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■ 目覚まし時計が鳴る前に。
「変わらない」という言葉には意味が2つある。と、思う。 時は常に流れ、変わらないモノなど無い、という話はさておき。
川に空き缶を捨てる。 流れていく空き缶と共に自分も歩いていく。 空き缶と自分の距離は、変わらない。
同じように、川に空き缶を捨てる。 流れていく空き缶を見送りつつ、自分は一歩も動かない。 自分の位置は、変わらない。
という2パターン。 それを色々なことに置き換えて考える。 時代に置き換える、自分の短所に置き換える、現状に置き換える。
自分が自分であることは言うまでもなく大切である。 変わらないことが重要なこともある。 友情とか、努力とか(実は全く同じってこともないけど)
変わらないように見えて、変わっているとも言うのは前者のパターン。 後者も変わっていると言えるけど(自分と空き缶の位置は遠くなる) どちらが好ましいかと言えば、場合によるが、改善すべきことがあるなら前者だろう。
このままではダメなのだと、わかっているなら動かなくては。 大前提にあるのが、変わろうとする「気持ち」 でも、それだけでは変われない。 変わろうとする「努力」がなければ、結局何も変わらない。 「気持ち」は偽りになってしまう。
このままではダメなのに、それでも変わりたくないのなら何かを捨てればいい。 失ったことを悲しんだって、誰も同情しなければ慰めてもくれない。 単なる甘えである。
これまでのことを謝罪しても、次また同じことをするのなら。 二度と繰り返さないと誓えないのなら。 謝罪など無意味である。 相手の心には伝わらない。 信憑性など無いのだから。
信頼を得るということは、何かに対して真摯であることが必須条件なのだろう。 心の繋がりを得るということは、何かに対して持続の努力をすることなのだろう。
何もしない者が、何かを得ることなど理不尽。
私は努力しない者を認めたりはしない。 その対象は自分自身だって例外ではない。 自分を叱咤することが自分に厳しいことなのだとしても、決めたことを簡単に覆したりしたくない。 信頼出来ない人だと、思われたくない。
・・・。
変わらない事への執着が、大切なモノへの執着に繋がることはあるのだろうか?
人任せにすることが、誰かを真摯に想っている証拠なのだろうか?
誰にでも優しいことが、誰でも守れることになるのだろうか?
誰だって、誰にでも心は開かない。 少なくとも私は、心を開いていない「フリ」なんてしない。
簡単に何かを捨てたり出来ない。 何かを選ぶ時は、いつでも「これで良いのか」と何度も考える。何度も悩む。 時には自身が納得出来ないこともある。 けれど、選ぶのなら覚悟がある。
・・・そういうことが、そうすることが、もの凄く自分に厳しいことなのだろうか。 難しくてなかなか出来ないことなのだろうか。 堅い考えなのだろうか。
私は貴方を認めない。 認めることなど何故出来よう。
変わるつもりがないのなら、何もかも捨てる覚悟くらい持つべきです。 ・・・・・・卑怯です。
2002年04月19日(金)
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