「日記が更新されてない」って、言われちゃいました。えへ(>_<;)
「風邪ですか?」とか心配されたけど、 実はな〜んにも考えずに生きているので 書くことがないだけだったりします(ウソよん)。
ってなわけで、最近考えてること。
“人付き合いを頻繁にする=付き合いが良い=明るい=良いこと” “人付き合いをあまりしない=付き合いが悪い=暗い=悪いこと” って図式、どうにかなりませんかねぇ?
昨日書いたこととちょっと関係してるかも知れませんが。 ものごとには(私の場合)何でも二面性があって、 たとえば私がどうしておまじないグッズを持たないかというと、 それはカッコヨク(?)言えば 「そんな物で運命左右してたまるか!私を動かすのは私だ!」 ってとこですが、その一方で 「おまじないグッズで絶好調なら、それを失ってしまった時が恐い」 ってのも確実にあるわけです。 ところで“おまじない”って“お呪い”って書くんですね。こわっ。
わたしの周りには “必要とはしていない”けれど“そばにいてほしい”人 が、たくさんいると思う。
それはどういうことかというと…。
わたしのそばから「居なくなってしまうと困る!」 というほど大切な存在は欲しくない。
けれど、「居てくれると嬉しいなぁ」「居てくれて良かったなぁ」 と思える存在は素直にありがたい、ということ。
それはもしかしたら前に書いた “自由に生きるために、守る人はいらない” ということにもつながっているかも知れない。
その一方で“必要としていた人に裏切られるときが恐い” というのもあると思う。
わたしは基本的にこんな感じで人付き合いをしていますが、 人間関係が稀薄とかいうことはないですよ、たぶん。
でも理解してもらえない相手には寂しがられるのも事実。
2000年06月13日(火) |
信じるようにできている |
仕事の帰り、門の所で警備員のおっちゃんに飴玉をもらって ちょっとゴキゲン。おっちゃん、ありがとー!おいしかったよ。
人間っていうのは人のことを信用するようにできてるんだなー なんて思うんですよ。
「人の言うことなんか、もう信用しない!」って思ってても、 なにげなく日常会話してて「今朝、パン食べてたらさぁ…」って言われた時に 「ほんとか!?ほんとはパンじゃなくてご飯だったんじゃないのか?」 なんて思わないじゃないですか(笑)。
基本的に人の言うことは信用するようにできていて、 疑うには努力をしなければならない。
それってなんかカワイイなぁ、なんて思って。 人間ってほほえましいなぁと思っています。
毎回、選挙の時期になると 「とにかく投票に行きましょう!」系の呼びかけが 多いような気がするのですが、あれはどうなんでしょう?
スポーツじゃないんだから「参加することに意味がある」 というものでもないでしょう。
投票に行く人の中で、立候補者全員の政策や公約を調べて行く人が 果たしてどのくらいいますか?
そんなこともせずに行く人のいいかげんな票が多くの割合を占めて しまっているたくさんの投票用紙を開票した結果より、 きちんとした考えで入れた人ばかりの少ない投票用紙の結果のほうが、 よほど信用できるんじゃないでしょうか。
なんて偉そうに書いている私は、まだ選挙に行ったことはありません。
彼氏といっしょに歩いていたのね。 そしたら彼氏のマンションの管理人さんに会ったの。
管理人さんが彼氏に
「あんた、いまどきこんな良い娘おらんよー。 良い彼女つかまえたねぇ。大事にせなあかんよー。」
って言いはるんですわ。
二人して
「えっ!?なんでぇ?」
ですわ。
そしたら管理人さんが
「今どきこんな、つつましやかな娘さん、めずらしいわぁ」
って…。
そりゃあもう、二人して大爆笑さ。だまされすぎっ。
噴水とかシャワーとか、人工的に作る虹は その水が出ている時にできるのに、 なぜ空に自然にできる虹は雨上がりなのですか? 知ってる方、教えてください。
自分が正しいと思うこと・したいと思うことに 妥協せずに生きていくためには、 自分を守ってくれるもの・自分が守らなければならないものを 持たずに生きていかなければならない。
でも人間は誰かの役に立っているという実感を持たないまま 自己の存在意義を見出すことができるものなのでしょうか?
もしくは自分の存在意義を見出せなくても 生きていくことができるものですか?
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