今週は、授業参観週間だった。 支援級は、グループ学習の参観。 4つのグループに分かれての活動を見た。 息子は、ネイチャーゲームのグループで、1年生が3人と3年生 と4年生と一緒。 先生が撮っておいた写真のものを見つけて、先生に申告する。 植物が5種類、動物が5種類の、全部で10種類を中庭で探す。 小学校の中庭には、けっこういろいろなものがあるのである。 栗の木もあったし、鳩もいるし、蓮の花もある。 おたまじゃくしもいるし、バッタもいる。 ヘチマだってある。 真っ先にわたしが栗の木を見つけたことに先生は驚いていたが、 葉っぱを見ればわかるのだった。 田舎にはいっぱいあったから。 意外とヘチマがすぐにはわからなかった。 あまり、草木や虫には興味を持たない息子だが、ゲームとなると やはり楽しいようで、がんばって探していた。
その日は、お昼から支援級保護者の親睦会があって、12時から 4時くらいまでっずっと学校にいたことになる。 1年生がたくさん入学して、保護者の数も増えた。 1時間半を確保してあった親睦会も、昼食を食べている間は自己 紹介も中断されたので、全員分が終わらないうちに時間が来てし まった。 1年生や2年生、新しく支援級に入ってきた高学年の子などの親 の話を聞きながら、隣に座った5年生の子のお母さんと二人で、 うんうんとうなづいてばかりだった。 そうそう、1、2年生の頃はそういうことで心配してたよねとか、 あのころはいっぱいいっぱいだったよね、とか。 一人一人の特性は違っていても、学校という枠組みの中になんと かおさまるようにと、あれこれ悩むのはみんな同じだった。 いつしか、子どものしんどい部分が少しずつわかるようになり、 必ずしもキチンと枠におさまっていなくても、学校の中で楽しく 過ごしながら関わりを学んでいければいいのではと思えるように なってくるようだ。 先生は大変だと思うが、一番しんどいのは子ども達だから。 そんなことを考えた半日だった。
夜、叔母が亡くなったと連絡があった。 アメリカから一時帰国する娘を待っていたかのように。 せつない。
今日は父の日だけど、さっき、夫は息子と出かけていった。 ストラクチャードデッキが欲しいらしく、売り切れていなければ 良いがと思っていたら、やっぱり売り切れだったとのこと。 追加パックをたくさん買い込んできた。
父の日は、わたしが子どもの頃はあんまり注目されていなかった。 おまけに、中学3年からは母子家庭だったわけで、無関係だった。 母も父も、亡くなってからああすれば良かっただの、こうすれば 良かっただのと気づくのだなと思う。 ただ、介護の苦労はないのでそれを良しとするのか、親孝行する 機会がないと思うのかは人それぞれかもしれない。
ご飯も炊いて、今日はこれを作ろうと考えていたが、急遽出かけ てしまったので、夫と息子は外食になった。 わたしはまあ、あるものですますことに。 夫への感謝の気持ちは、日々の生活で表すことにしよう。 それが難しいんだが。
さて、今週から水泳の授業が始まる。 水着を履かせてみて、なんとか着用できることを確認した。 昨年、大きめの水着を買ってあったので、大丈夫なようだ。 昨年は、履き方が下手だったからか、上のサイズのを買ったのに 履けないというので、さらに上のサイズを買ったのだ。 今年は、ちゃんと履けるようなので、一安心。
それにしても、水道管取り替えに伴う工事は、最終段階に入るも のと思われ、道路の舗装工事が行われていて、アスファルト臭い。 音もそうだが、アスファルト臭いのは、なかなかしんどいもので、 早く終わってくれないかなと思う。 なるべく、雨が降らないで、順調に終わってほしい。
父の日だけど、それらしくない日曜が過ぎていく。
全てを受け入れてくれる存在が大事と書いたばかりなのに。
家にいる時は、ほとんど自由に過ごしている息子だが、パソコン の使用時間と就寝時間くらいはしっかり守ってもらいたいと思う。 父親に言われてしばらくは続くのだが、これはわたしにも責任が あるのだろうが、だんだんとなあなあになってしまう。
よくあることではあるのだが、なかなか寝る準備をしてくれなか った月曜の夜。 最初は促すように語りかけ、遊んでいるようにことを進めようと するのだが、ああだこうだと動く気配がない。 待てばいいのはわかっているが、待っていればどんどん就寝時間 が遅くなっていく。 焦りが苛立ちに変わり、怒りになっていく。 わたしが話そうとすると、「あー」とか「わー」とか言い出して 声が届かない。 わたしの声を聞きたくないのかとも思う。 おそらく、怒りに満ちた母親の声は、聞きたくない音の一つなの だろう。 説明したいのに、母の声が届かないようにしてしまう息子に腹を 立てる。 もう、何も言うまいと思う。 「もういいよ、言わないから。」と言うと、それもいやなようで ますます「わー」が大きくなる。
どの時点の対応が悪かったのかと思い返すが、思い当たることが ないように思える。 ついつい、母は間違ったことは言っていないだろうと言ってしま う。 間違っているとか間違っていないとかは、その状況での息子には 関係ないことなのに。
母のいけないところ。 正論だから言うことを聞きなさいと説得しようとしてしまうこと。 たぶん、息子が求めているのは、説得されることではなく、納得 することなのだ。 理屈ではない、気持ちの問題なのだと思う。
翌朝、夫は、父からの指示として、直接、3つほどの指示をした。 そして、夜。 父は君の睡眠時間を確保したいと思っているんだよと伝える。 そして、母の睡眠時間もきちんと確保してあげたいと思ってくれ ているのだよと伝えた。 だって、母は父に愛されているからねと。 妙に素直にそこのところは納得した息子。 母が父に愛されていることは、日頃から感じ取っていた模様。
2015年06月12日(金) |
今日の印象に残ったひと言 |
本日、印象に残ったひと言は、これだった。
「社会(世の中)を好きになれないと、働こうとは思えません。」
働くということの本質だろうと思った。 最終的には、自分自身に給料(報酬)という形で帰っては来るが、 そこには、誰かの役に立っているという気持ちがないと仕事は続 けることができないというのだ。
療育に通っている団体で、お母さん向けに開いた勉強会でのこと。 ストレスマネジメントについての話だったが、周囲の関わり方が ストレスになる場合に、そのストレスを軽減する為に、周りの声 を無視し嫌われてもいいと思うことは、絶対にさけなくてはなら ないというわけだ。 嫌われてもいいと思うのではなく、受け入れてもらえる組織を探 す(環境を変える)という手段をとるということ。 受け入れてもらえれば、その問題になっている行動も改善しよう と思うことが出来るようになるが、受け入れてもらえないままだ と、周囲との関わりがストレスになったままなので、その問題行 動は改善することはない。 ストレスと問題行動の悪循環に陥る。 周りの人に嫌われてもいいと思うと、自分も周りの人が嫌いにな り、社会が嫌いになる。 すると、人の為に、社会の為に働くということが出来なくなると。
そうなのかと思った。 わたし自身も若い頃は、働くのは給料の為だと思って仕事をして いたが、その根底には誰かの為になっているという潜在意識が働 いていたのかもしれないなと思った。
人は誰かの役に立ちたいという本能を持っているのだろう。 ありがとうと言われた時の喜びは、誰だって経験があるはず。
周囲との関わりにストレスを感じている子どもには、せめて家族 だけは全てを受け入れてくれる存在でいてほしいということも。 今のままのあなたが大好きよと抱きしめてくれる存在が必要なの だなと実感した話だった。
次回は発達障害とストレスマネジメントの話とのこと。
5月に入ってから、アパートの周りでは水道管の取り替え工事が 行われている。 なんでも、地震に強い水道管に取り替えるのだとか。 近所にひびく、ダダダダッとう掘削音。 そして、大きな給水管工事と、各家に引き込む為の配水管の工事。 昨日は、うちのアパートの配水管取り替え工事だった。 透析から帰ると、水道のバルブ部分で工事の人が何やら作業中。 これは手が洗えないなあと思いながら、除菌手ふきで念入りに手 指を拭いて昼ご飯。 食後、1時間ほどして、4年生までの子ども達の下校時間になり、 様子を見に表に出てみると、もう穴を埋めているところだった。 工事の人に、もう使えますよと教えられ、風呂場の水で確認。 次に洗面台で確認して、最後に台所の蛇口で確認した。
やっとトマトを洗って食べられるわと、丸ごとかぶりついている ところに息子帰宅。 何かテーブルに赤いものがあるなと思ったけど、やっぱりトマト だったのかと言われた。 夏が近づくと、母はトマトをおやつ代わりにかぶりつくのだ。 息子はよくわかっている。 もちろん、夫もよくわかっていて、冷蔵庫にトマトが入っている なと思っても、あれは嫁のおやつだと認識している。 おかずじゃないんだよなと。
まあ、トマトのことはおいといてと。 まだまだ近所の水道工事は7月の頭まで続くようだ。 雨となった今日も、配水管の取り替え工事は行われ、工事の人は 大変だなあと感心しつつ、外出から帰宅した。
運動会が終わって、学校が落ち着いたかなとも思うが、各学年の 校外学習があったり、今年は若あゆが6月にあったりと、これか らも行事は続く。 水道工事も、まだ続くのだ。
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