本日の感想文。

2006年03月31日(金) フランダースの犬

実は、ベルギーに旅行するのに買ったガイドブックに(ベルギー、オランダあたりはいっしょに載っていることが多い)フランダースの犬は、本国ではメジャーではないと書いてあった。
聞くところによると、確かに世界的にメジャーでアメリカでは4回も映画化されているらしいのだけど、一番受け入れられている国は、日本なのだそうだ。それと、韓国。(^ー^;

現地では……というと、日本人観光客が「ネロが死んじゃった教会はどこ?」などと聞くので、いったいネロってなんじゃろ? の世界だったらしい。
で、とある人が『フランダースの犬』にたどり着き、アントワープ聖母大聖堂前にネロとパトラッシュ祈念碑ができるにいたった……のは、平成15年のこと。
原作者がイギリス人であったこともあるのか「わしら、困った子供を死なせるような人でなしでねぇ!」という気持ちもあったのか、この話は好かれていなかったようです。
それに、原作のネロは15歳。アロアとは、友情以上の大人の恋心を抱きはじめていた年頃。小さな子供とは言えません。
まともな職にありつければ死ぬことのない年齢です。
そのことから、どちらかというと、作者には社会的な訴えの意図があったのでは? とも思えます。

しかし、日本で子供用に書かれている本やアニメでは、ネロは10歳前後に描かれることが多いみたいです。
これでは15歳のネロよりも生きようがありません。
この作品から社会を批判するメッセージを読み取ろうとする人も少ないように思います。
むしろ、拾ったお財布をねこばばしない、差別的な目で見られても誇りを捨てない、自分の夢を叶えるために一生懸命生きたネロ少年に感動したのではないだろうか? 
そのためにネロは死んでしまう。そして、大勢の人たちが、彼が死んでから悔やむ。
それって、少し侍的で、日本の美徳と共通しています。
「武士道というは死ぬここと見付けたり」
と、同じに扱うのは、大げさか?(^0^;

ちなみに、アメリカの映画で私が見たものは、ネロが死なないものでした。(笑)
最後にパトラッシュが吠えて、人々にネロの存在を伝える……って感じだったと思います。
アメリカ的だなぁ。(ーー)

日本の多くの子供たちが「ネロを助けたい」と願い、もうちょっと早く見つけてあげれたら……と、涙にくれた『フランダースの犬』
おそらく作者の意図とは別の形で日本人に受けて、名作となったのではないでしょうか?
それもまた、よろしいのではないのでしょうかかね。(^ー^)



2006年03月25日(土) 【映画】アンナとロッテ

……というと、どうもミュージカルの【二人のロッテ】を思い出してしまう私なのですが、こちらは非常に重たいテーマのお話でした。

両親の死によって引き裂かれた双子の姉妹・アンナとロッテ。
二人はお互いを心配しながら育ってゆくけれど、育てられた環境・戦争などから、異なる価値観や思想になっていく。そして、ついに喧嘩別れしてしまい、老齢になるまで仲直りすることなく過ごす。
どちらが悪いのでもない。どちらの考え方も生き方も間違っていない。
その間に誤解もあった。でも「そうね」の一言でわかりあえるほど、受けた傷は軽くない。
ロッテに比べて恵まれない環境で育ったアンナの、苦難を必死に耐えて生きてゆく姿に感動をおぼえる。そして、ロッテが「その生活には一日たりとも耐えきれない」という言葉にも共感する。
恋人を思うロッテの気持ちが、アンナの「ユダヤ人」という一言で彼女への不信感となってしまっても、仕方がないと思う。

なんだか拙作の【陽が沈む時】を思い出すようなテーマでした。
おりしも双子……。(^ー^;



2006年03月24日(金) 【映画】ビッグ・フイッシュ

何気なーく途中から見たのですが……。はまりました! 
DVDを買おうかな?

父親の若かりし頃の冒険談。
それは、どう考えてもほら話でファンタジック。
子供の頃はそれを信じた息子も大人になるともううんざり。
……って、いやあここまでではないけれど、自分の物語を大ボラこくヤツっていますよね。
コミカルな演出も楽しかったのですけれど、ラストは感動しました。
ホラであろうがなかろうが、これは、ある1人の男の人生そのものを描いたお話。
そして、死んでいく時に、色々な思い出に彩られて旅立って行くお話。
まさに、その通りだよな……と思いました。
ファンタジーなんですけれどもね。
ファンタジーを通り越した現実です。

よく見たら、「シザーハンズ」の監督さんなんですね。
なんとなくわかるような……。(^ー^;






2006年03月20日(月) 【ドラマ】愛と死をみつめて

実は私、あまり死を取り上げるドラマが好きではないんですよね。
なんとなあーく「お涙ちょうだいいたします」って気がして。
なので、このドラマが40年もたってリメイクされると知って、今更かよ? と思ったのも事実。で、全然見る気がしなかったのも事実なのです。
なのに、二夜の途中から見ることになってしまった……。
理由は、お昼にやっていたダイジェスト版を見て、むむむ……これは見てもいいかな? と思ったから。
だんなとのチャンネル権争いで最初を見損ねてしまったけれど、おおまか見れたと思います。

なぜ、これを見てもいいかな? と思ったかというと、まさにそのまま……とまではいかないのだけれど、当時の世相、アイテム、景色を、できるだけ忠実に再現しようと試みられていたから。
ただ、泣かしてやろう……という目的のためならば、もっと簡単に現代に置き換えて脚本を書けばいい。
ミコもマコも、もっとわかりやすい現代の若者に置き換えればいいのだ。
ファッションもそう。あの学生服姿は今じゃ考えられない。女の子のブラウスやスカートのデザインも懐かしい。
全体的に、どこか今の韓国ドラマのような「くささ」がある。(笑)
よく、韓流ブームの原因は「日本が忘れてしまった純粋さ」にあると聞くけれど、まさに古きよき時代なのかも知れない。
このドラマは、ただ悲しい愛の物語を描こうとしているのではなく、日本のその時代もちらり……と見せるような演出がなされている。
特に、ミコが我が家のお正月を語るとことなど、忘れてしまった日本のお正月の姿を思い出してしまう。そして「マコのところはどうですか?」という、地方によって伝統が違うことも、実に当たり前のように教えてくれる。
当時の人が夢中になった【純愛ドラマ】を、できるだけリアルに飾り少なめに再現しようとする制作側の意図を感じて見ようという気になり、その方向性に好感が持てたので、満足できました。

特に印象的なのは、ラストのマコがマスコミの攻撃にさらされているところです。
純愛を求める人は、時に残酷だ。
恋人の死を一生背負って生きていくことを強要し、期待を裏切ってもらいたくないのだ。
これが、どれだけわがままなことなのか、自分の理想像を崩された事で傷ついている人々にはわからない。
その事実をつきつけたことで、このドラマはまさに【愛】と【死】をみつめたものになったと思う。
正直、映画のように凝った作りでもないし、完成度は高いとは思わない。泣く事もなかった。
でも、ひたすら作り物の安っぽい感動を求めようとする今の傾向にあって、一石を投じる作品であったと思う。


思えば、なぜ、私は「お涙ちょうだい、かわいそうな死」を毛嫌いするのだろう?
実は、この「ミコとマコ」があたえる影響が大きかったような気がする。

私が生まれて物心ついた時に、この「ミコとマコ」のお話は日本中を涙に包み込んでいた。
『マコ〜甘えてばかりでごめんネ、ミコは…とっても倖わせなの〜』(引用)という歌を子守唄代わりに育ち、やや大衆的な刺激は悲劇に満ちあふれていた。
その影響はずっと後を引いていて、少女漫画も病気で先立つ少女とそれを見守る少年の物語が王道となっていた。
実話が元になっているけれど、どんどん虚構がドラマチックに盛り込まれていき、本当の愛や死から遠のいたもので育ってきたように思う。
ミコの死から五年後、「君が死んだら生けていけない」と言い切ったマコはあっけなく結婚してしまう。
そのことに、美談を求める人々は許す事ができなかった。
冷静に考えれば、恋人の死から立ち直って生きていくのは、人間として正しい生き方だ。でも、自分の中で美談に作り替えてしまった民衆には、落ちたヒーローとなってしまったのだろう。
その騒動すら、私にはうっすらと記憶がある。

中学校時代【15歳の絶唱】という本が出た。これは、純愛ではなく、骨肉腫に冒されて15歳で命を失った少女の闘病日記だった。
同じ年代の少女とあって、私はずいぶんと涙してかわいそうだと思って同情した。
でも、その中に「この子は悲劇の主人公で、死にまっすぐに向き合って、負けてはいけない」という期待がなかったのか? というと、嘘になると思う。
ごく普通の少女らしい日記部分よりも、病気に苦しんでいるシーンや悩んでいるシーン、一生懸命自分を奮い立たせようとしているシーンばかりに目がいった。
死を理解するには、実に私は死から遠すぎて、他人の日記を読むだけでは、とても実感できなかったのだと思う。

本当に死が身近にあると気がついたのは、友人が死んでからだ。
そして、死というものが美談になんかならないことを、身をもって感じた。
だから、おそらく死を美談にしようとする作為に、それだけで「ごめん」って気になったのだと思う。

私の成長期に、純愛、死の美談、死に立ち向かうけなげさ……などを植え付けるもととなったのは、おそらくこの「ミコとマコ」だったに違いないと思う。直積的ではなくても、間接的に、この二番煎じ・三番煎じを狙ったものに影響を受けた。
大人になって虚実にうんざりする冷めた目を持つに至り、また、このドラマに戻って考えさせられた。
死んだ人は成長しないが、生きている人間は成長する。
愛は、いつか昇華しなければ毒になる。清らかな水も流れが止まれば汚れてしまう。
この物語の終わりはミコの死ではなく、今だ続いているのではないだろうか?
大事な人の死は、時間が嘆き悲しむという行為や思いを風化させてゆく。だが、その時に受けた心の傷は、決して癒えることなく、刻まれたままだ。
ミコの死はマコの人生に大きな影響を及ぼしている。それは、マスコミに騒がれた、叩かれた、などの要因がなくても、である。
時に幸せな思い出、時に深い後悔、そして、そのときの経験が、考え方や生き方に強い影響をあたえてる。とすれば、ミコとマコはいっしょに人生を歩んでいるともいえると思う。

***

完成度が高くないと書きましたが、それは、純愛の期待に答えようとする面と、人間ドラマをあからさまに描いて真実の姿に迫ろうとする面と、なんとなく中途半端になっているかな? と思ったからです。
泣きたいと思ってみていたら泣けない、辛辣に見たいと思ったらわざとらしい……のような。
これって、テレビドラマの性質上、仕方がないのかな? とも思いますが。



2006年03月19日(日) 【映画】ミリオンダラー・ベイビー

いい映画と聞いていたけれど、ボクサー物なんて痛そうで見たくない……と思っていました。
さらに、封切られた後のレヴューは、意外にも賛否両論で、これほど評判が両極端の映画も珍しいのではないでしょうか?
たまたまテレビで途中から見ました。
主人公マギーがフランキーとともに栄光への道を歩み出すあたりからです。
テンポがいいので、何の苦もなく途中からでも入り込むことができました。

この映画は、評判どおりの傑作です。
ただ、万人向きかというと……痛いのが苦手な人は避けたほうがいい映画だと思います。
また、今現在、人生に行き詰まり、乗り越えなければならない状態にある人も、見ないほうがいい。
生きるとは何か? を強く訴えかける映画だけに、そんなことに悩みたくない人は、見ないほうがいい傑作映画なのです。

ここからネタバレです。
30過ぎからボクサーとして開花したマギーは、タイトルマッチの最中、相手の反則で重い障害を受けてしまいます。
最終的に、彼女が選んだのは【尊厳ある生、安楽死】の道でした。
前半のまさに生命の輝きに満ちた才能開花のマギーの姿と、後半のどんどん枯れていく彼女の姿は、あまりに対象的。
その壮絶さから、彼女が死を選び、トレーナーであるフランキーがそれを助ける……という結末は、充分な説得力を感じさせます。
しかも、おそらくフランキー自身も生を捨てたのでは? と思わせるラストです。

この作品を、私は単純な【尊厳死】への讃歌、とは思えませんでした。
なぜならば、回復の見込みのない日々を長く送っていくにつれ、消耗していく二人の様子が良く描かれていて「正しい道を選んだ」というよりも、むしろ「それしか選びようがなかった」と思われるからです。
「彼女を死なせたくはない。でも、彼女を生かすには殺すしかない」と思い詰めてしまうフランキー。
今日しなくても明日、明日しなくても翌週には、フランキーはマギーを殺すだろう……と思えるのです。
フランキーは、できる限りのことをして、マギーを立ち直らせようとします。自己制御できる車椅子を用意して、学校へ行かせて学ばせようとしたり、一番いい医療施設を世話したり。
でも、マギーの人生は、ボクシングを失ったことで終わってしまった。
殺す事に何の希望もなく、心の安らぎもなく、ただ終わりだけがあった。それだけです。
この二人の選択を正しいとは思いません。
でも、この道を選ばざるを得なかったこと。私もこの道を選ぶかも知れないことを、否定できない。
このような人生は、ありえると思う。
自殺はいけない、生きる希望を持て! とは、簡単には言えない。
だから、この映画は単純な【安楽死に賛成・反対】というものを越えた説得力があったと思います。

私は、このような尊厳死には賛同しません。
なぜなら、人間は生きているうちはきっと何らかの希望がある……と信じたいからです。
どのような体になっても望みを持てると信じたい。生きている意味があると思いたい。
最後の最後まで、マギーに新しい生きがいを見いだして欲しいと願って見ていました。それができない事にも、仕方がないと納得しつつ、です。
今の医療の進歩は、本来死ぬべき人を生きながらえさせるという、以前にはなかった試練をあたえているのかもしれません。
だから、本来、神様があたえた命以上に生きているのだから、死を選ぶこともかまわないのではないか? とも思う人もいるでしょう。
でも、このマギーがそうですが、本来、未熟児で生まれ落ちて死ぬべき子供達が、普通の子供達と変わらずに大きくなって、大人になり、幸せになっていることを思えば、医学が長らえさせた命であっても、充分に大切にするべきと思います。
自分がこのような状態になったら、やはり死を選ぶかも知れない。でも、最後の最後まで粘り、希望を見いだそうとする自分でありたいと願います。



2006年03月17日(金) インスパイア?

【風の谷のナウシカ】を読んで……。
実は滝汗になったことがあります。(^ー^;

【森の人々】に似ている。
えーと【森の人々】は、ナウシカほど凝ったお話でも世界観でもありません。
比べるのもおこがましいほどちゃっちいお話です。(だから、なかなか続きが書けないってところもあり)
似ているというのは、おそらく読者が読んで似ていると思うレベルではなく、作者が読んで似ていると思うレベルです。

【森の人々】は、人類とは違う生き物が、戦争で破壊尽くされた世界を再生しようと試みる……その確執の中に巻き込まれた恋人たちのお話なのです。
ナウシカに出てくる皇弟の発想は、実に我が家のラスボスに似ている。(汗)
だいたい「森の人」って。あれれ? です。

で、思い起こせば……。
【森の人々】を書こうと思った頃と映画の【風の谷のナウシカ】を見た時って、ほぼ同じ頃ではないかな? と思うんですよね。
それで、滅びつつある世界を生きる人たちの話を考えようと思ったのではないかな? と今から思うと思ったり。
【エーデムリング物語】は指輪に影響を受けた! と言いきれるほど自覚があったのですが、【森】に関して言えば、てんで自覚はありません。
原作を読んで、それを思い出すなんて……とても不思議です。

そう言えば、蛹人とか人を食べる時の糸とか、何となく王蟲を思い出させるかも?
あれれ、気がつけば気がつくほど、影響を受けていたのかも? と思えてきた……。

とはいえ、影響を受けたというのがおこがましいほど、今のところ、できがよろしくありません。
なかなか納得がいかず、進まない連載であるわけです。
今年はなんとかしたいよー! と思いつつ、汗を拭いています。



2006年03月16日(木) 【漫画】風の谷のナウシカ

映画の感想を書いたら、読者の方から「漫画もぜひ読んでみてきださい」とおすすめいただきました。
実は、3巻まで漫画も読んでいたはずなのですが、かなり昔の事で記憶も確かではなく。
しかも、映画をみたすぐ後ぐらいだったので、映画よりも重くてくらい内容だった……というイメージしか残っていませんでした。
でも、ずーっと気になってはいたんですよね。
なので、これを機会に読んでみることにしました。

物書きの悪い癖なのか、映画を見たあとなのか。
ちょっと比較対象ばかりになってしまうかも?(^0^;
思った事すべてを書ききるには、もっともっと時間が必要です。

まず、前々から思っていたのですが、宮崎駿ってすごいな。ってこと。
作者には自作愛というものがあり、譲れないところ! ってあると思うんですよ。
あれだけのお話を、キャラのを変更・統合してまで、映画向けに作り変えるというのは、ものすごい冷静さと客観的な判断が必要だったのではないだろうか? ってこと。
おそらく、作者本人よりも、この作品を愛するファンのほうが納得するのに時間を要したのではなかろうか?
この原作と映画は、全くの別物だと思う。

映画では、風の谷近郊で終始しているけれど、原作はもっと広く、むしろ風の谷はどこかに置き去りになっている。ナウシカは最後の最後まで風の谷に戻らない。戻ったとも言われている……という結末だ。
原作でナウシカがいっしょに過ごしたはずの土鬼たち。これらがすべてペジテ市民と風の谷の婆様に吸収統合されている。
ナウシカは古の盟約により、戦いに馳せ参じる。父・ジルも原作では誇り高い戦士であり、映画以上に強い影響力を持っている。
つまり、原作のナウシカは、好き・嫌いに関わらず、戦士としての使命を果たすために戦いに自ら赴く。
映画は、ガンシップこそ無敵の戦闘機として紹介されてはいるけれど、あくまでも谷は平和な隠れ里のような描き方をされている。そこに他の国の介入と巨神兵が運び込まれてしまったことで、運命が動き出す……という流れだ。
そして、何よりもテーマが違う。
違う……というよりも、発展の仕方が……というべきだろうか?

戦争の悲惨さや無益さを訴えているのは、原作も映画もいっしょ。
人は、本来悪ではない。敵に対する恐怖と怒りが、本来の姿を失わせ、戦いへ、破壊へと向かわせる。
映画は、お互いが憎しみを越え、心を開きあえば、いつか再生への希望が開けると結んでいる。
が……原作では、さらにその希望の道まで破壊し尽くし、「我々は何者か?」「神とは何か?」のような、究極の命題にまで突き進んで行く。
つまり、愚かだ、間違いだ、と知りつつも、戦争を繰り返し、この星の破壊を加速させてしまうことが、「ただ心を開きあおう」という悟りを開くことで乗り越えることができるような、単純なものでもないことをつきつけてもいる。
実は、映画の中にもある何気ないアスベルの台詞が、原作でも重たい意味を持っていたような気がする。
腐海ができたわけ、蟲たちの役割を話すナウシカに対して言った言葉。
「そうだとするとぼくらは滅びるしかなさそうだな」

原作と映画の大きな違いといえば、ナウシカの神格度だ。
映画のラストは、ナウシカが王蟲によって癒され、復活し、伝説の英雄と重ねあわされる奇跡的なシーンで終わる。
でも、その場所は風の谷の近くであり、ナウシカはアスベルに抱き上げられ、一少女として風の谷で暮らすだろうことを示唆して終わる。
だが、原作はどうだろう? アスベルと抱き合うのはケチャであり、ナウシカは寂しそうにそれを見ている。
これは、どういうことだろうか? 
ナウシカは、神格化された神のように人々の希望になった。
もう、普通の少女としては、生きることができなくなってしまったのではないか? と思われる。
神格化されたナウシカは、風の谷でも生きられない。
神は、絶対的な存在ではなく、人々が祭り上げた時にはじめて誕生するとすれば、ナウシカは立派な神なのである。
だから、ナウシカは風の谷にも戻ることができない。
ただ、単純に再生への道を信じて生きる人たちの希望になり、見守るだけだ。真実は、語らぬままに。
最後、役割を終えたナウシカが故郷へかえったのか、同じく神格化された森の人々とともに生きる事にしたのか……。
最後は普通の人として生きたのか、それとも神のまま去ったのか? くらいの違いを感じます。

……と。
この続きや別伝があるのか、ちょっとわからないです。
あくまでも初読み感想です。
もしも、あるよーなら、誰か教えてくださいね。(^ー^)



2006年03月01日(水) 【映画】シムソンズ

オリンピックのカーリングに魅せられた人は、けっこうたくさんいるのではないでしょうかね? 私もその一人です。
で、噂の映画【シムソンズ】を見てきました。
はっきりいいます。おすすめです!
もうおしまいになる映画館もあるようなのですが、ぜひ、足を運んで見てほしいです。

実に爽やかな青春ドラマになっていて、王道まっしぐらなので、安心してみれます。
ちょっと『うん?』なところもあるのですが、破綻が少ないまとまった映画になっています。
そして何よりも難しいことを考えずに爽やかな気持ちになれるところがいいですね。
カーリングの魅力もたっぷり詰まっていて、ルールなどもわかりやすく解説するシーンもありますから、全然知らなくても大丈夫です。
ぜひ、若者に見て欲しい映画ですが……おじさんおばさんもノスタルジーにひたれていいですよ。

王道ストーリーというのは、ある程度展開も起きうることも決まっているし、キャラクターもだいたい性格が決められてくるんですよね。
そこで、どのようなことを埋め込むか? ってところが問題だと思うのですが、この作品には実にうまく導入されていたと思います。
それは、オープニングの主人公が抱く未来像。
かつて、妹がこの近くで高校時代を過ごした事がありまして、その時の悩み相談を思い出してしまいました。
『将来に夢が持てない』なんですよね。
当時私はもう大学に行っていて、親の転勤について歩く事はなかったのですが、妹はそうではなかった。
街全体が同じ住所で大丈夫という小さな街で、しかも楽しめそうな場所も何もない。
いいなあんな自然がいっぱいで! と言えるのは、都会にいるからだと思えるんですよ。
寒々とした寂しい景色は、大自然と喜ぶよりも過酷ともいえるわけで。
高校で転校を余儀なくされ、友達と別れてきた先には、海くらいしかないところ。遊びたい盛りの妹には、かなり辛くてホームシックの毎日だったようです。
家業を継ぐか、大学へ入るか、女の子なら信金にでも就職できればおめでたい。この街には何もない。
そう映画の中で主人公は訴えるけれど、まさにそれはそのとおりだと思います。
でも、今の若者は、大都会で何でもあるところにいても、同じような虚しさを味わっているような気がします。
何か煌めきたいけれど何をすればいいのかわからない。で、親と同じことをするか、それもいやだから何かを見つけるまでは独り立ちしないか……。
どこにいてもどんな立場でも、10年後の自分を想像したら、とても不安になってしまうのが人間なのではないかな? と思います。特にこれから大人になる年代は。

シムソンズの女の子たちは、本当に普通の高校生で、カーリングを始めたわけも「ただあこがれの人に近づきたい」という不純な動機から。
ふだんは街でただひとつしかない喫茶店で流氷ソーダを飲んで友達とだべっている高校生。
しかも、このチーム名『シンプソンズ』と付けようとして間違えてしまったというそそっかしさ。
「親一人子一人だから母を置いて都会には行けない」だろう主人公の和子。
「大学進学を親に期待されている」おそらく本人もとりあえず大学へ行って未来を広げたいだろう史江。
「家業の酪農を手伝っていて友達もいないネクラ」の菜摘。
「小さな頃から天才少女と言われて、勝つ事ばかりに執着するようになった」美希。
4人の個性もキラキラと光り、しかも「ああわかるよ、こんな感じ」と思わせるところが微妙なのです。

個人的に気に入っているのは、美希役の子の投球ホームの美しさでしょうか。一番はまっているように思われました。しかも、視線の送り方なんか、本当の試合を見ているようです。
経験者なのかと思いましたが、撮影のために一生懸命練習したようです。
あと、菜摘役の子。どこかでみたことがあると思ったら、妖怪大戦争に出ていた川姫だったのですね? 本当にかわいくて役もぴったりはまっていました。
カーリングよりも勉強をとった史江の家に行って叫ぶ台詞が良かったです。
普通、ダサダサな青春ものだったら、「やめないでガンバろうよ!」となると思うのですが。
「ありがと、私のこと見つけてくれて」っていうのは、何とも不思議で、彼女の優しさ・素直さを感じさせるいい台詞でした。
それに答えられない史江が、最初はカーテンを引き、最後には電気まで消してしまうところが切なかったです。

実は、何カ所か涙が出てしまったところがあるくらいです。
感動……っていうよりも、何か清々しくてすっきりする気分で……ですね。
できるだけ早く見て欲しいのは、やはりオリンピックの余韻の中で見て欲しいからです。小野寺選手や林選手の顔が重なって見えてしまいました。
なお、主人公役のモデルは小野寺選手ではなく、噂によると菜摘だそうです。
性格とかはアレンジがあると思いますが、思わず「おばあちゃん、見ている〜?」の小野寺さんを思い出しました。
菜摘ちゃん一家は、家族で酪農をがんばっているところが映画からにじみ出ていて、若い子にはかわいそうな労働にも見えますけれど、家族愛も感じられるんですよね。
お父さんが「あのスイーピングは俺が教えたんだぞ」と、隣の人に誇らしげに言うシーンが印象的でした。
ぜひ、続編を作ってもらい、ソルトレイクまでの道を映画で見せて欲しいですね。


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