鶴は千年、生活下手

2014年02月19日(水) きっかけの不思議さ

前回の日記に書いた、転校先の中学校で好きになった男子のこと
で、ふと思い出したことがあった。

学校中が公認するような彼女がいた彼を、どうしてわたしは好き
になったのだったか。
転校する前、片田舎の2クラスずつしかない中学校で、わたしは
常にトップ争いをする生徒だった。
転校先は各学年5クラスずつで、市の中心の中学校だった。
当時の転校前の担任は、その市の中心の中学校から転任してきた
教師だったので、その学校のレベルからして、10位以内に入れ
れば良しとしなさいと言われていた。
わたしもそのつもりで転校したが、たまたま最初のテストが転校
前にやったばかりのテストだったこともあり、その実力テストで
トップになってしまった。
それ以来、試験の度に、彼はわたしに戻って来た自分の答案用紙
を見せてくれた。

前の中学校でトップ争いをしていた男子とは、同じように戻って
来た答案用紙を見せ合っていたので、もうそんなことはないだろ
うなと思っていたわたしは、彼が答案用紙を見せてくれたことに
驚きながらも、とてもうれしかった。
競い合うもの同士として認められたということだと思った。
わたし達は、毎回戻って来た答案用紙を見せ合い、どこが間違っ
ていたかとか、ここはこうすれば良かったのかとか、話し合うよ
うになっていて、性格のいい彼に惹かれたのだった。

そうだなあ、競い合い認め合う相手が存在するというのは、ほん
とにいいものだったなあと、この年になってしみじみと思うのだ。

そういう競い合う相手だったわたしが、たった1週間の入院だけ
で落ちこぼれていくのを見るのは、やるせないものだったのだろ
うと思う。
それは、同じ中学校から一緒に同じ高校に入ったもう1人の男子
にとっても同じだったかもしれない。
その男子は洋品店の子で、わたしの女らしくない服装を気にして
くれていて、初めてプリーツスカートの女らしい格好を見たとき
になんだかとっても喜んでくれた。
「いやあ、ほんとに心配してたんだよ。」だって。
その二人は、高校でも努力を怠らず、医者になったり、研究者に
なったりしている。

努力するという才能を見いだせなかったわたしは、普通のおばさ
んになった。
とはいえ、44歳で出産し、48歳で人工透析を開始し、10歳
の高機能自閉症の男の子を育てているという状況は、あまり普通
とはいえないかもしれないが、みんなだれしもそれぞれが特別で
あり、普通の人生などというものはないのだろうと思う。

夫と出会ったことも、不思議なきっかけだったのだし、44歳に
して息子と出会ったのも、不思議な縁なのである。



2014年02月17日(月) チョコレートのこと

先日の日記に書いたように、2月の思い出はかなりつらいものが
多いのだが、雪が降るとなおさら思い出すことが多くなる。

そして、2月と言えばバレンタインデーの思い出もある。
ちょうどわたしが高校生の頃、チョコレートを渡すということが
盛り上がって来た頃だったように思う。
中学3年生で転校してから、高校生の間はずっと同じ男子に片思
いしていたので、バレンタインデーはいつも彼にチョコを渡して
いた。
バレンタインデーにチョコを渡すのは、当時は義理チョコも少な
くて結構真剣なものと受け取られていたので、わたしが贈ること
はまじめに受け止めてもらっていたようだった。
しかし、彼には同じように片思いをしている他校の女子がいて、
それはわたしにも教えてくれていたので、それでもチョコを渡す
わたしには戸惑っていたようにも見えた。

若い頃の恋心は、自己中心的である。
自分の気持ちを伝えることが相手に対してどれだけ負担になるこ
となのかとか、深く考えてはいなかったようにも思う。
しかし、とまどいつつチョコを受け取ってくれる彼を見ていると、
いやそれは1週間遅れの誕生日祝いだからと、取ってつけたよう
な言い訳を言うようになっていた。
転校したとき、彼には学校中で公認の彼女がいた。
高校の受験を前に、受験のためという理由で交際はやめたようだ
った。
彼は高校2年頃から、他校の女子校の女の子に片思いしていると、
バレンタインのチョコを渡したわたしに、告白したものだった。

どこからどう見ても、わたしは彼の中学からの友人に過ぎず、そ
れはまわりの目も同様だったと思う。
名前で呼び合う中学からの友人。
ただそれだけで、あれこれと心配してくれたりするのは、友情の
故なのであり、友人というより同じ受験を乗り切った戦友みたい
なものだったのかもしれない。

今でこそ、義理チョコや友チョコや自分へのご褒美チョコまで、
様々なギフト用チョコが店頭に並ぶご時世になったが、高校生の
頃の自己中心的な真剣さが懐かしいような、恥ずかしいような、
そんなことを思い出させる、50代のバレンタインデーである。

ちなみに、息子は4つの味が楽しめるル○クチョコが好きなので、
バレンタインにどんなチョコがいいかと訊ねると、迷わずいつも
のル○クがいいと言った。
まだまだ簡単な10歳である。



2014年02月10日(月) 40年前

それはもう、いまから40年も前のことになてしまった。

2月10日は、決して忘れられない日だ。
父の失踪を母から知らされた日だからだ。
吹雪のなか、幌のジープに乗って、姉の下宿先まで行く道すがら
のことだった。
母は、わたしを子ども扱いせずに、全てを話してくれた。
父の失踪のこと、一緒に消えた女性がいること、借金があること、
祖父と祖母には知らせていないこと、母の実家が保証人になって
いること、などなど。
14歳のわたしは、かなり冷静に聞いていたし、悲しいとも思わ
ずに、それは大変な事態であると認識しただけだった。

あれから40年も経過したのだとふと思う。
取り乱さなかった14歳の自分を褒めてやりたいとも思う。
転校しなくてはならないことも決まり、いったんは東京の日野市
の中学校に転校の手続きをしたが、母の市営住宅入居のために、
わたしは元の中学校に戻ってから、今度は同じ市内の中学校に改
めて転校の手続きをとった。
その間、唐草模様の風呂敷に包まれたわたしの教科書達は、東京
と山形の間を持ち主と共に行ったり来たりした。
なつかしい唐草模様の風呂敷。
教科書が重くて、少し破れかけていた。

そんなこんながいろいろ身に降り掛かっている間、わたしは誰に
も相談もしなければ、転校するという報告もしなかった。
誰かに相談してもどうにもならないことだったし、転校するのは
決まったことで、直前までみんなとは普通にしていたかった。
まあ、転校と言っても同じ市内なんだしと思っていたが、これが
どうして、学区の境目はなかなか超えることができない見えない
壁のように感じたものだった。

わたし達姉妹は、生まれ故郷を捨てたのだと思っていた。
自分から出て行ったものは、おいそれと戻ることはできないと、
ずっとそんな風に思って自分で壁を作っていたようだ。
まあ、かなりのスキャンダルで故郷を出たのだから、そこに戻る
のはけっこう勇気の要ることだったのだ。

姉の家に居候していた頃、小学高学年の甥っ子があまりに能天気
なので、苛立ったことがあった。
自分はその年頃に、母にお前は置いていく宣言をされたりして、
いろいろ思うところがあったから、能天気に生きていられる甥が
羨ましかったのかもしれない。
そのことを姉に言うと、悩むことなんか無ければない方がいいと、
親はそう思うものだと言われた。
いま、10歳の子の親として思うに、やはり小学生で深刻な悩み
を抱えるのはかわいそうだと思う。
しかし、悩みを乗り超えて成長することも確かだ。

40年前の自分に対して、お疲れさまだったねとねぎらってやり
たい気持ちだ。



2014年02月03日(月) 新型車両を見る人々

日曜日、朝9時半頃に息子の友達のお母さんから電話をもらった。
横浜線の新型車両の展示会があるので、声をかけていたのだが、
それは聞いているかという確認の電話だった。
聞いていないというと、細かく説明してくれた。
息子に確認すると忘れていたとのこと。
みんなと一緒に行くかと訊ねると、お母さんと行くつもりだった
と答えたので、その旨を友達のお母さんに伝えてお礼を言った。
帰宅してからわかったことだが、友達のお母さんはきちんと手紙
の形にして、電車好きに友達に伝えていたのだった。
朝に電話をもらわなかったら、思い出さないままだったかもしれ
ない。
ありがたいことである。

現地で会うかもしれませんねと言いながら電話を切ったのだが、
結局現地で会うことは無かった。
整理券を配るというので、長い列に並んでしばらく待って、列が
動き出してもう少しだねと言っていると、整理券の人数に達した
ので、もう車内見学はできませんと駅員さんが触れ回りだした。
車内は見れなくても、写真を撮ったりはできるのかと訊ねた。
2番線に停まっているので、入場券を買って入れば写真を取るこ
とができるとわかった。
(まあ、普通に考えれば、そうなんだが。)
それじゃあと、長津田まで行って、乗り換えて田園都市線で帰る
ことにして1、2番線へ。
息子はたくさん写真をとることができてうれしそうだった。
車内は、走るようになってから取ればいいねと。
田園都市線で久しぶりに乗れた車両にまた喜んで、やっぱり電車
に乗るとわくわくして楽しいねと微笑んだ。

長い行列に並んでいるときも、小田急線や横浜線の電車が通る度
に、型式を当てたりして楽しんでいた。
とても疲れたが、楽しい午後の時間だった。
息子の友達のお母さんに感謝。


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市屋千鶴 [MAIL]