│←さのみは言わじ→│
人は皆 頼みなき身と思えども さのみは言わじ さみしきものを
部活が一緒の子がいて、そのこが 「…おれとKは友達ちゃうんけ…」 と一言でも言ってくれたりしたら、今まで、自分を偽って生きてきたのも、棄てたものじゃないと感動したりする。 またあるいは、隣人の女性が、 常日頃ぶすっとした顔しか見せたこと無い様な彼女が、まさか彼女が、私が自動扉の前で立ち止まっているとき、親切な笑顔で 「お先、どうぞ。」と、おっしゃる日には、その時私は、驚きすっ飛ぶような顔をしているに違いない。 なんとも平凡で、喜ばしい一日である。 そう、それだけで私の一日の気分など決まってしまうのだ。 一瞬々々で、良いほうにも悪いほうにも転がる私の日常は、いかに単純明快なものか、これでよくわかる。 私への親からの期待や、注ぎこんでいただいたお金は莫大で、しかし、死ぬということは、それらを全て無効のものにしてしまうことなのだ。 別段、親のほうは、その元を取るというか、返してもらうのではないにしても、それくらいの希望を込めて子供を育てているのだ。 その重い希望や期待や、私たちいつも背負わされて学校へ行き、塾にも行かない三階の暗い階段で、二三時間過ごすのだ、もちろん寝るときだって、そんなもの附けているわけだから、ぐっすり地の底まで眠れたことがない。 いっそ自分は、神隠しにでもあって、不思議の町へ行って、『生きる勇気』と称されるものを土産に、数ヶ月、いや、何十年か、こちらの町の時を止めるか、自分自身の存在が消えてなくなるかして、凱旋帰町したいものである。 尤も、夢のような、アニメのような、話である。 嘘つき、自分。 そして、未だに、一生懸命に生きる、をせずに、自殺する、または死ぬことを理由にして、なんともだらしのない怠惰で無駄な生活をする。 何度、過食嘔吐を繰り返しても、自殺未遂を、学校でしたとしても、誰も関わりたくない問題であるので、人々は、見て見ぬ振りをする。 少しでも関われば、もし、彼女がほんとうに死んだ場合、罪悪感や精神的ショックにより、次に傷つけられるのは自分だと、自殺しなければならないのは自分だと、気落ちしてしまうからだ。 そもそも自分は、助けを外に求めようとはしていないのかも知れない。私は、心のうちで、悲痛な声で叫び続けるが、これを、人に伝えたくはないのだ、いかにも、探し出してほしいのだ。 おまえは何様だ、と思われる方も居るかも知れませんが、私の言葉の伝達術には、酷く欠けるものがあるので、自分の心の内を読み取ってもらうしか、仕方がないのです。この所為かあって、初対面の人とは、更に上手く会話ができない。
§2002年03月10日(日)§ |