| 2006年08月28日(月) |
犬猫好き友人には聞かせられない |
坂東眞砂子氏の子猫殺しエッセイの話。昔のエッセイによると、子犬も殺したことがある模様。 エッセイ本文を斜め読みしたが、理屈がよくわからない。動物の避妊手術を人間のエゴと否定した上で、自分の飼っている猫が産んだ子どもを痛みや悲しみを感じてまで崖から放り投げる(ことで社会的責任を果たしている、という)理由がさっぱりわからない。 生と死がどうのこうの、と言っているのだが、下手すると「生の充実感を得るために動物を殺している」と解釈できてしまうような。 それじゃサイコパスだが。 子犬の方の話に至っては、「同時期に親子である2匹の雌犬がどっちも産んでしまって取り合いになって、飼い主の自分がおたおたしているうちにどっちの子も死んでしまったので、次は混乱しないよう片方を始末した」というもの。生の充実も何も関係ない。ただ、飼い主として無能なだけだ。 この人が引き受けなければならないのは「痛み」「悲しみ」ではなく、「飼い主という立場であること」だろう。
私自身は子どもの頃動物が嫌いで、今はそうでもないが、根っからの動物好きというわけではないので、正直、動物を飼っている人の、動物一般に対する愛情の深さ、野良動物虐待に対する激しい憤りに完全にシンクロすることはできない。 「自分の」犬が大事なのはわかるが、「野良の犬」までも大事、というのが不思議に感じる。 「ひでーことするな」とは思うが、どちらかというと、弱い対象を傷つけ殺すことで心満たしている人間に対する嫌悪感の方が強い。 とか書くと坂東氏と同類に思われそうでアレなんだが、一方で、「子どもの虐待」ニュースに対してはものすごく腹が立つ。感情的になる。 精神分析のセンセイならちゃんと説明してくれるだろうけど、まあたぶん何かしら心理的にこだわる部分があるんだろう。 それはともかく、「伊勢海老の活き造りは虐待」とか「フォアグラは虐待料理」とか、近年の先進国では生き物全体に対する愛護精神が浸透していて、それを偽善と呼ぶ気持ちもわからないではないが、それだけ豊かな国になったのだなあ、と思えばいいのであり、生の充実感が得られないのも豊かな証拠だ。「何を大事にするか」は社会の合意だから、時代時代で変わってくる。子どもが間引きされてた貧しい時代もあったわけだし。 それに比べたら、いい時代になったなあ、と思う。 もっとも、ナチスのように、動物愛護しながらユダヤ人を虐殺していた国もあるが。
http://www.j-cast.com/2006/08/25002714.html
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