昨日ねぇ、この日記を書き終えてアップしたくらいに1通のメールが舞い込んで来たの。夜も遅かったし、誰だろうって思ったら、英会話の先生だったんだ。具合が悪いから明日の英会話は出来そうにないってものだったの。そっかーって思って、そのままネットを巡回してたら、かなり夜更かししちゃって、今日もお昼近くまで寝ちゃった。っていっても何となく眠いんだけど…。ちょっとだれちゃってるのかな。ここんとこ、調子がいいと思って張り切りすぎたかな?ちょいペースを落とさないと。まぁ、お昼になるまで寝てたから、チャットすることはなく、ちょっとだけネットを巡回。だって気になることがあったんだもん。 昨日、「無知は幸せ」って題でいろいろなことを書いてみたものの、実は自分で何を書いているかあんまり理解してなかったの。っていうのはね、書いてる時って結構興奮した状態になってるし、冷静な判断ができないのね。そんなわけで、もう1度昨日書いたものを読んでみたの。結論がずれちゃってるねぇ。「無知は幸せ」っていう書き出しで、最後は興味を持っていろんなことを知りましょうってなってるもんねぇ。うぅー、やっぱり書くって難しい…。 だから今日はネットでエッセーの書き方っていうキーワードで検索してみたのね。そうしたらねぇ、このキーワードでひっかかってくれるのはどれもこれも英語のエッセーの書き方なの。別にムースは英語のエッセーの書き方を知りたいって思ってないから、これは却下。で、次に書き方っていうキーワードで検索したら、やっと1つこれかな?っていうサイトが見つかったの。そこには日本語での文章の書き方が載ってたのね。ちょっと抽象的ないい方だなぁ…。日本語の論文やエッセー、報告書等の文章の書き方が載ってたのねぇ。エッセーを書くムースにしたら、日本語での効果的なエッセーの書き方っていうのを知りたかったから、このページだぁーって思って、順番に読んでいったんだ。 何が問題ってことから始まって、どういう風に書けばいいかってことも書いてあったの。その中で、報告書等の実務文章と小説、エッセー等の楽しむための文章は違うって書いてあったんだけど、あれっ、エッセーって小論文じゃないの?って思いながらも、そこはさらりと読み流して読み進んでいったんだ。 そしてどういう風に書けばいいかっていうところに入ってからは、書く上で大切なことがたくさん書いてあったから楽しみながら読んでいったんだ。認知心理学とかっていう心理学の裏づけまで取りながら、どういう書き方がいいかってことまで書いてあったの。読んでてなるほどーって思ってたんだ。読者って文章を読んでいく上で次に何が書かれているんだろうって予測をしながら読んでいくんだってねぇ。って考えてみればムースもそうなんだけど。小説だったら展開を楽しむ部分があるから、突然の出来事にも驚きながらも、それが読者の興味をひきつける結果になるかもしれない。けれど、エッセー等の文章は書き手の考え方を示してるものだから、突然場面が変わっちゃうと読んでる人がビックリしちゃうみたい。起承転結の有名な例、「京の五条の糸屋の娘 姉は十七 妹は十五 諸国諸大名は弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」っていう文章を見たときに、突然、文脈に関係ない諸国諸大名が出てきたら何この人って思うし、その人は糸屋の娘とどういう因果関係にあるのって思うもんねぇ。だから起承転結でいう転の部分はいらないっていうの。確かにそうだよねぇ。 それとねぇ、読者が予測できるように書くことについての例も挙げてたの。「昔々、おじいさんとおばあさんがいて…」って文章があったときに、読者はおじいさんとおばあさんの話なんだなって考えるよね。そうすると読者は次に「おじいさんとおばあさんに関する情報の入力を予測」するんだって。「正確にはおじいさんに関する情報の入力を期待します。なぜならおじいさんとおばあさんという順序で述べられているから」っていうのがそこに書いてあったんだ。なるほどーって思いながら読んだんだ。 ここまで来るとじゃ、どうやって書けばいいの思ってくるよねぇ。もうねぇ、ムースもどう書けばいいのぉーって叫びそうになりながら読んだたんだ。でもねぇ、今1つどう書けばいいかをつかみきれないまま、ページだけは進んでいくの。でね、あれよあれよと思ってる間に、どう書けばいいかっていうページは終わり。で、次に出てきたのが、正しく書くとどのような文章になるかっていうのの紹介だったの。これはねぇ、よかったよ。だって違いがよくわかるんだもん。書き直したものの方がかなりよくわかるの。いいたいことの順番を並べ替えて、段落をうまく使って。これはいいって思いながら読んでたんだ。でね、何を題材に使ったかというと、とある新聞の社説だったの。この間久しぶりに読んだものの、ムースは社説なんて普段読まないんだ。でね、改めて読んでみたんだけど、読みづらい文章だってことがわかっちゃった。そんな気がしたの。新聞ってムースの頭の中じゃ、プロの書き物って思うけど、ちょっと…って感じだった。 ムースねぇ、英語のエッセーの書き方は今いってる学校で、先学期に習ったのね。先学期は英語の授業を取ってて、週に2回、授業があったの。毎回宿題として200語程度のエッセーの宿題を出されていていたから週に2回は英語でエッセーを書いていたのかな。っていっても語彙もないし、日本語ですらどう書いたらいいかわからないエッセーだから、いつも直されまくってたけど。英語のエッセーって最初に私はこう思いますっていうのを書いて、そのあとはこれでもかぁー、これでもかぁーってくらい自分のいいたいことを裏付けることを書いて、って大体3つなんだけど、それで最後に結論で最初にもいったけど、だから私はこう思うってことを駄目押ししてエッセー終了って感じなの。だから英語での書き方は何となく頭の中に入っているんだ。 話を書き方のHPに戻すと、最後に知識人の書いたものを直すっていう題だったの。どこかの学校の先生が書いたものだったんだけど、ムースのエッセー同様、ちょっとボケてるの。でね、このHPの作者がどう直したらいいかを次のページで紹介したんだけど、そこをゆっくりと読んでいったの。最初に総論を書いて、そのあとはそれを裏付けることを3つくらい書く。で、最後に、だから最初にいった通りでしょ、こーなんだよって。そんな感じだったの。あれっ、これって…。どこかで見たことがあるような…。最後の最後のになってムースはどう書いたらいいかわかりました。英語で書くエッセーと一緒だったの。ちょっとがっかり。日本語で書くエッセーとはいうものの、手法は英語と一緒だったの。なーんだって感じ。だって、起承転結はどうのとか、文章は短くとか、日本語での書き方はこうなんだよって感じに受け取れてたんだけど、とどのつまり、言語に関係なく手法は一緒。最初にいいたいことを書いて、これでもかぁー方式みたいなの。高校で教えてもらった序論結も起承転結もどこ吹く風。このHP自体が起承転結になってて、ムースはその展開の面白さに最後まで引っ張られたのねぇー。そんな感じだった。でもこれを読んでどう書いたらいいかわかったから、今度はこの日記を読んでる人に伝わるように書けるようになるかなぁーってちょっとだけ思っちゃった。 今日の昼はこんなことを思ってたのね。それから発音の矯正のクラスへいったんだけど、そうしたらねぇ、このエッセーの話じゃないけど、話が飛んじゃうと聞いてる人がわからなくなっちゃうから、流れを作っていってあげなきゃいけないってことをいわれたの。うぅーん、鋭いところをついてくる…って。今日は1日中そんなことを考えなきゃいけない日なのかなって思っちゃった。だから何となく今日は会話が進まなかったの。ちょっと考えすぎちゃったかな。考えすぎちゃうから、無意識に緊張しちゃうし、そのせいで顔がこわばっちゃうし。だから久々にいわれたんだ。瞬きが多いよって。それに顔の筋肉が緊張してるって。そりゃ、緊張しちゃいますよ。リラックスできないんだもん。 文章にしても、話すことにしても、筋道を立てて、流れを作っていかないと読んでる人、聞いている人には何のことだかわかってもらえないっていうのはわかるんだ。そして最後に結論をいう。多少途中がぼやけても、これさえしっかりしたらどうにか話としてはまとまりそうだし。笑い話でもそうだけど、オチってものが必要だからね。それがないと、どこで終わったんだかわからなかったり、尻切れトンボになっちゃうしねぇ。モヤモヤした感じが残るだけ。だからどうにか結論だけはしっかりとしていきたいなぁーって思ったんだ。日本語が美しいと思われるのは直接的にいうだけじゃなくて、遠まわしにいって、いいたいことをぼかすからいいっていうところもあると思うの。でね、ムースのいいたいことは何だかわかんないことも多々あるだろうとは思いますが、日本語の美しさを強調したいんだなぁーってことにしてください。っていつも日本語の美しさを強調しちゃうことになっちゃうけど。そして、こんなムースの駄文でも、もし何かを感じることがあって、それが何かの役に立つことがあればうれしいなぁーって思います。 今まで、新聞に載ってる社説は小論文の勉強のためには非常に参考になり、いいものだっていろんな人にいってきたのね。でも、今日は考えを改めました。社説も役立たないことがあるってわかったし、全面信頼はしちゃいけないんだなぁって。そして小論文についての書き方もネットで調べて読んだけど、入試に必要な小論文は小論文って名前であって小論文じゃないこともわかったの。なぜかっていうと自分の考えを書く必要なんてないって思ったから。自分の考えよりも大切なのは、参考資料として書かれた文章をいかに効果的に自分の書く文章に盛り込めるかってこと。要は入試の小論文の試験におけるスポンサーなので、スポンサーの顔を潰さずに、持ち上げてくださいという試験だって感じたの。だから社説なんて読む必要は全くなし。主張のはっきりしない社説を読んだところで、スポンサーの顔を立てる文章なんて作れないから。今まで、社説は考えを述べてる文章であって、小論文っていうものは自分の考えを述べるものだって思ってたの。だから2つのものは関連があるって考えてたけど、それは違うとわかった今は、入試用の小論文を書きたい人は予備校へ、社説を書きたい人はどっかへいって勉強してくださいっていったほうがいいかもしれないね。 ものを書くってことが大変なことはわかってるの。話す以上に大変だって。だって読み直すことが出来るから、もし矛盾があれば、その矛盾をいくらでも指摘することができるもん。でもねぇ、ものを書くってことは自分の考えをまとめるいい練習になるし、ものを順序だてて考えるいい訓練になると思うの。書くことが好きじゃない人は、それを読んで考えるだけでもいいと思うの。だっていろいろなものを読んでいくうちに目が肥えていって、いいものと悪いものが自ずとわかってくるようになるから。それにムースは小論文を書かせるっていうことはとってもいいことだと思ってたし、そのために社説を読むってことはいいことだと思ってた。でも今日はちょっと失望。この2つの事柄の関連性がもうちょっとしっかりしていて、読むことと書くことをやり続ければ、大学教授が嘆くような生徒ばかりじゃなくなると思うんだけどなぁ。 今日も、日本語の美しさを強調したままムースの日記を終わりにしたいと思います。 |