六本木ミニだより
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2003年09月17日(水) |
バッドボーイズ2バッド/S.W.A.T |
『バッドボーイズ2バッド』
眠かった。ていうか寝た。そして、私はこの映画に寝てしまう自分が好きだ。私を静かに寝させてしまうこの映画も好きだ。 この眠気は、「スナッチ」を見たときに感じたのと同じものだ。あのときも、ガラガラドッカンうるさい中で、私はどうしても船をこぐのを抑えられなかったんだっけ。ミソジニーな連中の物語は、勝手にやっていればよい。全然悪いことじゃない。女嫌いのくせに女に「ステキ!」といわれなければアイデンティティを保てない潜在的ミソジニストの方が(例えばジェームス・ボンドとかさ)よほど困る。画面の中に男しか出てこないミソジニストのやることは、私を挑発さえしない。実に平和的だ。あなたたちは暴れる。私は寝る。ケンカにすらならない。そういうのを「住み分け」というのではないですか?
『S.W.A.T』
面白いような、面白くないような。とりあえずコリン・ファレルは、これぐらいきれいにヒゲを剃っているときの方が私は好きですけど。 「面白い」という見方は新しい敵の作り方。市民が警察に協力せず、犯罪者の「俺を逃がせば1億ドルやる」という誘いの方を選んでしまう、ということ。こうなると、もう誰が敵になるかわからない。一応オチはついて犯罪者は無事連邦刑務所に収監されるのだが、その次の瞬間、刑務官が寝返るかもしれない、というワクワク感がある。つまり、「ちゃんと税金払った分、国家はちゃんと俺たちのために働いてくれてんのかい?」という問いが、彼らの行動の指針となっているように見えるのだ。 「面白くない」という見方は、それに対してマゾヒスティックに任務を遂行してしまうS.W.A.Tの面々。そのいい子ちゃんぶりが鼻につく。この人たち、かなりのワーカホリックである。家族団欒のプライベート・タイムにも携帯一つで呼び出され、それがなんだか嬉しそう。大仕事を終えたあともすぐ指令が下ったりして、「しょうがないな、やるか」の裏に「市民の皆さんが誰もわかってくれなくても、僕たち頑張るもんね」という嬉しいため息が混じる。 というわけで、私はその両方を感じながら見てました。隊員の中に女性(ヒスパニック、シングル・マザー)が混じってますが、現実にはS.W.A.Tにはまだ女性が採用されたことはないんだそうですね。それと、悪役の麻薬王に「運命の女」のオリヴィエ・マルティネス。最近、麻薬王にインテリなイケメン(死語)を使うのが目立ちませんか?
1度目に見たときからまったく無視していのですが、どうもこの映画、「ドリス・デイのラブコメのパロディ」みたいなこといわなくちゃいけないみたいなんですね、「プロ」の映画ライターとしては。でも、「そんなの、知らないもーん」という開き直りこみで、私はこの映画が大好き。オチを気にする人の気持ちもわかるけど、私はあまり気にしていない。 昔見たTVドラマだったか少女マンガだったか、「強いフリをして生きていれば、いつか本当に強くなれるのよ」というセリフがあった。そのセリフを聞いたのは、ずいぶん前(たぶん10代)のことだ。私はそのときそのセリフを「残酷だなあ」と思ったし、ここ数年間はとくに、「そんなの、健康に悪いだけだよ」とかなり否定的な目で見てきた。でも、最近、改めて思うようになった。そうじゃないかもしれない、と。 本来の顔とは違う自分を生きようとしたバーバラが、実はそれこそ本物の自分の顔であるかもしれない、と思い始めたとき、この映画は、フェミニストの思想をさえ超越してしまう。多くの心に残る物語がもっている「あるアクシデントに主人公が巻き込まれ、それによって主人公が成長する」ストーリーと同じように、それは、決してアクシデンタルではないのだ。その「事故」は、起こるべくして起きたものなのである。それを、一部の人々は「霊の導き」と呼ぶ。 過去の私のように、強いふりをして疲れちゃった人は、まだ本当に「なりたかった強い自分」に出会えていないだけだと思う。そして、なりたかった自分の姿は、「自分の努力」と、「一見偶然に見える霊の導き」という両親が揃わなければ生まれない。私は、それを感じさせてくれる物語が好きである。
試写状を見たときから、「におう、におうぞ〜、この映画は私を呼んでいる!」と思った映画です。最近ちょー忙しいのに、どうしても書かずにはいられないぐらい、私にとっては問題作です。
作品終了後、宣伝会社の方に、「どうでしたか?」といわれて、「ケイティ、おいしくないですかあ〜?」と叫んでしまったんです。(担当者さん(女性)も、「たしかにそうですね〜」といって笑ってましたが)。ケイティというのはこの映画の主人公の名前で、この映画はいわゆる「ラブ・サスペンス」で、詳しく書くとネタばれするのでそれ以上はかけませんが、ケイティはあまり幸せな女の子ではありません。でも! やっぱり! ケイティはおいしい! 「わたしは鬱依存症の女」の映画評で週刊金曜日にも書きましたが、ときどき、映画には、私の嫉妬をかきたてる女が登場します。ケイティは、そういうタイプの女の子(女子大生)です。 「私の嫉妬を呼ぶタイプの女」の条件、その1、その女は必ず正反対のタイプの男をふたりボーイフレンドにしている。その1っていうかそれがすべてだな(恥)。「私は鬱依存症の女」で主人公のリジーは、「ハンサムでちょっと危険なにおいのする男(ジョナサン・リース・マイヤーズ)」と、「ハンサムだけどちょっと朴訥とした感じで確実に守ってくれそうな男(ジェイソン・ビッグス)」のふたりと付き合ってました。しかし、くだらない指摘ですが、この二人はどちらもブルネットでした。今回は、かたっぽがブロンドでかたっぽが黒髪です。これ、例えば007シリーズでボンド・ガールが二人出てくるときに使われるキャラ分けです(最新シリーズでもハル・ベリーは黒髪でロザムンド・パイクは金髪でしょ)。ルックスにも正反対をもってくる心憎さです。「片方は危険な男、片方は安全な男」っていう図式は変わらないんだけども。(これ、男の「妻は聖母マリア型、愛人はマグダラのマリア型」っていうのと変わらないかもしれない) 危険な方はケイティの大学の同級生で、1年前に失踪した天才、エンブリー。これを、イギリスのティーンに大人気の新人、チャーリー・ハナムが演じ、安全な方は、エンブリーの失踪を探るうち、しだいにケイティにひかれていってしまう刑事、ウェイド。こちらは「デンジャラス・ビューティ」でもサンドラ・ブロックに対して「見守る王子様」(こちらも刑事だったね)をやっていた、黒髪のベンジャミン・ブラッド(苦みばしってますねー)が演じる。ふたりは年齢差もかなりある。ますますおいしいぞ、ケイティ。
さて、この映画でとってもキモなのは、ケイティが、すごく苦労人だってことです。彼女は大学4年生なんだけど、80年代のキャリア・ウーマンが乗り越えてきたような、「他人からの差別も自分の実力で何とかしてきた」みたいな優秀な学生である。名門大学でも合格率は数十倍といわれる、経営コンサルティング会社への内定を、実力で手に入れようとしている。でも、頑張りすぎのケイティの精神は、すでにボロボロになりかかっている。「才はあるのに色はない(映画中では You have no grace オマエはダサい、と訳されている)」というセリフは、自分がその通りだと思っているケイティをいたく傷つける。きっとケイティは、こんなにハンサムな男ふたりを手玉にとった自分は、ちゃんと「grace」もあるってことに、気づいていないのだ。彼女は幸せを認知する力が弱すぎるんです。それが映画の中で悲劇を招いていきます。
……バレバレでしょ、この映画のオチ。私も宣伝会社さんに「オチは見えるような宣伝でいいから、彼女の心の闇に共感したい女性が見に来たくなるような宣伝の方が良かったのでは?」といってしまった。(彼女も納得げであった)。私は、単に謎解きを楽しむだけの観客がこの映画を見にきて、「ケイティって、嫌な女」と思って帰られるのがイヤなのだ。主役を演じるケイティ・ホルムズ、「フォーン・ブース」にも出てますけど、ちょっと内向的な感じがぴったりなんだよね。
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