みやにっき
詩人を名乗ることにした。

2002年06月02日(日) 容れ物がないから/背中をさらして立った

<現実時間の叫び>

ぐきゃうるひいいいいいぃいぃいぃ(悲鳴)
トローチがトローチがトローチが不味いんだよおおぉおおぅ。
喉のため声のため仕事のために頑張って舐めますが。
こんな状況でなければ,穴掘って埋めるか,プレス機にかけてしまいたいくらいだ。

</現実時間の叫び>



とまあ叫んでみましたがみやにっきです。
いつまで経っても追いつかない日記に業を煮やしたので。
テキストで当日の日記を書いておいてから,過去日記を書くことにしようと思う。
なので5日からの分は一気に埋まる…はず。
自分の言うことは信用できないできないできてない。

日曜日日記。
前日の夜にほとんど眠れず,明け方からようやくうとうとと。
眠ったり起きたりをくり返しているうちに昼になっていました。
ゆぅりとひたすらメッセで話していたりした。
最近僕たち仲良しさんです。
嬉しいです。
年齢の近い女の子で恋愛話も表現の話もできるって貴重。
女の子ってやっぱり好きだなあ好きだなあと思う。
御飯を一緒に食べるなら,向かい合わせよりも並んで食べたい。
同じ方向を向いて手をつなぎたい。
女の子女の子。

んでもってにゃおのサイトの一行詩に結果が出ているのを見てきゃいきゃい。
別HNで投稿していたりして選ばれたりしていて楽しい。
一行詩は好きだ。楽しい。
余分なことを書かないで済む自分が好きだ。
人が余分なことを書いていないのを見るのも気持ちがいい。
自分の詩に対しても人の詩に対しても,言葉が徒に多いのを感じている。
本当にそれが必要なのかしら。
そういう書き方しかできなかったろうか。
他にもっと必要な言葉があったのじゃないかしら。

その一言を。

粘土で塑像を作る。

エスキスを作る。
手のひらサイズでもなんでもよろし。
自分の言葉のとっかかりを作る。

鉄柱を立てる。
垂木を棕櫚縄でくくりつける。
垂木に棕櫚縄を水で濡らしながらぎちぎちと巻きつける。
よく練った粘土を,棕櫚縄にこすりつけるようにしてつけていく。
最初は何十キロ分もがんがんつけていく。
隙間があかないように粘土が浮かないように,角材で叩いて粘土をしめながら。
つけすぎるくらいつけたら,いちど一休み。
離れて自分の塑像(デッサン)を眺める。
また角材で叩いてしめながら,おおまかに面取りをしていく。
そうしながら削る。
削る。
またつける。
削る。削る。眺める。つける。削る。
眺める。
削る。
そんな繰り返しで,じわりじわりと塑像がしまっていく。
土の風合いが鋭さを増す。
近視眼的な塑像は,ぼやんとむっちりと肉付きがだらしない。
だらしない言葉に満ちている。
表現したいのは,ぴっちりと張り詰めた皮膚の手ごたえ。
こんなぶよぶよのたるんだ言葉ではなく!

んで,できたら石膏でとりましょう。
光の加減の美しさ。
陰の美しさ。
そこまで見たい見たい見たい。
張り詰めて。

ダイエットしましょう。
きっと軽くなります。
ダイエットしましょう。
きっと軽くなります。
ダイエットしましょう。

そしたらきっと,もっと遠くまで歩いていかれます。

その一言を。

んで,夜。
何気に詩を書いている。
変に踏み込まない,しかし思い切り踏み込むものを書きたい。
昔,何かの雑誌の映画評でフェデリコ・フェリーニのことを評した記事があって。
上品と下品で言ったら,フェリーニ作品は上品であるという話だった。
登場人物それぞれは貧相だったり猥雑だったり下世話だったりの役どころだけれども。
それを描く視線が上品なのだ。
説明しすぎない,踏み込みすぎない,けれども本質にじっくりと迫る。
感情を設定を押し付けずに,受け手の感受性を引き出すもの。
そういう上品さ。
そういうのをやっていきたいと憧れている。
黙って語れ。

黙って語れよ。



というところで何がなにやら。
今日のタイトルは『駅の14秒間』(2000年3月)より。
まんま尾崎放哉だけれども。
あそこまでの受容はできなかったという僕のかなしさ。



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きっとかなしい。
うつむいて泣く。



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