やさぐれ日記・跡地
アルティーナ



 目覚まし時計が鳴る前に。

「変わらない」という言葉には意味が2つある。と、思う。
時は常に流れ、変わらないモノなど無い、という話はさておき。


川に空き缶を捨てる。
流れていく空き缶と共に自分も歩いていく。
空き缶と自分の距離は、変わらない。

同じように、川に空き缶を捨てる。
流れていく空き缶を見送りつつ、自分は一歩も動かない。
自分の位置は、変わらない。

という2パターン。
それを色々なことに置き換えて考える。
時代に置き換える、自分の短所に置き換える、現状に置き換える。

自分が自分であることは言うまでもなく大切である。
変わらないことが重要なこともある。
友情とか、努力とか(実は全く同じってこともないけど)


変わらないように見えて、変わっているとも言うのは前者のパターン。
後者も変わっていると言えるけど(自分と空き缶の位置は遠くなる)
どちらが好ましいかと言えば、場合によるが、改善すべきことがあるなら前者だろう。

このままではダメなのだと、わかっているなら動かなくては。
大前提にあるのが、変わろうとする「気持ち」
でも、それだけでは変われない。
変わろうとする「努力」がなければ、結局何も変わらない。
「気持ち」は偽りになってしまう。

このままではダメなのに、それでも変わりたくないのなら何かを捨てればいい。
失ったことを悲しんだって、誰も同情しなければ慰めてもくれない。
単なる甘えである。

これまでのことを謝罪しても、次また同じことをするのなら。
二度と繰り返さないと誓えないのなら。
謝罪など無意味である。
相手の心には伝わらない。
信憑性など無いのだから。

信頼を得るということは、何かに対して真摯であることが必須条件なのだろう。
心の繋がりを得るということは、何かに対して持続の努力をすることなのだろう。

何もしない者が、何かを得ることなど理不尽。

私は努力しない者を認めたりはしない。
その対象は自分自身だって例外ではない。
自分を叱咤することが自分に厳しいことなのだとしても、決めたことを簡単に覆したりしたくない。
信頼出来ない人だと、思われたくない。

・・・。


変わらない事への執着が、大切なモノへの執着に繋がることはあるのだろうか?

人任せにすることが、誰かを真摯に想っている証拠なのだろうか?

誰にでも優しいことが、誰でも守れることになるのだろうか?


誰だって、誰にでも心は開かない。
少なくとも私は、心を開いていない「フリ」なんてしない。

簡単に何かを捨てたり出来ない。
何かを選ぶ時は、いつでも「これで良いのか」と何度も考える。何度も悩む。
時には自身が納得出来ないこともある。
けれど、選ぶのなら覚悟がある。


・・・そういうことが、そうすることが、もの凄く自分に厳しいことなのだろうか。
難しくてなかなか出来ないことなのだろうか。
堅い考えなのだろうか。



私は貴方を認めない。
認めることなど何故出来よう。

変わるつもりがないのなら、何もかも捨てる覚悟くらい持つべきです。
・・・・・・卑怯です。

2002年04月19日(金)
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