独り言


2006年06月30日(金) テリーデイズというBandについて・その24

こういった周囲の変化に関する情報は当然彼等の耳にも届く事となり自分達を置いてどんどん一人歩きしていく音源とその評判に若干戸惑いを感じてはいたもののレコード会社等の組織力やコマーシャル力を用いずとても純粋な力強さだけで自分達の音楽が人々の中に浸透していった事に対する喜びや充実感は営利的な結果が一切伴っていない事等どうでも良くしてしまう程に大きなものだった

スージー・キューは街中を歩いている時にゲームセンターから「Like the elephant」が流れてきた事にひどく興奮したという
実はジョージはあの「夜音会」を毎回欠かさず聴いていたという熱心なリスナーであり大好きなパーソナリティがテリーデイズの名を口にしたのを初めて聞いた時「まるで頭をハンマーで殴られた様な衝撃を受けた」と言っている
そして亜龍はというと…相も変わらず無関心といった態度を保ち続けテリーデイズの存在が大きくなるに連れて高揚していくスージー・キューとジョージに対し
「ただお前等が羨ましいよ」
と皮肉めいた言葉を吐き捨てる様に言ったという


しかしこの頃の亜龍の日記を見てみると
「俺は世界にひざまづいたりしない
世界が俺にひざまづけばいい」や
「街角にぶら下がった玩具になるのはゴメンだが…まぁそれも多少なら悪くはない」
等の様なテリーデイズの躍進に対して肯定的とも受け取れる記述が目立ち彼がスージー・キューやジョージに対して吐き捨てたあの言葉は彼の本心では無かったのではないだろうかと考えられる



そうこうしている間にもテリーデイズの音源は更に多方面へと飛び火していき初めて音源の複製が作られた日の約2ヵ月後にはすでに北京から溢れその数はもはや確認のしようが無い程に増大していた

そして1990年も終わりに差し掛かった頃テリーデイズに初めて外部からのライブオファーが舞い込むのである



1990年12月

そのオファーを申し出たのは在中アメリカ人で中国各主要都市に支部を持つ人権擁護団体『リバティー・ポイント』の創設者である『ケビン・ドナルド・カークウッド』という人物であった

ケビンは元々欧米諸国に比べるとかなり後退していた中国医療界の発展の為に中国政府によって召喚された医師であり1970年の時点でその任を全うしアメリカへ一度帰国している
しかし中国に残していた恋人が忘れられず再度渡中し結婚
その後上海郊外の『桔華総合病院』で外科医として働く傍ら最初の渡中直後から感じていたこの時代に不釣り合いな中国の表現や言論に対する厳しい規制に違和感を覚え1973年人権擁護団体『リバティー・ポイント』を設立している
この団体の活動は亜龍が抱くある種憎しみめいた感情に起因するものとは異なる良い意味で非常にアメリカ的なスタンスを持っており友好的かつ的確に自由というものの利を説き続けてきた為中国国内に於いても中々の支持を得ており時には国立大学の講演会に招かれる事もある程であった


どういった経緯でケビンがテリーデイズの存在を知ったのかは定かで無いがケビン曰く
「彼等の音楽には既成概念に捉われない自由奔放さと何かを突き破ろうとする力強いエネルギーを感じる
そして何よりこの閉鎖的な国に在りながら他国の言語を用いて何かを表現しようとするその姿勢に強く共感を覚えた」という事で彼は2月25日に行われるリバティー・ポイントの総会に彼等を招きそこでライブをして欲しいと願い出たのだ


そしてこの願い出に誰よりも強く反応を示したのは以外にもあの亜龍であったという


2006年06月26日(月) テリーデイズというBandについて・その23

スージー・キューの記憶では最初蛇孔の人間により複製されたテープの数は200前後
しかし一週間もするとその複製の数は倍に跳ね上がり10日も経つ頃には更に倍の800近くまで増幅していたらしくテリーデイズの音楽は北京近郊の若者達の間に大した時間も有せず瞬く間に流出していく



その時テリーデイズの音源を受け取ったある1人の若者に話を聞いた

「最初は友達に『面白いテープを手に入れたから家に来ないか?』って誘われてついて行ったんだ
…でもそいつが終始テープテープ言うからさぁ…俺てっきりアダルトビデオのテープだと思ってたんだよ
んでフタを開けたら音楽のテープだった訳じゃん?…正直がっかりしたよね
でもせっかくだから聴いてみようって事になって…全く期待して無かったんだけど

そいつが再生ボタンを押して一発目のギターの音が出るまでの5秒間だけだね…俺が退屈してたのは
とにかくスゲーバワフルで躍動感があって…何より新しかった
正直俺それまで音楽なんて少しも興味無かったんだよ
だってテレビとかラジオから流れてくる音楽なんてどれも一緒でつまんねぇじゃん?
ババァに媚びへつらった古典的な歌謡曲とか頭の軽い女子供を誤魔化し続けるオッサンアイドルとかさぁ
でもテリーデイズの音はそれとは明らかに違ってて…もうとにかくスゲーってなって
その時他にも何人か友達がいたんだけど全員ダビングして帰ったよ
もちろん俺もだけど」

この様な形で複製が複製を呼びテリーデイズ本人達の知らない所で彼等の音楽は多くの若者の『退屈を紛らわす新しいタイプの娯楽』として受け入れられていったのだ


そしてここでもう一つテリーデイズの躍進に拍車をかけた出来事が起こる
その出来事の発端となったのは以前からテリーデイズの音楽を認めていたたった一人の音楽業界人であるあの王孔明だった

王孔明もまた前述した若者同様友人から「お前の好きそうなテープがあるからコピーしてやるよ」と言われテープを手にしており受け取ったテープの中身がテリーデイズのあの音源だったという事に最初ひどくショックを受けたという

「俺はてっきり奴等がサンレコード以外のどっかと契約しちまったんだと思ったのよ
…正直『やられたぁ』って感じだった
んで『一体どこの物好きなレコード会社だぁ?』と思ってすぐに近所のレコード店に行ってみたんだけど…奴等の商品なんて何処にも無くてさ
その時俺にテープをくれた奴ってのがどっちかと言えば音楽に疎いタイプの人間だったから…『何でアイツがテリーデイズの音源なんて持ってんだよ』と思って俺なりに色々調べてみたんだよ
そしたらギターの女の子が自分でコピーを作ってタダで街中にばらまいてるっていうじゃん
例の一件もあったし奴等とは一度も面識無かったんだけど…変な愛着があってね…罪悪感も多少あったし
んで俺に何か出来る事はねぇかなぁって考えて

李華蓮って知ってる…よね?
あの夜音会のパーソナリティやってる娘なんだけど
あの娘実は昔アイドルやっててウチの事務所で面倒見てた事があんのよ
そのよしみでたまにスリークォーターの新人の音源とかを夜音会で流してもらってたんだけどさ
彼女にテリーデイズの音源を渡して『ウチの新人の時みたいな流してやってくんねぇかなぁ』って頼んでみたんだ」


この様な経緯で王孔明からテリーデイズの音源を受け取った当時学生等の間で人気を博していたラジオ番組『夜音会』でメインパーソナリティを務めていた『李華蓮』はテリーデイズの音源を聴きそこから他の若者達がそうであったのと同様に強い感銘を受けディレクターやプロデューサーの反対にあいながらも強引に番組内で『Spri』をO.A.した

この夜音会は深夜枠ではあったものの北京だけでなくそれ以外の中国主要都市でも受信する事が可能でありこの放送を聴いた多くの若者がこぞって夜音会にテリーデイズの音源をもっとO.A.するようにリクエストしてきた為次第にテリーデイズの音源は週3回放送されていたこの番組には欠かせないものとなっていく


2006年06月25日(日) テリーデイズというBandについて・その22

王孔明はこう話す

「俺の中ではもうある程度ビジョンも出来上がってたんだ
どうやって奴等を売り出すかって事も具体的に練り上げられてたし
それでいざ行動に移そうってなった時に…親であるサンレコードの承諾を取らなきゃならないんだけど
…クソ下らねぇ理由であっさり却下されちまったんだよ」

そのクソ下らない理由とは…スージー・キューに関するものだった

これまで再三に渡りテリーデイズの活動を陰ながら支えてきたスネークストリートの主である蛇孔という組織
この組織は北京近郊に住む人間なら知らない者はいないという程に有名なものでその中枢人物であったスージー・キューの存在は数多くの業界人は元よりサンレコードの首脳陣にも当然認識されていた

蛇孔の行っている稼業やそれにまつわる印象の悪さに対する懸念はサンレコード首脳陣の中で
「自社のイメージを著しく失墜させるに充分な可能性を持ったリスク以外の何物でもない」
という意志になりその意志は最終的に
「テリーデイズとの契約は許可出来ない」
という結論を導き出す事となった

しかし個人的にはテリーデイズの音楽性を買っていた王孔明はそんな理由で彼等を跳ね除ける事等出来ず仕方無く
「日本語詞では商品として成立しない」
という嘘の理由を作り泣く泣く彼等との契約を白紙に戻したのだ

多くのアーティストから一日に何本もデモ音源が送り付けられるレコード会社側からアーティストへ再び音源が送り返される等という面倒な事は一般的に考えて有り得ないのだがこれは王孔明のテリーデイズに対する淡い愛情と申し訳なさの現われだったのだろうと考えられる



そんなサンレコードの真意等知るはずも無いスージー・キューはこの(実際には嘘であった)拒絶理由に納得出来ず四方八方手を尽くして奔走してみるが流石の蛇孔の影響力もサンレコードの中枢部分までは届かず彼女はもうそれ以上どうする事も出来なくなってしまっていた


そして失意の底に暮れ半ばヤケになった彼女は自分の知らない所で仇となっていた蛇孔の力をここでまたしても利用しある一つの暴挙を起こす



1990年11月

先代から続く蛇孔の中枢家系という事もあり財力には相当の余裕があったスージー・キューは蛇孔の若い衆約10名を引き連れ大型電気店へと赴きそこで最も性能が良いと思われる日本製のオーディオコンポを全員に買い与えた
それと同時に店頭に並んでいるカセットテープを全て買い占め
「テリーデイズの音源を可能なだけ複製し街中の若者にばらまけ」
と指示したしたのである


この行動に関してスージー・キューはまたしても例の使命感について言及しておりそれは彼女曰く
「分刻みで増幅していく」
程に強力だった様で商品となり得るはずだった音源をタダでばらまいた事やそれにかかった費用や労力等はその使命感に追われる苦しみから逃れられるという事に比べると
「東南アジアでババァのストリッパーを仕入れるよりもずっと安い買い物」
だったという事である


2006年06月24日(土) テリーデイズというBandについて・その21

1990年9月〜11月

完成した音源を手にしスージー・キューは再度ジャックと接触するが今回の彼女は前回とは打って変わって高圧的な態度を持ってジャックに詰め寄っておりその様相は端から見るともはや脅迫とも取れる程に強引で暴力的な交渉だったという

この一連の手の平を返した様なジャックとの接触に関して
「作為的な部分なんて一切無かった」
とスージー・キューは言っておりこの様な形になってしまったのはその当時の彼女自身の精神状態に問題があったからだと言っている

「亜龍程じゃないけど…私も精神的にかなりやられてた時期で
ジャックには悪い事したなぁと思うけど仕方なかったのよ
その時の私には『冷静』とか『熟考』って言葉は何の意味も持って無かったんだから
とにかくその一瞬一瞬の自分に忠実に行動する以外に正気を保つ方法が無かったのよ
…まるで誰かさんが乗り移ったみたいよね
私の頭の中は『何としてもテリーデイズの音を世に送り出す』って事で完全に埋め尽くされてたの
それ以外の事はクソ以下の価値も無かった
…でも断じて誓うわ
私はジャックをひっぱたいたりピストルで脅したりなんて事はしてない
ちょっと…肩を押した位のもんよ
『どうかお願いします』ってね」

スージー・キューはこう言っているがこの交渉直後から約一ヵ月間程ジャックは何故か屈強なボディーガードをやとっていたという事実がありこのスージー・キューの発言には多少の誤りがあるものと考えられる



初めてテリーデイズの音源を聴かされたジャックは内心で
「この音楽性がサンレコードの首脳陣に受け入れられるはずが無い」
と感じていながらも当然断る事等出来ず仕方無く彼等の音源を預かり思案した末それをサンレコード傘下のレーベルである『スリークォーターミュージック』に持ち込む事にした

このスリークォーターミュージックはサンレコードグループ内に於いてある種『実験室』的な役割を担っており所属アーティストとしては8人編成のポップテクノユニット『Pomus』や中国古来の弦楽器を手にし踊り歌う女性アイドルグループ『清漣花団』等がおりこういったメジャーシーンとは遠くかけ離れたアーティストを有するスリークォーターミュージックならテリーデイズの音楽性を受け入れるだけの寛容さも備えているのではないかと考えジャックはこの行動を選択したものと思われる



当時のスリークォーターミュージックの代表であり欧米の音楽シーンにも精通していた王孔明はその時の事を振り返りこう語っている

「彼等の音を初めて聴いた時…正直凄く嬉しかったよ
『やっとこの国にもこんな音を鳴らす連中が現われたか』ってね
その頃欧米のロックミュージックはもろに規制の対象で…公には認められちゃいなかったがその気になりゃ手に入れる事は可能だったし実際に隠れて愛聴してる連中も結構いたんだよ
そういった背景も踏まえた上で凄く面白い素材だと思ったしビジネス的にもそんなにマズイ話じゃ無いと感じたんだ
…まぁもちろんビックヒットは狙えないにしても『娘に特大の熊のぬいぐるみを買ってやれる』位の稼ぎにはなるだろうって思ったから俺は彼等との契約の話を本格的にすすめる事にしたんだ」



しかしこの発言とは裏腹に王孔明は音源を手にした約一ヵ月後
「日本語詞では商品として成立しない」
という旨を記した恐ろしい程に丁寧な手紙を添えてテリーデイズの音源をスージー・キューの元へ送り返している



前述した王孔明の発言と実際に彼が取った行動の間には赤子が見ても指摘出来てしまう程に明らかな矛盾が生じている
この矛盾を追求していくとそこには決して表面化される事の無かった裏の事実が存在しその事について王孔明は「今だから言える事だけど」と念を押した上でこう話してくれた


2006年06月22日(木) テリーデイズというBandについて・その20

1990年9月

過去5度のライブを経てテリーデイズの音楽はごく限られた人達の中にだけだが確実に浸透しそしてその波は少しづつスネーク・ストリートという無法な街から外界へ溢れだそうとしていた


その手応えを誰よりも素早くそして力強く感じ取っていながらも亜龍の変質によって確実に膨れ上がり続けるテリーデイズというバンドの希薄な余命に責め立てられていたスージー・キューはここでもう一度サン・レコードのジャックと接触を試み彼女には似付かわしくない方法でレコーディングに関する指南を願い出た


誰の人目にもつかぬ様『ミューズ』のバックヤードにて行われたこの懇願の一部始終を偶然にも目撃してしまった女店員は
「姐さんが…誰かに頭を下げているのを見たのは多分世界で私一人じゃないかしら?」
と言いその時のジャックの様子については
「あのエロブタメガネブタの野郎…いつも偉そうにふんぞり返ってるくせに余りの姐さんの低姿勢振りを見て逆にビビッてたわ
…きっとズボンの中はビショビショだったんじゃない?」
と言っている

いつもは客として横柄に振る舞っていたジャックであったがスージー・キューの持つ『裏の影響力』は充分に理解していた様で彼は早急にテリーデイズの為にレコーディングスタジオとエンジニアを手配する事にした



1990年9月22日

この日テリーデイズは通算2度目となるレコーディングを行う

それはかつて「門前払いされる為に門に近づくことも許されない」と感じていたプロユースのスタジオに於いてプロのレコーディングエンジニアを迎えての作業となった


亜龍の精神状態も依然として安定を保っておりおおむね問題は無かったが録音方法に関して亜龍が
「絶対に歌も演奏も一緒に録音する」
と言ってきかなかった為最初現場は多少の混乱にみまわれた
そして何とかセッティングも済みいよいよ作業に取り掛かろうとする段になると今度は
「全曲1テイクしか演らない」
と宣言し実際にその通りにした


こうして録音された音源には歌詞や演奏のミステイクもそのまま残されており無理矢理の一発録りによって生じたであろうノイズも所々に紛れ込んでいた
しかしそれ等はロックミュージックには必要不可欠と思われる無軌道さや強烈な初期衝動を示すに充分な趣を兼ね備えており『生身の人間が奏でるものとしての音楽』を切実に表現した他に類を見ない唯一無二の音源となっている


前回のレコーディングでは出来上がった音源の余りの陳腐さに不満を爆発させマスターテープを叩き割ってしまった亜龍だったが今回のレコーディングには満足した様でそれを示すものとしてこんなエピソードが残っている

残念ながら音源には収録されていないが亜龍は全作業終了後に独りレコーディングブースに戻りスージー・キューのギターを借りてあの『焼売童子』のテーマソングを独自の方法に基づいてマイナー調に変換したものを弾き語りそれを録音させそしてどれ位振りかもわからない程に懐かしい笑顔を浮かべながらエンジニアが痺れを切らして注意するまで何度も何度も繰り返し聴いていたという



今回のレコーディングでは8曲録音されたが亜龍の
「真に迫り切れていない」
という意志によりカットされたものがあり残された曲としては前回同様の
「Like the elephant」
「Spri」
そして新たなものとして
「World Wide Disturbance」
「Chord Green」
「to N」
の3曲を加えた全5曲が挙げられこれ等がテリーデイズの初音源に収録される事になった


2006年06月20日(火) テリーデイズというBandについて・その19

1990年7月〜9月

帰国後亜龍は周囲の戸惑い等気にもとめない様子で当たり前の様に金色のカツラをかぶり毎日リハーサルスタジオに顔をあらわす

しかし今回ばかりはさすがのスージー・キューも理解に苦しみその困惑は彼女の中でテリーデイズというバンドの終わりを想像させる程に膨れ上がっていた


「もう完全に疲れ切ってたわ
亜龍の頭の中を必死で捜し回ってもそこに彼はいない
実体の無いものを相手に延々鬼ごっこしてるみたい
…とにかくそんな毎日にもううんざりしてたの」
とスージー・キューは当時を振り返り語っている

しかしそれでもバンドを続けた理由についてはこう言及している
「唯一の救いだったのは亜龍の歌
彼が姿を消していたあの間に何があったのかその時は全く知らなかったけど…あの後から彼の歌はまるで別人みたいに変わったの
時に力強く暴力的で…時にか弱く消え入りそうで
なんか…歌声そのものが一人の人間みたいな存在感を持ってた
娯楽や商品じゃなく作り物やまやかしじゃない一つの生命としての歌
決して上手じゃないのよ
でもそれが真実なんだと思った
それが人間なんだと思ったの
そしてその歌を聴いた時から私は亜龍の歌をもっと多くの人に聴かせなきゃならないっていう『変な使命感』に捕われていく様になったわ」


そしてスージー・キューは亜龍の承諾を得ずして再度ライブを行う計画を立て実行に移す



1990年9月10日

通算5度目となる今回のライブも今まで同様ショット・バー『オーウェン』に於いて行われた

スージー・キューは今回のライブの事を前日まで亜龍に知らせておらず
「もし拒否されても無理矢理引きずって連れて行きこめかみに拳銃を突き付けてでも歌わせてやろうと思ってた」
らしく彼女の言う『変な使命感』というものを如実に示したエピソードではあるが亜龍は意外にもこのライブの提案をかつて無い程に快く受け入れたという

スージー・キューが言うにはこのライブの少し前から亜龍の閉鎖的な態度が一時的にではあるがかなり緩和されておりタイミング的にも良かったのだろうと考えられる
しかし何故あの時亜龍の変質があれほどまでに改善されていたのか彼女にはわからなかった様だ


この事について調べてみるとそこにはまたしても誰にも語られる事の無かったある事実が浮かび上がってくる


スージー・キューの記憶によると亜龍の変質が改善されたのがライブの約2週間前
つまり8月27日あたりという事になる

そしてこの8月27日に関して亜龍の周辺を調べてみると彼の母であるミツコ・パークハイドの病状が一時的に安定し入院から自宅療養に切り替わった日と一致するのである


ここまでくると亜龍にとってその母であるミツコ・パークハイドの存在が如何に大きなものであったのかは言わずとも理解出来る事であるがもう一つ興味深い事にこの8月27日前後を境に亜龍の日記から『悪魔』の存在も一時的に姿を消している




なにはともあれ最大の問題であった亜龍の拒絶の可能性も軽く乗り越えテリーデイズは約1時間20分に及ぶライブを滞り無く全うする事になる

そして今回のライブには一見しただけではわからない『ある一つの変化』があり終演後その事を知ったスージー・キューとジョージはその先に待つであろうテリーデイズの開かれた未来に小さく胸を震わせていたという


その『ある一つの変化』とはそれまで過去4回ほぼ蛇孔の連中により埋め尽くされていたオーディエンス・フロアだったが今回はその中に紛れて街でテリーデイズの噂を聞きつけ足を運んだという蛇孔とは全く関係の無い若者が少数ではあるが混じっていたという事である


その数約30人


たった30人だが…これはとてもとても小さな始まりにしか過ぎない



ここからテリーデイズの掻き鳴らす音はある出来事をきっかけにまるで伝染病の様に中国全土を駆け抜け多くの若者達の魂に寄生し急激にして大それた世界を築きあげる


それがたった一夜にして消えて無くなる事等知る由も無く




ちなみに亜龍は例の如く終演後何も告げずそそくさと会場を後にしていたのでこの『変化』に全く気付いておらず翌日スージー・キューから伝え聞いた時も
「そりゃ良かったね」
とまるで他人事の様にあしらい新曲のアレンジに没頭していたという


2006年06月12日(月) テリーデイズというBandについて・その18

1990年7月12日〜7月23日


失敗に終わった初レコーディングが行われた日の翌日から亜龍は約11日間程北京近郊から姿を消している

亜龍の変質以降バンド内には『他人が見ても明らかにわかる程の溝』が生じておりそれはスージー・キュー曰く
「音を出すという行為以外の方法で亜龍とコミニケーションを取る為には限り無く不可能に近い可能性に賭けるしか無かった」
程に深刻な状況だった様で当然亜龍は誰にも何も告げず(そして当然亜龍には誰も何も聞かず)北京を離れていた


その11日間を知る為に亜龍の日記をめくってみると彼は過去4回のライブでギャランティーとしてスージー・キューから受け取った金をそれまでほとんど使わずプールしていた様でその貯めた金を使って何故か彼は『南アフリカ』に渡っていたらしい




亜龍の友人によると変質後亜龍は北京郊外にある非合法で入手された海外のカルト書籍やアダルト雑誌等を専門で扱う『フリーク・カンパニー』という店に頻繁に足を運んでおり亜龍の自宅の本棚はそこで購入したと思われる『悪魔信仰』に関する本で埋め尽くされていたという
そしてその多くが南アフリカにおける悪魔信仰について記述した物だったとも記憶している

しかしその友人の話だと亜龍は決して悪魔を崇拝していた訳では無く「悪魔の正体を探る為」に本を読んでいると言っていたそうだ




ここで亜龍の日記に話を戻すとその11日間の記述はそれまでの散文的な手法によって書かれたものとは異なり「午前6:27 起床」の様にある事実をそのまま克明に記述していくという日記というより記録に近いものがメインとなっている


その足跡を辿ると亜龍は南アフリカに到着した2日後にカルト雑誌で読み最も興味をそそられていたらしい『D.I.H.』という宗教団体の門戸を叩いている
(我々の調べによると日記の記述にあるこのD.I.H.という名の宗教団体は世界中の何処を探しても存在しない
しかしその当時南アフリカのケープタウンを拠点としていた反政府組織に『Devil in Heven』というものがありその組織は資金調達の為に公の水面下で宗教団体を運営していたという噂がありD.I.H.とはこれの事を指しているのではないかと考えられるが真意の程は定かではない)

そしてそこの若者達と共に約一週間にわたる「暴力と屈折愛に満ちた限り無く天国に近い地獄」を体験しその共同生活の中で「神は全てを創造しそしてその罪深い行いを全て悪魔のせいにした」という独自の真理に到達し南アフリカを後にしている




帰国後亜龍は例の如く何事も無かった様にスタジオに現われるのだが今回は『目で見ても明らかにわかる奇怪な変貌』を遂げていた



亜龍はそれまで大切に伸ばしていた黒髪をバッサリと切り落とし代わりに頭にはまるでヨーロッパの童話に出てくる『天使』の様な金色のカツラをかぶって現われたのである



この行為に関して亜龍の日記には
「悪魔は今でも神を憎みその喉元に剣を突き刺す瞬間に恋い焦がれている
だから俺は天使の振りをして奴等をおびき寄せ全てに終止符を打ってやる
何故なら俺自身が神のしでかした罪そのものであり罪そのものであるという事は即ち神そのものであるという事に他ならないのだから」
と書いてあり現実を生きる自分自身と虚構の存在である神とを重ね合わせその軋轢によって生じた歪みにそれまで抽象的な扱いであった悪魔を据え置く事によって自分自身の新たな存在意義を強引に決定づけてしまったある意味亜龍らしい何処までも不器用で屈折した心象風景を窺い知る事が出来る


しかしこんな亜龍であったが母であるミツコ・パークハイドの看病の為に病院へ行く時だけは
「母さんが驚くといけないから」
と言って金色のカツラを外しずっと以前の

「陽気でお茶目な誰からも愛される亜龍を必死で演じていた」

と古くからパークハイド家と親交があった知人は話してくれた


2006年06月07日(水) テリーデイズというBandについて・その17

1990年7月11日


亜龍が誰にも知られる事の無い暗闇の中に沈み行くのをいつも側に居て漠然と肌で感じながらもどうする事も出来なかったスージー・キューは「バンドの今後の発展如何によってはそんな亜龍の没落も防げるのではないか」と考え他メンバーには内密である行動を起こす


全長約170メートルにも及ぶスネークストリートには様々な店が軒を連ね由緒正しき飲食店からいかがわしき風俗店までその数はざっと見ても300は下らない
その中でも一際煌びやかで人目を引く店構えをした『ミューズ』
そこは所謂高級女流クラブと呼ばれるもので常客には政界の大物や一流芸能人も少なくなかった
その常客の中の一人に北京で最も力を持ったレコード会社の一つ『サン・レコード』で自称敏腕プロデューサーとして働く『ジャック』と呼ばれている男(彼はジャック・ダニエル以外の酒は一切飲まなかったので店の女達にこう呼ばれていた)がおりスージー・キューはこの男との接触を試みるのである


スージー・キューは初ライブに訪れた客の反応やテリーデイズの楽曲の魅力そしてロックの秘めた可能性について切々と話し「どこかマネージメント契約してくれる事務所を紹介して欲しい」と頼んだが「デモ音源も無いアーティストと契約する事務所なんてある訳が無い」と一蹴されてしまいすぐさま彼女はデモ音源の制作に取り掛かる準備を始める



そして初めてこの計画を話した時の亜龍の反応についてはこう記憶している

「…もう全くの無反応
YesともNoとも言わずただじっと私の目の…奥の方を見据えて…ずっと黙ってたわ

でも少なくとも彼は否定しなかった訳だしレコーディングする事でプラスになる事はあってもマイナスになる事は絶対にないって確信が持ててたからいつもの様に強引に事を進める事にしたの」


スージー・キューのこの決断は彼女にしては珍しく間違いであったという事は後の経過を見ても明らかなのだがそんな先の事など知る由もない彼女はとにかく早急にレコーディング器材を取り寄せそしてこの日テリーデイズは初めてのレコーディングを行う事になった


しかしそれに使用された器材とはその当時でもほとんど見かける事が無くなっていた8トラックの旧式のMTRで録音方法に関してもそういった知識を持った人間を一切手配していなかったので全くのデタラメであり出来上がった音源は亜龍にしてみればきっと『三歳児のお遊戯会よりもひどい』と感じられる程のものだった様で彼はその場でデッキからマスターテープを取出し何度も床に叩きつけて破壊してしまったのだという




スージー・キューの話だとこの幻となったデモ音源には3曲収録されておりその3曲とは
『Like the elephant』
『Spri』
そして亜龍の変質直後に完成された『fly』という曲だったということである

この『fly』という曲は亜龍の日記によると「悪魔が耳元で囁いた声を形にした」ものであり他の曲とは多少異なった特別な思い入れがあった様だ

しかしこの最悪のレコーディングを期に亜龍はこの『fly』という曲を封印してしまい今後この曲が演奏される事はリハーサルも含めたテリーデイズの全キャリアの中で『あとたった一度きり』しか無かった


2006年06月06日(火) テリーデイズというBandについて・その16

1990年6月〜7月

この間にテリーデイズは初ライブ同様ショットバー『オーウェン』を借り切って3回のライブを行っているのだがそこに至るまでの過程に於いてある一つの問題が大きく頭をもたげそれはその後も彼等の活動に終始ついてまわる事になる



初ライブの後から亜龍はスタジオに全く顔を出さなくなり以前の様に平和公園で独り歌を歌う様になっていた
以前の様にあの4本弦のアコースティックギターを持って



スージー・キューが言うには「初ライブの評判は意外にも上々だった」様で全く未知の存在であったロックに魅了されてしまった客も少なくは無く蛇孔の若い連中の中には亜龍をすっかりヒーロー扱いする者までいたらしい
テリーデイズの音楽は間違いなくあの場に居合わせた者達に受け入れられていたにも関わらず亜龍が途中でステージを降りたりそれ以降スタジオに来なくなった理由がスージー・キューには一切理解出来なかったという


蛇孔という組織に関わっている事やその風貌・言動等から誤解されがちだが以前にも記述した通りスージー・キューは病的に几帳面であり道理に反した行いが大嫌いな性格で亜龍のこういった態度にひどく憤りを感じていたがこの頃すでに亜龍という人間の性質を充分に把握していた彼女は「放っておきゃそのうち何事も無かった様に帰ってくるだろう」と踏みあえて説得したり連れ戻そうとしたりはしなかったという


その彼女の読み通り10日程して亜龍は再びスタジオに顔を出す様になるのだがそこには以前とは明らかに異なる彼の姿があった


「前みたいにおどけたり笑ったりする事が極端に減ったわ
口数も少なくなって

…でも音楽に対する姿勢は前よりもずっと真剣になっていったの

時には厳しさを感じる位に自分の書く曲や歌にシビアになっていったわ」
とスージー・キューは語っている



実は亜龍がこの様に変質していった頃と時を同じくして彼の母であるミツコ・パークハイドが原因不明の心臓疾患に襲われ緊急入院していたという事実が後の調べで判明してくるのだが当時亜龍はこの事を一切口にしなかった為スージー・キューやジョージも含めたテリーデイズに近しい全ての人間は誰一人としてこの事実を知らなかった

今思うとこの事実が亜龍という人間を破滅的な方向へとねじ曲げてしまったのは明らかなのだがリハーサルや曲作りも以前同様滞り無く行われる様になっていたので誰も亜龍の変質についてその理由を聞いたり原因を問い詰めたりする事は無かったという



そして冒頭にも書いた3回のライブも今回はセット通りきちんと演奏され端から見ると順調に活動を行っている様に見えるテリーデイズだったがその心臓は亜龍が日記の中に生み出した悪魔によって着実に侵蝕されていたのだ



この頃の亜龍の日記をめくっても記述は一切無くノートには明らかにページを破り捨てた形跡が残っているだけで『そこに何が書かれていたのか?』そして『そこで何を葬り去ったのか?』という疑問は誰にも計り知る事の出来ない大きな闇となり今も痛々しく横たわり続けている


2006年06月05日(月) テリーデイズというBandについて・その15

1990年5月25日

スネークストリートの東側に位置する燕宿ビルディングの地下一階に軒を構えるショットバー『オーウェン』

そこもまた当然の様に蛇孔の支配下におかれておりスージー・キューはここを借り切ってテリーデイズの初ライブを行う事にした
(事実上この前日にスージー・キューは蛇孔を離脱した事になっているがそれはほとんど表面上だけであり蛇孔に関するビジネスからは手を引いたもののそれ以外の関係性はこの後も変わらず続いていく事になる)

20:00から開始されたそのライブに足を運んだ客の数は約200人
全く認知されていないロックという音楽性を用いてしかも初めてのライブにも関わらずこれだけ多くの客が訪れるという事は全くもって考えられない出来事だがこれには裏がありその客のほぼ全ては蛇孔の若い連中か蛇孔の息のかかった者達でそれ以外の客といえば亜龍が呼んだ古くからの友人2〜3人だけだったという

動員に関してこういった結果が得られたという事はテリーデイズがその当時置かれていた厳しい状況を踏まえずとも極めて『優秀』であり客が訪れた理由が例え『体裁を気にしたもの』がほとんどだったとしてもこれだけの人間を集めた(当然この初ライブにはチケット代も発生していた)スージー・キューの影響力には目を見張るものがあるが亜龍はこの状況に満足いかなかったらしく当初10曲演奏する予定だったところを7曲でステージを降り友人を連れてそそくさと会場を後にしてしまったという


その友人が言うには亜龍は会場に来ていた蛇孔の連中を
「明日も飯を食うために感じてる振りをするだけしか能が無い不感症の売春婦」
だと言い
ライブに関しては
「三歳児のお遊戯会の次位にエキサイティングだった」
と吐き捨てこの時すでに解散をほのめかす発言もしていたという



この日の亜龍の日記を見てみると冒頭に
「ケイトはザックではなく実の兄弟に犯されてしまったのかもしれない」
と書かれておりその後には蛇孔という組織を延々こきおろす言葉が続いている
次第にそれは蛇孔だけでなく全ての徒党根性への批判へと変化し辛辣な言葉で罵ったかと思うと突然
「孤独を愛する術を知らぬ者は己を愛する術を知らず己を愛する術を知らぬ者は他を愛する術を知らぬ」等という一見すると何処かの宗教の説法の様な文章が顔を表したりする様な何とも不恰好な構成になっている
そして最終的にこの日の亜龍の感情の矛先は権力・体制・法律や教育等にとどまらず天候や食文化等の全く持って見当違いの方向にも向けられ収拾のつかない状態になり中途半端な形で終わってしまっている



そしてそこから10行程間を置いた後には今後の亜龍の日記の中で最も重要でありながら最も不可思議な存在である『悪魔』という言葉が初めて顔をあらわす

それは今までの亜龍の字体とは明らかに異なるまるでワープロで打ち込んだかの様に整った文字で


悪魔が呼んでいる


とだけ書かれている


2006年06月01日(木) テリーデイズというBandについて・その14

1990年4月〜5月

この間テリーデイズはオリジナル曲を制作し一日6時間以上のリハーサルを毎日繰り返していく

亜龍の作曲速度は異常な程速くスージー・キューが記憶しているだけでもこのわずか一ヵ月という短い期間の中でゆうに30曲は超えていただろうという事である

亜龍のソングライティングについてスージー・キューは
「非常に中国人らしからぬ発想に基づいたアイデアが満載だった」
と分析している


「中国には…中華思想っていうのがあるじゃない?
中国が世界の中心だっていうかつての思想
それがその当時…まぁ今もだけど中国人の中に強く根付いてて
私はそれが決して悪い事だとは思わないしこんな私だって多少そういう考えを未だに持ってるんだけど…凄く排他的よねやっぱり

亜龍にとってその思想ってクソ以外の何物でもなかったのよ

彼って…言い方は変だけど『ほとんど中国人じゃない』訳でしょ?

だからそんな他国の物を寄せ付けない環境の中で常に息苦しさを感じてたんじゃないかしら?

彼が路上で歌を歌ってたのもそういうものを打ち壊したいって所から始まってる訳だし」


亜龍はその当時中国では蚊帳の外に追いやられていたロックの要素をふんだんに取り入れた楽曲をメインに制作しておりそれはそのまま当時の中国ではテリーデイズのオリジナリティーとして認識されていく事となる


「世界規模で見たら別にそんな前衛的な事をしてた訳じゃないの
どちらかといえばルネッサンス的な要素の方が強かったんじゃないかしら」


しかしその回帰的な亜龍の楽曲の中にもスージー・キュー曰く
「亜龍だからこそ生み出せた感覚」
が存在しそれについてはこう語っている


「亜龍はよく『俺は日本人だから』って言ってたわ
…でもそう考えるのも無理ないわよね
だって彼を育てたお母さんは純粋な日本人な訳だし

彼のお母さんの事…前に話したわよね?…憶えてる?

彼女を見てて『日本人ってなんて繊細なんだろう』って思ったの
表情や仕草…歩き方から咳払いの仕方までその一つ一つが凄く美しいの
本当に微妙で些細な行動にさえその美しさが常に備わってるって感じがしたわ」

そんな日本人特有の感覚を受け継いだ亜龍の楽曲にはどんなにヘビィーでハードな曲調であっても常にどこかしらに『繊細なアレンジ』が折り込まれておりそれは場合によっては『繊細過ぎて誰にも伝わらない』事や『理解されない』事も多かったがそんな状況を亜龍は『まるで楽しんでいるようだった』という



基本的に楽曲制作は亜龍の中で大まかに仕上げられたフォークソング的な物をバンドアレンジに変換していくという手法を用いて行われていたがほとんどの場合亜龍自身が早い段階で駄作の烙印を押してしまうので完成されずに消えていった曲の断片は星の数ほどあった様だ


この頃に書かれた曲の中で運良くボツを免れ完成にこぎつけたものの中には前述した『Like the elephant』やイントロのギターリフが印象的な『Spri』そして数少ないアップテンポの曲である『World Wide disturbance』等が挙げられる


そしてこれ等を含めた楽曲も揃いテリーデイズはいよいよ初ライブを執り行う事になるのである


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