今日もムー太郎がお出かけ。いつもだと駐車スペースがたくさんあるところへ行くので1人で勝手に出かけるんだけれども、今日は学校へ行くとのことだったのでムースが送っていってあげなければいけなかったの。なぜかというと、今は学校の周りには車を停める場所がほとんどないから。もしムースが毎日のように学校へ行っているのなら、パーキングチケットを年間単位で買うので、指定された場所であればいつでも停めることが出来たんだけど、今は週に1度行くだけなので、パーキングチケットを買っていないの。だから路上駐車をしなければいけないんだけど、その場所があまりにも少なく、いつも停めるところがないと騒いでしまうんだ。それなので、最近は学校に行く用事があるときは、用事のない人が車で送ってあげるようにしているんだ。
そんな訳だったので、今日は起きてからすぐに身支度をしてムー太郎を学校まで送ってあげたの。ムースは昨日の晩も今日の明け方まで起きていたので、起きたのはお昼近くで、しかも眠い状態。それでも、気合で身支度を整えてムー太郎を学校まで送って行ったんだ。
ムー太郎の用事は1時間程度だったので、それまでは家で電話のかかってくるのを待機していたの。最近思うけど、ムースはかなり献身的だなぁって。夫婦なので当たり前という人もいるかもしれないけど、夫婦だからって献身的でない人も世の中には多くいると思うので、ムースは自分が献身的なことを当たり前とは思わない。だから、こんなに献身的な自分自身を褒めてもいいのではないか、と思うようになったかな。自分自身を褒めるだなんてナルシストのようだけど、そうしないと誰かが褒めてくれる訳でもないし、逆に他人からはそんなの当たり前といった感じでいわれ、足りない部分を非難されることもあるだろうから。そうすると、自信を失ってしまうかもしれないので、出来る限り自分を褒めるようにしないとね。
ムー太郎を迎えに行って、家に戻ってきてからは、「小説のようなモノの書き方」というサイトの記事を読んで、ちょっとした書きものが進展するようにいろいろと考えを巡らせていたの。特に視点のずれというのが起こるのはイヤなので、人称(1人称であるか、3人称であるか)については気をつけるようにしているんだ。まぁ、ムースのような素人が何かを書くには1人称が便利だけどね。ただ、小説を読んでいると3人称が一般的だと思うの。というか、ムースは固定観念としてプロの小説家は3人称で文章を書いているものだと思っていたの。しかし、今日その固定観念があっさりと覆されてしまったんだ。
ムースが最近読んだ本といえば、村山由佳の作品。実際には違うんだけど、ふと頭に思い浮かんだのが村山由佳の作品だったの。だから、今日は最近読んだと思われる本をもう1度読んでみたの。そうしたら、彼女は1人称で書いていたの。ムースが今日少しだけ読んだのは、「おいしいコーヒーの入れかた」シリーズの1つだったんだけど、あの物語は「ぼく」という主人公の視点ですべてが描かれていたの。
固定観念が崩されてしまうのはイヤだったので、別の本も開いて見たんだ。それは片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」。これも「ぼく」という主人公の視点で物語が描かれていたの。最近ムースが読んだ本の多くは1人称で物語が描かれていたの。固定観念が覆されたのでちょっとショックだったかも。そこで1つ思ったことがあったんだけど、それは、最近読んだ本は読みやすいと思っていたので、1人称で描かれているものは読みやすいのではないか、ということ。もちろん、最近読んだ本の文体も読みやすいのだろうけど、やっぱり視点の違いが読みやすさの違いを生み出しているのではないかってちょっと思ったんだ。実際にはどうだかさっぱりわからないけど。
それにしても何においても、書くという作業は難しい。書くという作業には、書いたもので相手に何かを伝えるっていうことも含まれていると思うから余計に難しいと感じるのかな。作品や作者の意図がどう伝わるかは、作者の文章を書く力や読者の読解力というものの有無によっても違うだろうから。世の中の人、みんながみんなすごい力を思っていれば、あとは感性の問題だけなので、文章を書いたり読んだりするのは楽になるんだろうけど、そういうことはないもんねぇ…。 |