どんぐり1号のときどき日記
DiaryINDEX|past|will
久間章生防衛相が、アメリカの広島長崎への原爆投下を認めるようなニュアンスに取れる発言をして問題になっている。 発言をきちんと読めば、確かに言いたい事は判るのだが、現職の大臣が公の場で発言したら絶対に問題が起きると予想がつくだろう。そういう意味で日本の議員達は言葉の使い方がなっていないとしか言いようがない。 少なくとも、あまり物事を深く考えない一般的な人種は、「現役の日本の閣僚が原爆を正当化した」と捉えるだろうし、唯一の被爆国の政治家の発言としては、そういう風に捉えられても仕方がない。
そもそも日本の降伏が確定していた時期に広島、長崎と続けて原爆を落とす意味はない。 しかも両原爆はタイプが違うのも不思議な点だ。広島に落とされたリトルボーイはウラン235を用いたタイプ、長崎に落とされたファットマンはプルトニウム239を用いたタイプである。両者はその構造があまりにもかけ離れており、特にリトルボーイは現在の主流の核とは異なっているため、やはり両者のどちらが有効が調べる意図もあったのではないかと誰でも考えるだろう。 ファットマンはマンハッタン計画の産物だが、リトルボーイはドイツ軍の資料とドイツで精製されたウランを使用していたとも言われている。つまりアメリカ軍の得意な「兵器のトライアル」だった可能性もあるし、同時に人体実験でもあったのだ。 なにせ自国の陸軍で人体実験をしたほどの国である。彼らの敵であるイエローモンキーなど、解剖材料だとしか見ていなかった可能性もある。
少なくとも、広島、長崎への原爆投下に合理的な理由付けは無意味だ。あれは全てが史上初の実験でしかなかったのだから。
結局メーサー殺獣光線車は、予定通り順調に遅れているようだ。 まあ1〜2ヶ月は遅れるだろうと当初から言われていたので、別に気にはならない。それよりもクオリティを最優先にしてもらわないと困るのだ。今まで40年もの間待っていたのだから、ここで数ヶ月遅れたところで、まったく問題ではない。この辺を勘違いしていなければ、例え1年遅れようが文句は言わない。要は結果オーライなのである。 結局のところ、前回のゼロエックス号の出来がかなり良かったので、やはり期待をしているという事なのだ。
ちなみにミラクルハウスのゼロエックスとメーサー車は、日本独自の企画だそうで、今までのジェリー・アンダーソン物とは出自が違うのである。今までのプロダクト・エンタープライズの製品には、どうしてもどこかしら不満が残るものが多い。この辺は日本人の方がメカの魅力を判っているように思う。 やはり日本人にはコアなマニアが多いという事だ。
なんて書いていたら、予約していた店からメールで「入荷日が不明なので案内の前に商品が届くかもしれない」との連絡があった。つまり問屋等に確認しても入荷日が現時点ではまったく不明で、これは入荷が当分先になるかも知れないという事だ。 ま、いいけど。
2007年06月28日(木) |
何も知らない子供たち |
またも会社にて。 ジローズの「戦争を知らない子供たち」を名曲だと子供に教えようとしたら、「こんなの全然名曲じゃない。名曲と言うのはオレンジレンジのようなのを言うんだ」と言われたそうだ。 あえて言うが、これはどっちもどっちである。
そもそもメッセージ・ソングは、その時代性が最も重要な要素であり、曲は標準程度あれば充分なのである。メッセージが正しく伝われば、それだけで存在価値があるという事なのだ。 問題なのは、メッセージ・ソングは同時代性が強いので、例えば今の大学生にベトナム戦争の事を話しても、その政治的重要性や意味はまったく判らないだろう。仮に知識として知っていても、同時代に生きた人間が持つ問題意識、緊張感、不条理感は理解しようがないのである。 そんな今の子供たちに今さら「戦争を知らない子供たち」を教えたところで、意味はないし理解は出来ない。曲も名曲と言うレヴェルの旋律ではないのだし。
だがここで「オレンジレンジ」を名曲だという方も勉強不足の愚か者だ。本当の名曲を全然知らないからこんなセリフが出てくるのである。それだけ今の日本が平和ボケしやすい国だという事の証明でもあると言えるのだが。
ちなみに私は歌詞に意味を求めない。イエスの「シベリアン・カートゥル」等は実に素晴らしい曲に仕上がっているが、意味はほとんどない。あくまで韻を踏んだ詩で構築してあり、実に心地良い曲に仕上がっている。 結局のところ現在のポピュラーやロックにおけるヴォーカルと言うのは、綺麗な音を出すための楽器の一つでしかないのである。それをわきまえていないヴォーカリストもいるが、やはり楽器ととらえれば、歌詞の意味など問う必要性は薄くなる。
ただ、綺麗な音というのは誤解を招くかもしれない。素晴らしい楽器といえば良いだろうか。例えばレオン・ラッセルやニール・ダイヤモンドのように、決して声自体は美しくないのに、そのヴォーカルの説得力には素晴らしいものがある人もいる。こういうのも、素晴らしいヴォーカリストというのである。
最近では、ドリーム・シアターのヴォーカリストであるジェイムズ・ラブリエが、この楽器と言う概念をきちんと把握していると感じられる。曲によって歌い方を変える事すらしているくらいだし、きちんと声を出す事が仕事だとわきまえている。 ライヴの現場でここまで考えているヴォーカリストは、意外と少ないのだ。
チャウチャウからサクランボが届く。やはりおいしいものには素直に嬉しいと思ってしまう。
ところで、会社で普段まったく本を読まないと言う奴が久々に本を買ったと話していた。 買った動機が、「事故で30日の免停となりバス通勤に時間がかかってヒマなため」という実に哀れで不純なものであるが、それでも本を読もうと思っただけマシと言えるのかも知れない。 だが彼は元々本を買うという習慣がないので、何を買って良いのか全然判らなかったというあたり、いかにも最近の一般人だと思ってしまう。 結局買ったのは、仙台が舞台で話題になった映画「アヒルと鴨のコインロッカー」の原作だという。何も考えない人にとって、映画の宣伝というのは簡単に方向性を決めてくれるありがたいものなのだろう。 やはり人を騙すには、マスコミへの大量投入が一番だと思ってしまう。あ、これはナチスによって過去実証済みか…。
そして今月から、社内ではノーネクタイでも良いというお達しが出ている。社内のみと言うところがいかにも無意味で、環境への配慮などポーズだけだというのが良く判る。 しかしこれで全員が多少でも喜ぶかと思いきや、若い奴ですら「ネクタイをしていないと、仕事をしている気になれない」という、実に会社人間という発言をしていた。 これはかなり意外である。私はこんなのをしているから仕事の効率が下がると思っているくらいなのである。なにせ日本は亜熱帯の国であり、ロンドンとは全然違うのだ(ロンドンの緯度は札幌あたりと同じだ)。 こんな国で背広にネクタイなど、まともな人間のする格好ではないのだがね。 私にとってこの会社は、不思議な集団なのである。
2007年06月26日(火) |
いよいよ押井の情報戦 |
町に出たどんぐり2号に頼んで、「ミステリ・マガジン 8月号」と「ゲーテ 8月号」を買ってきてもらう。
前者には、以前話題にした高城高の新作短篇が載っているのである。しかも以前の作品の後日談を狙っているらしいから、これはもう嫌でも買うしかない。 そんな彼が今後どうするのか、それも興味のあるところだ。
後者はどうしようもないビジネス+ファッション雑誌だが、押井監督のインタビューが載っているのである。これは映画「スカイ・クロラ」の公開にあわせて定期的に載せるらしい。 だがこれを読むと、どうも映画の出来は期待できないかもしれないと思ってしまう。今回は、別れた前妻との子供が結婚した事を期に、若者へのメッセージを託すのだという。しかもそれはどうも希望であるらしい。つまり押井色がほとんどない、ごく普通の作品に仕上げてみるという試みだ。 もちろん作家性の強い彼の作品が100%平凡な作品になどなりようもないが、へたをすると、とてもつまらない作品になる事も考えられるのだ。もちろん古くからのファンにとって、という意味だが。 いずれこれからオープンになっていく情報を見ていけば、おのずと主旨と作品のカラーが判ってくるだろう。今までもずっとそうだったのだから。
ルー・クリスティの「魔法」とは、全然関係はない
夜中にようやくプリーストの「魔法」読了。500ページ強という、読むのに物理的時間がかかる作品であった。 とにかく不思議な感覚の小説だ。あまりに不思議に感じがするので、なんと言うかジャンル分けが微妙である。それもあって一つのトリックはほぼ途中で判るのだが、どうも第6部9章を読んでもスーザンの正体が良く判らなくなる。描写のとおりの人間なのか、違うのか…。 もしかして私も読解力が著しく落ちているのかもしれない。
ただ、プリーストは「奇術師」と「魔法」を続けて読んではいけないようだ。どちらも作者のリードが似ているため、方向性が見えてくるのである。もっとも見えてきたところで混乱し騙されるのは一緒だし、面白さが減じる訳ではないのだが、この2作は間を置いて読んだ方が良さそうである。 しかし両方で1,100ページを越える2作を続けて読んだにもかかわらず意外と苦にならなかったのは、やはり文章が上手いからだろう。なんというか、洗練されたディックとでも言う感じだ。もしディックにこの位の文章構成力があれば、生きているうちにベストセラー作家になれたのではないだろうか。 そもそもこういう話を普通の作家が描いたら、多分退屈になるだけで、それを最後まで引っ張る構成力はたいしたものである。これだけ緻密に考えられていれば、どうしても寡作になってしまうだろう。
なお個人的には「奇術師」の方が好きだ。なぜならストーリーが複雑なので一般のミステリーのように読めるからである。「魔法」はストーリーが非常に単純でありながら、謎が多いという不思議な作品で、そのためどこで騙されていったのか、良く判らなくなる。これは意外とくやしいものがあるのだ。 話が単純という事は、作者の狙いがなかなか見えてこないという欠点も持つのだが、少なくともこの作品に関しては、見えてこないのに退屈はしないのである。
やはり不思議な小説だ。
2007年06月24日(日) |
FALL OF HYPERION |
本屋とCDショップを回る。 実はダン・シモンズの「殺戮のチェスゲーム」を捜しているが見つからない。 出た当時、あまりにも山田正紀の「謀殺のチェスゲーム」と題名が似ていたためにパスしたのだが、「ダーウィンの剃刀」を読んだ時に買っておけば良かったと後悔し捜している訳である。未だに見つからないので、そのうちアマゾンあたりで注文するしかないだろう。
この時「ハイペリオン」を買おうか迷ったが、きっと読み始めるとハマるだろうと思い、今日はパス。いずれダン・シモンズはすべて読んでみるつもりだが、特に怪奇系の作品に注目している。 代わりに「変な学術研究1」(ここの1はギリシャ数字)を買う。意外と目からウロコが落ちるような記述があり、面白い。 ついでにようやく徳間書店から出ていた「攻殻機動隊アルティメットアーカイヴ」も買う。
CDはユーライア・ヒープ「ハイ・アンド・マイティ」とロバート・ジョン・ゴドフリー「フォール・オブ・ハイペリオン」を買う。
前者はジョン・ウェットンが在籍し、中心になって作られたアルバムだ。ジャケットはルガーP-08を逆さにして翼をつけたもので、記憶に残りやすいものになっている。 内容は、音作りはいかにもユーライア・ヒープだが、時代に合わせて迷走していた事が判る内容でもある。結局中途半端に終わっているのだ。だが後期の彼らの中では比較的聞きやすく仕上がっているのは、ジョン・ウェットンの功績なのだろう。人によっては軽すぎると言うだろうが…。
後者のアルバムはロバート・ジョン・ゴドフリーのソロ・アルバムで、彼がTHE ENIDを結成する前に発表したものだ。聞けばもうこの段階でTHE ENIDの構想が固まっていた、というよりこのまま進んだ姿がTHE ENIDだったと言うのが正しいのだろう。 しかしHyperionというのも、元々はギリシア神話の太陽神だが、作品としてはジョン・キーツの叙事詩がベースになっているらしく、ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズも同じで、よほどこの「ハイペリオン」というのは魅力的なものらしい。 だがどれも「FALL OF HYPERION」という題名なのに、日本語の題名が違うのも混乱する。ダン・シモンズのSFでは「ハイペリオンの没落」(ジョン・キーツのものは邦題もこれになっている)だし、ロバート・ジョン・ゴドフリーの最初の国内盤は「太陽神ヒュぺリオンの堕落」というアルバム・タイトルだった。こういう例はいくつかあるが、やはり元が同じ叙事詩であれば、題名の統一を計る努力はすべきだろう。 まあロックのジャンルでは、売れなければならないという事で題名のインパクトが必要なのは判るが。
ちなみにTHE ENIDには、ブラッドベリの小説の題名そのままのアルバムもある。 これは「SOMETHING WICKED THIS WAY COMES」で、もちろん「何かが道をやってくる」だ。
本屋へ行き、カメラ雑誌の立ち読みなど。 しかしデジタルが主流になってからのカメラ雑誌はつまらなくなった。特に「CAPA」と「カメラマン」は、編集方針の変化や写真の粗さがあって、とても以前と同じ雑誌とは思えない程だ。 それとデジタル・カメラで撮った写真が雑誌の印刷と相性が悪いのか、どうも写真がきれいに見えないのだ。もちろん「アサヒカメラ」や「日本カメラ」といった権威筋の雑誌の写真はそれなりにきれいだから、多分元データと印刷の相性が悪いだけなのだとは思うが…。
だが写真雑誌全体に対して特に不満なのは、デジタル・カメラが家庭電化製品と同じ扱い、同じレヴェルになっている事だ。つまり短期間での新機種投入が常となり、カメラ自体の耐久性の低さ、性能の低さが当たり前になっている。 例の映像素子へのゴミ付着問題も、未だに決定的解決法は存在していないのに、それでよしとしている業界も異常だ。
フィルム・カメラは、AF化されてからはそれなりに電子部品の占める割合が増えたが、基本的にはフィルムとレンズのバランスで成り立っている割合が大きく、カメラ本体は「いかに使い易いか」「レスポンスの速さ」「耐久性」という部分の差であり、写真の写りはレンズに負う部分が非常に大きかったのである。 だがデジタル・カメラはそもそも映像素子の性能で写りの良さが左右され、メーカーは映像素子自体が持つ欠点をいかにうまくカヴァーするか、そしていかに綺麗に仕上がっているように見せるかという部分で苦労をしている。 たかが10万円程度のデジカメで綺麗な写真など撮れないのが実情なのであり、使い勝手もまだまだフィルム・カメラに較べると実用レヴェルにはほど遠い。 カメラと言うのは、プロ、アマを問わず、快適に撮影できないと困るのだ。ファインダーを覗いて、妙に見難いと思われるようではカメラとして失格なのだが、現在の普及機はすべてこの点で落第なのである。
だがフィルムは、売っている場所が限られてきたし、現像も同様だ。困ったものである。
先日買ったDVD「ユア・アイズ・オンリー」は、映画公開時にXL250を棄ててまでXT250を買ったほどにあのスキー・チェイス・シーンが好きなのだが、映画で使われたのはXT500である。そしてそのXT500は現在、ノーマルでは車検が通らないらしい。 原因はなんと、ライトが暗いためだという。確かにXT250に乗っていた頃、XL250と比べてもかなり暗かった覚えがあるが、よもや車検が通らない程とは意外だった。 所有者はバルブを変えたり、12Vに換装したり、さらには予備のバッテリーを積んだりとそれぞれ苦労しているらしいが、何をやっても現状打開にはなかなか至らず、最終的にはいろいろなウラワザ(というより裏道か)を駆使しているようだ。 ヤマハもなんとかしてあげれば良いのに…。
ところで押井守監督の新作「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」が正式に発表となり、公式HPもオープンした。まあこの手の例にもれず、今のところ有効情報は皆無だが。 だが気になる事が一つある。なぜ原作が「クローラー」ではなく「クロラ」読むのだろう。初めは「スカイ・クロラ」という意味が全く判らず、何かの固有名詞だと思っていたくらいだ。これが「スカイ・クローラー」あるいは「スカイ・クローラ」であれば、当初からそれなりに意味と意図が見えてくるのだが、なぜわざわざこんな書き方をしているのか、まったく理解できない。 もともと理系の役所用書類では、カタカナ名詞の最後の「ー」は略するのが慣わしではあったのだが、単語の途中を略するなど聞いた事がない。 実に不思議である。
2007年06月21日(木) |
朝日ソノラマ沈没準備 |
なんと、9月一杯で「朝日ソノラマ」が店じまいするそうだ。 財務状況の悪化は、思えば「宇宙船」が廃刊になった時点で気がつくべきだった。他のSF雑誌よりも格段に売れ行きが落ちていたのだから、経営側としては整理したくもなる訳で、この頃から不採算部門の整理に入っていたのだろう(今のところ、売れ行きやトラブルとは無関係に廃刊になった雑誌というと、「炎」くらいしか思い当たらない)。 コミックの販売権は朝日新聞社が引き継ぐそうだが、今のところ「栞と紙魚子」シリーズだけは、気に入っているだけにとても心配だ。
しかし「映画秘宝」って、何万部発行しているのだろう。それなりに売れているのか、結構あちこちで山積みになっているのを見かける。最近の雑誌としては珍しいような気がするのだが。なにせ内容が内容である。 それでも最近はおとなしくなってきたようで、どうも面白みがない。もっと過激な雑誌でないと、存在意義があまりないように思うのだが…。
ところでところで。 品川のアイマックスシアターが先日閉館となった。これで、科学館や生涯施設を除いた国内の常設IMAXシアターは、大阪市港区のサントリーミュージアム天保山IMAXシアターを残すのみとなったそうだ。これは油断していた。 新宿が閉じたのは知っていたが、よもや品川までとは…。東京に住んでいる人は、こんなすばらしいものをほとんどスルーしていた訳で、結局仕掛け人が仕掛けた物にしか興味を示さない街だと納得してしまう。
久々の会社で、疲れる疲れる…。
昨日は書かなかったが、イアン・ワトスンの「スロー・バード」と小川和久の「日本の戦争力」を購入した。 後者は探していたのはかなり前で、ようやく発見したのである。自衛隊の是非や軍備の比較などと言う単純なものではなく、自衛隊の存在意義、憲法の解釈の異常さ、戦争に必要な本当のスキル等、かなり面白い内容である。
そして最新の007シリーズDVDから、さらに3枚を購入。 今回は「ゴールドフィンガー」「女王陛下の007」「ユア・アイズ・オンリー」だが、期せずしてスキー・アクション物が2枚になった。 実は「女王陛下の007」はかなり好きな映画で、そのラストはまるでフランス映画のようである。突然「ショーン・コネリーのボンド映画」の代わりに登場したので、意味もなく批判された感じのあるジョージ・レーゼンビーだが、彼もスタッフも頑張って作っただけあり、かなり面白い映画に仕上がっている。というか、実にまともな映画なのである。この感覚は、今回の「カジノロワイヤル」に近いものがある。 言ってみれば、トータル・バランスに優れている、というところだろうか。
なおこれら007のスキー・シーンだが、同じスタント・チームがほぼ同じようなシーンを「ファイヤー&アイス 白銀の恋人たち」(ウィリー・ボグナー監督)という映画で披露している。 こちらはコメディで、素直に楽しめる良い出来である。残念ながら、DVD化はされていない。やはり出た時にLDで買っておくべきだったなぁ…。
2007年06月19日(火) |
そろそろ「監督・ばんざい!」 |
さて、そろそろ「監督・ばんざい!」について書く事にする。
富谷の109(東急グループだから109…)では、カンヌで上映された3分程の作品「素晴らしき休日」を朝の一回目だけ併映したのである。まあカンヌの依頼で作った作品なので、可もなく不可もなく、という出来だが、どうも昭和30年代を意識した作りのようだ。昭和30年代といっても、こういう田舎の雰囲気の作品はあまり好きではないが。 ただ劇中で「フィルムが焼けるシーン」を描いていたのが懐かしかった。確か最後に見たのはテアトル東京での大画面だったが、それも今となっては貴重だろう。そしてデジタル上映が進むとこういう事故は見られなくなる訳で、この映像を見ても何が起こったのか理解できなくなる訳だ。
そして「監督・ばんざい!」であるが、良くも悪くも彼の資質が判るガス抜き作品だ。やはり世間の目は「ギャング映画」の監督であり、たけしと言えども今後の方向性を決めるのと、観客の反応を見る必要性から、こうした映画を撮る事が必要だったのだろう。
多分たけし自身は、この映画の評価が客観的に判っているはずだ。だから映画の中で自ら突っ込みを行い、照れ隠しをしているのだが、その突っ込み自体は概ね正しい内容である。 したがってこの映画が彼のターニンクポイントになる可能性は高い。もちろんヒットする映画を作るかどうかは別だ。マイナーと言われ続けて来た押井監督ですら、観客動員はある程度考えていたのだが(それが結果に結びつかないが、彼は動員を完全に無視した事はないのである)、多分たけしは観客動員をまったく意識していない。撮りたいものを撮っていると考えられるのだ。 だからこそ、自分の可能性、世間の反応を今一度確認し、その上でやはり自分の撮りたいものを撮るという位置を確認したかったのだと思われる。
だがガス抜き映画をいきなり見せられた観客は戸惑うだろう。これが押井監督だと、観る方も撮る方も判っているという暗黙の了解が成り立つ世界なのだが、北野武監督というキャラクターは、国内と海外でかなり違うものに見られているのではないだろうか。 少なくともこの映画は、一般的には押井監督の「立喰師列伝」と同列と位置付けされるだろう。海外では理解されず、国内においても判る人にしか判らない、それでいて監督本人のステップアップには必要な作品と、まさに瓜二つの映画だ。 これ以後たけしがどう動くのか、非常に興味があるところだ。
しかし岸本加世子と鈴木杏の詐欺師親子は、実に良かった。この部分の脚本自体は破綻していたが、彼女たちは実にいい演技をしていた。実は鈴木杏をまともに見るのは「リターナー」依頼だったので、あの娘が鈴木杏だとはしばらく気づかなかったのである。 そして内田有紀はきれいになったものだ。まあ映画のメイクのおかげだろうが。
その他の役者も、よくまあこんな役を引き受けたものだと感心する。この辺はやはりたけしの実力に含まれるのかもしれない。 ただし井出らっきょうは鬱陶しくて邪魔だ。個人的にはこういうキャラを映画に出すのは嫌いである。彼はあくまでテレビや舞台のフォーマットであり、映画に出すような計算されたキャラクターではない。
ところで「怪奇映画・能楽堂」のシーンで、どうもテルミンが使用されていたように聞こえたのだが、調べてみたらオンドマルトノだった。 サントラ担当の池辺晋一郎氏はNHKの「独眼竜政宗」と「八代将軍吉宗」のテーマで使用していたが、実は師事していた武満徹氏も「未来への遺産」で使用していたという。こうしてオンドマルトノ派として繋がっていく訳だ。
なおこの映画内で「昭和30年代」を扱った部分があったが、その時のナレーション(伊武雅刀だが相変わらずうまい)が「昭和30年代、育った時代は同じだが、育った場所が決定的に違いすぎた」だった。つまりたけしが描くと、貧困と差別と暴力がまだまだ普通だった時代しか描けず、それは突き詰めていけばただのギャング映画の背景となってしまうのである。 だから彼に昭和30年代の映画は撮れないだろうし、多分撮っても無駄だ。今時の観客は奇麗事のノスタルジーが見たいのであり、昭和30年代のギャング映画など観たくはないのだ。
という訳で、この映画はたけしの現状を観ている分には面白いのだが、映画の中の笑いの部分は低レヴェルであまり面白いものではない。ネットではギャグの部分が笑えたなどと呑気な事を書いている人もかなりいたが、あの笑いはテレビの、特にアドリブでやるものであり、映画でやるレヴェルではない。 それは多分たけしも認識しているはずで、要は観客のレヴェルを確認しているのだ。
休みも今日と明日のみである。予想はしていたが、土日をはさんだ6日間は実質4日なので短い。結局たいした事は出来なかった。
今日は朝一で万代書店へプラモ等を持っていく。ほぼ予想通りの低価格だが、まあスペースを無駄に取っているから仕方がない。 本当はESIFCONの景品にしても良かったのだが、一つあたりの箱自体が大きいので、これはもらった方もかなり迷惑になる可能性が高いし、そもそも残ってしまったらこちらも困ってしまう。そんなサイズなのだ。
ところで全国ニュースのトップでも流れた殺人事件だが、どうも警察の動きが見えてこない。現場に人のいる気配がないし、聞き込みも行われているように感じない。何か確実な証拠でもあって動いていないのだろうか。 実は以前住んでいた横浜や清水では、事件があるとすぐに警察が聞き込み捜査に動き回っており、こういう動きが東北ではあまり見られないので、なんだか不安になってしまうのだ。 やはりある程度は警察も動いて更なる事件を防ぐとともに、、周辺住民を安心させる必要があるのではないだろうか。
ようやくタイヤを交換する。 今度の冬はスタッドレス・タイヤも交換しなければならないのでなんとなくダラダラ乗っていたが、さすがに熱い路面をスタッドレス・タイヤで走るのは苦しい。それでも仙台に来てからは遠距離の移動があまりなくなったので、それほどハードな走りはしていない。 しかし交換のたびに思うが、ディーラー純正のアルミは重い。ノーマルとスタッドレスのアルミは、逆にするべきだった。
ついでに実家のプラモを少し整理する。 以前もESIFCON等でかなり処分したのだが、残っているガンダム系とヤマト系は処分する事にした。新しいヴァージョンを見てしまうと、古いモデルは作る気が起きないのだ。多分これからの人生で作るガンダムのプラモは、「1/100 MG ΖガンダムVer2.0」だけになるだろう。これはプラモとして傑作なのである。 そしてサンダーバード系も、例えば旧イマイ現アオシマからジェットモグラなどの新金型ヴァージョンが出てしまっては、もはや古い物は一つあれば充分で、複数持っている物は処分する事にした。私の残り時間は短いのである。
もっともこれらを店で処分したところで、大した金額にはならないだろう。向こうしてみれば買うのは安く、売るのは高く、なのである。自分で高く売りたかったら、勘違いしている奴が多いオークションが一番である。私は面倒だから使っていないのだが。
そして調べていくと、アポロ関係やXシリーズ、さらにはスペースシャトルが鬼のように出てくる。シャトルなどは何でこんなに同じ物が複数あるのだろうと思ったが、多分ムーンレイカーを複数作ろうとしていたのだろう。という訳で、外部タンクのないシャトルだけは半分処分する事にした。あまりに場所を取りすぎているのだ。 ただしアポロ関係やXシリーズを処分する気は今のところまったくないし、こちらは一生処分しないだろう。サターン5型や1/32のアポロ司令船等はとんでもないスペースをとっているが、やはり愛着のある宇宙計画なのだから…。
処分する物をまとめたら、数は少ないがとんでもない体積になった。これは箱に入れるという訳にもいかない量だ。困ったものである。
そしてこれだけ処分してもなおかつ膨大な量のプラモが残っているが、流石にそろそろ処分できる物も限界になってきた。残ったのは気分的に処分が無理な物ばかりなのだ。それと人気がないが入手はかなり難しいという物も多い。輸入物で入荷量が少なかったり、多分こんなものは誰も買わないといった物だったり、ただの自分の思い入れだったり…。 まあ趣味とはそうしたものだが。
昨日映画を見た際に寄ったジャスコ内で、オモチャ屋が閉店するので在庫一掃をしていた。 ここがなんと店舗をすべて閉鎖していたと思っていた白牡丹だったのには驚いたが、とりあえず改めてどんぐり2号と見に行ったのだった。特に収獲はなかったが…。
午後は町中に出て、ドリームシアターの新譜「システマティック・ケイオス」を買う。どうせなのでDVD付きの方にしたが、高い…。
その後ちょっと実家に寄ると、近所で殺人事件があったと言う。 確かに地元紙には大々的に載っていたのだが、この近辺で殺人事件など、ここ30年位で初めてかもしれない。交通事故を含めても、警官が10人以上来た事など今までなかったはずだ。物騒になったものだ。そう言えばこの辺も飲み屋が急に増えて、明らかに外国人の数が増えた。差別とか偏見ではなく、外国人が増えたエリアは、それまでとは違うタイプの犯罪が増えるのである。
しかし被害者の女性は自分の軽自動車の中で殺されていたのだが、新聞記事によると、不法駐車の車を調べに来た警官が覗いて中が見えないほど濃いシールドを施してあったそうである。これはもしかして運転席側もシールドしていたという事なのか? 運転席の状態すら判らないようなシールドは、チンピラか族関係のバカしかやらない事だが、この車はそんな仕様だったという事なのだろうか。 違うなら確認に行った警官が、税金泥棒並みの無能だという事になるが、実際はどうだったのだろう。非常に気になる。なにせ内部が見えないような状況になど、普通の人はやらないからだ。
まあそれよりも犯人を捕まえる事が警察の急務である事に変わりはないが…。
2007年06月15日(金) |
「プレステージ」を観る |
富谷まで足を伸ばして、「監督・ばんざい!」と「プレステージ」を観る。 今日は「プレステージ」の話だけを書いて、「監督・ばんざい!」は後日にする(まあその程度の映画である)。
この「プレステージ」は久々に映画らしい映画、しかもかなり上質である。映画好きなら観て絶対に損はない。 だがこれから先は観た人を前提に「ある程度のネタバレを踏まえて書く」ので、未見の人は見てから読むように。またそもそもネタバレが嫌いだという人は読まないように。 ただし私は未見の映画であっても基本的にネタバレは否定しないし、ネタバレ程度でつまらなくなる映画は映画ではないと思っている。私はもしかしたら性格的にはアンジャー寄りなのかもしれない。
さて。 今回はプリースト原作の「奇術師」を読んだ上で「プレステージ」を観た訳である。この小説がNVでもSFでもなくFTだというところが実は重要で、特に「物質転送機」が絡むあたり、本来はSFにしないといけないのだが、あくまで人間模様がメインなのと、出版社の意向が絡んだ結果がFTなのであろう。 だが「1900年前後のロンドンで、マジックと科学という二つの非日常が出会った時、人間はどうなるのか」という事がメインになっているので、実はストレートにSFの手法で書かれていると言っても良い(さりげなくクローンのテーマも組み込んであるのだ)。
実は原作を30ページ程読めばアンジャーとボーデンのトリックは見当がついてしまう。そしてそれはほぼ正しいのだが、それですらこの小説は面白かったし、それ以上に映画は素晴らしい出来だった。脚本と映像の両者とも素晴らしいもので、原作を読んでトリックが判っていてすらこんなに面白いというのは、信じられない事だ。
双子のトリックはマジックは言うに及ばず、以前は映画界でも多用されていたテクニックである。今さらこの程度のネタで驚く人はいない。驚くのは、そのトリックを維持するためにボーデンが犠牲にしたものである。小説ではトリックの一つは早々に判ってしまうのだが、それによりボーデンがどれだけ苦しい人生を送ったかが主題の一つだと判る仕組みになっている。 映画ではこのトリックが早めには判らないため(原作を読んだ人は別だ)、かなり不思議なイメージの映像が出来上がっている。そして原作を知っていてすら、やはり映像のイメージは強烈だ。もしかしたら双子のトリックではないのかもしれないとすら思ってしまうほどだ。
実は小説も映画も、時間軸を再構成して流れを整理してしまうと、ほとんど複雑な問題は発生しない。どちらもトリックがメインではなく、二人の確執、彼らを取り巻く人間模様がメインになっているからだ。 多分映画での時間軸をそのままに構成すると、恐ろしいほどに判りやすくなるだろうし、それでは二転三転するトリックが全て見えてしまい本当にラストが見えてしまう(ボーデンの娘との約束が、重要なキーになっていたとのである)可能性があるほどに、本来は単純なのである。
そんな単純な構成を巧みに見せてしまうあたり、監督は只者ではないし、良質のミステリを観ているような高揚感がある。特にラストに向けての演出が素晴らしい。双子のトリックを忘れるような演出が実に上手いし、ボーデンの娘を配置する事で、緊張感が増しているのである。
なお映画はこの「物質転送機」を小説と同じように扱っているが、原作を知らずSFも特に読まない人がこれを見てどう思うのか、実は非常に興味がある。まさか実在するなどとは考えないだろうが、昨今の日本の非科学的状況をみると、かなり不安になってしまう。 あれはテスラが実際に作った機械だと信じる人がいてもおかしくないのが今の日本なのである。 ちなみにデビッド・ボウイはあえてテスラにキャスティングしなくとも良かったかもしれない。というか、あえて彼を出した意味はあまりなかったと思う。彼のカリスマ性というか存在感は、意外な事にほとんど意味もなく出た「ズーランダー」の方が上だったのである。
しかしアクションのないクリスチャン・ベールの演技が、こんなにもトム・クルーズに似ているとは思わなかった。どんどんトム・クルーズ化していく彼を見ていると、こちらの方がマジックそのものではないかと思ってしまう程だったのである。
こうして見ると、予想していた程にネタばらしをしなくても、結構書けると判った。本当はもっと色々と書きたいが、そうなるとほとんど映画の時間軸に沿って書き続けなければならなくなるが、それだけの時間はない。 つまりそれほどこの映画は密度が濃いという証拠でもある。
なおこの映画のパンフレットは、じつに素晴らしい構成だ。私が望んでいるのはここまで踏み込んだ内容を書いて、なおかつ鑑賞前には読めないようにしてある、こういう配慮がされたパンフなのである。これを編集した人は素晴らしい能力があると言っても良いだろう。
2007年06月14日(木) |
ますます「ウルトラヴァイオレット」 |
ちまちまとあちこち出かけたが、特に収獲はない。欲しい物はあったが…。
しかし本当に最近は、検索で日記に来る件数がコンスタントに30件前後になっている。一部はトラックバックになっていたりして、不思議に感じもする。それだけ続いてきたという事なのだろうか。
明日はいよいよ「リベリオン」…ではなくて「プレステージ」を観に行く予定だ。設備を考えるとどうしても富谷になってしまう。一番近いのはコロナなのだが、あれは映画を観るという事を考えると、あまり良い設備とはいえない。残念である。 そしてもし時間に余裕があれば、「監督・ばんざい!」も観たいところだ。
そんな中で私は相変わらず「ウルトラヴァイオレット」を見ていたりする。 今日見たおかげで、最終的な構成上の謎は「司書室の毒ガスの有無」だけとなった。これだけは編集時にカットされた部分に含まれているのか、全く謎のままなのである。ただし状況から推察すると、噴霧される直前の可能性が高い。何故なら司書室に完全防備の兵隊が1人だけいるからで、噴霧してしまえば無人の可能性が高くなる。 司書室で左手の指を二本なくすという部分まで伏線にするあたり、カート・ウイマーという人の脚本構成力はかなりのものだと思っているのだが、なぜこの部分が謎のまま残ってしまったのか、非常に不思議である。 この映画では編集が監督ではないので、やはり編集時の問題なのかもしれないが、「リベリオン」の時のように、監督一人だけで追加撮影出来るようなものではなかったのだろうし…。
今日は社内の40人近くが楽天の試合を見に行くのだそうだ。 という訳で、ほとんどが17時を過ぎた時点で帰っていく…。これだったら普段から早く帰る事が出来るんじゃないのか? どうも自分たちがヘンな行動を取っているという事を認識していないようだが、この一般人の行動というのは、今ひとつ私には理解できかねる。まさしく謎の存在だ。
夜になって、ロー×ンのお茶パックに仙台市電がついたのがあるというので探しに行く。結果としてなかったのだが(やはり仙台市である。仙台市電からなくなっているらしい)、代わりにフルタの食玩(ガムが入っていたので、食玩で間違いないだろう)の「中型バイク・メモリアル」というのがあったので、試しに一つ買ってみた。
ラインナップは「ホンダCBX400F」「カワサキZ400FX」「ヤマハRZ350」「スズキGSX400E」の各々カラーリング違いで8種類である。これらはちょうど大学を出たあたりからのバイク・ブームで出た名車ばかりで、出来によっては全部欲しくなるかもしれないのだ。 今回出たのはRZ350のブラックだった。これなら本当はホワイトが欲しいところなのだ。ちなみにこのバイクは、T寺とチャウチャウが当時乗っていたバイクでもある。各々の性格が出て、エンジンのフケがまるで違うバイクになったのは不思議だった。 食玩の出来はマアマアというところで、あと2〜3個は欲しいが、ダブリを考えるとちょっと躊躇するという出来でもある。なにせスタンドも固定だしなぁ。 でも本当はカワサキならZ250FTを出して欲しいところだ。タンクの形状とカラーはこちらの方が良かったのである。
さて、明日から6日間休みである。本店側に役所から有給休暇を消化しろという指示がきたらしく、一週間休めというお達しなのだ。でも支店で一週間休めるヤツなどあまりいないのである。そんなのより土曜日を全部休みにすればいいのに。 いずれ土日をはさんでいるのでたいした事が出来ないだろうから、やはり短く感じてしまうのだった…。
「奇術師」読了。 このラストは…。この本がSFでもNVでもなくFTで出ていたので、色々と考えラスト近くまでは想像どおりだったのだが、もしかしてラストでとんでもなく騙されてしまったのか? ボーデンとエンジャは、実は…。
少なくともこの構成だと、映画では複雑になりすぎるだろう。映画は賢い人ばかりが観に来る訳ではないのだ。 なんとなくだが、メインのトリックは××という事で落ち着いてしまうのかもしれないと思ってみたりする。
いずれ原作は良くできている上に面白い。600ページ近い厚さだったが、それほど読むのに苦労はなかったのだから、やはり翻訳も良かったのだろう。 ちなみに「魔法」も同時に買っていたので、これもじっくりと読んでいこう。こちらは500ページ強である。
そして今日、「メーサー殺獣光線車」の二台目をネットで注文してしまったのだった。ヤヴァいなぁ…。
まっちゃんの情報で、市電のミニチュアが付いたお茶を売っているローソンまで行く。 残念ながら仙台市電はまったくなし。手ぶらというのもつまらないので函館市電を買ってきたのだった。まあそのうちどこかで手に入る、かな?
しかし夏が近くなると、音だけうるさいガキのバイクがゴキブリのように出てくる。 走り屋ならともかく、こういうガキはウスノロでうるさいだけなので、本当に迷惑である。これもひとえに警察が取り締まらないからで、そのためにガキが増長するのである。白バイとチェイスできるような腕前なら褒めてやるが、ああいうガキはテクはゼロ、ひたすらチンピラを演ずる事で世の中に迷惑をかけている、文字通りただのバカなのだ。
本当の走り屋は、ライダーの世界からは絶滅してしまったのかも知れない…。
そして「奇術師」を読み続けるのだった。 かなり面白く、ついつい時間を忘れてしまうが、やはり600ページ近い物理的な量には圧倒される。それでも明日か明後日には読み終わるだろう。そのくらいハイペースにさせる面白さがある。 なにより文章自体にもトリックがあるように感じる作品なのだ。はたしてミステリーなのかSFなのか、楽しみである。
買い物に出たり、「奇術師」を読んだり、ネットをしたりであっという間の一日である。
ところで、社会保険庁のゴタゴタには政府も国民も右往左往させられているが、何を今さら騒ぐ事があるのだろう。以前から社会保険庁が役所としては最悪だと言われてきたではないか。 もう10年以上前から社会保険庁のいいかげんさはあちこちで言われ続けていたのだが、上部組織の厚生省が何も手をつけられずにいたのだから、社会保険庁の税金泥棒どもが増長するのは当然である。 私など、不明件数が5000万件だけで済んだのかと、逆に驚いたくらいだ。なにせ保険庁の連中は本当に仕事をしないし、文字通り税金の無駄遣いもする、あげくに人の金すら着服していた訳である。もしかしたら全て不明だった可能性もあったのだ。 根本的にここの連中は仕事をしない。労働組合が実にバカなことばかり要求するため、結局データをコンピューターへ入力する事も出来ず、過去の調査も出来ない。役所というものを完璧に勘違いしたバカの集まりである。真面目に「役人の仕事=公僕」という事を意識している者は、皆無だろう。普通は下の方に多少はいるものなのだが、この組織に関しては期待できない。まあ税金泥棒という意味では、犯罪者の集団と言い換えても良い。
しかも社会保険庁の連中は、恐らく個人情報をあちこちに売っていたはずだ。私の経験からもこれはまず間違いない。なにせ社会保険の手続きにだけ使用していた会社の電話番号に、直接セールス、しかもかなりタチの悪い、言ってみれば気違いかヤクザと同類の電話が何本もかかってきた事があるのだ。 これはもう社保の連中が漏洩しているとしか考えられない。 また知っている社保の奴も人間としてはかなりタチが悪い。下っ端なのに、税金を使っているという感覚がゼロだったし、そもそも仕事をするという感覚がないのである。下っ端ですらコレなのだ。 組織自体が腐っているというのは昔から言われ続けてきたが、それがまさに真実だったと国民がようやく気づいたというだけの事だ。
いずれ社会保険庁の役人どもは酷すぎるので、上部の幹部は全員入れ替えと言う方向になるだろう。そうしないと何も解決できないからだが、本当は全員を入れ替えないとダメかもしれない。
今日も会社である。 いい加減、土曜は全休にして欲しいものたが、この会社は上から下まで「会社にいる事が好きな奴」が多いので、どうしようもない。
さて、昨日はどんぐり2号が町に出たので、映画「プレステージ」の原作である「奇術師」を買ってきてもらったが、予想通り文庫のカヴァーが映画版になっていた。 関係ないが、昔テレビで「裸の街」をやった時には、87分署シリーズの文庫がドラマの写真付きカヴァーになっていた。ほとんどは持っていたので数冊しか買わなかったが、今から思うと貴重なカヴァーである。
しかし「奇術師」は原題がそもそも「プレステージ」だった訳だ。本に合わせて「奇術師」にしても、恐らく一般大衆は興味を抱かないだろうから、これは今回のようにストレートな題名で良かった可能性の方が高い。日本において洋画の題名を決定する事は、かくも難しいものなのである。 ちなみに解説を読むと、映画は2004年に公開予定だったらしいが、主役も変わっているし、ハリウッドお得意の大人の事情が色々とあったのだろう。
そして数ページを読んだところで、単純な事だが、これが映画では重要なオチに繋がっているのではないだろうか、という予感もあった。小説は違うのだろうが、かなり心配になってくる。
こんな事をしながら、クリムゾンの「VROOM」、アネクドテンの「vemod」、ネクターの「リサイクルド」等を聴いていたが、やはりこのあたりのサウンドは、妙に和んでしまうのだった。
2007年06月08日(金) |
何故「リベリオン」がないのだ |
いよいよ映画の「プレステージ」が始まる。元はプリーストの「奇術師」なので、一般向けハリウッドがどう料理するのか、非常に興味がある。 というか、そもそもこれに関しては原作をきちんと読んでから観たいと思っている。多分文庫のカヴァーは短期間だけ映画の写真が使われるだろう。
そして大して役にはたたないと思っているが、公式ホームページを覗いてみる。これが予想通り本当に役にたたないものだったのには笑ってしまったが。 ただ、出演者の経歴を見ると妙に変だと感じてしまった。なにせデビッド・ボウイの経歴にはしっかりと「ズーランダー」が書かれているのに、肝心のクリスチャン・ベールには「リベリオン」の記述がない。 パイパー・ペラーポなど「コヨーテ・アグリー」までもが載っているのに、である。一体どういう事だ?
もし「リベリオン」がB級SFだという理由で外しているのなら、一般向け映画としてはそれ以下の「ズーランダー」や「コヨーテ・アグリー」も外すのが当然だと思うが(私は楽しんだし、「ズーランダー」でのボウイは、年は取っているが意外とカッコいいのには驚いた)、これはネットや雑誌の記事だけを参考にして書いたからではないだろうか。 ない智恵は絞れば出てくるが、ない知識はどうやっても出てこないのである。こういった趣味の延長の仕事は、かなり知識の蓄積と経験、分析力がものを言うのだ。
今の映画の編集は、多分若い連中が必死にやっているのだとは思うが、根本的な知識が欠如しているように感じる。だからなんだか変だと感じる記事になるのだ。意図的にやっているならともかく、基礎知識自体がないために疑問にすら思わないのでは、どうしようもないが…。
高城高氏の短篇がミステリーマガジンの8月号に載るらしい。 これは買わなければならないが、実はこの情報を教えてくれたのは札幌の古書店の方で、私の日記を読んでわざわざメールをくれたのである。実にありがたい事だ。 以前もギーガーバーの件で当時、立ち上げに関係した方からメールをいただいたが、ネットも長く続けていると色々と不思議な縁ができるようである。
ちなみにこの日記は、友人の常連が10数人なのだが、実は検索で毎日30件前後の人が見にきている。したがって多い時には60件を軽く突破する事すらある。 これには驚くが、去年あたりから急に検索で来る人が増えたようで、やはり検索エンジンのプログラムが変わったのだろう。
いずれネットというのも人との繋がりなので、出会いは大切にしたいものである。
先日、近所にあった書店が唐突になくなっていた。5月末で閉めたらしいのだが、閉める直前に行っていたのにそんな気配は微塵もなく、これではあまりに不親切というものだろう。あまりに消費者不在の態度だ。 元々大した本もなかったのだが、それでもあるとないとでは、かなり違うのに…。 もう少し離れたところには宝文堂もあるのだが、こちらは6月で全店閉めるというアナウンスがあった。これもかなり困ってしまう。
こうなってくると本当に書店は駅前の大型書店しかなくなってしまう。それ以外の店はあまりに遠すぎるのだ。物理的にも距離があるし、バスを使おうにも一度駅前に出ないといけないのが仙台の不便なところだ。 結局、休みになるまで月刊誌は買えなくなってしまった事になる。これはかなり不便な事態だ。 本はなんでもそうだが、多少の立ち読みをしないと、内容は判らないのである。買うだけならネットがあるので全然困らないが、買う前提の立ち読みができないのでは、ネットも宝の持ち腐れとなってしまう。
結局ネットという物は、読書人のためにはあまり便利なものではなかったと言う事になる。そして書店が廃れなくなっていく社会と言うのは、健全なものだとは言えない。 やはり日本の社会は、明らかにおかしい方向へ進んでいるという訳だ。
アームストロングの本が出たらしい。 これはルイ・アームストロングではなく、ニール・アームストロング、つまりアポロ11号の船長として人類で初めて月面に降り立った人物である。読みたいのだが、上下巻で各2,499円とは高すぎる。
1969年当時は、アームストロング船長と言うのはきっと素晴らしい人なのだろうと思っていたが、やはりアメリカ人である。きちんとした計算の元に動いていた訳で、この辺はジョン・グレンと同じだ。 ただその後色々な本を読むと、アームストロングという人は、栄光を手に入れるために文字通り計算ずくで動いていたのだというのも判ってきた。特にX-15計画の時には、アポロ計画発動とともにさっさと辞めてしまっている。この辺になるとジョン・グレンとは比較にならないほどクールな訳で、ちょっとガッカリしたものだ。
もっともそうでなければ冨と名誉を手に入れられないのは、どの世界でも同じである。ただし同じではあるのだが、テストパイロットという文字通り命を賭けている世界においては、なんだか割り切れないものがあるのも確かだ。
そういうのもあって、今回の本は是非とも読んでみたいのではあるが、高いのもあるし厚いというのもある。そもそもつまらないという可能性もあるのだ。さて、どうしたものか。
ニュースで羽田健太郎氏の訃報が流れていた。まだ56歳との事で、これは流石にちと早いと思う。 経歴を紹介するのに、担当した音楽の一部として「マクロス」や「復活の日」という名前が出ていたが、これはどう考えてもバックでSFファンが動いているとしか思えない。「マクロス」はともかく、今時「復活の日」を知っている若い連中がいるとは思えないし、当時の連中も大半は忘れていたのではないだろうか。
私の場合、彼の思い出というと、渡辺真知子のライヴでバックをやっていた事だろう。静岡と仙台で見たが、両方とも同じクルーだったのである。ちょうど「現在、過去、未来」がヒットして絶頂期の渡辺真知子のバッキングであり、全員が非常にはしゃいでいた。 でも考えてみると、私も20歳くらいの時だったが、この時彼はまだ20代後半だった訳である。やはりまだまだ若いと言わざるをえない。合掌。
ところで。 昨日、どんぐり2号が食玩(食べる物は入っていないから、なんと呼ぶのだ?)のパトレイバーを買ってきた。開けるとパトレイバー1号機とシークレットの1号機で、こういうところは妙に運がいいというべきなのだろうか。 組み立ててみるとこれが置き場に困るサイズで、結局昨日買ったケースになんとか収めてしまう。そのためエリス中尉とタチコマくんは、食器棚の奥に戻ってしまったのだった。 またケースを買ってこなければならないではないか。
2007年06月03日(日) |
日の丸ユーロファイター |
最近ネット上で知り合った「だべささん」の日記を、過去の一番古いものから読んでみる。なんと4年前からだ。 だがこれが実に面白い。日常の中から良くこんなものを見つけてくるものだと感心してしまう。単に我々一般人が見逃しているだけなのだが、それをピックアップして、なおかつ面白い文章にし、時には物語にまで昇華してしまっている。才能の差というのはこういうところで感じるものなのだ。
こうしてネットを見ていると、プロとそうでない人の違いは「運」と「人脈」だけだと思ってしまう。才能なんて物は、プロだから特別だという物ではなくなったのである。
ところで。 航空自衛隊のF4後継機の話だが、こにきて急に「ユーロファイター」が浮上してきた。なんとイギリスのBAEが、生産ライセンス供与について三菱重工と交渉中と公表したのである。
確かにF22はアメリカ議会の輸出規制、価格の高騰という問題があり、かといってF15FXというのも基本設計が古すぎて、世界水準で次世代戦闘機とはなりえない。つまり日本の次期戦闘機という問題に、どちらも最適な機体ではないのである。 これで自衛隊としても困っており、現時点ではF15FXを繋ぎとする案が有力だが、繋ぎで良ければユーロファイターというのも悪くはない案だ。悪くはないというより、少なくともF22以外の戦闘機で考えると、実はかなり高性能の機体なのである。これを導入する事で、アメリカの介入を避け日本の航空技術の向上を図るまたとないチャンスだとも言える。
多分アメリカは必死になってこれを阻止しようと画策する事だろう。ユーロファイターを導入されるよりは、F15FXを買ってもらった方が、アメリカとしては助かるからだ。いや、助かると言うより、アメリカの軍需産業のためにも日本に買わせる必要があるのだ。 これから妨害工作が始まるだろうが、今の日本政府にはそれを防ぐだけの度量はないだろう。結局F2の時と同じ事になるのかも知れない。 結局、政府の才能が問われる事態になった訳だ。
ちなみに、ユーロファイターの愛称は「タイフーン」である。これだけでも妙に日本に合っていると言えるかもしれない。少なくとも「カミカゼ」でなくて良かった…。
無性に髪を切りたくなったので、朝一で床屋へ行く。そのために会社を休んでいるのだ(この会社は週休2日と言っているが、実際は隔週休み、実態はさらに少ないのである)。ちなみに休みと言っても他の土曜に振り替えるだけなので、実際のところ休みになっている訳ではない。
それはそれとして、床屋に行った後、近所のホームセンターなどへ行く。 ついでなので食玩を入れるケースを物色するが、500円以下のショーケースというのは、なかなか中途半端だ。帯に短し恋せよ乙女、ではなくて襷に長しで、これというサイズは存在しない。やはり最小公倍数的サイズのせいだろう。 もちろん企業の論理で作っているのだから、オーダー・メイドでもない限りいかんともし難いのは確かなのだが、食玩系の物は市場に溢れているのだから、やはりなんとかして欲しいものだ。 でもホークを入れるために高さが欲しいと思って購入したボックスに、エリス中尉がぴったりだったので、急遽イーグルとホークではなく、エリス中尉とタチコマくんとエイリアンの卵を入れてしまった。またこのサイズを買わないといけなくなってしまったなぁ。
午後は「ダーク・エボリューション」を見る。 これは2006年のイギリス作品なのだが、なんだか久々に本当の意味でのB級映画を見たという感じだ。 最大の問題は、演出が悪すぎところだろう。なにせ前半と後半ではまるで別の映画のようになってしまい、そもそもシリアスなのかコメディなのか判らなくなってしまう。 少なくとも前半はシリアスな展開なのだが、途中から往年の吸血鬼ものというか、コメディ・リリーフが出てきてしまう。最初からこの感じだったら意外と楽しめたかもしれないという、昔のB級怪奇映画という雰囲気である。 そういう意味で、現在この手の映画を見せるというのは意外と大変なのである。やはり演出は大事なのだ。
これだけではあんまりなので、続けて「X-メン」を見る。 まあこちらは腐ってもハリウッド映画、破綻はしていないのでそれなりに見ていられるが、やはりコミック原作というのは難しいのだというのも判る作品だ。どのあたりまで説得力を持たせられるかが分かれ目だろう。 ただしハリウットという存在は、アクターの演技力について恐ろしいまでの潜在能力を持っている事も良く判る。どんな末端の俳優であっても、みんな演技だけはうまいのである。
ちなみにコミック原作なら「キングダム・カム」を映画化して欲しいと思うが、これはさすがに難しいだろう。なにせテーマがテーマだし、アメリカ国内で核まで使ってしまうとなると、抵抗が大きすぎる事は容易に想像できる。しかも核の部分は重要なテーマで、ストーリー上もカットする訳にはいかないから厄介なのである。それ以上に、マーベル・コミックのキャラクターが全て登場するのだから、その処理だけでも大変だろう。 そんな中で年を取ったバットマンがかなり良かった。老人特有の頑固さが出てきて、スーパーマンと対立するのである。それに加えパワーが低下しているのだが、外骨格のバットマン・スーツで補うというアイデアが良い。
いずれこれだけコミック原作の映画が作られながら「キングダム・カム」の製作は、その噂すら聞こえてこない。多分ハリウッドで作る事は無理なのだろう。仮に作っても違う話になりそうだ。
先日「トランスフォーマー」のマスコミ向けショート・ヴァージョンの試写会があったとテレビで言っていた。 だがスピルバーグらしく、現在公表されている映像以外は公表しないとの事で、今回の試写会では入場者の携帯を預かり、カメラの撮影も一切禁止という処置だったらしい。
だがこれで今のマスコミに、説得力のある宣伝ができるのだろうか。 映画の魅力を言葉だけで説明できる人は、もうマスコミには存在しないような気がする。映画を愛してなおかつ発言力と影響力のある評論家は淀川長治氏が最後だったのかもしれない。少なくとも今のマスコミでは何の役にも立たない。
むしろこういう宣伝は、一般の人を上手く使った方が良い時代になってしまったのだ。 もちろん一般と言うのは、文字通りの一般大衆ではない。一般大衆は宣伝について何の役にも立たないのは周知の事実で、つまりは消費の最終段階であり、搾取される対象である。 私が言うのはその1ランク上のレヴェルの人間で、搾取されるという立場は変わらないが、物を言うのである。しかも的確に、である。スネークマン・ショーではないが、「良いものは良い、悪いものは悪い」と明確に言えるのであり、それだけ物を見る目がある存在でもある。そういう人を上手く使わないと、これからの消費は成り立たなくなるのである。 なにせ今は、どのジャンルにおいても消費者の方が販売する側より知識があり、良い物を見る目がある。そんな時代に映画の宣伝をマスコミに頼りきっていては、本来観に行くべき人が観に行かないまま終わってしまうのだ。
私の場合、最近の映画の宣伝だけでは今ひとつ映画館に行きたいという気が起きないのだが、後でソフトが販売されて見ると、これがとんでもなく面白く後悔する、というパターンが多くなった。それだけ宣伝が下手になったという証拠だ。
|