部長motoいっぺい
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2002年03月31日(日) フィッシングツアー(その3)

嫁からの衛星電話は、僕に緊急事態発生を知らせるものだった。

その緊急事態とは、
























ガレージのドアが開かないの!(泣)



というものだった。

ガレージのドアが開かないということは、車が出せないというわけで、子供の送り迎えができないことを意味する。
当時はまだ子供が学校に慣れていないという理由で、スクールバスは使っていなかった。

子供の迎えの時間が近くなり、車を出そうとしたらガレージのドア(電動)が動かなくなったとのこと。

で、嫁はどうしたかというと、その日は約20分かけて学校まで歩いていき(With 娘)、終業の時間には間に合ったのだが、その後また問題が発生した。

嫁が学校に事情を説明して、帰りのスクールバスに乗せて欲しいとお願いしたところ、





















「スクールバス利用手続きをしていない子供は乗ることができない」

という杓子定規な理由により、スクールバスでの下校を断られてしまった。





絶望した彼女は、子供を連れて再び徒歩で家に帰ろうとした。
すると、一部始終を目撃していた息子のクラスメートのお母さん(キャサリン)が、

「私が車で送っていってあげるわ!」

と助け舟を出してくれたらしい。


嫁はお言葉に甘えて、子供達と3人で家まで送ってもらったという。
帰りの車の中で、嫁はキャサリンへの感謝の念と、それまでのアメリカ生活でのストレスが入り混じった複雑な気持ちが昂じて泣き出してしまったらしい。

キャサリンは何も言わずに、黙って家まで送ってくれたそうだ。
↑いい人です。ホントに。





















で、ガレージドアの方はというと、

駐在1号の奥さんに家まで来てもらって、とりあえず手動で開け閉めできるように指導してもらいました・・・スイマセン(汗)


2002年03月30日(土) フィッシングツアー(その2)

僕の乗ったヘリコプターは15人乗りくらいの、割と大型のものだった。
僕は副操縦席に座ることになったため視界がとても良かった。
↑っていうかほとんど、宙吊り状態・・(汗)

ナゼだかわからないが、あまり怖さは感じなかった。

飛行時間は約20分、ほとんどが海の上だったので、落ちてもなんとかなるかな?なんて馬鹿なことを思ったりしているうちに、目的の島に着いた。


その島は全くの孤島で、電気は自家発電、電話は衛星経由という、外界と遮断されたまさに

















フィッシングのためだけの島
↑設定的には金田一少年の事件簿に出てきそうな・・(笑)




その島に到着したのは、ほぼお昼くらいであったのだが、早速着替えて5人乗りくらいのフィッシングボートに乗りこみ、フィッシング開始。

前回書いたが、僕はそれまで釣りの経験が一切無かった。

とはいえ、ほとんど全ての作業を船頭さんがやってくれるので、要は魚が引っかかったら、リールを巻き上げると言う、まさに

上げ膳据え膳状態



釣り好きの人には、

そんなの釣りじゃない!

と罵倒されそうなフィッシングでした。


あ、そういえば書き忘れていましたが、カナダくんだりまで行って釣ろうとしているのは





















鮭=サーモン












いやぁ、日本の数百万はいるという釣りファンの皆さんが聞いたら、石をぶつけられるんじゃあないかと思うんですが、全くの釣り未経験者がカナダでサーモンフィッシング。
これでバカスカ釣れたら、本当に嫌味な話になってしまうところだが、やはり世の中そんなに甘くない。

結局その日は5時間くらい冷たい雨の中を粘ったものの、僕の釣果はゼロ。ヒットが一回だけという惨憺たるものだった。
まあ、3人のメンバーの中で、釣れたのは1人だけだったし、そもそも「上げ膳据え膳フィッシング」だから、僕の腕が良いとか悪いとかの問題じゃあない。
↑っていうか腕良いわけないし(笑)




翌日こそは、少なくともヒットくらいは楽しみたいなと、参加者と歓談しながら夕食を食べていると、僕あての電話がかかっている旨呼び出しがあった。




電話は嫁からの電話で、家に起こった緊急事態を伝えるものだった。

(以下次回に続く)


2002年03月29日(金) フィッシングツアー(その1)

この話は、まずは赴任前にさかのぼる。

内示が出たあと間もなく、駐在1号から会社に国際電話があった。
一通り赴任関係の話をした後、駐在1号はいきなり、


「ところで駐在2号君、君は釣りはやったことある?」

「いいえ、全く経験ありませんが・・」

「君たちが赴任してすぐに、○○社主宰のフィッシングツアーがあるんだよ」

「はぁ」

「いきなりで悪いんだけど、いろいろな所から人が集まるんで、出てくれない?」

「ええ構いませんが、どこへ行くんですか?」



















「二泊三日カナダの離れ小島への旅」(笑)


















というわけで、赴任後一ヶ月も経たないうちに、英語の話せない家族を残してカナダに行かねばならなくなった。


その離れ小島へはまずは飛行機で近くの空港まで行き、そこからヘリコプターに乗りかえて向かうという。

僕はそれまでヘリコプターに乗ったことがなかった。
乗る機会がなかったというのがその理由であるが、それ以外にもヘリコプターが怖いという気持ちも大きかった。

だって、飛行機はエンジンが止まっても滑空できるけど、ヘリコプターはそうはいかないじゃないですか。
↑正確にはオートローテーションという、エンジンが止まったときの降下方法があるらしいが、僕は信じない<キッパリ


とはいうものの、僕だけヘリコプターに乗らないわけにも行かず、ヘリの待合室にて説明を受けた。
一通りの説明を受けた後、何チームかに分かれてヘリコプターに乗り込むことになった。

すると、ヘリの係員が


「Mr. 駐在2号は、Co-Pilotね」

はぁ??Co-Pilotって副操縦士のことだろ?俺が操縦できるわけないじゃん!

「No, No! I'm not a pilot!」

と抗議したところ、




















一同大爆笑

↑単にパイロットの横の席に座れということだった(超恥)


2002年03月28日(木) プリスクール入園手続き(後編)

というわけで窓際のトットちゃんよろしく、日系プリスクールへの入園を見事に断られたウチの娘の行き先を急遽再考する必要に迫られた。
↑あ、トットちゃんは入園は出来たっけ・・(汗)

とはいうものの、ウチのおしゃべり娘に学校で静かにしていろ!というのは、どだい無理な話であって、彼女のような子供を受け入れてくれるところを探さねばならない。

困ったな、というのと同時に日系プリスクールに対する怒りが僕にもふつふつと込み上げてきた。

というのは、




















たかだか3歳の子供におとなしくしていろというのは、学校としていかがなものか!

という、まっとうなんだか親ばかなんだか分からない怒りである。

























ともあれ、僕はインターネットを使ってプリスクール探しを始めた。

すると、車で10分以内の近所に大小10箇所くらいのプリスクールがあることが分かった。
その中には、僕達が入会しようと考えていたフィットネスクラブに付属するプリスクールがあり、幸いなことに月曜日から金曜日まで週5回のプログラムがあるではないか。

午前9時から正午までの3時間のプログラムではあるが(前述したようにこれはごく普通)、最後の30分間は

毎日プール!

があるという。


日本では息子のみがスイミングクラブに通っており、彼女は水泳の経験は無かったが、近いうちに息子と一緒にそのフィットネスクラブのスイミングプログラムに参加させようと考えていたところであった。

僕は日系プリスクールへの怒りが冷めやらないホットな頭ではあるものの、このプリスクールへ娘を通わせようと嫁に提案した。


嫁は僕の勢いにまかせた提案に、

「そんな決め方でいいの??」

と戸惑い気味であったが、翌日プリスクールを見学することに同意した。






翌朝

僕達はフィットネスクラブにプリスクールの見学に行った。
























夏休みでプリスクールはやっていなかった・・(とほほ)
























とはいうものの、中の設備は見せてもらい、あらかたのプログラムについて説明を受けることができた。

しかし僕には一つだけ不安な点があった。というのも、毎日スイミングがあるということから、コーチの英語での指示を理解できない子供が、このプログラムに参加できるのか?といった問題点である。

僕はその懸念を正直にクラブ側に伝えた。

すると、


「英語が分かったって、どの子も言うこと聞きやしないわヨ」
「子供はすぐに言葉を覚えるから大丈夫」

という、めちゃめちゃ楽観的な答えが返ってきた。






僕は嫁に

どうする?

と尋ねた。

嫁は、

どうせプリスクールが始まってもう一度見学したって、何も分かりゃしないんだから、





















今入れてくれるんなら入れてもらっちゃいましょう!

と豪快なことを言った。
↑だんだん彼女もアメリカ化しつつあるような・・・(汗)





















というわけで、彼女は無事プリスクールに入園することが出来た。


2002年03月27日(水) プリスクール入園手続き(前編)

アメリカではKindergarten入園前(日本で言う年少・年中)の子供達が通うのは、
プリスクール(Preschool)
↑形態によってPre-Kinder/Nursery/Day Care等とも呼ばれるが違いはよく知らない

と呼ばれる保育園である。
ほとんどの場合が、午前のみまたは午後のみであり、しかも週5日ではなく月水金または火木であったりする。

ウチの娘は日本では幼稚園年少組にあたる年齢であったが、年中組から幼稚園に入れるつもりだったので、それまで幼稚園に通ったことはなかった。
↑とはいうものの兄についていって、我が物顔で幼稚園を走り回っていましたが(笑)


彼女は下の子かつ女の子ということも理由なのであろうが、

よくしゃべる


よく言えば、耳がよくオウム返しがとても上手で、彼女に関しては英語の習得についてあまり心配はしていなかった。
また性格的にも

超社交的

であり、異国の地でどのようなグループにまみれても、明るく過ごしていくだろうと思っていた。



そこで僕達は、彼女には敢えて日系のプリスクールに通わせ、帰国してから日本語に不自由しないようにしてあげようと考えた。

以前にも書いたが、僕達の住む街には日系のElementary Schoolがあり、そこにプリスクールが併設されている。Elementary School同様、半分日本語・半分英語というプログラムで運営されている。

当然ながら日本語の話せる先生もおり、嫁が娘を連れて見学に行くことになった。
僕は仕事があったし、日本語で手続きが出来ると言うことだったので、見学には行かなかった。



当日夜、僕は家に帰ってから嫁にプリスクールの感想を聞いた。

「どうだった?プリスクール」





















「お断りされました」


「はぁ???」





















「ウチの娘は元気過ぎて、学校の中で静かにできないので入園をお断りされました」(激怒)




















「OH MY GOSH!」
↑駐在2号ワンポイント英会話
OH MY GOD!が有名だが、割とGOSHもよく使われる。
ウチの秘書いわく、OH MY GOD!>OH MY GOSH!・・・らしい


2002年03月26日(火) 幼稚園入園手続き(家庭訪問)

予防注射未了のままではあるものの、息子は幼稚園への入園許可をなんとかもらった。


数日後・・・


学校から一本の電話が入った。

「息子さんの担任が決まりました。名前はミス・アンジェラ(仮名)です」
「2日後に家庭訪問をするのですが、良いですか?」


ヲイヲイ、それはまた急な話だなあと思いながらも、僕は仕事にあまり影響が出ないように、午前中の時間を予約した。






当日・・・


予定の時間を30分過ぎても、担任は来ない・・・(汗)

電話で日付または時間を聞き間違えたかなぁ
↑常に英会話に自信がないヤツ

と思っていると、彼女から電話が入った。


「いやぁ、前の家が長引いちゃって・・遅れちゃいました」
「ところで、家どこですか?」


















どこですかって、あんた調べとらんのかね!

と、心で叫んだものの、電話では至極おだやかに自宅までの道のりを説明した。



10分後

彼女はスクール・カウンセラーと呼ばれる女性と二人で我が家に現れた。するとなんと、



















「ハジメマシテ、ワタシハ、ミス・アンジェラデス」

と日本語で自己紹介をした。
となりで息子が目を丸くしていた。


話を聞くと日本に教師交換プログラムで数ヶ月滞在したことがあるという。
彼女自身、大の東洋ひいきだということで、胸にはなぜか



と書かれたペンダントをしていた。


彼女には僕達がアメリカに来たばかりで、息子はまだ英語が話せないことや、息子が日本の幼稚園でどのような生活を送ってきたか、何が得意かなどを話した。

彼女からは、彼女が以前にも外国人の子供を受け持った経験があることや、クラスに日系の女の子が一人いるので、彼女の近くに席を配置してくれるということだった。

その家庭は、日本人の父親と米国人の母親と二人の女の子という構成であり、ミス・アンジェラは、上の女の子を昨年担任していたとのことであった。彼女いわく、その姉妹は完全なバイリンガルなので、ウチの息子の手助けをできるのではということを言っていた。また米国人の母親も流暢な日本語を話すということだったので、何かあれば電話で相談すればよいと助言してくれた。



ミス・アンジェラが帰ったあと、息子がポツリとこういった。



















「日本語がしゃべれる先生で良かった」


「・・・・・(汗)」



















息子よ。君は間違っている。


2002年03月24日(日) 幼稚園入園手続き(予防接種)

息子の幼稚園を近所のPublic Kindergartenに決めた僕達は、早速入園手続きをすることにした。

アメリカのPublic Kindergartenは、通常Elementary Schoolに併設されており、実質的には小学校0年生といった扱いになる。字も覚えるし、算数もする、また宿題もでるので、ほとんど小学生といっても過言ではない。

そこで僕達はElementary Schoolに行ったのだが、夏休み期間中のため学校には人っ子一人いやしない。
かろうじて事務室に張り紙がしており、入学・入園手続きを開始する日付だけが書かれていた。





入園手続き開始当日

入園手続きは、学校の事務室で所定の用紙をもらうだけ(後日事務室に届けにくればよい)という簡単なものだったが、何も知らない僕達は4人そろって学校の事務室に行ってしまった。

すごすごと家に帰って、いろいろな用紙に記入を開始したのだが、予防接種に関する質問票の記入になって困ってしまった。

というのも、





















アメリカの方が入学前にしなければならない予防接種が多い!




日本では必須ではない、おたふく風邪やB型肝炎の予防接種をしなければならなかったり、必須な予防接種も回数が多かったりしていた。





















まずい、このままでは入園できん・・・(汗)










僕達は早速子供を病院に連れて行き(もちろん日本人医師)、ことの事情を説明した。
当然ながらこのようなケースは僕達だけではなく、他の駐在員家族においても毎年発生しており、医師は慣れたもので、

とりあえず、順番に射てるものからやっていこう!

と気楽なものだった。
↑補足:医師によっては一回に4本注射するツワモノもいるそうな・・


学校に提出する予防接種の質問票には、不足ではあるもののウソを書くわけには行かず、不足のまま提出した。



















後日、学校の事務室から僕に電話が入った。


「お宅の息子の予防接種が規定より少ないんですが・・」

僕は

「日本から引っ越してきたばかりで、今は予防接種が足りないのは分かっているけれども、ホームドクターと相談して計画的に接種を進めていくので、ちょっと待って欲しい」

と必死に状況を説明した。

学校側は、スクールナース(養護教諭みたいなもの)とドクターの間で相談をさせて結論を出すと言って、電話を切った。




















翌日、学校から

入園を許可

する旨、連絡が入った
↑めでたし、めでたし


2002年03月23日(土) 幼稚園選び

ロサンゼルス旅行3部作の完結となるロサンゼルス旅行(後編)を3月18日の日記として追加しましたので、よろしければこちらもご覧下さい。




息子は幼稚園年長組の8月に、アメリカに引っ越してきた。
ご存知のようにアメリカは9月が学期初めになる。

彼は9月生まれのため、アメリカでの幼稚園年長を最初からやり直すことになった。もし彼が8月以前の誕生日であれば、来てすぐに小学校1年生(Elementary School 1st Grade)になるところであるが、なにしろ言葉がわからないのだから、僕達夫婦は幼稚園(Kindergarten)のやりなおしのほうが良いと感じていた。

Kinder選びは以下の選択肢が考えられた。

1.公立のKinder
2.私立のKinder
3.私立の日系Kinder


実はウチの息子は、日本にいるときから言葉の発達が遅れ気味だった。


「子供は言葉を覚えるのが速いからいいね!」

と聞いてきたようなことを言う人が多いが、一般論として大人よりも速いであろうことは認めるものの、かなり個人差が大きいと思う。

特にウチの息子に関しては速い英語の習得を期待できず、彼の受けるであろうストレスを考えると、半日英語・半日日本語というプログラムを用意している日系のKinderに行かせようかと夫婦で相談していた。

しかし、一方で、

「どうせゆっくりしか英語を覚えてこないのだから、いっそのこと最初からアメリカの環境に放り込んでしまえ」

という考えも捨てきれなかった。


結局、



















お金のかからないアメリカ公立のKinderに入れてしまいました



この選択が良かったかどうかは7ヶ月たった今でも分からない。
しかし、人生の選択の全てがそうであるように、
違う選択をした場合を想定してどちらがどうとか語ってみたところでしょうがない
と僕は思うたちなので、今、目の前で起こることに対し、最善を尽くそうと思う。

息子は、全く言葉の通じない世界に放り込まれたのだが、そのことで泣いたりせずに毎日Kinderに通ってくれている。




















偉いぞ!息子よ
父は君のことを誇りに思う




















駐在2号のワンポイント英会話
英語で幼稚園のことをKindergartenと言いますが、Kindergardenだと思っている人って結構いるんじゃあないかな。
↑実は自分がそうだったりする・・(汗)


2002年03月22日(金) 車の購入(その4)

最近、夜の会食が続いたため、日記の更新が滞っておりますことをお詫びいたします。

ロサンゼルス旅行(前編)を3月17日の日記として追加しましたので、よろしければこちらもご覧下さい。




僕達夫婦は車の購入において、どうしても予算オーバーになることに頭を痛めていた。
とある日、僕と嫁はあるアイディアをほぼ同時に思いついた。

それは・・・



















今乗っているカムリ(18万キロ超)をそのまま乗り続ける

という、一見無謀なものであった。

しかし、実はこれには理論的な裏付けがある!
↑そこまでのものか?というツッコミは無しと言うことで


確かに今乗っているカムリは距離は走っている。しかし年式で言えば96年式と決して古い部類ではない。それに加え、嫁が車を運転する場所は学校の送り迎えと、近場の買い物程度に限られているため、今後距離をそれほど伸ばすとは考えられないのである。また、仮に故障をしたとしても街中あり、それほど危険に遭遇するとも思えない。

この点に気がついた僕達は今のカムリを嫁が乗り続け、新車で購入するスバル・フォレスターに僕が乗ることにして、大幅な予算の削減を達成することが出来た。


あとは値引き交渉であるが・・・




















はっきり言って、自分が値引いてもらった額(確か1500ドル程度)が正当なものか、ぼったくられているかは今だに分からない(車がモデル更新直後だったことも値引き幅を低くしているようである)。
しかし、車を購入する当時は、いろいろなことが一気に押し寄せてきて疲れ切っている時期であり、正直なところ、



















500ドルくらいでごちゃごちゃ揉めたくない!

という気分であり、割とあっさりとサインしてしまった。

セコイ我が家にしてこう思わせてしまうのだから、海外赴任がいかに大変かを垣間見てもらえると思う(笑)



















【つけたし】

ご存知の方も多いとは思うが、アメリカではディーラーにおいてある車をそのままその場で購入することが多い。

我が家の新車もディーラーの駐車場の中から、気に入った装備のものを選び、そのまま僕が運転して帰ってきた。


2002年03月20日(水) 車の購入(その3)

車の購入の話の前に・・・

ロサンゼルス旅行未遂事件
を3月16日の日記として追加しましたので、よろしければこちらもご覧下さい。




トヨタのディーラーで、嫌な思いをした僕は、その後ホンダのディーラーとスバルのディーラーを回った。

自称、ホンダファンの駐在2号としては、ホンダCR−Vが値段的にも手ごろだったので試乗をしてみることにした。日本でCR−Vを買おうとしたことが無いのでよくわからないが、こちらでは2000CCのCR−Vしか売っていないようだ。

試乗をしてみたところ、以下のようなところに引っかかりを感じた。

1.上り坂でパワー不足を感じる
2.シフトレバーが、コラムシフト(ハンドルの根元に取り付くレバー方式)
3.クルーズコントロールの操作がしづらい
4.値引きがしてある車の色(ベタ白)が気に入らなかった


3番目が分かりづらいかもしれないが、これはハンドルについているボタンでスピードのコントロールをするものである。アメリカのフリーウェイを走る上で必須と言って良いと思う。
CR−Vのクルーズコントロールの操作において違和感を感じたのは、キャンセルスイッチが無いことだ。つまり、自動でスピードをコントロールしているとき、何らかの事情で自動コントロールを解除するには、ハンドル以外の場所についているマスタースイッチをOFFにするか、ブレーキを踏むしかない。

実は僕が以前に日本で使っていた車にも、同じ装置がついており、高速道路でたまに使っていたのだが、以前からキャンセルスイッチが欲しいなと思っていた。ただ、日本においてはクルーズコントロール自体をあまり使わなかったので、それほど大きな問題とは捉えていなかった。

しかし、これから毎日使うとなると、この違和感が結構大きくクローズアップされるような気がしていた。

まあ、CR−V自体は、そこそこ良い車だったので、簡単な値段交渉を行い、後日連絡すると言い残して店を出た。




















別の日


僕は、スバルのディーラーに行った。
お目当てはOUTBACK。
OUTBACKとは、日本で言うところのレガシーとインプレッサにあたると思うのだが、レガシーはレガシーブランドとしても売っている。というわけで、僕はいまだにレガシーとOUTBACKの違いを理解していない。

OUTBACKの値段を聞くと、25000ドルほどであり、やはり予算をはるかにオーバーしてしまう。

諦めて帰ろうとしたところ、フォレスターが目にとまった。フォレスターの方が高いのだろうと思ったが、念のため値段を聞いてみると、定価で23000ドルほどだと言う。











をを!OUTBACKよりも安いではないか!

夏にキャンプを行うことを想定し、ミニバンまたはSUVが良いなぁと思っていた僕には、まさに渡りに船。



しかも、CR−Vで不足点として感じていた
1.上り坂でパワー不足を感じる→パワフル2500CC
2.シフトレバーが、コラムシフト→フロアシフト
3.クルーズコントロールの操作がしづらい→キャンセルスイッチ付き
4.値引きがしてある車の色(ベタ白)→色は自分で選べる

という改善点に加え、

5.CR−Vよりも公称燃費が良い!という

いたれり尽くせりの車であることが判明した。












自称ホンダファンの僕の心は、一気にスバル・フォレスターに傾き始めた・・



しかしながらやはりこの時点でも、嫁の車を買うことを考えると予算オーバーになることは避けられなかった。


2002年03月19日(火) 4日間の空白について

いま、飛行機の中でこの日記の原稿を書いています。

せっかく僕の日記を読んでくださる方が少しずつ増えてきたというのに、4日の間もお休みしてしまった。
それもこれも全部、























MSNが悪い!






実は渡米して初めてのバケーションをとっていた。


3泊4日ロサンゼルステーマパーク巡り


旅行先にもノートパソコンを持参し、日記を書こうと思っていたのだが(もちろん仕事もしまっせ)、何故だかダイアルアップ接続が、ユーザー認証のところで途切れてしまう。
MSNとは以前からいろいろとトラブルがあるので、今度日記のネタにしようと思うが(笑)、とにかくどうにもこうにも接続できなかった。

というわけで、4日間の空白が生じてしまいました。

ロサンゼルス空港のロビーにはインターネット端末が設置されており、12分間3ドルで接続してくれる。プライベートメールはMSNのウェブメールでチェックできるので、日本語が読めるかどうかは定かではなかったが、試しに3ドル払ってウェブメールにアクセスしてみた。






















案の定文字化けしてダメだった(涙)



唯一分かったのは、義理の父からメールが3通入っていたこと。送信元メールアドレスで確認できた。
多分、義理の弟のところに子供が生まれたのであろう(祝)
3通目のメールが長かったので、一通目と二通目は「まだ産まれない」という途中経過。
3通目は産まれた報告ではないかと推測される。

仕事に関するメールについては、ホテルからダイアルアップにて会社のネットワークに接続できたため、特に問題はなかった。

ロサンゼルスでの出来事はバックデートで日記として記録しておこうと思いますので、よろしければご覧下さい。

1.ロサンゼルス旅行未遂事件

2.ロサンゼルス旅行(前編)

3.ロサンゼルス旅行(後編)


2002年03月18日(月) ロサンゼルス旅行(後編)

そんなこんなで、無事ロサンゼルスに行くことが出来た我が家は、それからの3日間をテーマパーク巡りに費やした。

初日:ナッツベリーファーム
二日目:
ディズニーカリフォルニアアドベンチャー
三日目:
ユニバーサルスタジオ

この手のテーマパークは、嫁子供が好きなパターンが多いと思うが、ウチの場合は僕が一番の

テーマ−パーク好き!

ではないかと思う。

残念ながら僕達が行ったときのロサンゼルスは結構寒く、嫁は楽しみながらも寒さのため、疲れた表情を見せていた。
娘は歩くのに疲れたらしく、後半は抱っこをせがんだり、抱っこされたまま眠ってしまったりもしていた。
長男はもちまえの体力を活かして、一番楽しんでいたように見える。


僕達が訪れたテーマパークは、かなり有名なものばかりなので詳細の説明は省くが、簡単に紹介すると・・・

ナッツベリーファームは、小さな子供も乗ることが出来る乗り物も多いので、小さな子供がいる場合に特におすすめである。

ユニバーサルスタジオについては、解説するまでも無いが、大人も楽しめる映画の都である。洋画ファンであれば、2倍3倍の楽しみ方があるのではないかと思う。

ディズニーカリフォルニアアドベンチャーについては、ディズニーランドの横に最近併設されたテーマパークであり、その名の通りカリフォルニアをテーマにしている。観覧車がユニークで、観覧車の中心方向にゴンドラが滑っていき、その反動でゴンドラがゆらゆらブランコのように揺れるという、不思議なものである。

個人的採点としては

1.ユニバーサルスタジオ
2.ナッツベリーファーム
3.ディズニーカリフォルニアアドベンチャー

といったところであろうか。



もう、おなか一杯っていうほど、テーマパークを満喫した僕達(僕と長男だけ??)は、帰る日の午前中にサンタモニカとリトル東京の観光をした。

リトル東京には日系のスーパーがあり、僕達の住む町の日系スーパーの半値ほどで日本の食材を売っていたため、嫁は随分といろいろなものを買い込んでは喜んでいた。

午後1時頃、空港に着きレンタカーを返し、午後3時頃の便に乗る予定であったが、ここでまたもや事件は起こった。



















月曜日の日中のクセに満席


ということが判明したのである。

もちろん事前に確認した段階では、

空席があった

のにである。

残された便は、午後6時の便と午後8時の便。僕達はもちろんこの便を待つしかなかった。



















午後6時

事前情報では空席ありのこの便も、

なぜか満席・・・(涙)



ヤバイ、あと一便しかない・・・(汗)

しかしながら、どうすることもできないので、僕たちはじっと次の便を待った。



















午後7時頃

僕はスタンバイリストの中に僕達の名前が入っていることを念のために確認するため、カウンターに行った。

すると、



















「Here we go!」

なぬ?これってもしかして・・・


「空席があるんですか?」

「大きな飛行機に変更になったから、大丈夫よ」



















おぉぉぉぉぉぉ!(嬉)
↑歓喜の雄叫び





というわけで、無事その日のうちには自宅に戻ることが出来た。





















荷物だけをロサンゼルスに残して・・・


2002年03月17日(日) ロサンゼルス旅行(前編)

というわけで、2月にロサンゼルスに行き損ねた我が家は、3月にそのリベンジをすることにした。

今回の旅行は前回の反省を踏まえ、以下の点に注意した。

1.週末の移動は避ける
2.学校が休みの週間は避ける
3.朝一の便を狙う

幸い3月15日金曜日は、現地校がProfessional Dayなるもののためお休みであり、いつもは日本語補習校のある土曜日も、すでに卒園済みのため学校はなかった。
そこで、金曜日朝一出発で月曜日の日中に帰ってくる計画とし、僕は金曜日と月曜日に休みを取り、息子は月曜日のみ休みを取ることにした。

朝一の便に乗るためには、我が家を早朝5時に出る必要があったため、子供達は洋服を着せたまま寝かせることにした。


















当日早朝

予定通り僕達夫婦は午前4時20分に起床し、出発の支度をした。子供達は意外にもあっさりと目を覚まし、自分達で歩いて車に向かってくれたのでとても楽だった。

空港に着きチェックインを済ませ、出発ゲートの近くで朝一の便を待った。
搭乗開始時刻になり、予約済みの乗客が次々と飛行機に入っていくが、私達家族の名前は呼ばれない。前日の予約状況では、朝一の便は空席ありになっていたのに・・・(汗)

全員の搭乗が終わり、アナウンスが流れた。


「この便は満席になりましたので、スタンバイ者のリストは次便以降に持ち越されます」























ヤバイ・・・・・(焦)


朝一の便に乗り損ねたことだけが僕を焦らせた訳ではない。僕は





















次の便も満席


ということを知っていたのだ。
カウンターで予約状況を確認すると、やはり次の便は満席で午後4時の便までは乗れそうも無いと告げられた。

隠していても仕方が無いので、僕は嫁にその旨を報告し、

「一回帰ってまた出直そうか?」

と提案した。

すると、

「じたばたしても仕方ないので、まあ空港にいましょう」

と彼女は落ち着いて言ったため、僕達はそのまま空港に残ることにした。

ちなみに、嫁と息子はこの時点でロサンゼルスは諦めており、車でどこに行こうか話し合っていたらしい。



















次の便の搭乗時刻(午前9時)


続々と予約客が飛行機に乗り込んでゆく。
僕はゲートの近くで一応スタンバイしていた。

大方の乗客が乗り込み終えたあたりで、スタンバイ客らしき人が呼ばれている。
そういえばゲートの近くでスタンバイしている、ベビーカーに子供を乗せた家族3人にも見覚えがある。

そんなことをぼんやり思っているうちに、その家族の名前がアナウンスされ、彼らは喜んだ表情を見せていた。



いいなあ・・・(羨)


と思っていると、なにやらゲートのあたりが険悪な雰囲気になっている。何事かと思って耳をそばだてると、家族3人が別々の席になると言われて抗議をしているようだ。

「小さな子供がいるのに、どうやってバラバラに座れって言うのよ(怒)」

ああ、そういえば僕達も
赴任の時の経由便で同じことを言われたなあ・・中に入ってから替わってもらえばいいのに・・と思っていると、彼らは散々文句をいった挙句に、乗らずに去っていってしまった。

すると、




















「Passenger 駐在2号」
↑駐在2号ワンポイント英会話
空港で「お客様の○○様」というところは、「Passenger○○」と呼ぶ

と僕の名前が呼ばれた。





















「おぉぉぉぉぉぉ!(歓)」


完全に諦めていた9時の便に乗り、僕達はロサンゼルスへ向かうことが出来た。



















無論、機内で座席を替わってもらったことは言うまでも無い


2002年03月16日(土) ロサンゼルス旅行未遂事件

3月15日から18日にかけて、3泊4日のロサンゼルス家族旅行に行って来た。

この旅行で起こった出来事については、17日と18日の日記に記すが、その前に2月の

ロサンゼルス旅行未遂事件

について触れねばなるまい。





州によって違うのかもしれないが、僕の住む州には2月の中旬にMid Winter Breakなるものがあり、学校は1週間お休みになる。

これを利用してロサンゼルス・テーマパーク巡りを計画した。

現地校はお休みになるものの、日本語補習校(毎週土曜日)は休みにはならないため、土曜の午後に学校が終わると同時に空港に向かい、ロサンゼルス行きの飛行機に乗る計画を立てていた。帰りは火曜日を予定していた。

家族4人でロサンゼルスに飛行機で行き、ホテルに泊まり、レンタカーを借り、テーマパークを巡るという荒行を行うと、当然のことながら金がかかる。
そこで少しでも旅費を安く上げるため、僕は禁断のチケットに手を出してしまった。

それは




















スタンバイ・チケット




知る人ぞ知るこの悪魔のチケットは、空席があれば乗ることが出来るが、空席がなければ乗ることが出来ないと言う、まさに一か八かの




















ラスベガスもびっくり

一発勝負チケットである。



しかしながら僕には勝算があった。
というのも、2月の中旬と言う閑散期に、

飛行機が満席になるはずがない

という駐在2号理論である。

もちろん事前に空席状況は毎日ウェブでチェックをし、乗ることが出来る午後の3便とも空席があることは確認済みであった。


子供には約2週間前からロサンゼルスの遊園地に向かうことは伝え、



















「言うことを聞けない子は、ロサンゼルス旅行の時にお留守番させるぞ!」

という、どの家でもやるような(もしかしてウチだけ?)脅しをかけるとともに、遊園地のガイド等を見せて期待をさせていた。





















当日


予定通り日本語補習校をお昼頃に終え、空港に向かった。
チェックインカウンターで、スタンバイであることを伝え、乗れそうかどうかカウンターの係員に聞いてみた。

すると、彼女はにっこり微笑み



















「VERY GOOD!」

と言う。


フッ・・さすが俺<自画自賛モード

そのまま荷物を預け、厳しくなったと言う金属探知機へと向かう。

可能な限り金属物を外したつもりが、検査精度が厳しくなったせいか、僕も嫁も金属探知機で引っかかってしまった。

ひとたび金属探知機にひっかかると、手足を広げて大の字に立ち、詳細にボディーチェックをされる。

僕と嫁が同じようにボディーチェックを受けていると、隣でウチの娘がニコニコしながら




















大の字になって、係員のウケをとっていた・・・(汗)

笑えるぞ、ウチの娘。。。



と、ここまでは順調にきていたのだが、タイトルからも分かるとおりその後は





















結局全便満席で乗れなかった(哀)








息子は

「なんで僕は乗れないの!飛行機乗りたかったーー(号泣)」

と悔しがって泣き叫んだ。


息子よ覚えておけ。お父さんが悪いんじゃあ無い。全部




















貧乏が悪いんだ。






















その後


飛行機に乗れなかったため、荷物を引き取りにバゲージクレームに行ったところ、




















荷物だけがロス旅行していた・・・(涙)




翌日、空港で荷物を引き取った後、そのまま車で3時間くらいかけて隣の州に小旅行に行き、ゲームセンターに毛の生えたようなファミリー・ファン・センターというところで子供達をあそばせた。

子供達はテーマパークとの桁の違いに気づいておらず、楽しく遊んでいた。
これが、小学校中学年以上だったら





















ショボイところでごまかすな!

と言われるところかもしれない。


2002年03月15日(金) 車の購入(その2)

6900ドルでDさんの車を購入した僕は、赴任当日からその車を使用することになった。

引越しのドタバタで夫婦ともに疲れ果てていたが、車が無いことには嫁が外出できずに精神衛生上よろしくないので、初めての土日にはもうディーラーめぐりを始めていた。

この時点では一台のカムリを下取りに出し、二台の新車を購入する計画であった。これであれば、結構ディーラーも値引き交渉に応じるのではというもくろみもあった。

ところで皆さん、





















アメリカに軽自動車が走っていないのを知っていますか?



走っちゃいかんというルールがあるかどうかは不明だが、少なくともこれまでに僕の周りで見かけた一番小さい車は、1300CCの車である。

新車を二台買う決心をした時には、嫁用にはなるべく安い・小さい車(日本で言えば軽自動車みたいなもの)を買おうと思っていたのだが、いざインターネットで調べ始めたところなんと、
























軽自動車がない・・・(汗)


一番安い新車は、トヨタのECHOであったが、それでも税込みで























14000ドルもする・・・・ヲイヲイ、日本では上位車種のカローラだってもっと安いってば


仮に僕の車を20000ドル程度のものにするとなれば、合わせて























34000ドル≒400万円超!・・・破産だな、こりゃ・・(涙)





とはいうものの、ディーラーに行けば値下げ交渉や、Dさんから6900ドルで買ったカムリの下取り交渉で、予算内に収めることができるかもしれない、という淡い期待を抱いて、まずはトヨタのディーラーに向かった。


まずは下取り交渉。Dさんが僕に売った6900ドル程度で引き取ってくれれば、多少は予算に余裕が生まれる。
早速見積もりしてもらったところ、下取り価格はなんと、























4000ドル程度・・・Dさんウソつき・・(涙)




ディーラーのおじさんいわく、





















ブルーブックどおり下取りしとったら、商売あがったりや!
↑無論大阪弁ではない


とのこと。

駐在2号のワンポイント英会話:下取り=Trade In

















確かにDさんは

「もし、下取り価格の方が僕の売値よりも安かったら、差額分払い戻すから」

とは言ってくれていたが、まさか




















3000ドルも払い戻すことになる

なんぞきっと思いもよらないであろうし、僕もとても請求しにくいなぁと思っていた。




それでも僕は気を取り直し、新車の値下げ交渉を開始した。

しかし、どうも僕達家族はお金に縁が遠い、怪しい東洋人に見られたらしく
↑あながちハズレでもなかったりするが・・




















この値段で買わんのなら、お前らに売る車はないゎ!

みたいなことを早口でまくし立てられたため、僕達は早々にその店を引き払った。





それ以来、その店のマークがナンバープレート・ホルダー(注)に入った車を見ると、乗っている人が悪いわけでもないのに、なぜかとても






















ムカツク(怒)



【作者注】

多くの車のナンバープレート(ライセンス・プレートという)は、購入ディーラーの名前が入ったプレート・ホルダーについています。


2002年03月14日(木) 車の購入(その1)

アメリカで生活する場合、車がなくても生きていける都市というのは、ニューヨークぐらいではないかと思う。
↑ってニューヨーク行ったこと無いけど。

僕の住む街もご多分にもれず、大人が不自由なく生活するためには一人に一台の車が必須である。

そんなわけで僕の前任のDさんも、奥さんとご自分の分と2台の車を所有していた。一台は6万マイルほど走った94年式カローラ、もう一台は11万マイル以上走っている96年式カムリであった。

日本では10万キロまたは10年以上経過した車は、お金を払って引き取ってもらう必要があるのではと思うのだが、なにせ車大国のアメリカ、10万マイル(16万キロ)ごときはまだまだ現役と捉えるのが普通のようである。

しかしながら、僕はこれまでの駐在経験者や研修生としてアメリカに住んだことのある人々から


「車だけはケチっちゃいかんぞ」
↑みなさん結構イタイ思いをしているラシイ・・


と釘を刺されていたのもあり、2台とも新車を買う覚悟を決めていた。
Dさんには早々にその旨を伝えてあったのだが、赴任直前にDさんから

「悪いんだけど、カムリ買ってもらえない?」

という泣きの電話が入った。

Dさんいわく、カローラは地域新聞の売りますコーナーに出した広告が元で、第三者に売ることが出来たのだが、カムリはまだ引き取り先が決まっていないとのこと。
96年モデルとはいえ、18万キロほど走ったカムリに難色を示す僕にDさんは、

「新車を買うなら、カムリを下取りに出せば良いんじゃない?」

と、とにかく一旦引き取って欲しいという。というのも、新車購入とセットでないと「帰国しなければならない」という足元を見られて買い叩かれるからだとのこと。

さらにDさんは、

「もし、下取り価格の方が僕の売値よりも安かったら、差額分払い戻すから」

「下取り価格の方が僕の売値よりも高くても、それはそれでいいから」

とかなり好条件を出してきた。

確かに僕も赴任してすぐに車を買う手続きを「車無し」または「レンタカー」で行うのは面倒だなと思ってもいたので、結局カムリを買うことに同意した。

ところで、引き取り価格はというと




















6900ドル≒90万円(当時)
18万キロ走った車にこの価格!日本の皆さん信じられますか?


アメリカには中古車引き取り価格の相場を示す「ブルーブック」という有名なWeb Siteがあり、そこに車種・年式・装備品や程度を入力すると、業者引取り価格や個人取引価格が示される。Dさんの言い値はこのブルーブックを準拠にしていた。

また、アメリカにおいては中古車価格が日本に比べてとても高い。裏を返せば、どんなにお金が無くても車が無くては生活できないという環境において、「走ることができる車」に対する価値が高いということである。

もし、この状況を知らずに値段だけ言われたとすれば、僕はDさんが尊敬すべき先輩であることを忘れて、




















このボッタクリ野郎!

と叫んでいたに違いない。



【追記】

駐在間での車の申し送り(売買)は結構一般的ではあるものの、大方の場合後任の駐在が先輩駐在に対し、ボッタクリ感を感じるようである。


2002年03月13日(水) ソファーの購入

電話会社との闘いはひとまず置いておくとして・・・
↑現時点で「その10」くらいまで語れるネタを持っていると思う(笑)

我が家は日本にいたときはいわゆるラブソファーというものを持っていた。
しかしながら、このソファーは新婚当時に嫁の友人からプレゼントされたもので、
子供が家の中にいることを前提としていない
ソファーであった。
というのも、色は薄いベージュ(キナリ)であり、かつソファーには洗えるカバーがついていない。

洗えない薄いベージュ色の生地のソファーがどのような運命をたどるかについては、
子供がいるご家庭では容易に想像がつくと思う(笑)

おまけにこのソファーは非常に軽く、子供でも持ち上げて壁に立てかけることができたため、末期には滑り台と化していた・・(涙)

汚れきった、かつ中身の形が崩れたこのソファーは、引越し時に廃棄処分としたため、僕達はアメリカでソファーを買うことにした。


ソファーを買うにあたっては、将来お客さんが来た時にベッドとなるようなものを中心に検討を加えた。

とある日曜日、僕達は数件の家具屋をまわりソファーベッドを物色したが、どれも


アメリカンサイズ


の巨大なものばかりであり、日本に持って帰ることを考えるとなかなか購入に踏み切ることが出来なかった。

さらに数件の家具店をまわり、ついに僕達は僕たち好みのシンプルなソファーベッドを見つけることができた。
しかもクリアランス品であり、今まで見たどのソファーベッドよりも安かった。

腰掛けた感じも若干ひざの方が持ち上がる感じで、深く腰掛けることが出来て快適であったし、ベッドとしても身長174cmの僕が体を曲げずに横になることが出来る優れものであった。

僕達はその場で購入を決め、2日後の火曜日に家に搬入してもらうことにした。


ところで、アメリカにおけるデリバリーはせいぜい午前または午後の指定しかできないと思ってよい。
↑フランスでは日にちの指定しかできない!とフランス人の駐在仲間がこぼしておりましたが・・・

この家具屋も例に漏れず、10時から2時の間に行くとアバウトなことを言っていたので、嫁には火曜日のその時間に家にいてソファーを受け取るように頼んだ。嫁は若干不安げであったが、まあ頼んだものを家に入れてもらうだけだったので、何とかなるだろうと夫婦とも思っていた。


火曜日の夕方、僕は嫁に電話をした。

「ソファー届いた?」

「いや、まだ届かないのよ・・」

というわけで、僕は家具店に電話をかけた。すると、

「届けに行ったんだけど、いなかったので・・」

嫁に再度確認すると、昼食を買いに行く間のわずかな時間だけ家を留守にしたらしい。
僕は再度家具店に電話し、翌日は嫁がいるのでソファーを届けて欲しい旨お願いをした。








次の日










僕は昼過ぎに嫁に電話をした。すると嫁いわく家具屋から電話があったので、

「アイ・キャント・アンダスタンド・イングリッシュ・バット・アイム・ホーム」

と言ったところ、





















「Ha-Ha-Ha」
と笑われ、電話が切れたと言う。そしてソファー自体もまだ届いていないとのことだった。
嫁いわく




















「失礼しちゃうわ」(怒)

と怒っていたので、彼女の怒りを鎮めるためにも、僕は早々に帰宅した。

するとなんと、





















ソファーが無事届いていた(祝)
↑要は人がいるかどうかの確認電話だったようだ





















【追記】

家に搬入されたソファーベッドは、やはり
アメリカンサイズ
であった。

どうやらこの時点で既に僕達の目のアメリカナイズが始まっていたらしい・・・(汗)


2002年03月12日(火) 電話会社との闘い(その3)

【はじめに】

大変ありがたくも、どなたかが私の日記に一票を投じてくださったことを本日確認いたしました。今後とも皆さんに楽しんでいただける日記を続けようと(今のところ)心に誓っておりますので、ご愛読のほどよろしくお願いいたします。




運転免許がないと携帯電話の契約ができないという携帯Shopは早々に退散し、僕は同じショッピングモールの中にある別の携帯Shopへと駆け込んだ。

「携帯電話契約したいんだけど」

「身分証明書みせて」

ここまでは、前と同じだ。

「パスポートでいいですか?」

「大丈夫だと思うよ」



ほらみろ!そもそも運転免許がないと携帯が買えないなんて、Not Make Sense(←駐在2号ワンポイント英会話:道理に合わないこと)だぜぃ!

と僕は心の中でガッツポーズしていた。

ところが、そのガッツポーズもつかの間・・・



















「やっぱり運転免許がいるよ・・」

と、店員は僕にすまなさそうに言った。

彼いわく、携帯電話会社へのOn Line登録システム上、どうしても運転免許証番号を入力する必要があるとのこと。運転免許がないと携帯が買えないという不合理さに彼も同情してはくれたものの、システム上そうなっているのでは仕方が無い。

「Sorry about that...」
↑駐在2号のワンポイント英会話
悪いね!というニュアンスで使われる言葉




運転免許をとるまで、携帯は買えないか・・・と諦めて店を出る時に、店員が僕にアドバイスをくれた。

「このショッピングモールの中に、携帯電話会社の直営店があるから、相談してみるといいよ」

僕は彼の言葉にいちるの望みを託し、直営店へと向かった。

直営店で僕は運転免許がないけど、携帯電話を買うことができるかどうか率直に尋ねてみた。店員は少し困った顔をして、同僚と相談をしているようだった。
すると一人の店員が、僕のポケットにある携帯電話を指差し、それはなんだ?と尋ねた。

僕は、これは会社の携帯電話で、僕に貸与されている旨を正直に答えた。
すると・・



「OK!携帯電話を売ってあげることができるよ!」

なぬ!?

売ってくれるのはありがたいが、どういった理由で売ることができるのか、僕は尋ねてみた。

彼いわく、
会社の携帯電話の契約にくっつける形で、一台携帯電話を追加するとのこと。
それじゃあ、会社に個人の携帯電話代を押し付けることになるので、それは困ると言ったところ、請求先は別にできると彼は言った。



これで無事、我が家の嫁用に携帯電話を買うことができたのであった。



後日・・・
携帯電話の請求は、無事我が家にやってきた。
ところが、ひとつだけ些細ではあるがやはり問題があった。
というのは、



















請求先宛名が会社の携帯電話と同じく秘書の名前になっていました。
これって支払わないと、秘書のクレジットヒストリーに傷がつくんだよね・・・


2002年03月11日(月) 電話会社との闘い(その2)

自宅が圏外だという衝撃の事実を知った僕は、翌日早速携帯Shopに言って解約を申し出た。

解約手続きでもめるかなぁ・・と少々憂鬱だったのだが、意外にも解約自体はスムーズに行った。
契約費用と携帯電話代の返金は支払った銀行口座に戻り、保証金250ドルに関しては30日から45日後に小切手で返却されるとのことであった・・・。
↑この続きはまた後日(まだ先が長いので)


自宅の固定電話と同じ会社の携帯電話が圏外であったため、僕は別の携帯電話会社にすることにした。
書き忘れていたが、駐在員には業務連絡用として携帯電話が一台ずつ貸与されている。僕に貸与されていた携帯を自宅で確認すると、

アンテナ3本きちんと立っている!
↑当たり前ですね・・(汗)

というわけで、会社と同じ携帯電話にすることにした。




次の休日、近くのショッピングモールにあるいくつかの携帯Shopで値段を比較し、最も安いところで契約することにした。

「携帯電話欲しいんですけど」

「じゃあ、身分証明証を見せて」

「パスポートで良いですか?」

「いや、運転免許証でないと・・」

「国際免許証ならあるけど・・まだこの州の運転免許取りに行ってないし・・(汗)」

「免許がないと契約できないわ」

「・・・???」

「運転免許持ってない人は携帯買えないの?」

「別の会社と一旦契約したけど、免許証いらなかったヨ」

「ちょっと、会社の方に確認してみてよ」




















「I'm Positive!」
↑駐在2号のワンポイント英会話
間違いない!私は自信がある!という表現。学校では習わなかったような・・・





というわけで、本日の教訓























運転免許をもたない者は人にあらず by アメリカ合衆国



追記
じゃあ、子供はどうやって携帯を買うんだよ!って聞いたら、親が契約する!って返されちゃった・・


2002年03月10日(日) 電話会社との闘い(その1)

新居の電話申し込みは、Web Siteから行った。
今から思うと大変不思議なのだが、何事もなく電話は入居日から使用できた。

ところで、

最近はいろいろな国の人が日本に住んでおりますが、彼(彼女)らって、結構携帯電話持ってるって思いません?
お世辞にも余裕のある生活をしているとも思えない人々までが、携帯電話を持っていたりしますよね(ちょっと差別入ってるかなあ?)

でも、アメリカで生活するようになって、このナゾが解けました!
↑勝手な思い込み90%



彼らは言葉の通じない異国で不安だから、携帯電話を持っている<断定モード



いやぁ、多分間違いなくそうなんですよ。
そりゃあ、英語に不自由しているうちの嫁だって、外出くらいしますよ。買い物もしなければならないし。
アメリカで外出と言えば、ほぼ間違いなく車での外出。となると

ガス欠、故障、事故・・・

といったリスクと向かい合う必要があります。そんな貴方に


携帯電話!



というわけで、嫁に携帯電話を持たせることにしました。固定電話の会社で、携帯電話も取り扱っているため、嫁用に携帯電話を買うことにしました。

これまたWeb SiteでShopを見つけ、携帯電話を買うところまではスムーズに進みました。ところが・・・・家に帰ってみると




















圏外でした(涙)
↑どこに住んでるんだ!っていうツッコミは無しで


2002年03月09日(土) 諸手続き(米国編)

日本でも引越しを行うと、電気・ガス・水道・電話・学校等々、いろいろなところに開設届や住所変更届を出さなければならない。

もちろんアメリカでもそうなのだが、日本では文書でこれら手続きを行うことが多いのに対し、ナゼだかアメリカではこれらの手続きを電話で行うことが要求される。または、申込書を送ってもらうのに電話をかける必要がある。
























電話・・・・(汗)























日本であれば、面倒な書類を書かなくても良いと気楽に構えられるのであるが、なにせここはアメリカ。




相手が英語が苦手そうだとわかっても、決してしゃべるスピードを緩めない人々が住む国。





考えても見てください。あなたが日本にいて、外国の人からカタコトの日本語で話かけられた場合を。

すこしはしゃべる速さを手加減しようってもんが、人の情けっちゅーもんじゃぁ、ありませんか。
























でも、ここはアメリカ・・・(涙)






















しかし、アメリカにはもう一つの顔がある。
























IT大国




















そうだ!Webで申し込みをすれば良いんだ!
というわけで、英語の練習にならないのを分かっていながら、

「こんなところで、疲れて挫折している場合じゃあ、ないしな」

と、小学生高学年でも思いつきそうな言い訳を自分にしながら、粛々とWeb Pageでの申し込みを進めたのであった。


しかしながら、全くこれら文明の利器を使用しない、手強い相手もやはり存在する。それは、






















ゴミ収集業
























僕の住む地域では、民間業者が市の委託を受けゴミ収集業を行っている。
この会社は、一切の手続きを電話で行うことを僕に要求した。
日本でさえ、ゴミの捨て方を示すパンフレットは結構面倒くさいのに、アメリカかつ電話での英語でそれを理解して契約することは不可能に思えた。

そこで僕は、


「よく分からないので、パンフレットを送ってね!」

と丁重にお願いをした。
すると、彼女はキッパリと





















「パンフレットなどない!」

と言い切るではないか(絶望)




















そして彼女は、一方的に説明を始めた。

各種手続きの中で一番複雑であったゴミ収集業者の説明が、もっとも早口だった(涙)


さて、ここで問題です。
次の質問をごみ収集業者からされた時の僕の頭の中を想像してみてください。



問い)
何ガロンのゴミ箱で契約するの?


























答え)
ガロンって何リットルだったっけ。っていうか、リットルで聞かれたとして、何リットルのゴミが我が家から一週間の間にでるか、分かるかっちゅ−の(怒)


2002年03月08日(金) 引越し完了!

引越し荷物は、日本での引越し日の約10日後に新居に到着した。

引越し屋の話によると、大方の会社の引越し荷物は船便とのことで、米国まで10日で到着というのはとても速いのだそうだ。


ところで僕は日本に持ち家(戸建)を持っている。
4年前に思い切って30年ローンで買った大切な我が家だ。

もともと自宅に友人を呼ぶのが好きな僕は、自慢の新居に人を呼び、

「広いねぇーこの家!」
陰の声「ここまで遠いと広い家が建てられるんだな」

と言われるのがとても嬉しかった。

しかしここはアメリカ・・・

















日本から持ってきた家具がミニチュアのように見えるのはナゼ?(血涙)












追記

アメリカの家具屋に行って家具を見ているときに、

「この家具とっても良いんだけど、ちょっと大きいね・・・」




















「日本の狭い家には持って帰れないから買えないね!」


というのはやめてください(泣)>奥さんへ



2002年03月07日(木) ホテルに缶詰め

締め切り間近の作家が、ホテルに缶詰めになるという話を聞いたことがある。
僕も実はホテルに缶詰めになったことがある。
むろん、僕は普通の会社員であり作家先生ではない。

缶詰めになったのは、今からさかのぼること約4年前。会社の出張でのことだ。
僕はある国際会議に出席をするため、フロリダ州オーランドのとあるホテルを訪れていた。

宿泊もそのホテル。

朝食もそのホテル。

昼食もそのホテル・・・


















夕食もそのホテル。(血反吐)







ホテルへは空港からレンタカーではなくホテルのトランスポーテーションを使って入ったため、外出しようにも自由が利かない。歩いて外へ出ようにも、歩いていける範囲に何も無い・・・(涙)

ホテルの窓から遠くディズニーワールドがかすんで見えるが、歩いていくのは自殺行為といえた。

というわけで、僕は米国随一のリゾートであるフロリダのホテルで、3泊4日缶詰めになったのであった。



なぜこの忌まわしい記憶を呼び起こしたかと言えば、赴任直後の家族の状態が、ほぼこれに近いものがあったからだ。





















ホテル暮らし♪






一見ハイソな響きがするこの言葉も、実際やってみると結構大変なものであることが良く分かる。
特に子供がいると、ホテルで一日過ごすのは

修行といっても過言ではない。


ホテルは赴任先のダウンタウンにあったが、周り(歩いていける範囲)に子供をつれて観光する場所は、唯一小さな遊園地のみであり、一回行けばもう充分なほどであった。また何回も遊園地に行って乗り物にのるのは子供の教育上良くない。(別名:銭がかかる)


毎日仕事を定時に切り上げ、ホテルに直行したのだが、ホテル暮らしのストレスと時差から来る疲労により嫁の機嫌は芳しくなかった。

そこで僕たち夫婦は話し合いをし、朝僕が会社に行く途中に、何も無い新居に家族を連れて行き、帰りにピックアップすることにした。

これにより、嫁のストレスが随分と緩和されたと思う。

ホテルと自宅とで環境が大きく異なるところは、

子供がある程度騒いでも気を遣わなくて良いところと



















床に横になれること。
↑マジで影響大


2002年03月06日(水) ホテル暮らし

荷物が届くまでの一週間程度は、ホテルへの滞在が認められる。っていうか、荷物なしで生活するにはホテルしかありえない。

僕と駐在3号は全く同時に赴任したのだが、その時既に前任は帰国した後であり、すなわち駐在1号のみが駐在室で業務を行っている状態だった。

もしかしたら赴任翌日から出社する必要はなかったのかも知れないが、駐在1号からの無言の圧力


「はよう出社せんかい!」(脅)


とうものを感じていた僕たちは、赴任翌日から業務を開始した。

書き忘れていたが、駐在3号には奥さんがいる。もともとは奥さんと一緒に渡米する予定であったが、おばあさんの体の調子が良くないといいう理由で渡米を延期したため、この時駐在3号は単身であった。
彼はホテルにいても別にすることはないから、会社に行ってもたいして苦にはならないと言っていたが、さすがに楽天家の僕も、渡米まもない家族(かつ英語によるコミュニケーションが期待できない)をホテルに残し、会社に行くことに一抹の不安を覚えていた。

赴任翌朝、僕は時差ぼけの残る家族をホテルに残し、会社へと向かった。

この時点では、嫁は携帯電話も持っていないし、何かあったときの僕から嫁への連絡方法はなかったわけで、楽天家の僕も不安を感じていた。

赴任直後の業務と言うのは、あいさつ回りや申し送られた業務内容の把握、等々なんやかんやとあるもので、あっという間に定時退社時刻になった。

僕は速攻でホテルに戻り、家族と夕食をともにした。


ところで、これも書き忘れていたが、僕は完璧な




















和食党

である。





赴任が決まった時も嫁には



















「パン食べられないくせに・・」

となじられた覚えがある。


ことわっておくが、パンが食べられないわけではない。



















「ご飯とラーメンがこの上なく好き!」

なだけである。


僕は家族をホテルから連れ出し、ホテルの近くの和食レストランに入り、お寿司を注文した。

しかしながら・・・お寿司のシャリは




















酢飯ではなかった(涙)


2002年03月05日(火) 到着!

飛行機は予定より約1時間半遅れて目的地に到着した。
ここでロストバゲージなんてことになったら、そのまま嫁は怒って帰っちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、荷物は無事に出てきた。

空港へは会社が手配したバンが、到着が遅れたにもかかわらず予定通り迎えに来ており、僕たちは一路駐在1号の待つ駐在室へと向かった。

駐在室までの道のりは僕が出張にてたびたび通った道だったので、嫁や子供に案内をしたのだが、嫁は疲れからかあまり気の無い感じだった。後で聞いたことだが、到着した時嫁は


「アーア、ほんとに来ちゃったんだなぁ・・」

と窓の外を見つめ思っていたらしい。


そうこうしている内に、駐在室のあるビルのロビーにバンはついた。
ロビーから駐在室に電話をして、駐在室にエスコートを依頼する電話をかけた(まだ身分証明書がないため)。

すると、駐在室からは見慣れない若い外人(米国人)女性が僕たちをエスコートに来た。僕は秘書が交代したと駐在1号が言っていたことを思い出した。

「あなたは、新しい秘書さんですか?(英語)」

「ソウデス。ハジメマシテ(くどいようだが英語)」

僕は思った。




















前の秘書より100倍いい!(嬉)











僕たちは駐在1号に赴任の挨拶を済ませ、前駐在が僕に「売りつけた」車に乗ってホテルに向かった。


2002年03月04日(月) 飛行機にて(経由便)

最初に衝撃的なことがあった割には、飛行中は大きなトラブルもなく快適なフライトだった。

息子は出来もしないテレビゲームに夢中になり、娘はお母さんに本を読んでもらったりしていた。そうこうしているうちに、疲れたのか子供たちは眠ってしまった。

乗った飛行機には「バーカウンター」がついており、子供たちを座席に残したまま僕たち夫婦は久しぶりに二人きりでお酒を飲みながら、とりとめのない話をした。


ところで目的地までの道のりであるが、赴任地までの直行便はとれなかったため、経由便になった。
乗り継ぎ空港では、子供は時差と飛行機に長時間乗ったことによる疲れでぐったりしていたが、追い討ちをかけるように乗り継ぎ便の出発が1時間半くらい遅れた。

ようやく乗り継ぎ便のチェックインが始まったものの、今度は空港係員が

「4人がバラバラの席になる」

と平然と僕たちに言い放った。
ただでさえ、子供たちとバラバラになることは不可能であると思われるのに加え、悪いことに乗り継ぎ便は昼の便のため昼食がついていた。そこで、





















「子供たちとバラバラで、どうやってランチを食べさせろっちゅーねん!」
(無論大阪弁ではない)
と抗議したところ、




















「ここではどうしようもないから、飛行機の中で誰かに替わってもらえ」

と、あっさりと言い返された。






















ああ、ここはアメリカ・・・











さらにもらった航空券を見ると、前方2席・後方2席と全く離れており、嫁のフォローをしようにも、位置関係上どうしようもない。

「子供がいるので席を替わってください」という意味の英語を嫁に教え、僕と娘は後ろの席に先についた。僕は僕で、周りの人になんとか席を替わってもらい、娘と隣あわせの席に着くことができた。
僕は嫁と息子のことが気になり飛行機の前の方を見たが、よく状況はわからなかった。

飛行機を降りた後、嫁にどうなったのかを尋ねたところ、






「最初の人には断られた」(怒)























「その上、スチュワーデスに早く座れと怒られた!」(激怒)





















ああ、ここはアメリカ。













お願いだから、嫁の対米感情を悪化させないで(哀願)


2002年03月03日(日) 飛行機にて(離陸)

さすがに赴任の飛行機は、会社もビジネスクラスを手配してくれる。
(前泊は認めなくても・・<結構根に持ってる)

嫁はビジネスクラスに乗るのは初めてで、結構嬉しそうだった。
しかしながら、30年生きてきた嫁は良いとしても、

5年・3年しか生きていないガキどもがビジネスクラスに乗るのはいかがなものか!

と思ったのは僕だけではあるまい。



ところで、その事件は成田から飛び立つ直前に起こった。













「おしっこ・・・」by娘

「・・・・・」(汗)


ご存知の方も多いと思うが、飛行機の離着陸時に座席を離れることは、絶対に許されない。
飛行機は既に滑走路に対面しており、もはやスチュワーデスさんに子供のおしっこをお願いする場面ではなかった。
僕は娘をしっかりと抱きかかえ、最悪の事態に備えタオルを娘に当てた。
娘は

「おしっこ!!」(叫)

を連呼する。

しかし離陸してまもなく、娘から衝撃の告白があった。





















「もれちゃった・・」







「・・・・・」(涙)






















人はこれを前途多難と呼ぶ。


2002年03月02日(土) 出発!

我が家から成田空港までは電車で約30分ほど、さほど遠くはない。

空港には余裕を持って約3時間前に到着した。
僕の両親も見送りに来てくれた。

さすがにいつも能天気なうちの両親も僕も、多少感傷的になっていた。

親父はあまり感傷的な時間を過ごしたくなかったようで(僕もそうだったが)、僕たちのチェックインが終わるや否や、

「じゃあ、帰りの飛行機があるから帰る」

といって、チェックインカウンターの道路側で僕たちを送り出した。
嫁は耐え切れずに僕の母親に向かって泣き出し、母親も泣き、また横で親父も半泣きの状態だった。そして僕も。

僕たちは、入場ゲートに向かって歩き出し、両親は空港駅に向かって歩き出した。
ゲートに入る前に道路側を見ると、チェックインカウンターの向こう側から両親がこちらを見ていた。

僕たちは子供たちを抱き上げ、全員で大きく手を振った。


2002年03月01日(金) 赴任準備(お引越し)

引越しは二日にまたがることになった。

普通の引越しと違うのは、税関提出用の書類が山のようにあることだ。
書類には荷物の内容と個数を記入する欄があった。
引越し業者によると「雑貨」と書いてはいけないとの事で、いわゆる雑貨を詰めた箱には、その中の代表的なものを記載した。

きちんとしているんだか、していないんだか分からないが、普通に生活していれば雑貨は山のようにあるわけで、まあしょうがないと思う。


引越しには、僕の両親が手伝いに来てくれた。
引越しの手伝いもさることながら、孫(僕たちの子供)たちの相手をしてもらったのがとても大きい。

何しろ、5歳児と3歳児のすることといったら、全ての行動が


邪魔!(叫)

の言葉で片付けられるのだから。




我が社の場合、引越し当日の夜の宿泊代の請求は認められない。つまり、

「引越しが終わったその足で空港に行け」

というポリシーのようだ(泣)

さすがに、当日の便に乗るのは不可能であったので、ホテルに宿泊しようかと思ったが、両親の分と併せて宿泊すると結構な持ち出しになるため、


貸し布団を借りて何も無い家に泊まりました

我が家ってセコイ??


次の日は、引越しそばを近所のそば屋で食べ、みんなで空港に向かいました。