★悠悠自適な日記☆
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2005年09月30日(金) 理想的リアリスト

 私は皆のことを不真面目だとか思ったことはない。皆真剣にやってる。そう思う。本当に。

 そこは認めてるのだから、次に考えるべきことは『やり方』ではないか。

 『結果』よりも『過程』が大事と唱える人がいる。私もそう思う。

 だけど、『過程』が良いものであるならば『結果』も出す方法がどこかにあるのではないか。『皆真剣にやったんだからそれでいい』は最低限のことで、『皆真剣にやったから結果を出せた』という道もあるのではないか。

 結果じゃないこともわかる。失敗もある。皆真剣なのもわかる。皆を信用する。だったら次にやるべきことは何だろう?

 考えることではないか。作戦を練ることではないか。一生懸命やったからそれでいい…なんてことはない。それを次に活かすことを考えなければ。いくら皆真面目だからといって同じことを繰り返していたのではせっかくのチャンスがもったいない。

 理想と現実は違う。皆最初は理想を抱いて行動するけれど、当然上手くいかないこともあって、でもそれは当たり前だから、その時に現実に失望するとか、諦めるとか、そんな必要もなくて、まず考えようって。振り返ってみようって。過去は振り返らないなんてカッコつけなくていいから、「あのときこうすればよかったー!」くらい言ってみたらいい。次の教訓になるだろうに。

 私だって夢を見るし、理想描くし、失敗するし、現実突きつけられるし、時間は嫌でも過ぎていくし、毎日は私を待ってくれない。

 前回いろんなことやりすぎて、想像した以上に忙しかった。それで皆に迷惑かけた。色々なことが中途半端になって、信用を少し失った。もっとひとつのことに集中したいと思っている。では次はどうするの?忙しいことは分かってる。分かっていればそれでいいのか。また同じことを繰り返すのか。また皆に迷惑かけて、中途半端になって、信用を失くすのか。

 少し考えればできることかもしれないのに、目の前の楽しいことにすぐ心を奪われて、考えることを忘れてしまう。新しいことを見つけるのは結構。楽しむのも結構。でももっと作戦立てようよ。自己満足で自己完結するなよ。

 理想→行動→結果→思考=前進
 理想→行動→結果→理想→行動→…=進歩なし

 このプロセスではないかと。 
 最近学校にいるとこんなことを考えてばかり。

 私はリアリスト。けれど夢見ることを否定している訳じゃない。理想を現実に近づけるためには、理想だけでなく現実を知ることも大切。そういう意味を込めてのリアリスト。


2005年09月27日(火) バトン回ってきたとさ3

今度は恋愛バトンのようです。カルロス君ありがとう。

■初恋はいつですか?

 5歳。
 向かいに住んでいた一つ年下の男の子が好きでした。
 でも、昔、何故か兄弟としか結婚できないと勝手に思い込んでいて、
 愛の障害に頭を悩ませておりました(笑)

■好きな人とデートで行きたいところは?

 おいしいものが食べれて、温泉があるとこ。

■好きな人と一緒に観たい映画ありますか?
 
 ドラえもんとクレヨンしんちゃん。
 こういうのをためらわずに誘える仲がいいな。

■好きな人に言われて一番嬉しかった事はなんですか?

 本当に好きになった人なの。

■好きな人はいますか?その人の好きな所は?
 
 いるよ。
 肉体(ウソ)
 新しいことをどんどん見つけつつも、時に振り返って私と歩調を合わせてくれるとこ。
 
■こんな人無理!っていうのはありますか?
 
 条件なしに、生理的にあかん人はあかん。

■浮気は許せますか?許せる人はどこまで。
 
 浮気無理。
 浮気以前に、浮気ムードを高めるようなとこからやちゃイヤ。

■同棲してみたいですか?
 
 してるわー。
 二人とも昼間いないので布団を干すタイミングが難しいですたい。
 でも、週に一度のスーパーにお買い物は楽しい!!

■愛情を感じる行動はなんですか?
 
 苦しんでる時に髪をなでてくれたり、手を握ったりしてくれるのとか。

■愛と恋の違いは?
 
 恋…純粋に好き。
 愛…好きを超えて相手を思いやれるようになったら。

 もっといい言葉があったはずだけど思い出せないゾ。

■一番長く続いた恋愛は?

 1年と1ヶ月。(現在進行形)

■お付き合いしたい有名人、芸能人は?

 強いて言うなら、藤井隆。

■究極の選択です。一生人を愛することしか出来なくなるのと。一生人から愛される事しか出来なくなるのどっちを選びますか?

 愛される方。
 どうせどっちも満たされないんだから、だったらラクな方を(苦笑)


■バトンをまわす5人。
 
 見塚さん
 狂さん
 ぴ〜にゅん
 オリさん
 金子りちゃーど


2005年09月26日(月) 空白病

 きっとそれは一種の病気なのでしょう。大学の芸術学科の中に存在するひとつの病原菌なのでしょう。そしてそれは感染病なのでしょう。

 空白のスケジュール帳が許せない病気。いくつもいくつも予定を重ねて、「私は積極的に活動しています」というアピールをしていないと気が済まない病気。自ら仕事を増やして、こんなにも忙しくなるくらい自分は頼りにされているんだって、そう錯覚する病気。

 数をこなすことに酔いしれて、浮き足立って、ひとつひとつの物事に腰を落ち着けて取り組むことができなくなっている。

 目の前には楽しいことがたくさん転がっている。人はそれをチャンスと呼ぶ。

 楽しいことがあまりにもたくさんあるから、その中から本当にやりたいと思うことを選ぶ、厳選する目を弱らせる。または、自分で作ろうとすることを忘れせる。そこにあることを当然のように思い始める。

 それは実は流されているだけではないか。

 本当はただ、一人で過ごす時間に耐えられないだけではないか。
 孤独に耐えられないだけではないか。

 数をこなせば自分の経験値は上がるでしょう。
 けれど数だけに囚われてひとつひとつが中途半端になると、何も得ることはできない。

 二兎を追うものは一兎を得ず。

 皆天才ではないので。
 大抵は凡人なので。

 ひとつの作品に全力を尽くす人と、複数にちらほらと手を出したがる人。
 作品を作ることになった時、完成度として高いのはどちらか。作品に対して、その作品作りに関わる人達に対して誠実なのはどちらか。

 作品に誠意を示すこと。そのためには、時として、ひとつに集中して、他のことを諦める覚悟も必要だ。

 軽軽しくたくさん引き受けるものではない。

 皆、ニートを馬鹿にする。社会の中で目的を見つけられない人たちを指さして笑い、「俺達は見つけてるんだぜ!」という顔をする。本当は見つけていないのに。大学の中なんていう狭い囲いの中で見つけた気になっている。

 井の中の蛙、大海を知らず。

 大学の中にはこんな病原菌が蔓延している。
 きっと私も感染者の一人にちがいない。
 空白のスケジュール帳を無駄にする勇気がない。

 でもそのことに気づいたので。
 病気は自覚することが治療の第一歩。
 気付いた私は何か変わるだろうか。

 私は、ある芝居ともうひとつ、どうしてもある創作者の作品に参加したいと思っていました。その人だから出たいと思っていて、約束もしていました。だけどたまたま稽古の時期が重なってしまい、どうしようと悩み、悩んで、悩んだ挙句、先に企画として上がっていた芝居を取りました。どちらも本当にやりたいことだったけれど、作品と、それに関わる人たちにとって誠実な道を選びました。悲しかった。その人とのチャンスはもうないので、本当に諦めるのは惜しくて辛かったけれど、他の皆も一緒に誠実になって取り組んでくれるのならば、私は後悔しないでしょう。そうなることを祈ります。
 


2005年09月23日(金) 遠い音楽〜田中山君のうさぎ〜

私が描いている田中山君。

田中山君は無口だ。

田中山君は痩せている。

田中山君はちょっと背が低い。

田中山君はうさぎを飼っている。

田中山君はにんじんが嫌いだ。

でも田中山君はにんじんを食べるうさぎは好きだ。

田中山君は孤独だ。

みんなの中で孤独だ。

田中山君は音楽を愛している。

メンデルスゾーンの音楽を愛している。

メンデルスゾーンが聞こえなくなった田中山君は引きこもる。

メンデルスゾーンが聞こえなくなった田中山君はうさぎの赤い目を見て、死の世界を創造する。

赤い死の世界を創造する。

田中山君は探している。

遠い音楽を探している。

それを見ている私。

私は、田中山君を愛している。

もっと私を見つめて。

見つめて、見つめて、

赤い世界に連れて行って。


田中山君の、うさぎ。



2005年09月12日(月) 創るときがきた。

 最近、心が動かないのです。芝居を観ても、ダンスを観ても感動しない私がそこにいます。

 高校生の頃から月2回のペースで劇場に足を運びます。作品を観る目は向上しているかもしれませんが、肝心の作品の質が上がりません。むしろ昔の方が学生ご招待券などで良い作品が観れていたので観劇の質は下がっているのかもしれません。

 しかし劇団の規模だとか、著名なダンサーだとか劇作家だとか、そんなことを基準にしている訳ではなく、小さな劇団のかすかな感動を期待して劇場に足を運ぶのです。だけどそれすらも私は享受できないでいるのです。作品に心が動かないから、そうなってしまうと劇場にいる時間を作品の批評と分析に費やすばかりになり、評論家でもないのに頭の中を分析結果が駆け巡り、浮かない顔をして家に帰ってくることになるのです。その作品が劇場を後にした私の人生に何の影響も与えないのです。

 それでも私は微かな感動を夢見て懲りずに劇場に通うのです。それが1年に一度、いや、人生に数える程しか訪れない感動でも、それが舞い降りた時の背中の震えは、何に変えることも出来ずに私の記憶に刻み込まれるのでしょう。

 だけどそんながっかりした様子で劇場を後にしながらも私が私を少し好きでいられるのは、そこで芝居やダンスを観ることを止めようと思わないところにあります。もし、それがつまらないもので、自分自身に何も影響を与えないものであったなら、逆に自分が欲しているものは自分で作り出すことはできないだろうかと発想を変えることができるのです。

 私があんなにも裏切られた気持ちになりながらも劇場に通うことを止めないのは、私自身が背中もも足も唇も震えてしまうような作品を作ってみたいと願っているからなのかもしれません。

 そういうことが分かってくると、自然と次に自分のやりたいことが見えてきます。創るときが来たのです。

 重い腰を上げて、私は動き始めます。

 次に作品を発表するときは、私自身をもっと浮き彫りにしていることでしょう。人の力に頼って心を動かせなくなった私には、自分の力で動かしていくときがやってきたのです。

 いつまでも待ってはいられない。時間は私を待ってくれない。

 そのとき、今日よりもひとつ、私が明確になることでしょう。


2005年09月09日(金) 距離

 私の母とは、たまに会って、一緒にランチをして別れるくらいの関係がいい。

 これが、20年かけてやっと見つけた私と母の関係を示すひとつの答えだ。

 養ってもらっておきながらなんて親不孝者なんだ!と言われてしまうかもしれない。母とずっと笑って一緒に過ごせないという罪悪感にずっと悩まされてきたけれど、最近になってやっと、それでもいいんだと受け入れることができるようになった。

 人には、一緒に過ごすのに心地の良い距離感というものがある。それは家族だからとか恋人だからとか友人だからとか、そんな肩書きは関係なく、個人個人が持っているものによって違う。一緒に過ごすのに心地の良い距離は、人によって違う。

 たまたま、私と母との心地の良い距離感はこうだったというだけのこと。

 昔あったことを今になっても恨んでいる訳でもなく、嫌いな訳でも、養ってもらっていることに感謝していないわけでもない。母は偉大だ、そう思う。

 でも、私と母と、そして父と弟と、私の家族を取り巻くこれまでの過程が、確実にこういう結果をもたらしたことには違いない。家族のそれぞれが生み出した私たちの距離感、近くにいると崩壊するから自分を守るために出来上がった距離感。こうやって出来上がった私と母のある一定の距離感。

 誰かが可愛そうと言うかもしれない。近くにいることに喜びを感じることができないなんてと非難するかもしれない。でも私は幸せだ。今の距離が、幸せ。一緒にい続けるとろくなことにならないから。ずかずかと踏み込まざるを得なかったあの頃より、今の、ちょっと距離をとった母と過ごす方が私は幸せ。

 リビングから、母が教えているピアノの音が聴こえる。
 以前よりも鮮明に聴こえるピアノの音。


2005年09月08日(木) そこにはなにもないのに

 現代社会におけるひとつの小さなコミュニティ。それは社会の小さな縮図であるのかもしれない。

 それは女の子。女の子のグループ。仲良しグループ。いつも群れてるグループ。いつも隣の席に座りあうグループ。トイレ一緒に行くグループ。お昼ごはん一緒に食べるグループ。野外活動もグループでないと行動できないグループ。

 でも我慢してるグループ。群れてるだけのグループ。隣に座りながらトイレでだべりながらごはん食べながら野外活動しながら、我慢してるグループ。だけど人はそんなに長く我慢できないから、その子がいなくなった時にわーっと悪口言いまくるグループ。やがて陰口で飽和してしまうグループ。

 きっと、言うべきところで自分の意見や考えが言えないから陰口になるんだろうな。そうやって育ってきてしまったんだな。でしゃばるんじゃない、黙っておけば自分は悪者にされなくて済むんだから。そういう日本社会の影響をモロに受けてしまったんだな。あーあ。

 それは思春期の微妙で曖昧な時期によく見られる光景で、私もそうだった。だけどこういうのは自然となくなってしまうものではないか。人と我慢せず仲良くできる方法を見つけられるようになる。我慢するより楽をする方法を見つけられるようになる。大人になるにつれて世界が広がると、自分の身の置き場を選ぶ範囲が広くなる。自分に合った場所を選べばいい。

 ここは大学。もはや学校だけの生活ではないはず。グループに頼らないと生きていけないような狭い世界ではないはず。それなのに、彼女達はいつまでしがみついているのだろう。ふへっ。

 ちゃんと自分の意見は相手に伝えて、その場で解決したらいい。それで受け入れられずに苦しくなったら一度孤独になってみればいい。そうすれば、意外と見つけられるかもしれないのに。

 今思えば、私は孤独を選んだときに本当の友達に出会えたと思う。

 一人一人は悪い子じゃないのを知ってる。仲良くしたいとも思う。だけどそうやっていつまでも自分の意見が言えずに、グループで群れている子を見ていると、正直、退いてしまう。あぁ、私のことも悪口言われてるんだろうなーって思ってしまう。見えないグループの壁に近寄りがたい。

 今、そこには何もないんだよ。

 私はそうやって彼女達を見ている。

 小さな社会の縮図。大きな社会の現状。


2005年09月05日(月) 兄さん!いったいいくつになったんだよ!?

 任●堂の、某髭のオヤジが今年で20周年を迎えたそうです。一時はチャリボーイがモンスター150何匹集めるゲームに勢力を奪われ、日の当たらない生活を強いられていましたが、20周年ということで最近またちらほら姿を見かけるようになりました。

 少し前の話になりますが、B−D●SHという怪しい男3人組のユニットが、この髭兄弟たちの音楽をリミックスしたことで話題を呼びました。

 何故だかとてもテンションが上がります。
 身体の内部からドキドキします。

 街中でファイ●ル●ァンタジーや、ド●ゴンク●ストの音楽をテレビや街中で耳にすると「お!」と嬉しくなります。でもそれとは違うのです。いい曲だからとか心に響く音楽だとかそんなことは関係なしに、あのちゃっちぃ音楽に私達は過敏に反応するのです。

 某髭の兄弟と共にこの20年を駆け抜けた私達の体には、もう、あの音楽が刻み込まれているのではないでしょうか!?うん、間違いない!!

 髭の兄弟がキノコを食べ続けているうちに、私達はこんなにも大きくなりましたよ。

 私が娘を産んだら鞠緒と名づけたいです…。


嶋子 |MAILHomePage

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