独り言
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2006年04月30日(日) |
テリーデイズというBandについて・その9 |
スージー・キューはジョージと初めて出会った時の事をこう記憶している
「…とにかく小汚かった
ウチの若い人間が何処ぞで拾ってきたきたんだけど『拾ってくんならもっとマシなモン拾って来いよ』って怒鳴った記憶があるわ
…まぁ結果的にはこれ以上無い拾い物だったんだけどね」
ジョージはその後運良く別のキャラバン隊と出会い「何処か大きく人が沢山居る街まで連れてってくれ」と懇願したのだという
「大きい街に行けば僕にも居場所があるだろうと思ったんです」
そして彼が辿り着いたのが北京だった
しかしそこは右も左もわからない大都会 言葉も通じぬこの街でジョージの衝動は次第に衰え為す術も無くただ街を徘徊するのみだった
「正直『あっ…死ぬ』って思いましたよ」 とジョージは笑って言う
それから何も口に出来ぬ日がずっと続き体力的にも限界を迎えたジョージは力無く公園のベンチに横たわりうわの空の太陽をただ眺めていた
そこにたまたま居合わせたのが蛇孔の人間だったという訳である
「明らかに『普通じゃなかった』んだよ
だって平和公園のベンチでどう見たって中国人じゃない男の子がボロボロの身なりで今にも死にそうに横たわってんだぜ
…あれを素通り出来る人間なんていやしない でもみんな不気味がって遠巻きに見てるだけでよ
それで俺が近付いて声かけようとしたら誰かが呼んだ『道案内屋』が丁度来やがって…
…あっ「道案内屋』ってのは警官の事よ 『テメェ等は道案内だけしてりゃいいんだよ』って意味を込めて俺が考えた隠語なんだけど…いいセンスしてっだろ?
まぁそれはどうでもいいんだけどよ んで俺何も悪さなんかしてねぇのに『逃げなきゃ!!』ってなって取り合えずそのボーズ抱えて走ってたんだ
…何であんなボーズ抱えちまったんだろう? とにかくほっとけなかったんだよ
…でも姐さんにあんな怒られるとは思わなかったよなぁ
マジついてないぜ」 とジョージを拾った男は語ってくれた
「私だって鬼じゃ無いからね こう見えても『人間力はかなり高いよね』ってよく言われるし
取り合えず私の側においとこうって事にしたの それが一番安全だから」
その少年の事を詮索しようにも言葉の壁があり余りに骨の折れる作業だった為基本的には面倒な事が嫌いなスージー・キューは「あなたの名前は何?」と聞かず「あなたの名前は今日からジョージね」と言ったのだという
「ジョージっぽいから」という理由だけで
「サーカスに居た時にはもちろん別の名前がありましたけどそんな事はどうでもいいんですよ
たかが名前ですから
スージーさんが僕をジョージと呼べば僕はジョージですしアルが僕を『ホリ・フカオ』と呼ぶならそれでいいんですよ
実際ホリ深いですし」 と言いしばらく間を置いてから
「誰かが僕を悪魔と呼べば僕は悪魔に違いないんです
名前って…そういうものでしょ?」
と続けその日一番の笑顔を見せたという
しかしその笑顔は嫌味な程に大き過ぎて 「作り物みたいで…逆に心が感じられなかった」 とその時のラジオのインタビュアーは話してくれた
2006年04月28日(金) |
テリーデイズというBandについて・その8 |
ジョージはこう続ける
「そのサーカス団は次の街に移ると必ずそこの中心地にある広場で広報活動としてマーチングバンドを編成して演奏するんですよ
…あっでもマーチングバンドって言っても行進はしないんですけどね 小さい街の時は行進するんですけど大抵しないです… まあいいですかそんな細かい事は」
ジョージが言うには街で一番大きな広場の真ん中にドラムを据え置きその周りを笛やラッパを持ったピエロ達がグルグルと歩きながら演奏するのだという
「そのバンドでドラムをやってた人が『トム爺さん』っていうんですけど…とにかく爺さんでね
…音が出てないんですよほとんど
それで代わりに僕がやることになったんですけど」
サーカス団の団長の命を受けトム爺さんの指南によってドラマーとしての道を歩み始めたジョージであったが当然その道は簡単なものでは無かった
「トム爺さん…ヨボヨボのくせに気だけは強くて
練習中に僕がミスると…あのサーカス団に付き物のムチで背中を叩くんですよ
だから当時はうつ伏せでしか眠れなくて未だにその癖が抜けないんです
とにかく厳しかったですよ
まぁ…お陰で今の僕があるんですけど」
その小さなサーカス団にはムチを用いて調教する必要がある動物等は居なかったのだが 「トム爺さんはヨボヨボのくせに格好付ける事だけは一人前だった」 とジョージは言い 「今でも背中のアザが消えないんですよ」 と笑った
ジョージはそれからたった一ヵ月程でトム爺さんを退け代わりにマーチングバンドでドラムを叩く様になる
ピエロの格好をして
「僕がテリーデイズでステージに上がる時してたあの『ピエロのメイク』あるでしょ?
あれは奇をてらってる訳でも茶化してる訳でも無く僕にとってのドラマーの原点をあらわしてるんです
あのメイクをするとあの頃に戻れるんです いつもすぐ後ろでトム爺さんが見張ってるって ムチで叩かれたく無かったらドラムを叩けって
一音一音にそう言い聞かせる事が出来るんです」
テリーデイズとしての初ライブの時にジョージが「ピエロのメイクをしたい」と二人に申し出たところ…もちろん二人は彼の過去については何も知らなかったのでスージー・キューは「意味が解らない」と辛辣な態度を取り「馬鹿は一人で充分だ」と亜龍を横目で見ながら吐き捨てたという
しかし意外にも亜龍はこの提案に
「名案だ」
と賛成の意を示し
「間違いなく似合う」
と力強く言い 珍しくスージー・キューをなだめる役を買って出たという
ジョージのドラムはサーカス団員の間でも「ちゃんと音が聴こえる」と評判で彼もそんな状況を喜ばしく思っていたが心の中ではあるわだかまりが生まれていた
「マーチングバンドのドラムって言ったら…知ってます? 『ツッタカターツッタカター』ってヤツがほとんどですよね
もっとこうしたら華やかで格好いいのにっていつも思ってました
シンバルもタムもちゃんと揃ってるのにどうして叩かせてくれないんだろうって」
そう感じていたジョージは毎晩枕や砂袋を並べて仮ドラムを組み秘かに独自のドラムパターンを考案し誰にも言わずに本番中勝手にすり替えたのだという
「…えぇ皆怒ってましたね
しばらく誰も口を利いてくれませんでしたよ」
しかし「皆が怒るのも無理は無い」とジョージは続ける
その時のドラムパターンとはテリーデイズのコーラス部分で彼が多用する手数を重視したパワフルなものを更に強引にしたものだったらしくきっと広場には彼の延々と続くドラムロールだけが響いていたに違いない
「でもそれで確信したんです
僕はドラムを叩くという行為なら心から楽しめるんだって
そしてここにはもう僕の居場所は無いって」
ジョージはその晩うつ伏せで寝具に包まりながら「次に大きな街を訪れたら…走って逃げ出そう」と決意するが彼の衝動はその機を待たずして漆黒の暗闇へとすでに走りだしていた
それは北京から約120kmも離れた砂漠の真ん中だった
2006年04月26日(水) |
テリーデイズというBandについて・その7 |
1990年4月1日
スージー・キューは 「もう完全に手は尽くしたと思ってたけど…流石の私もあの子だけはノーマークだったわ」と言う
この日スージー・キューがいつもの様にスタジオへ行くと中から歴としたドラムの音が聞こえた 驚いた彼女が慌てて扉を開けるとそこに居たのは『まだ学制服も似合わない程の少年』だった
「もうビックリよ マジで目ん玉飛び出したんだから
いやマジだっての」
彼は『ジョージ』と呼ばれておりスージー・キューと同様に本名・年齢そして国籍も定かではない 歳の頃なら十歳になるかならないかという位で蛇孔とは余りにも無縁な存在に思えるが一年程前『ある理由』から蛇孔に拾われそしてこの頃はいつもスージー・キューの傍に居て小間使い的な役割を任されていた(スージーに命じられて亜龍にベースを届けたのも実はこのジョージであった)
「あの子もともと控えめな性格で中国語もまだそんなに達者じゃ無かったから…言えなかったんでしょうね
それで私がスタジオに来るのを先回りしてアピールしたのよ 『僕ドラム叩けますよー』って
技術的にはまぁまぁだったけど…その叩く姿が良かったの 必死というか…一生懸命とも違うのよねぇ
とにかくガキとは思えない位に鬼気迫るドラミングだったわ
その時当然『なんでこんなガキが!?』って疑問に思ったけど…質問したって通じゃしねぇしさ
…取り合えず『これは使い物になるぞ』ってそれだけを思ったのよ」
スージー・キューの言う通りドラムが叩けるにしては余りに幼すぎるこの少年が歴としたドラマーとして存在する事実の裏には亜龍やスージー・とは比べられない程に悲しいエピソードが大きく影を落としていた
しかし皆がこの事実を知るのはそれよりずっと後の事となる
テリーデイズ解散から約五年後あるラジオ番組のインタビューでジョージは初めて自身の過去について語っている
「僕は…育ててくれた人の話だと中東アジアの何処か…小さな村の生まれだそうです
…そこで生まれてすぐに売られたんです」
そしてこう続ける 「それも育ててくれた…だから僕を買ってくれた人が教えてくれたんですけど …その人っていうのは砂漠を行くキャラバンに付き添ってヨーロッパとユーラシアの間を渡りながら芸を披露する小さなサーカス団の人で …えぇいるんですよそういう人達が未だに…回帰主義とでも言うんですかね 古き良き物を後世に残そうみたいな…まぁそれはどうでもいいんですけど
それでその『渡り』の途中で僕が生まれた村に宿をとったんですって
そこの酒場で知り合った半分アル中の女が僕の生みの親らしいです
その女が言うには子供を…だから僕ですね 僕を産んですぐにダンナを亡くして 今付き合ってる男がいるんだけどそいつがとんでもないロクデナシで その女が体を売って稼いだ金で別の女を買う様なロクデナシで …挙げ句借金まで作ってどうにもうまくいかないと それでこれ以上子供を育てる事が出来ないからアンタ買ってくれないか?って
嘘みたいな話だけど僕は実際にそんな現実を与えられたんですね」
「僕は母親とおぼしき女とそのロクデナシの彼氏の明日の夕食の為に売り飛ばされたんですよ」
余りに絶望的な現実にインタビュアーも言葉に詰まってしまったがジョージ自身こういった過去を「悲観的には捉えていない」と言いむしろ「感謝している」と言っている
「こういった事が無ければ僕は多分一生その小さな村で彼女等と同じ様な現実しか得られなかったでしょうから」と
その後ジョージはそのサーカス団の面々に育てられある程度大きくなると雑用や買い出しを手伝わされる様になる しかしその内容は大人でも腰を抜かす程の重労働も少なくはなく時には砂漠越えの為の水を何十リットルも汲みに行かされる事もあったという
彼のドラミングの力強さもこういった過去が産んだ副産物なのだと考えれば少しはこの悲しい現実も救われるだろうか?
続けてジョージはドラマーになった経緯を話し始めた
2006年04月25日(火) |
テリーデイズというBandについて・その6 |
1990年2月〜3月
スージー・キューはその人脈を活かし可能な限り遠くまでドラマー包囲網を張ったがその成果は散々たるものだった
亜龍はスージー・キューが連れてきたドラマー達を 「大人になっても『オムツ』の取れないチンパンジーよりもひどいや どいつもこいつも何が一番大切かって事を考える余地も無い程に可愛い『オツム』してやがる」 と小馬鹿にしていたという
その中にはスージー・キューが未だに否定を続けるあの『是空浪士』のドラマーも含まれていたらしいのだが「服の着方が気に入らない」と亜龍に門前払いを喰らわされたという
余談だが亜龍は「人間性や趣味趣向は服装や髪型に一番良く表れる」という多少屈折した持論を強く持っておりそれは彼が路上で歌を歌う時に着ていた『Super Half Breed』と書かれたTシャツのエピソードやその後の風変わりなステージ衣裳からも窺い知る事が出来るだろう
しかしこの事柄に関して彼の日記をめくってみるとある日の記述に
あの様な格好は「したくてしてる」訳ではなく「俺自身の心が貧しい」のだから「仕方ない」と書き 本当は「何処までもシンプルなモノがいい」が「そんな大それた事」はまだ出来ないし
「こんな事を考えている自分が大嫌い」
だと記されておりその矛盾と自己否定をはらんだ複雑な心情を読み取ることが出来る
なにはともあれ今回ばかりは流石のスージー・キューも力及ばずドラマー捜索に費やされた奔走も全て無駄に終わるのだがそこで諦める様な彼女ではなかった
「いないなら…作ればいいと思ったのよ
単純でしょ?」
その時の様子を亜龍は 「理不尽な裁判所」と例え 「スージーはまるで妊娠中の最低裁判官で次から次へと罪無き罪人をこしらえていってた」と言っている
スージー・キューは蛇孔の若い人間を手当たり次第スタジオへ連行しドラムセットに座らせ「取り合えず叩けよ」と命じたという しかしそんな無理難題に答えられる者等いるはずも無くほとんどの人間が彼女から信じられない程の罵声を浴びせかけられ肩を落として帰っていった
そして一通りめぼしい人間の『裁判』が終わるとその中から『多少なりとも罪の軽い』者を何名かピックアップし亜龍の時と同様スタジオに閉じ込めドラムの練習をさせたという(実際には亜龍の時とは比べられない程に厳しいものだった様で経験した者の話では「刑務所よりも少しマシな環境」だったということである)
その時の事についてスージー・キューはこう弁解している
「ロックと出会ってから亜龍は髪を伸ばし始めたのよね …ほら彼って見た目とか凄く気にする人だったじゃない? それであの頃は多分もうかなり伸びてて…右耳がほとんど隠れちゃってたのよ
…知ってるでしょ? 彼の右耳が私にとって凄く大きな意味を持ってたって事
それで多少イラついてたかもしんないわね」
「それでは亜龍と一緒に居る意味はもうあなたの中に無かったのでは?」という問いに対しては
「あたしが几帳面な性格だってしってる?
…しかもかなり病的なのよこれが
一度始めた以上中途半端な所でやめるなんて事死んでも出来なかったわ
私はあのバンドを必ず形にして世に送り出さずにはいられなくなってたのよ
…それにあの頃には亜龍の書く曲にも多少興味が湧いてきてたし…まぁ多少だけどね
とにかくどんな手を使ってでも私はドラマーを作り上げなきゃならなかったのよ」
そう語るスージー・キューのドラマー育成法は日に日にエスカレートしていくが思う様な成果は得られず更に苛立つスージー・キューと相変わらず傍観しているだけの亜龍のもとにある一つの出会いが訪れる
2006年04月24日(月) |
テリーデイズというBandについて・その5 |
1990年2月
スージー・キューが亜龍にもたらした物はベース&ボーカルとしてのはじまりだけでは無かった
先にも記述した通りスージー・キューは幼少期から蛇孔の人間だからこそ持ち得る裏ルートによって当時の中国検閲レベルでは到底受け止め切れない斬新で過激な音源を山の様に手に入れておりその全ては亜龍の興味を引き付けるに充分な魅力を備えたものばかりだった
『受動的な学習』を強く憎んでいた亜龍にとってそれ等の音源は最高の教科書となり亜龍はここから驚く程急速に学習し成長していく
スージー・キューはこう語る 「私と出会う前の亜龍のお気に入りの曲っていったら誰も知らない様なクソ山奥の民謡とか私等の親世代が聴いてた様な歌謡曲ばっか…あと彼が母親から教えてもらったっていう日本の曲も多かったわね
…でも私が路上で初めて聴いた彼の歌は間違いなくロックだったのよ
形は悪かったけどその至る所にロック特有の輝きを持ってた
だから私はロックな音源を毎日何枚も彼に貸してあげたわ
もちろんロックだけじゃなくポップ、フォーク、ブルース、ジャズ何でもありだったけど」
亜龍は特にツェッペリン以降のハード・ロックやジャーマン・メタル…そして意外にもアメリカン・カントリーやスウェディッシュ・ポップ等を好んで聴く様になりそれ等はその後の彼のソングライティングに大きな影響を与える事となる
スージー・キューはこんなエピソードも話してくれた 「亜龍にツェッペリンの二枚目のアルバムを貸してあげた時の事なんだけど
相当気に入っちゃったみたいでさぁ…次の日私がスタジオに行ったら彼があのジャケ写で男達が被ってるのと同じ様な軍帽を被って待ってて
そしてニヤニヤしながらあのアルバムの曲を全部ベースを弾きながら歌ってみせたの
40分近くあるあのアルバム全部よ…まったく
…まぁでもその頃には彼のそんなメチャクチャな所にも慣れちゃってたから…黙って聴いてたわ
…でもつい最近ベースを始めたとは思えない位に上達してた…歌は相変わらずイマイチだったけど」
ベースを始めてから亜龍はあまり家に帰らなくなり二〜三日スタジオに籠もりっきりという事もざらにあったという
「一度だけ彼のお母さんが心配してスタジオに探しに来た事があったんだけど…それが年の割に可愛らしい人でね
『ウチの店で働かない?』 って冗談で言ったら亜龍に 『俺の近しい人間にアバズレは二人もいらないよ』 って言われたわ…
…殺してやろうかと思ったわね
いやマジで
でもお母さんに免じて許してやったの
本当に素敵な女性だった 心から亜龍を愛してるっていうのが表情や仕草の一つ一つに溢れてたわ
そんな人の前で…殺せないじゃないやっぱり
…ねぇ私の話ちゃんと聞いてんの?」
この様に亜龍が『バカな音楽好き』から『音楽バカ』へと成長すると次第に彼の作る曲にもポピュラリティーが生まれ出し彼の音楽に対するスタンスも『学習』の段階から『表現』の段階へと以降し始める
それに伴って亜龍とスージー・キューは現代のバンドでさえも未だに抱える最大の問題と初めて真正面から向き合わなければならなくなる(実際にはその負担の全てがスージー・キューにのしかかる事になるのだが)
ドラマーの不在
バンドを結成するとなった当初からこの問題は揺るぎ無くそこにあったのだが亜龍はもちろんの事スージー・キューまでもが見て見ぬ振りをしていたのだ
スージー・キュー曰く 「あの時代にドラマーを…特にロックなドラマーを捜すなんて事は
『地獄で天使を捕まえる』
よりも難しい事」だったという
2006年04月23日(日) |
テリーデイズというBandについて・その4 |
1990年1月29日
いつもの様にスージー・キューは亜龍をパイプ椅子に縛り付けギターの練習をする様に促した
「何か様子が変だなぁとは思ってたわ あんだけお喋りな亜龍が何も言わず黙々とギターを弾いてるんだもの
今思うとあれって正に『嵐の前の何とか』ってヤツだったのよね」
練習開始から僅か20分程
突如ギターを弾くのをやめた亜龍は言葉にならない程の大声で何かを叫び散らしギターを放り投げアンプを蹴り倒しそのまま外へ飛び出していってしまったのだ
取り残されたスージー・キューは「さすがの私も身の危険を感じた」らしく亜龍を追い掛ける事もせずそのままアンプから溢れるノイズにまみれて茫然としていたという
それから30分程して亜龍はまるで何事も無かった様に笑顔でスタジオに戻ってくるのだがその手には何故か何処かで購入したと思われるラジオペンチが握られていた
「戻ってきた時はもういつもの彼だったわ 皆が知ってるお調子者の亜龍よ
それで『ペンチってなかなか売ってないのね』って言った後に転がってるギターを拾い上げてガキみたいに飛び切り無邪気な笑顔でこう言ったの
『最初からこうすりゃ良かったんじゃんか』って」
亜龍は手にしたラジオペンチでおもむろにギターの一弦と二弦を切断し
「この方が全然素敵だよ」 と言ったという
「あれにはキレたね…さすがにさぁ
それまでの私の緊張を無視した彼のふざけた言動とあの『生まれながらに無罪です』みたいな笑顔にプチッときちゃって…
…それで私言ってやったの 『そんなに四本弦がいいならベース弾きゃいいだろこのオカマ野郎っ!!』…ってね
それですぐに蛇孔の若い連中を走らせてベースを持ってこさせたの
…そしたら届いたベースを見て亜龍また感動しちゃって
『俺の為に作ってくれちゃったのかい?』とか言うのよ
私…もう説明するのもアホらしくてね それでギターの時と同じようにアンプに繋いでやったわ」
初めてベースの音を出した時の亜龍はギターの時とは打って変わってはしゃぐ事は無く至って冷静だったという
スージー・キューはその時の亜龍を 「弾いてるとか聴いてるとかじゃなく…何かを確かめている様だった」と記憶している
「一番低い音…だから四弦の開放? そこから始まって全部の音を一つ一つ丁寧にゆっくり弾いていったの そして一弦の一番高いフレットまでいくとまた四弦の解放に戻って…
それを何度も何度も繰り返してたわ
私これ以上こんな事に付き合いきれないと思って帰ろうとしたんだけど…あの象みたいにクソデカいベースアンプと向き合って淡々とベースを弾いてる彼の姿が…妙に絵になってたのよ
…絵画的っていうかさぁ
私から見て丁度亜龍の向こう側からライトが照らしてて彼はシルエットだけになってたんだけど…彼ってお猿さんみたいに背中が丸いじゃない? 直立する無機質な立方体と相反して嫌味な程動物的なシルエットが解り合える訳も無いのを知った上でまるで会話するみたいに向き合ってるの
…あれ知ってる? キューブリックの『2001年宇宙の旅』って映画 あれの最後のシーンに近いものがあったわね
…まぁどうでもいいんだけどさ」
その日の亜龍の日記には スージーは「おふくろのニガい所だけを濃縮還元したオレンジジュース」だが「世界一優しい赤の他人」だと記されている
そしてベースに関しては 「クソつまらない音しかしない」と否定的な言葉の後に「そこがまるで俺の様」であり「そんなに悪くは無いと思う」と今後ギタリストではなくベーシストとして音楽と向き合っていこうとするある種『諦めにも似た決意』を感じさせる言葉が続く
日記は 「受動的な学習は滑稽の極みで そこに意味があるとするならば それは『無意味』という言葉の意味を知る可能性を秘めているという事だけだろう」 と締め括られている
2006年04月21日(金) |
テリーデイズというBandについて・その3 |
1990年1月16日
北京繁華街のメインストリートを南に一本それた裏通り そこは通称『スネーク・ストリート』と呼ばれており蛇孔が支配する中国有数の風俗街であった(亜龍が毎晩歌を歌っていたのもこのスネーク・ストリートの一角であるとファンの間では認識されているが実際には更に南に50m程それた平和公園の周辺であった)
そこには蛇孔が所有する雑居ビルがいくつかありその一つである東園ビルディングの地下一階にスージー・キューは蛇孔の利権をここぞとばかりに活用し即席のリハーサル・スタジオを作り上げた
「だってあの頃は今みたいにお手軽なリハスタなんて何処にも無かったのよ 下手に気取った敷居の高いプロ使用のものが2〜3あったけど私等みたいな人種は『門前払いされる為に門に近づく事も許されない』って感じだったの…わかる?
だから作ったのよ自分で
単純でしょ?」
そこにはマーシャルのギターアンプが2台とインド製の無駄にバカデカく胡散臭いベースアンプが1台 それとこれまたインド製でライドシンバルの割れた華奢なドラムセットが設置されていた
そしてここでこの日初めて亜龍とスージー・キューはスタジオ・セッションを試みるのだがそこである一つの事実が発覚する事になる
スージー・キューは 「『音楽バカ』ってのなら聞こえはいいけど…あの時の亜龍は『バカな音楽好き』って感じだった
…バカって言うより無知
彼は何も知らなかったのよ
音楽に対する知識がまるでゼロだったの」 と語っている
スージー・キューは自分と亜龍の為に2本のエレキギターを調達していたのだがそのエレキギターを見た時亜龍は 「こんな薄っぺらいギターで本当にちゃんと音がでるのかい…お嬢ちゃん?」と小馬鹿にするような口調で言ったという
「クックックッ…笑えない? 彼ってばエレキギターも見たこと無かったのよ 彼にとってのギターってあの小汚いアコギだけだったのよ」
呆れたスージー・キューは仕方なく亜龍のギターをセッティングしてやりアンプのスイッチを入れてやった
「彼は一発でヤラれてたわ
恋しちゃったのよ…あの音に」
彼女のこの言葉通りその日の亜龍の日記にはスージーは「魔法使い」でエレキギターは「魔法のステッキ」だと記されている またこの日の出来事は「革命」で「歴史の教科書に乗せてもいい位」とまで書いている
初めてエレキギターを手にしその音の魔力を用いて革命を起こした亜龍の小さな世界はこの時まさに至福の絶頂にあった
しかし亜龍のこの高揚感もそう永くは続かなかった
その日から亜龍は路上に立つかわりにスージー・キューとのセッションを水曜日も含めたすべての夜に行う様になるのだがそれはセッションと言うよりは亜龍の自慰的行為に近かった
「とにかくメチャクチャだったわ 独特のコード感って言うか…とにかくデタラメなのよ
…まぁ独創的と言えばそれはそうであんなのでもそれなりに曲になってたのはある意味スゴいとは思うけど…
私こう見えてもかなり几帳面な性格だからさすがにイラっときちゃってさ だから彼に一からギターを教えてやる事にしたの」
彼女は街の古本屋でギターの入門書を購入し亜龍にはそれにそったギターの練習をさせる事にした
しかし彼女のこの思惑は亜龍にとって苦痛以外の何物でも無くこれを発端としてある些細な事件が起こるのだが結果としてそれがテリーデイズの特徴の一つとして挙げられる亜龍のベース&ボーカル・スタイルを生む事となる
2006年04月20日(木) |
テリーデイズというBandについて・その2 |
1989年12月30日
この日亜龍は一人の女と出会う
初めて路上に立ったあの日からこれまで亜龍は大好きなTVアニメ『焼売童子』がO.A.される毎週水曜日を除くほぼ毎晩街角に立ち歌を歌い続けていた
後に亜龍はその頃の自分を 『他を寄せ付けない完全なる独り遊びに夢中な自律神経失調症』 と例えているがそんな退廃的状況も今夜終わりをむかえる事になる
女は突然に亜龍の前に現れ 「あんたの歌って最低ね」と吐き捨て そしてすぐさまそれを取り繕う様に 「でもその右耳の形は悪くないわ」と言った
この失礼極まりない女こそ後のテリーデイズ・ギタリスト『スージー・キュー』である
彼女は本名・年齢・国籍さえも未だに明らかにされていないが当時その界隈に巣食う夜の住人の間では知らない者はいない程に名の通った有名人であった
何故なら彼女はテリーデイズとして初めてステージに立つほんの一週間前まで北京繁華街におけるセクシャル・ビジネスを牛耳る組織『蛇孔』の中枢人物であったのだから
テリーデイズ解散後スージー・キューはサブカルチャー専門誌『空々』のインタビューにて当時を振り返りこう語っている
「私にとって亜龍の歌なんて何の価値も無かったのよ だって歌詞も日本語じゃん? 意味わかんねーし どうだって良かったのよそんな事は
私が興味を持ったのは彼の右耳だけ それだけでずっと彼の側に居たいと思ったのよ
でも私って…知ってると思うけどレズビアンでしょ 彼との間にロマンスを確立する事は不可能だった
だから一緒にバンドやろうって誘ったのよ
彼の歌は技術的にマジでクソだったけどそこに込められた感情はピカイチだと思ったわ
愛を感じたのよ凄く
だから彼が心から愛する音楽を共有する事で 私は彼の側にずっと居る事を望み そしてその通りになったってわけ
単純でしょ?」
スージー・キューもまた亜龍と同様に幼くして『蛇孔』の先々代の首領であった父を失っており彼女の記憶の中に唯一生き続けている父の姿とは 『やさしく抱き抱えられた私が玩具がわりにいじって遊んだイビツな右耳』 だけなのだという
そしてその右耳の形と亜龍のそれとが非常に良く似ているのだとも
亜龍と出会った当初スージー・キューは「全くギターが弾けなかった」と言っているがそれは真っ赤な嘘で彼女は少女時代から裏ルートで手に入れたセックス・ピストルズやクラッシュ等パンク・ミュージックに傾倒しておりギターも数本所有していた その後自身で立ち上げたオリジナルバンドも経験していて『是空浪士』というバンド名で全く無名ながら何故かヨーロッパツアーも敢行している
この事実に対してスージー・キューは未だに否定を続けている
このように突然現れた失礼極まりない女と理不尽な誘いを亜龍は 「ちょうど独り遊びにも退屈しちゃってた所だからさ」 と意外にもあっさりと受け入れたという
しかし この日の亜龍の日記には
「所在なき魂の往く出口無き回廊を照らす松明は理由無き衝動と共にあるべきだと言う我が右脳裏 それを満たすべくして現れた女に我独りまた所在なき明日を夢見る」 と書き記されている
そしてその訝しげな文章から少し離れた場所に 「ガキの様に己に忠実であれ」 とメモ書きの様に付け足されている
2006年04月16日(日) |
テリーデイズというBandについて・その1 |
1989年6月15日
イタリア系アメリカ人と中国人のハーフである父と日本人の母を持つ李 亜龍(本名:アーロン・ユウ・パークハイド/当時17歳)は その頃の中国における表現・言論に対する余りに厳しい規制に異を唱え 独りアコースティックギターを手にし北京繁華街の裏通りにて 『歌による表現闘争』 を開始する
その時に使用していたギターはノーブランドのお粗末な物で 弦は4本しか張られていなかった
亜龍曰く 「指が5本しか無いのに弦が6本もあったら大変じゃんか
俺には4本もあれば充分だよ
何より 音楽の善し悪しは弦の数で決まる訳じゃないからね」 という事だが 実際の理由は 亜龍が父の忘れ形見であるこの古ぼけたギターに新しい弦を買い与えるだけの金も無い程の貧困の住人であったという所にあると思われる
貿易船の機関士であった父を幼くして亡くし 亜龍は母がその身を切り売りして稼いだ金でここまで生き延びてきた
幼い頃から亜龍を知る人間は
「学校に上がったばっかのガキの頃はいたって普通の奴だったよ 可もなく不可もなくって感じ
アルが普通じゃなくなっちまったのは…親父さんが居なくなってからだね
常にキョロキョロしてあっちへ行ったりこっちへ行ったり デカい声で喋り散らしたかと思えば急に押し黙って
…そして気が付けばいつも居なくなってるんだ もとから居なかったみたいに何も言わずに消えちまうんだよ
変わった奴だったよマジで
居るときはとにかく良く喋ったね 相手が聞いていようがいまいがお構いなしでさ 真面目な話から下らない馬鹿話まで何でもありだった
でも特に印象に残ってるのは…夢の話かな
アルがその日に見た夢の事を詳しく説明してくれるんだけど…それがもう1から10まで意味不明でさ
デカいリンゴを崇拝する宗教団体の話とか腐った牛肉の塊にまたがって空を飛んで万里の長城を越えた話とか
…あと笑えるのがパンティストッキングを頭から被ったらその中は複雑な迷路になってて…角を曲がるたびにマッチョな軍人が待ち構えてて折檻されるんだけどその軍人ってのが実は全員サディスティックなゲイで職務に乗じて楽しんでやがるその姿勢が憎くて仕方ないってアルの奴マジでムカついててさ …『こうゆう場合は体制に訴えかける他はない』とか言っちゃって…走ってくる軍の車に飛び込もうとしたんだぜ
『手っ取り早く軍の上層部と接触するにはこれしかない』っつってさ
…イッちゃてるよね完璧に
まぁ変り者だったけどアルを悪く言う人間はほとんどいなかったよ なんか…不思議な魅力があったんだよ…上手く言えないけど
アルの言う事やる事は度を超えて馬鹿げてたけどその全てに本物の凄味があった
アイツは全てにおいて誠実で真剣だった
例え端から見たら『悪ふざけ』としか思えないような行為に対してもね
だからアルがああやって路上で歌を歌うって言った時も何の疑問も抱かなかったし みんな心から応援してたよ」
そしてしばらく間を置いて 「アイツは…いつも自分の居場所を必死で探してる感じだった」 と付け加えた
亜龍は路上に立つ時必ず胸に『Super Half Breed』と書かれたTシャツを着用し 歌は母親に敬意を表し全て日本語で歌われた
しかしその内容は彼の夢の話同様余りにも不可思議で
受け取ろうとする人間は誰も居なかった
ある一人の女を除いては
2006年04月11日(火) |
acidrain #2-6/ハローシステム |
「T46-03-1122」 そう告げると扉は 「声紋を確認しました」と言い 続けて 「右手をスキャナーに差し込んで下さい」と言った
グローブを外し僕は言われるがままに右手を複合スキャナーに差し込んだ
五本全ての指紋と静脈パターンを読取り終わるまでの約30秒間
毎朝の様に僕の頭の中をよぎる言葉がある
「お前はいったい何を守っている?」
そして 「お前が守っているのはルールだけで その向こうに取られて困る様な物なんて何も無い そもそもお前が守っているルールというものは必要に迫られて初めて生まれくるもので それを別の場所で適用する事は無駄以外の何物でもないんだよ」
…ピー…ピピッ…プシュー
重い扉が開き僕は更に重苦しいエントランスへと招き入れられる
「IDを確認しました。おはようございますT49-03-1122。今日も一日元気に働きましょう!!今日のあなたのラッキーナンバーは4と9!!ラッキーアイテムは……」
先ほどまでとは打って変わって陽気な声でまくしたてるシステムに背を向け僕はゆっくりと防雨服を外してゆく
T49-03-1122 それが僕だ 僕には名前というものが無い 僕だけではなくこの世界に住む者は全て
かつては人の子として生まれ 親があり 呼び名も授かっていたのだろうが それらはあまりに昔の事で思い出にもなれず 過去の暗闇の底にへばりついている
「…疲れた時は休むのが一番!!地下5F、喫茶“パプリカンヌ”では只今本格派インスタントコーヒーフェア開催中!!定価の半額にて……」
必要なものだけが残り 不要なものは淘汰されていく
それは名前であっても同じ事
脱ぎ捨てた防雨服を重たく抱え僕はエントランスを後にする
「…あなたの一日が幸せでありますように!!」
淘汰されずに残るものは ほとんどが味気ないものばかりだ
2006年04月09日(日) |
acidrain #2-5/愚かしい行為 |
レインソースは前日の段階での純気温予報(仮にレインソースを稼働しなかった場合の気温を予想したもの)をもとに算出された必要稼動率に準じて発動されるのだが 昨日の18:00の時点で今朝の必要稼動率は45%となっていたはず
しかしこの雨の量は70%…いや80%はゆうに超えている
「どうしてこんな事になっているのだろうか?」
純気温予報の信憑性は極めて高く ずれが生じたとしてもそれは摂氏1℃未満の事 可能性としては低い
レインソース稼動率は基本的にコンピューター制御されており 手動により調整する事も可能ではあるが そんな大義な事を望んでする職務熱心な変り者はこのセクターに存在しない
「では何故?」
余りに愚かしい考えるという行為によって 先程までの憂欝は何処かへ遠退いてしまった事にも気付かず いつしか坂は終わりをむかえ 僕はレインソースの足元に立ち尽くしていた
無機質な表情で冷徹な扉はこう言う
「おはようございます、ミスター。ID確認にご協力願います。」
2006年04月03日(月) |
acidrain #2-4/違和感 |
坂を半分程登った所で初めて僕はいつもと違う何かに気付いたがそれが具体的に何なのかはわからず傾げた首を重たくぶら下げたまま歩き続けた
体から放たれる熱は完全に逃げ場を失い 世界は蒸せかえっていた 呼吸はとうの昔に沸点をむかえ まどろむ思考は溶け落ちながら それでも僕に坂を登れと指示を出す
進む僕の歩幅を恨めしそうに眺めながら雨水は身を寄せ合い流れ落ち 不意に足をとられた僕は思わず立ち止まりそして傾げていた首をもたげて先の違和感についてある結論を導きだす
雨の量が いつもより 度を超えて 多過ぎる
音楽はアート(※注釈1)の分野にカテゴライズされるという前提で
ライブに求められるものはアーティスティックな感性ではなくバラエティー番組の様なエンターテイメント性であるか否かということについて
※注釈1 この場合アートとは表現者のエゴイズムでしかなくそれを受け取ろうとする者には掛け替えの無い宝であるがそうでない者にとってはクソ以下の価値も無いものとする
聡明な言葉 『そんな迷路に迷った時大切な事は
物事を単純化し
そして決して立ち止まってはいけない』
単純な事が一番難しい
止まるな危険
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