どんぐり1号のときどき日記
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雨が降ったり止んだりである。
昨日めまいと吐き気がするというので父親が近所の病院に行っていたのだが、そこで日曜になっても治まらなかったら、救急車を呼んで広南病院で脳の検査をするように言われていた。結局朝になっても治らないというので、その通りにする事にしたのだった。 病院に行ってみると、日曜だというのにかなり混んでいる。救急なので診察は早かったが、点滴もするために時間がかかる。とりあえず危険な状態ではないという結果になったが、念のため一日入院となり、一日バタバタする。判ってはいるが、入院というのも大変なものだと改めて実感してしまった。 しかし医者はともかく、看護婦が大変だと思う。どんな職種でも、最前線の実働部隊要員は大変なのである。患者はわがままなのだし。
一段落した夕方になって、PCを買った店に行って状況を説明すると、OSの再インストールで直るかもしれないとの事だった。なんだか時間の無駄をしてしまったように思う。結局ウインドウズとは、どこまでもユーザーをなめたソフトなのだろう。 いずれもう今日はできないので、明日以降、どんぐり2号に任せる事にした。再インストールで治るようなソフトの破損なら良いが、ハードが物理的に壊れていたら交換が必要になるので、とにかく原因を確定させないといけないのである。
そんなこんなで、この二日間は何もできなかったという感じがする。このままというのも癪なので、夜になって万代書店へ行ってみたら、なんと「頑丈人間スパルタカス」の全4冊セットで580円というのを見つけたので購入。1〜2巻は持っているが仕方がない。 しかしこの作品は、いかにも安永航一郎的下品で低俗な作品なのだが、この時期の他の作品と違って妙に面白いと感じていたのである。それで今回全巻買ったのだが、作者のコメントを読むと本当に楽しんで描いていたそうで、前後して描いた作品は苦痛だったのだそうだ。 それがストレートに伝わってきたから楽しめた訳で、確かにこの時期の彼の作品はあまり欲しいとは思えなかったのだが、その理由が判ったのだった。デビュー時からつきあってきたので、作者の心理は読めていたという事なのだろう。
朝から雨だ。そして粗仕事だ。 と言う訳で、土曜だというのにこちらの支店はバタバタとしている。もちろん事務だけが、だ。まあ営業が土曜に暇そうにしているのはいつもの事で、時間と光熱費のムダである。 そして福島の尻ぬぐいのために、こちらの課長が打ち合わせに行った。月末だというのに人員を1人取られたのだから、本当に困るのである。月曜の月初も朝からそちらに行くので、こちらは人員不足になる。知らんよ。
さて、ようやく押井監督などによるオムニバス作品「「斬〜KILL〜」が7月に発売決定となった。最近はこういうマイナーな作品の映画館での上映も東京のみというケースが多くなり、ますますソフトへの依存度が高まってしまう。大きな期待をしているソフトではないが、ちょっと興味のある作品もあるので、早く見たいのである。まあ押井監督の作品も入っているので、無条件に買うのだが…。 だがやはり映画というのは大きなスクリーンと良い音響で観たいではないか。
そんな夜にモンティ・パイソンの日本語吹き替えヴァージョンを見る。最初の1枚だけだが、やはり面白い。 この中で、ピカソが自転車に乗って絵を描くというスケッチがあるのだが、場所の説明の中に「バターシー」と「ソールズベリー」が出てきて、ちょっと嬉しくなる。「バターシー」はピンク・フロイドのアルバムである「アニマルズ」のジャケットにもなったバターシー発電所のあたりだし、「ソールズベリー」はユーライア・ヒープのアルバム「ソールズベリー」で、ここはイギリス陸軍の演習地でもある(日本でいうと、富士の演習場のようなものか?)。だからジャケットに戦車が出てきても、当然のように違和感がないのである。
だからどうしたと言われると困ってしまうが…。
2009年05月29日(金) |
死ななきゃ治らないのだ |
またPCが不調だ。今度はネットにまったくつながらないのである。 どうもLANボードがやられてしまったらしいが、困った事にマザー・ボードのオン・ボードなので、簡単には交換できない。う〜む。こういう時、朝早くから夜遅くまでいなければならない会社というのは、平日には何もできないのが本当に不便である。
その会社の福島支店で事務課長が倒れ、来週検査入院だそうだ。職場から突然行方不明になり、30分以上してから戻ってくるなり倒れ、支店内に人がいないため、大騒ぎになったのである。 これは通常なら同情するパターンだが、コイツに関しては同情するつもりは全くない。むしろ倒れるくらいなら死ねば良かったのにと思うくらいで、そうすれば本店側もちゃんと動いてくれるからだ。企業とはそういうものなのである。 とにかくこの課長は、社員の健康管理責任者でありながら、以前から自分には脳に小さな血栓があると公言し、ならば医者に行って体調を万全にしなければならないのに、病院に行く時間がもったいないからと怠り、しかも自分の仕事を代行する人間を育てていない。だから今回は、こちらの支店から人を送る事になってしまったのである。普段時間がもったいないとバカな事を言いながら、いざとなれば他人の時間の無駄遣いをさせている。本物のバカである。 上の連中はすべて営業上がりだから、事務から急に人を取るという事がどれだけ大変な事か判らないので、簡単に仙台から人を行かせれば良いというが、それでこちらの仕事が滞れば怒り出すから本当に迷惑なのだ。 いずれすべては自己の健康管理をまったくせず、仕事も自分勝手にしかやっていないこのバカ課長が悪い。私の前の上司だから、どれだけバカが充分に判っているし、他の連中も色々と言っているような奴なのである。
世の中には惜しまれて亡くなる人が多いが、こういう迷惑なのも存在する。多分今後も同じような状況を招くのは明白で、そういう性格の奴なのである。そしてそれがどれだけ周囲に迷惑をかけているか判っていないし、そもそも判ろうとしていない。死につながる病気を持っていて、会社ではそれなりに責任がある立場なのに、何も対策をとっていないのには本当に呆れるばかりだ。 それなりにいつも気をつけてるなら同情もしようが、自分がどれだけ周囲に迷惑をかけているか判っていないのでは同情のしようがない。 人の病気に対して腹が立つケースはそう多くはないが、こういうタイプは絶対に学習しないから本当に迷惑だ。
昨夜、帰宅途中で会社の若い奴が横断歩道を青信号で渡っている時に車にはねられた。つまり100%相手の不注意だ。 しかし今回の事故がなかなか厄介なのは、加害者がとんでもないバカ野郎だという事だ。にわかには信じられないが、加害者のくせに人をはねたという意識が全くないのである。なにせ現場検証での会話からして変なのだ。
バカ「私はスピードを出していない」 警官「いや、あなたは人をはねたんですよ」 バカ「いや、私はそんなにスピードを出していない」
保身に走るあまり、人をはねたという意識が完全に欠落ししまっているのだ。だから完全に話がずれているのだが、バカだけあってその方向性を微塵も曲げる気配がない。本物のバカである。 そしてこんなのをなんとかできない警察も警察だ。後は当人同士で解決しろという方向に持ってくる。今の警察に、もはや状況に介入するだけの能力はないし、そうなると存在意義などない事になる。ひき逃げがなくならないのも当然なのだ。
ところで一昨日から、ローソン等でエヴァ祭り(違うのか?)が始まったそうだ。 例によってあこぎな商法だが、好きで買っている人も多いのだろうから、別にどうでも良い。売る方も売る方なら、買う方も買う方で、自由経済とはそうしたものだろう。 そして会社でも、早速ファイルをもらってきた奴がいた。聞くと5種類すべて確保したらしく、話をしていたら「自分はレイのファンだ」そうである。まあ別に構わないが、50が近い人間としては、なかなか気色悪いものがあるのも確かだ。 ちなみに私はあのキャラクターを「レイ」とは呼ばない。正放送の時からずっと「綾波」と呼んでいたのである。やはりエヴァのキャラは旧日本海軍の戦艦などから取っているので、ここは綾波と呼ぶのが正しいと思うのだが。 等とこだわる方もどうかしているが…。
午前中に休みを取って親の病院へ送り迎え。 親も高齢になると、肉体的に動くのも大変になってくるから、色々とフォローが必要になる。だから本来、いつまでも働かなければならない社会というのは、異常なのである。親に何かあっても休めないような社会がマトモな訳がないのだが、それに気づいていない、というより無視している経営者だけになってしまったのが現在の日本経済だ。 国際社会はもはやデフレが基調であり、以後インフレになる事などあり得ないのだが、それに対する対応策を全く考えられない日本経済は、崩壊に向かうしかないだろうに…。
昨日シュルツが亡くなっていたという知らせがあったばかりだが、同じSFつながりで、栗本薫が亡くなったとNHKの昼のニュースで流れていた。昼時とは言えNHKのニュースで流れたとは、なんだか意外である。グインのアニメをやっているせいか。 一応同世代のSFファンでもある彼女も、ガンと戦い続けていたのは周知の事実で、それ自体は大変だったろうし、一つの時代を作った人だという意味では大した人である。
ただ、56歳だとの事だが別に早すぎた死だとは思わない。もちろんただの人として考えた場合には早すぎるが、作家としてはとっくに終わっていた人なのだ。ここはヒロイック・ファンタジーを日本に定着させた功労者である、とかマルチに精力的に活動したSF作家である、と言うような褒め言葉にとどめておく方が適切だ。 例えばエド・マクベインなど本当にこれからという所で他界したし、筒井康隆が今亡くなれば、私はまだまだ早いと思う。要は本人の実年齢ではなく、作家としての才能が残っているかどうかで早すぎるかそうでないかが決まるのだ。 プロの作家とはそう言う扱いを受けるものだろう。
だから栗本薫は、人としては明らかに早すぎた死だが、作家としては別に早すぎたとは思えない。そういう部分を勘違いしている人がいるが、プロとして金を取って活動しているのだから、その辺はきちんと分けて考えなければならない。冷たいようだが、プロというのはそういう覚悟が必要なのだ。
こういう意見を堂々と言う人はそれほど多くはないだろうから、私はあえて言っておく。もちろん彼女の功績を否定するつもりはない。否定するのは死去する直前までの、現在の姿である。
4月にシュルツが亡くなっていたそうである。チュウジさんのところへ家族から連絡があったそうだ。
末期の肺がんで多分ダメだとは伝わってきていたが、よもや亡くなっていたとは意外だった。本人の生前の希望で友人には知らせず密葬、49日が過ぎたので親が連絡してきたのだそうだ。 私自身は昨年亡くなった正明さんとのような親しい仲ではなく、東京や正明さんの所で何度か話をした程度だが、やはり同世代のSFファンが亡くなるというのは、純粋に悲しい。我々の年代のSFファンというのは、独特の仲間だったのである。今のように何もかもが恵まれていた時代とは違っていたのだが、好きなものだから周囲に左右されないという一本筋の通った連中の集まりだったのであり、それは自信を持っている部分だし、誇りでもある。 いずれ50歳前後で亡くなるには、まだ早過ぎるのだ。
そして親としては、オープンの葬儀を行って同年代の人がたくさん来たら、それを見る事自体が辛いかも知れない。 葬儀というのは、近親者が心の整理をするための儀式だと思っている。特に子供を亡くした親としては、本当に切実な儀式なのではないだろうか。心を落ち着けて、ある程度あきらめの境地に達するための貴重な空間と時間だろう。そういう意味では今回のような密葬は、親にとって良いパターンになったような気がする。 本来の宗教とは、そういう働きをするものだろう。
そんな事があったので、なおさら気になるニュースがあった。 大川隆法率いる宗教法人「幸福の科学」が25日に、政治団体「幸福実現党」を結成したと発表したのである。しかも次期衆院選で300小選挙区と比例代表11ブロックのすべてに候補者を擁立するのだそうだ。 やはり創価学会が支持母体である公明党を見て自分たちもやりたくなったのだろう。幸福の科学はかなりマスコミに浸透していると言われているから、何をやるにしても非常に危険な存在である。もし彼らが政党を組むだけの票を集めてしまったら、創価学会と並んで非常に厄介な集団になってしまう。 本来、政治と宗教は別にしなければならないのであり、金が絡む新興宗教は特に、である。政治は論理的なものであり、宗教は情緒的なものだから、元々は相容れないものなのだ。それが同じ枠組みになってしまうのは、やはり政治的に危険すぎる。 恐ろしい時代になりそうだ、と思うのは私だけではあるまい。
2009年05月25日(月) |
「THE TAKING OF PHLHAM 123」 |
全然知らなかったが、いつの間にかリメイク版が完成して、アメリカでは6月12日公開だそうである。 何かと言えば「THE TAKING OF PHLHAM 123」、つまりあの「サブウェイ・パニック」の事だ。はたして邦題がどんなものになるのか楽しみである。ちなみに日本での公開は9月4日らしいが、随分と先である事だよなぁ。
しかしリメイクとは言っても、この映画に関してストーリーの本質的な部分は変えようがないように思う。メインは金を要求する際の駆け引き、デッドマン・システムをいかにごまかすか、犯人はいつ、どこから脱出するか、これだけなのである。だがこれだけなのに1974年版はなかなかの傑作に仕上がっている。もちろん監督の腕次第ではあるのだが、よほどへまをしなければそこそこ面白い作品には仕上げられるはずなのだ。
だが今回の監督はトニー・スコットで、メイン・キャラがデンゼル・ワシントン(地下鉄公安部部長か?)とジョン・トラボルタ(多分Mr.ブルーであろう)という布陣では、なんとなくだが不安になってしまう。 このキャストなら、おそらくMr.ブルーの性格付けは、かなり異なったものになるだろう。つまり冷徹さではなく、狂気のようなものが前面に出て来るように思われるのだ。クールなジョン・トラボルタというのは、どうにも想像ができないのだ。 やはりどうしてもM76を持ったロバート・ショーのイメージが抜けないが、あれだけユニークなキャラクターを作ってしまっては、仕方がないだろう。寡黙で冷徹なMr.ブルーというキャラクターは、映画的には非常に魅力的なのだ。しかも最近はこういうキャラクターが少ないので、なおさらなのである。
でも1974年版のファンとしては気になるので、出来がどうであろうとも是非観に行きたいと思っている。やはりこういう比較的地味な作品をリメイクするというのは、ネタが本当に切れているという事なのかもしれない。 ちなみに現時点での予告編はこちらにある。 http://www.catchthetrain.com/
そしてそんな今日、北朝鮮が地下核実験を強行したのだった。 国際社会に楯突くとんでもない暴挙だが、独裁政権の北挑戦というのはこういう国なのであり、前回の実験の後、以後の核実験が中止されると思っていた人は、かなりのお人好しか、国際情勢に疎いかだ。北朝鮮には国際社会で利用できるカードが、核以外は何も残っていないのだから。 ちなみにどこの国も北朝鮮という独裁国家が核を持つ事には反対しているし、韓国や中国といった北朝鮮を擁護している国にしても、単に北朝鮮という国が無くなると非常に困るので存続させたいだけであり(韓国はドイツの例を見ているので経済が破綻する事は確実だと判っているし、中国は西側との直接対峙となる)、核兵器を保持して暴走されるのは困るのだ。
いずれ今回の実験で、現在の将軍様の様態はかなり悪くなっていると容易に想像がつく。だから核による優位性を確保したいと焦っているのである。 さて、社民党の某氏がどんな妄想をコメントするのか、是非聞きたいものだ。まあコメントのしようがないだろうが。
2009年05月24日(日) |
KOTOKOのライヴ購入 |
今日も午前中は実家の買い物。例によってあっという間に午前中は終わる。
万代書店で昨日見つけたKOTOKOの2004年ライヴだが、結局購入する事にした。 「KOTOKO LIVE TOUR 2004 WINTER 〜冬の雫が連れて来た君が聖者だ★HAPPY White X'mas★〜」という題名だけは異様に長いライヴである。 実は今までyoutubeでさんざん見ていたのだが、やはりyoutubeでは画質に難点があり、バックで何が行われているのかが良く判らないのである。やはりこの辺は正規のDVDソフトだとはっきり判って楽しい。なにせライヴは、主役の一人だけで作れるような簡単な物ではないので、バックもできる限り見たいのだ。
いずれこのライヴでは、最初の4曲が非常に良い。オープニングから 「01.Suppuration-core-」「02.Re-sublimity」「03.Asura」「04.Lament」という流れにするというセンスが素晴らしい。そして「11.Face of Fact」と「12.I pray to stop my cry」も良い。出来ればこの6曲は最初に全てまとめて欲しかったくらいだ。そうすればいつも見るのが楽になるのだが…(というか、基本的にはこの6曲しか見ないのだ)。 しかしKOTOKOのライヴは、この2004年が今のところ最高だろう。本人が楽しんでいるのが判るし、自分のお気に入りの曲がライブで見られるというのは、やはり楽しいものなのである。2006年のヨコハマなど、声が全然出ていないのもあってか、どうも楽しんでいるようには見えないのだ。
そして見る度に不思議だと思うのは、そのヴォイス・エフェクトだ。KOTOKO自身の声がダブるところは、当然バックトラックを使用しているのだろうが、その境目が良く判らないのである。流れから突然本人が歌っていると思っていた方が違っていたりして、結構驚いてしまう。また曲によって声質が微妙に異なるのだが、これまた微妙な変化で、なまじ彼女は実力があるだけに、エフェクトなのかどうかすら良く判らないのである。 実際問題として、バックトラックやエフェクトを上手く多用しているのだとは思っているが、それも本人が元々上手いから出来る事だろう。
ところでKOTOKOの特徴として電波系といわれる曲もあり、これはさすがにどうかと思うのだが、もちろんそういう需要があるから入れている訳で、それはそれで仕方がないのかもしれない。 だが私には、この手の曲はまったく理解できない世界である。何故ここまでノーテンキな曲を平気でライヴで歌えるのか、そこが理解できない。電波系の曲に関しては、好きになる事はあり得ないし、そもそも全く理解の範疇外だ。
という訳で、ヘルツォークをあげた後にKOTOKOをあげるなど、知能程度を疑われるような内容の変化だが、私の好みとしてはすべて同列に楽しんでいるのである。そしてこれまた同列になる「攻殻機動隊」のオフィシャル・ログも買ってしまったのだった。
なお、万代書店からの帰りにチュウジさん宅へ、コニカのC35AF2を渡すため、ちょっとだけ寄る。 実家で使っていないのだが、ここまできれいなのもあまりないらしいと言うのでコレクションしているチュウジさんにあげる事にしたのだった。捨てるよりは役に立つだろう。
午前中は実家の用事の手伝いであちこち動く。 病院や三越まで行くと、あっという間に午前中は終わってしまう。そしてその合間に、久々にガスも入れる。
午後はとりあえずNODAYAへ行く。先日留守電に連絡のあったPPK発火モデルを見るためだ。 前回の非発火モデルと違い、今回のグリップとフィンガー・レストは茶色になっており、これだけでイメージがかなり変わっている。しかも木グリまて付属しているとは卑怯である。もちろん定価は高くなっているが…。 更にカートにも手間暇かかっており、弾頭部分の色が違っている。今までとは違い、わざわざ変えているのである。その上PPK/Sとは微妙にサイズが違うので、新たに作っているという事になる。何故ここまて手間暇かけて違うサイズにしてあるのだろう。 というような話をして盛り上がってくる。
帰りに近所の、書店ではないくせに万代書店と名乗っている場所へ行く、 ここで「KOTOKO LIVE TOUR 2004 WINTER」のDVDを見つける。ネット上で見た価格よりは高いが、振り込み手数料と送料を考慮するとこちらの方が絶対に安い。 そして「攻殻機動隊」のオフィシャル・ログの1stと2ndの2冊ずつのセットも格安で見つける。これは困った。あとでゆつくりと考えなければならない。
夜はPCで日記を書きながら、youtubeで「Nightwish Lowlands 2005」を見る。 だが見ているうちにのめり込み、結局はyoutubeを見続ける事になる。ただ現在のyoutubeでは、ほとんどが1曲単位で載っており、ライヴとして続けて見るのはかなり面倒になる。そもそもオリジナルを探しても、すべて載っている訳ではないので、探して見つかるかどうかすら判らないのである。なまじ出来の良いライヴだと、なおさら鬱陶しくなる。 やはりこれもライヴのDVDが欲しいものだ。
今日は会社の宴会。 グループ内の宴会なのだが、別に面白いものではない。仕事の話と酔っぱらう事が目的という連中ばかりだからだ。ちなみに女の子も、である。結局金もかかるし面倒なだけだ。つまり、こういう意味のない宴会は嫌いなのである。 しかも突然決めて飲み放題のセッティングの店を探したので、始まりが19時30分で、さらに終了は22時30分の予定である。普通遅すぎると思わないか? それでもワクワクしている連中が多く、仕事にならないのでさっさと切り上げる。場所がジュンク堂の隣のビルなので、早めに行ってジュンク堂内をウロウロする事にしたのだ。
まずは先日立ち読みできなかった「Comic リュウ」を探す。ここはサンプル本が立ち読みできるのだが、肝心の「Comic リュウ」がなかなか空かない。とりあえず「大正野球娘。」だけでも読めれば良いのである。仕方がないので他のコーナーを回ってから再度行って、ようやく目的の「大正野球娘。」を立ち読みできた。 だが今月は極めて普通の(多分原作に則った)話だった。いや、つまらない訳ではないが、先月のような伊藤伸平節が少ないので物足りないのである。しかしカートランド先生が今回はまともな事を言うので驚いてしまう。ただここで使ってしまっては、もう当分この手は使えないので、今後伊藤伸平がどう出るか、楽しみではある。
そして色々立読みした後、時間になったので仕方なく宴会場に向かう。できればこのまま閉店時間までジュンク堂に痛かったのだが…。 しかし酒さえ飲めれば良いという連中ばかりなので、基本的にはつまらない。早い段階から皆酔っぱらってしまうから、話などしても面白くないのである。しかも血液型で仕事を語る等という、実にアホウな会話ばかりなので、イライラしてしまうのだ。 映画の「ピンクパンサー」に『「お酒は?」「飲みません。現実から逃避する必要がないので……」「私も現実には満足してますが、うまい酒は現実の一部ですよ」』とある。要は逃避に酒を使うからただのバカになるのだろう。
ただ先月から1年間だけ倉庫に手伝いに来た他支店の人が実は自衛隊にいたというので、以前MGCにいてその後自衛隊にも入っていた人と3人で銃器の話などで盛り上がる。やはり64式と89式の話を出すと詳しいですねと驚かれる。まあとっさに出るかどうか、なのだろう。それで少しは楽しめたのだった。
そして帰り際、この会場でゴキブリを見てしまった…。もう二度と使いたくはないなぁ。
2009年05月21日(木) |
ヘルツォークは生きている |
本日発売の「映画秘宝」を購入。 パラパラと見ていたら、映画情報のページに、「戦場からの脱出」のDVDソフトが6月3日に出ると書いてある。 実はこの映画、公開されていた事すら全然知らなかったが、あのヴェルナー・ヘルツォーク監督の2006年の最新作なのである。不勉強にも程がある…。 というか、まだ生きていたという事実に驚いてしまったし、こういう作家製の強い監督が、いまだにメジャーで映画を撮っているという事実に更に驚いてしまったのだった。やはりまだまだ映画界というのは捨てたものではないのだろう。とにかくかなり意外なソフト化だ。それでなくともヘルツォーク監督というのはマイナーな存在なのに、この作品の題材はベトナム戦争での実話である。売れるのだろうかと心配にもなろうというものだ。
実はつい先日、はかせのところでもヘルツォーク作品の話題が出たばかりでもあり実に奇遇でもあるが、調べたら2001年に彼の作品が結構DVD化されていたのである。それなりに需要はある思うが、やはり数は出ないだろうと予想はつく。いずれ「アギーレ・神の怒り」は欲しいところだ。
しかし「戦場からの脱出」の主演がクリスチャン・ベールというのにもかなり驚いたが、元々ヘルツォーク監督相手だと、生半可なアクターではついて行けないから、むしろクリスチャン・ベールのように必要以上に役にのめり込むタイプでないと映画の完成は難しいのかも知れない。「フィッツカラルド」での有名な例もあるし…。 さて、実家にはLDの「フィッツカラルド」があるので、久々に探し出したいところだが、見つかるだろうか。
そして今月の「ストレンジ・デイズ」の表紙がUKだったので、中も見ないで買ってしまった。好きだから仕方がないか…。
あと「Comic リュウ」を立ち読みしようとしたら、付録付きなのでヒモで閉じてあり、立ち読みができない。毎月立ち読みしている「大正野球娘。」と「勝つために戦え」が楽しみなのに…。 やはり昔の月刊誌じゃあないんだから、付録なんてものは止めて欲しい。東京のような大都市なら各書店にサンプルもそれなりに出ているだろうが、仙台レヴェルでは中を見る事が出来ないまま回収されてしまう雑誌も多いだろう。 私は基本的に中をある程度見てから買うので、中を確認できない雑誌というのは大嫌いなのだ。
薬局量販店でマスクが売り切れ状態らしい。他の用事で行くと、店内放送で在庫がないと連呼している。そう言えば、水を使わないアルコール消毒の薬も売り切れらしい。ふ〜ん。
これは明らかにマスコミのバカ騒ぎのせいだ。不安をベクトル違いの方向に煽っているだけで、元々マスクなど生産、流通量がそれほど多い物ではないのだから、下手な騒ぎ方をすれば不足するのはどんなバカでもすぐに想像できる。それを知って煽っているならただのバカだし、知らずにやっていたなら石油ショックの経験を生かせていないから、もっとバカだ。 多分現在のマスコミは、本当にバカばかりなのだろう。
そしてそのマスコミのバカさ加減が見事に露呈されているのは、煽るものが次から次と変わって、本質での危機感を無視している部分から簡単に判ってしまう。 そもそも北朝鮮のミサイル問題はどうなったのだ? こちらもいまだ解決からはほど遠い危機であり、インフルエンザ以上にストレートな問題だろう。なにせ自分たちだけでどうにか出来る問題ではないのだから。
そんな中で、イランは射程距離約2000キロの新型地対地ミサイルを発射したというニュースがあった。 多分マスコミ関係者はこの実験の本質的な危機というものが判っていないのだろう。海外から来たニュースをそのまま流しているだけだと思われるが、この辺は北朝鮮との合同テストのようものなのだ。北朝鮮が本体や技術を輸出して、買った国がテストをした結果をフィードバックする、というのは以前からやっている事だし、常識でもある。 ミサイルを買う国があって、その実験データをフィードバックしてくれる国があれば、自国生産であってもミサイルの性能は飛躍的に進歩する。これはアメリカやロシアのような大国が独自にやっている事を、複数の国が分担で行っている訳で、物資やデータのやりとりさえ秘密裏に行えれば、簡単に技術の底上げができる。そのために各種商社やダミー会社が存在する訳で、日本のメーカーや商社も、知ってか知らすが、色々と協力しているのが国際社会の実態である。 というか、利益第一主義で仕事をしていれば、儲かる事に手を出すのは当然の帰結だ。そこでは論理や常識、法律などは無意味となる。日本はそういう社会になってしまっているのだ。
そしてそういう国際協力があるから、北朝鮮という貧弱な独裁国家が、これだけ短期間にミサイル搭載可能なサイズまで核兵器をダウンサイジングさせる事が出来たのである。利益のために北朝鮮を助けていると言う事がどれだけとんでもない事なのか全然判っていないか、自分だけが良ければあとはどうでもよいという考えなのだろう。
まあ大多数の人間は、その程度のものなのだ。
今日もひたすら暑い。まるで夏が来たようだ。このまま秋になってくれると嬉しいのだが、やはり無理か…。
しかし暑くなると出てくるものに、蚊と珍走族がある。うるさく迷惑な点では同類であるが、最大の違いは殺せるかどうか、だろうか。 各町内で自警団を組めば、珍走族等あっという間に壊滅できると思うのは私だけではあるまい。うるさいだけの珍走族は視野買いの的、ただのゴミなのだから。 だが警察に珍走族を取り締まる気はさらさらない。ゴミ掃除が面倒だからだ。だが取り締まらないだけならともかく、警察は珍走族の味方をしてしまうから厄介なのだ。なにせ、例によって加害者の人権が優先なのである。
かなり昔だが、一般人が暴走族に公道で囲まれて、生命の危機を感じて逃げようとした時にその一台と接触したという事案があった。当時かなりの騒ぎになったのは、この時の警察の対応が素晴らしかったからである。なにせ接触した一般人を、殺人未遂で逮捕したのである。断っておくが逮捕したのは暴走族側ではなく、本来被害者である一般人である。警察とはこういう組織だというのが良く判る事例だ。警察は決して弱い者の味方はしない。珍走族やヤクザのように集団で悪事をする連中に弱い組織なのである。
だから繰り返すが、裁判官制度が必要なのである。 公務員と一般市民との感覚は、実は全然違うのだが、問題なのは公務員がそれを全く意識していない点で、だからこそ一般市民の感覚を裁判に関係する公務員に「教える」必要がある。 人を裁くなど恐ろしい、とか言うバカもいるようだが、人を裁いているのはただの試験に通った文系の警察官と検察官、裁判官と弁護士である。彼らも所詮ただの人なので、かなりの割合で腐っているのに、そんなバカによく命を平気で預けられるものだと感心する。昔から現在に至るまで、冤罪というものがなくならない事実をどう捉えているのだろうか。 しかも実際の法体制と現実の社会感覚には著しい乖離があって、それを埋める努力は余りなされていないし、してもなかなか埋まらないのが現実だ。特に警察の犯罪相手に市民は打つ手がない。法を管理する側の犯罪では、当たり前だ。 そんな現実を理解しようともしないのは、ただのアホウだという証拠であろう。
2009年05月18日(月) |
今日の「音楽寅さん」 |
今日も暑い。色々な意味で仕事がかったるい。
そんな夜に「音楽寅さん」を見る。 今日はフォークの特集で、しかもパート1との事だが、フォークってそんなに需要があるのか? 音楽としてはとっくの昔に終わったと思っていたのだが…。いや、終わっているのは確かだ。なにせフォークの新譜アルバムというものが存在しないのだ。出ているのは過去の遺産、いや遺物ばかりである。あるジャンルの何フォークが混じることはあってもその逆はないし、いまさらフォークに何が出来ると言うのだろうか。
そしてこの番組を見ても、やはり自分はあまりフォークに興味がないというのが良く判ってしまう。いや、もちろん番組自体は非常に面白かったし、曲自体もその辺は桑田だけあって、見せ方聞かせ方は良く判っている。そしてほとんどドリフ並のスケッチは、さらに笑えてしまった。つまり見ていて楽しい番組ではあるのだ。 だがやはり、フォークに思い入れは全くないからどこか冷めている自分がある。
結局このプロクラムは、団塊の世代を狙っているのかも知れないが、はたして団塊の連中がこんな番組を見て喜ぶだろうか。
世の中が大きく勘違いしていると思うのだが、実は団塊の世代は金があるだけで、彼らは「行け行けドンドン」という実に安直単純な事しかやっていない。少なくとも日本社会の本質を形成するにあたっては、将来の事など考えない無責任な世代だったのである。その無責任の最後を飾ったのは学生運動だ。この時の学生運動の無責任さは、ただのサークル活動以上のものではなかったし、後のカルト集団の基礎を築いてしまっている。 そんな彼らが最後の高額年金をもらってのうのうと生きているのだ。
そしてそんな彼らを日本経済のメインターゲットにしていたら、結果がどうなるかはバカでも判る。まあその頃には、私も死んでいるか…。
2009年05月17日(日) |
「秒速5センチメートル」 |
朝から雨である。そんな今日はまたも実家の買い物の手伝い。結構時間がかかるものである。
色々と忙しく、なかなか落ち着いて見る時間がなかった「秒速5センチメートル」を、ゆっくりと見る事が出来た。これはもう見事なまでに青臭い話ではあるが、青春期を遙かに過ぎてしまった人間にはかなり泣ける話である。もちろん泣ける話が必ずしも良い話ではないのは常識だが、この作品に関しては、青臭さ、懐かしさ、そして痛さがすべて揃っていてなかなか良い。
第1話「桜花抄」 シリーズの主人公である遠野貴樹と、篠原明里の幼く切ない初恋である。 とにかく純粋で、だからこそどうして良いか判らない、実に切ない恋物語でもある。自分も転勤族の家庭だったので、こういう感覚は率直に理解できるし、そしてそういう感覚が長くは保てないというのも理解できる(ただし男の方が長く保持しているような気はするが…)。 だからここで終わらないと言う事は、ラストの展開も想像できてしまうのである。13歳では、その後の人生は永遠に等しいのだ。
第2話「コスモナウト」 私はこの話が大好きだ。 言ってみれば澄田花苗の失恋の話なのだが、種子島とロケットが日常に溶け込み、そして題名と悩める少女の澄田花苗が、痛いほどにシンクロしてしまったあのラスト・シーンは素晴らしい。第1話以上に泣ける。しかしこの時点でシリーズの主人公である遠野貴樹の未来が完全に読めてしまうから、これは構成に問題あり、だろう。 ただしこの第2話は、「ロケットのある風景が描きたかった」から作った話ではないかと思っている。高校生の貴樹と花苗が立っている先でロケットが打ち上げられるシーンの、なんと感動的な事か。恋愛とロケットをセットで描かれては、ロケット大好き人間としては、ぐっと来るところだ。 もちろんこの場合、孤独の旅をする探査衛星と、顧みられない恋愛感情を持つ花苗が同一レヴェルになっている所がミソで、そのために打ち上げられたロケットの煙が徐々に風によって消えていく描写までしているのである。 ひたすら美しい映像だ。
第3話「秒速5センチメートル」 この話は「山崎まさよしのPV」と揶揄する意見もあると何かに書いてあったが、これはある意味正しい。作者の新海監督は、脚本も演出も投げてしまったとしか思えない。 もっとも予想通りの内容になった訳で、1〜2話と続いた世界観の中では辛すぎる結末なのは確かだ。ここは別のエピソードを作るべきだったろう。もちろん、別にハッピーエンドにして欲しかった等とは思わないが、あれではあまりに中途半端だろう。しかも2話と3話の相谷はもう少し何らかの話がないと、全体の構成としてあまりにアンバランスになってしまう。 色々と痛すぎて、この第三話だけはそう何度も見る事はないだろう。
それでも、こういう作品の良さを素直に理解できる事は良い事だと思う。逆にこういう作品を見て何も感じないようでは、あらゆるジャンルの「作品」からは無用の人間だ。 ついそんな事を思ってしまう。
2009年05月16日(土) |
やっと危険運転致死傷罪 |
ニュースを見ていたら、2006年に福岡市東区で飲酒運転により3人の子供を殺した元同市職員今林大被告に対して懲役20年の判決が下った、とあった。まずは喜ばしいニュースである。
今回の陶山裁判長は、今林被告の酒酔いの程度について「相当量の飲酒をし、事故当時、先行車を認識するために必要な目の機能にも影響が出る程度の危険な状態だった。飲酒により前方注視が困難で正常な運転が難しかった」と認定し、危険運転致死傷罪が成立すると判断。同罪と道交法違反との併合罪により懲役20年としたのである。
ようやく被害者もある程度納得出来る結果になったのだが、子供を3人も殺された事件にしては長かった。いや、長すぎた裁判だろう。 飲酒運転など問答無用で殺人罪にしても良い犯罪なのだ。しかも子供を殺しておきながら現場から逃げて飲酒の事実を隠そうと水を大量に飲んだり、裁判になってからは被害者に対して「お前の運転が遅いから追突した」等という、ヤクザやタクシー業界が多用する手法で裁判に向かっていた。ただの追突事故ではなく、飲酒の上に子供を殺しているのに、である。キチガイという言葉はあまり使うものではないが、こう言うのを一般的にはキチガイというのであり、そしてそういう一般常識が全然反映されない現在の法体系は、欠陥だらけなのである。
その欠陥のせいで、一審二審とも危険運転致死傷罪を設立させる事が出来ないという情けなさで、さぞかしこの被告は喜んでいた事だろうし、その間の被害者の心労は想像以上に酷かっただろう。今回、ようやくまともな裁判結果が出たと言えるのだ。
こうして考えると、現実に法改正が追いついていかない日本において、裁判員制度が必要なのだと判るだろう。 もちろんまだまだ欠点もある制度だが、実際に民意を反映させるには必要なのである。それが判らないようでは、自分の子供が殺された時に泣き寝入りするしかないし、それ以上何かを要求する権利はない。 現状で裁判員制度が導入されて困るのは、こういう法体制が追いついていない事で利益を得ているヤクザと、飲酒運転などで責任を問われていない飲酒運転などの犯罪者である。 これらをのさばらせないためにも裁判員制度は必要なのだ。それは断言しておく。
2009年05月15日(金) |
テレビで「サラマンダー」 |
クリスチャン・ベールの「サラマンダー」をテレビでやっていたので、久々に見た。これは2003年公開だから、劇場で観て以来なんと6年ぶりである。
映画の設定では2020年位の時代だったので、ほぼ現代の話と言っても良いのだが、実は現代にドラゴンを登場させて口から火を噴いた欧米の映画は、これが初めてなのかもしれないのである。少なくともこれ以前で私は知らない。 あの「ドラゴススレイヤー」が炎を吐くドラゴンのスタイルを決定したと思うのだが、このままのスタイルで現代に登場させても、欧米では口から何かを吐く動物を認めない。何故かドラゴンは、中世が舞台のファンタジーでないと絶対に火を吹かないし、現代に登場する生物が火を吹くと、非科学的だと批判されるらしく、この映画でもわざわざ火を噴くメカニズムを説明している。だから何の説明もなく放射能だの火炎だのプラズマ火球だの超音波メスだのを口から吐きまくる日本の怪獣映画は、非常に珍しいオリエンタル・ミステリーであり、ある種の人間にはあこがれの映画だったのかも知れない。
まあそれはともかくこの映画、思ったよりはこぢんまりとまとまってしまったが、主役の2人に迫力があり、それだけでも見る価値がある。このキャストなら「北国の帝王」をリメイクさせても良いような気がする。 そしてなにより「帝国の逆襲」の学芸会が見られるのが楽しい。あのシーンは舞台が現代の延長線上に存在するという演出なのだろうが、別になくとも全然構わないのだから、やはり制作側のお遊びなのだろう(実は映画館で観た時、一番印象に残ったのはこのシーンだったりする)。 ただ、せっかくチーフテンもどきの戦車を出したのだから、せめて主砲の一発でも発射して欲しかったところだ。そうでなければ戦車を出す意味などないではないか。
いずれ安くなったらソフトを買おうと思っているのに、そういうのに限って出る気配がない。しかもよほど売れなかったのか中古でもほとんど見かけないのである。困ったものだ。リメイク版の「ウイラード」も待っているのだが、これまた同じような状況だ。
映画本編とは関係ないが、テレビの宿命とはいえCMが非常に鬱陶しい。昔のような面白いCMが全然ないので、見ていても退屈なだけなのだ。やはり映画は映画館で観るか、ソフトを買って見るものだとつくづく思う。 レンタルなんてものもあったような気もするが、大体見たい作品に限って置いていないのだから、自然と使わなくなるのである。
今日は夕方から異様に、寒くなった。 日中は日が出ていたので、風がかなり強かったにもかかわらず、別に寒くはなかったのだが…。
つい先日アナウンスされていた「空想科学画報 Vol.2」が出ていた。 ただしビニ本なので中をチェックできない。ムックと言ってはいるが、所詮は模型雑誌なので中を確認しない事には恐ろしくて買えない。なにせ\3,500もするのだから。 ちなみにこの本の「Vol.1」は海底軍艦の特集だったので迷わず買ったが、今回はやはりターゲットを絞り込まずに、ある程度の汎用性を持たせた内容になっている、らしい。これでは中をチェックしないとなんとも言えないが、少なくとも高い、というより高すぎる本だ。 いくらSFメカをメインに据えているとはいえ、模型雑誌なのだから、あまり敷居を高くしてはダメだろう。ガンダムなんかは、模型としては素晴らしいし、つくるのも楽しいかも知れないが、いかんせんデザインが限られてしまう。そもそも人型なのでSFメカとしては面白みが希薄なのである。
そういうのを充分理解している雑誌のようなので、やはり価格はネックだ。これはなんとかして欲しいものである。なんとかしてくれないと、やはり買えないのである。
電通が100年ぶりに赤字だそうな。創業が1902だから、軌道に乗ってからの赤字は初だろう。 最近は企業の広告費は減る一方だし、そもそもいつまでもテレビのコマーシャル・メッセージに頼っていたところで仕方がないのだ。もう世界中が世の中はデフレであり、無駄な消費は出来ないし、そもそも許されない。 しかも電通はあまりにテレビ社会に浸透しすぎた。というか、テレビ界の発展に元々から参画していたし、様々な会社の株はある、人材は握っている、というガリバー状態でまともな消費社会の誘導など出来る訳がない。 そもそも消費社会はムダをいかに勧めるかであって、健全な社会では決してないのだから、その消費モデルが崩れてしまった現在、電通自体の存在意義も揺らぐのは当然だ。
そんな消費社会に反発しつつも、模型屋に行く。 なんとマーャンズ・ウォー・マシンの完成品が売られていた。例のペガサスから出ている1/48の完成品なのだが、これが例のカッパー・メッキになっており、しかもほぼ10,000円である。これでは買う気にすらならない。もとのキットが5,000円強なのだから、それを買った方がマシだ。部品数も少ないのだし、いざとなれば自分で電飾も可能なのだから。 つまりここにも消費社会を見誤った企画があった訳で、このサイズでこの色はないだろうという映画ファンの心理を無視しているのである。これは多分売れないだろうし、安売りになっても誰も買わないだろう。 いや、500円位になったら買っても良いかもしれないが…。
そんな夜に、「クレイジー・キャッツ メモリアルボックス」なるDVDが出ていた事を知った。 現存するシャボン玉ホリデーがまるまる4回分入っているのだとか。これは激しく欲しい。こう言うのが消費者の心をくすぐる企画商品なのである。 電通も少しは見習え。せっかくパイオニアLDCを引き継いで、ジェネオンという会社を作ったのだから。
2009年05月12日(火) |
葬式じゃあないんだから |
突然思い出したが、先日清志郎の訃報が流れた後で中古CD屋に行ったら、ずっと清志郎関係の音楽ばかり流していた。これがもうずっと、である。いくら何でもこれはたまらない。探していたアルバムをチェックした後はさすがにゆっくり出来なかったので、退散してしまった。 どれだけ店側にファンがいたのか知らないが、すべての人間が清志郎のファンではないので、あれは苦痛なのである。
もちろん、例えばジョン・レノンが殺された時に延々と「イマジン」ばかりかけていたのも当然問題である。ただしこれは元々メディアがジョンの仕事を知らないからで、好きでかけていた訳ではないというのが見え見えである。だから『ビートルズの「イマジン」』などというふざけた事を平気で口にするのである。もういい加減間違う奴もいないとは思うが、ビートルズに「イマジン」という曲は存在しない。あれはあくまでジョンのソロである。
いずれどういう人間が来るか判らない店という存在では、代表曲をかけるだけにするべきだろう。延々と1時間以上清志郎というのは、特別思い入れがない人間には辛いのである。 そして一曲だけを延々かけるのは無能の証明なので止めるべきだ。やはり訃報の直後はその人の知性と教養がストレートに出るのである。
そう言えば、レオン・ラッセルって幾つなんだろう(唐突だな、おい)。 で、調べたらまだ67歳だった。想像以上に若かった訳である。これなら、まだしばらくは大丈夫だろう。
2009年05月11日(月) |
音楽寅さん、アビイ・ロード |
はかせから「音楽寅さん」届く。 正確に書けば、5月4日放映の「桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜」である。この日は出かけていて見る事が出来なかったのではかせのご厚意に甘えたのだが、傑作と言われる番組なのだ。
とにかくロック・ファンなら話を聞いただけでも見たくなるのは必至で、何をやったかと言えばビートルズの名盤「アビイ・ロード」をほぼ丸ごと、ソラ耳化したのである。しかも途中でレコードのA面とB面を切り替えるという演出(この演出も判っている証拠だ)以外は、20分間ノンストップである。
ただのソラ耳化と全く違うのは、アルバムの構成そのままに、日本の政治を風刺した内容に仕立て上げているのである。これがいかに大変なのかは解説しなくても、容易に想像がつくだろう。なにせ元の歌詞に政治風刺の内容を当てはめなければならないのだから。 もちろん実質20分しかない番組ですべての曲をフルで使う事は物理的に無理であり、どうしても短くアレンジしなければならないのだが、ラストに向けてのメドレー部分は風刺と言う事を考えると、完璧と言っても良い。 しかもその内容が分け隔てなくメジャーな政党すべてを対象にしている点も素晴らしいし、その内容についても、本質的には間違いがない。 これを作ったスタッフは、もちろん大変な作業ではあっただろうが、絶対に楽しかったはずだ。もしかしたら「カノッサの屈辱」の残党も参加しているかも知れないと想像してしまう。
スタッフが優秀だったのに疑いの余地はないが、このソラ耳化の成功の要因には桑田佳祐という希代のヴォーカリストの存在も大きいだろう。彼独特の、日本語を英語っぽく歌ってロック寄りにするという方法論が、今回の番組では見事に生かされている。これがあるかないかで、全体が「アビイ・ロード」に聞こえるかどうかの分かれ目になるのだ。 ちなみに私はこの番組を見て、「アビイ・ロード」はやはり名盤だと思ってしまった。そのくらい桑田の歌い方が今回は生きていたのだ。もちん「アビイ・ロード」自体が今聞いても耐えられる程の歴史の名盤だというのもあるが、やはりこのバンクみ゛のキャストだからこそ成功したと言える。
是非とも再放送して欲しい、いやソフト化して欲しいと思うが、この内容ではやはり無理だろう。だが間違いなく一見の価値がある作品である。
どうも風邪が治りきらない、困ったものである。そんな状態だが、またも実家の買い物の手伝いで、午前と午後にも少し出かける。
帰り道でちょっと模型屋を覗いたら、イギリス陸軍のチーフテンMk.5が目についたのだが、そう言えばチーフテンと言えば「ヘルプ」と「ソールズベリー」である。ロックに興味のない人には全く意味不明だが、そうなのである。いや、ロックに興味のある人でも怪しいか…。 まあ「ヘルプ」の場合は、ビートルズのメンバーが戦車に乗っているシーンがあるから、今さら説明する必要もないだろう。だがビートルズとは言え当時はアイドルだった訳で、たかがアイドルの映画にイギリス軍が戦車を出している訳である。個人的にもけっこう手間暇かけて撮ったシーンだと思っているし、さすがはリチャード・レスター監督の作品だと思う。
そしてもう一つ、ユーライア・ヒープのアルバム「ソールズベリー」はジャケットがチーフテンなのである。音楽的にも名作なのだが、このジャケットも素晴らしい。ソールズベリーはイギリス軍の演習場としても知られた場所で、だからこのアルバム・タイトルとチーフテンという関係には何の違和感もない。 ちなみに私はジャケ買いしたのだが、彼らの代表作と言われる「対自核」より遙かに好きなアルバムだ。何故なら曲自体が素晴らしいのは当然だが、アルバムとして良く出来ているのである。やはり私はこういうトータル・アルバム的な作品が好きなのである。
その後、実家で少し整理をしている時に横山光輝の「その名は101」と「魔界衆」が出てきたので、とりあえず全部読んでしまう。前者は「バビル2世」の続きで、ヨミを復活させようとする組織と単身闘う話になっている。一応「三つの僕」はバビル2世の念波が届かないような場所に隔離されているという設定なので、どちらかと言えば忍者物の雰囲気で話は進む。 全体の雰囲気は「マーズ」と同じで、人間は実に愚かだというテーマで貫かれている。 そして「魔界衆」は忍者物にSFを加えた、横山作品お得意のパターンである。ただし歴史を知っていれば結果は判っているので、あまりカタルシスはない。
この時に、永井豪の「黒の獅子」も出てきたのでこれまた全部読んでみる。やはり前半は面白いのだが、後半は風呂敷を広げ過ぎたせいで、はっきり言って面白くはない。永井作品の欠点が出ているというところだ。 やはり昔の作品というのは、今読みかえしても面白い作品と、何故これが当時面白かったのか不思議になる作品とが、極端に別れてしまう。やはりひとつにはSFのセンスの問題が大きい。あるいは「ワイルド7」のように映像的な見せ方を心得ているかどうか、というのもある。マンガはストーリーだけではない。絵も重要なファクターなのである。 ちなみに言っておけば、マンガはイラストとは違う。末期の「コブラ」のように、いかにもイラスト然とした絵は、美しいがマンガとしては楽しめない。そういうものなのである。
朝に実家の台所の水道栓と裏口のドアの修理の見積もりのために業者が来るというので、行ってみる。 まあ価格としては、実際にはもう少し安くても良さそうではあるが、そう極端に高い訳でもないし、ちょくちょく様子を見に来ているからこんなものだろう。 いずれ水道部分はかなりガタが来ているから、早急に換えなくてはいけないのだ。
ところで。 先日、津のさんがロンドンへ行ったのだが、その時に撮ったバターシー発電所(今は稼働していない)の写真をアップしていた。もちろんピンク・フロイドの「アニマルズ」のアルバム・ジャケットとして極めて有名な建造物で、少なくともロック・ファンにとっては、へたな観光地よりも観光スポットとして機能しているだろうし、私もイギリスに行ければ、こことポートメイリオンには行きたいものだと思っている。まあ行く機会など、この年でこの収入では、絶対にあり得ないのだが。
それはともかくとして、この写真では煙突部分のアップも載っていたのだが、ここがパルテノン神殿の柱と同じ仕様だとは思っていなかったので非常に驚いた。ここだけ切り取るとまさにうり二つである。ぱっと見た限りでは区別が付きにくいだろう。こういうセンスが日本の実用建築物には完全に欠けているし、多分想像すら出来ない部分だろう。さすがはヨーロッパである。 そしてこういうのを見ると、やはりまだまだ知らない事が多いのだと、つくづく思う。ロック・ファンの間では知らぬ人などいないと言っても良いほどにメジャーな建築物ですら、これである。もっとマイナーな物なら、見ただけて驚くような事になりそうだ。
やはり今でも、旅行というのは見識を高めるのに役立つものなのだろう。そして旅行ガイドというのは、何の役にも立たないのだというのも良く判ってしまう。 とにかく自分自身で見る事が重要なのだと実感してしまった写真である。津のさんに感謝しなければ。
2009年05月08日(金) |
・・・ −−− ・・・ |
少し前になるが、4月27日のグーグル・トップがサミュエル・モールスの誕生日にちなんでモールス符号だった。 つまり「−−・ −−− −−− −−・ ・−・・ ・」だったのである。これはさすがに、すぐには判らなかった。このように「−・」だったら多分すぐに判ったのだ思うのだが、この時は「−-」だったのでただの棒の羅列にしか見えず、すぐには判らなかったのである。なにせモールス符号なんか、もはやSOSしか覚えていないし…。
しかしこんなのがグーグルのトップに出るという事は、まだまだモールス符号は狭い範囲であっても一般的だという事なのだろうか。そもそも現在、電信系の免許はあるのだろうか。 これだけ電話系が普及し、その上通信距離が伸びた以上、少なくとも緊急用に電信系を使う必要性は低い。というか通常では使用する状況が思いつかない。映画で使われる事があっても、一般的でなければ一方通行で終わってしまう。つまりこれも消えゆく技術の一つなのだろうか。 まだモールス符号だという事が判っていればいくらでも調べる事は出来るが、「・・・ −−− ・・・」が何なのかを知っている人がなくなれば、調べる事すらできなくなるのである。そうして自然消滅してしまうのかもしれない。
ところで。 会社でバイクに乗っている奴がいるのだが、どうもこいつは安全というものをなめきっている。 ヘルメットが欲しいが、何年前の物でも良いから譲ってくれる人はいないだろうかと騒いでいる。要は被っていられればそれで良いと言うのだ(つまり交通違反対策でしかない)。割れるよ、と教えるがその時はその時だから、等と本当にふざけた事を言う。子供が3人もいるくせに、である。 私は「さすがに2年ではもったいなかったので、3年毎に買い換えた」というとキョトンとしていたが、まったくもって良く判らない反応だ。自分の頭を守ろうという意志が全くないのである。 こういう腐った考え方をしているやつはライダーの風上にも置けない。さっさと自爆して死んだ方が良くないか?
子どんぐりの風邪がうつったようだ。鼻水が結構でるのでとりあえず薬を飲んでおく。困ったものだ。
ところで、フィルムで撮った写真に比べると、デジタル写真は立体感が乏しいとは以前から言われているし、私もカメラ雑誌を見る度にそれは感じていた。しかしそれが何に由来するのかは良く判らなかったのだが、自分のこういう感覚は確かだという自信はあるので、多分何らかの要因があって実際に立体感に差が出ているのだとは思っていた。 それについて、今月のアサヒカメラにある程度の報告が載っていた。業界としてようやくこの手の記事がまともに扱われるようになった訳である。
結論から言えば、立体感の正体の一つはフィルムにおけるノイズであり、それを記憶している人間の心理なのだという。 もともと汚れとなるデジタル・ノイズは均一な細かい粒子として現われるが、フィルムにおけるノイズはこれとは全く異なり、均一ではない俗に1/fと一般的には言われているノイズで、つまりサイズも密度もある程度不規則になる。だがデジタル写真には元々この不規則なノイズが含まれない上に、デジタル・ノイズ自体も除去されつつある。 普段から人間は外界を見て情報を記憶にとどめているのだが、それにはこのアナログなノイズが初めから入っているために、そのノイズを除去した風景などには違和感を感じるのだそうだ。
デジタルカメラは一般に普及してからまだ10年程度だが、それ以前からノイズの除去は重要課題の一つとして、技術者は必死になって研究していた。だが実はフィルムとデジタルではその描写方法が元々違うので、ノイズもパターンが異なる物であり、それを知らずに除去していたため、人間にとって必要な立体感すらも削除されてしまったのである。 だからわざとフィルムのようなノイズを加えると、とたんに立体感が得られるようになる。
ちなみにフィルム・メーカーはその長い歴史の間で、人間の記憶の再生を念頭にフィルムを開発しており、決して忠実な色再現だけを目標にしていたのではないそうだ。この辺は数値には決して現われないが、写真の描写には絶対に必要な部分で、人間としての勘と経験をおろそかにしていなかったから品質の高い表情豊かなフィルムが提供され続けたのである。
ただしこのノイズを加えるのも、実験によれば金属のような光沢のある物や人間の顔には効果がないそうで、だからこれだけデジタル写真が普及しても気づかない人が多い訳である。何故ならデジタル・カメラでは、基本的に家族の写真を撮る人が圧倒的に多く、しかもそれは顔がメインになるし、そもそも以前からフィルムカメラを撮っていた人でないとこの立体感の有無など判らないのである。
こう考えると、映画におけるCGIの不自然さも、これが原因のひとつだと想像される。いつも金属などの描写には違和感がないのに、それ以外にはどうしても違和感があるからだ(顔の表情については、デス・マスクを見る時の違和感と同じだろう)。いずれ誰かがそれを解決するシステムを作りそうだが、現在の映像の世界はコスト・パフォーマンス最優先なので、仮に誰かが作っても普及までには時間がかかるかも知れない。なぜならこの違いが判るのは、一部の人間でしかないからだ。 90%の人間が満足しているのに、わざわざ大金をかけてまで新しい技術の導入はしないものなのである。それが映画界という物の現状なのだ。
駅前に出て、少々買い物。 デパートの物産展で親から頼まれた物を買い、あとはDVD-Rを買う。実は頼まれ事があったのだが、DVD-Rなど焼いた事がないので空のメディアを持っていなかったりするのだ。つまり自分で焼くのは初めてとなる。
帰宅後、リッピングとライティングのソフトをダウンロードしてみる。ここで英語がろくに読めないためにミスってしまったが、最終的にはなんとかなった。 そしてDVD-Rの作成にとりかかったのだが、最終的には90分の物を作るのに実質2時間かかってしまった。なんだかなぁ。まだCD-Rの方が対時間効果で考えればかなり良いと言えるのだが、DVD-Rでこんなにかかるのでは、ちょっと問題であろう。 おそらくはもっと効率の良いやり方があると思われるし、そうでなければ誰もこんな非効率的な事はしないだろう。いずれこれからちまちまと勉強していかなければなるまい。 しかし作業中は、他の仕事も出来るようだが、やはり不安になるのでついついシングル・タスクにしてしまう。もったいないが、2時間をむだにする余裕はないので仕方がない。 で、封筒などを用意して、郵送の準備だけはしておく。
4日間の休みもこうしてあっという間に終わってしまう。 そんな夜にネットのニュースを見ていたら、長野県警の巡査長が拳銃をパチンコ店のトイレに忘れたというのがあった。 以前から言っているが、現在の日本の警官に銃器は不要だ。銃器がどれほど危険な物かの認識がない警官ばかりだからだ。イギリスと同じように銃器を扱う警官は別に教育した別部隊にするべきなのである。今回もパチンコ店側で保管していたと言うが、パチンコ店ならヤクザも出入りしているので、簡単に盗まれていた可能性がある。結果として帰ってきただけで、これはクビにしてもおかしくない由々しき事態なのだが、多分警官自身にそんな認識はないだろう。だから不要なのだ。 日本の警官に銃器は絶対に不必要だ。特殊部隊だけを徹底的に訓練すべきなのである。そうでなければ、いつ暴発させたり盗まれたりするか判らないのだ。
ちなみに良く暴発事件もあるが、そのほとんどは銃器の扱いに慣れていない事による暴発だ。つまり落下等による信管への衝撃ではなく、明らかにトリガーを引いているのである。それはひたすら公にしないようにしているが、ニュースを読めばそのニュアンスで判る。
そして銃器が絡む犯罪の場合、その多くは現場の警官ではどうにもならないのは今までの事件が証明している。結局は特殊部隊が出動しているのだ。 つまり現場の警官に銃器など、迷惑なだけの時代なのである。そもそもヤクザや暴走族相手にまともに銃器を使えるスキルなど、現場の警官にはない。結局弱い物相手にしか使えないのでは、所持する意味が全くないのである。
こどもの日である。だがそれとは無関係に町中に出る。 今日はCDを探してタワーレコードやHMVはもとより、中古ショップまで見て回ったが、結局目的の物は得られなかった。しかも時間がなくなり、本屋を回る時間もなくなってしまった。
ただイービーンズの特設会場で中古CDやLPの販売をしているのを知り行ってみる。 出店リストを見るとブートもあるはずと予想していたが、残念ながら探しているブートはなかった。その代わりでもないが、バーゲン・コーナーにあったキンク・クリムゾンのブートを購入する。以前どうしようかと悩んでいた物なので、こういうバーゲン・コーナーにあると嬉しくなる。どうせマイナーだし。
買った1枚は、1981年12月の名古屋公演である。 この年、キング・クリムゾンとしては初来日で、浅草国際劇場には行ったのでこのブートが欲しいのだが、これがなかなか入手出来ずにいた。だが名古屋であっても同じ年なので、とりあえず当時の雰囲気を伝えているだろうと買ってみたのである。 聞いてみると意外とこれが正解で、以後のライヴでの完璧さがまだ少しだけ荒削りではあるが、とにかくいかにも楽しげである。 しかしこの音の良さはどうなっているのだろう。この時期のブートでこんなに音が良いのは、ライン入力しか考えられないが、一応渋谷はソフトが発売されているし、浅草にもカメラが入っていたはずだから、名古屋も状況は同じだったのだろう。 こうなるとますます記念すべき浅草が欲しくなる…。
もう1枚は1995年10月の新宿厚生年金会館(2枚組)である。 こちらは当時見に行った時の音源なので、元々欲しかった物だ。実はこの時期のメタル・クリムゾンと呼ばれるものが結構好きで、1980年代以降のクリムゾンでは一番良かった時期なのではないかと思っている。1981年に次いでライヴとして楽しかったのである。 ちなみにこちらは明らかにオーディエンス録音で、その割には結構良い音だが、良くも悪くも昔の感じのブートである。もっともブートに求めるのは、こういった正式には発表されない音源であり、音質はある程度聞ければ良いので、この程度の音質であれば充分である。
しかし不思議な事に、iTunesでこのCDを再生すると、曲の情報とアルバム・タイトルが表示される。ブートなのに不思議だと昔のブートを何枚か入れてみると、これもきちんと表示される。一体どうなっているのだろうか。 ちなみにWindows Madia Playerでは当然の如く何の表示もされないのだが、こちらは正規のCDであっても表示が出なかったり、曲名が違っていたり、収録数が違っていたり、なんてのは日常茶飯事だから、元々あてにはならないシロモノだ。この辺はさすがにマイクロソフトだ。ユーザーの利便性など何も考えていない。
そうなるとこのiTunes、一体どこから情報を仕入れているのだろう。ブート用の音楽情報DBんてのがあるのだろうか。もしあったら結構怖いが、ファンの力というのも凄いから、ネット上の人海戦術でなんとかなりそうなのも確かである。 友人によれば、ファンによるDBもかなり充実しているらしく、もしかしたらありとあらゆるブート情報も、探せばどこかにあるのかもしれない。
午後からT寺家へ行く。 一家揃って行く予定だったが、子どんぐりは風邪で咳き込んでいるので、今回はパス。結局、いつものケーキをお土産に私1人で行く事になった。 しかしアウトレット・モールが出来たおかげで、それでなくとも休日は混む道路になっているのに、今日は2車線とも大渋滞である。結局到着まで90分近くかかってしまったが、これでは別のルートを調べておかないといけない。
行くとほどなくTAM一家も到着。上の子は中一になったそうで、早いものである。そう言えば、KCの所は成人式だもんなぁ。我々も年を取っているのである。 しかしTAM家の子供は賑やかだ。うちの子にあんなに賑やかな時代はなかったような気がする。
今回の持参品はワルサーPPK、PPK/S、ガヴァメントのモデルガンで、「誰も教えてくれないスカイ・クロラ」である。まあこんな事をするのは日本中でも私くらいのものか? 例によってのバカ話、無駄話で、なんだかんだと夜遅くまでお邪魔してしまった。そして帰りの道路はガラガラで、30分もかからずに着いてしまったのだった。いつも思うが、日中のバイパスは混み過ぎだ。
そんな今日、夜遅くに「桑田佳祐の音楽寅さん」が放映されていたのだが、はかせの日記にそのとんでもない内容が記されており、見逃した事を激しく後悔してしまった。 なにせ今回のネタは、ビートルズの「アビィロード」全曲を、すべて空耳仕様で日本語の歌詞に変えて歌うというもので、しかもその内容が国内政治の風刺、である。要は空耳アワーの政治風刺版と言えば判りやすいだろうか。 こういう内容を作るというのは、かなり高度な知性とテクニック、そして遊び心がないと、絶対に成立しない(フジの「カノッサの屈辱」はその成功例だろう)。それをあえて今の時代に民放でやったというのは凄い。本当に聞き逃したのが激しく悔やまれるプログラムだ。
まだまだ日本も捨てたものではない、と本気で思ってしまう。
ふと思いついてネットで検索したら、なんと「チェイス」のアルバムが出ているではないか。 アルバム・タイトルが「Chase/Ennea/Pure Music」なので、デビューから飛行機事故で消滅するまでの全アルバム3枚が2枚組で出ている事になる。本来こういう構成は好きではないが、特に「Ennea」が欲しいし、安く手に入るのだから仕方がない。少なくともオリジナル・アルバムを知っているのでまだ我慢できるだろう。 しかし2008年に出ていたとは迂闊にも知らなかった。やはりネット社会になったおかげで、普通のアナウンスはおろそかになっているだろうし、個人でカヴァーするのも限界がある。難しいものだ。
ところで。 どんぐり2号が名取のホームセンターむさしに用事があるというので、初めて行ってみる。ここのカルチャーコーナーでやる、銀粘土で作るアクセサリーの体験教室に参加するためだ。 しかしここは、なんというか農家の方々をメイン・ターゲットにした構成のようで、あまり私たちには縁がないコーナーが多すぎる。つまりまた来るかと言えば疑問なこうせいなのである。しばらく行っていなかったが、泉店の方が一般的な物は多く、2階はマニアック度が高く、カルチャー・センターとしても上のようだ。どちらも同じくらい遠いのが難点だが、行くなら泉だろう。 ただ意外だったのは、食品館なるセクションがあったのだが、値段もそれなりに安い物があるし、果物や野菜もきわめてまともなスーパーだった。ホームセンターにくっついているにしてはあまりにマトモなので驚いてしまったではないか。
そんなこんなで一日潰れてしまったが、帰宅後、またもや「クレイモア」の16巻を読んでいたりする。 終結に向けての動きが加速されている要に感じるのだが、色々と疑問などもあったので、ちょっとメモしてみた。読んでいない人には文字通り意味不明な内容である。
1.ミアータは深淵喰いのプロト・タイプだとしか思えないが、人間からバケモノを作る限界が彼女であり、だから組織は人型のバケモノを作った訳である。ただ深淵喰いの習性からすると、授乳(?)しているクラリスはかなり危険な気がするのだが。 2.クレア〜テレサ〜ラファエラという流れがつながってきたが、これはラファエラの融合体が目覚めた時の伏線になるのだろうか。そして目覚めた者はクレアの中にあるテレサの妖気を知っているという事になりそうだ。いずれ自分が愛する者を体内に取り込んでしまったクレアとラファエラは、似たもの同士という事なのかもしれない。だからルヴルの「気が合うかも知れない」というセリフが出たのだろう。 3.そのルヴルとは、一体何者なのだろうか。普通の人間ではあり得ないと思うのだが、もしかして複数いるのかもしれない。かなり面白いキャラクターだが、単なる読者への説明係だけで終わらせたら、意味がないので、今後の動きが楽しみでもある。 4.ストーリーとは関係ないが、相変わらず裏表紙の人物が誰だか判らない。作者がイラストの練習をしているとしか思えないのだが、それが正解かもしれない。多分遊びでイラストの練習をする余裕はないだろう。 5.ディートリヒの扱いで思ったのだが、この作者はキャラの年齢差(あるいは精神年齢)を胸の大きさで表そうとしているのかもしれない。それはそれでなんだかなぁ、という感じはするが、このマンガの性質上、顔で年齢を表現する事の限界もありそうなので仕方がないというところか。
しかしこの作品は以前アニメ化それているが、ああいう終わり方をしたので、続きを作れなくなっている。多分スタッフは大いに後悔している事だろう。金蔓を切ってしまったのだから。 そもそもあの終わり方は、原作を読んでいる人間には不満だろうし、当時原作を読んでいなかったにもかかわらず、私も大いに不満だった。やはりあれではストーリーとして問題がありすぎるのだ。 まあ今となっては、原作がきちんと終わればそれで良いという事だ。
ニュースでは今日から連休などと騒いでいるが、こちらは接客業でもないのに会社である。 もちろん接客業ではないから、かなりの人は休みにしているのだが、実はみんなヒマでやる事がないので会社に来ているという実に愚かな状況になっている。休みがあっても会社に来るしかないとは、実に哀れな連中だ。もっと単刀直入二言えば、バカである。本当に趣味がない人間がいるのだと感心するのだった。
そろそろデジタル一眼も選定しなければならないのだが、そんな中で面白いニュースがあった。 フジのコンパクト・デジカメにFinePix F200EXRというのがあるのだが、これにフィルムの設定があるのだという。 フジのコンデジと言う事は、富士フィルムのノウハウを使う事が可能なのだが、今まではデジタル・カメラでフィルムの再現性がセッティングされた機種は存在しなかった。メーカー側が必要と感じていなかったためだろう。だが昨今、広告などの世界ではデジタルではなくフィルムの再現性を求める声が出てきており、それにチャレンジしたという所だろう。 ただ今ひとつ理解できないのは、どうしてコンデジなのか、である。こういうセッティングが欲しいと思うのは、デジタル一眼を使う人間だけだろう。あくまでテストでありこれ以後の展開があるというのなら納得も出来るが…。 ちなみにメーカーのサイトにあったセッティングの内容である。
PROVIA/スタンダード: あらゆる被写体に対応できるオールマイティモード。自然な色調で再現でき、プロ写真家からの信頼の厚いPROVIAフィルムの色イメージ。
Velvia/ビビッド: Velviaならではの高彩度な色調。シャープネスもきわめて高く、赤・緑系を強調した色調は、ネイチャーフォトの鮮やかな色表現を可能にする。
ASTIA/ソフト: なめらかでキメ細かく、つながりのよい階調。色相も忠実で、ソフトな調子が特長のモード。
私も以前はフィルムも色々と試して、ちゃんとしたラボに頼んだりもしたのだが、そんな中でもVelviaの赤はきれいだった。私ごときの腕ですら判るくらいなのだから、やはり他のフィルムとは違っていたのだ。 ただしコンデジに限らず、デジタルの描写は立体感に乏しい部分があり、いくらフィルムの設定が出来ても、おそらくはフィルムの再生は無理だろう。つまり、あくまで今回のは雰囲気の問題に過ぎないような気がするのだ。 まあ実験はやった方が良いのだが、問題はそれを消費者が行うという事だろう。現在はメーカーの意図にとことんつきあえるだけの金銭的に余裕のあるユーザーは、かなり減ってしまっているのだから。
2009年05月01日(金) |
「クレイモア」16巻 |
今日発売された「クレイモア」の16巻を購入。 15巻以降はずっと立ち読みしているのだが、まとまって読める方が楽だし、絵もじっくりと見られる(立ち読みでは全然気づかなかったが、ディートリヒってまだ子供だったとは…)。 しかしこれが連載されている「ジャンプSQ」なる雑誌は、これ以外に読むべき漫画が全然なく、実につまらない雑誌だと思う。そういう意味で「COMIC リュウ」は遙かに健全な漫画雑誌だと言えるかも知れない。なにせ押井守と山田正紀のエッセイまで連載しているのだから。
それはともかくとして、16巻ではクレアがほとんど活躍しない。最初の方に少し出てくるだけで、以後は他のキャラクターによる話が続く。そんな中ではヘレンがなかなか人間的だ。 そして他のキャラクターが活躍する度に、私はクレア1人の活躍に期待している訳ではないと再認識出来るのである。ミリアが活躍し始める6巻からは明らかに群像劇に移行しているのだが、それが実に面白く、だから敵も味方も、ちゃんとしたキャラクターとして楽しめるのである。そしてそのおかげで、クレアが未熟な戦士であっても生き残れているのである。パワー・インフレを防ぐ一つの手段がこれだろう。
こうして考えると、昨今の漫画に希薄なのはこの群像劇の部分なのではないだろうかと思えてくる。 キャラクターを作れない作家と編集者がセットになれば、敵のパワーアップに合わせて主役もひたすらパワーアップさせなければ生き残る事は不可能になり、これがパワー・インフレの元になる訳だが、群像劇になれば弱い部分をお互いにカヴァーしながらストーリーを進められるので、多少の矛盾が出てきてもそれは最小限に抑える事が可能なのだ。もちろん多くのキャラクターを作り出せるだけのセンスがなければならないのは当然で、これ自体が難しい作業だから、誰もが簡単に出来る訳ではない。 この「クレイモア」もミリア、ヘレン、デネヴというキャラクターが出来た6巻以降で、ようやく道が開けたという所だ。
それらのキャラを上手く配置する事で、実はストーリー上のあちこちにある矛盾が上手く隠されている。だからおそらくは、これらの矛盾に若い読者は気づいていない。通しで何度か読むとそれが見えてくるのだが、この辺は結構上手く処理されているので、長編を読み慣れていない読者には判らないだろう。 そう言う事も含めて、旧来のキャラクターの成長と新しいキャラクターの活躍に期待するし、内容的にはそろそろまとめに入りつつあるようなので、今後の展開に結構期待しているのだった。
ただしかなり緻密にストーリー構成をしている部分が多いので、逆に伏線が見えてしまう部分も結構ある。若い読者には良いかもしれないが、私のように世代になれば、ほぼ丸見えである。もっともそれ自体も楽しみではあるのだが。
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