六本木ミニだより
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アル・パチーノ主演、くたびれた映画監督が理想の女優をCGで作っちゃったら、その女優が大人気になっちゃうお話。 この映画は、たぶん、今の現実とリンクしすぎている。いうなれば、地下鉄サリン事件が起きた後に、『空前のスケールで描くサスペンス超大作! カルト毒ガス殺人事件』を見ても、イマイチ盛り上がらないじゃありませんか。現実の方が超えちゃってる。バーチャルとリアルの境目のなさがもたらす危険に、多かれ少なかれ私達はぶち当たっちゃってる。映画の中で追体験しようという気にはならないのです。 ただし、この映画を救っているのは、バーチャル女優シモーヌを操作して右往左往する監督役のアル・パチーノです。彼が人間臭さを丸出しにした情けない演技がすごくうまい。この人間くささがあってこそ、シモーヌのロボットくささが引き立つ。(シモーヌは本当のCGではなく、スーパーモデル出身のレイチェル・ロバーツが演じていますから)。あと、完全無欠の美、シモーヌに対抗する「トウのたったワガママ女優」をウィノナ・ライダーがやっているのもいい(ぴったり?) ウィノナも人間臭いですからね。ウィノナはいい役見つけたなあ(いや、イヤミじゃなくて)。頑張れウィノナ!
2003年07月24日(木) |
『歌追い人』/『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』 |
『歌追い人』
「カントリー・ミュージック」といえばディズニーランドと『ブルース・ブラザース』しか知らなかった自分にとって、この映画は衝撃的でした。カントリー・ミュージックの原点。ちゃんとスピリットがある。黒人霊歌ならぬ「白人霊歌」だなあと強く思いました。 100年前のアメリカのお話。音楽学博士なのに大学の象牙の巨塔の女性差別のおかげでなかなか教授職につけない主人公・リリーが、妹を頼っておとずれたアパラチアの山の中で、スコットランドやアイルランドから持ち込まれた民謡(バラッドという)がそのまま残っているのを見つける。歌とのめぐり合いは人とのめぐり合いでもあり、その中で彼女は世界観を変革させていく。「山の民」の中の生活に息づいている音楽がすばらしい。 突然ですが、わたしはこの映画の中でうたわれているバラッドを聞いて、盆踊りで使われる「炭鉱節」を思い出しました。あの悲しい音楽。「月が出た出た、月が出た、あんなに煙突が高いので、さぞやお月さん、煙たかろ」とノーテンキに歌いながら、あれは、過酷な炭鉱労働者の一種の突き抜けた感情吐露なんですよね。自分が炭と熱にまみれているのに、月を思いやるそのやさしさが悲しい。カントリー・ミュージックもそれと同じで、あのノーテンキさは背景を無視してそこだけ切り取ってしまったらわからないものなんですね。「詞書(ことばがき)」が必要、というか。AFNで、日曜日の昼間のカントリー電リクが不滅なわけがわかりました。
『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』
わたしは、J・ブラッカイマー製作の映画で、久々に面白いと思いました。説教ゼロ。メッセージ性ゼロ。ひたすらに娯楽。『カントリー・ベア―ズ』のときも書いたけど、ディズニーは純粋な娯楽を作らせたら面白いの。説教入れるから臭くなるの。つまり、家族連れの観客に対して子どもの方を向いて作るか大人の方を向いて作るか、っていうことだと思うんです。 呪いをかけられたために死んでも死にきれないゾンビな海賊がたくさん出てくる。殺しても殺しても立ち上がってくるハエみたいな敵、というのは、いつも、J・ブラッカイマーの頭にあるんだろうけど、それを日本軍にしたり、ソマリア・ゲリラにするからおかしくなるんですよ。18世紀のカリブの海賊にすれば、誰もイヤな思いしなくてすんで、みんなで楽しめてハッピーじゃありませんか。彼はこういうところに彼の「うちなる子ども」としての才能を発揮すればいいのでは? イギリス人同士の対立だしさ。呪いの元凶を作ったのは欲深いコルテスだった、ってはっきりいってるしさ。 あのジョニー・デップが「子どものために出た」なんていっちゃって、あーあ、と思っていたけれど、ジョニーは子どものためになんかこの役をやっていない。自分のためにやっている。彼は完全に子どもに返っちゃってます。ジェフリー・ラッシュもかなり返ってるね。ヒーローとヒロインの若いふたりの方が、まだそこまで突き抜けていないだけに力入ってよっぽど大人。作るほうがこれだけ恥ずかしげもなく子ども返りしているのですから、見るほうも、子どもに戻って楽しみましょ。
2003年07月19日(土) |
西本智実さんと松本大さん |
この日記はますますわからなくなってきましたね。とりあえず、生活の中で印象に残った備忘録ということで…
7月19日、「国際女性ビジネス会議」というものに参加しました(グーグル検索で出ると思うので、リンクめんどくさいのではりません)。昨年初めて参加して、すごく楽しかったので今年も申し込んでいたのですが、午前中は祖母の納骨だったので、午後からの参加になりました。 午後の分科会第2セッション「自己ベストを更新する」というのに出た。パネリストがロシア・ボリショイ交響楽団主席指揮者の西本智実さん(女性ですよ)と、、アネックス証券代表取締役社長の松本大さん、司会は実行委員長の佐々木かをりさんだった。 西本さんは芸術家、松本さんは実業家と、職業的にも対極、「自己ベスト」へのアプローチもすごく対極なのが面白かった。西本さんは「自分はコンプレックスの塊で、肯定的な自己を認識したいという渇望から自己ベストを更新していく」、松本さんは、「僕は、人間というのは弱いものだと思っているので、完全肯定から出発する。弱い自分でいいじゃない、というところから出発して、自分がどこまで歩けるかを確かめたい」というお答え。 また、西本さんは、「芸術というと芸術的に聞こえますが、現場で実際にやっていることは算数です。ドレミファの音符を作ったのはピタゴラスです」。松本さんは、「お金の動きは、実は心の動きです。今ここに百人の人間がいるとして、『全員に80万円あげるか、80人の人に100万円あげて、15パーセントの人はなし』というと、ほとんどの人は前者を選ぶ。ところが、『全員がそれぞれ80万円払うか、85パーセントの人が100万円払って、15パーセントの人はチャラ』というと、なぜか後者を選ぶ。確率的には80万円払ったほうがいいんですが。人間というのは、買っているときには安定を選び、負けているときには不安定を選ぶという傾向があります」といっていた。 わたしには、西本さんの「芸術というのは算数です」というのが身にしみた。つまり「技術点」がクリアされなければ、芸術点というのはどうにもならん、ということなんですね。 松本さんの話は具体的には思い浮かばなかったんだけど、「お金の動きは人の心の動き」うん、そりゃそうだよね。もしかして、自己肯定感の弱い人間はバクチを打ちたがる、不安定を求めるっていうこと? ……おーこわ。
2003年07月18日(金) |
『私は「うつ依存症」の女』 |
邦題が悪いなあ。原題は「PROZAC NATION」で、日本の現状とあってない、というのもあるんですが。(プロザックは、アメリカでいちばんポピュラーな坑欝剤ですが、日本では認可されていません) タイトルほど重くはありませんでした。病気との戦いの部分でいえば、「17歳のカルテ」を超えてはいなかったとは思うが。しかし、この映画で面白かったのは、クリスティーナ・リッチ演じる主人公の「完璧主義女症候群」のほうでした。タイトル、そっちの方がずっといいと思った。 「美しい」といわれるだけでは、自己評価の低い女にとって誉めことばでもなんでもないと思う。それは「美しい(けどバカ)」「美しい(けどすぐやらせる)」といわれているのと同じ。やはり、女は「才色兼備」と呼ばれなくては。「美しい(だけではないものをもっている)」といわれてはじめて、自己評価の低い女は自分が人間扱いされていると感じるのです。この原作者(エリザベス・ワーツェル、クリスティーナ・リッチよりモデル体型)もすごい才色兼備なんだけど、『サロメ』と違って、わたしは、その才色兼備さにとっても憎悪をかきたてられた。それは、「こうあれば、女は女としての幸せを体現できる」んじゃないかと思われているファンタジーを、原作者が発しているからなのね。ハーバード大学、モデル並の容姿、ローリングストーンズ誌への投稿、10代からライターとして活躍、ドラッグ、セックス。菊川玲以上だわ。 さらに、男選びがまたまたファンタジック。ハーバード大学にジョナサン・リース・マイヤーズみたいな容姿の男がいて、その男と付き合ったら、そりゃもう最高のファンタジーだと思う。(私、変?)その後、危なげなジョナサンとは別れて、堅実そうなジェイソン・ビッグス(『アメリカン・パイ』で朴訥な童貞を演じた人)に乗り換えるあたりもとってもファンタジー。「ハンサムで危ない」「ハンサムでやさしい」両方、ちゃんと手に入れるっていうあたりがね。 わたし、「ハーバード大学のジョナサン・リース・マイヤーズに惚れられるなら、完璧主義症候群になってもいい」と思うもの(大恥)。そこにはまって抜けられなくなる深い深いコンプレックスには、すごく共感できます。わたしも重症ですね。しかもわたしにモデル並の容姿はない。嗚呼、だから病が深くならなかったのか。
2003年07月17日(木) |
『レボリューション6』/『サロメ』 |
『レボリューション6』
20代の頃『テロリストのパラソル』を読んで「おじさんだよなあ」と思った(今読むと、全共闘がおじさんなんじゃなくて主人公のハードボイルドさがおじさんなんだけどさ)。今の20代の人が、『レボリューション6』を見たら、やはり「おじさんだなあ」と思うかもしれない。でもそれでいいのかもしれない。 ドイツ映画。1980年代、西側でも当局に抵抗する動きはいろいろあって、主人公の6人は、その先鋭だった。それが、ひょんなことから、21世紀の今にもう一度集まって活動せざるをえない状態になってしまったというお話。 わたしが、自分を「共感できるなあ、したがって私もおばさんなんだなあ」と思ってしまったのは、足を洗った主人公たちの職業です。広告代理店のエグゼクティブ(90年代語)になって、「I love Bil Gates」なんてTシャツ着ていたり、検事になってたり、金持ちとロマンスしていたり。つまり、しっかりバブル資本主義が身についちゃってる。今の20代の人たちって、「30代の、バブルを知っている世代の人たちは暑苦しいから付き合いたくない」っていってるんだってね。それをちょっと思い知らされた。 そんなわけで、20代の人は嫌いかもしれません。でもね、昔もいろいろ事情があったのよ、っていう点で共感できる人は、30代の人とお友だちになれるかもしれません。そんなことを考えた映画でした。あえて、「平和ボケ日本と、ベルリンの壁にはばれていたにドイツとは違うのよ」みたいなことはいいたくありません。
『サロメ』
英語の勉強をまじめにやるようになって以来、本当に「映画は吹き替えが正しいなあ」と思っているんです。字幕見ていると、画像とか、音楽とかいろいろ見落としちゃう。 この『サロメ』がすごいのは、舞踏映画ですから、字幕いっさい必要なし。映像と音楽で、たっぷり堪能させてくれること。わたしは映画の途中で時計を見るくせがあって、ふつうのだと1時間ぐらい、つまらないやつだと40分ぐらい、おもしろいやつでも90分ぐらいで一度時計を見るのですが、この映画は、とうとう最後まで時計を見ませんでした。 スペインのカルロス・サウラ監督作品。サロメを踊るアイーダ・ゴメスは98年から2001年までスペイン国立バレエ団の芸術監督をつとめた人で、それはそれはもう、すごい。わたし、こんな「美しい肉体」って、見たことない。一応フェミニストっていうのは「わたし自身の身体に自身を持ちましょう」みたいなことを提唱しているんだけど、この人と比べてだったら、「わたしの身体は醜い」ってすなおに認めちゃう。認めちゃうことにまったく屈辱を感じない。 自立的で、躍動的で、むだな脂肪はなく、筋肉はしなやかに細く、背骨はまっすぐ、おっぱいはまん丸に飛び出し、ウエストはストイックにしまり、お尻にセルライトは皆無、表情豊かな手足。「女性性を最大限に出してしかも男に媚びていない」とは、こういうことをいうのです。 バレエというのはあらゆる舞踏のなかでも「身体を鑑賞する」ことに非常に重みを置く芸術なのですが、その価値がある肉体です。 バレエ映画は、『エトワール』をはじめ、ロングランヒットが続いています。いいことです。バーチャルな時代に身体性を渇望する。塩分の足りなくなった動物が地の塩をなめるように、自然な欲望だと思います。この映画は、ドキュメンタリーではなく映画がストーリーをちゃんともっているという点でも、一般の観客にもおすすめです。
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