★悠悠自適な日記☆
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この口は、あまりにも多くのことを語り過ぎ、あまりにも多くの嘘をつき、あまりにも多くの壁を作り過ぎる。
思ったことでも黙っているのが素晴らしい。それがこの国の美学だからだだ。
この口が、愚かな私を次々と暴露する。 守りの言葉はますます私の弱さを露呈する。
少し、距離を置こう。
静かにじっと見つめてそこから浮き上がってくるものを逃さないようにしよう。
今は、それだけで十分でしょう。
今回携わった「標本・ファムファタル」の作品について。
今回、「中途半端に知っているのは嫌。全部知っているか、全然知らないかのどっちかにして!!」というセリフが一番印象に残っています。
女の子の弱さが抉られる作品で、私はこの台詞に心を一番抉られました。
私は正しくこのタイプで、中途半端に知っていたり、バレる嘘をつかれるくらいなら、いっそのこと知らないほうがいいし、嘘を完全に突き通してくれたほうがいいし、それができないなら全部知りたいと思ってしまいます。
何かを言いかけて、「へへへ、内緒〜。」というのが大の苦手です。この言葉で私は一気に壁を作ってしまいます。友達でも恋人でも、好きな人のことを知りたくて、好きな人が見ている世界を知りたいという衝動。それをどう解釈するかは私次第ですが、その人が見ている真実を、その人で伝えてもらうことに私は満足するし、それが満たされないことに私はどうしようもない寂しさを感じてしまいます。
中途半端なことを言われて、真実と嘘が交錯していることに寂しさを感じるくらいなら、いっそのこと全て嘘で、私の前で100%の仮面を被ってくれればいいと思います。
でも、残念なことに、近くに居れば近くに居る人ほど、100%の仮面は存在しません。言葉の間の置き方ひとつで、呼吸ひとつで、目線ひとつでそれが嘘と見抜けてしまうのです。ああ、また嘘付かれた。真実と真意が分からなくなる。何故嘘をつかれるのか。相手のことが見えない。見せてもらえない。→寂しい。
自分勝手かもしれないけれど、それが私の持つ弱い部分で、抉られて痛い部分です。欲を言えば守りたい部分で守って欲しい箇所。この芝居を作られる過程を見ながら、私は自分の弱さについて一度抉り、考えて、自分の状況を整理させられた気がします。心がチクチクする公演でした。
ウソという鳥がいます。
ウソではありません。 ホントかな?
本当という鳥はいませんが…。
昔、中学ぼ国語の教科書にこんな詩が載っていた気がします。
私達は毎日ウソの鳥と空をフワフワ飛んでいます。おぼつかない足元。
ホントを知って、もっと地に足をつけたいものです。 (なんじゃこのシメは!!!)
2006年05月22日(月) |
ファムファタル終了報告 |
先日、私が制作を担当していた『標本・ファムファタル』の公演が無事終了しました。今回の現場は役者さん・スタッフさん共にとてもあたたかな人たちばかりで、とても楽しく毎日を過ごすことができました。人に優しくしてもらうと、自分も優しくしたいという気持ちがふつふつと湧いてきます。私はあまり要領がよくなくて、ちょっとした配慮や気配りをふと欠いてしまうことが多いのですが、不器用なりにも、優しい気持ちでいっぱいに満たされた、そんな現場だったように思います。そんな現場に携れたことに、私は本当に感謝しています。皆さん、ありがとうございました。
制作に関しては、ちょっと新しい試みをして、専攻外での大教室授業での宣伝活動や挟み込み、見応えのある立て看板作りを実行してみました。劇的に集客が伸びた訳ではありませんが、小さいながらそれなりに結果は見られたように思います。チラシの出来を褒める電話と問い合わせがあったり、立て看板をたまたま見て訪れてくださった人がいたり、1改正がたくさん来てくれたり。
だけどまだまだ出来たことはあったはずですし、反省や課題も見えた公演でした。もう一度、制作のお仕事をまとめたノート作りをしたいと思います。色んな外の現場を踏んでらっしゃるわらわらさんに色々教えてもらえたのはとても収穫です。場内整理についてはもっともっと色んな外の現場数を踏まなければなりません。今後の精進していきたいと思います。
カルロ酢君から回ってきていました。 思い出したので答えます。 バトン増えてきた…バトンコンテンツを特設せねばっ!!
☆自己紹介バトン☆
☆最初に回す人5人
回すのも止めるのも持てって!もいかんせん飽きた(爆)
☆お名前は?
嶋子(シマコ)
☆年齢は?
21歳。永遠の思春期
☆ご職業は?
・大学3年生のマクドクルー(極まれに大阪ドームに出没 笑) ・プラズマみかん主宰(プラズマみかんは演劇をしたりする団体です。) ・日本演出者協会関西支部所属
☆ご趣味は?
鼻歌でテンション上げすぎて大声で歌う。 全部自作曲。いつかCMソングとか作る人になりたい。 (この歌をちゃんと曲に起こしてくれる音楽クリエーターを募集しています)
☆好きな男性のタィプは?
あたたかな人。まっすぐな人。
☆特技は何?
・絶対音感。 ・吉本新喜劇 ・内場勝則
☆資格は何か持ってますか?
・英検3級(爆) ・書道4段
☆悩みは何か持ってますか?
・このどこまでもひねくれて自分よがりな性格について。 ・舞台生活今後の方向性。 ・骨について。 (頬骨が出ていること・鼻が低いこと・O脚のこと・背骨が曲がっていること) ・ショップ99の歌がストーキングの歌であることについて。
☆お好きな食べ物と嫌いな食べ物は?
・好きな食べ物…牛乳。 ・嫌いな食べ物…梅干としそ。
☆貴女が愛する人へ一言
自分に甘えるくらいなら、私に甘えてみてください。 (但し私は自分を大いに甘やかしますが、人は甘やかしません)
☆回す人の指名とその人についての自己紹介を
私の周りにいるひとたちはあたたかなひとたちばかりです。 愛すべき存在です。
2006年05月12日(金) |
やりたいだけではすまされない。 |
私自身について。
ただやりたいことだけをやっているだけではすまされないところまできているのでしょう。それは頃合的にも年齢的にも。本当にやりたいこと、そのために自分が今必要なものと切り捨てなければならないことを選ばなければならない時期のようです。
私はこの世に不必要なものなんてないと考えているけれど、ひとつのものを突き詰めるには、もう、広く浅くでは済まされません。かといって、やりたいことだけを選べるのかというとそうでもないのです。
これまで、たくさんの人に、たくさんの援助をもらって、私は世界を広げさせてもらいました。今度はたくさんもらったものの中から深めていくものを選ぶ番です。何もかもをやりきれたらいいですが、選び切り捨てることもひとつの技術を磨く手段なのです。
でもふんぎりのつかない私。選べないのではなく、選ぶことを先延ばしにしようとしてしまう自分がいるのです。
選んだものを受け入れて進むことは怖くありません。しかし、今、せっかくやりかけてきたものを、切り捨てるには未練が残るものがたくさんあるのです。一度手放すと、もう二度と自分の手には戻ってこない。それを覚悟する苦しさです。
ありがたいなあ。私の身の回りにはこんなにも勉強できるものがあるなあ。ひとつ企画があがる度、この企画ではこんなことが学べるな、こんなことを身に着けたいな。考え出すとドキドキと胸が高揚していくのが分かります。
でも、もう今まで見たいに何でもかんでも「やりたい」、その作品のことだけを考えていればいいという時期は終わってしまって、心の中で、「本当は私もやりたいのよ。凄くやりたいのよ!!」なんて叫びながら影でちょろっと、泣いたりして。
そのときやりたいものと、将来を見据えて今やらなければならないことはいつも同じとは必ずしも一致せず、不安で、最近ちょっと全てが手付かずになっています。時間は浪費してはいけないのに!!!私にはそんな暇はないのに!!!
ひとつ、ひとつ、順番に課題が与えられて、それをただこなしていくだけなら迷わずに、着実に進んでいけるのかもしれません。でももうそんな時期は来ないし、それをしない生き方を私は選んだのです。
きっかけが、ほしい。 迷わず進んでいける、きっかけが欲しい。
2006年05月10日(水) |
最終的に決めるのはあなただから |
人付き合いでうげっとなってしまうことがあります。それは「最終的に決めるのは○○ちゃんだから私からは何も言えない」という発言です。意外にも意外によく耳にする言葉で、でもこれらは私たちの世代ならではの言葉ではないかと思うのです。
何かを決断するとき、最終的に決定を下すのはその人本人だから、外野にいる私達は何もできない。何も意見を出すことはできない…という考えなのだそうです。
私はこの言葉にずっと疑問を抱いていました。本当にそうなのでしょうか?
最終的に決断を下すのはその人本人なのだから、せめて私は私で意見を持っていてもいいのではないでしょうか?決定権が自分ではないからといって、何も考えない、考えようとしない、考えることを放棄する、それは自由を託しているみたいで格好よく見えます。でもそれは時としてドライで冷淡な人間付き合いだなと思えてしまうことがあります。
自分の意見を持つということは、押し付けることではありません。自分はどうなのか。自分なりの思考を繰り広げる必要があるのではないでしょうか。それを自分の中に秘めておくも結構、伝えてあげるもその状況によりけりです。時にはじっと黙って話を聞いてあげることも大切だと思います。でも何より危険なのは、そこで何も意見が持てないということです。決断するのは本人だから、私はそのことについて何も考えないという、脳みそをストップさせてしまうところが、責任放棄(責任なんて最初から問われていないけれども)のようで、希薄な人間関係だなと思えてしまうのです。
でっかく例えると、「自分が意見を持ったところで今の政治は変わらないよ。」と言っているのと同じです。
自分以外のことには興味が持てず、身の回りで起きている出来事に引っかかりを持たない生き方。日常のでこぼこやトゲトゲを冷酷な目で見過ごしながら、そんな人たちが演劇やってるんだだの舞踊やってるんだだの一著前な主張をするのです。
こんなのでは議論にもなりません。大学に入って何かについて深く議論をするということが極端に減りました。それは芝居のことでも友達のことでも。何か意見を持ち出すと「最終的に決めるのは○○ちゃんだから私から何も言うことはないわ」この言葉で話は終わります。
悲しいな。誰かが売春してるとか援助交際してるとかドラッグやってるとか言っても黙って見ている人たち。それについて何かを考えや行動をしようとしない人たち。黙っていればそのことに無関係でいられます。意見を、責任を求められることはありません。
うんざり。
なんとなく生きているだけではだめです。なんとなくやっているのもだめです。特にものを生み出す人たちは、常に思想を求められているのです。今何が起こっているのか、それを見ている自分はどうなのか。ただでさい小さくてツルツルの脳ミチョの働きを止めてはならないのです。私はこの追及を忘れないで生きていきたいです。熱いって言われようが格好悪いと言われようが。
2006年05月09日(火) |
寂しさの中で生きている |
先日、初めて母と飲みに行きました。そこで、先日上演したプラズマみかんの公演の感想を聞かせてもらいました。母は演劇については全くの無知で、私の打つ公演を見ても、それは子供が運動会や学芸会に出ているのと同じ感覚でしか見ていません。私が舞台に立って、台詞を喋っていればそれで満足とでもいうような。吉本新喜劇みたいなギャグが入っていればそれが面白いというような。
しかし、そんな母から今回はちょっと意外な感想を聞いてしまいました。
それは、私の作る作品にはやたら「寂しい」だの「悲しい」だのをテーマとして描いてくるということであると。あんたは戯曲の中で寂しい悲しいをよく描くけど、母さんはあんたを寂しくさせるような育て方をした覚えはないけれど、あんたはそんなにも寂しさの世界の中で生きてきたのかと(苦笑)
私は両親から寂しい生活を強いられたと感じたことは一度もありません。
そんなことではなく、この世の中のめぐり合わせが喜怒哀楽の中のどれから始まったのかということを考えたとき、私は哀(悲しい・寂しい)以外には考えられないと思うことから始まっているのです。
・寂しいから恋人が欲しい。 ・寂しいからお金が欲しい。 ・寂しいから名誉が欲しい。 ・寂しいから友達が欲しい。 ・寂しいからメールをしたい。 ・寂しいから電話をする。 ・寂しいから命を生む。 ・寂しいから命を奪う。
寂しいはやがて喜怒愛(哀が変化して愛)楽に形を変えるかもしれないけど、本来は寂しさのカタチをしているのではないかと。たまたまそういう視点から世界を見ていると。
私は軽く笑いながら、母の育て方が寂しかったのではないということを主張しながら、それでも私自身が日々の生活の中で何らかの寂しさを抱いているからこそそれが滲み出てくるのかなと。母の育て方は寂しくなかったけれども、生きていて寂しいと思うことは山ほどあるのよ。でもそれは私だけではなくて、多かれ少なかれ、世界中の人が感じていることなのよ。
そんなことを考えながらポテトを注文すると、ポテトの中からカラカラに揚がったデカイ虫(ポテトと一緒に油の中に入ったと思われる)が出てきてビックリ!!虫も寂しかったのかしらん。
2006年05月06日(土) |
とっておきの白い羽と、薄汚れた黒い羽と。 |
先輩に見せる顔と、同期のアタシ達に見せる顔が全然違う子がどこの世界にもいるもので。先輩はその子を器量良しの可愛い子ちゃんと評価しています。でも私達から見るその子の姿は、先輩に気に入られているという自慢話と、同期の愚痴話と信頼を失くす行動。ちょっと注意されると泣いてしまう。どこの世界にもいるそんな子。
ちょっと腹立たしい。偽りの姿を見せていることが腹立たしいのではなく、私達にもその姿を見せてくれないのが腹立たしい。どうせなら私達にもその良い子ぶりを見せてくれたらいいのに。悪い箇所も同時に、良い箇所も見せてくれたらいいのに。そう思えてならないのです。
私も先輩とかと親しくなりたいし、色んなお話を聞いてみたいと思うのですが、自分からどうやって近寄っていいのかがわからず、いつも遠くから見つめている方です。どうせ親しくなるなら、飾らない本当の姿を知ってもらいたいと思うし、その代わりに先輩の飾らない姿を見て、真正面から向き合いたいのです。だけど本当の姿をどうやって見せていいのかがわからず、いつもオロオロしてしまいます。
先輩にはとっておきの綺麗な白い羽を見せて、私達には汚れた黒い羽を見せる。私はどちらが本当のその子の姿とかよりも、白と黒の姿を使い分けられてしまうところに寂しさを感じてしまうのです。それは、優先順位をつけられているようで、本当は私達にも黒い羽と一緒に白い羽も見せて欲しいと願うのです。
先輩とか同期とか後輩とかではなくて、その子なりの、その子らしいものが見えたらいいのになと思っているのに向き合ってもらえないことを、私は出会った時からずっと気にしていて、近くで言葉を交わせば交わすほど、その壁に悲しくなり、先輩がその子を誉めれば誉めるほどその子のことが見えなくなってしまうのです。
腹立たしい気持ち半分、悲しい気持ち半分。 この2つが混ざると、自分の正眼が怪しくなります。
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