★悠悠自適な日記☆
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私は3月から近所のファミレスでバイトをしています。もともとはディナータイムを希望していたのに「ナイト(22:00〜2:00)しか募集してないんだよ。それでもいい?」と店長に聞かれ、「入れる時はそれでもいいです。」と答えると、今月のシフトは全てナイト。どうも私の後すぐに3人女の子が入ってきたらしいのですが、3人とも全てディナータイムに入っている様子。う〜む、無理矢理にでも自分の意志を貫いた方がよかったのだろうか…と思いながら私は深夜のバイトにいそしんでいます。毎日深夜3時半頃の帰宅になります。
入るやいなや、「君にはとても期待してるからね。」と言われて単純に喜んでいたら、入って5日でバッシング、ご案内、トイレ清掃、ドリンクバーチェック、ドリンクバー清掃、ダイニング衛生、カスター補充、ラストオーダー案内等、他にも細かい作業に加え、レジや、ハンディ(機械)を使っての簡単なオーダーを取るところまで仕込まれました。他の人に聞くと、普通それらをマスターするのに2〜3ヶ月はかかるのだとか。他の人がそれだけの時間をかけてゆっくり覚えていくものを私は5日で教えられるのです。(何でか知らんけど)期待されているという言葉に踊らされて最初はいい気分でしたが、どうもそれは私が優秀だからとかではなく、ただ単に人が足りないからということが最近発覚。
ナイトに入ると、ホールを担当しているのは社員さん一人と私一人。よって他のスタッフさんと仲良くなる機会がほとんどありません。常に社員さんや店長から監視状態。しかも仕事を覚える量がハンパじゃなく、シフトも新人とは思えないくらいの勢いで入っているらしいので、覚えた仕事は家に帰って何度も練習して次の日に挑むことになります。今の私にとってはレジが一番の壁で、ここ2日間連続でレジでパニックになる夢でうなされます。
社員さんによって教えることが違っていたり、気を利かしてやったことで注意されたり、かといって指示を待っていたらそれはそれで注意されたり、新しいことを詰め込むが故に基本を忘れてしまったり、お客様からのクレームに対応できなかったりと、もうとにかくいっぱいいっぱいです。
それを見ていた厨房担当のお兄さん方は不憫に思ったのか、何度も私に「慣れた?」とか「やめたいって思ったりすることはない?」と言葉をかけてくださり、2〜3人の方が教育係の社員さんに文句を言ったりしてくださったみたいです。しかしたまに一緒になったホール担当のお姉さん方はガンガン私に駄目だししてきます。ヤンキーみたいなお兄さん方は優しいけど、一見いい人そうなお姉さん方は貫禄タップリで怖いです(笑)
でも、どちらの気遣いもありがたいのです。緊張して頭の中が急に真っ白になっていたり忙しい時に自分が何もできないのはとても歯がゆいのです。教えられたことしか言葉が出てこない自分がとても悔しいです。
私は学生の頃、生徒会やら委員長やら部長やら班長やら色々やってましたが、そこではやる気のあって、頑張っていることが伝わればそれで評価されることがほとんどでした。しかしいざ社会の中に出ると、やる気や頑張ることは当たり前で、結果として仕事ができなければ戦力になりません。当然のことですが、その当然のことを私は今すごく見に染みて実感しているのです。
せっかく他の人より詰め込んでいるのだから、早く一人前と呼ばれるようになってやりたいで〜す。ポジティブポジティブ!
「努力」「忍耐」「根性」この3つの言葉が大好きな人がいます。何事に対しても努力すること、耐えること、根性を出すことに意味があり、楽することを否定する人間です。
私は先日、徒歩10分で行ける駅に、自転車を使って行こうとしました。自転車なら3分で行くことができ、時間の短縮になると思ったからです。すると、ある人にこんなことを言われてしまいました。「たかだか10分の道のりを何故あなたは歩くことをしないのか。近頃の人間はすぐ楽をしようとするからダメになるんだ。」と。駅に自転車で行くだけで何でそこまでボロんちょに言われないといけないのかと私は腹を立てましたが、適当に流してその場を回避しました。
私からすれば、その人は「苦労マゾ」です。努力や苦労することが美しく、楽をしている私は悪い人間なのです。こういう人に限って「昔はああだった…」「私達が子供の頃はねぇ…」が口癖です。苦労した思い出が美しく、愛しくてたまらないのでしょう。
私は努力とか忍耐とか根性を強制的に押し付けられるのは嫌です。できることなら苦労なんてしたくないです。そもそも、産業革命以降人々は物質的豊かさを追求して、精神的ゆとりを得ようとしてきたではありませんか。その結果が今なわけです。人々は思い通りの、いや、それ以上の物質的豊かさを手に入れることができたではありませんか。(精神的ゆとりという項目に関してはいろいろ問題が山積みですが。)それを築いてきたのは昔の人間で、私達はそれを受け継ぎました。なのに何故今更楽をすることは罪であるかのような意識を私達に植え込もうとするのでしょうか。
もちろん、自分の目標を達成する際の努力や忍耐は必要です。肝心な所で根性が出せなければ手に入れなれないものは当然あります。しかし、特に何もないところでの努力は必要なのでしょうか?常に努力し続けることが最高の方法なのでしょうか?そんなの苦しくて仕方がないです。
例えば自動車を頻繁に使えば環境問題だったり、運動不足による肥満だったりと、便利さの裏には様々な障害を含んでいます。しかしそこをどう対処していくかが努力や忍耐のみせどころであり、自動車を使うこと自体に罪の意識を持つ必要はないわけです。もはやそれなしでは生きていけない社会のしくみが出来上がってしまったのだから。
また、「昔はこうだった」「私が子供の頃は…」と言う人に対してて本当にそれは苦労だったのかと疑念を持ってしまうこともあります。今が昔と比べて便利な世の中だから、結果として昔やっていたことは今と比べて「苦労」なのでしょうが、昔はそれが当たり前だったのだから、別に苦労ではないと。例えば今から10年後、タケコプターを持つのが当たり前の世の中になっていたとしましょう。10年後の私達は「10年前は空を飛ぶなんて考えられなかったのよ。」と言って次世代の若者達に苦労話をしたくもなるのでしょうが、タケコプターがないのは当たり前のことなので特別な苦労でもなんでもないわけです。(むしろタケコプターを作った人の方がよっぽど苦労しただろうなと。)
このような理由から努力や苦労することを美化し、楽することを否定的に捕らえる考えを押し付けられるのは私としては不本意なわけです。楽することにいちいち罪悪感を持っていたらせっかくの物質的豊かさも精神的豊かさに繋がることなんてありえません。努力や忍耐や根性なんて、必要な時に発揮できればいいわけで、追い求めるものではないと、私は強く思うのですよ。ぶちぶち言いすぎですか?
あ、でも「根性戦隊ガッツマン」という歌は結構好きです。どないやねんなー! ♪根性出して かからなくちゃ 地球の平和は 守れないさ 根性 根性 根性だけは 誰にも負けない 5つの力だ根性戦隊 ガッツマン
2004年03月08日(月) |
現代っ子コンプレックス。 |
幼稚園時代からずっと悩んでいることがあります。それは、私の体が極端に硬いことです。
足の速さや跳躍能力、持久力、反射神経、バランス感覚に関しては良くも悪くもなく、クラスでも平均的なところに位置していると思うのですが、こと柔軟性に関してはは壊滅的です。高校生の時に近所のスポーツジムで測定したら70歳並と診断。開脚すると95°くらいしか開かないし、前屈は−3cm。横で一緒に測定していたおじいちゃんの方がはるかに柔らかかったです。
子供の頃は体が硬いことを気にしながらも、それで滅茶苦茶恥ずかしい思いをすることはありませんでした。学校では柔軟性よりも基本的な運動能力を重視されることが多く、授業前の柔軟運動さえ乗り切れば、成績に表れることもありませんでした。
ところが困ったのは芝居を始めてから。体が開かないと動きは小さく見えてしまうし、皆で揃えて動くシーンで自分だけ足が上がらなかったり。ジャズダンスを始めてからはなおさら。振りは比較的早く覚えられても基礎練習が追いつかないという状態です。
風呂上りの柔軟がいいとか、酢を飲めとか、色んな人に言われます。そして芝居を始めてからはそれを毎日するようになりました。(浪人中は少しサボりましたが)しかし手応えを感じないのです。3年くらい続けて、開脚は100°くらいにしかならないし、前屈もやっと−1cm。もっと柔らかくなってもいいんじゃないかなと思うのですが、ここから先は未知の世界です。
私の体があまりにも硬いのを見て、同じダンス教室に通っているお姉さんやおばさんに「あなたは現代っ子なのよ。体育座りできる?正座ってやってこなかったでしょ?和式トイレは使えるの?まぁ現代っ子はその代わりに足が細くて羨ましいけど〜」と言われる始末。現代っ子の特徴として体に柔軟性がなく、アキレス腱が弱いと。これはちょっと、いやかなりショックでした。体育座りできるし、お習字を8年習っていたので長時間の正座もそこそこ慣れているし、小・中・高はどれも和式トイレでした。(和式トイレを使うと靴が汚れやすいので洋式を好みますが。)それに、私はあんまり足が細くないです。
でも私の体が硬いのは事実。なんでだろう…。小さい頃は元気に外で遊んでいたし、普通のことをフツーにやっていました。でも柔軟性だけは普通じゃなくて…。思春期時代に足を悪くして、足をずっと固定して歩いていたせいで、それ以来足に均等に体重をかけることができなくて(というか未だに左足だけ完治していなくて痛いのです。)これも克服すべく闘っているのですが、しかし柔軟性はそれよりも前からの問題です。ごくごく稀に、骨が関節に深くはまっているせいでどれだけ柔軟運動をしても柔らかくならない体質の人がいると噂で聞いたことがあるのですが、私はその体質なのでしょうか?
凄く困っています。凄く悩んでいます。日常生活にはごまかしごまかししていけば特に支障はありません。ところが大学で演劇を勉強することになってしまって、これでは使い物にならないのではないかと。日舞やバレエや声楽はやっていないし、ダンスを習い始めたのは高校に入ってからだし、芸術系への進学予定はなかったからのんびりやってたし、ただでさえ劣っていることは山ほどあります。それなのに柔軟性もなくて、左足に体重をかけると少し痛い。自分の仲間内で芝居をやっているうちはカバーができますが、大学で勉強するとなると、自分がいつ切り落とされるか、不安で不安でたまらないのです。(まだ大学生になってないのに。)
整体とかでガリっとやったらコロっと柔らかくなるとか、そんな方法はないのでしょうか?…とか考えてしまう私はやはり現代っ子なのでしょうか?
そういえば、未だ完治していない左足も、思春期の子供に起こりやすい現代っ子の症状のひとつだとか。(ちなみに有痛性外頚骨症といって、外頚骨がすれて痛みが出る症状。偏平足の人に多く、大人になれば自然に治るが治らない場合は手術。しかし手術をして痛みが取れるかどうかは5分5分)
皆と同じことを普通にやってきたつもりなのに、原因がわかりません。原因がわからないから、怖い。
やだなぁ…。
私の知り合いに、こんな男の子がいます。
彼は雨が降ると、すすんで道路側の歩道にまわり、一緒に帰っている後輩の女の子が車がはねた水がかからないようにして歩きます。
彼は傘を忘れてきた子がいると、その子に自分の傘を貸し、自分は濡れて駅まで歩いて行きます。
彼は駅に着くと、そこにいた後輩の女の子全員に制服のブレザーを脱げと命じ、鞄のポケットからハンカチを取り出しなさって、濡れたブレザーを一人ずつご丁寧に拭いて差し上げます。
彼は普段からそれらを自然にやってのけます。そして周囲の者も彼のことを「優しい人だ」と褒め讃えます。
それなのに、私は彼のその行動を見た時、まず第一に「気持ち悪い」と思ってしまいました。彼のことを偽善者だと言いたいのではありません。だけど私には彼の行動を「優しさ」だと思って素直に受け入れることはどうしてもできなかったのです。
私はその理由をずっと考えていました。彼の行動に嫌悪感を抱くのは、自分に彼ほどの優しさを兼ね備えていないから嫉妬しているのだとか、ただ単に素直じゃないからだとか、自分の心が狭いからだとかいろいろ…。だけどそうではない気がしました。だって、やっぱり私も友達が雨に濡れて風邪を引いたりするのは嫌だなと思うからです。
ならば自分はどうするでしょうか。彼のように道路側の歩道を歩いたり、自分が濡れてまで傘を貸したり服を拭いてあげたりするでしょうか?答えは「ノー」です。絶対にやりません。私なら友達に「濡れるからもっと道路から離れて歩きや〜!」って注意を促したり、傘がない子とは一緒に差して帰るし、服が濡れていたらハンカチを貸してあげます。(もしくは友達の背中を拭いてあげて、自分も拭いてもらいます。)
私と彼の間で決定的に違うことは、自分が犠牲になるかならないかの違いです。彼は自分が犠牲になることで彼女達を守り、それを良いこととみなしています。しかし私からしてみれば、彼の行動には配慮が足りません。誰も犠牲にならない方法があるのに何故それを考えないのでしょうか?彼が犠牲になることで守られた女の子達の気持ちを何故考えないのでしょうか?私が彼に守られた立場なら、なんだか自分のせいで彼が負担を背負ったことに戸惑いを感じてしまいます。
それは大袈裟に例えると、どうしようもない火事の中に一人で飛び込んでいってしまう消防士と似ています。その消防士は中にいる人を助けたい一心で、その気持ちに嘘偽りはないけれど、自分が助からなかった時のことを考えていません。残された遺族の気持ちを考えていません。そのイマイチ配慮が足りない判断に、私は不快感を覚えたのだと思います。
皆は彼のことを「優しい」と呼びますが、そう呼ぶ周囲の人々にも異議あり!私から言わせてみれば、彼の行動は「優しさ」ではなく「親切」であり、「サービス」であり、そして「哀れ」です。目先の親切は優しさとイコール関係になるのでしょうか?私は違うと思います。
優しさってなんでしょうか…?相手を思いやることが優しさならば、今回の彼の行動はやっぱり優しいとは言えないかな、と私は思うのです。
去年の11月頃から考えていた私なりの答えを、とりあえず今出してみました。
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