どんぐり1号のときどき日記
DiaryINDEX|past|will
先日「カーペンターズ 40/40 〜ベスト・セレクション〜」なる2枚組40曲のCDが出た。 これは日本のオリジナル企画で、デビュー40周年を記念して40曲をネット上での投票でセレクトした編集盤だ。内容に関してリチャード・カーペンターによれば日本の選曲は他の国とかなり違うらしいが、日本のファンに敬意を表して日本独自の内容に仕上げているそうだ。 このセレクションを見ると、私も日本での評価はこんな感じだと納得できるし、実際に当時はこういうものだったのである。そう言う意味では、日本におけるカーペンターズの立ち位置が非常に良く判る内容のアルバムになっているのは確かだ。
ただし概ね選曲は良いとは言ったが、「ヘルプ」や「明日への旅路」といったお気に入りが入っていないのは不満で、特にこの2曲は是非入れて欲しかった。 それに反して「トップ・オブ・ザ・ワールド」「シング」「ジャンバラヤ」は不要だと思っている。何故なら、この3曲はオリジナル・アルバムでの流れに違和感を生んでいる曲なのだ。だから当時は嫌いだったし今でも好きになれない。 まあそうは言っても、デビュー40周年記念の40曲という条件でファン投票すれば、入るのは必然である曲なのは間違いがないので、仕方がないのだろう。
結局、ベスト盤の最大の難しさは、どうしてこれが入らずにあんな曲が入っているんだという個人差を埋める事が出来ない所だろう。まあ私は全曲持っているので、その気になればベスト盤などいくらでも作れるが、オリジナルを持っている以上、そんなものを作る意味はないのである。
ところでこれに収録されている「動物と子供達の詩」はシングルとアルバムのどちらのヴァージョンなのだろうか。もしシングルなら買っても良いのだが、ネットの試聴では肝心の部分が聞けない。聞ける範囲で推察する限りはアルバム・ヴァージョンのようではある。 そうなると現在、シングル・ヴァージョンが聞けるアルバムはないので、あの当時のシングルを売らなければ良かったと後悔しているのだった。
ちなみに収録された40曲のリストである。
1. イエスタデイ・ワンス・モア 2. スーパースター 3. 雨の日と月曜日は 4. トップ・オブ・ザ・ワールド 5. 涙の乗車券 6. ラヴ・イズ・サレンダー 7. メイビー・イッツ・ユー 8. リーズン・トゥ・ビリーヴ 9. 愛のゆくえ 10. マスカレード 11. 小さな愛の願い 12. ワン・モア・タイム 13. 遠い想い出 14. ふたりの誓い 15. クリスタル・ララバイ 16. アイ・ビリーヴ・ユー 17. 遙かなる影 18. 動物と子供達の詩 19. ふたりのラヴ・ソング 20. 星空に愛を(コーリング・オキュパンツ)
1. 青春の輝き 2. ナウ 3. ソリテアー 4. プリーズ・ミスター・ポストマン 5. ハーティング・イーチ・アザー 6. 愛は夢の中に 7. スウィート・スマイル 8. ア・ソング・フォー・ユー 9. オーディナリー・フール 10. すばらしき人生 11. 愛にさよならを 12. ユア・ベイビー 13. シング 14. ベイビー・イッツ・ユー 15. あなたの影になりたい 16. オンリー・イエスタデイ 17. ジャンバラヤ 18. リーヴ・イエスタデイ・ビハインド 19. 愛のプレリュード 20. 涙の色は
とりあえず今日はお休み。
先日「ウォッチメン」を観た時の予告編に「ターミネーター4」があった。クリスチャン・ベールが出ているし、なにやら巨大ロボットが出るのもあって、一体世界観がどうなっているのか興味はあった。 だが監督がマックGである。彼の実績というと「チャーリーズ・エンジェル」と「同 フルスロットル」の2作というとんでもない作品しかない。これでは及び腰になるし、そもそも良く「ターミネーター4」という大作の監督など任せられたものだと感心する。私なら恐ろしくてとても頼めないと思うのだが…。 ちなみに「海底二万哩」(リメイクだ)の監督にも決定しているという。実に不思議だ。 マイケル・ベイもそうだが、まともな映画の作りになっていない。それが何らかの効果を出していると言えばそんな事はなく、映画としては失敗または駄作と言っても良い。だがハリウッドでは大金を任せられるほどに人気なのである。私にはさっぱり理解できない世界だ。
午後は雑誌の立読みに出かける。 まずは「モデルグラフィックス」を読む。今月はイタ車特集があったりして笑えたのだが(もちろん痛い車のイタ車だ)、同じコーナーにイタ戦闘機なるものまであった。だがこれは模型であってもイタイ。そんな中でも一番痛かったのはベルX1だろうか。胴体ではなく、両翼に渡って女の子が描かれているのだが、よくまあこんなのを作ろうと思ったものだ。 多分私には作れない。作っている途中が恥ずかしいからだし、X1にこんな絵を描こうなどとは思わない。X1は音速突破のレコード・メーカーであり、やはり格好良く作るのが当然な機体なのである。 カラーリングを変えたり、多少の改造は範囲内だが、いわゆる萌え系の女の子を主翼に描くのは、どうにも馴染めない。私の中でのX1に、そういう選択肢はないのである。とにかくかっこ悪いではないか。
そして発売から少し日が経っている「キャラクター・エイジ」Vol.2だが、こちらはすぐに買った。なにせ90センチ以上ある映画版USS-1701エンタープライズのプラモ(このサイズでマスプロダクトと言う所が恐ろしい)の制作記事が載っているからだ。 エンタープライズは映画版のこの型が一番好きで、バンダイの塗装済みキットは1701と1701-Aの両方持っている。さすがに1メートル近いこれを買おうなどとは思わないが、今回の制作記事ではセルフ・イルミネーションの再現にチャレンジしているのだ。このセルフ・イルミネーションとは、映画版「スター・トレック」でエンタープライズの機首ナンバーを自照するシステムで、光源のない宇宙空間で外部から船体にあるナンバーが読めるように配慮したシステムだ。 映画ではなかなか印象的な効果を出しているが、実はこれをプラモでストレートに再現するのは、角度と照度の問題からほとんど無理で、映画のようにきれいな照明はなかなか出来なかったのである。 だが今回の記事では、言われればモデラーなら誰でも納得する実に簡単な方法で、これを再現している。最初に考えついた人は海外のモデラーとの事だが、まさにコロンブスの卵の典型的見本である。
方法としての発想は単純で、「表から照らせないなら、裏から照らす」だった。エンタープライズは成形色が白なので光が透過しやすく、電飾を施す時は内部に塗装するなどして遮光する必要があったが、これを逆手にとった発想で、遮光しなければ光が透過する事を利用したのである。 つまり自照するパターンを残して内部を黒く塗装し、未塗装の部分に内部から照明を当て、これを外から見るとライトが当っているように見えるという実に単純なものだ。実はこの発想、あまりに単純であるが故に言われるまでは30年近く誰も気が付かなかったのである。
光源をどうするかという問題はあるが、これならバンダイのエンタープライズでも再現出来そうだから、いずれ試してみたいものだ。そのためにはもう一機必要なのだが、最近は店でも全然見かけなくなった。 確か全世界での販売数が10万個だったはずだから、さすがにそろそろ店頭在庫も怪しくなってきたかも知れない。
2009年04月28日(火) |
「ヘッドレス・クロス」が好き |
実はブラック・サバスのアルバムで一番好きなのは「ヘッドレス・クロス」である。 これはユーライア・ヒープの「ソールズベリー」が一番好きだという以上に、どマイナーな意見らしい。という訳で改めてネット上で色々と調べてみた。
予想はしていたが、やはり「ヘッドレス・クロス」の評判というのは絶望的なまでに低いというのが良く判ってしまった。アルバムという観点からもメンバーという観点からも、決して他のアルバムに劣らないと思うのだが、トニー・マーティンに思い入れがないから嫌いだなどというのさえ見られるほどで、とにかく褒めている批評がほとんど見あたらないのである。1989年4月発表UKランクで10位なのに…。
やはり世間一般は、ブラック・サバスと言えばオジー・オズボーンなのだろうが、残念ながら私はあのヴォーカルが嫌いなのである。感覚的に受け付けないのだ。もちろん彼の才能は認めるし、若い連中を育てるという事もしているくらいだから、人望もあるだろう。だがあのヴォーカル・スタイルが苦手なのである。 私はヴォーカルとしては、ロニー・ジェイムズ・ディオやトニー・マーティンの方が好きだ。結局のところ、ヴォーカルを楽器の一部としてとらえているので、どうしてもオジーのスタイルが馴染めないのである。だから「ヘッドレス・クロス」は極めてストレートなロックになっているのが好きなのだ。 もっともこのストレートという部分は、様式美を前面に打ち出しているアルバムでもあると言える。様式美を持ち込むと拡張性は低くなるが、非常に聞きやすい良いアルバムになる可能性も高いのである。
ちなみにロニー・ジェイムズ・ディオは、ブラック・サバスが様式美を打ち出したスタイルに批判的らしく、このアルバムに対しても批判的な意見を述べている。ただしその内容が「様式美は自分が持ち込んだものであり、ブラック・サバス本来の姿とは異なる。サバスは元来、典型的なヘヴィメタルバンドだった」である。なんだか矛盾した意見のように聞こえるのは気のせいだろうか。 結局のところ、トニー・マーティンはヴォーカル・スタイルが非常にロニーに似ているあたりも気に入らなかったのかもしれないが、こういう意見が出るというあたりに、不人気の鍵があるのかもしれない。
という訳で、「ヘッドレス・クロス」と同じメンバー(コージーまでいる)で作られた「ティール」も聞いた方が良いだろうと思うのだが、この辺のアルバムになると入手がなかなか難しくなる。困ったものだ。
最近、地図で北を上に設定していない案内図を多く見るようになった。 地図で上を北するのは常識だし、どうしても違う場合は北を示すマークを入れるのが常識だ。だが最近はチラシの広告ですらこのルールが守られていないし、また会社で使用する説明用ですらどちらが北かさっぱり判らないものが増えつつある。 そしてそういう地図のもう一つの特徴は、判りやすい目印がないのである。チラシの地図でこれだと行く気にならないという以前に、行けないと思うのだが。 つまり目標がどこにあるのか、さっぱり判らないのである。
もちろんこういうふざけた地図を書く人間の心理は良く判っている。「自分が判っているから他の人も判るのは当然だ」という根拠のない思い込みがメインなのだ。だからその地図を見てこれがどこだか判らないと聞くと、ほとんどが怪訝な顔をするのである。
それとこういった地図の作製者のもう一つの特徴に、「普通の地図が読めない」がある。これは地図帳の地図というレヴェルではなく、ロードマップや市街地地図といった、極々普通の地図の事である。だから変な地図を平気で書くのだ。
やはりこういう部分でも、戦後の日本の教育は間違っていたのだろうな、と思ってしまう。
2009年04月26日(日) |
今日もあっという間に終わる |
結構な雨の中、午前中は、実家の用事。 古紙回収のために新聞やダンボールを出し、その後どんぐり2号と一緒に、実家の食料買い出しに行く。 しかし魚などの生鮮食品を買うのは難しい。鮮度を伝えるのが難しいので電話で連絡を取りながらの買い物になるが、現物を見ているのはこちらなので結構大変な作業になる。 そんな中で、デコポンの見極めが最高に難しいと思う。大概の果物は、その外観や触った感じから大体の味の見当は付くのだが、デコポンについてはさっぱり判らない。しわしわの方がおいしいとは言われるが、実際には水気がなかったり、極端に味か悪かった時もある。本当に判らない果物だ。
そんなこんなで買い物も終わり、昼から駅前に出る。 まずはケータイを見に行く。実際に動く機種に触れるのは、やはり人通りの追いドコモになってしまうのだが、それでも子どんぐりが欲しいと言っている機種はない。私の候補はやはり一長一短である。 最終的にオープン・タイプとスライド・タイプが一機種ずつ候補に残っているのだが、スライドタイプの耐久性が良く判らないので、困ってしまうのだ。別に10,000円位で買える物なら特に迷わないのだが…。
その足でタワーレコードに行き、昨日はかせの所で知った「DUKES OF STRATOSPHEAR」のブック・スタイルの限定CDを探す。 最初に「DUKES OF STRATOSPHEAR」のコーナーを見たら、昔買った2in1のCDしかなく、売り気切れたと思ったのだが、何の事はないXTCのコーナーに置いてあるではないか。こういうのはきちんと統一してくれないと困る。 確かにDUKES OF STRATOSPHEARというのはXTCの変名グループなので、同じコーナーに置きたいというのは判るが、せっかく別コーナーがあるのだから、その辺は頭を使った展示にするべきである。 それはともかく、とりあえず「25 O'Clock」を購入。これはビートルズを彼らなりに解釈して料理したアルバムで、実に楽しい出来だ。個人的にはかなりお勧めである。 今回はデモ・ヴァージョンが入っており、同じ曲なのにここまで違うのかと驚いてしまった。もう1枚も欲しいところだ。
あとはラッテ・ミエーレの「ライヴ・テイスティング」を買う。 脅威の再結成だが、いつから彼らはラッテ・エ・ミエーレではなくなっていたのだろうかと思ってライナー・ノーツを読むと、1976年から「エ」がなくなってラッテ・ミエーレになっていたのだそうだ。全然知らなかったなぁ。 しかし改めて彼らのライヴを聞くと、LPで持っている「受難劇」と「パピヨン」を聞きたくなる。ユーロ・ロック史上に残る傑作アルバムなのだ。やはりそろそろLPプレイヤーをなんとかしないといけないようだ。
ちなみにDENONからはデータをMP3に変換してUSBメモリーへダイレクトに記録できるプレイヤーが出ているという。定価で35,000円位だったはずなので、手が届く範囲だ。これがあればケータイなどへの記録が楽になるような気がする。やはりCDで持っていないどころか、CDでは出てすらいないアルバムがまだまだ存在するので、LPのコピーが必要なのである。
そう言えば世間はBDに移行しつつあるDVDだが、こちらもまだまだ未発売の映画が多い。一体映像関係の会社は何を考えているのだろうか。版権絡みなど、キング・レコードの例を見るまでもなく、努力で何とかなる物なのである。 そんな中でようやく「決死圏SOS宇宙船」が出るとのアナウンスがあった。ただし時期、価格とも未定だが、年度内発売の予定らしい。もちろん一応LDでは持っているが(当然輸入盤だ)、今回のDVD化はリマスターの上に当時の吹き替えも収録される予定との事なので、これは多少高くても買わざるをえない。 なお主役を受け持ったのは、当時は「太陽にほえろ」の山さんで有名だった、あの露口茂氏である。やはり最初は違和感があったが、これはこれで面白い。SF映画史上でもそう多くはない壮絶かつ悲惨なラストは、こういう人の方かあっているのかもしれない、と思ってみたり…。
そして「スローターハウス5」「イルカの日」「ザ・セブン・アップス」「八点鐘が鳴るとき」「黄金のランデブー」などという、「どうして今まででなかったのだろう、そりゃ売れないからに決まっている」的ソフトの発売が続くのだが、突然どうしたというのだろうか。
朝から雨で、かなり寒い感じがする。 子どんぐりは毎週土曜日が授業になっており、チャリが使えないので近くの駅まで送っていく。いずれ11時には帰ってくると言う実に不経済な授業ではある。
一旦帰宅して、昨日購入した「キャラクター・エイジ Vol.2」を読む。 今回のメインは昔のメーカー・オリジナルからなるSFメカ・プラモの特集だ。個人的にはキング・シャークが遊べるという意味では最高傑作だと思っているが、基本的にオリジナル・メカにそれほど思い入れはない。そのほとんどを作ったのだが、それほど面白いものではなかったのである。 むしろムーン・バスや1メートル近いエンタープライズの制作記事の方が遙かに面白かった。エンタープライズは映画版「スター・トレック」のヴァージョンで、特にセルフ・イルミネーション(機首のナンバーを自照するシステム)の再現はまさにコロンブスの卵的な発想で、本当に驚かされた。 一度でも作った事のある人には判るのだが、あのセルフ・イルミネーションを プラモで再現するのは難しい、というか普通の方法ではまず不可能なのである。つまりそのまま照らすだけではダメであり、その解決方法としての一つの案が実行されたのである。その効果は写真で見れば判るとおり、実に素晴らしい出来である。 コロンブスの卵的発想で驚かされたのも、何年ぶりだろうか。
その後、子どんぐりが駅に着くまで、近くのヤマダ電機でしばらくウロウロする。 5月になったらケータイを買い換えるのだが、本当にどの機種も「帯に短し、たすきに長し」である。というか役に立たない事おびただしい。良くまあこんな機械にみんな平気で金を出すものだ。自分のようにある程度機械を知っており、また必要な機能が明白だと、本当に今の携帯電話の機械というのは役立たずなのである。 いや、これで5,000円位で変えるなら文句は言わないが、実際には50,000円前後するしので困るのだ。実に不思議な世界である。
午後は実家で必要な物の買い物に行く。大した買い物ではないが、この雨の中だと面倒であるのは確かだ。松葉杖ではまずムリである。
夜は昨日届いた「巨泉×前武ゲバゲバ90分」を半分見る。 子どんぐりも途中から一緒になってなんとなく見てしまったから、それなりに判りやすいスケッチも多いようだし、実際今でも充分笑えるスケッチもあるのは間違いない。 ただ予想はしていたが、時事ネタや当時の流行りネタも多く使用されているし、また当時は斬新だがこれ以後陳腐化してしまったスケッチもある。実際にこの番組にネタ出しした連中は、その後の日本におけるギャグを盛り上げていった人たちが多いので、ゲバゲバのネタを発展させていった物もあり、そういう事を考えると、若い人には半分くらいしか楽しめないかも知れないと思ってみたりする。 例えばうつみみどりのロンパールームのセルフ・パロディなんて、どれだけの人が判るだろうか。沖縄返還やカンボジアのネタも先日観た「ウォッチメン」と一緒で温度差があるというか、理解不能というか…。あるいは横断歩道を渡るヒットラーなんて、今では放映できないから発想すら出来ないかも知れないだろうスケッチもある。 とりあえずすべて笑える年代かつ感性である事に感謝してしまうのだった。
なお今回のDVDは現存する数少ないカラーからの収録が多いとの事だが、麹町からは白黒ヴァージョンだが大量のテープが見つかったのだから、そちらも出して欲しいものである。 なにせ我々が見ていた当時は白黒テレビが主流だったから、当時の番組を白黒で見ても全然違和感はないのである。それが証拠に今回のDVDに収録されている白黒ヴァージョンの部分も、画質がかなり悪いにもかかわらず、何の違和感もなく楽しめてしまった。 いずれ歴史的価値としては「天下堂々」等と同じく重要かつ貴重である。なにせ若かりし頃の藤村俊二や常田富士男が見られるのだし、息子そっくりの宍戸錠もいる。ハナ肇にいたっては生きているのだ(そう言えばキャロライン洋子って、今は何をしているのだろうか)。
日本のテレビ史上でも類い希なギャグ番組である。公開できる物はどんどん公開すべきであろう。
ネット上でまこさん(もちろん菊池誠教授だ)がプレジデントに書いた記事が載っていた。 題名が「血液型で性格を決めつける人とどうつきあうべきか」というもので、「血液型という後天的に変えられない属性への差別は、陰湿でタチが悪い」と書いてあるとおり、軽い気持ちでとんでもないニセ科学を信じている人への警鐘である。 最近は特に血液型性格診断を無条件に信じている人が目立ち、話のネタかと思えば本気で信じているのがほとんどである。これははっきり言って迷惑以外の何物でもないし、意識せずともやはり差別になっているのである。
しかしここで書いてあるとおり、『「ないことの証明はしない」というのが科学のルール。存在しない論理は反証のしようがない』という部分を理解できない人が簡単にニセ科学へ傾倒してしまう今の日本というのは、本当に戦後教育の敗北だとしか思えなくなるが、その一方でまこさんのように啓蒙活動をしている人もいるのだから、完全な敗北だとも言えない訳である。
ちなみに冒頭で『「血液型性格診断」に科学的根拠がないことは、すでに心理学の実験で証明されている。多くの人はそれを半ば理解したうえで、「しょせんは遊びだから」と軽く考えて話題のネタにしている』と書いて、締めが『私も宴席で血液型を聞かれることがある。多くの場合は「大型」や「小型」、「Z型」などと答えてはぐらかしている。天気と血液型は差し支えのない話題と考えているのかもしれないが、とんでもない。むしろ「それしか話題がないのか」と見下される恐れがあることを、肝に銘じてほしい』である。
これは特に社会で働く営業の連中には肝に銘じて欲しいと、心底思う。当たり障りのない話題だけで過ごしているから、いつの間にか消費者より社会常識がなくなり、最後にはネットで勉強している消費者の方が商品知識も詳しいという状態になっているのだ。それが現実なのだから、営業というのはもっときちんと勉強しなければならない。 そんな状況でニセ科学の話を出されても、バカにされるだけであり、実際私は自分より商品知識のない営業は最初から相手にしない。そんなもの、少し離せば簡単に判るのだから。
ネット上でだが、JRが首都圏の駅で全面禁煙にしたことに対して、喫煙ルームが必要なのは、公立の学校や公園を作るのと同じ理屈だと主張したフリーライターがいる。 赤木智弘という人物で(この人物に敬称は不要だ)、「(タバコの煙が)嫌ならホーム端に行かなければいい」と全面的に反論、端にある喫煙所に不快を感じた事もないという。不思議な事にこの人物は非喫煙者なのだというが、これはにわかには信じられない。
しかも恐ろしい事に、「タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!」と主張しているのである。もうここまで来ると本人の気が違っているか、JTから大金をもらっているとしか思えなくなる(常識的に考えれば、後者なのだが)。 タバコを「個人の趣味」だとして喫煙ルームの税金など負担を否定する嫌煙家に対し、「もし、そうした理屈が通じるのならば、私は児童公園や市立の保育園、幼稚園、小中学校の全面閉鎖を求めたい。なぜなら、子供を持たない私が、子育てという個人の趣味を、税金を通して負担してやる理由はないからだ」と主張している。 判るだろうか。子育てを一介の趣味と断定しているのである。子育てが趣味ならいまごろ日本という国は存在しない。趣味と違って、育児とは我慢もしながら必死に子供を育てなければならない面の方が多いのだが、この赤木某という人物は子育ての大変さを全く知らない、独身者としても最低の人間だ。
結局この人物は、タバコという「百害あって一理なしの趣味」と国家の存続を同一レヴェルで語ろうというのである。いくら何でもここまで来ると、頭がおかしいとしか思えなくなる。金だけの問題では済まなくなるのだ。 こういう意見を平気でネット上に載せる赤木智弘と言う人物は、一体どういう人間なのだろうか。自由の主張を勘違いしているこういう人間が増えていけば、日本という国家はどんどんおかしくなっていくのである。 子育てが趣味だから全て個人負担というなら、いずれ国家は滅びる。そもそも国家というレヴェルの知性は完全に消滅する。そういうバカでも判る単純な事をすり替えているのだから、悪質だ。
恐ろしい世の中になったものである。
天気は良くなったが、昨日の湿気が残っているので日中は蒸し暑くなった。 しかも徐々に風が強くなっていき、夜にはかなりの強さになった。湿度は高いし風は強いし、要はあまり気持ちの良い天気ではないと言う事である。春だというのに変な天気が続く。
J.G.バラードがついに他界した。 1980年代以降、ディックと並びハリウッドで人気の作家だったが、一般大衆からは遠いところの作家が好まれるというのも不思議なものである。しかもプロデューサーからは嫌われるSF作家であり、何故そんなブーム的扱いになったのか、不思議と言えば不思議である。やはり「ブレードランナー」の評価が高かったという事実があるからなのだろうか(私は最初に公開されたヴァージョンのエンディングは大嫌いだが、退廃的世紀末のイメージを映像化したのは見事だ)。 ちなみに本人達はSF作家だとは思っていないかも知れないが、ディックは世界中で人気のあるれっきとしたSF作家扱いだし、バラードはインナーー・スペースという概念を定着させてSF界に貢献した作家なのは間違いない。 そういう人の原作が好まれて利用されたという事は、一般大衆には難しすぎて訳が判らないから、SFだとは思われていなかったのかも知れない。
そして日本では、そろそろ小松の御大がカウントダウンに入っていると言われ、まあそう遠い先の話ではないのは間違いない。少なくとももう長編を書く体力がないのは衆知の事実だ。 彼は日本が誇るSF界の巨匠なのだが、意外とまともな映画は少ない。そろそろこのへんで誰かまともな映画を作ってあげられないのだろうか。やはり「さよならジュピター」が未だに後を引いているという事なのかもしれないが、一般的には「日本沈没」と「復活の日」だけなのは悲しい。別に「果てしなき流れの果てに」を映画化しろとは言わないが、世界に誇れる映画を作って欲しいものだ。
そう言えば、私は神林長平の作品が好きだが、彼も映像化には恵まれないようだ。とにかく「戦闘妖精雪風」だけは、誰かがまともに映像化するべきだろうし、それがSF界の義務だろう。 まともな雪風が作れたら、例のゴンゾのアニメ作品は封印しても良い、というか封印するべき作品だろう。
天気予報の通り、朝から雨が降って薄ら寒い。それでもトレンチ・コートで充分だから、それほど寒いという程でもないのだろうが、少し風がふくとどうしても寒く感じてしまう。風で寒さは倍増するのだ。
そんな天気の中を母親は膝関係と眼科へ行ったそうで、これはちょっと大変だ。 しかし膝の方は、炎症が引かないと手術が出来ないとかで、しばらく様子見になってしまった。若いならともかくそれなりに高齢で間に合うのか? こういう所で今ひとつ医者の言う事が信じられなくなるのだが。 高齢であり、そこそこ日常生活もしなければならないのだから、そう簡単に炎症が引くとも思えない。それでは手術はいつになるのか不透明になってしまうだろう。 やはり日本には高齢者社会がなかったし、そもそも姥捨て山という概念がある国だったので、想像力がない社会になってしまった現在、本当に高齢者の事を考えた福祉など不可能なのである。自分が障害を持ったり年を取ってから初めて判るという単純な頭の連中が多すぎるのだ。
そんな事とは全然関係ないが。 いつも「ロッキン・オン」と同じく立ち読みだけで済ませている「BURRN!」だが、今月の新譜情報に「ラッテ・ミエーレ」という文字があった。懐かしいと一瞬思ったが、一体いつから「ラッテ・エ・ミエーレ」ではなくなっていたのだろう。それとも「アシュラ・テンプル」が「アシュラ」になったような、メンバーの移動に伴う名称の改変なのだろうか。これは謎だ。 でもアルバム「受難劇」は結構良く出来ていたので、このアルバムも聞いてみたいものである。
2009年04月20日(月) |
「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」だ |
昨日の14時から、日テレでは東京ローカル扱いだが「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」の特集があった。 もちろん番組自体の存在は事前に知っていたが、予想通り地方都市は完全に無視である。見た人の話だと、明後日発売される予定であるDVDソフトの宣伝的な内容だったようだ。まあそのへんの事情は良く判るから別に否定しないが、宣伝なら宣伝らしく、全国放映するべきだろう。なにせ天下のゲバゲバなのだ。こういうのは年代を越えてもっと世間に知らしめるべき作品なのである。それを東京ローカルで満足しているのだから情けない。 まあ結局は、現在の日テレに期待しても仕方がないと言えばそれまでか。 ちなみに今回、麹町の倉庫から見つかった「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」のテープはすべて白黒なのだそうだ。つまり正規のテープではなく、何らかのチェック用に録画された物が残っていた訳である。我々の世代ならこれですら充分なのですべて見たいのだが、はたして日テレがこれをソフト化するかと考えれば可能性はほぼゼロだろう。理由は単純で、白黒だからだ。なにせいくら文化的な資料としての意味があろうとも、その意味を考える事はおろか、理解できる重役がいるとは絶対に考えられない。それが今のテレビ局なのだ。 そしてここが重要なのだが、この「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」が放映されていた当時、どれだけの人間がカラーで見ていたか判るだろうか。それほど多くはないというのが実態だし、そもそもカラーテレビを持っているような金持ちが、「ゲバゲバ90分」を見ていたとはとうてい思えない。当時は低俗番組扱いだったのである。だから今、番組を白黒で出しても何ら問題はないのである。 そういうところまで考えられる人間は、多分今のテレビ局には存在しないだろう。
ところで。 先日モデルガンで入手したPPSh41はそのホールドが面倒な事でも有名で、実際にどう持てば良いのかかなり悩むであろう銃器である。実際映画で使われる事はそう多くないし、マンガに至ってはほとんどないと言っても良い。 そんな数少ないマンガに「ワイルド7」がある。この中の「運命の七星」で、オヤブンがピンチに陥ったユキを助ける時にPPSh41を乱射するシーンがあるのだが、実はどうホールドしていたか思い出せなかったので、昨夜はわざわざ実家に調べに行ってみたりする。困ったものだ。 そして問題の乱射シーンを見ると、どう見てもPPSh41の持ち方ではない。むしろステンなどの持ち方に近く、この辺はマンガの見栄えを優先しているためだろうか。まあ実際問題として「戦争のはらわた」のような持ち方は、実物を手にしてすらピンとこないかもしれない。どう見ても安定が悪いようにしか見えないのだが、ああいう持ち方しかないのも間違いがない訳で、単純に言ってしまえばこの銃はトンプソンの出来損ないなのである。 私だって「戦争のはらわた」を見ていなければ、欲しいなどとは微塵も思わないデザインなのだから。
昨日からやたらとヘリがうるさい。 これは霞目駐屯地で駐屯地祭があるからなのだが、何故か現在は事前の知らせがない。昔は近隣住民には連絡があったものなのだが、連絡どころかネットにすら載っていないのである。 霞目は陸自なのでヘリが主体であり、実はこれがかなりうるさいのである。そして突然うるさくなるのだから、事前通達は必要だし、連絡する義務があるだろう。まったく不思議だ。 私は自衛隊の駐屯地における公開行事は必要だと考える。けっして税金の無駄遣いだとは思わないし、むしろ税金を使っているのだから現状を公開するのは当然必要だろう。それを無駄遣いと騒ぐのは愚か者である。 だが、だからこそ事前通達は必要なのだ。自由主義社会では当然の義務だ。
実家での用事でいくつか箱を開けて整理する算段をする。 その途中でCDの箱を開けたら、色々と探していたものが見つかる。ここで選び始めると日が暮れるので、上にあった2枚だけ持ってくる。 帰宅してまず聞いたのは、ジョージ・マーティンの「イン・マイ・ライフ」である。これは彼がビートルズのナンバーを色々な人にプレイしてもらったアルバムで、ジェフ・ベックの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、フィル・コリンズのメドレー「ゴールデン・スランバー〜キャリー・ザット・ウェイト〜ジ・エンド」、そしてゴルディ・ホ−ンの「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」なんてのが聞きたくなったのである。 しかしフィル・コリンズがやると、あのメドレーが「ブルース・ブラザーズ」に感じてしまうのは不思議だが、さすがに元がドラマーなのでドラムのシーンは素晴らしい。 でも最後に入っているショーン・コネリーによる「イン・マイ・ライフ」は、音楽的に何の意味があるのだろう。 そう言えばピーター・セラーズによる「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」というのもあったが、ちょっと調べたらジョージ・マーティンのボックスセットの中に入っているではないか。高くて買えないが、きちんと聞いてみたいものだ。
もう一枚は「カリフォルニア・ギター・トリオ with トニー・レヴィン、パット・マステロット」といういかにもクリムゾン・ファミリーなアルバムである。もっとも音はクリムゾンではないが、以前新宿でクリムゾンの前座として出たのを見て、なかなか面白いと思っていたので買ったアルバムだ。 ちなみにこのアルバムの最大のウリは「燃える朝焼け」と「21世紀のズンドコ節」だと思うのだが、このアルバムでは「燃える朝焼け」〜「花笠音頭」〜「21世紀のズンドコ節」と続いているのだから恐ろしい。こんなのをワールド・ワイドで売っているのだが、はたしてどんな理解のされ方をしていたのか非常に気になる。 いずれ面白いサウンドのアルバムなのは間違いがない。
ところで「ウォッチメン」の冒頭、コメディアンの葬儀シーンでサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が使われたが、これは1965年ヴァージョンで、1964年に発表されたオリジナル・ヴァージョンではない。 そもそもこの曲を使ったのは監督のアイデアで、確かに曲の内容、成立共にこのシーンにぴったりだったのは間違いがないのだが、ここで深読みもできる。 つまり1965年ヴァージョンはポール・サイモンとアート・ガーファンクルの両人の思惑とは関係のない部分で改変され、それが何故か大ヒットしてしまった曲であり、自分たちのコントロールの及ばないところで世界が変わっていったのである。これはまさに「ウォッチメン」におけるロールシャッハ達の状況を表している、と思えるのだが。 もしザック・スナイダー監督がそこまで考えたのだとしたら凄いのだが、やはり深読みのしすぎ、なのだろうなぁ…。
松葉杖状態の親の手伝いを少々と、会社への用事などでほぼ一日が終わる。
昨夜観た「ウォッチメン」で、ケネディ大統領暗殺シーンが実はすべてロケで作られたものだと知り非常に驚いたが、これはコメディアンが暗殺したというシーンを作るために、たかだか数秒のシーンに大金をかけた訳である。こういう金の使い方が許される事もあるのだと感心してしまった。 ここでふと、子どんぐりにケネディ大統領の暗殺について聞くと、何も知らないという。確かに時代背景から何から教えるのは難しいので概略だけをざっと教えたが、ついでにyoutubeで撃たれた瞬間の映像を探して見せてみた。こういう時もyoutubeは便利だ。 しかしこの手のニュースは常識レヴェルだと思っていたが、子どんぐりが知らないのは本人が不勉強なだけなのか、世間一般がそうなのか。もし子どんぐりの不勉強ならこれはもう困ったものである。
ただ現在の若者と我々の世代の常識に大きな隔たりがあるのは間違いない。これは学校教育の運営を考える立場の人間が、あまりにいい加減だったからだ。本当の教育とはものを詰め込む事だけではない。考え方の方が重要なのだ。 もっとも例のゆとり教育などという最悪最低の事態を起こしてしまうような思考回路の連中がトップにいるので、当然ながら教育界が将来を見通せないのは当然だ。ただ教育は家庭でも必要だと意見も判るが、そういう個人レヴェルの話ではなく、教育とは社会全体の底上げが必要なのであり、それがないとアメリカのようになってしまうのだ。 そしてここまで落ちてしまった教育のレヴェルを上げる事など、金輪際あり得ない。全体のレヴェルが下がってしまった以上、底上げするだけの素養がすべて潰れてしまったのだから。
関係ないが。 現在の携帯電話には稀少金属が使われているので、それを回収したいと政府は考えているのだが、今後は回収を義務化する方向に動き始めたようだ。 だがこれはおかしい。携帯の機械自体は消費者が全額代金を支払って購入している商品だ。それをタダで取り上げるというのはまさに搾取である。回収するならそれを前提に価格を下げるか下取り制度の義務化を先にするべきであって、5万前後もする金を出した商品を回収すると言っても、納得など出来ない。私のように特定の目的で買った携帯は、通信が出来なくても使い道があるのだ。 最近の政府のやる事は付け焼き刃だらけで、まったく納得できないものばかりだ。給付金にしても、その考え方が全くおかしいから、効果など期待できない。やるならもっと効果を考えたやり方をするべきなのだ。所詮は税金なのである。
2009年04月17日(金) |
良く出来た「ウォッチメン」 |
レイトショーで「ウォッチメン」を観る。 時間を考えると109シネマズ富谷しかなかったので、そちらへ向かう。それでも結構危なかったのだが…。 今日はメンズ・デイだったので1,000円だったが、そう言えば名取のマイカル・シネマてはメンズ・デイのみを廃止してしまった。まあ現状では映画を見るのはレイト・ショーの時間帯になってしまうので、どうでもいいが。 今回はチケットを買うとTheater-5のシートを出され「どこでも空いてますから」と言われたので、とりあえずF7席にする。時間になって入場すると、まだ誰もいないし、3分前になっても誰も入ってこない。始まったら結局自分一人であった。158人の劇場で自分一人という、滅多にない贅沢な気分で映画に浸れたのである(でもなんだか映画館に悪いような気になってしまう、小市民な自分であった) 。これは押井作品ですら経験した事がなかったが、そうそう経験できる事でもないだろう。
それはともかく。 この作品は164分という長丁場なのに、昨年の「ダークナイト」同様、あっという間に終わった感じがする。つまり良く出来ているという証拠でもある。元々アラン・ムーア原作のコミックだから、上手く作れば駄作にはなり得ない内容なのは当然だが、それをきちんと映像化できるかどうかはまた別問題であり、今回のザック・スナイダー監督は原作に忠実に作る事を目標にしたそうなので、それが幸いしたのだろう。作品の本質を理解した上で、映画向けに改変するか、そのまま作るか、それを判断できるだけでもまともな監督だと言えるだろう。 やはり過去のアラン・ムーア原作作品は、映画にはなっているが、アラン・ムーアの原作にはなっていないのである。
そう言う意味でも、今回の作品は素晴らしい。原作には忠実だが、映像は原作をふまえた上でスタイリッシュになっており、映画にした意味がある。 そしてこの話の展開は、ラストも含めてSF好きなら別に珍しいものではないのだが、アメリカは外部に敵を作らないと決してまとまらない国だというのをここまでストレートに表現できたのは、元々がコミックという形を取った原作だからこそという一面はあるだろう。我々の世代のSFファンなら素直に楽しめる内容なのだ。 だが今の若い日本人にはかなり難しいかもしれない。アメコミのバックボーンが判らないだろうし、そもそも核の恐怖という存在自体を実感として理解しがたいような気がするのだ。つまりこの作品を楽しめる日本人は年代的にもセンス的にも結構限られてしまうかもしれないので、結果として全然ヒットしないだろうと予想されるのである。 この辺は文化レヴェルの違いだから仕方がない部分もあるし、そもそも原作を尊重すればその時代をストレートに描かないといけなくなるので、これはある意味仕方がない賭でもある。
しかし今時の映画で「サウンド・オブ・サイレンス」を使ったセンスには脱帽する。 歌詞も曲が作られた背景も、初めの方で描かれるコメディアンの葬儀シーンにはまさにぴったりの曲なのだが、誰がこれを今の時代に使うなどと考えるだろうか。おかげでここは名シーンに昇華されたのである。実に素晴らしいセンスだ。 監督は「ダークマン・リターンズ」の映画化も狙っているらしいが、このセンスなら彼に任せても良さそうだ。
またスタイリッシュな映像と書いたが、暴力描写もなかなか面白い表現が多い。今の時代はどんな描写も監督が考えたとおりに再現できるのかもしれない。もしこの技術がペキンパーの時代に使えれば、「ワイルドバンチ」での描写は文字通りの芸術に昇華されていた可能性もある。
色々な意味で、今の世代の監督なのだと認識させられたのだった。
今日はまた平日だというのに、会社で歓送迎会である。迷惑な。
予算がないので、会社の食堂で、である。食堂と言っても全員が入るのは無理なので立食しかない。そして自分たちでなにもかも用意するのだから非常に面倒だ。 しかも今年「も」親睦会が無能なので、こちらで色々と手間を焼かなければならず、本当に迷惑だ。基本的にリーダーが心遣いという点で無能なのだが、本来それをサポートするメンバーも全く同じであり、自分たちだけが楽しむ事を考えている。
買い出しも親睦会は誰も行かないので管理課長の命により私ともう1人の若者で行ったが、彼が親睦会から受けた指示は「持ち帰り用のタッパーを買ってこい」だった。バカである。あの規模と金額で何か残ると本気で考えているのだろうか。 そう言えばホテルでやる時は、いつも自分たちだけ持ち帰っていたなぁ…。メチャクチャ飲んでいるのに、である。こういうセンスで行っているから、本当に困るのだ。 もちろん今回も何も残らなかったのは当然だ。つまりタッパーが無駄になったのである。次回使うという発想は無意味だ。使う時に適量を用意するのが本質なのだ。
結局、親睦会は今の職場に不要だと言う事だ。今回も何一つしていないし、写真も我々に任せっきりだ。これで我々の金を使っているのだから、呆れるばかりである。
オバマ政権になってから、予想はしていたが、F22ラプターの生産は中止の方向に動いているそうだ。 中止に向かった一番の原因は単価が高いというもので、あまりにも高度な軍事機密が使われているため、機密保持の観点から議会が輸出を禁止してしまい、そのため量産効果による単価の引き下げが全く期待できなくなってしまったのである。
日本の次期主力戦闘機の最有力候補でありながら、輸出禁止で買う事が出来ないのが悩みの日本政府だったが、そもそも生産中止ではもはやお手上げである。となると日本政府は今後どうするのか。もちろん同盟国であっても輸出禁止と言う事は判っていたので、元からF22以外の選択肢も探っていたのだが、現時点ではF4の後継機が緊急に必要なのであり時間が全くないのだが…。 結局のところF15の改良型という案が一番有力なようだが、はっきり言ってF15は時代遅れである。中国ですらフランカーを利用しているという現実に立ち向かうには、同等かそれ以上の戦闘機が必要になる。特に中国、北朝鮮、韓国というラインから防衛するためには、結構切実な問題なのである。韓国ですら日本に対しては軍事的圧力を平気でかけてくるが、それが現実なのだから、それ相応の防衛力が必要なのである。
しかし戦闘機としての性能を考えると、フランカー・シリーズを購入するのが一番良いのだが、ロシアの製品だけあって、パーツの供給がかなり不安になる。技術的というよりは政治的な問題で、である。 戦闘機としての性能が良く、搭載するミサイルの性能も世界でトップ・レヴェル、なにより価格が圧倒的に安い、という良い事だらけなのだが、やはり問題になるのはロシア製品だという事なる。非常に残念だ。 かといってユーロ・タイフーンと言う案にも、政府は及び腰だ。何故かは不明だが、戦闘機としては現状でフランカーに並ぶ性能であり、次期戦闘機としての視野に入れるべきだろう。
結局日本の政府は、本気で国の防衛という事を考えていない。いや、今まで考えてこなかったから、今になって言われても考えられないのだ。その程度の頭の人間が世界でも有数の軍事力を動かしているのである。実に無駄な事だ。
2009年04月14日(火) |
Thunderbirds are go |
待望のサンダーバーズは、10月18日の三沢と決定した。 なにはともあれ、なんとか行けそうな場所での開催は喜ばしい。これが沖縄とかだったら絶対に行くのは不可能だし(公務員と違って、民間人はこのご時世そうそう休めないのだ)、天候不順で飛ばなかったら本当に意味がなくなる。
元々は9月21日〜10月21日までがTBA(To Be Announced、要はアナウンス待ち)だったので、日本国内はどこでやるのか非常に注目されていたのだが、例年なら9月開催の「三沢基地航空祭」が今年は10月18日とアナウンスされ、つまりわざわざサンダーバーズのソウル基地出演(10月23〜25日)の直前に持ってきた訳である。さすがに三沢はアジア地区の拠点と位置づけられているだけの事はある。 もっとも、元々サンダーバーズの演技がまともに出来るのは、三沢か沖縄くらいだと言われていたので、これは順当な決定だろう。航空自衛隊は、日本という独特の事情から訓練での墜落すら認められないため(普通の軍隊では、訓練時の墜落を経て実線での経験値を上げていくのである)、どうしても過激なマニューバは制限される。それは隊員のテクニックの問題ではなく、あくまで政治的事情からなので仕方がない。 だがサンダーバーズのマニューバは、世界でも希なくらいひたすらアグレッシヴなのである。三沢、沖縄以外の場所であのアグレッシヴな演技を行うのは、無謀すぎるだろう。これは実際に見ているから断言できる。
さて、こうなれば行く方向で検討しなければならないが、最大の問題はカメラである。 現在使用中の一眼レフ・カメラはシャッター幕に異常をきたしているEOS55とSEOS630しかない。修理しようにもそろそろパーツも在庫がないらしく、新規購入も考えなければならない。もちろん写真の腕が良い訳ではないが、サンダーバーズを追いかけるのは経験上なかなか大変だというのは判っており、そうなると必要なのは、AFの合焦スピードとカメラの使いやすさになる。現時点でフィルム・カメラを諦めるなら、コスト・パフォーマンスに優れるEOS40Dと、レンズ・メーカーによる28-300mm程度のズーム一本というのが妥当だろう。 カメラに欠けられる金がないので仕方がないのだ。
だが何にせよ楽しみなイヴェントなのは間違いがない。サンダーバーズを国内で見られるのも、そうそうチャンスはないのだから。
そろそろ「ウィッチメン」を見なければ、と思って時間を調べたりしていたら、なんと名取にあるワーナー・マイカルの映画館では、メンズ・デイがなくなっていた。つまりこの日だけ男性客が1,000になるという利用体系がなくなったのである。 もちろん経営者がこういうシステムを嫌うというのはなんとなく判るが、では何故レディス・デイは残しているのか、考え方としてはそれが良く判らない。つまり考え方に一貫性が感じられず、会議か何かの時にその場の勢いで決まったのではないかと思うのだ。
まあ実際問題として、メンズ・デイというのは平日なので利用する事はほとんどない。実情としては、利用したくてもなかなか難しいのである。むしろ利用するのはレイト・ショーだけだと言っても良い。今の時代、一般的な会社員は20時を過ぎていないとなかなか観に行けないのである。そういう時勢なので、レイト・ショー割引というのは、現実的であり非常に助かるのだ。
でも八戸にいた時は、レイト・ショーもメンズ・デイも共に1,000円だったのに、仙台ではレイト・ショーは1,200円である。この差はどこから来るのだろうか。やはり最初は戸惑ってしまったではないか。
いずれワーナー・マイカルのメンズ・デイをなくするという決断は、間違いだったと早晩気がつくだろう。なにせ世の中がデフレなのは間違いのない事実なのだし、その時流に逆らったところで、世の中の流れ自体が変わるはずもない。最後は自分が苦労するだけなのである。 優秀なメーカーは、デフレ社会が定着するという前提で営業戦略を立てている。今それを考えられるかどうかで、その企業の命運が分れるのは間違いがない。 インフレ社会が再来するなど、文字通りの幻想でしかないのである。もはや世界の経済が変わってしまったのだから。
ちまちまと買い物があって駅前に出る。 ズボンだのカバンだの粗仕事用の買い物がメインなので、今ひとつノリは良くないが、仕方がない。ただし仕方がないとはいえ、こういう買い物は日曜の午後にやるものではないなぁ…。
そんな裾上げ時間を待っている間に、新星堂に行く。 新星堂に入ると、ロック・フロアでビートルズの初期の曲が延々流れている。そういえば数日前にデジタル・リマスター発売のニュースがあったが、もう煽っているという訳だ。 しかしロック・フロアでビートルズとは、一体いつの時代に紛れ込んだのだろうと一瞬悩んでしまう。やはり自分の中でビートルズを聞きまくったのは中学から高校にかけての1970年代前半なので、どうしてもその頃を連想してしまう。そしてビートルズを聞きながら、リイシューされたアルバムを見ていると、ますます今はいつなのか判らなくなりかけてしまう。 やはり自分の中でビートルズは、かなり特別なのである。
ついでなのでタワーレコードにも行く。 こちらも行けば色々と欲しくなるアルバムがあるのは当然だが、今日はエディ・ジョブソンの「テーマ・オブ・シークレッツ」を買ってきた。これは1985年の作品で、UKの後に彼が目指していた方向の一部が判る作品だ。 しかしヨーロッパのアーティストでわずかでもプログレ系の音楽をやった人は、こういう方向に一度は走るのだろうか。少なくともあまり一般受けするようには思えないが、それをヒットさせたヴァンゲリスという例もあるし、まあやりたい事なら一度は吐き出してしまった方が良いのかもしれない。 別に悪いアルバムではないのだし。
そういえばナイトウィッシュの韓国ライヴも出ていたのだが、CD+DVDという少し高い価格設定なので今回は諦める。しかし驚いたのはその内容で、「Dark Passion Play 」をそのままライヴでやった物なのだそうだ。 このアルバムは、ターヤ・トゥルネンがクビになり新規加入となったアネット・オルゾン参加の最新アルバムで、確かに出来は良い。ターヤ在籍時の「Once」に匹敵すると言っても良いかもしれない。実はこの2枚、私のお気に入りでもある。 だがターヤのオペラ的ヴォーカルでは、いずれ曲作りに行き詰まるだろう事は容易に想像できる。素晴らしいヴォーカルではあるが、ロックの中で展開するには、いくらサウンド・トラック的な作り方を誇る彼らであっても拡張性は低いと言わざるを得ない。 だからアネットのような、きわめてロック的なヴォーカルが必要になったのだと思うのだ。もちろん彼らのサウンドはその辺のメタル系とは方向性が多少違うので、女性ヴォーカル主体と言ってもエヴァネッセンスやラナ・レーン等とはかなり異なるし、それが楽しいグループでもある。いずれこれからも見守っていきたいグループの一つなのは間違いない。
ついでなのでヨドバシやヤマダ電気を回って、ヘッドホンのコードをまとめる小物を探す。本当はオーディオ・テクニカで良い物があるのだが、先日見かけたのはピンクだけで、これはさすがに使えない。 今日は「Bone Wrap」という骨の形を模した小物を見つけたので、これで我慢する事にしたのだった。
誕生日である。1年が経つのは早い、速い。
朝食を取りながら見ていた朝のテレビでハイブリッド車の特集をやっていたが、意外な事にハイブリッド車に興味がない人がかなり多いようだ。さすが東京である。エコな生活というのは、実は地方の方が敏感なのかも知れない。
とりあえずタイヤ交換をする。 今回は30分もかからずに完了。タイヤラックを買ったのが正解だったようで、出し入れの時間が大幅に短縮された。その後スタンドへ行き、空気圧だけ調整する。これでタイヤ交換は完了である。しかし毎年の事だが、タイヤを交換した事によってハンドリングが重くなった。すぐに慣れるのだが最初は戸惑う。 そしてその足で、松葉杖状態の親とともにスーパーへ行き、買い物の手伝い。今日は米などの大物の買い物があって、明らかに一人では不可能なので、どんぐり2号と共に手伝うのだった。
午後は携帯を見に行く。2件回るが、すべてを現物で見る事は出来なかった。 なにせどこもかしこもモックアップばかりなのである。良くこんな状態で、普通の人は5万以上する機械を買えるものだ。私には恐ろしすぎる。それでも何台かは現物に触れたので、多少の絞り込みは出来た。もっとも本気で欲しくなる機械はまったくない。本当に携帯電話というのは不可思議な機械だ。
その後はボロボロになったシューズがさすがに恥ずかしいので、探しに行く。 しかし気に入ったデザインの物は、見事に自分の足のサイズがない。つまり足のサイズは人並みだと言う事か。いずれ仕方がないので、少し大きいので我慢する。本当は良くないのだが…。、
夜は松野からもらったスカイ・クロラ関係の番組を集めたDVDを見る。オマケも色々入っていて楽しい。最後に「ワルキューレ」の特番が入っていたのは嬉しい。
そんなこんなで一日が終わるのだった。
朝、出がけにまとりさん向け弾頭ミサイルを発射。某国と違って目的地へ着弾するのは間違いない。
ここ数日、暑いというのがぴったりの日が続いているが、今日はまた異様に暑い。こんなので夏が来たらどうなるのだろうと本気で心配になるほどだ。なにせ私は夏が大嫌いなのである。 ちなみに春も好きではない。あの徐々に暖かくなっていき、空の青さがくすんでいくのが嫌いだ。やはり季節としては夏が終わり冬へ向かう秋が一番好きである。空が澄んでいき、どんどん高くなる、あの雰囲気が好きなのだ。そして気温が徐々に低くなり、涼しくなっていくのも良い。夏の終わりのひぐらしも、もの悲しさを演出していて良い。 そういえば朝も嫌いだ。これから日が高く登っていくという感覚の朝が大嫌いだ。やはり夕刻の黄昏時が一番落ち着く。あの独特の雰囲気が大好きである。 あまりの暑さにそんな事を考えてしまうのだった。
そんな午後、会社の連中が夜になったら花見をすると言い出した。ほとんどの連中が行く気になっている。別に構わないが、なにも14時過ぎから突然行く算段を始めなくても良さそうなものだ。 酒好きの連中にも困ったものである。
懸案だった「映画秘宝」は、駅間に出たどんぐり2号によって無事入手。
ついでに「神山健治の映画は撮ったことがない」も買ってきてもらう。 神山健治という人は自他共に認める押井守の弟子であり後継者である。つまりこの本を読む事で、押井守のやってきた事も判るのである。なにせ神山健治と言う人は、押井作品を分析するために、押井守という人物のプロファイリングをした人間である。基本的にはマニアなのだ。 ちなみに本人曰く、押井守の弟子だと呼称しなければ、あと5年は早くデビューできたかも知れないとの事で、これはなんとなく判る。だが彼はきわめて真面目に勉強して、真面目に企画提案をしてきた人なので、その5年がまったく無駄になっていないところが素晴らしい。「攻殻機動隊S.A.C.」の監督という仕事は、努力の積み重ねからなるべくしてなったのであり、けっして偶然などではない。多分現在のアニメ界においては、トップ・クラスの実力を持っている人だ。
入手ついでだが、昨夜の楽天の試合を見に行った人に依頼していた、まとりさん用のイーグルス・マガジンも無事にゲット出来たので、これはオマケも入れて明日発送予定である。 しかし販売は球場のみで、駅前の楽天ショップにすら内というのはいかがなものか。なんだか色々と販売方法がずれているように感じるのは、私だけではあるまい。発売場所、発売時期ともにかなり曖昧なのである。
そんな合間に携帯の機種変更も考えているが、機種の絞り込みにかなり手間取っている。 その一番大きな理由は、魅力的な機種がまったくない事である。昔から言われる「帯に短し、たすきに長し」とはこういう時に使う言葉だ。最近は薄さを競うモデルが増えているが、少なくともメカ的に薄くするメリットは全然なく、むしろデメリットばかりである。そういう部分もあるし、そもそも使い勝手が良くなかったり、不要な機能満載とか、必要機能がないとか、とにかくすべてにおいて中途半端なのである。 多分携帯電話の開発陣は営業まで含めて、かなり無能な連中の集団なのだろう。おそらくは東京から出た事のない人ばかりで作っているのだと露骨に判ってしまう。結露で内部に水滴が出来るのに気づかないというあたりでもそれは判るし、そもそも電源の問題は地方では非常に大きな問題だと気づかないのが無能の証明だ。 東京というのは、日本における奇形児なのである。それを意識していない限り、万人に受け入れられる思想の製品は絶対に作れない。知っていて作らないのと、知らないから作れないのとでは、発展性に雲泥の差があるのだ。
ついにビートルズの全オリジナル・アルバムのデジタル・リマスター化が完了、9月9日に全世界同時発売になるそうだ。 もっとも誰がリマスターしようとも、絶対に批判の対象にはなるだろう。かくいう私もビートルズはLPでしか持っていないのだが、唯一CDを買った「アビィ・ロード」を聞いた時、リマスターも何もされていないオリジナルのままのハズなのに、バランスの違和感を感じたものである。ましてやリマスターでは、LP世代からかなりの批判が出る可能性が高いが、それはそれで仕方がないだろう。
とりあえずすぐにリマスター盤を買うつもりはないが、「アビイ・ロード」だけは買いそうな気がする。その上でLPと旧CDとの比較をして、以後どうするか決めるというパターンになるかもしれない。あまりに違和感がありすぎたら、リマスター盤は買わないだろう。 なにせビートルズに関しては、LPで全て持っているし、そもそもLPがすり切れる程聞き込んだから、今更高い金を出して買う必要性を感じないのだ。それにいくらビートルズであっても、全てのアルバムが傑作だという訳ではない。実は「レット・イット・ビー」なんかは、一曲一曲は素晴らしいが、アルバムとしてはビートルズ最大の駄作なのである(個人的にビートルズ最高のアルバムは「アビィ・ロード」だと断言しておく)。
それはともかく、ビートルズだけは常に安定供給されてきた安心感があるから、あまり急いでリマスター盤を買う必要性を感じないのかもしれない。私が好きなプログレ系やユーロ・ロック系は、常に廃盤の危機から来る入手困難との戦いだったのだ。今でこそビッグ・ネームであるイエスやキング・クリムゾンといった大物ですら、一時期アルバムが入手困難になっていた時代があるのだ。だからどうしても焦って買ってしまった時期もあったのだが、ビートルズだけは市場から消えた事がないのである。 レコード会社にしても金のなる木だから市場に供給し続ける事で自分たちの給料を確保する事が動機だろうが、それでも音楽のアルバムとしては正しい姿の唯一の良い例だろう。 ある程度の評価がある作品は、絶対に市場から消してはならないのである。
ただしビートルズのリマスター盤が市場に出たら、旧アルバムはすべて廃盤にするそうだが、それはそれで間違った姿勢であろう。リマスターというのはエンジニアがオリジナルを改変する作業に他ならないのだから。
会社でまたもトラブル。 自分で矛盾した行動を取っている事が理解できていないようで、本当に幼稚園児を相手にしているようで疲れる。こういう人間がどうして会社という組織にいなければならないのだろうか。 というか、そういう人間が何人かいるから、いつまで経っても売り上げが伸びないのである。バカ相手というのは、本当に疲れる…。
で、夜に今月号の映画秘宝を買いに行った訳である。 ところが驚いた事に、近所のTSUTAYAには先月号しか置いていない。何故だ。たまに月遅れの雑誌が大量に置いてある事があるが、今月号が置いていないというのも珍しい。「ウォッチメン」に絡んでアラン・ムーアのミニ特集が載っているのだが、それで売り切れたなんて事は、少なくともTSUTAYAレヴェルでは絶対にあり得ないと断言できる。そんなに文化的にレヴェルの高い人間がTSUTAYAに買い物に来ている訳がないのである。もちろん自分も含めて、である。 明日あたり、どんぐり2号が駅前に出た時にでも買ってきてもらうしかなさそうだ。
ない、と言えば。 まとりさんがイーグルス・マガジンが欲しいと騒いでいたのだが、なんと球場限定で、しかも100円とはいえ有料になったのである。昨年度までは無料配布だったものなのだが、有料ならもう少し買いやすい環境を作るべきだろうに。まとりさんが騒ぐのもムリはない。現時点では東京で入手する方法がないのである。 明日、会社で野球観戦をする人達がいるので、とりあえず頼んでみる事にして、まとりさんにもその旨を連絡しておくのだった。
2009年04月06日(月) |
またマイナーな物が出る |
某北朝鮮からの飛翔体という名前のミサイルは、予定通りのコースと落下地点だった。 つまりこれはミサイルの実験だったという間接的な証拠である。これが衛星なら完全な失敗であるし、そもそも「世界中が予測している落下点に墜落する衛星」など、あり得ない。こうなっては、さすがにどこかの党首も沈黙するしかないだろう。 もっとも某国寄りの人だから、何を言い出すか判らないところが恐ろしいのではあるが。
ところでファインモールドから、なかなか面白げだがはたして誰が買うのだろうか、というプラモが出る。 なんと1/20スケールの「立形マシニングセンタV33i」なるシロモノで、税込価格3,990円で6月下旬一般販売開始だとの事である。以前、バンダイでガンプラを射出成形しているマシンが限定発売されたが、今回は金型を作る機械で、牧野フライス製作所が製作・販売する工作機械「立形マシニングセンタV33i」のスケール・モデルである。 部品点数92点、接着剤不要というスペックが今時だが、さらに1/80スケールでこのV33iキットのミニ版も販売するというおまけのニュースまで付いてきた。ただしこちらは静岡ホビーショー会場限定発売という、例によってのいやらしい販売形式になるのだが、とりあえず税込価格1,260円である。
ネット上では、こんな物を誰が買うんだとの声も多いようだが、私は純粋に欲しいと思ってしまう。なにせ今を話題のファインモールドの製品だけあって、1/20スケールの方をネット上の写真で見る限りは、かなりシャープで良く出来ている。 まあ普通の人は、作っても飾っておく意味がないであろうシロモノではあるが、模型という物に少しでも興味のある人なら、やはり面白そうだと思うのではないだろうか。 ネックは価格だが、ここまでマイナーな製品ならこんな物であろう。
午前中は、松葉杖状態の親を連れてスーパーへ買い物の手伝い。 松葉杖という軽度の傷害であっても、スーパーでの買い物程度ですら大変である。特に大きな物が買えないので、例えば米などは持ち帰る事が出来ない。これまで何一つ整備してこなかった日本の高齢化社会というのは、判ってはいたが、本当に不便で大変なものだ。
買い物を終えてから、どんぐり2号と名取方面で開催中の怪しげな安売りの店に行ってみる。 実は小物の撮影用にちょっとしたライト・スタンドが欲しいのだが、一般的にはかなり高く、実は普通のスタンドより高いのである。と言うわけで、こういう安売りも物によっては使えるかも知れないと思い、たまには覗いてみるのだが、大概使えないのは予想通りである。 今回置いてあったのはすべて電池タイプで、これはこれで便利なのだが、使う電池が単一とか単四なのが困るのだ。 単四はあっという間にカラになるのは明白なので、ライト系では使えない。単一は確かに長持ちはするが、普段ストックする電池ではないので、不経済である。何故かこの手の商品は、普段あまり使わない電池で稼働する物が多いのだが、やはり単三仕様が望ましいのである。 そして電源の問題を無視しても、やはり安いスタンドという物は根本的に光量が不足しているので、少し離すだけで暗くなってしまう。安物の電池仕様では、あっという間に電池がなくなって暗くなるのは目に見えている。これでは使えないのだった。
その後、15時に外出。松野と合流し、名取の高橋邸へ向かう。 昔からのモテルガン仲間だが、今回は手持ちのほとんどをオークションで処分するというので、その前に引き取らせてもらう事にしてあるのだ。 とりあえず長年欲しかったPPSh41を引き取る。1981年モデルで、バレルは根本が閉鎖されているが、ガス・エスケープが付いている。これはいざとなれば銃口から煙が出せるのである。まあ元々は持ちにくく使いにくい銃だが、やはり「戦争のはらわた」でシュタイナー軍曹が撃ちまくるシーンを知っている人なら欲しくなるのである。
ここでは3人揃って色々とモデルガンの話をする。ガヴァのシリーズ70はグリップ下部が割れやすいとか、イングラムのレシーバー後部が割れやすいとか、カートの共用とか、同じ銃のメーカーによる違いとか、とにかく色々な話をして盛りあがったが、もしかしたらマニアな会話だったかも知れない。 そして60歳になったら各々お気に入りの銃を一挺だけ持ってきて、集合写真を撮ろうという話も出た。これは楽しみな企画である。ただしあと10年もないのだが…。
しかし家庭や健康の問題も色々と話に出る。 実は高橋君とはほぼ10年ぶりに会ったのだが、やはり外見は年相応に老けていた。もちろん話し始めると昔とほとんど変わっていないのだが、やはり色々と家庭の苦労もあるようだ。仕事の苦労なら最悪投げてしまえるが、家庭の苦労は投げ出す訳にはいかないのである。 でもまあ、年と共に中身が変わってしまう人も多いので、外見はともかく中身が全然変わっていなかったのは嬉しい。そのうちまた遊びに行きたいが、単身赴任しているので、会うのもなかなか大変なのだ。 なんだかんだで、3時間があっという間だった。
そして夜はいわさきさんから電話。 映画「ウォッチメン」を観たが、これがかなりのお勧めだとの事。まあアラン・ムーアが原作でそうそうつまらなくなるとは思えなかったが、原作に忠実でかつ映像も素晴らしいのだという。ただしパンフにはアラン・ムーアに関する記述は全くないというのも不思議な話だ。色々と出版社との確執があるのがうかがえる。 いずれ近いうちに観に行かなければならない映画だ。
今日も粗仕事。そして某国からのミサイル日和である。
しかし、これを衛星の打ち上げだと言い張っている某社民党のトップは、一体どこの国の所属なのだろうか。少なくとも日本の政治家としての資質はゼロだし、あまりにも知識と常識がなさすぎる。こういう人が政党(それがどれほど腐っていようが)のトップにいられるという事自体が、政治の質の低下を証明している訳だ。 そうかと思えば、金木のバカとして有名な羽柴秀吉は、自宅にミサイル基地を作ったと騒いでいる。いつまで経っても相変わらずバカな成金である。そもそも写真で見る限りミサイルではなく、せいぜいが花火というシロモノなのだが、こんなのがニュースになるのだから、平和な世の中である。
なんだか多くの日本人にとって、北朝鮮のミサイル実験というのは、お祭りのネタでしかないのかもしれないと思ってみたりする。あまりにも脳天気な発想の奴が多いからだ。 ニュースでは「早く終わって欲しい」などとコメントする平和な奴もいるが、この実験により、危機は始まるのだと言う事が何故判らないのだろうか。しかも核の小型化に成功したかもしれないとアメリカの情報筋が言っているが、これは心底恐ろしい自体になる事を示唆しているのだ。日本人はもう少し軍事というものを勉強するべきだろう。
等と言いつつ、いきなり「クレイモア」だ。ちなみに爆薬ではない。 ジャンプSQで「クレイモア」を立ち読みしたのだが、いよいよ着地点が見えて来た感じがする。各キャラクターの役割が徐々に見えて来たので、ラストをどうするかが見え始めたのだ。 ただし「組織を潰す」という部分はどうもはっきりしない。ミリアを圧倒するバケモノだらけになった組織をどうやって壊滅させるのか、その部分は今のところ見当がつかない。しかもこの大陸だけの話ではないので、その辺の処理は難しくなるのではないだろうか。 もっともクレアに対する伏線もあちこちに散らばっているから、大陸を出ない限りは何とでもなりそうだが…。
16巻は5月1日発売予定である。
2009年04月03日(金) |
今日もyoutube |
今日も今日とてyoutubeで遊ぶ。 相変わらず宝庫なのだが、今日はなんと「カノッサの屈辱」が見つかる。もっとも1番組を3つに分けているので、続けて見るのが意外と大変である。途中が簡単に見つからかったりするのだ。 まあそれ自体はネットの問題なので置いておくとして、とにかく「カノッサの屈辱」は今見ても充分、いやそれ以上に面白い。まさにこの時代の宝だと言える。一部で某ネズミーランドを扱ったりしたためお蔵入りにされた作品もあるが、それは大きな間違いだ。こういった知的財産を葬ってしまうのは、一種の犯罪である。本当にもったいない。 LDの時代に全話ソフト化しておくべきだったのだ。
ところで。 会社で「youtubeでテレビが見られないか」と聞かれる。野球の中継が見たいのだそうだが、未だにこういう勘違いをしている人がいるのだと感心する。 しかも見たい物が野球だという部分で、ますます感心してしまう。そういった資源の無駄遣いをyoutubeと結びつけるという発想が、知的レヴェルの低さを露呈している。 そもそもyoutubeは映像の宝庫である。これが何を意味すると言えば、サブ・カルチャーをメインに扱うべきなのであり(もちろんサブ・カルチャーという物が判らない連中に見る資格はない)、それ以外の映像については普通に大手がソフト化するば良いだけなのである。 youtubeは画質が悪かったり切れていたりで普通には商品化出来ないような映像を、とにかくどんどん載せれば良い。それによって勉強になるからだ。例えばロックの歴史は、時系列で見る必要があるが、youtubeを駆使する事で、かなりの事が判るようになる(かもしれない)。 何度も言うが、きれいなだけの映像に意味はなく、存在価値がないと言っても良い。問題になるのはあくまでその内容であり、中身なのだ。そういう映像の価値が判らないようでは、youtubeを見る資格がないという意味が判るだろう。
youtubeで昔の海外テレビ・ドラマのオープニングなどを見られるようになり、これはかなり楽しい。 本当に古い作品等は、自分の記憶とのギャップがあったりもするが、総じてほぼ記憶は正しかったのだと満足感もある。そしてまさか「ハックルベリー・フィンの冒険」や「魔法使いキャットウィーズル」まで見られるとは思わなかったものだ。 さらに「秘密指令S」や「特別狙撃隊SWAT」等は、正式なサントラが発売されておらず、正式盤として出たレコードはアレンジされた物で、ガッカリしたものだが、今はオリジナルの映像をそのまま見られるのだから、こんな楽しい事はない。 もっともそんな中でも見つからない作品もまだまだあって、それは古い作品とは限らない。私が大好きだった「インターン」は未だに片鱗すら見つからないのである。このオープニングも好きだったのだが。
そんな今日は、「ザ・ルーキーズ 命がけの青春」が見つかった。若かりし頃のケイト・ジャクソンが出ているので久々に見たかったのである。 さらにこれを探している途中で、ちょっとばかり興味深い記述が見つかった。あの当時はテレビ・ドラマのノヴェライズも多く出ていたのだが、この「ルーキーズ」もサンポウ・ブックスからクレイル・パーカー著という本が何冊か出ている。面白いのはその中で昭和50年6月12日の奥付で出されたもので、翻訳が「上田純一郎」となっている。上田純一郎というのは、実は「高橋三千綱」の事なのだそうだ。アルバイトとは言え、こんな事までしていたのだと驚く。やはりいつの時代でも純文系の作家は大変なのだと思ってしまうのだった。
でもこの人の翻訳がどういうものだったのか、非常に興味があるところだ。
エイプリル・フールだが、何も思いつかない。これはいつもの事だ。 そして各メディアでもこれはというネタがない。やはり不況で精神的な余裕がなくなっているのだろうか。
そんなエイプリル・フールのネタとは全然関係なく。 裁判において裁判官が、殺人罪で死刑にする場合の判断基準に、被害者が加害者より多くなければならないというものがあるのだという。つまり複数の人間で一人をなぶり殺しても絶対に死刑にはならないという事を示している。 過去、暴走族や暴力団が集団で一人を殺しても、誰も死刑にならないのはそういう理由があった訳で、加害者である彼らはそういう裁判の事を熟知しているから複数で犯行に及んでいる可能性がある。やはり裁判官もしょせんはただの公務員であり、自分に直接火の粉が降りかかってこない限り、全ては他人事なのである。 結局、現在の司法制度にはその犯罪を裁くという意味合いしか持たせておらず、犯罪を減らすための抑止効果までは期待して来なかったと言う事になる。そういう側面が皆無だったという事とは、極端に言ってしまえば、死刑に犯罪抑止の効果はなかったという事になる。複数で一人を殺せば誰も死刑にならない、というのが判っていればなおさらだろう。
そんな経緯を知っていれば、ネット上で知り合ったバカどもが共謀して金銭目的で女性を一人殺した事件で、3人の内2人に死刑判決が下りたというのはかなり画期的な出来事だ(多分最高裁まで争われるだろうし、最終的には過去の判例を踏襲して死刑にはならない、という結果で落ち着きそうな気がするが…)。この部分は評価しても良いだろう。 ただし首謀者が死刑にならないというのは明らかにおかしい。自分で計画し女性をなぶり殺しておきながら、金の奪取に失敗するや他の二人を売り、「事件が解決したの誰のおかげだと思っている」とうそぶくほとんどキチガイじみた思考回路の人間が、死刑にはならないのである。こういう部分で、日本の公務員が裁判をしている司法の限界点が明確になる。
だからこそ裁判官制度のような、国民の感覚を反映させるシステムガが必要なのである。公務員というのは世間一般の常識に欠けるのは以前から言われているので、一緒に裁判を行う事で国民の感覚をある程度は反映させるようにするべきなのである。もちろん法治国家として極端におかしい場合は修正する必要があるが、少なくとも国民の声がどういう物なのかを裁判官が知る事は、決して無駄にはならない。
|