夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2006年08月30日(水) 夏の終わりの<スローブルース>

 約1ヶ月ぶりに、星ヶ丘「スローブルース」へ。
 店に入ると、席はだいぶ埋まり、すでに「生音くらぶ」もスタートしていた。出演者もバラエティに富み、すべて終了したのは0時すぎ。最後のセッションはいつになく賑やかで、まるでビッグバンドのようでもあった。
 ちなみに、私自身のステージでは、ギター&タンバリンで<サザンオールスターズ・メドレー>(『チャコの海岸物語』朗読&『涙のキッス』演奏)、ギターで『釣りに行こう』(ザ・ブーム)、『山のロープウェイ』(ふきのとう)を演奏。
 ギャラリーが多いと緊張はするものの、とても気持ちがいいものだ。



2006年08月28日(月) ひまわり&松葉ぼたん

 南知多町「花ひろば」に出かけてきた。
 目当ては「ひまわり」。一面のひまわり畑を想像していたが、それでも「近所の小さな公園」くらいの面積はあったろう。太陽に向かってまっすぐ伸びゆくひまわりたちを見ていると、私の心のなかにも熱と光がわき上がってくるようだった。
 それと、これは予想外だったのだが、一面を覆わんばかりに咲き誇る松葉ぼたんが壮観だった。夏の陽射しのなかで、ひときわまぶしく映った。
 花はどれもそれぞれに美しい。金子みすずの詩ではないが、「みんなちがって、みんないい」のである。



2006年08月19日(土) 方代忌

  ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は
   骨壺の底にゆられて吾が帰る村 (山崎方代)

 18日昼ごろ、郷里に帰ってきた。今年3月市町村合併により「甲府市」となった「旧・中道町」の我が家に。「市町村合併して、市長村民税が10倍にはね上がった」と母がこぼしていた。
 その母が私に「19日に方代忌があるけど、行かないか」と声をかけてきた。同郷の歌人・山崎方代が亡くなって、もう20年以上になるらしい。まあ、この前の朗読イベントでも方代さんを取り上げたことだし、方代さんの墓前で手を合わせるのも悪くはなかろう。そう思って母の誘いを受けることにした。
 母は「方代会」の役員をしているので、当日は準備のため早めに出かけた。私は、太宰治研究家でもある叔父(母の弟)の車で現地に向かった。叔父は山梨での「桜桃忌」(太宰治を偲ぶ集い)を毎年企画している人なのだが、「方代忌」にも時々顔を出すらしい。
 さて、方代さんの菩提寺でもある円楽寺に着いて受付を済ます。まずは方代さんのエッセイ集『青じその花』の一部が朗読された。方代さんの短歌の背景にあるその人生観などを知ることができ、興味深く聴いた。その後甲府市助役ほか来賓の挨拶、記念講演に続けて、お焼香、最後にお墓参りをして散会となった。
 帰り際、中学・高校時代の先輩でもある甲府市職員のHさんから声をかけられた。「今年も短歌大会に応募してよ」と。そう言えば、このところ短歌も作っていない。「作れるようだったら、応募します」とだけ言って、会場をあとにした。
 短い帰郷だったが、明日20日には名古屋に戻っていく。



2006年08月18日(金) ミンゼミ

 「ダンス白州2006」というイベントのなかの、「大衆演劇ワークショップ」に16日夕方より参加。17日夜に大衆演劇の「初舞台」を踏みました(17日の「日記」参照)。17日の本番終了後も、「ダンス白州」会場内に設置されたテントに宿泊。
 明けて18日、田中泯さんのワークショップ「ミンゼミ」に参加。会場は、なんと「畑」(作物は植わっていませんでしたが)。泥んこになりながら、約2時間を心から楽しみました。参加者は30人ほど。世界的に有名な泯さんの活躍の幅を物語るかのように海外からの参加者も多く混じっていました。
 「ミンゼミ」では、まず3人1組になり、それぞれ身体をほぐすことからスタート。次に、1人が目を閉じたまま、他の2人の指示に従って身体を動かしました。その後、2人1組となり、「立った状態からいきなり倒れる、それもじっと見ているペアに倒れる気配を察知されないように」という課題が出され、それぞれに取り組みました。最後は、再度3人1組となって、土中に首から下を埋められた1人に対して2人がパフォーマンスを行うという課題。いずれも、自分の現在の身体の状態を見つめさせてくれる内容でした。
 今回のイベントのなかで泯さんのパフォーマンスを観る機会は得られませんでしたが、ふだんの佇まいから只者ではない、人々を魅了する不思議な力を感じさせる方でした(数年前、映画『たそがれ清兵衛』での名演も話題になりましたが)。私もああいう60代になりたいものだと思いました(まだ20年ありますが)。
 「ミンゼミ」終了後、私は会場をあとにして、実家へと戻っていきました。



2006年08月17日(木) 「赤城の山も今宵かぎりか」

 ついに、私、大衆演劇の舞台を踏んじゃいました。『ご存知!名月赤城山 国定忠治』に、国定忠治の子分「三ツ木の文蔵」の役で、ね。20分程度の舞台でしたけど。
 まあ、順を追ってお話しましょう。
 山梨県・旧「白州町」(現・北杜市)で開催されている「ダンス白州2006」というイベント(舞踏家・田中泯さんらが中心に企画・実施している)のなかの、「大衆演劇ワークショップ」に16日夕方から参加。実際の稽古は、17日午後から。若葉しげる座長率いる「若葉劇団」の方々と稽古をし、17日夜に「森の舞台」(木立のなかに作られた野外劇場)で本番の舞台を踏みました。
 大衆演劇の芝居には台本がなく、口立てという旅役者独特の稽古があります。まず配役が決められ、氏名、年齢、職業、性格の確認。それから座長は、登場人物の台詞、仕草はもとより、上、下手の出入りを、照明係、音響係(役者が兼ねる)への指示も出しながら、猛スピードで喋ります。これを受けて役者はノートに走り書きしたりして、1時間程度稽古。簡単な殺陣も教えていただきました。
 本番では、緊張して、わけがわからないうちに終わってしまっていたという感じ。もう少し余裕を持って舞台に臨めるとよかったと反省しています。でも、なかなかできない経験ができ、楽しかったのは確かです。



2006年08月13日(日) ブライアン・ジョーンズ

 名駅「ゴールド劇場」に、映画『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』を観に行ってきた。
 ローリング・ストーンズの初期のリーダーであるブライアン・ジョーンズの「謎の死」に迫る作品としての触れ込みだったが、結論から先に言えば、「あまりに表面的すぎて、つまらない作品」だった。制作にたずさわった方々がこの映画で何を伝えようといたのかがさっぱりわからなかったのだ。映画のなかのブライアンは麻薬中毒の偏屈な暴力男という面でしか描かれていなかった。仮に「麻薬中毒の偏屈な暴力男」だったとしても、そこに至る背景が描かれていればいい。そうした丹念な描写が一切なされていなかったことが、この映画の最大の失敗であると、断言してしまおう。
 私は、ブライアンの存在をリアルタイムでは知らない。ストーンズと言えば、ミック・ジャガーやキース・リチャーズの名前が即座に浮かぶ。けれども、ブライアンの音楽的才能を高く評価する声は多い。様々な楽器を弾きこなし、ルーツ・ミュージックにも深い関心を持っていたようだ。初期のストーンズを牽引していたのは間違いなくブライアンであり、若くして亡くなったロック・スターたち(ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン等)とともに今では伝説の人となっている。ストーンズが成功を手にしていくにつれ、バンド内の力関係に変化が生まれ、主導権がミックやキースに移っていき、バンド内で孤立を深めていったとされるブライアン。
 もしブライアンが生きていたら、などと無駄な想像もしてしまう私だが、亡くなって30年以上経った今もなおストーンズの音楽に大きな影響をもたらしているように思われるのだ。
 「なぜ、今、ブライアンの映画が制作されたのか」もよくわからなかったが、一ファンとして映画館に足を運んだのだ。多少は期待していただけに、あまりに出来の悪い映画に落胆する私であった。
 



2006年08月12日(土) 夏を笑う

 本日夕方、鶴舞「K.D.Japon」で、詩の朗読イベント『Bird-6 夏を笑う』(みおよしき・企画)が開催された。出演は、関西から池上宣久・土屋智行の両名、東海地区からは加久裕子 ・鈴木陽一レモン ・若原光彦、そして我々<沙羅双樹ふたたび>。
 それにしても、今回のテーマ「夏を笑う」は難しかった。関西詩人勢はもともとそうしたキャラなのか、会場全体を笑いに包んでいたのだが、東海詩人勢はテーマを意識しすぎていまひとつこなれていないように感じられた。我々<沙羅双樹ふたたび>としても、反省点はあったのだが・・・。前半のオープンマイク(飛び入りの朗読)はなかなかの粒揃いだったね。
 さてさて、我々<沙羅双樹ふたたび>だが、まずは往年のコミックソング『水虫の唄』(カメ&アンコー)からスタート。次に、夏撃波の詩『嵐を呼ぶ男〜山本秀雄の場合〜』を、沙羅のミンミン伴奏にのせて朗読。つづけて山崎方代の短歌を、私のギター伴奏にのせて二人で朗読。最後は、中島みゆきの名曲『永久欠番』を演奏。そうしたラインナップでの20分弱だったが、思いのほか緊張した。でも、発表の機会があるというのはうれしいもの。
 <沙羅双樹ふたたび>としては反省点も多々ある。けれども、沙羅という得がたいパートナーを得て、夏撃波ソロとは違った表現ができることに喜びを感じてもいる。次なる機会に向けて精進していきたい。



2006年08月09日(水) 恩師・鶴見和子さんを悼んで

  萎えたるは萎えたるままに美しく
   歩み納めむこの花道を
    (鶴見和子歌集『花道』より)

 7月31日、私の大学時代の恩師・鶴見和子さんが亡くなられた(享年88才)。南方熊楠や柳田国男の研究、地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などでも知られる社会学者。1979年に『南方熊楠』で毎日出版文化賞、1995年に南方熊楠賞、1999年に朝日賞をそれぞれ受賞。1995年に脳出血でたおれ左片麻痺となり、車椅子生活を送りながらも、これまで書かれた著作をまとめた『鶴見和子曼荼羅』や、生涯の中でかかわりのあったさまざまな人物や学問上の関心が照応する相手との対談をまとめた『鶴見和子 対話まんだら』というシリーズを刊行。和歌や日舞、着物などの趣味の豊かさでも知られ、その方面の随筆、写真本などの刊行物もある。
 鶴見さんは、学問に対する姿勢には厳しかったが、キモノのよく似合う美しいおばあちゃん先生だった。その生き方に学ぶところも多かった。冒頭に短歌を紹介したが、その歌からは常に前向きに生きてこられた鶴見さんの生きざまが伝わってくる。
 生前に鶴見さんが詠まれた短歌を紹介したいと、今夜は八事「POPCORN」で開催されている「詩のあるからだ」に参加。鶴見さんの短歌数首を朗読。それと、『竹田の子守唄』をミンミンで演奏した。「詩のあるからだ」では、参加者個々の朗読の後、中島みゆき『あたいの夏休み』の詠みくらべスラムも行われた。
 話は前後するが、最後に鶴見さんの短歌をいくつか紹介しよう。

  みんみん蝉生命(いのち)のかぎり鳴きつぐを
   我が歌詠(うた)うリズムとぞ聴く

  生命(いのち)細くほそくなりゆく境涯に
   いよよ燃え立つ炎ひとすじ

  おもむろに自然に近くなりゆくを
   老いとはいわじ涅槃とぞいわむ

 鶴見和子さんのご冥福をお祈りします。



2006年08月06日(日) 大須夏祭り

 夏本番!大須が熱い!!
 今日、大須の夏祭りに行って来た。大須観音を中心に大須の街全体がお祭一色。サンバ・パレードに興奮し、カポエイラの実演に息を呑み、盆踊りで夏の情緒を味わい、クライマックスの手筒花火と大治太鼓のコラボレーションには血が騒いだ。
 てな具合で、夏を満喫した一日であった。


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