学校の行事、スケート教室。 4年生と5年生でやるのだが、4年生のときはまったくやろうと しなかった。 転んだときに他の人のスケート靴の刃でけがをするといけないか ら、手袋はちゃんとするのだよと教えたら、スケート靴が怖いと うことになって、だめだった。 「5年生のときは頑張ってみようね。」と、付き添ってくれてい た支援級の教師に励まされていた。
今年、支援級の担当も変わり、付き添いは担当の教師だった。 やっぱりだめだったようだが、担当の教師は、「スケートは大人 でも怖いこともありますから、無理にやらせてけがしたりするよ りはいいでしょ。」と、あっさりと言った。 たしかに、スケートができなくても困らない。
5年生になって、というより2学期以降なのだが、息子への向き 合い方が自分自身でも変わってきたように思う。 まず第1には、息子の感覚過敏について理解が進んだことがある。 第2に、臨床心理士との個別療育のなかで、対応方法をじっくり 考えることが多かったことがあげられる。 学校生活の中では、出来ることを常に求められていて、母親でも これが出来たから今度はこれが出来るようになればなどと考えて しまう。 しかし、息子にとって、何かが出来るようになるということは、 何かを我慢しているということだったのだ。 それが、感覚過敏でどうしようもないことだったり、性質的に難 しい要求であっても、彼らは我慢してしまうことがある。
普通の子どももそうだが、認められたいという欲求は強い。 自分の中での出来るイメージと、実際の自分との差を認めたくな いという気持ちもある。 だから、できないということに直面したときに人一倍ダメージを 受けてしまうのだ。 自分はなんてだめなんだ、自分の思うように出来ないなんて。 という具合だ。 だから、必要以上に我慢していることもあるのだが、それは周り からは案外と分からなくて、何か問題行動に出て初めてそんなに 我慢していたのかと気づかされる。
臨床心理士と相談して、学校の担当とも相談して、交流の時間を 減らしたり、1、2年生との接触を減らしたりという工夫をする ことで、ストレスが減り、問題行動が改善されたりする。 穏やかに暮らしていれば、毎日がんばって勉強もできる。
大人になるには、あれもこれもできるようにならなくてはと、母 はついつい思ってしまう。 が、できないことの辛さを一番感じているのは本人なのだ。
2015年01月26日(月) |
いい母親という名のプレッシャー |
いい母親になろうと思えば思うほど、離れて行くように思う。
44歳で初めて母親になったわたしは、経験豊富な40代の母親 に育てられた子どもはちゃんとしているべきと思っていたし、そ う見られると思っていた。
最初のつまずきは、母乳で育児。 出産時に600CC以上の出血があったので、かなりひどい貧血 状態だった。 母乳は血液から作られる。 当然、貧血のわたしからは満足に母乳は出なかった。 病院にいる間は、なんとか絞り出しながら与えていたが、帰宅し てからはほんとに出ていなかったらしく、ミルクと混合にせざる を得なかった。 母乳、母乳と言われている時代、ミルクに頼らねばならないのは なんだか母親失格の酔うな気がした。 しかし、ミルクを飲んだ息子は、よく寝てくれて助かった。 それに、4週間に1回の通院時に息子を預ける為には、ミルクの 方が都合が良かった。 産後の初乳だけでも与えことが出来たのが、救いだった。
息子が2歳になるかならないくらいの頃、返事をしてくれないと 息子に腹を立てていた。 呼ばれたら返事をするという、わたしが基本的に教えられてきた ことが出来ないのが許せなかった。 ひどく怒った。 あとで思えば、息子にわたしの呼び声は届いていなかったのだが。
そうして、怒り続ける毎日。 ちゃんとしつけられていない子どもだと思われたくない。 それは、すなわち、自分の見栄の為だった。 息子の状況や、怒られているときの気持ちは、考えていなかった。 息子が発達障害だとわかったのは、比較的遅めの年長さんのとき。 それまでは落ち着きの無い息子に、手を焼いてばかりだった。 どこでもエレベーターに乗りたがり、必ずボタンを押したがる。 どんな状況でも押したいのだ。 それは、他人の眼を意識することの多い毎日だった。
発達障害だと分かって、正直ほっとした。 息子の落ち着きの無さやこだわりの強さは、わたしのしつけが悪 いからではないのだとわかって、ほっとした。 しかし、同時に息子が他の子ども達と同じようにはしていられな いという現実を、直視することでもあった。 保育イベントの間中、どこかに行かないように保育士にずっと手 を握られてむずがっている息子を見て、涙が出そうだった。
いい母親って、なんだろう。 誰から見ての、いい母親なんだろう。 他人の眼はやはり気になるが、そんなこと気にしなくてもいいと 教えてくれる息子の存在は大きい。 息子が発達障害児でなかったら、たぶんわたしはもっと他者から の評価を気にする見栄っ張りな母親になっていたと思う。
息子をそのまま受け止めるのは難しかったが、母親の理解次第で 息子の落ち着き方が違ってくることにも気がついた。 母親のイライラが、子どもの情緒にストレートに影響するのだ。 怒ってしまったときは、あとできちんと理由を説明し、仲直りを するのが我が家のルール。 焦らず、怒らず、ひと呼吸飲み込んで、息子に向かう。
日曜日は親戚一同の新年会。 そしてぷらむ短歌会。
新年会はいつもの場所でいつものメンバーで。 従姉の娘のところは、上の子が2歳くらいで下の子は6ヶ月。 ともに男の子。 姪のところは8ヶ月。 これまた男の子。 うちの息子からずっと男の子ばかり生まれているようだ。 親戚の集まりは、上京してきた従姉同士と叔母同士から始まって いる。 最初は、身内は女ばかりだったのだ。 代替わりするにつれ、まだまだ女の子が多かったものが男の子が 増えてきた。 赤ちゃんがいるのは、場の雰囲気がほんわかしていいものだ。 幼児期に、赤ちゃんは嫌いと言っていた息子も、今ではかわいい と言うようになった。 今年は、9月に木曽方面に旅行することが決まった。 といっても、場所はあくまで予定。
新年会が終わってそそくさとわたしだけ移動。 南大沢に行った。 ちょうど休憩タイムだったようだ。 学習室に着いても息切れしていた。
今回のお題は「雪」。 歌はこの6首。 前を行く友の背中は見えずとも校舎に向かう地吹雪の道(市屋千鶴) 雪原をかきわけて来る友たちを教室のストーブ温めて待つ(市屋千鶴) 降りしきる雪の一日は君の住む町をすっぽりひといろにする(市屋千鶴) 暴風雪波浪警報 弓なりの島国赤く染められている(市屋千鶴) ばあちゃんは「もっつもっつ降る」って言ってたな 画面の向こうで雪はふるふる(市屋千鶴) 山脈のふもとの村で育ちおり雪かきでなく雪掘りという(市屋千鶴)
雪を詠むとなると、どうしてもきれいな方向に行ってしまいがち になるので、今回は実体験を詠むことにした。 6首目、「育ちおり」としてしまったが、「育ちたり」にという 指摘があり、変更することにした。 せっかくの雪国育ちである。 実感のある歌にしたかったので、リアルな雪の歌という感想をい ただき、うれしかった。
短歌会が終わってまっすぐに帰宅したが、なんだかもう疲れてし まって、早々に寝てしまった。 多摩方面へ出かけることが1日で済んだのは良いが、一日でかけ ているのは、やっぱり疲れるものなのだな。
昨年の日記を見ていたが、あの大雪のことを書いていない。 どうして書かなかったのだろう。 へてへとだったからだったか。
2週続けて雪が降った。 最初の週は、土曜日に雪が降ったので、雪が降っている中を病院 まで歩いた。 雪が降っている最中は比較的楽だった。 しかし、翌週は金曜日に大雪が降り、土曜日は雨になっていた。 雨で重くなった雪を踏み越えて病院に通った。 家の前の道は、新聞配達の人の足跡があるだけだった。 男性の足跡だから、わたしの歩幅とは全くあわないので、役には 立たなかった。 大きな通り(車が通りそうな)までの100メートルばかりの道 を10分近くかけて歩いた。 足を持ち上げるのが大変な雪道だった。 そのあとも、病院までの道のりは長く、結局30分以上かかった。 わたしは、病院にたどり着いた5人目の透析患者だった。
送迎をお願いしている人たちは、車が家の前まで入って行けない ので、どうしようもなくていた。 病院では看護師さんたちが一人一人電話をかけて、通えるかどう かを確かめていた。 その日、通えない人たちの為に、翌日の日曜も透析室を開けて、 透析することになっていた。
こんなことを思い出したのは、14日の水曜日の歌会始を見てい たからだ。 長野県の方が、大雪の日に雪をかき分けて1本の道を作り、それ で世の中と繋がったという歌を詠まれていた。 そうだよな、うちの前程度の雪でさえ、通りに出る為に一苦労し たのだからと思った。
そして、あの日、こんなこと、身体障害者がする事じゃないよな と思いながら雪を踏み越えていたことを思い出した。 まさしく、命がかかっているのだけれど、普通の人でも大変な道 をよく歩いて行けたなあと感心するのだった。 雪国育ちに感謝しなくてはと。
さすがに、年末年始は来なかったが、夫の正月休みが終わったと 思ったら、冬休みの間、3日連続で我が家に遊びにきていた息子 の友達(中学生)。 学校が始まると、週末に遊びにくる。 3連休の土曜日は来客があったから断ったが、そのあとの2日間 遊びにきた。 もう一人増えて、中学生が二人、遊びにきた。
息子は小5なのだが、たぶんゲームとかのスキルが高いためなの か、中学生と仲良し。 二人とも、支援級で一緒だったので、母も気心の知れた二人。 スマブラで遊んでいる。 その他にも、デュエルしたり、トランプしたり。 デュエルの時は、夫も巻き込まれる。 中学生が我が家に来る目的は、夫とデュエルしたいからというの もあるようだ。 我が家のデッキを借りて対戦していたが、ついに自分のデッキを 構築して持ってくるようになった。 夫もその予感があったのか、ちょっと前に構築済みデッキを2つ 購入していた。 白熱するデュエル。 夫に勝つのが目標のようである。
月曜には、もう一人の方が仮面ライダーにこっているというので、 夫が持っているグッズを見せたりして、感心されたりした。 なんかもう、家中がゲームおたくと、仮面ライダー好きの集まり になったような雰囲気の連休だった。
中学生の二人は学年が違う。 一人は2学年上で、わたしの入院中にずっと遊びにきてくれてい た少年で、情緒的な障害はないようだ。 もう一人は、3学年上で、小学校在学中は下の学年の男の子から とても慕われていた少年。 一応、息子と同じ種類の障害ではあるが、普段は穏やかで人前で 話すのは苦手らしい。 とても物知りで、興味を持ったものはとことん調べ尽くすタイプ。 きっと、いま小学校の支援級にいる子達も、彼が遊びにくると聞 いたら、うらやましがるだろうなと思われる。 ちなみにアパートの隣の家には、4学年上の支援級の先輩がいて 毎朝、挨拶をしてくれる。
息子が中学生になるときには、2学年上の子が3年生として在籍 しているが、他の子は高校生になってしまう。 いつまでこうして遊べるのかなと思うと、今のうちにたくさん遊 んでもらえと思う母である。
とりあえず、6首、送った。 「雪」というお題は、身近かすぎてかえって詠みにくい。 いくつも雪の歌を作ってきているし、雪の歌は過去を引きずりや すいからだ。
「成人の日」。 わたしのころ、もう今から35年も前のことだが、雪国というこ ともあって、成人式は夏に行われた。 わたしは1年浪人して専門学校に入ったので、まだ学生だった。 だから、住所はまだ母のもとに置いたままだったので、故郷での 成人式になったのだった。 夏だったおかげで、振り袖の用意も必要ではなかった。 両親が離婚して母子家庭だったので、学費が精一杯だった。 もう働いていて結婚もしていた姉が、ワンピースを買ってくれた。 そのワンピースで式典に出た。 姉には、就職のときにスーツも買ってもらった。
着物は就職してから自分で買ったので、振り袖ではなく付け下げ を買った。 記念にスナップ写真を撮ったが、20歳の記念写真はなかった。 姉の場合は、もうすでに社会人で住所も東京にあったので、成人 式は東京で、同じ歳の従姉と二人で振り袖を着ていた。 二人並んで写真をとってもらっていた。 高校生だったわたしは、きれいだなあと思った。 着物への憧れはあったが、振り袖には興味が無かった。
今の成人式で、はじけたいからと派手な衣装を借りる人が多いと 報道されていた。 うらやましいものだと思う気持ちもあるが、成人の日に何を思う のかが根本的に違うのだなと感じる。 既に働いていた人も多かったわたしの頃は、20歳は本当に大人 になったことの記念であった。 今は20歳といっても働いていない人も多い。
大人としてのけじめはどこにあるのか。 大人って、何なのだろう。
わたしが透析するに至った原病は多発性嚢胞腎だ。 この病気の人は、いたるところに嚢胞が出来やすいのだが、同時 に大腸には憩室も出来やすいし、脳などの血管にこぶが出来やす いとされている。 したがって、2、3年に一度くらいは脳のMRI検査をした方が 良いと言われている。 わたしは、透析導入時の検査で受けたっきりになっていたので、 自分から担当医師にしばらくやっていないことを告げて、検査を 入れてもらった。
12月に検査を入れてもらっていたが、なにしろ家族全員が咳き 込むような状況だったため、15分も咳を我慢していられないか もしれないからと延期してもらっていた。 それが、今日。 検査はわたしの通っている病院では出来ないので、南メディカル センターまででかけて検査した。
久しぶりのMRI検査。 やっぱり、あの騒々しさには慣れないものだ。 どうしてあの機械は、ガンガン、グワングワン、ジリジリとうる さいのだろう。 狭いのもじっとしているのも平気だが、うるさいのはかなわん。 とはいうものの、10時半には終わったのでまあ楽だったが、隣 の駅まで行って検査して帰り、買い物して帰宅となると、1日分 の行動力を使い果たしてしまった気分だ。(軟弱!!)
明日から3学期が始まる。 2日登校したら、また3連休なのだが・・・・ 学校が始まると、一気に手帳に書き込まれる予定が増えて行く。
今月は、親戚の新年会とぷらむ短歌会が重なる。 新年会は12時から2時間ほどで終わる予定だが、終わってから 移動すると短歌会の開始時間には間に合わない。 少し遅れての参加になってしまうが、どちらも出たいのでそこは 1時間くらいの遅刻で。
お題は「雪」。 すでに「雪」で6首できているが、推敲してない。 推敲する余裕ができるのかは不明だ。
2015年01月03日(土) |
年末年始、風邪っぴき |
家族3人で咳き込んだまま12月が過ぎて行ったのだが、年明け 早々というか30日あたりから、今度は鼻風邪をひいてしまった。 おそらく、これも最初が息子で次にわたし、最後に夫ということ になるのだろう。 ゆうべ、夫は立て続けにくしゃみをしていたから。 熱は出ないので、体力的につらくはないが、鼻水鼻づまりという ものは、寝ている間には辛いものだ。 鼻が詰まっていて、自分のいびきで目が覚めたり、鼻水が喉まで 落ちてくるので痰が絡んで咳が出たりと、熟睡にはほど遠い。
今年は、元旦から透析だったので、朝のうちにお重に詰めたりの 準備をしておいて、帰宅後におせち。 透析後はいつも腹ぺこなので、おせちもかなり進んで、わたしが 一人で大半を食べてしまったように思う。 三が日もたないおせち。
とりあえず、初詣は昨日すませたのだが、時間帯が良かったのか、 例年よりも並んでいる人が少なかったので、良かった。 息子はおみくじをひいて、「大吉」だったと大喜びである。
あっというまに、夫の年末年始は過ぎていく。 明後日から仕事かと呟く夫。 洗いものをしてもらったり、お餅を焼いてもらったりと、随分と 今年は世話になっているなあと思う。 年末年始に、咳や鼻水に悩まされるのは初めてのことではないか と思う。 夫が尿管結石で救急車に乗ったりしたことはあっても、わたしの 方は比較的お正月は元気だったので。 何はともあれ、インフルエンザには今のところかかっていないと いうことだけでも、ありがたいと思わねば。
今年もこんな感じでゆるーく暮らして行く予定。
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