鶴は千年、生活下手

2003年02月28日(金) 消化不良

昨日の昼に、鼻炎の薬を飲んだ。
眠くてしょうがなかったが、20時からの「スターゲイト」だけ
は見てから寝なくてはと思った結果、21時半に寝てしまった。

今日は朝から、暖かい牛乳を飲んで、薬を飲んだ。
そのおかげで、鼻炎のほうはまったく問題なく過ごせたが、眠気
とどうも胃の調子が悪いようだ。
消化不良を起こしているような感じ。

今夜もきっと、「スターゲイト」の再放送を見たら、寝てしまい
そうだ。

消化不良と言えば、小学校の2年生だったか。
秋になって、生家の庭の柿の木から収穫した柿の実を焼酎漬けに
して食べられるようになっていた。
わたしは焼酎で渋抜きした柿が、大好きだった。

祖母は、わたしがあまりにおいしそうに柿を食べるので、次から
次へと柿を食べさせたのだった。
そして、六個だったか八個だったか食べたのちに、気分が悪くな
ってしまって、庭で柿を吐いてしまった。
喉元のぎりぎりまで食べていたらしい。(汗)

単なる柿の食べ過ぎなのだから、食べ過ぎたものを出してしまえ
ばあとは平気になってしまっていた。
そんなわたしに、祖母はこうささやいた。
「かあちゃんさ、内緒にしておげな。」

柿を食べさせ過ぎたことを、母に知られたくなかったらしい。

この話を夫にすると、今でもわたしの本質は全く変わっていない
と大笑いされた。

そうなんだ、わたしは食い意地が張っているというか、とにかく
好きなものを口にいっぱいにするのが好きなのだ。
だから、みかんも一房ずつではなく、二、三房ずつ口に入れる。
食事のときも、一口が大きい。

この本質から変えないと、糖尿病の根本的な対応は無理なのでは
ないかとさえ思うのだ。
口いっぱいにほおばって、それが一口とか二口で終わらせられれ
ばいいわけなのだが。。。。。。

 詰め込んで喉元過ぎた幸せは消化不良の不満に変わる(市屋千鶴)



2003年02月27日(木) ぬいぐるみ

姉の誕生日だからといって何かプレゼントすることももうない
のだが、姉の家ではそれなりのプレゼントなど考えているのだ
ろう。

わたしが大人になるまでに、一番嬉しかった誕生日プレゼント
は、姉からもらったパンダのぬいぐるみだった。
ぬいぐるみをもつなどということがまったく似つかわしくない
女の子だったが、それでも姉がくれたパンダのぬいぐるみは、
とてもかわいい顔をしていて、抱きかかえられるほどの大きさ
だった。
大事に大事にしていたが、さすがに上京する時には持ってこれ
なかった。

銀行に入ってから、同僚から誕生日のプレゼントをもらったこ
とがあるが、一度だけ大きな犬のぬいぐるみをもらったことが
あった。
その子の名前が「うめ吉」といった。
そのころ結構人気が有ったぬいぐるみだと思う。
チームのみんなで決めたのだと言って後輩の女の子に渡され、
妙に照れてしまったことを覚えている。

今では、小さくて丸いものが家中に溢れている。(笑)
一番大きなぬいぐるみがわたし自身だろうな、きっと。(爆)

昨日、美容院に行って髪を切ってもらったのだが、ボブにして
みたい(サップって後に続けないでね。)というわたしの希望
を考慮してもらったはずだが、昨夜この髪型を見た夫はなんと
「エッグハートさまみたいだぞ。」と言った。

分かる人にしか分からないであろう、エッグハートさま。
「ミュータントX」という番組に出てくる人物だ。
白髪のマッシュルームカットなのだが。
その一言を聞いて、傷心のあまり、わたしはすぐに寝た。
だって、彼は悪役なのだ、まあ、えらいのだけど。

夫は外見をどうのこうのという人ではないので、たとえわたし
がエッグハートさまだろうと、カッパみたいだろうと、どこに
でもつれていってくれるし、いいんだけどね。

ただ、この場合、男性の髪型にというのは、いかがなものか。

 髪型の変化に気付くほど君をいつも見ている観察している(市屋千鶴)

これじゃあ、ストーカーみたいだな。(汗)



2003年02月26日(水) くじら餅

昨日の歌、あまりに字余りなので、ちょっと直してみた。
 吹雪くなかバスターミナルへ行く我の後ろで母はうつむき歩く
                           (市屋千鶴)

昨日も今日もいいお天気だ。
東京の冬はお天気の日が多いのが好きだ。
うちは千葉県だが、田舎の人は首都圏を「東京」と一緒くたに
呼ぶのだ。
だから、わたしは神奈川県相模原市に住んでいたときも、今の
千葉県我孫子市に住んでいても、東京の親戚なのだ。

いや、そんなことは」どうでもいいのだが、とにかく上京した
わたしにとって、冬はご機嫌な毎日だった。
時々少しだけ降る雪も、また故郷を思い出させてくれる香辛料
のようなものだったし、青空の続く冬がうれしかった。

昨夜、日記をUPし終わって、スターゲイトまでいつものよう
にサイトめぐりをしていると、ゆうパックが届いた。
それは、東京都日野市に住む叔母からだった。
開けてみると、なつかしい「くじら餅」が入っていた。
メッセージには、田舎の親戚から送られたものだとあった。
自分には電話しなくて良いから、時間があったら田舎に電話を
するようにと書いてあった。
さっそく田舎の親戚に電話した。

いきなり訛る。
最初に電話に出たのは、従弟の長男だった。
すっかり大人の印象だ。
それから、「かあちゃん、いだが?」と言って、叔母に代って
もらった。
わたし達のような東京のものが「かあちゃん」と言うときは、
叔母のことだと孫たちは分かっている。
「とうちゃん」と言えば叔父のことである。

少しの間、訛りながら叔母と話した。
おひな様にはいつも作っていた「くじら餅」だが、一番下の孫
がおひな様を倒したりしなくなるまで、おひな様そのものを飾
ることを控えていたので、作っていなかったのだと言う。
やっとおひな様を飾っておけるようになったので、今年は久し
ぶりに作ったのだそうだ。
うちには一本だが、二人暮しには一本で十分だ。
それも、夫が一口も食べないうちに無くなってしまうことがな
いようにしなくちゃと叔母と笑いあったが、作戦的に昨夜の内
に夫には食べさせていおいた。

これで、「くじら餅」はわたしのものだ。(爆)
(「くじら餅」は、ういろうのようなゆべしのような感じ。)

 明日にはもうないものと思うから僕にも一口愛をください(市屋千鶴)



2003年02月25日(火) 吹雪と神経痛

昨日の雪で思い出したもう一つのこと。
それは、わたしが上京した年の秋のことだった。

ひと夏ずっと冷房のもとで過ごすという初体験をしたわたしは、
9月の最後の週に、左足が痛くてだるくて歩けなくなった。
最初は、腰の骨がきしむような感覚だったが、そのうちに左太腿
はまるで強度の筋肉痛のときのようなだるさになってきた。
おかしいなと思って、となりの駅の整形外科に行った。
駅から整形外科までは歩いて5分くらいだったが、左太腿が痛い
わたしにとってはとても長いものに思え、たどり着いた頃には、
立っていられないくらいのだるさと痛みになっていた。

診察を受け、レントゲン写真を見ながら説明を受けた。
第3腰椎(と言ったと思う)、この3番目の骨をレントゲン写真
で見ると、台形に見えた。
本来は長方形(やや横長)になっているはずなのだ。
この歪みが神経を圧迫して、痛いのだと言われた。
座骨神経痛という診断結果だった。

アパートに帰ってから母に座骨神経痛のことを電話で話した。
母は、こう言った。
「かあちゃん、貧乏だけがらお前さあだらすいズボンも買って
 やらんねけがらなぁ。
 吹雪ぐどごば、ズボン一枚であるがへださえて、神経痛なの
 なったんだべちゃねや。」
そう言って、電話の向こうで母が涙声になっていた。
訳すと、
「かあちゃん、貧乏だったからお前に新しいズボンも買っては
 やれなかったかなねぇ。
 吹雪くところを、ズボン一枚で歩かせたから、神経痛なんか
 なってしまったんだろうね。」
と、こうなる。

母を二人暮しになっても、食べるものに特に困らなかった。
それはお米だけはもらって食べられたからである。
中学3年で、ソフトボールの部活を引退したわたしは、案の定
太ってきていた。
転校先の制服は、上着はブレザーで下は冬はスラックスだった。
上着は一番大きなサイズで、ぴちぴちだったし、スラックスも
次第にきつくなっていった。
それでも、新しいスラックスを買うことができなかったから、
ズボン下を履かせてやれなかったというのが、母の涙の原因な
のだった。

わたしが、いくらそうではなくてこれは冷房の影響と、体重が
かかり過ぎるからなのだと言っても、母の悲しみは消せないの
だった。
わたしは、なんだか親不孝をしてしまったような気がして、母
に申し訳なくて仕方なかった。

ほぼ、寝て暮らした一週間だった。
その頃、わたしは従姉と住んでいて、一人ではトイレに立つの
も辛いわたしを従姉が支えてくれた。
一人では、パンティすら履けなかったのである。

今でも、新年会やら暑気払いやらで、姉や従姉とその話をする
ことがある。
感謝と切なさの入り交じった思い出である。

中学校に通う時に毎日吹雪いていた同じ道を、高校生のわたし
は、冬の下宿先へ帰るために歩いた。
母は、わたしの着替えの入ったボストンバックを持ってくれて
わたしの後ろを黙って歩いていた。
どうしようもなく、学校に行きたくなくなるのは、冬の日曜の
そんな時だった。

 吹雪くなかバスターミナルまでを行く我の後ろで母はうつむき歩く
                           (市屋千鶴)



2003年02月24日(月) 雨のちずっと雪

朝は雨だったが、わたしが出社する10時を過ぎた頃から、雪に
なった。そのまま、一日雪。

お昼に自宅に帰って、長靴に履き替えてみたものの、降っている
わりには道路につもる気配もなく、結局普通の靴でも平気なのだ
った。

退社時間になって、近くのコンビニまでそのまま買い物に出た。
雪の中を傘をさして歩いていると、いつも違和感がある。
ここいらへんの雪は大きくて湿り気の多い雪だから、傘をささず
にいると濡れてしまうが、田舎の雪は傘なしでもよかった。

アノラックを着てフードをかぶっていると、雪はアノラックの表
を滑るように落ちていき、濡れることがない。
肩に積もっても、ちょっと動けば落ちてしまう。

中学校の頃は、学校まで夏は自転車、冬は徒歩だった。
雪路を歩くことを考えて、冬は学生カバンではなくナップザック
に教科書や弁当を入れて通った。
雪のひどい日は、ナップザックにビニールの袋をかぶせて、更に
防水対策をして通っていた。
吹雪くときは、眼鏡も真っ白で眉毛も真っ白になった。

わたしなどは、まだバス通りを歩いていけたので、かなり楽な方
だったと思う。
山側の村から通ってくる生徒たちは、一団となって雪原を漕ぎ分
けて通ってきていた。
もちろん、アノラックは上半身の防寒具だから、雪原を漕ぎ分け
て通う生徒たちは、ほとんどが上下スキーウェアだった。

学校に到着すると、ストーブの回りに色とりどりのスキーウェア
が干されることになる。

そんな田舎から、わたしは転校して市街地の中学校になった。
それでも、母と住む市営住宅は市街地の外れにあり、やはり雪の
なかを歩いて通った。
雪が降ると必ず吹雪きになってしまう、北西の風を遮るもののな
い道を、一人で歩いて通った。

コンビニからの帰り道、ぬれてしまうカバンを見ながら、そうだ
こういうときはビニールの風呂敷で包んでしまえばいいんだよな、
とふいに思い出した、通学風景だった。

 毎日が投球練習 杉の木をめがけて雪を投げながら行く(市屋千鶴)



2003年02月23日(日) 睡眠時間

昨夜はどういうわけか、遅くまで寝ていたはずなのに、23時を
過ぎた頃から眠くなってしまって、23時半には寝てしまった。
某所のチャットにも参加したかったが、今現在睡魔に勝てるもの
はほとんどない。(笑)
眠かったら寝る。睡眠不足は風邪のもとだからね。

そんなわたしになったのは、引っ越してからだ。
こちらに引っ越す前は、夫に片道2時間半の通勤をさせていたと
いうこともあって、夜中の帰宅もずっと起きて待っていたから、
わたし自身も夜型の生活になりつつあった。
2時3時まで起きていられたし、4時間くらいの睡眠で暮らして
いた。

でもね、わたしはちゃんと寝ないと風邪を引きやすいのだと思う。
他の人は知らないが、わたしはそのようなのだ。
ここに引っ越してきて、12時には寝て外があっかるくなったら
起きるという生活をしてから、風邪を引きにくくなった。
全くというわけではないが、年に一回かそこらだ。

食事制限をして、体重を一気に落とした時に、3日間高熱を出す
ということがあって、それは体の脂肪が無くなったために11月
の後半の寒さに反応できていなかったということらしかった。
それ以来、一年と3か月、たいした風邪は引いていないと思う。
よく眠るようになってから、頭痛も目に見えて減った。
今でも目の使い過ぎとかで頭痛がすることはあっても、眠ってし
まえばなおるのだ。

頭痛はおそらく高めの血圧や、糖尿の影響もあったのだろうが、
糖尿や血圧の薬を飲みはじめる前に、引っ越してきただけで頭痛
が減ったことは、やはり睡眠時間が効いたのだろうと思うのだ。

三年寝太郎の嫁にきたわたしは、半年寝太郎くらいのところまで
似てきてしまっているのだろうか。(笑)
三年寝太郎は、やっと起きてきそうな気配だ。
夫を起こすときは、朝ご飯ができたか昼ご飯ができた時に限る。(笑)

 食べ物で誘ってばかりいるからね 君の好みは君より知ってる
                           (市屋千鶴)



2003年02月22日(土) タンドリーチキン

夫は自宅待機の必要が無くなったとかで、結局三人で柏のランチ
バイキングを食べた。
土日祝日は、11時から16時までがランチバイキングの時間と
なっているという、ありがたいお店だ。
1100円で食べ放題。
カレー3種類、ナンやライス等、タンドリーチキン、デザートの
ヨーグルトや飲み物が自由に食べられるのだからお得な感じ。
今日のカレーは、茄子とジャガイモのカレー、レンズ豆のカレー、
それにチキンカレーだった。
前回も土曜日だったが、土曜日はこの3種類のようだ。
それにしても、タンドリーチキンがとてもおいしい。

さんざん食べたはずなのに、近くに雰囲気の良さそうな喫茶店を
みつけ、そこでまたお茶にした。

水曜日、穂村弘さんの「世界音痴」が自宅に届いた。
買おうかどうしようか迷っているうちに、近所の書店では見つけ
ることができなかくなっていた。(やっとネットで購入。)
その日の打ちに読んでしまったので、きわみちゃんに見せてみた。
ちょっと読んで、面白いねときわみちゃんが言ったので貸した。

初めて穂村さんを見た時、それは昨年のマラソンリーディングと
いうイベントの時だったが、かなり早く会場に到着してしまった
わたしがうろうろしていると、見たことのある人がいた。
「世界音痴」を書店で見た後だったから、その人が表紙の人だと
いうことはわかっていた。
が、確信が持てなくて、声をかけることなんかとてもとてもでき
なかった。
舞台の上で「つるりぴょん」と繰り返す穂村さんを見て、さっき
見た人で間違いはなかったと、一人納得したものだった。
あれ以来、穂村さんの「つるりぴょん」はわたしの耳に住み着い
ている。
それは、東さんが投げたフリスビーが、わたしの目に住み着いて
いるのと同じにだ。

それがどうしたっていうくらい、わたしはただの観客だったのだ
けれどもね。

 友の背を押してやりたい如月の国民的な行事の続き(市屋千鶴)



2003年02月21日(金) マスクしてても

今日は糖尿と高血圧の薬をもらいに行った。
お天気が良くて花粉も飛んでいそうなこんな日に、マスクをして
はいても自転車での往復は、ちょっと無謀だったようだ。
ぜいぜいはあはあと息をしていると、マスクの効果なんてないに
等しいみたいで。

昼休みのその無謀さのたたりか、午後になって鼻づまりのためか
目をこすり過ぎたためか、頭痛がしてきた。
仕事も一段落したいてので、四時過ぎにあがらせてもらっていた。

すぐに寝てしまって、起きたのはきわみちゃんからの電話だった。

明日は、きわみちゃんと柏でインド料理のランチバイキングをと
相談していたので、その確認の電話だった。
夫は、自宅待機している必要があるとかで、わたしだけ出かける。

ちょうどいいタイミングで起こされたので、夕食をとりながら、
毎日見ている「スターゲイト」の再放送シリーズを見ることがで
きた。
いや、ちゃんと見られる時間に目覚しをセットしてから寝たのだ
けどね。(笑)

きわみちゃんはまたしても柏まで来るのだが、夫はたまにはこち
らから行かなくていいのか、と言う。
う〜〜ん、と唸って、今は花粉症だからなるべく都心は行きたく
ないからねぇ、と答える。

今は、鼻にティッシュを詰めて日記を書いている。

 涙目がその鼻声が色っぽい ティッシュを詰めたりしなきゃなおいい
                           (市屋千鶴)



2003年02月20日(木) 夫のささやき

別に夫が甘い言葉をささやいたりするのではない。

我が家では、CGを含めて特撮ものの気に入った映画はビデオか
DVDという暗黙の了解がある。
それは、繰り返し同じ場面を見られるということが重要だから。

そんなわけで、「ロードオブザリング」もDVDが欲しいよと、
わたしは訴えていた。
そのわたしに、夫のささやき。
「3本目まで出たら3本セットとかが出ちゃって、おまけに指輪
 とかついてたらどうする?」
それは困る。それも欲しくなるに決まっている。
だったらそれまで待つか。
レンタルすればいいのだよね、それまでは。

そして、もう一つのささやき。
「食え、食え。」

糖尿病のわたしに向かって、なんと悪魔のようなささやきか。
わたしは、早死にさせたいのかと、笑いながら言い返す。
夫はぽっちゃりというか、格闘家体型のわたしが気に入っていた
ようなところがあって、こじんまりしてしまったのが不満らしい。
というよりも、自分より小さく、そして弱くなってしまったのが
不満なんだな、きっと。
わたしの握り拳が自分のそれよりも大きいと、夫はうれしそうな
顔をしていたのだ。
なぜだか夫は、わたしの方が力が強いという、同棲し始めたころ
のイメージを払拭できないでいるらしい。

まあ、ライチュウを飼っていたはずなのに、いつのまにかそれが
ピカチュウになっていたという気持ちなんだろうよ。

夫のささやきは、悪魔のような天使のような、はたまたポケモン
マスターのそれのような、あやしさ。(笑)

 ささやきは左の耳からいたしましょう るくるくるくるく思考がとまる
                           (市屋千鶴)
なんじゃこりゃ。(^^;



2003年02月19日(水) 味方を救え

夫のやっているゲーム「ANUBIS」。
主人公が乗っているオービタルフレームが、昨夜新しいデバイス
プログラムを入手した。
要するに新しい機能が備わったってことなのだが、これがなんと
ロックした相手の背後に瞬時に移動できると言う優れものだ。
その名も「ゼロシフト」。

知らないうちにいろんなデバイスプログラムを入手していた夫の
オービタルフレームは、桃太郎侍のように、敵の無人ロボットを
薙ぎ払って進む。

そのゼロシフトを入手したのは、オービタルフレームではなくて
やや古い型式のロボットに乗っている40人の人々と、目的地ま
で行くという作戦を成功させた後だった。
40体のロボットを助けながら目的地まで移動するなんて、実際
のことであればそんなこと不可能である。
あちらこちらからSOSが発信され、その度に夫の機はそちらに
向かってダッシュする。まだゼロシフトがないからね。(^^;

しかしながら、自分の身も守らねばならないし、味方のロボット
は敵にたいしてあまりにも無力だった。
半数近くの19体を失って、なんとか目的地についた。
きっとやり直せば、もっと多くの味方を救えたのかもしれないが、
それは2回目に遊ぶ時にするらしい。
とにかく、先に進まねば未来が開けない。
ゼロシフトを入手した夫の機は、敵の本拠地に向かって桃太郎侍
のごとく、突き進んでいく。

そんな夫を端で見ているだけのわたしだが、それでも、SOSを
出しながらも悲鳴を上げている味方の声が聞こえてくるたびに、
そっちそっちと言わずにいられなかった。

誰かを守りながら戦うことは、大変なことだ。
守りながらというのは、一人で戦うよりずっと力が必要だ。
守るために戦うのとは違う。
守るために一人立ち上がるのは、かえって容易いのかもしれない。
自分はどうなっても、守るべきものを守りさえすればいいと思う
のと、守るものも自分もこの場を切り抜けなければならないのと
では、戦い方だって違うだろう。

失うものを持たない人は強いというが、それは捨て身の強さとい
うことで、想像が付く。
守るべき人を守りながら己自身も守っている人は、とてつもなく
強いのではないか。

 手のひらに何を守って生まれくるものか小さな桃太郎たち(市屋千鶴)



2003年02月18日(火) お菓子

今日の昼休み、ナイスなタイミングで届いたゆうパック。
おししいその中身はシフォンケーキだ。
友人の手作りのそれは、バナナの香りのおいしいケーキだ。
夫のために残しておくことの困難さを切実に感じながらの夕刻。

午後の会社で、事務員Kさんと子供の頃のおやつの話をした。

わたしの生家は向かいの家が駄菓子屋さんという、子供にはたま
らない環境だった。
おまけにお向かいのお姉さんは姉と同じ年で、妹さんはわたしの
一歳上という姉妹だったので、二人にかわいがってもらった。
お姉さんのほうは、わたしが中学生になっても「ちこちゃん」と
呼んでくれていた。(おっきな体でかわいい呼び名だ。)

で、5円玉とか10円玉とか握ってお向かいに走るのだが、子供
の頃から大きかったわたしは、大きくなるにつけ駄菓子屋さんの
商品では物足りなくなっていた。

よく、子供がお菓子なんか食べてご飯が食べられなくなるでしょ
って叱られたりするが、わたしはそう言って叱られたことがない。
なぜなら、お菓子を食べてもご飯は十分食べられたから。
お菓子を食べたことすら気付かせないような食べっぷりだった。

そんなわたしの、育ち盛りのおやつは、以前にも書いたが野菜。
夏は、トマト、キュウリ、トウモロコシ、スイカ、それに茄子漬。
秋や冬は、ジャガイモの甘辛あんかけ、ふかし芋、おにぎり。
そして、餅。おひな様の頃はくじら餅。
くじら餅とは、米の粉と砂糖で作る餅。
子供の頃は、白いくじら餅には食紅で色が付けられていて、切る
ときれいだった。
それと、くるみの入ったみそ味のものなど、3種類くらい有った。
今では、くるみが入っているのがほとんどで、白いか、薄茶色か、
茶色かの3種類になってしまったらしい。

柔らかいうちは、切ってそのまま食べる。
かたくなったら、あぶって食べる。
母の実家では、おひな様の頃には、あん餅(あんこの入った餅)
も紅白で作っていた。

こういうものがわたしのおやつだったのだから、大きくならない
わけがないか。
そして、洋菓子をおやつに食べたこともないし、従って作る習慣
もない。

手作りのシフォンケーキを食べる機会なんて、43年の人生の中
で片手で足りるほどの回数しかなかった。
ほんとにありがたいことだ。

 控えめな甘さと香りにその人は思いの丈を込めるのだろう(市屋千鶴)



2003年02月17日(月) 集中力は一時間

人間の集中力は、一時間くらいまでが限界なのかもしれない。
いや、なんとなくそう思っているだけなのだが。

アクションゲームなんがやってると、特にそう思う。
RPGはずっとやっていられるけど、アクションゲームは一時間
くらいで休憩をとって、やり直した方がうまく行くことが多い。

昨夜、夫は19時過ぎから「ANUBIS」をやりはじめたが、
23時頃からお風呂に入っていた時間を除くと、25時半近くま
での5時間あまり、ゲームしていたことになる。

「Z.O.E」の最初のゲームは、実は購入したその日のうちに
終わってしまったのだった。
だが、「ANUBIS」は手強い。
十分堪能できるようだ。
(いや、わたしは端で見ているだけなのだが。)

難しいよぉといいながら楽しそうな夫が、ちょっとうらやましい。

運動神経はいいの?と夫に問えば、よくないよという答えが帰っ
てくる。
たしかに、球技などはわたしの方が断然運動神経がいいはず。

しかし、どうしても勝てない運動神経が、夫の指先にはある。
付き合いはじめたころ、会社の同僚からしゃべるよりも打った方
が早いとまで言われたキーボードさばき。
そして、ゲームセンターで格闘ゲームをしている時のあの手並み。
絶対に勝てない。

そんな夫もわたしと格闘ゲームをしたりする。
しかもハンデ付きで体力半分で戦ったりする。
そのくらいのハンデをもらえば、わたしだってなんとか善戦する
ことができる。
そのうえ、格闘技は間合いだといって、けりとパンチだけで夫に
勝ってしまったりする。
ハンデ付きでも、負けると夫は悔しいのだね。
コンボ攻撃や高度な技を出して勝ちなさいよと、わたしに向かっ
て言ってみたりする。
でも、わたしは格闘技は間合いで勝つと言って譲らない。

そうして、夫は悔しがり、妻はちょっと自慢げになったりする。
なんの話だっけ?(笑)

 あなたには気付かれぬよう負けましょう対戦型のゲームの行方
                           (市屋千鶴)



2003年02月16日(日) Z.O.E

「Z.O.E」とは、Zone Of The Enderのこと。
ENDERとは。辺境地帯のこと。
火星を含めて、それより遠いところに住む人々のこと。
PS2のゲームであり、昨年アニメにもなっている。

最初にゲームが出て、その後にアニメが放送された。
そして、13日に第2段のゲーム「ANUBIS」が出た。

最初のゲームでは、少年が主人公だった。
そのつもりでアニメを見始めたら、主人公はおやじだった。
いや、ほんとうに二人の子供のお父さんで、もちろん中年だ。
アニメの一回目の放送で、そのおやじ殿が主人公だとは夫婦そろ
ってまったく考えもせずに、いい味出してる脇役のおやっさんだ
と思っていた。
そしたら、2回目の放送でやっぱりそのおやじ殿がパイロットに
なっているし、初めてそこでそのおやじ殿こそが主人公なのだと
いうことに気付いた。

アニメは、TV東京の深夜枠だったが、毎週ビデオ予約して見た。
すこぶる面白かった。
主人公のおやじ殿の魅力にすっかり魅了されて、放送の終了をう
らめしく思ったほどだった。

アニメとゲームとでは、時間的な隔たりがある。
最初のゲーム、アニメ、今度のゲームの順だったと思う。

それにしても、アーマードコア3サイレントライン(AC3SL)
とは、全く操作性も外見も違う。
AC3の方が、自分で組み立てる楽しさと、ミッションにも反映
される金銭間隔などもリアル感がある。
ちなみに、AC3では、案外とバルカン砲なんかが使い勝手がよ
かったりする。
ミサイルでも、相手の熱暴走をさそう攻撃と言うのがあって、そ
れもなかなか重宝しているらしい。
どちらも、弾薬代が高くつくのが難点だが。
あとはひたすら操作技術と言うところか。
舞台は地球だったり火星だったり。
ロボットの呼び方は、ACと呼ぶ。(アーマードコア)
パイロットはレイブンと呼ばれる。

それと比べると、「Z.O.E」シリーズは、操作性が優しくな
っていて、誰でもロボットの操作ができるようにと考えられたも
のなのである。(特番で制作者がそう言っていた。)
そして、ドラマ性が重視されている。
火星や木星やその衛星などが舞台。
「Z.O.E」では操作するロボットをオービタルフレームと呼ぶ。
パイロットはランナーと呼ばれる。

この「ANUBIS」を買ってきたのは、今日の18時頃。
やりはじめたのは、夕食後の19時頃である。
かれこれ一時間半、夫はランナーとなっている。(笑)

 あたしまでドライアイなんかなっちゃうよまばたきせずに君を見守る
                           (市屋千鶴)



2003年02月15日(土) お通夜

今日は、会社の事務員さんKさんのお母さんのお通夜。
お母さんが亡くなったのは、2月10日だった。
前日の夜に、一人でお風呂の入ろうとしていて、脳出血を起こし
てしまったらしかった。
お母さんは今一人暮らしで、4月からはKさんと一緒に住もうと
していた矢先のことだった。
一緒に住むようになったら、お風呂もゆっくり入れてあげるねと
話していたところだったと、亡くなったその日、Kさんは言った。

Kさんのお父さんは、2年前に亡くなったばかり。てからDた
離婚して、3人の子供を育て上げたKさんの、一番下のお子さん
が就職するこの春に、お母さんとの同居を考えていたのだ。

今日がお通夜で明日が告別式。
夕方、会社の人たちと斎場に行く。

誰かを失う悲しみは、失う状況にもよるがみな同じではない。
失った相手の現状が、もしや自分達の行動によるものなのではな
いかと考えている場合、その悲しみは後悔とともにやってくる。

わたしの父方の祖父母は、わたしが高校一年生のときに相次いで
亡くなった。
父の失踪事件があって、祖父母のショックはかなり大きかったら
しく、それ以降二人とも脳軟化症になっていたそうだ。
近所を徘徊したりもしていたらしい。
そのことを知ったのは、亡くなってからだった。
先に祖母が亡くなり、10日後祖父が亡くなった。

わたし達が家を出なければ、惚けてしまったりはしなかったので
はないかと、それがひどく心残りで、わたしは亡くなった祖母の
枕元で号泣した。
その後で、寝ている祖父のところに行ったら、わたしの顔を見て
にっこりと微笑んだ。
伯母達が、もうなにもわからない祖父が、わたしの顔はわかった
のだろうと言って泣いていた。
厳格だが優しい祖父の、優しさが溢れんばかりの微笑みだった。
その10日後(くしくもわたしの誕生日)が祖父の告別式だった。

もちろん、二人の告別式に参列したのは、わたしだけだった。
姉や母はもちろん、父もいなかった。

わたしが亡くした人たちの中で、悲しみとともに悔いの残る人は
この二人だけだった。
母も、母方の祖母も伯父も伯母も、わたしには強い悲しみだけが
あった。

Kさん、もう少し早く一緒に暮らせていたらって、後悔してはい
ないだろうか。
亡くなってから、お通夜まで日があるからだろうか。
会社にも顔をだし、細かい仕事をちょこちょこっとこなして帰る
気丈に見えるKさんが、かえって痛々しかった。



2003年02月14日(金) やっぱりチョコネタ

どうしたって外せないだろう、チョコネタ。

中学3年生で転校した先で、好きななった男子生徒がいた。
その人には彼女がいて、ぜんぜん告白しようなんてことさえも、
考えていなかったし、バレンタインにチョコをあげるなんてこと
もまるで考えていなかった。

同じ高校に進んでも、相変わらず彼のことが好きだったわたしは
それでもなかなか素直に告白できないでいたなぁ。
それで、彼の誕生日がバレンタインデーのちょうど1週間前なの
を口実として、いつも1週遅れの誕生日プレゼントだと称して、
チョコをあげていたのだった。

高校時代の彼は、他の女子高の女の子に片思いしてたんだよね。
チョコを差し出すと少しだけ困ったような顔をする彼を毎年見て
いて、まったく相変わらずだなぁと思いながら1週間遅れの誕生
日プレゼントだよと言って、彼の逃げ道を作ってあげていた。

 何年も七日遅れが続いても気づかない振り 君はずるいよ
                       (市屋千鶴 1999.02作)
 告白の思い出はみな雪色でチョコも涙も隠してくれた(市屋千鶴)
                       (市屋千鶴 1999.02作)

このとき、「告白の思い出」という一連の歌を作ったが、今でも
好きなのは下の方の歌。
雪の中のバレンタインは、なかなかのものだ。
頬を伝う涙も、雪が溶けたものだと言い張ることができる。(笑)

上京してから、義理チョコなんてのを配るようになった。
社会人になる前、専門学校生のころからだろうか。
いつも、ちゃんと告白なんてできなかったから、義理チョコ中に
本命チョコを混ぜて配ると言う、極めて分かりにくい告白だった。

やっぱ、本命チョコは、机の引き出しにそっと忍ばせておくか、
直接渡すかだと思うねぇ。
分かりにくい本命チョコの渡し方をしておいて、気付いてくれな
いなんて落ち込むのは、ばからしいもんね。(経験者は語る。)

いや、まったく、女は度胸だよ。

ちなみに、今年の夫へのチョコは、東京ディズニーシーで買った
チョコと、ネットで購入したチョコケーキだった。
もちろん、今日を待たずして互いのおなかの中に納まっている。

 チョコよりも鰈の煮付けが食べたいとバレンタインの献立決まる
                           (市屋千鶴)

ちなみに、上の歌たちを作った3年前は、キンピラゴボウだった。



2003年02月13日(木) 要〈背景〉

昨日までの3日間の日記は、我孫子市に引っ越してきた年に書い
たものだった。
短歌に作成年月を付けてあるが、何首か1998年2月作成の歌
がある。
それはわたしがニフティの短歌フォーラムに入ったころ。
ということは、とりもなおさず短歌を始めた時期ということで、
その歌たちはどうにもこうにも、ストレートを通り越して、なん
だか恥ずかしいものばかりな気がする。

それでも、最初はそんな程度でいいと思っていた。
とにかくごちゃごちゃしたものを、31文字に変換してみようと
思っていた。

その時期は、姉が2回目のくも膜下出血の手術をして退院したば
かりのころでもあった。
そして、姪っ子が高校を出て就職するので、お祝いにスーツや靴
を買ってあげたりしていた時期でもあった。
そして、夫と婚姻届を出して、3か月ほど経った頃でもあった。

わたしには、言葉にしたいことがたくさん有った。
亡母のこと、姉のこと、姉の家族のこと、夫のこと、自分のこと。
とにかく、なんでもかんでも手当りしだい短歌にしていたような
気がする。

そして、短歌を発表するだけでなく、自分で書こうとして書けな
かったものを書いてみようと思うようになった。
ある会議室の管理人をと言われた時に、短歌の批評や作品の発表
ではなく、強い思いに突き動かされるように作ってしまった短歌
を、その背景ごと書き込んでもらう場所にしようと思った。

うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、切ないこと、
悔しいこと、なんでもいいからその歌を作った背景をお話しして
もらおうと思った。

誰よりも、自分自身がそうしたかったからだと思う。
そうして、発表したのが昨日までの3日間の文章だった。
だから、1998年の短歌以外は、ほとんど2000年11月に
作成したものだ。(最後の歌は昨日作ったものだけど。)

最近では、管理人のわたし自身があまり書き込んでいないことも
あって、ちょっと静かすぎるほど静かだけど。(^^;

結局、わたしは作品としての短歌を一人前のものとして発表する
ことはまだできないのだろう。
背景があるから面白い。
今はまだ、それがわたしの短歌だ。

 あたしって精神的な露出狂?心の中をさらす快感(市屋千鶴)



2003年02月12日(水) 雪の思い出3(暗め、長め)

さらに続き(これで終わり)。

姉は、山形市内に就職が決まっていたが、急遽、上京して就職す
ることになり、わたしも上京して姉と一緒に母の妹宅の世話にな
ることになっていた。
母は、裁判が有るのでその土地を離れることができなかったから。

転校の手続きを取ることになって、一度転校先に決まった学校に
挨拶に行った。
詳しいことはなぜだか全く覚えていない。(東京の日野市だった。)
ただ、窓から外を見て緑が多いなと思ったことだけ覚えている。

ところがその後事態は一転し、わたしの上京は止めになった。
母がその土地にいるためには市営住宅に住むしかなく、そのため
には扶養家族が必要だったのだ。
こうして、姉だけが東京に残ることになってしまった。
からからお天気の東京と、雪の降りしきる山形を2回も行き来し
たのは、母とわたしと唐草模様の風呂敷きだった。
(教科書とか入ってた。(^^;))

  姉一人残して帰る網棚に唐草模様の風呂敷きひとつ
                       (市屋千鶴 2000.11作)

市営住宅に入るまでは、母の実家においてもらって、元の学校に
通った。
バスで市内まで出ると、先生が車で学校まで乗せていってくれる
という、なんとも贅沢な通学だった。
同じ市内の中学校への転校は4月1日付けだった。

母の実家では、父のせいで借金を背負うことになったという負い
目が有ったから、なるべく人の居ない所に居るようになっていた。
まだまだ雪の降り続く3月、祖母がわたしにこう言った。
「なんぼお前のとうちゃんが悪いことをしたからといって、
 お前が悪い訳ではない。親は親、子供は子供だから。
 大きな顔をしていていいんだからね。」
と。
わたしはその言葉に救われて、何度も何度も涙を拭いた。
不思議なことに、一連の出来事のなかで、泣いた記憶はこの時だ
けしかないのだ。
わたしは、この時、初めてほっとしたのかもしれなかった。
その祖母も、3年前に他界した。
祖母の告別式は、やはり3月だった。

  雪の弥生に吾を救いし祖母を葬送る やはり弥生の雪ふぶくなか
                       (市屋千鶴 2000.11作)

母と二人で市営住宅に住むことが決まり、1階の屋根近くまで積
もっている雪をかきわけて、布団などを運び込んだ。
もちろん二人だけだった。
なにしろ雪が多いので、タンスなど変形しないものは運び込めな
いままだった。
とりあえず、布団と米しかなくて、ご飯を炊いたがオカズが無か
った。
近くのお店でおかずになりそうな安いものを手に入れた。
知っている人はかなり少ないと思われるのだが、納豆昆布という
もの。
昆布を細かく刻んであって乾燥させたもので、水分を加えると粘
り気が出る。
しょうゆで納豆のようにして食べる。
ご飯と納豆昆布。
それが母と二人の生活で初めて食べた食事だった。
布団に埋もれるようにして食べたし、他には何も無かったが、と
にかくうまかった。

  初めての母と二人の思い出は雪とお米と納豆昆布
                       (市屋千鶴 2000.11作)

雪国で暮らしている以上、雪の思い出は数え切れないほどあるの
だが、両親の離婚にまつわるこの一連の出来事は、わたしの中に
どうしても消すことのできないものを植え付けていた。
書いても書いても、涙を流さずに書くことはまだできないでいた。
出来事を共有していた母は、懐かしく語り合うことも無いままに
亡くなった。
姉も知らない、亡母も知らない、誰も知らないわたしの気持ち。

  母であり姉でありなお己自身なのだと思う雪はふるさと
                       (市屋千鶴 2000.11作)

人には話せない記憶を持つ人はたくさんいる。
そんな記憶を持っていることは、傷であって罪ではない。
その傷に縛られて周りが見えなくなってしまうことが罪なのだ。
自分の周りに存在する優しいものたちを、素直な目で見ることが
できないでいることが罪なのだと思う。
言葉にすることは、その記憶を傷を、自分のものとしてきちんと
認識することなのだと思う。
言葉にすること。
そしてその言葉をただ聞いてくれる人がいること。
それが、その記憶を傷を、思い出に昇華するためには大切なこと
なのだと、わたしは短歌と出会い、短歌の世界の人々と出会って
からそう思うようになった。
大切なものは、すぐそばにある。

 語ることのできぬ記憶を持つことが罪ではないと諭されている
                            (市屋千鶴)


暗い話を最後まで読んでくださったみなさま。
どうもありがとうございます。



2003年02月11日(火) 雪の思い出2(暗め、長め)

昨日からの続き。

しばらくして、逃げていた父が見つかった。
とりあえず見つかりはしたものの、家に戻ってくるつもりはない
と言った。
両親は、知り合いの家で話し合いをしていた。
子供には聞かせられないからと、わたしは雪の降る中、外にいる
ように言われ、一人で雪降る町にいた。
空腹は、こんな時でもやってくるし、寒さもこたえた。
そして、初めてわたしは「うどんの自動販売機」なるものを活用
した。
自動販売機のうどんは、暖かいだけでも救いだった。

  雪の中自販機のうどん食べる我 ふた親今ごろ決断のとき
                       (市屋千鶴 1998.02作)
  子供にはこんな所は見せられぬ 今更何を隠すというのか
                       (市屋千鶴 2000.11作)

帰ってくるつもりの無い父を当てにはできないし、保証人になっ
た実家の借金をなんとか減らすために、父を訴えることになった。
私文書偽造っていうやつ。
知らないうちに印鑑を使われたということだった。
そして、裁判になるのに姻戚関係があると不利だとかいう理由で、
あっという間に離婚することになった。
ほんとにあっという間だった。
帰ってこない父よりも実家の方が大事だったのは、当たり前とい
えば当たり前だ。
わたしは帰ってこない父に未練などなかった。
普段からいなかったし。
離婚した日は、姉の誕生日だった。

  六人が三人に減った2月の日 母と私で祝う姉の18歳
                       (市屋千鶴 1998.02作)
  誕生日が離婚記念日になるなんて 母をせめつつ泣き笑う姉
                       (市屋千鶴 1998.02作)

こうして、わたし達は女3人の家族になった。

離婚して家を出る前に、わたし達にはやっておくことがあった。
それは、家財道具の運び出し。
父がやっていた自動車整備工場には、寝泊まりできるように一通
りの家財道具がそろっていた。
それをわたし達の新しい生活のために運び出したのだった。
父の家にはだまってのことだから、まるで夜逃げのようだった。
よく営業で使われているようなワゴン車(かな?)に小型冷蔵庫
から布団から炊飯器からコタツから、後ろが見えなくなるくらい
詰め込んで工場を出た。
雪は小降りで、路面は凍りはじめていた。

工場から100mも行かない所で、パンクした。
使い込んでいたタイヤには過酷な荷物の量だったから、もちろん
積み過ぎだ。
大笑いしながらわたしと母は工場に戻り、母の実家に電話して迎
えを頼んだ。
従姉兄達が来てタイヤを交換し、荷物を積み分けてなんとか走れ
るようになり、家財道具の運び出しに成功したのだった。

  思い出も積み込んだから重過ぎて進めなかったの?怒りは捨てよう
                       (市屋千鶴 2000.11作)

母の籍は抜いたが、わたしの籍はまだ父の元にあった。
親権は母と決まってわたしの名字が変わったのは、4月1日だった。



2003年02月10日(月) 雪の思い出1(暗め、長め)

今日から3日間のこの文章は、2000年11月にニフティの
短歌フォーラムで掲載したものをベースにしている。

今から29年前の2月10日の夜。
建国記念日の前夜だった。
母は、わたしを乗せ、吹雪の中を姉の下宿先に向かってジープを
走らせていた。
ジープといっても幌で覆われているやつで、暖房など効いている
のかいないのかわからないくらい隙間が有った。

母は、運転しながらわたしに話した。
父には借金が沢山有って、母の実家が多額の保証人になっている
こと。
それなのに父は他の女の人とどこかに逃げてしまったこと。
借金取りが来るから、年頃の姉はしばらく下宿先から帰らないよ
うにさせるということ。
祖母は親戚の家に遊びに行かせているし、祖父は心臓が弱かった
ので入院させていること。

わたしは、母の言葉をただ聞いていた。
窓に凍り付く雪をときおり、手で除きながらただただ聞いていた。
わたしには、何も言うことがなかった。

その後は、たった一人、雪に埋まった家の中で父を探して帰りの
遅くなる母を待つだけの生活だった。
学校にはとりあえず行っていたのだが、引っ切り無しになる電話
に閉口して、電話に布団をかけたりしていた。
真夜中になって、吹雪のなかを父を探しまわった母が帰ってくる。
一晩で入り口など塞がってしまうような雪の中、帰ってきた母が
雪を払う音が聞こえると、わたしは寝たふりをした。
寝たふりをしているわたしの枕元で、母は声を殺して泣いた。
寝たふりとは辛いもので、わたしは一緒に泣くことも、母を元気
づけることもできないでいた。
それでも、死ぬことだけは全く考えなかったという母にはとても
感謝している。

  吹雪く夜に父親探す母帰る 凍える体に熱きなみだよ
                       (市屋千鶴 1998.02作)
  声殺し泣く母に気づかぬふりをして寝ている我は何もしてやれず
                       (市屋千鶴 1998.02作)
  ああ、ここにいるぞと叫ぶわたしごと家ごと雪は消し去っていく
                       (市屋千鶴 2000.10作)

一人で留守番をしているわたしを不憫に思った父の姉が、何日間
か自分の家に泊めてくれた。
夕食を採りながらその伯母が言った言葉。
「お前を一人残しておくなんて、しょうがない母ちゃんだなぁ。」
しょうがないのは、母ではなくあなたの弟だと言ってやりたかった。
悪い人ではないが、自分達しか良く見えない人達。
父方の親戚には、わたしはボーッとした子供だと思われていたら
しい。
何も知らないで毎日暮らしていた訳ではないことを、あの人達は
全く気づいてなどいなかったのだろう。
いや、見えてすらいなかったのだろう。

  吹雪く道に身を投げ出して叫んだら誰かたすけてくれるだろうか
                       (市屋千鶴 2000.11作)

わたしの怒りは、どこにぶつければ良かったのだろうか。



2003年02月09日(日) 氷の歌たち

今日はぷらむの日。
お題は「氷」。

氷という題で考えはじめるのに、いつのまにか雪になったりする。
今回のわたしの歌は、次の3首。
1首目2首目は題詠で、3首目は自由題。

 溶けてゆく氷とともに解けてゆく 君が春まで生きられぬ謎
                           (市屋千鶴)
 軒先の氷柱程度の鋭さで引き止めている君のため息
                           (市屋千鶴)
 粉雪に吹き上げられて息継ぎが出来ないから、ねぇ、人工呼吸
                           (市屋千鶴)

南大沢に行く途中の電車の中で、2首目の歌の下の句を変えたい
と思った。
それを言ってみたところ、電車の中で考えた下の句の方がいいと
言っていただいたので、変えてみた。

 軒先の氷柱のような鋭さで君の吐息に拒まれている(市屋千鶴)

気が付くのが1週間遅かったなぁ。
1首目は、上の句が面白いので、下の句を「謎」と言わずに謎を
ほのめかすようにしてはと助言をいただいた。
なかなかいい案が浮かばないよね。

ぷらむな人々の、いろんな氷の歌が並ぶ。
冷たいのに暖かい、冷たいのに抱きしめたい、そんな歌もあった。

終わってから、5人で小一時間ばかり、飲みながら話をした。
先月から参加の方は、声の職業とのこと。
なるほどと納得の声なのだ。
夫よりも年下のその方と、少しマニアックなテレビ番組の話など
しながら帰った。
男性の響く声に弱いわたしには、危険な声の持ち主だ。(笑)

さて。
以前から予告していたことですが、明日からの3日間は、暗めで
やや長めの話になるので、前もってお断りしておきます。
暗い話が苦手な方は、どうぞさくっと飛ばして下さい。



2003年02月08日(土) 多摩への怖れ

昨日、熱が出そうだからと相対した事務員Kさん。
やっぱり今日はお休みだということで、電話番をかねて出社した。

夫も今日は、痔のお医者さんに行ってから事務所に出るといって
いたので、ちょうど良かった。のか?

明日はぷらむ短歌会の日なので、ほぼ1日家を空ける。
ぷらむの前に、姉の家に寄らなくてはならないから、いつもより
早く家をでるからだ。
甥っ子が今年就職するので、必要な書類に記入して印鑑を押す。
姪っ子のときも夫が保証人の一人になったんだった。
夫は、俺なんかで保証になるのかなんて言って、笑っていた。

しかし、この時期、東京多摩方面に行くのが勇気がいる。
なぜなら、うちより南下するわけだから、花粉が飛んでそうな気
がするのだ。
多摩の杉林を甘く見ては行けない。
そのうえ、姉の家は、すぐ側に杉林があるのだ。
なんとか駅前で、甥っ子と待ち合わせて書類を書くか、検討中。

明日は、マスクを用意していかなくてはなるまい。
コンタクトはして行くべきか否か、それも問題。
視力をとるべきか。
長時間の移動のためには、寝られるから眼鏡がいいんだけど。

今持っている眼鏡をかけると、姉が眼鏡をかけている顔と似てい
るらしい。
そうして眼鏡をかけて、首を少し傾げてややあごを上向きにして
みると、似てる似てると姪っ子が手をたたいて喜ぶ。
やせたから顔立ちが似てきたんだろうよ。
それに、一応、姉妹だからね。(^^;

 知らぬ間に身についている姿勢とか話し方とか生き方だとか
                           (市屋千鶴)



2003年02月07日(金) 驚愕の昼休み

今日の昼休み、いつものように昼食のために自宅に戻った。
あれっ? 鍵穴の向きが逆だ。
そうなのだ。
わたしはいつも、鍵をかけた状態で鍵穴の向きが同じになるよう
にして出かけることにしている。

その鍵穴の向きが逆になっていた。
鍵が開いたということなのだ。
そういえば、お風呂場の換気扇が回っていた。
夫が帰ってきたんだろうかと、そーっと入ってみた。
すると夫がトイレのドアから顔を出し、はっとした顔をしてから
にやりと笑って、またトイレに納まった。
トイレのドアの外から、「どうしたのぉーっ?」と声をかける。

ほどなくトイレから出てきた夫は、なんとすっぽんぽんだった。
お風呂から出て、なぜかトイレで痔の薬を患部に注入していたら
しいということがわかった。
それなのに、夫。
「うわーい、浮気の現場を見つかってしまったぁ。」
とか、裸のまま楽しそうに下着をとりに走っていた。(^^;

おいおい、と思いながらも、特のそのギャグには触れずに、
「どうしたの、お昼は?」
と訊ねるわたし。

浮気ギャグの反応のなさにくじけたらしい夫が言うには、夕べも
遅くなってしまって、朝も眠くてシャワーも浴びずにこ汚かった
から、早めにお昼休みをもらってシャワーを浴びに帰ってきたと
いいうことだった。
お昼は軽くすませたらしい。

ふ〜ん。
日中は、そんなに余裕があるのね、今日は。
これっ、夜も早く帰ってこいよぉ〜!

びっくりしたようといいながら、おもむろに朝食の残りのおかず
で昼食を食べているわたしをみながら、夫は着替えていた。
そして、12時半頃、再び事務所に向かって歩いていった。

今日は、2回もいってらっしゃいって言っちゃったよ。(笑)
まあ、ずいぶんかわったサラリーマンだとは思うけど。

 こっそりと君に隠れて食べているおいしいものは君の行動
                          (市屋千鶴)
おいしい日記のネタをありがとう。(^_^)



2003年02月06日(木) 区別しなきゃ

自分のiBOOKと夫のiBOOKと、どうやって区別するか。
夕べ、23時頃帰ってきた夫と相談した。

いろいろとシールを探したが、探すときほど見つからない。
いや、ない。

iBOOKのアップルマークは、電源を入れるとうっすらと光る。
その光るアップルマークのところに貼るシールがあるらしい。
それを購入して貼ることに決めた。
ぶどう色とか、みかん色とかがいいな。

それまで、なんだかわけのわからないシールを一時的に貼ること
になった。手当たり次第だ。

二人くっついてiBOOKをいじくりまわしていると楽しい。
そして夫にこう言われた。
「要するに、メールできて、サイトめぐりができて、テキスト
 エディタがあれば、機種はなんでもいいわけだ。」

はい、そのとおりです。

 手の内に君の姿を包み込みそっと離れる1.5メートル(市屋千鶴)



2003年02月05日(水) 催眠学習効果

今日は、ちょっと義理で出かけた。ちょいと品川まで。

日曜日、「特捜200X」を見ていて、催眠の話をしていた。
その話題は、7年間にわたり約1000回も治療という名目で
催眠術をかけられ、果ては夫を殺すように、それが失敗すれば
今度は自殺するようにと後催眠指示を受けていた女性のことだ
った。

それを見ていた夫がこう言った。
「ねえ、ねえ、おれが寝てる時に耳元でささやいて、何か
 暗示をかけてなかった?」
「えっ?」
「もっと好きにな〜れ、もっと好きにな〜れ、って言って
 なかった?」
「そんなことしてなかったよぉ〜。」
「そっかぁ。」
「ふっふ〜〜ん、それって、もっと好きになったからそう
 思ってるわけだねっ。」
「。。。。。。。。。。」
「ねえってばぁ。」
「こっぱずかしいことを言わせるんじゃないよっ。」

普段、本心を言わない夫だが、ひょんなことで表面化してしま
った自分の気持ちに、ちょっぴり頬を染めて反撃する様子を見
ていたら、わたしはやっぱり幸せ者だと思った。

そんな夫、夕べは夜中の2時半に帰ってきた。
定休日前とあって、なんとか2時まではがんばって起きていた
のだが、あえなく睡魔に負けてうとうとしてしまっていた。
ふと目をさますと夫が着替えていた。
布団に入り、わたしと手を繋いで眠ろうとする夫。
「おる、おる。」(いる、いる、という意味)

仕事で帰宅が遅く、二人で起きている時間が少ないことを、夫
もまた寂しいと思っていたことに、今さらながら気付いた。
二人だけの暮らし、そういうこともあるよね。

わたしはいつもいるよ。

 夜はいつも君が保護者でいてくれてわたしは夢見る子供のままだ
                           (市屋千鶴)



2003年02月04日(火) IBOOKで書く日記

今日の日記は、わたしのIBOOKで書いている。
テキストエディタも、今までのとは違う。

初めて使うソフトは、やっぱり神経を使うし、たとえば小さい
ィを入力するのも、WINならLとIだが、ここではXとIだ。
編集時の文字サイズも、大きくした。
ほかにもいろいろと、キーボード操作上の違いはあるものの、
とりあえず、日記を書くくらいはなんとでもなる程度だ。

今日は、会社の事務員Kさんと、家事の話をしたりした。
基本的にわたしは家事が苦手だ。
というよりも、怠け者なのだと思う。
仕事はかなりの勢いで真面目に取り組むし、一生懸命やるのだ
けれど、家の中のこととなると途端に怠け者になる。
好きなことしか真面目にやらない、わがままものだ。
こんなわたしでもなんとか夫婦として暮らしていけているのは、
夫が家事万能の奥さんを期待していないからだろう。

子供がいれば自然とやるようになるし、他の家族がいればまた
別なのだろうと思う。
が、わたしと夫だけならば、とりあえず夫がいいといえばそれ
でいいのだ。

専業主婦になってしまったら、きっととってもプレッシャーを
感じてしまって、駄目だろうと思う。
だって、1日家にいるのに何もできていないのかと言われたら
なんと答えればいいのかわからないし。
だからわたしは働くのかもしれない。
家の中で何もしない時間を少なくするためにだ。

わたしは、怠け者だから、ずっと考え事をしたり、ぼーっとし
たりして暮らしてしまうのだろう。

 何もかも視界の外に押しのけて我をいざなう闇を見ている
                          (市屋千鶴)



2003年02月03日(月) My iBOOK

昨日の夕方、夫の携帯電話がぶるぶると震え、iBOOKを今
から渡したいと申し出が有った。
お金は用意してあったから、大丈夫。(^_^)
受け渡し場所は、徒歩5分ほどの酒屋さんの前だったらしい。

わたしからお金を受取り、夫はそそくさとでかけていき、片手
にiBOOKの箱をぶら下げて帰ってきた。

わーい、わーい! わたしのiBOOK!
うれしくて、ほっぺたがぷくっとしてしまった。
設定の関するわたしの希望を聞いてから、おもむろに夫は設定
しはじめた。
WINDOWSマシンならば自分で設定できるのだが、MAC
は初めてなので、とりあえずOX−Xを入れてもらい、サーバ
に接続できるとこまでやってもらった。

だけど、今日の日記は、まだ古い方のノートPCで書いている。
いやぁ、壊れた訳じゃないし、使えるとこまで使ってあげよう
かと、使い分けを思案中なのでiBOOKの方は当分いじくる
だけになる予定。

なんだかうれしい、夫とお揃いのiBOOK。(^o^)
ハードディスク容量は、夫のよりも少ないが、メモリが増設さ
れていて、夫のよりも速い。
区別するために、カラフルリンコを貼っちゃおうかと言ったら、
かっこ悪いよきっと、と却下された。

夫のと自分のを区別するには、どうしたらいいかなぁ?
いろいろ思案中なのは、うきうきして楽しい。

 住み分けを考えている冬の午後 白い双子のノートPC(市屋千鶴)



2003年02月02日(日) 東京ディズニーシー

昨日、行ってきた東京ディズニーシー。
たしか一昨年までは、現地でチケットを配っていたので、指定
された時間に行かなければならなかった。
夫の会社の社員会でチケットを購入して、参加者に配ってくれ
たので、自分達の都合で行く時間を決めることが出来た。
おかげで、朝の1時間だけ会社に出て請求書を作ってから出か
けることができた。

昼ご飯を食べてから出かけた。
それは、食事をするにもきっと並んだりしなくてはならないと
思ったからだった。そそくさとお蕎麦をかっ込んで出かけた。
おまけに、夜間指定で宅急便が届くのがわかっているので、遅
くとも6時過ぎには帰ってきたいと思っていた。

13時ごろ、現地到着。
家からだと、新松戸で武蔵野線に乗り換え、南船橋で京葉線に
乗り換えて舞浜まで、1時間ちょっとの行程。
参加費用が社員会持ちというのは気楽なもので(といっても社
員会費は毎月払っているのだが。)、たった3〜4時間、中の
様子を見て、待ち時間の少ないアトラクションを2つ3つこな
して帰れればいいと思っていた。
今回良ければ、来年も参加すればいいのだからというわたし達。

TDLとは、景色が全く違う。
町並みや、建造物を見るだけでも面白かった。
やっぱり、少し大人向けのような気がした。
ぐるっと一回りして、入れそうなアトラクションに入ってみる
という行き当たりばったりのわたし達だったが、一回りするの
に大体2時間くらい、休憩したりアトラクションに参加したり
した時間が1時間くらいだったと思う。

大体のアトラクションが40分待ちとか70分待ちとかだった。
ファストパスの次回の時間は19時とか書いてあったし、夫は
待つのが嫌い(わたしも同じ)なので、15分以内なら入って
みようという取り決めで行動した。

で、5分待ちだったのが、「シンドバッド・セブンヴォヤッジ」。
15分待ちだったのが、「マーメイドラグーンシアター」。
「シンドバッド・セブンヴォヤッジ」は、ボートに乗って人形
の世界を回るもの。
人形があちらこちらでてんでにしゃべっていた。
子供さんとか楽しいと思うよ。

マーメイドラグーンのトリトンズ・キングダムの内装は、とて
もよく考えられていて、海底王国の印象が良く出ていたと思う。
まるで別世界という空間を作っている。
入り口から見下ろしたときに、わぁ〜、ここは違う世界だぁと
思った。
「マーメイドラグーンシアター」は、「リトル・マーメイド」
のアリエル(人魚)と仲間達のミュージカルショーになってい
るのだが、海の中と言う設定なので、天井から吊られた人々が
踊ったり歌ったりする。
アリエル役の女性は日本人ではないようで、衣裳が似合ってい
てとてもきれいだった。
天井から吊られたワイヤーのもと、くるくると回ったりしなが
ら演技していた。
歌や声は吹き替えだが、ちゃんと口が声と合ってるし、全くと
行っていいほど違和感が無い。
アリエルの他に出てくる人達も、ヒトデとかカニとか海底を歩
くもの以外は、空中に登場する。みんな吊られている。
とにかく衣裳がきれいで、吊られている状態での動きの効果を
充分に考慮している衣裳と思われた。
子供たちを同じように、上を見ながら口をぽかんと開けて目を
丸くして見ているわたしだった。
お土産は、リトルマーメイドの缶入りお菓子にした。(^^;
きれいな物にはとても弱い。

限られた時間の中でぐるっと一回りしただけと言う、ある意味
贅沢な時間だったが、さて自分で5500円(1DAYパス)
を出して行くとしたら、きっと乗れるだけのアトラクションに
乗って、並び疲れてくたくたになって帰ってくるんだろうなぁ
と思った。それも、半分喧嘩腰でさ。(爆)
夫の会社の社員会が、来年もTDSにしてくれることを楽しみ
に、来年は帰りの時間を決めないで夜まで見てから帰ろうねと
夫を話しながら、帰りの電車で眠る二人だった。
宅急便がこない日だったら、もっとゆっくり見てられたのにね。
すまん、夫よ。

 君のこと忘れた訳じゃないんだよ海の底から戻らぬ意識(市屋千鶴)



2003年02月01日(土) 感想

この内容は1/31の夜に書いたものです。
本当は、今日は東京ディズニーシーの感想とかを書かねばとか
思ったのだけど、すっかりくたびれて眠くなってしまったので
昨夜書いていた内容でUPすることにしました。
東京ディズニーシーの感想は、明日書きます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
短歌の知合いの方の裏のHPでは、とてもいいお話を読むこと
ができる。
そして、こっそり、とは言ってもわたしが読んでいることは、
もうそこの皆さんが知っている掲示板で、そのお話の感想など
のやり取りが交わされているのを、わたしはいつもじっと見て
いる。
すんごく書込んでしまいたくなる衝動をいつも押さえながら、
それでもひたすら読んでいる。(変な奴だ。)

裏のHPで公開されているお話の感想を、そのHPの掲示板に
書込んだことは、2、3回有った。
しかし、ちょうど一つの区切りがついた所で感想を書こうとし
たとき、掲示板の箱の中には納まりきらないことに気がついた。

彼女のお話がわたしを泣かせてしまうのは、決まって主人公達
の親達が出てくるシーンで、主人公達が泣いている場面だ。
わたしは、母親に愛されている子供に弱い。
そして、その母親の愛情に改めて気がついた子供の感動に弱い。
自分自身の心の葛藤を、長いことたった一人で抱え込んできた
子供が、初めて親の愛情に向き合えるまでに成長した姿に弱い。

彼女のお話の主人公の一人は、この所よく泣いているのだ。
大人になってから、ただただぽろぽろぽろぽろ涙を流して泣く
ことができるためには、それまでの支えが必要なんだと思う。
特に、主人公の彼にとっては、泣くことは自分自身を許してい
ることなのだと感じていた。
自分自身を無条件で愛してくれるものを持ったと確信したとき、
そしてその愛情がそれ以前にも自分の家族から注がれていたこ
とに目を向けることが出来たとき、彼は自分を許し自分がすで
に許されていたのだということを実感したのだと思った。

わたし自身、ちゃんと泣くことが出来るようになったのは、夫
と暮らすようになってからだと思うから。
ちゃんと泣けるって変な言い方だけど、悔し泣きや、怒りで泣
くのとは全く違う。
ただひたすら、自分のために泣いているのだ。
悲しいとか、寂しいとか考えていなくて、泣きたいから泣く。

それは、何も言わずにただ泣いている人間を、穏やかにただ支
えるだけでいてくれる存在が、母以外に見つかったときだった。
母を亡くしたときに、もうそんな相手はいないと思っていた。
母にさえ、もうずっと泣き顔など見せていなかったから。

涙には、泣くことには、本当に力が有るのだと、30代も後半
になって実感したのだった。

そんなことを、彼女のお話は思い出させてくれる。
そして、この先にも、もっといいお話が控えているのを、実は
もう知っているのだ。
ああ、何を書いてもまったく彼女にはかなわないのだと思い知
らされる、なんだか幸せな羨望。

 寂しいと涙の跡をつけながら僕に向かって無防備な笑顔(市屋千鶴)

ああ、こんなところに感想を書いていて、ごめんね。


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