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■ 雨に溶けた傷痕(お題:25) 前編
前に友人に上げたネタの登場人物使用のため、当サイトではオリジナルとなります。 (補足) 登場人物の兄(輪太)の職業は絵本作家。 尚次郎と同級生で、高校三年秋に仕事一本に絞るために退学してます。
長いです。ので前後編に分けました。
雨に溶けた傷痕 前編
静かに降る霧雨の中、紅玖(くく)の携帯電話がメールの着信を伝えた。差出人は、 (……お兄ちゃん?) 滅多にメールなんて寄越さない人物――しかも、今は〆切前――の名前に紅玖は怪訝な顔をする。 残り一時間を控えた休み時間、友人との会話に断りを入れてメールを開き、更に眉根を寄せた。 ”至急、学校横の川原に行ってくれない?” 短い文だが、僅かに焦りの色が窺えた。 文面の右上に表示されている時計を見れば、授業開始まであと三分。と同時に教師が入って来る。抜け出すには最悪のタイミング。 しかし、引っ掛かる″至急″の文字。 しばし逡巡した後、紅玖は立ち上がった。 「先生」 「立花(たちばな)、なんだ」 「少し気分が悪いので、保健室に行って来ます」 問いかけではなく、断定された言葉。それに教師が返答する前に紅玖はドアへと足を向け、会釈をすると出て行った。 ドアの閉まる音をかき消す授業開始のチャイム。その音に、呆気にとられていた教師は、教壇に立った。 教室の開始を告げる声を聞きながら、紅玖は音を立てないよう注意して駆け出した。
二学期も終わりに近付いた季節、外の空気は冷たい。そして、それに拍車をかけるかのように降る雨。吐息は白い。 しとしとと降る雨は弱いながらも、空と地面を色濃くする。 そんな重い空気を払拭するかのように広げられた紅玖の紅い傘。 『紅玖の色だな』 恋人の言葉と優しい顔が照れ臭くて嬉しくて、迷わず買ってしまったものだ。 男は、紅玖という名前から言ったのだと思うが、それでも「似合うね」の一言で、心の底から大切にしようと誓ったのだ。 そんなことを考えながら辿り着いた校門。物騒な事件が多発するたむにしっかりと閉められている。 せれに小さく溜め息を吐くと、校門に背を向けて歩きだす。向かった先はグラウンド。道路に面したフェンスが一部破損していることを教えてくれたのは、兄と恋人だった。 「尚次郎(しょうじろう)くん……」 先程から頭を巡る恋人の名を呟きながら、兄に指定された川原へ足早に歩みを進める。川原は学校の横に道を挟んである。抜け道が反対の道に出るため、五分程かかる。 (あれ……) 辿り着けば、雨の音に混ざってサーサーと川の流れる音がする。そして、あまりにも見覚えのある真っ青な傘と背中。 「尚次郎くんっ!」 それは、紛れもなく紅玖の思考を奪っていた件の恋人で、恋人――尚次郎――は、川の淵ギリギリにただ佇んでいた。 「尚次郎くん!」 何の反応も返さない尚次郎に、紅玖は僅かな不安を覚えて再度名前を呼ぶ。その瞬間、一陣の風が吹き抜けた。急な突風に、尚次郎の真っ青な傘は灰色の空へと舞い上がり、そのまま、少し流れの速まった川へと落ちた。フレームの歪んだ傘は不自然な色を残したまま、流されてた。 その光景を、微動だせずに見つめる尚次郎に、紅玖は痺れを切らして近付くと、腕を引いて風から死守した自分の傘に入れた。 「尚次郎くん」 今度は静かに、それでもしっかりと名前を呼ぶ。そこでやっと尚次郎は紅玖と視線を合わせた。 「紅玖……」 呼ばれた名前。瞳に映るのは素直に嬉しいと思うが、その奥に僅かな哀しみを見つけて紅玖は胸が締め付けられる思いがした。 (ああ、私じゃダメなんだ……) きっと、尚次郎がこんな風になるのは初めてじゃないのだろう。そして、そんな彼の傍に居たのは兄の輪太(りんた)だったのだろう。 その考えに至り、紅玖は俯き、自嘲気味に唇を歪めた。 「紅玖?」 俯いてしまった紅玖を不思議に思ったのか、尚次郎が心配の色を孕んだ声で呼びかける。だが、一向に顔を上げる気配のないのを見て、紅玖の頬にそっと手を添えた。それでもなお、紅玖は顔を上げない。 一本の傘に無理やり二人で入っているため、二人共肩が雨に打たれ、黒い制服が更に重みを増した色になる。そこに寒さも加わり、微かに紅玖の肩が震えたのを見て、とにかく雨宿りしようと、尚次郎は俯いたままの紅玖の腕を引いた。 川に架かる電車の通る鉄橋。二人はその下に入り、尚次郎は学ランの下に着ていた、比較的濡れてないパーカーを脱いで紅玖に被せた。 そこで、ようやく紅玖が顔を上げた。 「……ごめんなさい」 「紅玖? ……俺、何かしたか?」 急に謝られて、尚次郎は益々困惑する。 「お兄ちゃんから、メールもらった」 「輪太から?」 それで、なぜ紅玖が謝るのか、尚次郎には理解できない。 「多分、川原(ここ)に居るからって……」 (ああ、) それを聞いて尚次郎は納得する。尚次郎が雨の日に川原に――正確には水辺――に近づくことを知っているのは、両親以外には輪太だけだった。そして、その理由も。 だから、今日も自分の名前を呼んで現へと引き戻してくれるのは彼だと思った。しかし、名前を呼び、視界に入ったのは紅玖で、驚きと同時に、僅かな寂しさを感じてしまったことを彼女は目敏く感じ取ってしまったのだろう。 紅玖は、どこか兄に対して対抗心とも言える感情を抱いている節がある。自分の無意識の行動が彼女を傷つけたのだと思うと、尚次郎は心の中で自分を叱咤する。 「ごめん、……ごめん紅玖。今まで、輪太以外が迎えに来ることがなかったから、」 「……いつから?」 目線を合わせて、精一杯謝る尚次郎に、紅玖が小さく問いかける。 「中学上がってすぐくらいからだから、もう六年になるかな」 「私、全然知らなかった」 でも、と紅玖は思う。 確かに、雨の日には兄は慌しく出かけていっていた。 「雨の日に会ってくれなかったのも?」 「うん、雨の日には絶対水辺に居るからさ」 その答えに、紅玖は泣きたくなる。 「どうして、」 微かに震えた声。どうして、ともう一度心で繰り返した。 (どうして、教えてくれなかったの、) その問いは、紅玖の口から出ることはなかったが、それでも尚次郎の胸には確かに響いていた。 紅玖が尚次郎に出会ったのも、ちょうど六年前だ。兄の輪太が、中学でできた友人だと言って、満面の笑みで紹介してくれたのを今でも鮮明に覚えている。 そして、二人が恋人として付き合いだしたのは、まだ一年ほど前。紅玖がこの高校に入学して初めての夏の頃だった。 「梅雨の時も?」 「うん、輪太は本当に大変だったと思うよ」
出会って間もなく、尚次郎は雨に連れられるように水辺に来ていた。そんな尚次郎の後を着いて来た輪太は、不思議そうに、そして不安そうに傍らに佇んでいた。無言で、それでいて絶妙なタイミングで、 『帰ろう、このままだと風邪ひく』 そう言って、尚次郎が歩き出すのを待っていた。 唯一の救いと言えるのが、尚次郎が行動を起こすのは、必ず午後三時頃だということだろう。まあ、輪太ならどんなに早朝でも深夜でも、着いて来そうだと尚次郎は常日頃から思っていたが。 梅雨の時期は毎日のように授業を抜け出した。 ただ、その時期はプールに佇んでいた。休みの日には風呂場でボーっと溢れる水を眺めていた。川原に行くのは、プールの水が抜かれている時期と、使用中などの理由でプールに近づけないとき、そして、見かねた両親が”雨の日の風呂場半径一メートル以内立ち入り禁止令”を発してからだ。 度々居なくなる二人に、教師も業を煮やしたが、それでも授業開始十分程度で帰ってくることで、もう何も言わなかった。
「理由、訊いてもいい?」 「いいけど、面白くないよ」 「別に面白さを求めてるんじゃない……、ただ、尚次郎くんのこと知りたいだけ」 (さすが、兄妹) 尚次郎は、一人心の中で呟いて苦笑する。 『お前のこと、知りたいだけ』 同じ真っ直ぐな瞳で、真摯に言われたことを懐かしく思い出す。 (敵わないな、) そうして、ゆっくり深呼吸をして話し始めた。
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2005年06月26日(日)
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