラブ首長国連邦の隣に位置し、君主制による政体なので、国王が国家元首をつとめている。

非同盟中立を基本方針とし、中東和平の実現にも積極的に取り組んでいることが知られており、日本とは原油の輸入などを通じ、親交が深い。

以前、アラブ首長国連邦のドバイへ旅行する計画をたてた際に、隣にあるオマーンという国のことを詳しく知らず、調べたことがある。

さして、観光の目玉となるような施設もなく、石油産業に携わる人以外では行き交う日本人も少ないと思われるが、平和的な友好国だという噂だ。


イスラム教が信奉される中東地域においても、国によって世論や国民感情は異なり、必ずしも自由主義社会の敵ではない。

暴君の圧政に苦しみつつ、狂信的、妄信的にテロリズムへ加担する国家を平和的に封じるにも、「 まともな国 」 との親交を深めることは効果的だ。

スポーツと政治に因果関係を求めることは善しとしないが、文化的な交流を通じて、広く世界の国々と仲良くなれることは望ましいと思う。

過去においては、ビジネスサイズの規模や互いの役割が大きな尺度を占めていたように感じるが、これからの世界は、少し変わっていくように思う。

世界には、きっと我々があまり知らない文化や、素敵な人々がたくさんいて、良識ある人々の出会いは、明るい未来の創造につながっていくだろう。



2004年02月18日(水) レッツダンス


最近、街中で 「 踊っている若者 」 をよく見かける。

上手そうな人もいるし、そうでもなさそうな人もいるようだ。


駅の高架下とか、雑居ビルの前とか、場所はいろいろだが、それぞれ共通しているのは、大きな窓ガラスやドアがあるところだ。

どうやら、ガラスに映る自身の姿を眺めつつ、振り付けの点検などを行っているように見受けられる。

たいていは 3〜7人 ぐらいの集まりで、小型のラジカセから流れるリズムに乗せて踊るのだが、皆一様に真剣で、不真面目な素振りは感じられない。

そこらは、「 そんなところで勝手に踊ってはいけません 」 という場所が大半なのだろうけれど、それほど騒音も発していないし、迷惑も感じない。

それにおそらく、彼らの真剣な踊りっぷりも、それぞれの場所の管理をする人たちに、「 まぁ、大目にみてやるか 」 と思わせているような気がする。


彼らの踊りは、ストリートダンスというよりも、ダンススタジオでレッスンをしているような感じで、いわゆる 「 練習 」 みたいなものである。

つまり、どこかで 「 お披露目 」 をするための稽古なのだろうけれど、どちらかというと、プロっぽい子は少ない。

何かのオーデションを受けるのだとしても、かなり水準が低いようだし、かといって、文化祭や忘年会の出し物にしては、気合が入りすぎている。

だから、「 この子たちは、いったいどこで踊りを披露するのだろう 」 ということが、以前から気になっていて、いまだに答えがわからない。

たまに、尋ねてみようかと思ったりもするのだけれど、変なオジサンが来たと思われるのも嫌だし、ついぞ躊躇してしまうのである。


数年前から見かけているけれど、最近は少しづつ様子が変わってきた。

というのも、当初は男子が多かったような気がするのだが、特に駅前など、人通りの多い場所では、ほとんど女子しか見かけないようになった。

これは男同士ということもあるのかしれないけれど、たまに踊っている子と目が合ったりすると、男子の場合、少し照れくさそうにする子が多い。

女子の場合は、自分たちの踊りの世界に集中しきっている感じで、人通りが多くても、立ち止まって眺める人がいても、まるで気にしていない。

こういうところからも、女性は男性よりも肝がすわっていて、雑念に囚われず集中できる素養が備わっているのだろうかと感心してしまう。


若い時期に習得した芸能や技能を、年老いても体が覚えているということのたとえに、「 スズメ百まで踊り忘れず 」 という言葉がある。

ただ、この言葉は、どうも額面どおりには共感しにくい。

その昔、『 サタディ・ナイト・フィーバー ( 1977米 ) 』 という映画が流行った頃、私もディスコに足繁く通ったことがある。

しかし現在、当時はどのようなステップで踊っていたのか、まったく思い出せないし、それ以上に、何が楽しくて踊っていたのかさえ、まるで記憶にない。

人によっては、今も昔と同じように ( 同じ気分で ) 踊れるという人もいるだろうが、私の場合、それらの感覚を、どこかに置き忘れてきたようだ。


一番最近に踊ったのは、数年前、オールディズのライブハウスで、ロックンロールに合わせてツイストを踊ったあと、目当ての女性とチークを踊った。

ただ、この時はかなり酔っていたし、女性に接近する下心のほうが強かったので、踊り自体はどうでもよかったのである。

ひょっとすると残りの人生で、人前で踊りを披露することなど、まったく無いのかもしれないなぁと思う。

踊らないのはともかくとして、あんなに 「 フィーバー [ fever ] = 熱狂 」 した記憶すら失ってしまっているのは、なんとも淋しいかぎりである。

あるいは、人体のシステムというのは巧く出来ていて、昔を思い出して無茶しないように、体がついてかない記憶は消去されるものなのかもしれない。



2004年02月17日(火) コンビーフの欠点


昨日に引き続き、牛肉系食べ物の話。

深夜に食べ物のことを考えると、小腹が空いてしまうが。


アメリカに住んでいた頃から、私はコンビーフが好きになった。

日本人の多くはコンビーフを食べる頻度が少ないようで、「 コンビーフって美味しいよね 」 などと話しても、あまり共感してもらえない。

主に朝食の一品として、パンなどと一緒に食べたり、卵やポテトと和えたりしたものを食べていたが、意外と和食系の調理法にも適している。

自分で考案したレシピの中では、5cm 程に切ったニラと一緒に油で炒め、醤油で味付けをしたものが、簡単だが実に美味しい。

これを20年以上、1ヶ月に2〜3回は食べているが、おかずにも、酒の肴にもなり、まったく食べ飽きない。


ちょっと前に友人と回転寿司に行ったら、なんと 「 コンビーフ寿司 」 なるものがあって、試しに食べてみると、これがなかなか美味い。

たぶん、醤油との相性が良いのだろう。

ちなみに、スーパーの食品売場などに行くと、普通のコンビーフの三分の一ぐらいの価格で 「 ニューコンビーフ 」 という製品も売られている。

こちらは、安いだけあって風味が劣り、あまりお薦めできないので、ちょっと高くても質の良い製品 ( 当然、牛肉100% ) を選んでもらいたい。

他に、コンビーフを使った美味しい料理法をご存知の方は、ぜひともメールや掲示板で、教えていただけると幸いである。


昔から気になっているのだが、どうしてコンビーフの缶は、横からゼンマイのような器具でクルクルと回し切る仕組みになっているのだろう。

中身が取り出しやすいからだとは思うが、缶を捨てるときに切り口で怪我をしやすいことを思えば、普通の形のほうがよいのではないだろうか。

上からパカっと開けて、スプーンか何かでほじくり出せば済む話だ。

コンビーフ愛好家の私でさえ、そこだけは以前から気にいらない。

今夜は少し短めの日記だが、右手中指に貼ったバンドエイドのためにキーを叩きにくいので、これにて終了とする。



2004年02月16日(月) ビーフボウル


吉野家で牛丼が食べれない故に、傷害事件まで起きているという。

ニュースでも頻繁に取り上げられるほど、世間の関心は高いようだ。


私自身は、昔から 「 汁気が多い 」 ので好まないが、それでも一度や二度は食べた経験があり、あのポピュラーな商品が消えるとは思わなかった。

あの 「 安い、早い、美味い 」 というキャッチコピーは、なかなか秀逸であると思うし、低予算で外食できる独特のサービスは、社会的貢献度が高い。

丼物の中でも牛丼は、親子丼みたいに卵でとじなくてもいいし、家庭で作るには簡単なものだが、外食で安く食べられたところに意義がある。

牛丼チェーンの大半は、別メニューで対応するなどの方策をとっているが、付加価値をつけて高く売る手法では、従来の業績をカバーし難いだろう。

彼らの競合は、おそらく普通の外食産業などではなくて、コンビニの弁当や、カップ麺などの 「 低価格食品 」 ではないかと思う。


普段からほとんど食さないので、私自身は牛丼を扱う店舗がなくなっても、まるで不自由を感じないのだが、ヘビーユーザーには深刻だそうである。

それは、経済的な問題のみならず、「 あの味 」 に中毒症状を感じるほどのファンにとってみれば、「 高くても牛丼を食わせろ 」 という訴えに発展する。

現実に吉野家では、中央競馬場内の店舗など、一部の店舗に限って牛丼の販売を継続しているらしいが、遠方から駆けつける顧客で賑わっている。

味覚は人それぞれなので、私のように 「 汁気が多いから苦手 」 という人もいれば、逆に 「 通常よりも汁を多めにして 」 などと頼む人もいるそうだ。

いづれにしても、これだけの騒動に発展し、改めて牛丼チェーンが深く社会に浸透していたという事実に気づき、なかなかに感慨深いものがある。


今回の騒動に至った原因だが、もちろん米国産の牛肉に BSE の危険があると判断した役所の 「 輸入停止措置 」 にある。

私自身、つい最近も米国内で 「 アメリカ産とおぼしき牛肉 」 を食べてきたが、いたって健康であり、いまのところ何の異常も感じられない。

私の知るかぎり、現地で 「 BSE が怖いから牛肉を食べない 」 という動きもなかった様子だし、少なくとも日本みたいには騒がれていないようだ。

食品の安全性に配慮することは重要だが、今回の一件では少し 「 過剰に反応しすぎている 」 という気がしないでもない。

鶏肉も 「 インフルエンザ 」 の心配があるということで情報が錯綜し、一部地域からの輸入が停止された状況にあるが、今後どうなっていくのだろう。


政府は、アメリカ産牛肉を輸入停止解除する条件に 「 全頭検査 」 を挙げているらしいが、手間の割に効果的な方策といえるのだろうか。

私が米国側の交渉者なら、「 この前まで食べてたけど、一人も犠牲者が出てないじゃん 」 という事実をもって、抗議するような気がする。

まぁ、犠牲者が出てからでは遅すぎるというのも、もっともな考えではあるけれど、貿易の規模から考えると、慎重すぎるのもいかがなものか。

このあたりの判断や、考え方ひとつをとっても、日本という国は国際的評価や、グローバルな規範というものに従う意思が弱く、どこか孤立している。

それは、良いとも、悪いともいえないのだが、外からみれば 「 変わった国 」 だという印象につながっていることは、間違いないだろう。



2004年02月15日(日) 逃げるが勝ち


ずいぶん久しぶりの更新となった。

更新が滞っているのに訪ねられた方には、申し訳ない。


更新できなかった最大の理由は、PCが壊れた事情による。

詳しい人に調べてもらうと、どうやら “ ウイルス ” のせいだという。

それも、悪意をもった “ 誰か ” が、意図的に行った仕業ということで、なんとも憤りを感じる話であり、ちょっと憤慨している。

それが “ 誰か ” ということも、およその見当はついているのだが、そんな精神的に異常のある輩と争ったところで、あまり意味はない。

とりあえず、ネットに接続できるところまで復旧したので、日記のカテゴリーを変更して、再び様子をみることにした。


ホームページのアドレス等は以前のままなので、繰り返し嫌がらせを受ける可能性もあり、本当はサイト自体を引越しするほうが望ましいだろう。

ただ、そこまでして続ける理由もないし、元来、面倒なことが苦手な性分なので、そうなったら閉鎖するかもしれない。

それに、たぶん方法が間違っているのだろうけれど、サイトの表紙を更新するための接続が、なぜか、できなくなってしまった。

目下、本を読んだりして研究中なのだが、日記は更新できるのだけれども、サイトの表紙や、各部の設定をいじれなくなっている。

だから、サイトの表紙から訪れる皆様には、「 いつまでたっても、表紙が 『 獅子舞の絵 』 だね 」 と思われる状態が続くだろう。


ちなみに、この一ヶ月間は、けっこう変化の多い毎日を過ごした。

予定していたカナダへの旅行は実施できなかったが、友人やら、若い頃にお世話になった人を訪ね、一週間だけ西海岸へ行ってきた。

帰国後は職探しで、あまり多くはないがオファーを受けた企業を回り、規模は小さいが面白そうな仕事を見つけることに成功した。

おそらく、今月の下旬か、来月早々から始めることになるだろうから、PCをいじったりする作業も、それまでには完了したいと思っている。

それまでは 『 時期はずれの獅子舞 』 で、我慢してもらうしかない。


話は戻るが、他人のPCやサイトに嫌がらせをする方法は、それほどPCに精通している人間でなくても、簡単にできるのだというから驚く。

逆に考えれば、報復を企てたり、相手を探り当てて制裁を加えることもできなくはないのかもしれないが、そこまでする必要もないだろう。

こういうときは 「 Discretion is the better part of valor.= ( 逃げるが勝ち ) 」 というのが、正しい処し方だと思われる。

こちらに落ち度がなくても、サイトを移転するなどして、できるだけ関わらないように避けることが、最善策ではないだろうか。

悪事を懲らしめないのは、なんとなく不完全燃焼な感じもするが、そのような歪んだ精神の持ち主は、どこかで社会から制裁を受けるだろう。


この機会に、ちょっとサイト自体もリニューアルしたいと思っている。

パスワードがわからなくなってメンテナンスの滞っている 「 リンク集 」 とか、全体的に手抜きで稚拙な要素が多い。

日記のパターンも簡素化して、以前のような 「 名言集 」 も撤廃したい。

書くのに疲れるし、だいいち 「 ネタ切れ 」 である。

先達の名言は貴重な財産だが、いまの時代に合わないものもあるようだし、風化する言葉以外にも、現代を生きる道標はどこかにあるだろう。


WEBで公開する日記を書くようになったことの収穫は、いろいろある。

たとえば、日常の話題やトピックスについて深く考察したり、頭の中で文章にまとめる習慣などが身についてきたことも、そのひとつであろう。

もちろん、頭の中にしまっておいて書かなくても別にいいのだが、観察する → まとめる → 書く といった習慣は、頭の体操として理にかなっている。

他人の評価もまったく気にならないわけではないが、たぶん自分の場合は、そのあたりが 「 書くこと 」 の最大の目的になっている気がする。

そんなわけで、妬みや中傷から逃げつつ、今後も続けていきたいと思う。


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