| 2006年09月07日(木) |
ありがとうとごめんなさい |
どちらも大事な言葉であることは言を待たないし、「最近の子どもは・・・ができない」という文脈で語られる批判オールタイムベスト10に入るのではなかろうかと思う。 ありがとう、と言われれば嬉しい。 ごめんなさい、と言われれば、気持ちはおさまる。
私は、どっちもなかなか言えない人間である。 その意味では「最近の子どもは」と批判される代表格のまま大人になってしまったとも言える。 なるべく是正しようと、心がけている。 ただ、自分は、感謝の言葉とか、何か世話になったときのことをずっと恩に感じることを他人に要求したくない。 するぐらいなら、初めから親切になんかしない。 自分がしたくてしたからには、恩や感謝の問題ではない。 (ただ、こういう心構えでサービス業を行うとただのぶっきらぼうなので、仕事のときはもっとナイーヴな状態になることを発見したが) 他人の人生の窮地を救うような親切をする人、というのがいる。 で、そのあとも相手がずーーっと「自分が今あるのはあなたのおかげだ」とことあるごとに言い続けることを願ってやまない。 寂しい優しさだと思う。 誰にでもできることではないから、それはそれで立派なことだと思うけど、後で「馬鹿を見た」なんて言わなければならないのは、とても寂しい。 世の中には、「ごめんなさい」と簡単に言って言動に全く改善の見られない人がいる。それなら、謝らなくてもいいから改善しようという意志がある方がいい。だから、「謝れ」という言葉も、人になるべく言いたくない。 そんなことを言いながらも、街で人とぶつかったときに相手が無言だとちょっとむっとするのだが(笑)
なんでこんなことを書いたかといえば、MORI LOG ACADEMYの「感謝渇望症候群」(7月)という部分を読んで、考えたから。 私の中にも、確かにそれはあるな、と思う。 だから研究職には向かなかったのだろう。 政治家や研究者は、誰にも感謝されない職業である。 役に立つ、という観点からも、いつかの誰かの未来のため、というひどく曖昧なものでしかない。(自分の満足のため、とか、その分野自体のためとかもあるが) 世襲議員ばかりになるのは望ましいことではないが、仕方がないのかな、とも思う。 奥野健男が太宰について、「弱さを生涯持ち続ける強さを持っていた」と書いていたのを思い出した。 あんまり関係ないか。
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