★悠悠自適な日記☆
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2004年06月27日(日) MY演劇論

 いつだったか、この日記で「何故、演劇なのか」ということを聞かれて困った…という内容の話を書きました。(2003年10月24日「君はどうして演劇をするんだ」参照)演劇の何が面白いのか、それがわからなくて私はずっと悩んでいたのです。

 私は芝居を観れば観る程、芝居をやればやる程(といってもそんなにやってないのだけれども)「演技をする」ことに興味が持てなくなってきています。最初はそれに強く憧れてこの世界に足を踏み入れたハズなのに、今「演技力」とか「感情移入」がどーのこーのと言われると、背中がムズムズします。確かにそれらは技術として大切なことで、面白いことで、その追求は飽きることはないのですが、「演技力」なんて、いくら鍛えてもあくまでも舞台に立って表現するための容器にしかならないのです。決して中身にはなりません。だからそこだけに固執するのは非常に馬鹿らしいなと。最近はそういう風に思えてきたのです。

 逆に「演技をすること」と反比例するように興味を持つようになったのは人間そのもの。今私は人間の追及が面白くて、そして怖くてたまらないです。ぼんやりと見ているだけでは見えないもの、ふと目を逸らした時に見えるもの。時にその対象は自分でもあって、思いもよらない自分の姿に驚いたり傷ついたりもする…。

 群集と他者と私。他人の心も自分の心も完全理解なんて不可能です。だけどギリギリのところまで近寄って行くことは可能で、そのギリギリ加減さと、そこで何かを見つけた時は、背筋が走るような感動があります。演劇の中心になるのは演技力うんぬんよりむしろこっちだと思うのです。だから「私は演じることが好きなの!!」なんて力を込めて叫んじゃってる子を見ると、「あらあら…。」なんて冷ややかな目で見てしまったり…。いや、本当は他人なんてどうでもいいんだけどね。

 基準は私が感じたことを私が私という媒体を使って表現するということのみ。ジャンルは定めません。私が何をどう表現したいか。それだけです。それを他人がつまらないと言うならば、クリエーターとしての私はその程度のものということです。それでいいと思います。

 私は音楽も美術も好きです。人間の追及を表現できるなら別に何だって良かったのです。たまたま演劇が一番肌に馴染んだというだけです。チョコレートの何味が好き?私はストロベリーが好き。だからストロベリーチョコレートを買った。これと同じです。

 「演技」は入れ物で中身は「人間」。これが麻薬のように私に作用するのです。だから私は演劇をする…。

 4年前私に問いかけたI先輩と、私の演劇に対するビジョンが曖昧だと指摘した同学科のK君へ。これが今の私が持っている考えだわ。

 
 


2004年06月20日(日) 芝居のアンケートに書く内容

 小劇場に芝居を観に行くと、ほぼ必ずアンケートのようなものが配布され、その作品の感想を書く欄があります。書くも書かないも自由ですが、だいたいどこの劇場に行っても半分以上の観客がメッセージを残していきます。芝居を観たということを証明する観客の礼儀がそこに表れているように私は感じています。私も劇場に訪れた際は必ずアンケートを書いて帰ってきます。

 芝居を観た直後に、わずかな時間で感想を書くためには、芝居を観ながらある程度何を書くのか考えておかなければなりません。しかしあらかじめ感想を書くことを想定して芝居を観たら芝居に感情移入できないよ!!なんて思う人もいて、中々難しい作業です。

 私はあらかじめ何を書くかを考えながらある程度システマティック(?)に芝居を観ます。面白かった部分、面白くなかった部分、そしてそこは何故面白くなかったのか…私のアンケートは主にこんなことを書いています。

 では他の人はどのようなことを書いているのでしょうか。ここからは私が芝居を見る側ではなく、私が芝居をしてアンケートを受け取る側になっての感想ですが、やたら「○○さんの演技がうまいと思った」というような記述の多いこと!!「○○さんの演技には感情が入っていて良かった」とか「××さんの○行のカツゼツが悪い」とか。あら探しのような感想が多いのです。

 カツゼツが悪いとか、声が聞き取りにくいという指摘は、観客に不快な思いをさせているのだから、ある程度は仕方ないなぁと思う気持ちもあるのです。しかしそれは「芝居を観た感想」ではないなぁと。「演技がうまい」や、「感情が入っていて良かった」という意見も、一見誉められているのですが、よくよく考えてみると、演技が上手いと書かれた時点で、感情が入っていると言われた時点で、観客は演じ手である私を見ているのであって、登場人物として観てもらえていないなぁとガッカリしてしまうのです。

 私なら、自分の演技が上手いと言われるよりも、物語の中に登場する私を「好き」だとか「嫌い」だとか言ってほしいです。物語の外にいる私ではなく、物語の中にいる私をどう思ったか。その物語全体をどう思ったか。それが「芝居の感想」だと思うのです。

 私も芝居を観始めた高校生の頃、アンケートに何を書いていいのかがわからなくて、やっぱり「○○さんの演技がうまいと思った」と書いていました。でも今はこのような内容を絶対に書きません。演技がうまいとか下手とか、芝居を観れば観るほど、そういうことはどうでもよく思えてきます。きっと演じ手が観てほしいのはそこではないのだろうなということがわかるからです。

 観客にはそういう部分を観てほしいなと思うし、演じる側はしょうもない駄目だし的な批評よりも自分達が見てもらいたい部分を観客に伝える努力が必要です。

 演劇は映画と違い、観客がいて初めて成立するものだと実感させられるのは、いつもこの時です。


2004年06月04日(金) 交換日記

殺した小学生の言い分は、仲が良かった女の子に、チャットで嫌なことを書かれた。だから殺そうと思った…らしいです。

インターネット利用による波紋がまた広がります。インターネットによる交流が教育にとってうんぬんかんぬん言われるのです。

私が小学生だった頃は、チャットや掲示板の変わりに交換日記を利用していました。私は4人グループでやる交換日記と、親友2人とやる交換日記、ふたつを掛け持ちしていました。4人グループでやっていた交換日記はひたすら好きな男の子の話でした。「今日○○君は誰さんにこんな言葉を掛けた。きっと彼女のことが好きに違いない!」とか、「きっと思いを伝えればわかってもらえるから告白しなよ!!」とか。もうひとつ、親友とやっていた日記はひたすら本音トーク。「○○ちゃんは私と友達やのに他の子と仲良くして私は放ったらかしやった。ツラかった。」とか。

私は毎日日記が回ってくるのを楽しみにして、自分が書く番は一日中部屋に篭って書いている子供でした。クラスではできない話。この日記の中のみで行われるやりとりが、特別で、日記の中に書かれている内容が、私と、友達の本当の気持ちで、友情を実感できるものだと感じていたからです。

逆に、皆が本音をぶつけ合う分、交換日記で泣かされたこともあります。文字で本音をぶつけ合って、文字で喧嘩をすることになる。それで人間なんか信じられない!学校になんか行きたくない!!と思ったことも何度もあります。

文字だけでは収集がつかなくなって、結局話し合いで仲直りしたり、逆に、中学に入ってクラスが別れた途端、これまで親友だと思っていたのが夢だったのかのように付き合いがなくなった友達もいます。交換日記をしている時はあだ名で呼び合っていたのに、クラスが別れた途端、「○○さん」ってよそよそしく呼ぶようになったり…。

でも私は、それを繰り返しながら、人とのつき合い方を学んできたのです。いつも一緒にいることが友達ではなく、トイレに一緒に行く子が友達ではないのです。いかに心地よくその子と時を過ごせるか、それを理解したのは私は高校に入ってからです。交換日記が友情のすべてだと思っていた頃からその結論にたどり着くまでは長い時間を要しました。

今回の事件、インターネットのチャットでも、交換日記でも、手紙でも、媒体こそ違えど、文字で気持ちを伝えるということ自体は変わっていないと思うのです。だって相手の顔が見えているもの。その友達を捨てるか、それとも話し合って仲直りするか、インターネットよりも、そこのコミュニケーション力に問題があると思うのですよ。確かにインターネットやゲームが普及したことで人々のコミュニケーション能力が低下していることは否めないと思いはするのですが。


2004年06月03日(木) 必殺仕事人!

 昨日から喉の痛み、咳、微熱があり、どうやら完璧風邪を引いてしまったようです。芝居の稽古があるのに「風邪引きました…。」と言うのはなんとも恥ずかしいです。

 今日は全て必修科目であるにも関わらず、学校を休んでしまいました。風邪の症状こそ出ていますが、朝はきちんと時間通りに起きていましたし、ちょっと無理する分にはどうってことない体調でした。風邪に関しては。

 しかし、それとは別に、困ったことが起こったのです。今月の生理が2週間経ってもまだ終わらないのです。いつもは長くても8日あれば終わっていたのですが、今回は14日以上もダラダラと少ない量での出血が続きます。心配になりつつ様子を見ていたところ、今朝になって出血が止まる気配どころか量が増加。これだけ続くと貧血や、子宮ガン、子宮内膜症等の病気の疑いも出てきます。これは手遅れになっては困るので早速産婦人科に行ってきました。

 前回生理痛の治療で産婦人科に行った時は、問診と電気治療だけだったのですが、今回は本格的に診察を受けることになりました。先生は女医さんだったのですが、診察中はお互いの顔が見えないようにカーテンで仕切られていました。カメラを通して子宮内の検査などをしたりするのですが、痛かった…。恥ずかしい気持ちとか、もうそれどころではなくて、半泣きでした。これまでに体験したことのない痛さでした。(このことを母に言うと「私なら痛くもなんともないわ!」と笑い飛ばされたりするのですが…悪かったなぁ!)

 検査の結果、子宮に異常はなかったのですが、どうやら過度の疲労とストレスによりホルモンバランスが崩れ、本来機能する場所がうまく働いていないのだとか…。図で詳しく説明されましたが、よく覚えていません(苦笑)

 ま〜た言われてしまいました。ストレスって。(2003年8月27日の日記参照)まぁ確かに近頃無理してました。睡眠3時間が続いていたし、4月から寝る以外に家に居たことないし、確かに疲労は感じていましたが、でも精神的にはまだまだイケると感じていたのでちょっと驚きでした。

 受験生をしていた頃は、精神的な疲れがそのまま体に表れて分かりやすかったのですが、今回は心よりも先に体に出てきました。勉強なら即行ダウンするのに、芝居となると体が壊れるまで気付かないのだから、そのパワーはある意味凄いかもしれないと思えたり。(でもその割に事務作業ばっかりで芝居の稽古してないなー。)

 でも、確かに色々背負いすぎていたかもしれません。やっていること自体は他の子と変わらないのに、役職と仕事は他の子の3倍くらい抱えているのです。しっかり者は色々駆り出されて大変です。自分で言うのも悪いですが委員長体質なのです(笑)でも、しかり者というより、しっかりして見えるだけなのです。実は。何かと代表にされる割におっちょこちょいで不器用で要領が悪いのです。

 頼まれたことには嫌と言えなくて、というか、「嫌だなぁ…。」って思うことがあまりないのです。私が動くことでその場が改善されれば純粋に嬉しいと思うし、困った顔をしながらも、自分がそこで必要とされることに喜びをどこかしら感じています。逆に自分が必要とされなくなって見向きもされなくなることを考えると怖いから、最低限求められただけの期待には応えられるように、終わりのないマラソンを続けるのです。

 芝居に関しては、自分のやりたいことを貫くにはリーダーとして上に立った方が確実に受け入れられやすいことも知っています。表現者としての自分の才能は信じられないから、プロデュース力で補おうと。そういうちょっといやらしい考えもあります。一見しっかり者に見える私の裏側にはこんな情けなさも隠されています。

 要領が悪いのに、私は欲張りなのでしょう。芝居はしたいし、脚本も書きたい。制作の仕事もしたい。音響も勉強したい。コレくらい将来劇団を運営する人間はできて当然のこと。アルバイト先でもきちっと仕事をこなしたい。レポートをバッチリ書いて単位を全部取りたい。恋愛もしたい。ちょっと色々考えないといけません。仕事を引き受けてやる人間が立派なのではなくて、それを人に任してまとめていける人間の方が上に立てるって言うしなぁ。

 分かっていても仕事は山積みなのです。どうするべ〜。

 血液検査とホルモン検査(?)をしたので来週もまた産婦人科に行ってきます。必修の授業にまた出られない…こんなに働いてるのに進級の危機です。


嶋子 |MAILHomePage

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