どんぐり1号のときどき日記
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2007年05月31日(木) |
ギーガーは孤高である |
月末である。それでも営業はヒマそうで、実に不思議也。
メーカーの人から聞いた話だが、住宅用建材からホルムアルデヒドが検出されないようになったおかげでキクイムシの類が繁殖しやすくなったそうだ。まあそういうものだろう。人間が過ごしやすいという事は、他の動物や虫などにとっても同様なのである。 ちなみに一度そういう類に建材を喰われはじめたら、4〜5年は放っておいた方が良いそうだ。そうすればセルロースなどの栄養分を喰いきってエサがなくなる事でいなくなるとの事だ。途中で板を交換するのは、エサを与えている事になる訳である。なるほどなぁ。
ところで。 ギーガーのデザインを真似する人が多く、ネットで大量に見かける。確かに影響は受けやすいし、私も熱中している一人である。しかし絵を真似ている人で、明らかにギーガーの影響下という人は少ない。 そもそも絵を描くくらいだから、自分の持ち味を持っているため、オリジナリティを出せばギーガーからは離れていくし、強調すればただの真似になる。 そして最大の問題は、ギーガーの絵というのは病的なのである。はっきり言って精神的にはかなり危ないはずだ。まさに紙一重という世界なのである。 とにかく彼以前にああいう絵を書き続けた人はいなかった。そういう意味でも天才でありパイオニアなのである。 真似をしたところで誰も認めてはくれないのだ。
2007年05月30日(水) |
新・カジノロワイヤル |
昨夜は「カジノロワイヤル」2006年版を見てしまった。2時間半近くあるとは思わなかったので、寝たのが2時を過ぎてしまったのは秘密である。
もちろん1967年版はLDで持っているし好きな映画なので、今回はどうなるのか期待とともに心配でもあったのだが、予想以上に良く出来ていた。なによりシナリオがまともである。極端にオーヴァーなアクションは控え、初期007という雰囲気が非常に良く伝わってくる作品に仕上がっている。今まで007を見て来た人なら、かなりの人が抱いている「スパイ映画」という雰囲気がうまく出ていると思うのだ。 007シリーズから5本を選べば、多分かなりの人がいれるのではないだろうか。 いずれ色々と新機軸を盛り込んだ映画である。ある意味で一番原作の持つスタイルに近いように感じる。
そして今回ボンドが使用する銃はやはりP99で、ほとんどのシーンでサウンドサプレッサーを装着しているのだが、これが今回の内容に見事にマッチしている。敵もあまり大きな音を出さないため、この部分だけでも往年の「スパイ映画」という雰囲気が出ているのである。 ただ、P99という大型拳銃に大型のサウンドサプレッサーを付けて、ボンドはこれをどうやって持ち歩いているのか、全編を通してそれだけが非常に気になってしまったのであるが…。 事前情報で、今回の映画で使用するかもしれないという噂のあったPPKは、良い銃ではあるのだがいかんせん非力である。護身用ならともかく、攻撃的な任務に使用するにはあまりにも時代遅れなのだ。それは仕方がない事でもある。
ついでだが、エアガンの世界ではサウンドサプレッサーが装着できるモデルも出ている。だがどれもサウンドサプレッサーが妙に細いのである。これはサイトの邪魔にならないように、という配慮らしいが、サウンドサプレッサーを付けて精密射撃もないだろう。所詮はオモチャの世界なのだから、映画と同じようにもう二周りくらい太いサイズにするべきで、その方が「いかにも映画的」な雰囲気になるのだが。 そういう意味で、マルゼンのPPKはあの細さがアンバランスで気に入らない。せっかく魅力的なセットだったのに…。
夜にいわさきさんから電話。 私はまだ会社だったのだが、なんと彼は研修で仙台にいるのだという。木曜まででしかもかなりみっちりと講義があり、その上宿泊場所には門限まであるという。なんだか凄まじい状況だ。そうでなければ遊びに行くのに、残念也。
この特チュウジさん救済宴会のアイデアが出た(たかが10分にも満たない時間なのに、簡単に暴走してしまう我々である)。ここで書いてしまうと実際に開催された場合につまらなくなるので、内容が書けないのは残念だが、とにかくこれは実際にやりたいものである。
ところで今日、会社で20代後半の女性から、年はいくつなのかと唐突に聞かれてしまったのだが教えるのを躊躇してしまい、「秘密です」と答えてしまった(この時は「年齢不明ですね」と返されてしまったのだが)。 なんだか50を過ぎてからというもの、会社関係ではあまり人に年を言いたくなくなってしまった。 もちろん友人知人には抵抗なく言えるし、初対面であっても趣味の関係なら平気で言えるのに、不思議なものだ。
来月発売予定の(あくまで予定であり、模型屋ですら遅れるだろうと言っている)「66式メーサー殺獣光線車」だが、このフルネームが使われるようになったのは、実はウェーブから1990年頃に発売された1/78のプラモが最初であり、これ以後定着していったのである。
そもそも映画の中では「メーサー車」だったのだが、その後出た解説書で「メーサー殺獣光線車」が使われるようになり、一般化していった(一般化といっても限定された一般化だが)のであり、「66式」と言う呼称は使われていなかった。 この理由は明白で、映画で活躍したメーサー車は「サンダ対ガイラ」のみだからだ。その後の映画に脇役で出た時にはただのやられメカであり、本来のメーサー車としての使い方と活躍をした映画は存在しないため、わざわざ「66式」などつけて区別する必要はなかったのである。
今回アオシマから出るモデルは、「66式メーサー殺獣光線車」と「70式メーサー殺獣光線車」の二種類が発売されるという事になったのだが、私は70式というのはメーサー車とは考えていない。あれはあくまで、倉庫にあった撮影用プロップを出して加工して少し出しただけの、文字通り予算の都合で引っ張りだしてきたモデルだからだ。 したがって昭和のゴジラ映画に「メーサー殺獣光線車」は出ていなかったと考えても良いのである。
今回のアオシマのモデルは確かにファンが長年待っていたものだが、ここは66式一種類に限定し、ファンのために少し安い「2台セット」を出すべきだったろう。私もセットで2万なら躊躇せずにそちらを買ったのは間違いない。 いくらアオシマのこのシリーズは二種類出すのがフォーマットになったのだとしても、やはり出す必要のない物も存在するのだ。 70式が売れ残ったらどうするのだろう。
マッド・アマノ氏の「パロディ主義」を読み返している。 この中で、オウム真理教が関与した国松長官狙撃事件の時に警察が作った「NO! GUNS」というポスターについてのネタがあった。それまでは「NO MORE GUN」というポスターだったのだが、突然「NO! GUNS」というポスターを大量に作って都内にばらまいたのである。
当然アマノ氏は、狙撃事件を扱っている最中にこんな事をしているとは、本当に警察はヒマだとしか言いようがないという論調である。そして都民の目につく場所に張るのではなく、暴力団事務所に張ってもらわないと意味がないと書いているが、まさにその通りである。 銃器に関しては暴力団を取り締まる事だけを考えていれば良いのであり、こんなずれた事などしているヒマはないだろう。もっとも警察のやる事は、いつもどこか「ずれて」いるのだが…。
とにかくこれに関しては、あまりにツッコミどころが多すぎる事例であり、もう警察は何を考えているのか判らないという状態なのだが、この時の文章の最後は「こんなポスターで短銃による犯罪が減るもんか!」で締めくくられている。 ちなみにこの本が出たのは1997年、つまり10年前である。そしてこの言葉どおり、減るどころが増加しているのが現状だ。治安のシロウトの方が、よほどきちんと世の中をとらえており、警察の首脳部は存在しない方が世のためと言う時代になっていたのである。
これはまさに以前の道路公団と同じ状態であり、危機感のない首脳を抱えているのだから、早いところ警察も分割民営化した方が良さそうだ。
昨夜は夜中になってから「シン・シティ」を見てしまった。今日は出社なのに…。
原作がコミックのこの映画は、映像処理がなかなか面白い。かなり手間隙かけて処理がされているし、その処理の仕方も場面毎に異なっている(多分原作者の意図する効果なのだろう)。 それはいいのだが、残念な事に「ブレードランナー」とまったく同じ欠点を持っていた。つまりモノローグである。これは映画においては邪魔でしかなく、誰もが見る可能性のあるテレビ・ドラマではないのだ。心理描写は映像でするべきで、どうしても必要なら短い言葉で普通のセリフを工夫するべきなのである。 これでは一般的な観客は何も考えずに見てしまうだけだろう。
しかし元々がコミックのせいもあるが、かなり荒唐無稽と言うか、話としては無理のある部分も多々見受けられる。この辺は脚本レヴェルでもう少し練っておくべきだったろう。ただ原作者が監督に名を連ねており、その原作者に気を使って好きにやらせていたというから、製作側としては仕方がなかったのかもしれない。 それでも日本では原作コミックに馴染みがないのだから、ワールドワイドに売るつもりなら、もう少し脚本は考えて作らなければならないだろう。
もっとも、モノローグの使用が製作側のある意図の元に行われているのなら、映画としては出来が悪いが、観客動員を狙うと言う点については、当然の帰結なのかも知れない。 その当然の帰結とは、原作コミックを映像化する事による荒唐無稽さを観客に感じさせないという効果を出す事である。観客に違和感を感じさせずに面白かったと思わせれば、今のハリウッド映画としては合格点なのであり、それがプロデューサーの仕事でもある。 そもそもある意図の元に観客を監督の意図する方へリードするのは、何もモノローグを使わなくとも簡単である。例えば画面を暗闇にしてライトを当てる事で、観客は全員がそれを見て、監督の見せたい物を見る。映画は映像で見せるためにあるのだから、こういうのは映像テクニックとして問題はない。 やはりセリフで説明するのであれば、それは映画として意味がないのだ。モノローグやナレーションは、少なくとも「映画」には不必要な要素であり大きなお世話である。 だから「ブレードランナー」は、私は公開当時から駄作であり失敗作だと言い続けてきたが、「最終版」の登場でようやくSF映画として完成されたのである。だから私は、「ブレードランナー」については「最終版」しか認めていない。
そのくらいモノローグやナレーションとは不要なものなので、使い方を誤るとかいうレヴェルの話ではない。入れてはいけないものなのである。 つまり、映画とはハードボイルドである。
ネットのニュースで、「久間章生防衛相は25日午前の閣議後の記者会見で、クラスター(集束)爆弾の使用禁止条約締結を目指す動きが広がっていることについて『日本は(国を)守るときにそれに代わるいい武器がない。海岸線が長くて(敵が)着上陸するときに水際で防がないと守りにくい』と述べ、同爆弾は国防上必要との考えを改めて示した。」というのを読んだ。
これだけを読むと「この人は本当に防衛大臣か? ただのバカじゃないのか?」と思ってしまう。どこの世界にクラスター爆弾を水際の防衛に使おうと考える人間がいるのだろう。
日本の地形を考えると、相手に上陸されたらもう負けである。まず事前の察知が必要で、これが出来なければ本当に日本の防衛は穴だらけという事になる。もっともそこまで抜けている訳ではないので、ゲリラ活動は別として、侵略の意思を持って進行してくるような敵なら100%察知できる。 そして日本にこっそり上陸するようなゲリラに対してクラスター爆弾を使う必要性はまったくないし、あきらかな侵略に対してはクラスター爆弾などと言う無駄の多い兵器は意味がない。 日本の場合、水際が実は総力戦になるのである。 つまり、日本の特殊な地形においては、クラスター爆弾はあまり使う機会がないのである。これはそもそも攻撃的防御として有効であり、陸続きの敵や敵の飛行場を叩いて足を止めるのが主な目的である。 侵略してきた敵に対してであっても、自国にクラスター爆弾をばらまくバカがどこにいるのだ。
こんなのが大臣だとは、自衛隊も大変だよ。
ネットのニュースから。 今日は「インターネットオークションなどで購入した模造拳銃63丁を所持していたとして、警視庁生活環境課と調布署は23日、銃刀法違反容疑で、埼玉県新座市に住む会社員の男(59)を書類送検した。男は『子供のころから興味があり、買い集めていた』と話しているという。調べによると、男は3月28日午前10時ごろ、自宅で模造拳銃63丁を所持していた疑い。 男がネットオークションに出品された模造拳銃を落札したため、同課などは家宅捜索して74丁を押収。鑑定の結果、うち63丁が、銃口が金属でふさがれていないなどで銃刀法に違反していた。」というのを見た。
どうやら警察屋さんは、またもオモチャ狩りを始めたようだ。 ヤクザから本物の銃を取り上げられないものだから、一般市民からオモチャを取り上げて喜んでいるところなど、警察は昔から何も変わっていない。ヤクザを挙げないでどうするんだ。職務怠慢、税金ドロボーである。
昔のモデルガンなど、金属であっても脆弱で改造しても役には立たないし、そもそも外観も古いので威しにも使えない。脅しならエアガンにちょっと加工した方がよほど効果的だ。 このニュースを読む限り、彼はただのコレクターだ。恐らく昔遊んだオモチャを集めているという感覚だろう。まず99%犯罪に利用しようなどとは考えないタイプだ。まあ盗まれて利用される可能性はあるだろうが、いずれ警察がやっきになって追いかける相手ではない。そもそも追いかける相手を間違っているのだ。
ヤクザは平気で人を殺すし、そのために銃器を所持している。それを挙げもせずにオモチャばかりを取り上げて喜んでいるのが今の警察の実態だ。そもそもヤクザを取り締まる気もなければ、それだけの技量もない。もうシロートと同じ存在に成り下がっている。 多分このニュースを見て、日本中のヤクザが笑った事だろう。
18日に捕まった立てこもり犯人が使用した銃は、ニュースによれば「回転式で黒茶色、一般的に警察官が所持している38口径のものよりも少し大型」との事だが、少し大型とは銃本体なのか銃弾なのか、これだけでは判らない。他のニュースでようやく40口径以上の大型拳銃らしいと判った。
だが何故たかが銃器やカートの特定に、こんなに時間がかかるのだろう。つまり警察はシロートの集まりだという事なのだろうか。もちろん証拠として使用するのだから最終的には正確なデータが必要だが、現段階では100%確定した情報でなくとも、ほぼ確実なラインであれば公表して、銃器取締りの資料とすべきだろう。 大型拳銃が簡単に市場に流れているのだから、こちらの方が重要だ。
いずれ精密射撃をしていたようなので、やはり6インチのものではないだろうか。つまりこれは、密売ルートはかなり独特のものだという事を意味する。 それでも、ルート未定で今回も終わるのだろう。解明されては困る人が、警察暴力団双方に多いからだ。
しかし銃器を持った立てこもり事件など、99%がヤクザに関する事件なのは当たり前なのだが、一般犯罪と分けて考えていない警察もいいかげん無能である。 この手の人種は突然切れるのは誰もが知っているし、前兆があるのも誰でも知っている。要は、警察が面倒な事にかかわりたくないのだ。 今回の事件も、事前の通報段階で手を出すと、人権侵害だの過剰捜査だの、色々言われるのは判っているので、一番いいのはさりげなく無視する事なのである。 そして一番確実なのは「事件を起こすのを待つ」のである。
実際今までの事件でも、事前に何とかできた事案は多い。結局警察の仕事は対処療法出しかないのだが、やはり事なかれ主義に陥った現在の警察組織では、人が死ぬまで何も出来ない。というより死ぬのを待っているのだ。
まあいずれ同じ犯罪が、何度も起きる事だろう。
という訳で、昨日はエル・パーク仙台で19時から行われたセミナー「日本ハードボイルドの黎明−「X橋付近」の時代−」を見て来た訳である。 出席者は、高城高・逢坂剛・池上冬樹の三氏である。
逢坂剛氏は昔から高城高のファンで、今回初対面の高城氏に自分の持っている初版本へサインをしてもらったそうで、気持ちは判る。もっともこのセミナーの話が来た時、「えっ、まだ生きてたんですか」と驚いたそうだが。
冒頭、やはり話題になったが日本においては「ハードボイルトの定義が不明確」なままのようだ。作家によって各々が考え、かつ作っていった作品が、みな違うからだ。このへんはSFの定義と同じかもしれない。 そもそもヘミングウェイ、チャンドラー、ハメットという作家を例に出してすら、定義付けが難しいのである。ましてや戦後日本のハードボイルト三羽烏と呼ばれた「大藪春彦」「河野典生」「高城高」に至っては、みな文章スタイルが違う。彼らを一括りにする事すら無理があるのだ。
なお、村上春樹がチャンドラーを訳したが、あれは原文に非常に忠実な訳なのだそうで、元々チャンドラーという作家の文体自体はウェットだというのである。対して、昔からある清水俊二の訳は映画の字幕と同じで、一つの文章の中に同じ形容詞が三つあればふたつを切っている、というように非常にドライに訳しているのだと言う。そうしないと日本語ではどうしてもウェットになってしまうのだそうだ。結局、日本語はそのままではハードボイルドに向かない言語の可能性が高いのである。 したがって、日本でハードボイルドというもののイメージを作ったのは、他ならぬ清水俊二の功績という事になるのではないだろうか。 ちなみに「日常の会話というのは、相手が何を考えているのか判らず、ひたすら言葉を交わして相手の考えを想像している。つまり日常会話こそが客観的行動描写の積み重ねであり、ある意味ハードボイルドと言える」というのは面白い指摘だろう。 そしてオフレコだが、と断っていたが、村上氏は現在、チャンドラーの「さらば愛しき女」を訳しているのだという。あんなところで話して、オフレコもないもんだ。
そんな中で、方言を使ったハードボイルトは成立するのか、という話もあった。 例えば北海道の漁村の言葉は利用できそうだが、問題はうらぶれた漁村に探偵が来てどうするのか、という事だ。もっともヘミングウェイ・タイプならなんとかなりそうではある。
なお池上冬樹氏が昨年アンソロジーを組んだのだが、やはり作家に了解を得ようとすると、「この作品はだめだ、これにしろ」と言う人も結構いるとの事だ。自選短編集ならともかく、これではアンソロジーの意味はない。 また石原慎太郎の初期作品は、再販が難しいらしく、本人が頑なに出版を拒否しているらしい。今回も「夜を探せ」をアンソロジーへ入れようとして頑なに拒否されたとの事である。
なお高城高氏は、自身が一番影響を受けたのはヘミングウェイだが、チャンドラーも好きで、それでも書いてみると文体はハメットに近くなったという、なんだかとんでもない事を言っていた。 またこの時、ハード・ボイルドはシークエンスとキャラクターが重要だとも言っていた。この辺はなんだか押井監督言っている事を思い出してしまった。
映画についても色々話していたが、高城高唯一の原作映画があって、「消えた密航船」という映画だとの事。存在自体知らない映画だ。また高城高・逢坂剛の両氏が好きな映画に「ジブラルタルの鮫」があるが、これまた見た事はない。
なお逢坂剛氏は博報堂に勤めていて、やはり専業作家は難しいと思っていたそうだ。だが会社を辞めた経緯はなかなか笑ってしまった。 そもそも博報堂は神田にあっていつも古本屋を利用できたのだが、会社が移転したため通うのが難しくなり、結局会社を辞めてしまったのだという。なんだか本末転倒ではあるが、会社を辞める転機と言うのはそんなものなのかもしれない。
高城高氏はデビュー当時からずっと日本推理作家協会会員だそうで、さすがに入っていてもいいのかずっと疑問に思っていたそうだ。そして河野典生氏は2〜3ヶ月前に推理作家協会を脱退したそうで、ますます脱会した方がいいのかもしれないと思うようになったとか。 だから新作を書けと池上冬樹が言っていたが、実際に短篇をひとつ書いてみたとの事である。発表のメドは立っていないというのが寂しいが…。
デビューしてしばらくは高城高も二足の草鞋でいろいろと揶揄されたのだが、最近の若い人と話していると「二足の草鞋」が良い意味になっているらしいという事を言っていた。つまり二つの才能を持つ、という事らしいが、そんな意味に変えてしまう若者というのもどうかと思ってしまう。
しかしこんな楽しいセミナーなのに、あまりにアナウンスが遅すぎる。なにせ私がこのセミナーの開催を知ったのは土曜の夜にネットで偶然に、である。本当に偶然なのだ。 主催者側も時間がなく大変だったと言っていたが、新聞、ネットだけでも全然違うだろう。しかも一部手違いで、大学側に問い合わせた人には満席だと伝わったらしい。やはりこの辺が素人集団の怖いところだ。出版社に電話しておいて良かった…。 とにかくもっと宣伝を上手にやれば、高城高の名前ももっとアピールできるのだが。
今日は結局サボりである。 19時からエル・パーク仙台で「日本ハードボイルドの黎明−「X橋付近」の時代−」という有料のセミナー(1,000円である)があり、これがどうしても見たいからだ。今回のセミナーの講師は「高城高」「逢坂剛」「池上冬樹」の三氏で、戦後、日本のハードボイルドや探偵小説を手探りで作り上げていった人の意見が聞ける滅多にないチャンスなのだ。 ちなみに予約が必要らしいというので主催者に電話したら、名前と電話番号を聞かれただけで、あとは直接会場に行けばいいらしい。正式の宣伝関係は何も見ていないから、あとは行ってみるしかない。
しかし普通の会社なら終業時間が17時であれば、用事があればその時間でさっさと帰れるのだが、この会社は異常なので帰れないのだ。つまり、17時就業の会社で19時からのセミナーに参加する事が事実上不可能なのである。こうなると手は一つ、休むしかない。 ただこの情報を知ったのが土曜日の夜だったのがちょっとつらいが、まあ就業規則をきちんと履行していない会社だから、別に構わないのだ。
そんな訳で、日中は外を出歩く訳にも行かないので、ちまちまと探し物など。 ちょっと必要な写真を探していたら、KCの結婚式の写真が出てきた。少ないが、当時の仙台SFファン・クラブの関係者も写っている。みんな若いような今とあまり変わらないような…。 そしてたぶんKCのうちのはずだが、オーラ、菅田、ポンポンが写っている写真も出てきた。1990年である。KCは覚えていないというのだが、これが証拠なので、今度見せに行こう。
そしてセミナーは、19時から21時まで、なかなか充実した内容だった。 詳細は明日の日記に、という事で…。
なんでも今日は、霞の目駐屯地の創立記念日だとの事で、記念式典があるのだそうな。 まっちゃんから教えてもらった情報だが、全然知らなかったではないか。自衛隊はどうしてそういうイヴェント情報をきちんとアナウンスしないのだろうか。式典だって税金で行われているのだ。周辺住民は行く権利があるのだぞ。
少なくとも私は自衛隊の存在について、「憲法で本来持ってはいけない事になっているのだから、完全に否定しなければならないが、それが出来ないのであれば、軍隊として保持を明記すべきだ」というスタンスである。 そもそも現在の日本の国際社会での位置を考えると、軍隊を持たないという意見はナンセンスすぎる。まだまだアジアは不安定な地域なのだ。かといっていつまでも米軍に頼りきっている訳にもいかない。肝心の米軍も、別に日本を守るためにいるのではなく、あくまで戦略上、この場所が最適だからという理由で駐留しているのである。 もっとも、実は沖縄というのは米軍にとってもお荷物になりつつある。あそこは米軍ではなく海兵隊がメインの基地であり、米軍にとっても現状ではその維持にかなりの金がかかっている。本音を言えばさっさと日本に返還しても構わないのだが、やはり海兵隊が頑なに拒否しているのだ。
米軍内部でさえもめているのだから、対日政策がどう変わるか予測はつかない。そんな中でやはり自衛隊は必要な組織なのである。だから今の中途半端な状態では困るのだ。これではいざという時、役に立たないし、シビリアン・コントロールが不可能である。 もはや自衛隊員の存在を無視して日本は成立しないのだから、これはもう軍隊として認めざるを得ない。それが嫌だと騒ぐ政党やプロ市民もいるが、だったらもっと早期に何らかの代案を立てるべきだったのであり、ただ与党に反対するだけで何もできなかった(してこなかった)のだから、いまさら文句を言う資格はない。 現実から目をそらしていては、何も解決しないのである。
それはともかく、風は強かったが天気は良かったので、テケテケ歩いていったのだが、なんといつものゲートが閉まっている。今回は中央ゲートからしか入場出来なかったのだ。不親切だなぁ。 そして今回の展示は駐屯地祭より規模は小さかったが、ヘリの中に入れたし、午後には各種試乗もできたらしい。私はそこまでヒマではないので、AH-1Sのガンナーズ・シートへ乗っただけだ。 しかしこれは狭い。緊急時にとっさの脱出は無理だというのが良く判る。また視界はあまり良くないが、機械に頼るからあれで良いのかもしれないし、そもそも対戦車ヘリとしてしか使えない機種なのだから(本当に戦闘にしか使えず、荷物一つ運べない)、別に構わないのだろう。 しかし並んでいる時に、後ろでメカ談義をしている親子がいたが、親が間違った事ばかり教えているし、出てくる映画の話も間違っている。それでいいのか?
そして昼前に帰宅。午後は細かい事を片づける。しかし今日は子どんぐりの体調が悪く、一日家出ごろごろしている。困ったものだ。
そんな中、以前食玩として購入して飾ってあるスペース1999のイーグルとホークだが、昨日買ったアクリル体にホークを載せて二機並べて見たところ、これがなかなかいい感じである。やはりもう少し大きなケースを買おう。
あと突然入ってきた情報だが、明日19時から高城高氏の講演があるという。入場料が1,000円だが、これは行きたい。でも会社に行くと19時会場入りは不可能だ。 さて、どうしようか。
以前KCが日記で紹介していたのだが、泉の方に出来たホームセンター・ムサシに行ってみた。 そして日記に書いていたとおり、ここの2階はヤヴァい。「アーク・オアシス・デザイン」という店でムサシとは経営が違うらしいのだが、ちょうど東急ハンズをスケール・ダウンしたような感じなので、一箇所で色々な物が揃ってしまう。いずれ必要になると予想されるレヴェルでもついつい買ってしまうのだ。 その上、扱っている製品にかなりディープな物も多く、極端に言えば店頭で買えるのは市内でここだけかもしれない、という物もあるのだ。
以前から探していた3センチ四方のアクリル体があったので、これは迷わず買ったが、その他にもちまちまと買ってしまった。困ったものである。 驚いたのは、まさかPreiserのミニチュア・シリーズがあるとは思わなかった。これが安いし種類も多く、以前東京でわざわざ買って来た「死神」まであったのだ。なんと200円も安いし…。
でもここは日曜には行きたくない場所だ。あまりにも周辺道路が混んでしまうのだ。それに距離もあって、往復で50キロである。やはりいくら同じ仙台市とは言え、しょせんは元が泉市である。ウチからでは遠いのだ。せっかく良い店なのだが…。
ところで、宝文堂が店を閉めるらしい。 いよいよ仙台の書店も、大手を残して軒並み撤退する事になる。国立大学がある100万人都市なのに不思議だと思うが、現在の一般人の読書人口は減る一方だというし、そもそも全然本を読まない人種も増えている。これも時代の流れなのだろう。 しかし、いくらネットが発達しても、立ち読みで内容確認という作業は不可能だ。本を良く読む人間は、パラパラと読むだけでその本が自分にあっているかどうかの判断がつく。また後書きも意外と参考になるのだ。こういう部分は、ネットでちょっと読めるというレヴェルでは解決しないのである。
さて、明日は霞の目駐屯地の創立記念日らしい。天気次第で、行くかどうか決めるとするか。
そして21日月曜は、なぜか一番町で「高城高」のトーク・ショーがあるとの事。行きたいが月曜の19時からでは無理だなぁ…。
愛知県長久手町の立てこもりはようやく犯人が確保されたとの事。ちなみに逮捕ではないところがミソだ。あくまで加害者に優しい社会なのである。
ニュースを見ていて思ったのだが。 今回殉職した警官は防弾ベストの隙間から弾丸が入り込んだ訳で、文字通り運が悪かったといえる。これはもう誰も否定はしないだろう。そして隙間から銃弾が入ってしまうというのは、アメリカでも良くある事だし、構造上仕方のない部分である。ここまでは誰もが理解しているだろう。 だが防弾ベストという物は、銃弾のエネルギーを全体に拡散して致命傷を防ぐ装備なので、4発もあたれば致命傷になってしまうのだ。また拳銃弾やライフル弾など、種類によって防げる能力にも差がある。 つまり防弾ベストをつけていても安全ではないのであり、この辺を世間一般はきちんと理解しているのか、はなはだ疑問なのだ。
そして今回の犯人が使用した銃器は、一体何だったのだろう。これは非常に気になってしまう部分だ。
それはともかく。 警察と暴力団だが、元々仲は悪くない。むしろ仲が良いと言った方が適切だろう。暴力団の所持している銃器を取り締まる気は全然なく、自分達に迷惑をかけなければそれで良いとする姿勢が、暴力団員一人に銃一挺という社会を生んだのだ。 殉職した警官には悪いが、警察組織自体が蒔いた種なのである。組織で考えたら、自業自得という言葉が相応しい。 そして今回も、銃の密売ルートは未解明のまま終わるだろう。せいぜいチンピラが警察のメンツを立てるために差し出されて終わり、そんなところだ。なにせ愛知県警だしな。
ところで今回の事件では、「母親の首を切ったガキを突入させればいい」等という実に愚かな意見がネット上に飛び交っている。しかしあんなガキが役に立つはずもないのは明白だ。 くだらない煽りが簡単に出来るのもネットの悪いところだ。
また「狙撃班は警官が撃たれた時に、なぜすぐ撃たないのか」等という無知丸出しの意見も良く見かける。 狙撃班が射殺の指示もないままに自分の判断で撃ったら、それはただの殺人である。この意味が判らない愚か者のためにもっと判りやすく言うとすれば「警官が仕返しのために勝手に人を殺す」のと同じだという事だ。
警官はただの国家公務員である。そんな公僕が組織の命令もなしに単独で射撃をしたら、収拾がつかなくなるのは明らかである。 警官といってもその半分は異様に道徳レヴェルが低く、暴力団員と同じ連中が大勢いるのだ。そんな奴等が銃を勝手に撃ち始めたら、もう市民が次々に殺されるのは火を見るより明らかだ。なにせ今までの例を見ても、社会へ対する声が小さい人間に対する暴行、殺人は、国家がかばっているのだから。
つまり、警察とヤクザはまったく同じ組織なのである。我々国民はそれを理解した上で警察を利用しなければならないのだ。
昨夜、「その時歴史は動いた」で江戸川乱歩を取り上げていた。 とりあえず見たのだが、この番組のテーマには向かないネタだろう。特に目新しいネタもなかったし、そもそも森村誠一は出して欲しくはなかった。この人の小説は非常にご都合主義で、読んでいても平気で「それはないだろう」という展開になってしまう事が多いのだ。 もっとも乱歩の弟子は皆他界しているから、仕方がないのかも知れないが、だったら出さないという選択肢もあるだろうに。だからNHKはダメなのだ。なんでもかんでも有名人を出せば良いというものではないのだ。要はいかに中身が素晴らしいか、なのである。
結局この番組にしてもプロジェクトXにしても、初期は傑作が多いが、ネタがなくなってくると途端にしょうもない内容になってしまう。特に後者は、初期は巨大建造物などの工学系ネタだったのに、いつの頃からかただの営業の自慢話になってしまい、本当にくだらない番組になってしまった。
こんなので聴取料を取っているのだからふざけているとしか言いようがない。
そんな今日、またも発砲、立てこもり事件が発生した。 何度も言うが、今の日本の警察に拳銃密売のルート解明はムリだ。無能な上に暴力団とも密接に繋がっている。だからそもそも解明する気が全然ないのである。今までルートの解明をした例は、皆無であり、これからもないだろう。 つまり、同じような事件は今後も起こるという事である。
昨日、NTT東日本のフレッツとIPが7時間に渡ってダウンしていたが、これでNTT東日本が謝罪の会見を行った。 原因は非常に単純な、ほとんど想定可能なもので、実にお粗末な話だ。やはり企業の質自体が落ちているという明確な証拠でもある。
だが実は、NTT東日本が謝罪したという事に一番驚いた。 なにせあの会社は、どんな事故があっても自分たちが直接起こした事でなければ、絶対に謝罪しなかったのだ。たとえそれが今回の事故以上のトラブルであっても、自分達は絶対に謝罪しなかったのである。これは旧電電公社の悪い体質を見事なまでに残しているためだ。 基本的にNTTはどこも同じで、悪い体質をそのまま受け継いでいる。
そういう意味では、JRは一味違った。JR東日本の変革は素晴らしいものだろう。多分かなりの人が危機感と使命感を持っていたのだろうと思われる。 ただし西の方は全然だめで、やはり旧国鉄の悪い体質をそのまま、本当にそのまま受け継いでいる。NTT以上に人の命に直結する仕事をしているはずなのに、情けないし、恐ろしくもある。やはりここは、東日本を見習うべきだろう。
2007年05月15日(火) |
フィルム・スキャナー |
昨日買ったCAPAの別冊「スキャナー入門」を読んでいる。
意外だったのは、キャノンがこのジャンルから撤退し始めているという事だ。そうなるとエプソンの一人勝ちという事になる。 本当はニコンなどが出しているフィルム専用スキャナーが欲しいのだが、これは高いのが難点なので、いずれ駆逐される運命だろう。 いずれにせよ、現在保有しているフィルムを「必要に応じて」スキャンする必要性はあるわけで、そうなると高性能で使いやすい機種が欲しくなるのも当然だ。
ただしきれいに取り込むという事は、写真のサイズも大きくなるのは当然で、現在は1枚30メガなど普通である。 しかもスキャン時間も長くなる。6×4版の例だが、通常はスキャン時間90秒程度なのに、同じ機械で最高画質のスキャンをすると、23分以上かかってしまう。もちろん1枚で、である。こうなるとパソコン自体の性能も重要な要素になってくる。
また取り込み時のゴミ対策、ニュートンリング対策もチェックしなければならないし、キャリブレーターも欲しくなる。つまり写真を真面目にPCで処理しようとすると、とんでもなく金がかかるという事でもあるのだ。 安く上げようと思うなら、実はフィルムを使い続けた方が経済的だろう。
ところで。 昼にたまたま「笑っていいとも」をちょっとだけみてしまったのだが、その中で「昔1ドルは365円だった。それは円が365°だからだ」と言った芸人がいた。 やはり戦後の教育は間違っていた訳だなぁ…。
2007年05月14日(月) |
警察は不要かもしれない |
支店の全社員で、交通安全普及のためのビデオを見た。 実につまらない内容で、違反をしていて事故を起こしたというものばかり。しかも一時停止しないというような悪質なものばかりである。 だがビデオを見ていると、それもまた仕方がないという口調なのである。しかも交通弱者である歩行者が青信号で横断歩道を渡るのでさえ、車に注意して責任を持って渡れというという感じである。いったい警察は何を考えているのだろう。
しかも支店長が会議で八戸に行った時、安全運転のための講習があり、そこの警察から人が来て色々話をしたというのだが、その中でとんでもないものがあった。 いわく、「去年育英高校のウォークラリーの列に飲酒運転のパジェロが突っ込んで3人が死んだが、あれだけの大型車輌が猛スピードで突っ込んできたのだから、遠くからでも音がしてよけられたはずだ。事実よけた生徒もいたのだから、歩行者は歩道を安全な場所と思ってはいけない」という内容だったとの事だ。 さすがは八戸、ふざけた警官を飼っているものだ。交通事故が減らないのは、こういう税金泥棒が大量にいるからだ。それともどこの警察でも同じ意見なのだろうか。
まあ飲酒運転の厳罰化が遅々として進まないのは、警察自身がやっているからで、これは氷山の一角である新聞記事を読むだけでも容易に想像できる。警察自体が飲酒運転に対する危機感を全くもっていないから、飲酒運転はなくならないのである。
実はJAFの考え方が非常におかしくなっていたと気づいたのは10年ほど前なのだが、暴走トラック運転手のインタビューで彼らを擁護する記事を載せたり、歩行者の上手なはねられ方を載せたりする。 もちろん最悪の場合はねられかたを知っていた方が良いに決まっているが、彼らの視線ははねられる歩行者側になく、あくまで職業ドライバー側に立った記事しか書かない。だから軽症で済めばドライヴァーの負担も少ないという書き方になる。 考えてみれば、彼らは歩行者から金をもらっている訳ではないから、当然ドライヴァー、特に職業ドライヴァーであるトラック、タクシーといった交通法規は守らないどころか交通論理のカケラもない業界を支援する訳である。 そうしないと金にならないからだ。
その考え方がついに警察にまで及んでしまった訳だ。多分JAFにも警官が天下りをしているのであろう。 そもそも交通安全協会を作って退職警官の給料を支払っているのだから、当然ドライヴァーの事しか考えていないのだ。 そのうち、歩道を歩いているのに車にはねられても、「何故歩道を歩いていた!」と警官から怒鳴られる日が来るのだろう。彼らはもう歩行者の味方ではないのだ。
そう言えばとっくの昔から加害者の味方だったな、警察は。
ちまちまと用事をすませて、久々に町中に出る。 某新☆堂では、DVDの半額やCDの投売りをやっており、かなり欲しい物もいくつかあった。当然新譜でも欲しい物が山積みである。やはりこういう時に「銭ゲバ」を思い出すのだな。
しかしフォーカスやスターキャッスルの新譜が出ていたのには少しばかり驚いてしまった。 もちろんフォーカスはまだ活動していたから、当然といえば当然なのだが、さすがにスターキャッスルにはかなり驚いた。そもそもこのグループだまだ活動していたとは、信じられないのだ。当時としてはかなり人気があったとは言え、なにせアメリカのグループである。ノスタルジーだけではアルバムを作れないだろう。 そういう意味では一度聴いてみたいものである。
だがそれ以上に驚いたのは、シルビー・バルタンのアルバムが紙ジャケで出ていたのである。しかもかなりの数だ。いくら紙ジャケがブームとはいえ、彼女のアルバムまで出るとは思ってもみなかった。 元々、ロックのアルバム・ジャケットはアートとして価値のある物も多く、紙質まで含めたこだわりの紙ジャケット仕様というだけで、充分売れるし、それだけの存在意義もある。 だが、ポップスの世界ではそういう作品はあまりなく、どうしても歌っている人の写真という似たようなデザインになってしまうし、アートとして価値のあるアルバムなどあまりないのが当然なのである。つまり紙ジャケにする理由が本当にあるのか、少しばかり疑問なのである。 やはり1960年代のポップスなら、良い音質で安く提供するのが本筋だろう、と思ってしまうのだ。紙ジャケは二の次だと言ってもいい。
でもシルビー・バルタンのアルバムなら一枚くらい紙ジャケもいいかな、と思ってしまうのも、当時は好きだったから仕方がないのかもしれない。
今日は得意先の手伝いという事で、担当の営業をはじめとしてかなりの人数で出かける。 栗駒、というよりほとんど岩手県である。2メートルの橋を越えたら、そこは岩手県、というような場所だ。そんな辺鄙な場所だから、民家はまばらである。そこでポスティングの手伝いなのである。当然時間と移動距離の割に、回った件数は少ないのである。だから手伝わされるのだが…。 無駄に疲れた作業である。 ただ、昼は全員でラーメンを食べたのだが、廃止された栗電の栗駒駅前にある店で、これがあっさりしていて良かった。基本的に人が勧めるラーメン屋は、味が濃すぎる事が多い。特に酒好きが勧める店は確実に味が濃い。これは飲んだ後に食べるせいだろう。 この位のあっさりした味の店が近所にあると良いのだが。
帰りに高速のインターで南部煎餅を買ったのだが、これが不味い。子どんぐりでさえ「不味いからもういい」と言ったほどだ。これはエスパルの地下でも売っている「さ×き」というメーカーのだが、こんなに味に違いがあるとは思ってもみなかった。以前はいつも「いずもり」の物を買っていたが、あれが一番おいしいという訳だ。 ただし問題は、仙台には置いていないという事なのだが。
夜は子どんぐりが回転寿司に行きたい、というので、近所の元禄寿司に行く。 ただしここも随分と味が落ちたし(元々回転寿司に期待はしていないが、それでも以前より不味くなった)、一皿の単価が上がっている。まあそのへんの事情はある程度は判るが、そろそろ回転寿司も安くはない、という時代になったのだろう。
ただ今回、注文を忘れられてしまったのである。回転寿司とは言え、元禄寿司で客の注文を忘れるようでは、もうダメだ。客商売として、完全に失格である。 頼んだ方は、時間がかかっているのか忘れているのか、すぐには判断できない。それを何度も確認するのは、はっきり言って客のやるべき事ではないし、そんな事はやりたくもない。だから元禄寿司はもうダメなのである。
客に金を払わせて不快にさせるとは、素晴らしい店で、客商売も楽になったものだ。これなら小学生で充分だ。小学生なら教えた事はきちんとやるから、寿司は真面目に作るだろうし、注文を忘れるのも今の店員と変わらないレヴェルだろう。いや、小学生の方が改善策をまじめに考えそうだ。 ま、そういう訳で、元禄寿司に自分から行く事はもうないだろうし、他の人と行く事になったら、違う店を勧める。 現在はどの業界でも人材のレヴェルは落ちているのだから、それが判っている店にわざわざ行く事はない。
最近、mixi内のモデルガン関係コミュが凄い。私など歯が立たないほどにディープな展開を見せている。 今までは、自分の趣味の範囲でなら、全然知らない事というのはほとんどなかった。もちろん知らない事はたくさんあったが、「名前だけは知っている」「たまたまその作品は知らなかった」「現物を見た事はないが、出ていたのは知っている」などなど、自分の知識を補う感じの情報がほとんどだったのである。
だがモデルガンのコミュは違った。文字通り、全然知らなかった情報が満載なのである。 これは嬉しいと思うと共に、ショックでもあった。これでもモデルガンの趣味歴が40年になる私が、文字通り全然知らなかった事が、しかも大量にあったというのはすぐには信じられない事だったのである。 だがコミュはいい人ばかりなので、安心して読んでいけるし、書き込みも楽な気分でできる。それは年を取っても趣味を続けていた者同士の良い点であろう。
もちろんこの場合でも、内容はきちんと判る。つまりいきなりGM1、GM2、GM5という単語が出てきても別に困らないのだが、GM3の発売経緯については判らない、という感じである。 そういう業界内部でも生き証人が減っている現在、こういう人たちのコミュはとても重要な位置を占めるようになってきた。 もしかしたらここ10年くらいで一番驚いた集まりかもしれない。
マイミクのだべささんが、テキサスの石油採掘基地で撮った自身の写真をアップしていたのだが、これが実にかっこいい。 だべささん自身のスタイルが良いせいもあるが、やはりサングラスで目を隠すと、それだけで精悍なイメージになるのである。
私も友人の女の子に頼んでモデルガンを持った写真を撮っていたが、サングラスをかけてモデルガンを持つだけで、気分はキャリー・アン・モス、本当にそれだけで、実にかっこいい精悍なイメージに仕上がるのだ。 人間の目とは実に不思議なもので、これを出すか隠すで、イメージが180°変わってしまうのである。
そしてKCから焼き物を受け取る。わざわざ会社に寄ってもらったのだった。実は以前から気になっていたものばかりだったので、これは非常に嬉しい。 しかし先日のT沢氏と全然ダブらないところが面白い。両者ともセレクトするのはほとんど同じ傾向のものなのだが、もしかしたら私の好みを、ほんの僅かだけ違うベクトルで捉えているのかもしれない。 もっとも、ただの偶然なのかもしれないが。
いずれ、いつも友人に助けられてばかりだなぁ。
最近、日本語の使い方がおかしいと、とても気になってしまう。 もっとも日本語というのは非常にフレキシブルな言語であり、またそれを許す国民性の下で進歩してきた言語である。中国語がひらがなやカタカナに該当する文字を頑なに拒否したおかげで、現在では非常に使いにくくなっているが、日本語はとりあえず誰でも文字化が可能である。
そして戦後の教育と現在の教育の格差、ネット社会による言葉の変化と、私の世代は日本語の大変化を目の当たりにできた世代でもある。 だからおかしいと思うものもかなりの数にのぼる。「相殺」を「そうさつ」と読んだり、「真逆」を「完全に反対」という意味にしたり、「お客様各位」という表記を要求したり、それらが「誤用だが、現在では認められる」となっているのである。 それでは私の世代の教育は何だったのだ、と疑問になってしまうのも当然だろう。
そんな今日、会社で「勧誘」という言葉が問題になった。 ここでは特約店を支援するシステムを持っているのだが、最近は価格の高さもあって会員がかなり少なくなり、そこで「勧誘」強化策を展開している。その会議の席上、「勧誘」という言葉は騙すイメージがあって良くない、という人が出てきたのである。
はて、いつから「勧誘」は悪い言葉になったのだろう。 確かに某宗教団体を例に出すまでもなく、宗教の勧誘は鬱陶しいだけだし、自宅へ押しかけるセールスも悪い勧誘の見本である。しかし「勧誘」という言葉自体には悪い意味はない。 どうも最近は、あるイメージで言葉の意味を決め付ける傾向があるようだ。イメージと意味は別物だろうに、結局は深く物を考えるという事をしていないから、そうなるのである。困ったものだ。
今日はT沢氏より、ブツが届く。いつもの事ながら詳しい事を書けないが、とてもありがたいといつも感謝している。これに関しては徐々に感想をアップしていく予定だ。
そして夜に「シルバー假面」を見たのだった。もちろん30年以上前の「シルバー仮面」ではなく、実相寺監督の遺作となった作品の方である。 今回のシルバー假面は女性が変身するのだが、彼女は森鴎外の娘という設定で、それから判るとおり、大正浪漫の世界の具現化である。ただ問題なのは、主人公を初めとして役者がヘタなのと、脚本、演出、その他モロモロが見事なまでに破綻している事である。 もっとも、なんとなく見入ってしまい、結局3本とも見てしまったのも確かだ。やはりもう少し脚本を練っていれば、それなりの作品になっただろうに、これは実に惜しい。
ただ、トンデモ話が嫌いな人はついていけないかもしれない。トンデモというものを理解した上で楽しむならともかく、現在の科学では否定された事をベースに展開される部分は、やはり無理がありすぎる。はたしてスタッフがそれらを判った上であえて利用しているのか、はたまた本当に信じているのか、それが問題である。 ただし後者の場合、それはかなり昔に否定されているネタばかりなので、この部分については不勉強だと言われてしまうだろうが、それは当然だ。ほとんど常識レヴェルのトンデモなのである。大正時代なら信じられていたかも知れないような説ばかりである。
だが大正時代にシルバー仮面を再生したというその事だけは、確実に評価できる。もしかしたらドグラマグラの世界を再現したかったのかもしれないが、そのままでは出資者から金を集められないから、こういう形になってしまったのかもしれない。 もしそれが正しいのだとすれば、プロデューサーとしては正しい判断だ。押井監督や冨野監督の得意な手段なので、それを知っている人には充分納得できるだろう。
本筋とは関係ないが、メインの出演者の演技があまりにヘタなため、少ししか出ていないひし美ゆり子氏の演技の上手さと自然さが、桁違いに素晴らしく感じられてしまった。 やはり主役やその周囲は、まともな役者で固めないとダメである。
うちの会社はニセ科学信奉者が比較的多いのだが、ここの支店は、多いというより、私以外は全員そうだ言っても良い。 ただし問題なのは、自分で調べて信じたのならともかく、支店長が信じてから、というきわめて危険な信じ方をしている人が圧倒的に多いのである。つまり権力者の言う事を無条件に信じている訳で、これは某北朝鮮のような独裁国家と同じ図式であろう。
また以前、ガソリンへ添加するだけで燃費がアップという物を信じて会社で購入していたアホウがいたが、この時の論拠が凄い。「うちの他支店で出したデータが燃費のアップを証明したから、ウソを言うはずがない」という、もう科学も迷信もない、ただの思い込みである。まさに北朝鮮における独裁者の側近である。こんなのを客に売ろうというのだからお笑いである。もし訴えられたらどうするつもりなのだろう。
こういうのは詐欺師にあっては赤子の手を捻るように騙されるタイプで、もはや人間として論外としても(少なくとも会社の経営にとっては、百害あって一利なしである)、うちの会社の特徴は「権力者がいう事に従う」という傾向が強い。これは結局、自分で物を考えるという事をしていないのである。 信じるとかいうレヴェルを越えて、無知故に無条件に従っている、ただそれだけの事なのだろう。これでは先行き不安である。こういうのは、信じているというよりもタチが悪いのかもしれない。 元々公務員というのはそういう存在なのだが、民間企業でこんな事をしていては、トップの間違いを誰も指摘できずにダラダラと負け戦をする事になる可能性が高い。現にここに来てからというもの、そういう事例をたくさん見て来た。
そしてこういう姿を見ていると、昔からのSFファンと今のSFモドキが好きな人との決定的な違いが「自分で物を考えているかどうか」にあると判る。常に疑問を持って考えるという事は、実はかなり重要なのである。 言ってみれば、民主主義社会における野党の本当の姿がこれなのである。もちろん今の日本に、本当の野党という物は存在しない。与党にただ反対するというのは、何も自分で考えていないのと同じだからだ。 本当の野党というのは、与党の間違いを正すのはもちろんだが、与党が国民にとって良い事をしようとしていれば、それをきちんとバックアップするものなのである。 端的に言えば、国民の事を考えて動くのが本来の野党なのである。
と、話がどんどん大きくなってしまうのだった。 しかし最近は時間がないので、話も上手くまとまらず、書き殴っているだけだなぁ…。
2007年05月06日(日) |
休みも終わり、である |
とりあえずの連休も最後である。色々やったような何もしなかったようなで、結局はかなり短かったのである。 ちなみに午前中は鈎取の萬葉堂でチャウチャウと合流、ブツの受け渡しを行う。こちらからのメインは、チャウチャウがまだ食べた事がないという津軽飴である。不味くはないのに持て余すお菓子の筆頭かも知れない。 なおこの時、「バラの戦士」の1巻と2巻が各々350円だったので購入。どこかで続きを探さないといけないが。
ところで昨日は、ケータイの機種変更をしたのだが、私の場合、メインの電話と音楽再生ができれば、あとは何もいらないし、カメラも携帯ごときで使おうという気には全然なれない。まあこのカメラも非常用としては充分使えるレヴェルにはなっているが、所詮ケータイである。
デジタル・カメラという物の特質を考えれば、ケータイのデジタル・カメラはいかにムチャな仕様なのかが良く判る。 映像素子もレンズも、映像エンジンすら二流三流である。そんなものでいい写真を撮れる訳もないし、そもそもあの撮影スタイルは写真に向いていない。そして画素数だけが増えては、電池の消耗も早くなるのは当然なのだ。 結局、作品を撮るというレヴェルではオモチャ以下でしかないのだから、世の中の人たちはあまりケータイの写真で満足しないで欲しいものだ。
肝心のミュージック・プレイヤーとしての性能は、今日ようやくアルバムを記録して聞いてみたのだが、今回買ったT社の物はお世辞にもいい音質だとは言えなかった。へッドホンの性能もあるだろうが、元々ケータイ如きに期待はしていないので、こんなものだろう。 いずれメインで使用するのは、夜中に会社で仕事をする時と、町中を歩く時なのだし、こんなもので満足するしかない。 ただ、各社で搭載するエンジンが異なるし、ヘッドホンの性能差もあるだろうが、ソニーの物はどの程度の再生能力があるのか、ちょっとだけ気になってしまった。
しかしこの性能以前に、マニュアルの説明が酷すぎる。マイクロSDカードの初期化が必要なら、それは冒頭に書いておくべきだろうし、USBケーブルも特殊なミニなのだから同梱するべきだ。 電話だけを使用するにしても、説明が酷すぎる。必要な事がどこに書いてあるのか良く判らないのだ。どうも作っている連中は、マニュアルの作り方の基本を知らないようだ。これは多分、この企業のトップに技術者上がりがいないからなのだろう。 営業は自分の知らない事についてはとことん無関心なのだから。
携帯電話の機種変更と、子どんぐり新規購入。 しかし時間がかかるものだ。3台だったせいもあるが、結局手続きに1時間はかかっている。 そして初めに、本来は有料のコンテンツを2ヶ月から4ヶ月無料で使えるという事で「強制的に」設定されたが、これは早めに解約しないとヤヴァい。これでだまされたユーザーも多いのではないだろうか。 こういうところがソフトバンクの嫌なところであり嫌いな理由の一つなのだ。この会社は長くは持たないような気がする。
肝心の機械本体は、同じメーカーの別機種にしたのだが、微妙に使い勝手が違っており、実にイライラする。これでは使用方法が判らないのと同じで、マニュアル片手に色々と見なければ、全然使えないではないか。 メーカーが同じなら、基本は同じにするべきだろう。
その後NODAYAへ。 セールをやっていて、トイ・ガン関係は20〜50%オフ。マルゼンのワルサーPPK・サイレンサー付きモデルが10,700円だし、その他にもショットガン関係が安い安い…。 でもガヴァのグリップは全然安くないなぁ。コルトのメダリオンがついた木製グリップが欲しいのだが、5,000円以上するし…。 別コーナーでのタチコマくんも50%オフだったが、それでも5,000円以上する。買えない…。結局指をくわえて見ているしかないのだった。
それでも店員とトイ・ガン関係で色々と話をしたのは面白かった。特にマルゼンというメーカーは、これだけで会社の経営が成り立つ訳がないのだが、というあたりから各メーカーの本来の仕事や副業についての話は面白かった。 やはり日本のメーカーというのは、どこも海外へ物を出す事でなんとかやっていけているのだと良く判る。 これは一部の経済評論家が昔から言っていたように、国内だけを相手にしていては利益は出せないのでワールドワイドで収支を考えなければならない、という事をキチンと実践しているメーカーが残っているという訳だ。
一昨日の「怪奇大作戦セカンド・ファイル」についての補足だが、見ていてどこかで見たような感じがしていたが、今朝になって思い出した。これは「ウルトラQダーク・ファンタジー」の怪獣が出ない時の話である。 いずれ45分もの尺がありながら、科学部分を疎かにしているようでは、題名が泣く。あまつさえいかにも取って付けたような解決策をとるようでは、やはり科学という物の素晴らしさも恐ろしさも、スタッフは何も理解していないと言わざるを得ない。やはりNHKであったか。
今日はT寺家へ遊びに行く。 TAM一家も来ており、奥さんに会うのは本当に久しぶりだ。そしてTAMからは、KCコミック版「リュウの道」全8巻の第二刷を受け取る。これでとりあえず文庫版との違いをチェックできる。実に嬉しい。
相変わらず皆でバカ話をしていると、子供たちから「おかしな話をしている」と言われる。やはり子供たちも皆成長しているという事だ(変な感動の仕方ではあるなぁ)。それでもゲーム機で遊び呆けている姿を見ると、まだまだガキだと思ってしまうのだった。
しかしT寺家とは往復で約50キロである。やはり遠い。夜の帰宅時はそれほどとは感じないがそれでも40分位はかかる。日中だと1時間位はかかるが、これはバイパスでさえ混んでいるからだ。仙台は距離の割に移動に時間がかかるのだった。
子どんぐりの高校の場所を実家の親に教えるため、学校の周囲を回る。 さすがに敷地内にも入れなかったのだが、外見は結構立派なので、驚いたようだ。まあ進学を目的とした建設された校舎なので、こんなもまだろう。
帰りにヤマダ電機へ寄る。 携帯電話の機種変更は2年以上で安くなるのだが、契約日なのか月なのか確認したら、契約日なのだそうな。という事は4日以降にしなければならないという事だ。その時子どんぐりにも買う予定である。
ついでに映画のソフトを見ていたら、007のDVDのアルティメット・エディション・シリーズが単品でおいてあった。定価は一枚2,700円が1,800円弱である。おかげでついつい4枚も買ってしまった。 ただし「007は二度死ぬ」「死ぬのは奴らだ」「私を愛したスパイ」「ムーンレイカー」という、多分本来の007ファンからは総スカンを食うような作品である(本当はさらに「女王陛下の007」と「ユア・アイズ・オンリー」も欲しかったのだが、さすがにそこまで買う余裕はなかった)。
これらを買ったのは、どうしても確認したい事がいくつかあったためと、特典ディスクが見たかったためである。特に「ムーンレイカー」は特撮部分の解説にデレク・メデイングスがでているかも知れないという期待もあったのだ。 まあなんだかんだ言っても007シリーズは全部揃えたいので、こうして買い始めれば多分そのうち全部揃うだろうという目論見もある。
ちなみに久々に見た「007は二度死ぬ」では、「ダイヤモンドは永遠に」に先立って、エド・ビショップが1シーンだけアップで出ていたのが判明。実はこの作品、1970年代初頭に映画館で再上映されたのだが、この時には気がつかなかったのだ。 また「私を愛したスパイ」の冒頭にマイケル・ビリングトンが出ているのだが、やはりアングルのためか、フォスター大佐だと一目では判りにくい。
そして今回のデジタル・リマスター版は、確かに絵はキレイになっていて、ちょっと驚くくらいである。ただ若干明るすぎる気はするが。 ただしこれは、別にDVDだからキレイという訳ではないのだが、どうも世の中には勘違いしている人も多いようだ。あくまでリマスターを行う技術者の腕と設備に左右されるのだが、それが理解されていない。某宮崎アニメの赤方偏移問題で騒がれた事もあったが、結局はなんとなくウヤムヤになってしまっている。 意外とフィルムからデジタルへの変換というのは、手間隙かかる大変な作業なのである。誰でも簡単にできるというものではないのだ。
こうしてクラークの言うように、科学は魔法と変わらなくなるのだろう。これが時代の流れという物なのか…。
2007年05月02日(水) |
怪奇大作戦2nd file |
今日も今日とて仕事が忙しい。絶対に変だ。営業も事務もヒマそうにしているのに。
という訳で、帰宅してすぐに昨日放映された「怪奇大作戦セカンドファイル」を見る(どういう訳だ?)。 リメイク版第一話「ゼウスの銃爪」である。まずこの話は、思ったほど悪い出来ではなかった。今風のドラマとしてはそこそこ良く出来ているといっても良い。
ただし「怪奇大作戦」を名乗っている以上、これではダメなのである。 つまり今回は、科学という部分が今ひとつでどうも感情や人情といった部分が中心になっている。科学を悪用した犯罪、科学を利用した捜査、そして科学に翻弄される犯罪者、こうした部分の描写が見事に抜けているのだ。さらにいえば犯人がどうなるのかを言及しなければ、この場合は意味がない。 これでは昔やっていた「科学捜査官」の初期の方がまだ面白かったし、このような展開と演出では「太陽にほえろ」でも「特装最前線」でも、あるいは「西武警察」でも構わないではないか。
あえて言うが、「ゼウスの銃爪」は「ブラックアウト」の第二話「プラズマ」をベースに、その目的を明確にしただけの話である。しかも犯人が自前で武器を作らなかったところが弱い。いくらハッキングだろうが、軍事衛星をそんな長い時間にわたって操作できるとは考えられない。このあたりは「ネットでマメに情報を集めればプラズマ兵器の製作も可能だし、当然その代償も大きい」とするブラックアウトの方が説得力がある。 結局今のNHKに欠如しているのは、科学の光と影の扱いなのだ。どうも、科学技術を否定的に扱えばそれで文明批判になる、と思っているように感じられるのだ。しかし使うのはあくまで人間であり、科学技術自体に問題はないのである。だから科学からはドラマが生まれるのだが、それが全然判っていない。
あと最大の問題だが、あれでは牧がマヌケにしか見えないという事だ。あの状態ですぐに武器の想像かつかないようでは、普通の人間となんら変わりがないではないか。牧という人間の設定が弱すぎる。 ま、所詮はNHKだという事か。
ついに4月も終わってしまった。そして今日も明日も仕事である。こんな連休の合間でも忙しいというのは不思議である。
そろそろ6月から夏にかけての映画の予告がアナウンスされつつある。 そんな中に、6月公開予定で「プレステージ」がある。あのクリスチャン・「リベリオン」・ベールの新作でもある。 この作品は天才マジシャン同士の戦いという、それだけで見たくなるようなテーマの映画だ。もちろんハリウッド映画なので、マジックとは別の様々な謎を仕掛ける事になる訳だが、やはりクリスチャン・ベールとマジックというそれだけで充分魅力的な作品であろう。できれば作中でGUN-KATAを披露してくれないだろうか、と期待してしまう(そんな事をするはずがないっ!)。
あとは実写版の「トランスフォーマー」が、意外と拾い物になる可能性がある。 もちろん、マイケル・ベイ監督作なので、傑作には絶対なりえないしドが付くほどの駄作という可能性もあると判ってはいるが、予告編を見ると本来子供向けのはずの作品に、いきなりあんな映像だ。しかもプロデューサーは、最近残酷描写にも磨きがかかっているスピルバーグである。少し楽しめそうな予感がするのは私だけではあるまい。 まあ予告編などあまり有効な事前情報にはならないのは判っているが、それでも本編の実際の映像を使っている限り、見せ場があるという事だけは確実だ。 と りあえずこの二作は押さえておきたいと思う。
しかし「監督、ばんざい」ってどういう映画なのだろう。「監督、漫才」の間違いではないのか?
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