どうして5月にこんなに暑いのだろうと嘆きつつ、運動会終了。 昨年同様、息子の出番のみ校庭に出向くという、省エネスタイル で運動会を観戦。
午前中に徒競走と騎馬戦と親子綱引きは終了し、午後は組み体操 を待つばかりだった。 親子綱引きは、開会式の時に事前の受付が必要だと説明したよう だが、その時はまだ校庭に行っていなかったので、受付を知らず に夫は綱引きをする事は出来なかった。 息子にとってはルールは大事だから、ルールだから父と綱引きが 出来ないということには、あっさりと納得したようだった。
組体操は、真ん中の比較的前に並んでいて、よく見えた。 夫はビデオカメラ越しに撮影指定場所から撮影し、わたしは先生 のご好意で放送席に一歩踏み出して見させてもらった。 一昨年とか昨年とか、自分の子どもの縁起でもないのに、組体操 でがんばっている支援級の子ども達を見ていて、涙ぐんでしまう ことがあった。 今年は、自分の息子であるから、当然、見ていて涙ぐんでしまう のだ。 それも、最初から少しの段階で既にである。 終わってから、夫に「泣いちゃったの?」と聞かれ、さらに涙ぐ んでしまったりして、いやまったく涙もろい。
おそらくどこの保護者も、この5月らしくない暑さの中で、毎日 2時限の練習をしてきたことを知っているからこその感激なのだ と思う。 子どもの努力の成果には、結果はどうであれ、大拍手だった。
こうして運動会を1日中観戦するのも、これが最後かと話をしな がら、夜の部の透析。 疲れがたまったいたせいか、昼食後で体重が多かったからなのか、 終了15分前に血圧低下で終了することに。 ほんの一瞬だが意識が飛んで、耳が聞こえにくくなったり、汗が ばあーと出たりと、ひと頻りお騒がせしてからそれなりの時間に 帰宅。 病院で様子を見ている間に地震があり、わたしが一番に気づいた らしかった。
帰宅後、病院に電話を入れて、無事に帰宅したことを報告。 息子はイカのゲームで遊んでいた。 夫も少し一緒に遊んだらしく、面白いけどテクも必要だねと感想 を言っていた。
そんなこんなの怒濤の昨日。 今日のぷらむ短歌会の吟行は、欠席させてもらうことにした。
前回の日記で、ネット環境でのマナーについて書いたが、じつは 子ども達に与えるTVゲームやスマホのアプリについても同じよう なことが言えると思う。
ゲームばかりしていて困るというのは、たいてい3通り。 宿題もしないでゲームばかりしていて、困る。(宿題は先にする) 夜遅くまでやっていて寝ないので困る。(寝る時間にはとりあげる) 目に悪いんじゃないかと思って心配。(ブルーライト対策が必要?) 以前から言われている、ゲームばかりしていると、生死に対して の感覚が鈍くなるのではないかという心配も、確かにごもっとも。
その前に、ゲームのすべてが悪いわけではないし、アニメだって 過激なものばかりではないのは明白だ。 大人が見ているドラマだって、殺人事件ばかり起きていて、よく 人が死ぬし、そんな理由で人を殺すのかという動機だってある。
息子は、人が死んだりするのは怖いと思うらしく、ドラマを見て いると、「これ、ほんとじゃないよね。」と確認することがある。 あるというか、あった。 アニメは、どう見ても現実とは違うということがわかる子なので、 アニメで出来ているから現実でも出来るなんてことは考えない。 しかし、ドラマは実写であるから、現実との区別が難しいらしい。 だから、わたしは、「これはドラマで、お芝居だよ。死ぬのも、 血が出ているのもお芝居だから本物じゃないよ、心配しなくても 大丈夫だよ。」と伝えてきた。 現実との違いを認識することは大切だ。 実際には、人は生き返らないし、なかなか簡単には死なないもの だけど、思ったより簡単なことで死んでしまう。 ある程度の年齢になったら、生死について話をする事も必要だと 思う。
ちょっと話がずれたが、要するに、子どもに与えるゲームにして も、見ているアニメにしても、親は見たこともないのに否定して はならないということだ。 自分には興味がないから見たこともないし、どんな内容かもわか らないで、ここが悪いとかここがいいとか言えないだろう。 やらないまでも、そのゲームの内容は知っておくべきだし、その 上で心配なことがあればきちんと話し合えばいい。 アニメだって、一度くらいは見て、自分の嫌いなたぐいのもので あれば、どこが嫌いなのかを含めて話をすればいい。
知りもしないであれこれ言われるのは、子どもだって嫌だろう。 親が自分と同じものに興味を持っていてくれるというのはうれし いものだ。
やはり、知ることは大事。 それは、何も子どもの周りのことだけではない。 自分の子ども自身についても。
2015年05月24日(日) |
ネット環境と人付き合い |
親は思春期の子どもはよくわからないと言う。 自分だって思春期を通り過ぎてきたはずなのにだ。 たしかに、人それぞれ違うのだから、思春期をどう過ごしていた かだって、人それぞれだろう。 一つだけ言えるのは、しょうもないことでも大きく悩んでいたな ということ。 特に、友人関係は悩みの種だったように思う。 小学校で仲良しだった子が、中学に入ってから新しい友達と遊び 始めて、自分は置いておかれるような気持ちになった。 もう自分とは遊んでくれないのだろうかとも思った。 悩んだ末に、半べそでその子たちと一緒のときに悩んでいたこと を伝えたが、自分の思い込みだったことを知らされた。 遊ぶ仲間が増えたということだった。
今の子ども達はどうなんだろう。 スマホの普及に伴って、顔を合わせないままでの会話が日常的に なってきているこの頃では、「てにをは」の一つ一つがいざこざ の原因になっているのではないかと思う。 それは、子ども達の間だけのことではなく、大人の間でも同じか。 急速なネット環境の発達に対して、十分な教育というかマナーを 学ぶ前に入り込んでしまった人たちのトラブルが多すぎると感じ ている。 顔が見えないから、匿名だからこそマナーは必要で、相手に対す る気遣いは大切だ。 面と向かってだったり、電話ではちゃんと伝わるニュアンスとか も、文字だけではわからないのだということに気づかなさすぎだ。
わたしや夫は、パソコン通信であれこれ話をしたりする頃からの パソコンユーザで、インターネットの前からの人だから、20年 以上前から文字だけの付き合いに置けるマナーの大切さは身にし みてきている。 息子に対しても、ネット環境下における会話の難しさは伝え続け ていきたいと思っている。 それは他の子ども達も同じで、もし機会があれば伝えたいと思っ てもいるし、保護者はもう少しその辺をスマホとかを与える前に 勉強し教育していくべきではないかと思う。
ただでさえ難しい思春期の友達付き合いに、文字だけの会話の難 しさも加わったら、こじれやすくなってしまうのは目に見えてい ると思うし、便利だというだけでそこに隠れている困難さに気づ けないのはかわいそうなんじゃないかとも思う。
なんにせよ、知ることは大事。
4月、5月は訓練の時期である。 学校に入って早い時期に、引き渡し訓練や集団下校訓練がある。 学校という仕組みの中で、もしものときの訓練は早い時期にして おいたほうがいいのだろう。
そんななかで、運動会の練習もすでに始まっている。 息子は6年生。 組体操、騎馬戦、親子綱引き、100M徒競争。 組体操については、練習しても出来ないポーズは仕方がないねと いうことになっているが、騎馬戦の方も心配だ。 というのも、痛いという感覚におそらくはズレがあるからだ。 下(馬)になった場合に、最後まで乗せていられるのか。 上になったときに、恐怖感は人並み以上にはならないのか。 どちらもやってみないとわからないので、その辺は個別面談時に 担当教師と話し合い、6年の先生方との相談で決めてもらうこと にした。
4年生くらいまでは、何が辛いとか言わないままでただ怒ってい たり泣き叫んでしまったりしていたのだが、5年6年と進んでき て、事前に支援が必要であることを自分で言えるように少しずつ なってきているのが役立っている。 そうやって、自分の困難さを伝えられるようになることは、大人 になってからは特に必要になることだから、これは療育のおかげ でもあると感謝している。
運動会の練習は、5月の紫外線のもとで行われ、本番も近年では 暑い一日になることが多い。 年中を通して、水筒持参を認められるようになったが、うちでは 今日から水筒持参だ。 真夏日になろうかという今週は、必須だろう。 急な暑さで熱中症になったりする子どもがでないことを祈るばか りだ。
わたしが小学校の頃は、田舎で人数も少なかったし、運動会では 主に花笠音頭を踊ったり、鼓笛隊の演奏を披露したり、応援合戦 に力を入れたりしていたので、組体操も騎馬戦も未経験だ。
みんな、大変だなあと、おばちゃんは思うのだ。
母の日だが、隣の部屋で父と子と子の友人が三人でデュエル中だ。
母の日。 わたしが子どもの頃は、ことさらに「母の日」や「父の日」をと りあげることもなく、あまり感心がなかったように思う。 「母の日」だからと、何かプレゼントしたりもしなかった。
母の日をはっきりと意識したのは、上京してからだ。 姉の家族と同居した母に、何か贈ったような気もしないでもない。 母が亡くなった翌年の母の日は、お墓参りをした。 お供えする花束には、白いカーネーションが入っていた。 母が亡くなってから、母の日を意識したのは、姉が最初のくも膜 下出血の手術をして、退院した頃だった。 母の日を過ぎた頃が退院だったが、手術の為に坊主頭になってい た姉に、姉の子ども達と一緒に選んだ帽子をプレゼントした。 2回目のくも膜下出血の手術のときは11月だったので、退院は 12月。 やはり坊主頭の姉の為に、暖かそうな帽子を選んだ。
わたしが母親になって思うに、母の日だからといって何か欲しい わけじゃないなということだ。 学校では、母の日にお母さんい贈るカードを作ったりするが、そ こには日頃の感謝と大好きだよと言うひと言が添えられている。 もうそれで十分なのだ。 大好きだよと、6年生の息子に言ってもらえるなら、それで。
夫が自分のことを好きでいてくれることはわかっているし、自分 も夫に子とが大好きである。 だから、夫には特別にそう言ってもらいたいというわけでもない。 自分の気持ちをうまく表現できない息子だからこそ、大好きだと 表現してくれることはうれしいものだ。
今日は、お昼ご飯を外で食べて、その後は夫と息子は散髪に行き、 わたしがさきに帰宅した。 帰宅すると、いつも遊びにくる中学生から電話があったので、あ と30分くらいで帰ってくると思うと伝えた。 ちょうど30分くらいして、夫と息子が帰宅するのとほぼ同時に 遊びにきた。 そして、デュエル中というわけだ。
母は、まったりとこうしてパソコンに向かっている。 穏やかな母の日である。
母の日にほおっていてくれること口には出さぬ感謝と思う(市屋千鶴)
昨日、息子は6年生の鉄道大好き4人組で、大宮の鉄道博物館に行 ってきた。 GWの1週間前くらいにその企画を知らされて、どうしたものかと 少し悩んだが、一番の仲良しや、やはり仲の良い鉄道好きの同級生 たちと一緒だし、彼らなら往復の電車に乗り間違えたりすることも ないだろうし、行く場所は鉄道博物館だけと決まっているのだから、 ということで子ども達だけで行くことを了承した。
他のお母さんから、決めちゃってるみたいですけど大丈夫ですかと、 確認の電話が来たりしたが、みんなが付いてるから大丈夫でしょう と答えた。 本当に、彼らと一緒ならたぶん大丈夫だと思ったのだ。 彼らと一緒なら、パニックを起こすような事態もさけられるように 思ったが、それでも、いざとなったら母も付いていく心づもりはし ていた。
朝6時に起きて、7時過ぎには仲良し君が迎えにきた。 行ってきますとともに、途中で連絡入れますからと言ってくれて、 やっぱり6年生になるとみんなしっかりしてくるんだなと感心した。 よろしくねとお願いして送り出した後も、到着時間まではそわそわ してしまうのはいたしかたないか。 「さっきつきました」とメールが来て、ひと安心。 家にいても心配なだけなので、夫と出かけることにした。 食事をしたり、夫の靴を買ったりして、おやつも買って帰宅したが、 帰りは、乗っている電車の連絡や、新宿に着いたことや、もうすぐ 着くことなど、要所要所でメールをくれた。
帰宅して息子の元気な様子を確認し、仲良し君のお母さんに電話を して、きちんと連絡をくれて有り難かったことなど伝えた。
明日は、大きな地震が起きたことを想定しての引き渡し訓練である。 一緒に行ってくれた子たちのお母さんたちもやってくる。 しっかりお礼を言わねばと思うが、私語は慎んでくださいと言われ る訓練の間に、話は出来ないんだろうなあ。
とにもかくにも、息子は疲れたけどとても楽しかったと満足げだ。 友達の力って、大きいなあと改めて思うし、同じ鉄道好きの仲良し がいてほんとに良かったと思うのだ。
相変わらず、火曜日の朝はしんどい。 透析は週3回、火・木・土にやるのだが、火曜日は日曜と月曜を 挟んでの中2日となるので、水分も溜まるし、吐き気も増す。 火曜日の朝は、ほんとにしんどい。 早く透析して楽になりたいと思う。
そんななかでも、学校のある日はすぐ近くではあるが、正門まで 息子を送る。 マイペースな息子は、どうも登校班では行かれないようだと思い、 引っ越しを機に登校班で通うのをやめた。 避難訓練とか、集団下校訓練とかでは、登校班ごとの行動になる ので、登校班に所属はしているし、連絡もまわってくる。 だが、旗ふり当番はやっていない。
こうして考えてみると、息子が学校に行く日は、毎回送っている のだなと自分で感心する。 年に1、2回は、夫の出番になることもあるが、夫が息子を送る となると、少し遅れて会社に行くことになるので、そう何度もお 願いするわけにはいかない。
火曜日はしんどいが、連休だったりするとなおさらだ。 月曜日に水分摂取や食べる量なんかを調整することもよくあるが、 連休で家族がそろっていると、なかなか自制できないからだ。 家族そろっての食事は、食が進みがち。 そんなこんなで、今朝はしんどかった。 学校に送らなくていいというのが救い。
帰宅すると、息子の友達が遊びにくるとのこと。 GW後半の半分は遊びに来ている彼だが、中学生の彼が我が家に遊 びにくる理由の中には、夫とデュエルするという目的もあるのだ。 息子とも夫とも遊ぶ。
彼は、息子が4年生でわたしが入院していた時期に、毎日のように 遊びにきてくれていたというつきあいなので、わたしが透析で疲れ ていて、横になりたいときでも、彼ならちょっと勘弁して横になる よと言える相手なのである。 それは、彼のお母さんにも話していて、ほんとにありがたかったの よと何度も。
同じ発達障害の子どもを持つ親としての話をする事もあるが、忙し いお母さんなので、そう頻繁にというわけにはいかない。 息子さんを通じて、いろいろ様子を知ることもある。 手作りのお菓子を持たせてくれるときもある。 おいしい。 うちは、遊び場を提供しているだけなので、お菓子までいただける のは申し訳ないような気持ちすらする。
しんどい火曜日でも、夫や息子が楽しそうに遊んでいるのを、ただ ぼーっとテレビを見たり、パソコンをいじったりしながら見ていら れるのは、ほんとにありがたい。
家庭の問題は、相談する方もされる方も難しい。 自分の家族のことを相談するには、そもそものところから話さな くてはならないし、相談される方はどこまで踏み込んでいいのか を迷うからである。
往々にして女性は、相談といっても話を聞いてもらうこと自体が 目的になっているような場合が多く、ひたすら話を聞く。 相談する方は、胸に抱え込んでいるものを吐き出したいのだ。 心情の吐露である。 こうしたいのだがどうしたらいいか、ではなく、こうだったのだ、 こうなのだ、を言いたいのである。
さらに家族の問題が難しいのは、正論だけで割り切れないからだ。 理論的に考えれば、こうすればいいということはわかっているの に、心情的にそれが出来ないで悩むのだ。 そして、自分はこうしたからあなたもこうしたらいいよと言われ ても、事情が違うと思ってしまうこと。 それでも相談せずにいられないのは、抱え込むには一杯になり過 ぎてしまったからではないのか。
わたしは、両親の離婚に際しては、誰にも相談しなかった。 相談してどうにかなるものでもないと悟っていたからだろう。 両親の離婚も、転校も、そうするしかないのだからそうするだけ のことで、ことさらに悩んだりすることもなかった。
だが、その時期のあれやこれやがのちの自分自身の行動にとって、 かなり影響を与えていたことは、あとになってみればわかる。 苦しいときには苦しいと、悲しいときには悲しいと、寂しいとき には寂しいと、言える相手がいることは大事なことなのだ。 人は、知らず知らずに我慢していたことが、自らの行動を左右し てしまうことがあるから。 その行動は、たとえば恋愛だったり、夫婦関係だったり、子育て だったりに出てくる。
自分の家族の問題は、自分自身だけでなく、自分の後に続くもの にも影響することになるので、自分自身の段階でなんとかしたい ものだと思うのだが、どうだろうか。 それは、家族の問題を解決しろということではなく、その問題に 向き合って素直に気持ちを打ち明けられる相談相手を持つことな のかもしれない。
自分の気持ち、わかっているだろうか。
わたしは、お題があるほうが短歌を作りやすい性質だと思う。 だから、次回の短歌会が吟行で、ごん功に参加はしないものの、 その日に作った歌を披露するということなので、前もって作らな いのである。 ということは、日常の中で短歌が浮んでこないということになっ てしまうのだ。(情けない話だが。)
それならば、自分で勝手にお題を設定して作ればいいではないか とも思うのだが、なかなかできない。 お題すら浮ばない。
4月5月は、何かと忙しいし、運動会までは落ち着かない。 だって、息子は6年生だから、組み体操をやるのである。 騎馬戦もあるし、親子綱引きもある。 6年生は、基本、体力勝負なのである。(ダンスとじゃなくて) まあ、息子のことは、学校にまかせて、と。
短歌を作りたいと思ったのは、自分の中にくすぶっている両親の 離婚に関するあれこれを吐き出したかったのだろう。 それらを吐き出すと、次はふるさとへのこだわりが浮んできた。 それも吐き出し終わって、次は子どものことになる。 子どもを題材にすると、あまあまになってしまうので、なるべく 客観的に作りたいと思っている。 まあ、なるべく。
せっかくの新緑の5月。 いい短歌ができるといいなあと思いつつ、お題から考える日々だ。
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