★悠悠自適な日記☆
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2005年06月22日(水) フェムリブ!

 大学の文芸学部棟で変質者が出ました。私がいつも使っている校舎です。被害に遭ったのは、私の仲良しの友達。空き教室で一人で作業をしていたら、入ってきて話しかけてきて、ズボンのチャックを…いわゆる露出狂です。幸い彼女はすぐに逃げたので、身体に被害はありませんでした。

 友達は運悪く、先月も二度、下校中に違う場所で違う変質者に被害に遭っています。このごろ男性不審気味で、男の子が側にいると身体がムズムズと痒くなって、授業にもまともに出られないという状況が続いていました。最近やっと落ち着いて元気を取り戻してきたところで今回の事件。彼女の横にいて不憫でなりませんでした。(それでも被害届を出す際に取り乱すことなくしっかりと話ができた彼女はとても偉いです。)

 私達女は、日々、自分の身を守ることを考えながら行動しなければなりません。満員電車に乗る時、夜道や人気のない道を一人で帰らなければならないとき、男の子と接するとき。今や学校の空いている教室で自習をすることですら自分の身を脅かされます。

 私も一人で人気のない道を歩くのがとても怖いです。突然腕を捕まれたらどうしよう…。口を塞がれて、体を押さえつけられたらどうしよう…。私は歩く背後から足音、車やバイクのエンジン音が聞こえてくるだけで身が震えるし、車とすれ違う時も、夜なんかは心臓がドキドキします。露出も控え、電車に乗る時は腰から下に常に気を遣っています。

 力ではどうしても勝てないのです。快感を得るための道具にされるのはいつも女なのです。泣くのは女なのです。ぼんやり道を歩くことですら許されないのです。防御することでしか身を守れないのです。

 身体に傷が付く、精神が崩壊する。女は突然道具扱いされ、その後汚物にまで成り下がる。それならばいっそナイフで刺されて殺される方がよっぽど楽で、女としての自分を守れるんじゃないだろうか…?殺されるより、最低で、最悪な、屈辱的で、生き地獄もいいとこです。「お前も感じてたんだろ?」なんて言われた日にゃ、その場で私は死んでやる。空の上からそいつの股間を踏みつけてやる。

 オンナはそうやって生きています。だけど、こんな危機切迫した状況を、男は驚く程理解しておらず、私はその無知さに驚いてしまうのです。この感覚は女が教えなければ理解できないものなのでしょうか。実際に自分の身内が被害に遭うまでこの問題に直視できない、そんな男たちに、女に対して思いやりの言葉を選べないその男達に、私は変質者と同等の嫌悪感を抱いてしまったのでありました。


2005年06月16日(木) 飢餓

 私は飢えている。何もない時間を餌にして食べているはずなのに、私はどんどん空腹になる。喉はカラカラだ。

 でもこれはきっと自分の中から何かが生まれる前兆なのだ。私が求めているものは、この空腹感が積もり積もってやっとカタチを表すのだ。それは身体と心が知っている。だから今は、この空腹感を身の回りにある陳腐なもので満たさないように、じっと耐えてみよう。この飢餓感が限界に来た時に見えたものこそ、私が本当に食べたいものなのだろう。

 モノは、こういった飢餓感から生まれてくるのだと私は考える。

 私を取り巻く世界を、私は笑いながら、だけど心では空腹で飢えまくった眼でじっと睨むように見ている。そのひとつに、大学。私の学科は、モノを生み出す人間の養成を目的として作られた場所だ。演劇と、コンテンポラリーダンスを主に勉強する。だけどその気になればこれ以外のこともたくさんできる場所だ。

 自分の中に何らかの飢餓感や空腹感を抱いているからこそ、こんな場所にやってきたのではないか。少なくとも私はそうだった。演劇やダンスをやってきた経験の有無もどうでもいい。それよりもここには飢えた眼をした人間が集まってきているものだと思っていた。貪欲に何かをむさぼり、生み出そうとする、そういう空腹感に喜び、苦しむ人間が集まるのだと思っていた。

 大学には先生がいる。授業の実習では、先生が私達に発言の機会を与えてくれる。先生が私達に踊る機会を与えてくれる。その時間にどうして食らいつかない!どうして下を向いてうつむく?どうして簡単に遅刻する!?稽古を休む!?しゃべろうよ!踊ろうよ!楽しもうよ!みんなのそういう自主性にイマイチ欠ける態度がますます表現しずらい環境を作ってしまう。

 ああ…この子達には飢えがないんだな…と、思う。今の生活で、今の自分に満足してるんだな…と、思う。

 別に演劇とかダンスやりたくないならやらなくていいと思う。自分は確実に飢えていて、それを他のことに向けたいなら、そうするのがいいと思う。ただ、今ここには、演劇をやりたいと、ダンスをやりたいと、飢えた人間が集まってきているわけで、これはもう、そういう集団なわけで、そういう集団の和を乱すようなことはしてほしくないと思うのだ。

 こんなときこそ自由を主張する人がいる。「私がどんな授業を取ろうが、どんな気持ちを持って授業を受けようが、みんなに迷惑かけてないし、私の自由だ」と。確かに本質はそうかもしれない。集団の中に一度入れば、自由が自由でなくなる場合もある。自由をバカのひとつ覚えみたいに擁護して、振りかざしていい気になっている人、いい人ぶっている人、一度グーで殴って食い潰してやろうか。私達は飢えていて、何かを生み出そうと必死だから、そんな集団の意志を読み取れない人間は大迷惑なのだ。

 私は飢餓に苦しむ人間とだけ作品を作りたい。

 ここには、親に高い学費を払ってもらって、下宿させてもらって、その上お小遣いをもらって、家に帰ればおいしいご飯が用意されていて、洗濯されていて、優しい両親に温かく迎えてもらえる…そんな人間はいっぱいいる。それはとても素晴らしいことで、感謝すべきことで、けれどもそこで満足して終われば、それは「満腹な人」なのだ。そこから何も生まれない。それでも且つ飢えを感じる人、その飢えをもっともっと追求していける人こそ「モノを作る人」ではないか。誰が何と言おうと、私はこの定義を曲げない。

 「やりがいがある」…とか、私は言わない。私はいつからか、いくら芝居をやっても、書いても、作っても、「やりがいがある…」なんて感じることがなくなった。作るのは楽しいけど、その分疲労感や精神的苦痛も大きくて、「やりがい」を感じる余裕がない。やってもやっても私の空腹感は積もって、何かを掘り起こすかのように次の作品へと向かっていくのだ。その作品だけで満足できるのなら学園祭の屋台で十分だ。そんなのじゃないんだ!もっと切迫しているんだ!私は!

 私は幸い、自分のやりたいことがだんだんと明確になってきている。そのために、学びたいと思ったことは今学ぼうと思うのだ。そう思うと、自分が本当に学びたい授業は、とてもじゃないけど休めない。今日はしんどいから〜。他にやることあるから〜なんて言えない。だって自ら意志して学びたいんだもの。それに、自分が本当に学びたい場では、そこに集まってきた人たちとも上手く調和したい。だってそこは集団だから。そう思うと、そこにいる人たちを裏切るような行為、不快感を与える行為なんてできない。そう思えば遅刻もできないし休むこともできない。本当は当たり前なんだけどなあ。きっと大学で、やりたくなくても「単位取らないと」があるから、難しいんだろうな。


 私はお腹が空いている。喉が渇いている。

 満腹で、ツヤツヤした顔の人間を見ると、食い潰してやろうかという狂気に襲われる。
 
 ここには何でも揃っている。何でもできるようになっている。何でも試してみることができる。だけど何でもできる分陳腐なもので満腹になる癖をつけてはいけない。

 そう言い聞かせて、私は戦いに挑んでいく。
  
 


2005年06月10日(金) うたごえ

 私の歌声は、ちょっと違うって言われる。

 「シマコが歌ってるとすぐわかるね。」と、言われる。合唱なのに、私の声だけは分かるらしい。それは今に始まったことではなくて、小学校でも中学校でも高校でも言われていた。

 絶対音感があって、調律されていないピアノの音の狂いぐらいまでなら敏感に分かるので、さすがに自分が歌っていても大幅に音をハズしていることはないと思う。だけど一応心配になって、友達や先生に「私、音ハズしてる?」と聞いてみるのだけど、やっぱりそんなことはないと言われて、むしろ、私の声で音取りをしているくらいだと言われる。

 ガラガラ声とか、特別目立つ声をしている訳ではない。至って普通の声。舞台では、本当はあかんけど通らない声を声量でカバーしているくらい。音域は3オクターブ。(←演劇始めてから声が低くなったけど。)ソプラノ声だけど、音楽の授業で配られる楽譜程度なら、どのパートでも音が苦しくて出ない…なんてことはない。ラクにゆったり歌っていると思う。

 声楽を習ったこともない。テクニックとかない。歌うことは本当に好きで、本当は習いたくて仕方なかったけど、母が「歌ができても職業として食べていけないからそれよりピアノとバイオリンやりなさい。」という方針の人で、どうしても習わせてもらえなかった。(でも今の少子化時代になってみると、ピアノこそ職にならんぜよ!…と母に言いたいけど、演劇の方がもっと職にならないのであまり言えない…笑)

 でもだからこそ、小学生の時から音楽の授業は本気(笑)。先生から言われたことは全部覚えて帰った。時々人のいない原っぱや公園に行って一人で歌った。自分の歌をテープに録音して、あまりにもの下手っぷりに泣きそうになりながらも、どこが自分の弱点か分析していた。とにかく好きで歌っていた。自己流も甚だしいけれど、それでとりあえず人に恥ずかしくないくらいは歌えるようになったと思う。

 だけど私の声はみんなと調和せずに、浮いた状態になっている。なんでだろう。声を合わせて歌っていても、私の声だけが1本、ポーンと出ている感じがする。

 目立たないように、声を小さくして歌えば調和するかもしれない。けれどある程度声を出さないと音程が取りにくいし、なにより歌っていて楽しくない。

 うーん、どうしたものか…。やっぱりちゃんとボイズトレーニング受けないとだめかなぁ。


2005年06月08日(水) 楽譜はいらない

 久しぶりにピアノの話を。

 昔から、クラシック以外の楽譜はほとんど買ってもらえなかった。流行の曲にのめりこむとクラシックの練習をしなくなるからという理由で。そして、大して欲しいとも思わなかった。販売されている楽譜は、誰でも弾けるように簡単に作られていてお手軽だけど、音が少ない気がして、つまらなかった。

 大好きな曲は、自分の耳で何度も聴くから自然と覚えていて、それをなるべく原曲に近づけるように鍵盤を探りながら弾いていた。自分で曲を作ることと、体が覚えている音楽を手探りで弾いていくことが、私とピアノの唯一の遊びだった。

(だけど、こればっかりやってると母親が怒るので、こっそりやってたな。)

 おかげさまで、大抵の曲は、何回か聴けばメロディラインに伴奏をかる〜くつけて、アレンジして弾けてしまう。(まぁそこそこピアノやってれば誰でもできるんだけどさ!)楽譜に頼らない癖がついている。これはちょっと自慢!(その代わり楽譜読むのが遅いのねん…。)

 今日、学校で久しぶりにピアノ弾いてみた。今でも鍵盤を見ると胸が一瞬グッと締め付けるけど、昔みたいに涙が出たり吐いたりしなかった。時間と、出会った音楽が癒してくれたのかもしれない。

 悲しいかなクラシックはあんなに弾いて、あんなに練習したのに、楽譜を見ないと全然思い出せない…。難しい曲だったせいもあるけど、体が覚えていないことにちょっとショック。だから、大好きな曲を、耳コピでちょこっと弾いてみた。

【ナツカシの耳コピ音楽ラインナップ(笑)】

・ZABADAK『遠い音楽』
・ZABADAK『満ち潮の夜』
・林原めぐみ『give a reason』
・林原めぐみ『raging waves』
・ママレードボーイ『笑顔に会いたい』
・高橋洋子『魂のルフラン』
                           …など。
                         
 すると、同回生の亀ちゃん(♂)が私の弾くピアノ版耳コピ『give a reason』をいたく気に入ったようで、次の舞踊公演で弾いて!みたいなことになった。確かにこの曲はピアノでイントロ弾くと物凄くいい!原曲がカッコイイせいもあるけれど、私もこのイントロは初めて弾いた時、背中がゾクゾクっとしたのを覚えている。今でも弾いていて気持ちいい。

 林原めぐみの曲は、彼女のことを全く知らなくても、曲や歌詞を気に入って好きになってくれる人が多い。亀ちゃんもその一人になりそうだ。

 ただ大好きな曲を鍵盤の上で手探りしているだけだったけれど、そのひと時がなんだかとても楽しくて、ちょっと音楽熱が再発しそう…。忙しくて音楽を聴く量が減っている最近だから、自分とシンクロできる音楽をどんどん探していきたい。

 というか、作りたい。ピアノが私の中から消えてから、もう二度と無理なんじゃないかと諦めかけていたけど、確か昔は目標のひとつとして持っていたハズ!(だって3年くらい前のこの日記に書いてあるもん。)もともと私は自分の気持ちは言葉よりも歌やメロディとして浮かんで、それを敢えて言葉に変換する作業を繰り返していたんだけど、あまりにも言葉にしすぎて最近言葉が優先するようになってきた。そんなハズじゃなかったのに。感覚が鈍ってしまっているのかもしれない。

 改めて思い出したのでもう一度。

 私は、自分で打つ公演の音楽は、自分で作りたいのです。
 メロディから公演を起こすことが夢なのです。

 研ぎ澄まそ!感覚を!
 またこっそりピアノを弾いていこう。楽器を触っていこう。歌をうたっていこう。音に触れていよう。

 だけど、感覚が戻れば、昔の思い出が再び血を吹かないかと少し不安。

 次の舞踊で弾くなら、それまでにせめて指が動くように鍛えなおそう。少しずつやってみよう。(しっかし公演でピアノって使えるんかなー?)

 そういえば、作曲家の管野よう子(♪何飲もっかな!ビタミンウォーター♪…のメロディ作った人、カウボーイビバップや坂本真綾の楽曲をプロデュースしてる人)は、昔からピアンは一度も習ったことがないけど、耳で音楽を一度聴いただけで弾けてしまう人だったらしい。脳ミソの中は全てメロディで、それを言葉を発するのと同じように音楽に構成してしまえる人だったそうな。天才っているんだなぁ…。




今日書いてる日記、高校生の時に書いた日記と比べても、書いてる内容かわらへん…。


2005年06月05日(日) 泣いているおもちゃ箱

『物を大切にしよう』

 きっと、幼い頃から当たり前のように聞いてきている言葉だ。何故だろう。無駄なものをたくさん買うとお金の無駄遣いだから。物を大切にしないとゴミが増えるから。物を大切にしないとバチがあたるから…。

 確かにそれもある。けれども私が最近感じていることは、物の扱い方は、人との接し方に比例するということ。

 物を大切にするということは、物を大切に扱う『余裕』がその人の中にあるということだ。汚れたからといってサッサと捨ててしまう。ちょっと磨いてやればまだ使えるのに。ほら、物に気をかける『余裕』がそこにない。見当たらないからと言って、新しいものを買う。ちょっと探せば見つかるかもしれないのに。いや、常日頃きちんと整理しておけばなくならないのに。新しいものを購入することにより、そこにあるはずの古いものはやがて忘れ去られてしまう。物に執着する『余裕』がない。

 人との接し方も同じではないか。きっと物の整理が出来ない人は、人の気持ちの整理もできない。いつも散らかしっぱなしで、やりっぱなしで、次々と新しい物に目を奪われては古いものを忘れてしまう。こじれてしまった人間関係も、きっとそのまま修復されることなく、自己完結して次に向かっていく。まわりは?ひっくり返ったあなたのおもちゃ箱をつきつけられる周りの人間はどうなるの?そのおもちゃは誰のものなの?片付けるのは誰なの?
『余裕』がない人は、きっとそこまで考えられない。何故なら『余裕』がないからだ…。

 『物と人は違う』と反論する人もいるかもしれない。でも、そんな苦し紛れの反論をする人こそ、物を大切に出来ない人。自分に『余裕』のない人。または余裕がなくなるように自分を追い込んでしまう人だ。身の回りはおろか自分自身の整理も出来ない人だ。

 きっと不器用なんだろうな。私も不器用だからよくわかる。だけど、ちょっと気にかけるだけなのに。今、ここにあるものがなくなったら嫌だな。汚れたら嫌だな。だったらせめていつも置いておく場所を決めておこうか。せめてちょっと磨いておこうか。それだけなのに。私は、目の前で物を粗末に扱われているのを見ると、「あぁ、きっと自分もこんな風に大切にしてもらえないんだな…」って悲しくなる。

 手に入れた時は大切にしようと決意する。でも、目の前に更に新しいくて楽しくて魅力的なものが出てくると、その決意が鈍って「いつかやろう」に変わる。しかし、世の中の流れは激しくて、どんどん新しいものが出てくるから「いつかやろう」も、やがて忘れられてしまう。

 だから、大切にしなきゃ!
 大切にしているものは、今、気にかけないと。
 やりかけたことは、今、やり遂げないと。
 ちょっと散らかったら今、片付ける。
 今が大切で、今が勝負なんだ。
 余裕を持つことができるのは今なんだ!
 
 古くなった自転車をメンテナンスしながら、散らかった部屋を片付けながら、大切なものと、人について頭をめぐらせています。


嶋子 |MAILHomePage

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