★悠悠自適な日記☆
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2004年11月23日(火) 制作のお仕事!!

 今日は制作会議なるものが行われました。今後の制作業務についてのお話し合いでした。

 そこで「どうして制作やりたいの?」という質問を受けました。以前「君は何故演劇をするのか」(2003年10月24日参照)というタイトルでも書きましたが、どうしてやりたいの?という質問はなんだか苦手です。その場は当たり障りなく答えたのですが、そのことについて帰り道でぼんやりと考えてしまいました。

 周りの班員は「制作の仕事はやりがいを感じる」とか「チラシのデザインがやりたい」「場整の仕事が好き」等というような発言をしていたのですが、私は制作の仕事をしていて、やりがいがあるとか、好きとか、何がしたいとか、そういう欲があまり湧いてこないのです。そこに制作の仕事があるから制作をやるというような感じで、それは制作ではなくても音響でも舞監でも照明でも舞美の役職に就いていても同じだろうな〜と思うのです。まぁパソコン使ったり事務作業したり外回りしたりするのは好きな方なので、他の役職よりは制作が向いているかな〜という感じはするのですが。

 それは向上心がないという意味ではなく、制作の仕事をする上で自分の意志はあまり重要でないなと思うということなのです。他の人はどう思っていても一向に構わないのですが、例えば仕事にやりがいを感じるのは結果論であって、私はやりがいを感じるために制作をしているわけではないのです。場整にしてもチラシのデザインにしても、自分のが好きかどうかなんてどうでも良く、私が一番にこだわるのは、観に来てくれたお客さんにより良い作品と観劇環境を提供することだと考えます。自分が何をやりたいかよりも、もっと切迫したモノが自分の中に潜んでいる気がします。

 制作の仕事をしていて、他の役職と1番違うのは、お客さんと直に触れ合う機会が多いということで、人を見ることが必要になってきます。より良い作品と観劇環境を提供する為に、思いついたことを実現できる力と能力を身につけていたいと思うのです。その為の向上心は尽きることなく、果てしない。

 私は制作という範囲の仕事の中で、何が好きでやりたくて、何が好きじゃなくてやりたくない…という差があまりありません。でもだからこそ何でもやろうという気になれるのかもしれません。自分の好き嫌いよりも、外に出た時に自分が使い物になるかならないかという緊張感の方が大きくて、仕事を選んでる場合じゃないよ!と。(もちろんできるようになるために優先順位を付けて選んでいくことはあるのだけれども。)

 「○○できる?」って尋ねられた時に「できない」と言えない自分でいたいです。

 私はこのように考えるのだけれども、何でもやりたいって言うと、自分の意志がないように思われそうで、この質問には困ってしまいました。

 芝居を作っていてもそう。私は「好きだから演劇するの!」とはあんまり大きな声で言えないのです。好きという自分の意志とはまた別に、表現せずにはいられない何かが自分の中に潜んでいるのです。だから何かにとりつかれたように創作を続けます。作品に対するそういう思いがあるからこそ、制作の仕事もまた然りなのです。

 大分屁理屈こねています。
 
 だって私、屁理屈野郎ですから!残念!(笑)

 



 


2004年11月11日(木) 内場夫妻ヲオモフ。

夫婦が同じ現場で働けるって、ほのぼのしているようで、実はすごくシビア。そんなことを考えると、いつも内場夫妻が頭をよぎる。

私は夫婦ではないけれど、少しだけ似た境遇にあって、もし自分がその道を選べば、同じ現場で何かをすることが可能だ。

だけど私はそれを避けてしまう。相手に私を一人の人間として見てもらいたいという期待と、現場に対する憧れはまったく違って、私はそれを区別しているつもり。(あくまでもつもり。)でも。その2つの意志を混在して壊れた人たちをたくさん見ている。だから、恐い。壊れた時のことを考えると、恐い。だから尻込みしてしまう。もし壊れた時に立て直す自信がないからだ。自分に自信がないからだ。

でも、私は演者なのに。現場ではそれだけの扱いでいいのになって。

そのためには自分がもっと自分が成長しないといけないんだなぁ〜。

一見良さそうな条件は、人以上の努力を要する。

この際だから人以上の努力もアリやけど。

内場夫妻は凄いな〜。




なんだこのとりとめのなさすぎる日記は!!


2004年11月10日(水) 遠い音楽

毎日学校で色んな人に出会い、話をして、様々な刺激を受ける。充実した毎日である。私の周りは、意欲的に創作活動に励んでいる人が多い。そして私もそのうちの一人。私の活動が、ほかの人の刺激になって意欲を掻き立てているという話も時々耳にする。創作・芸術・アート・演劇・舞踊…耳を塞いでも塞いでも聞こえてくるこの言葉。

私は良い刺激を受けているはずだ!そうであるはずなのに、私はとても窮屈で、苦しい。

今の生活を送るようになって、ひとつ、失ったものがある。

音が遠い。とても、とても。

私は昔から、人の言葉が、意思が、温度が、自然が音で聞こえていた。自分の気持ちは言葉にするよりも、音にして、そのメロディを口ずさんでいる方が楽だったのである。音にしている瞬間、私は自由だった。

でも、今は、すべてがそのまま。人の言葉も、自分の気持ちも、やっぱり言葉は言葉のまま聞こえてくる。

それは、自分の気持ちや感じたことを、言葉に翻訳するように求められてきたせいかもしれない。そしてその作業は、創作をする上で、執筆をする上で、悪くはない作業なのだろう。

思ったことや考えたことを的確に言葉にして、それを伝えることのできる喜び、そのことには喜びを感じる。だけど失った音、これはどこにいってしまったのだろう。あんなにも身近だった音が、今の私にはすごく遠い。

私は芸術に、アートに、創作という言葉にがんじがらめになっているのかもしれない。今、私は見られることにとても恐怖を覚える。私は私で、私のままなのに、私がこれから示すものがこれを私の全てだと思われたら恐いなという恐怖、重圧。それは今の自分に自信がないからで、自由に、自由に、自由に、自由に…自由になりたい。自由なはずなのに、自由が何かわからない。もっと自分勝手に生きれたらいいのに、私は振り回される。私はクリエーターでありながら、アートに殺される。

殺されてなるものか。失った音を失ったままにしておくものか。

今やっていることが一段落着いたら、もっと他のことに目を向けよう。勉強をしよう。本を読もう。些細な日常の動きに注目しよう。自分や人の気持ちの変化にもっと敏感でいよう。

もう一度、音楽が私の手の内に還ってきますように。


2004年11月02日(火) 好きだった人・好きな人

 その人は最近新たに仕事を覚え、社員さんがいなくても閉店作業を取り仕切れるようになった。よって、最近は私と2人で仕事をする機会が増えた。

 その人のことが好きだった頃は、まず話すきっかけが掴めなくて、毎日オロオロして、話ができないから仕事がかみ合わなくて、やっぱりオロオロして、後悔して、家でちょっと泣いて、悩んで、友達に相談して、勇気を持ってまた挑んで、やっぱり話せなくて、後悔して…そんな悪循環を繰り返していた。

 でも今は、その人のことを何とも思わなくなった今は、普通にお話ができて、(それでも私は男の人と喋るのが苦手で、他の子と比べると話せないのだけれども)分からないことも聞けるようになって、相手のことも少しずつ理解できるようになって、背伸びをしなくてよくなった。無理しなくなった。楽になった。

 もうちょっとお話できたらなぁ…。あれだけ悩んで、思い詰めて、ちょっと泣いて、それでも欲しかったものなのに、今それを手にしても、私の心はちっとも動かない。その人の何に幻滅したわけでも、何に冷めたわけでもないけれど、何も感情が起こってこない。

 それはもう、過去の人なんだなぁ。

 目の前に過去の人がいて、望んでいたささやかな夢が叶う。だけどそれでも私は目の前の過去の人よりも、目の前にいない今の人のことを想っている。今側にいないことを寂しく思うけれど、私は、今の、この気持ちを、今に注いでいたいと思うのだ。

 今の人への揺ぎ無い思い。


 吐いてみただけ。ゲロっとな。


嶋子 |MAILHomePage

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