金曜日に、近所の同い年の友達が遊びに来て、いま一緒にゲーム をして遊んでいた。 その友達は自分の家ではゲーム機も無いし、なかなかゲームが出 来ないので、ゲームしたいときは我が家に来るようだ。 同じ電車好きの仲間ではあるが、最近は他の電車好きのみんなと 自転車で電車を見られるところまで行ったりしているらしく、ま だ自転車を持っていないもぐちゃんは、それには同行しない。 もぐちゃんは、もっぱらパソコンでマイクラしたり、マイクラの 実況動画を見たりしている。 久しぶりのテレビゲームだった。
今日、買い物に行くと、帰りにいつも遊んでくれていた卒業生の 男の子が歩いているのを見かけた。 わたしを認識した彼は、ちょこっとお辞儀をして歩き続けていた。 わたしは自転車に乗りながら、同じようにちょこっと頭を下げた。
春休みはのどかだ。 次の学年の準備の期間でもあるが、なんだかほんわかしている。 我が家のインドア派の小学生も、ほんわかしたまま室内遊びだ。 画面を見すぎて頭が痛くなったりすることを経験しつつ、きちん と休憩時間を取ることを覚えていく。 言葉でいうより、実際に体験してみればわかりやすいから、一度 や二度くらいは、気持ち悪くなるまで放っておいたりして、寝な いと治らないものなのだと分からせていく。
グループワーク(グループ療育)の時間に、好きなこと楽しいこ とを10個あげて発表するという作業をしたそうだ。 もぐちゃんは電車関係が2個で、あとの8個はゲームのことばか りになってしまった。 他のメンバーからゲームばかりだねという指摘もあったが、臨床 心理士は、普段の生活の不安が高いので、ゲーム以外に安心して 遊べるものは少ないのかもしれなく、不安になったときに気持ち を切り替える手段としては悪くなさそうだとコメントしたようだ。 マイペースで好きなように遊べるマイクラはいいのかもしれない。
テレビゲームの場合、いつも遊んでいる年上の男子と遊ぶときと、 同じ年のそれほどうまくない友達と遊ぶときには、当然遊び方は 違ってくるのだが、夢中になったときについつい相棒のことを考 えずにプレイしてしまいがちだ。 自分よりうまい年上の相棒であれば、合図も簡単で指示もすぐに 伝わるから、自分のできる100%を出して遊んでいるようだ。 だが、自分よりうまくない相棒と遊ぶことで、相手のことを思い やるということが行動として出来るようになることもあるのだ。 ゲームだって、悪いことばかりではないのだ。 と、ゲーマーでもある母は思うのだった。 まあ、視力が落ちるのは困るんだが、もともとあまり視力は良く ないし、見えすぎると見たくないもの(視覚的に嫌悪するもの) がよく見えてしまってそれも辛そうだ。
春休み、学校の桜で花見の代わりだ。 いや、窓からは、保育園の桜が真っ先に見える。 居ながらにして花見になる。
今週は卒業式の週。 4年生の息子は卒業式は休みだった。 今週は、支援級のお別れ会もあった。 その翌日は学校全体のお別れ会。
支援級のお別れ会は毎年やっているイベントで、子ども達も楽し みにしている。 ここ数年(息子が入学してから)は、1時間目にカップケーキを 作っていて、お別れ会でスライドショーを見ながら皆で食べる。 お別れ会は、下級生からの贈る歌があったり、贈る言葉があった り、保護者も一緒になってのゲームがあったりと、盛りだくさん。 だが、最後のスライドショーになると、ああこの子ももう卒業な のかという思いが強くなり、こっそり涙を拭いたりしてしまう。 今年は6年生3人で、2人が男子で1人が女子。 6年生それぞれの6年間の写真から選りすぐりの何枚かが映し出 され、わたし達の知らなかった1、2年生の頃の可愛らしい写真 や、いろんな行事のときの笑顔を写真を見ていると、感慨深いも のがあるのだ。 男の子は、わが息子と一緒の写真も多く、いい笑顔で楽しそうに している写真だった。 お別れ会が終わって、毎年のことだが、6年生と一緒に写真をと らせてもらった。 来年度は、卒業式に送る側として参列するもぐちゃん。 そしてそのさらに1年後には送られる側になるのだ。 ほんとに早いものだ。 激しく吹き捲くる春風のなか、それぞれの保護者と帰っていった 支援級の子ども達。
卒業式はあいにくの雨だったが、みんなどうしていたのだろうと 透析をうけながら考えた。 狙ったように卒業式の日だけ雨だとは。 他の日はいいお天気だったのに。
わたし自身が卒業したのは、雪国である。 小学校の卒業式は、中学の制服を着て、雪の中を送り出された。 中学のときも、雪の中を送り出された。 卒業式に泣いた記憶が無い。 小学校のときは、みんなそのまま同じ中学に進むことになってい たし、中学のときは2年しか在籍していなかったから。 高校の時も、まだ合格発表とかの無いこともあったし、行く先が 決まらないままの卒業式は、泣けるものではなかった。 わたしはほんとに泣かない子だった。 ずっと泣いたら負けなような気がしていたから。
もぐちゃんは、ものを捨てられないし、誰かと別れることがとて も苦手なので、学童の指導員さんの転任にも泣けてしまう。 6年生のいつも遊んでくれる男の子が卒業するのも、寂しいとは 思っているが、どれもこれも引きずっているようには見えない。 大事にしていたものや本や教科書を捨てられない。 捨てるとは言わずに、リサイクルしてもらうという。 またどこかで使われるのだという安堵感。 またどこかで会えるという安堵感。 6年生の子は、中学に行っても遊びに来てくれるよと伝える。 それにもぐちゃんが中学に行くときは、3年生で待っていてくれ るよと伝える。
いろんなものとうまく別れられるようになるとき、それは大人に なるときなのだろうか。
39年前の今日は、高校受験の日だった。 わたしの中学校から、受験する高校までは列車で50分かかり、 さらに最寄り駅まではバスしかなくて、受験日の朝に何か不都合 があってはいけないということなのか、毎年前日から高校のそば の旅館に泊まり込んで受験していたようだ。 転校前の中学校も条件は同じで、同じ市内の中学校はどこも同じ ように前日から泊まり込んでいたように思う。
泊った旅館は、転校前の中学校のみんなも泊っていて、思いがけ ず顔をあわす機会があった。 どこを受験するのかとわたしは訊ねた。 同じ高校を目指していたはずのもと同級生達は、どういうわけか 皆1ランク下げた高校を受験することにしていた。 同じ高校に入ろうと言い合っていたのにと、ふと悔しくなった。 旅館でのことは、ほとんど覚えていないのに、転校前の同級生に 会ったときの会話だけはしっかり覚えている。
転校しなければ、わたしもランクを下げていたのだろうか。 それともわたしに引っ張られて志望校を変えずにいただろうか。 どちらが良かったのかは、当人にその後の生き方なので、何とも 言えない。 1ランク下げていれば高校生活は快適で成績も良いままで、当時 大学受験の大きなポイントだった内申書も良かっただろう。 が、わたしには挫折を知ることが必要だったのだと思っているの で、あの高校に入って良かったのだろう。
旅館では弁当も作ってくれて、同じ高校を受験した仲間と一緒に 弁当を食べていた。 わたしは何とも思わずに男子二人と弁当を食べていたが、入学後 に他の女子生徒に言われたことは、一緒に受験した男子と仲良く 3人でお昼を食べていてとても羨ましかったということだった。 そういえば、同じ中学から一緒に受験した男子がいるはずなのに、 女子は1人で食べていることが多かった。 羨ましかったと言った女子は、受験の日にトイレの場所を一緒に 探したのをきっかけに、入学前から仲良くなっていた。 いつも隣のクラスで同じクラスにはならなかったが、選択科目が 同じだったり、入学当初に入った部活が一緒だったりと、縁が深 かった。 密かなファンがたくさんいた彼女である。 未だに年賀状のやり取りだけではあるが、やり取りがある。
もう54歳なのに、39年も経つのに、毎年3月10日になると この受験のことを思い出す。
今週は、支援級の担任との個別面談があった。 3学期に入って、個別学習の方も積極的に勉強しているし、穏や かな表情でいることが多くなったとの報告。 交流授業から体育を外してもらってから、穏やかでいられるのか。 交流級の居心地も良くなって来ているらしい。 交流級の友達を家によんで遊んだこともある。
もぐちゃんのなかで、理想の自分と現実の自分とのギャップを突 きつけられるのが、体育の授業だったのだろう。 年齢があがれば、理想の自分と現実の自分との違いを認識するよ うになり、それが自己否定につながってしまうこともあったのだ と思う。 その気持ちが、その苛立ちが、もぐちゃんをヒステリックにして いたのだ。
体育を支援級でやっているときは、ほんとに楽しそうにしている し、他の子を励ます場面もあるようだ。 出来ない自分を思い知らされ、出来ないことは辛いのだというこ とを実感したからこその進歩なのだろう。 いろいろあった4年生もあと少し。
わたしは、子どもの頃から夢見がちというような子どもではなく、 理想と現実のギャップということは、割と早くから認識していて、 というより、現実直視型だったのだと思う。 外見を含め、まったく女の子らしくないというコンプレックスが 思考の中にかなりの部分を占めていて、それならば他に何か誰に も負けないものを持つまでだと思っていた。 それは、小中学校時代の学業であった。 体育はわたしも苦手なものが多かったが、球技だけはうまかった。 部活に入っていない球技もそこそここなせたので、球技の授業が 多い学期の体育は成績が良かった。 音楽は良かったが、図工も家庭科も苦手だった。 小学校は小さな田舎の学校だったので、思う存分学校生活を満喫 していたし、中学校も同様で、転校はしてもそこは田舎の学校で あることにかわりはなく、ちょっと悪そうな輩がいても、あいつ は学年で一番のやつだということで、ちょっかいを出されること もなく、平穏な学校生活だった。
出来ないことの辛さを思い知らされたのは、高校時代になってか らのことだ。 あれほど、授業を聴いているだけで何でも分かったのに、高校の それはわたしの許容範囲をずいぶんと超えていた。 わからないところがわからないということを、初めて知った。 やはり、それは一つの挫折であり、少々難しい時期でもあったが、 まわりのクラスメイトの存在に救われたりして、なんとか日々を 楽しんで過ごせるようになっていた。
自分が出来ないことを思い知るのは辛い。 しかし、出来ないことを知ったからこそ、優しくもなれる。
もぐちゃんのように情緒的な発達が遅れている場合は、自発的に 優しさが行動に現れるよりも、まわりにいる大人がしていること をまねるところから始めるのだろうと思う。
出来ないことは悪いことではないと、何度も語りかける。 出来ないことと思い込んで挑戦しようともしないことがいけない のだと語りかける。 始めから諦めてしまっては何もできないままだと語りかける。 挑戦して、出来ないと分かったときに、きっぱりと諦めることも また大切なのだと語りかける。
何度でも、何回でも。 これまでもそうして来たように。
理想と現実の違いを認識するのは、子育てに関しても重要だ。 百点満点の子育てなど無いと知ることが大切だ。
先週は、交流級の授業参観と懇談会、支援級の授業参観と懇談会。 どちらにも出席し、透析日以外のもう一日は、療育相談の継続の 手続きをしに出かけた。 一日中拘束されるわけではないが、学校絡みのイベントがあると あわただしく感じるものだ。
先週の交流級の授業参観は、2分の1成人式ということで、各組 それぞれ相談しての段取りで進められた。 息子のクラスは、歌や合奏の披露や群読、音読劇、一人一人から の挨拶など、盛りだくさんだった。 担任が時間をオーバーするのではないかと心配して、練習の度に 言っていたらしく、そのためか少し早口になってしまっていたが、 しっかりと自分たちで進行してがんばっていた。 もぐちゃんもしっかりと参加していて、歌は相変わらず安定した 音程でしっかり歌っていたし、掲示物も前日に仕上げたらしかっ たが、みんなと並んで掲示されていて、嬉しかった。
支援級の授業参観は、学習発表会ということで、それぞれが学習 した成果を発表した。 卒業制作で作ったものを説明してくれたり、音読を披露してくれ たり、算数の計算を見せてくれたり、などなど。 司会は6年生の女の子がしていて、微笑ましかった。 インフルエンザで休みになった5年生の代役で、急遽もぐちゃん が始めの挨拶をすることになっていたようだ。 なんだかお辞儀からなにから、きちんとしているではないか。 前々日に2分の一成人式をやったばかりだからか、きちんとした 挨拶だった。
そしていよいよ3月に入って、もうあと少しと思うと、6年生の 支援級のみんなと別れるのが少々辛かったりする。 支援級でお別れ会をやる日が透析日なので、1日ずらして参加す ることにした。 それはまだ再来週のこと。
|