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Mi Pensamiento Diario

無知は幸せ

今日、プログラミング理論の中間試験がありました。昨日の日記で予告した通り、今、後悔の念でいっぱいです。もう本当に情けない。だって、家に帰ってきてから、今日解くことの出来なかった問題を見直したら、すぐにやり方がわかっちゃったんだもん。いつものことだけど、本当に学習っていうことがわからないみたい。前回の試験は驚異的な運に助けられ、どうにか平均点を越える点数、っていっても1点だけなんだけど、を取って、喜びと同時に自分自身の行動を反省したばかりだったのに…。とはいっても、終わってしまったものはしょうがない。期末試験でどうにかすればいいって今は自分にいい聞かせてるんだ。まぁ、くよくよと考える傾向があるムースなので、来週の月曜日に試験結果が返ってくるまでは、ちょっとだけドヨォ〜んとしてまーす。
昨日、ネタがなくって書くのにかなり苦労したしたけど、今日は逆にちょっといわせてぇーっていうことが。実は昨日の晩、この日記を書く前にネタ探しに見ていた日記を読んでて、ふと思い出したことがあったの。それはムースがスペインにいたときのことなんだ。ムースの行っていたスペイン語の学校では、最初の2時間はスペイン語の文法を主体とした授業だったのね。で、30分の休み時間をはさんで、後半の1時間半は会話の授業だったの。会話の授業といっても、実際は討論会なんだけどねぇ。朝まで生TVみたいなものかな?ある議題があってそれについて話し合うってものなの。一昨日の捕鯨問題じゃないけど、いろいろなことが議題に上がったの。在り来たりなネタとしては、死ぬ権利の問題とか、中絶問題とか、環境問題かな。この辺がいつも繰り返される議題。でもねぇ、ある日、先生が黒板に5個くらい格言じみたことを書いたの。例えば、「人は生きるために働くのであって、働くために生きるのではない」とか。これって日本人を皮肉ったものなんだけどねぇ。もちろん、プログラマーを辞めて渡西したムースだったので、1日何時間働いてたか聞かれたけど。当時は9時出社で10時に会社を出ることが多かったので、13時間は会社にいるって答えたらかなり驚かれたけど。ってスペインから帰ってきて勤めた会社では、もっと働かされたんだけど…。まぁ、そんなことはいいとして、その他で覚えているものが「無知は幸せである」ってことなのね。そのクラスは11人くらいも生徒がいたんだけど、って普通は7、8人だから、ほとんどの生徒がそれは違うっていったの。だけど1人のイタリア人が、そう思うっていったからそれは大変だったの。何にも知らないことは不幸だってことから始まって、こういうことがあった時に知らなければ何も出来ないとか、ああいうときに困るとか…。クラスのみんな対イタリア人って感じだったんだ。ムースはあまりしゃべれなかったので、議論にはほとんど参戦しなかったのね。って酔っ払うとよくしゃべってたけど、それ以外はあまりしゃべらない人だったから。って今もそうだけど…。先生もムースがそういう生徒だってことを知ってたから、ある程度みんなが落ち着いてきて静かになったところでムースにどう思うか聞いてきたの。で、ムースはイタリア人と一緒。「無知は幸せだ」って思うって答えたの。そう答えても、いつもつるんでるメンバーだったからムースが責められることは一切なかったんだけどねぇ。でもねぇ、ムースは今でも「無知って幸せ」だと思うの。だって何も知らないんだもん。いろんなことを知れば知るほど自分の愚かさに気づいていくと思わない?時に何でこんなことも知らないんだろうって自己嫌悪に陥ったり。何も知らなければどんなに幸せだろうと思う。
でね、「無知は幸せ」って検索してみたんだけど、「無知は幸せ」ではひっかからなくって、ひっかかったのは「無知は罪」ってことだったの。だから今度は「無知は罪」で検索したのね。いつもはヤフーで検索するんだけど、今日はライコスで検索したんだ。そしたら、まぁー、次から次へと出てくる出てくる。あまりの多さにビックリしちゃった。もちろん1つ1つ中身なんて見れないから、簡単な説明文しか読まなかったけど、みんな「無知は罪」って思ってるんだねぇ。ただねぇ、それを見れば見るほど何となくイヤな気分になっていったの。っていうのはねぇ、「無知は罪」だから無知な人はいけないとか、困るとか、その人たちを切り捨てるような感じに受け取れてきたから。何となく悲しかった。だって、無知な人は無用なのかな?って思えるんだもん。っていうか、無知な人っていらないって思われてるんだと思うの。ムースも何度か「使えないやつだ」って面と向かっていわれたことがあるの。カッチーンってきたから、高校生の時は口より先に手が出てたんだけど…。きゃー、恐い。もちろん、今は非常に穏やかだから黙って我慢してるけどねぇ。でも、何でそんなことをいわれたか考えたの。「期待通りにやってくれない=私のいったことがわからない=何も知らない」ってなってる気がするんだ。そして「『何も知らない=無知』は罪」ってなったら、それは困ってしまうでしょう。っていうか、困ったことは何度もあるんだけど。
誰でも自分の期待したようにことが運んだら、それはうれしいよねぇ。でも、うまくいかないのが現実だと思うんだけど。で、自分の期待したようにいかないときに、あの人は何も知らないからっていって人を切り捨ててないだろうか?万人が万人、何でもかんでも知ってるわけではないのに。ムースが昔いわれたものの中で、メジチ家を知らないことが無知であるといわれたことがあるのね。歴史なんて中学生の時にちょっとやって、大学の時にちょっとやったきりなので、バリバリの文系の人のようにはわからないから。メジチ家だって今でこそ名前だけは覚えたけど、今だにわからないんだ。でも、当時いわれたのは、それは常識であって、知らないことは非常識だって本当にいわれたの。だから思うの。人のことを無知だとか、無知でないといったり、決め付けたりするのは、それをいう人の物差しで計っていってるんだから気にしちゃダメなんだなぁーって。だってムースは旅行が好きなこともあって、高校時代は地理を勉強したんだけど、メジチ家のことを聞いた人にイグルーって知ってるって聞いたら、そんなことは常識として知る必要がないと一笑されちゃったんだ。イグルーってエスキモーの氷の家、マンガとかに出てくるドーム型した家のことなんだけど、常識じゃないイグルーだけれども、カナダのビールのコマーシャルでは「ボクはイグルーに住んでない」っていう台詞があって、多くのカナダ人はイグルーが何であるか知ってるのに…。
実は、この常識だっていってた人こそ自分の世界以外何も知らない、無知で幸せな人じゃないのかなって思う。「無知は罪」っていうけれども、人は何かしら無知なところがあると思う。だって、すべてのことを知るのは不可能であるから。自分自身の存在が罪であるというなら、「無知は罪である」っていうことに納得がいく。でも、自分の物差しで人を計って、この人は自分が聞いたことを知らないから無知だと決め付け、「無知は罪だ」っていうのだったら甚だおかしな話だと思うんだ。そして、人をばさばさと切り捨てていく。そろそろやめたほうがいいんじゃないかなぁーって思うんだ。
「無知は罪である」っていう反面、ものを知りすぎていると「出る杭は打たれる」んだよねぇ。こんなことばかりしてると、いいことなんて何にもないのにねぇ。横並びで、人と同じことやってるから安心する気持ちはよくわかるけど、どんどん自分を失っていっちゃってるような気がする。他人と同じことをすることで、自分の存在価値を確認しても、いつも自分の心に隙間を感じちゃうと思うんだけどなぁ。神戸新聞に「よみがえれ知力」っていう連載があったみたいなの。で、その第1回目は「さらば日本/ノーベル賞に最も近い男」っていう題で1人の大学教授が紹介されてるのね。ムースねぇ、去年の夏にTVでたまたまこの人のことを見たことがあったから、この記事を読んだ時にピーンときたの。この人、いろいろな発明をしてるのに、何の評価もされてないの。ちょっと風変わりな人かもしれない。わがままかもしれない。でも、功績はしっかりと評価してあげないと。期待通りにやってくれないからって切り捨てていくのはやめようよ。だって彼がいろいろな国の人から評価された瞬間においしいところ取りが始まるんだから。プロ野球を見ればわかると思うけど、いくらお金をかけて花形選手ばかりを揃えたって優勝できないのと一緒で、おいしいところだけかき集めたって、うまくいくわけないのに。最近のノーベル賞の受賞者の中で、純粋に日本だけで研究して賞に結びつけた人って何人いるの?みんな自由な土地を求めて日本を離れちゃったじゃない。しかも出る杭の人の方が知らない人にわかってもらおうと一生懸命だし。ムースが落ちこぼれ街道を歩いてきてわかったのは本当に賢い人と似非(えせ)の賢い人。似非の賢い人はムースがわからないところを聞いてもちゃんと説明が出来ない上に、ムースをバカにして切り捨ててくれた。でも、本当の賢い人はムースがわかるようにわかりやすく説明してくれて、切り捨てる人はいなかった。だからいうの。もう「無知は罪だ」なんていって切り捨てるのはやめようよ。わからない人がいたら教えてあげればいいことなんだから。中には「無知は罪ではなくて、調べようとしないことが罪なんだ」っていってる人がいたんだ。これなら十分納得がいくの。もし調べ方がわからなければ、調べ方を教えてあげればいいんだし、何がわからないかがわからないんなら、それを一緒に見つければいいんだから。
この春から小中学校はゆとりの教育という名のもとに、完全週休2日制になったみたいだね。ムースの視点からものを見ると、何がゆとりなんだかよくわかんないんだけど。もし、本当にゆとりの教育なら、この間もいったけど、そのゆとりの時間を使って子供達がいろいろなものに興味を持てる環境を作っていけばいいのにねぇ。昨今、大学生の学力が下がってっていって悲観してるみたいだけど、当たり前だって。大学の教授が生徒と話をしても一歩通行でつまんないって。何をいっちゃってるんでしょう。いつもいうけど、小学校の頃から一方通行の授業をしてきて、マークシートの入試になれて、自分で考えるってことをやめてしまってるのに、どうして自分の考えが生まれるだろう。本当に不思議。しかも成績の悪い生徒を切り捨てて行くのにねぇ。英語だって出る単に載ってる英単語を覚えろっていう教育はするけど、出る単に載ってる英単語を使えるようにしてくれる先生なんて全然いないじゃんねぇ。あれだけの語彙があれば、英語だってかなりのレベルのことが話せるのに…。あれだけの語彙力で、耳が慣れたら、英語の映画を見たときに字幕なんてなくたってどうにかなるのに…。もったいない。
相変わらず、論点がボケてしまったけど、「無知は罪である」なんていってことはないの。知識がなかったら、それを知ればいい話しだから。でもそれより大切なのは、知りたいと思う気持ちであって、好奇心であると思うの。好奇心はありすぎると、時にイヤな思いをしてしまうこともある。さっきも書いたけど、いろいろなことを知っていくと自分の愚かさがわかっていくの。悲観してしまうことがあるの。だから知るってことは不幸だっていうの。無知だと自分の愚かさに気がつかないことがあるから幸せだっていうの。でもねぇ、どんなことでもいいから興味を持って知ろうとする気持ち、好奇心を持って知ろうとする試み、これが大切なことであり、これがあるから生きていて楽しいんじゃないのかな。ムースはそう思ったんだ。
結論がボケちゃったけど、どうにか理解してください。表現が下手でごめんなさい。
この日記を毎日読んでくれる人へ。いつもムースの駄文に付き合ってくれてどうもありがとうございます。今日はムースの考えをちょっと書いてみました。読みづらいところ、理解しづらいところが多々あると思うので、いつも書いてるものの流れから何が書きたかったかを汲み取っていただければ幸いです。


2002年04月03日(水)




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