早瀬の呟き日記

2005年11月18日(金) 「豊饒の海」

全4巻読み終わりました。どうも好きな作家の遺作だと思うと、なかなか開く気になれず長年本棚に埋蔵したままだったのですが、「春の雪」が映画化ということで、この際読んでしまおうかと。ラストはとある評論で知っていたのですが、別にミステリィじゃないのでネタバレしてても気にしません。
どんなジャンルであれネタバレが嫌だ、という方は以下の感想をお読みにならないで下さい。



叙述トリックや夢オチは、最後まで計算した上で書き始めないといろいろつじつまが合わなくなり読者に文句を言われてしまうのですが、本作はどうも途中から予定変更になった気配がします。「暁の寺」あたりで、三島の構想が変化しているような。そのせいか、この巻からつまらなくなったという人が多いのも理解できます。ウンチク多いしな(笑)
しかし、これはやはりこうなるべきだった、と個人的には思います。やはり自決と無関係には考えられないのですが、その自決の仕方はともかく、三島が死ななければならなかった理由はこの作品に立ち込めていると思うからです。恐らく、三島自身の定義では、三島は「生きていなかった」のです。
糸圭秀実氏はこれを「ゾンビがゾンビについて書いた物語」と評していますが、まさにその通りではないでしょうか。死ぬ理由は、何でもよかったのです。たぶん。
「天人五衰」ラストで何故門跡となった聡子さんが清顕の存在を否定したのか。いろいろ解釈はできると思うのですが(聡子さんがボケてしまったなど)、「春の雪」冒頭を読み返してみると、本作の語り手にして真の主人公の本多が1行目から出ていることに、作者の意図を超えたこの作品の真意が出ていると思われます。
三人称多元という「神の視点」すなわち近代小説の透明な語り手としての自己を、徹底的に否定する。それによって語られた物語も否定する。
それが、この作品の主題と「なってしまった」のです。
「豊饒の海」の真の語り手は本多であり、清顕は本多の分身、幻だったのです。一見「転生」を描いているようでいながら、途中から本多は無理やりに転生を信じ込もうとし始める印象があります。作者はそれに気づいて、「こんなもんは嘘っぱちなのではないか」と疑いを持ち、ミュージカル「エリザベート」のごとく、これは本多がルキーニとなって死霊を呼び起こして演じさせたドラマなのだと感じたのではないでしょうか。
物語る自分、特権的な位置にいる自分。
それを否定するために、「天人五衰」は安永透を登場させ、彼の「堕天」と本多の幻滅を描いたのです。
ここで思い出すのは、三島の文壇デビュー作「仮面の告白」です。
これもまた、叙述トリックだと私は考えています。
男色青年の自伝に見えながら、実は単に(現実の)女性に対して嫌悪を抱くほどにウブな「純粋さ」を保持しようとした少年の物語なのではないか。当時から「前半と後半のつなぎが不自然」という批判があったらしいのですが、それはむしろ当たり前、そこがトリックだったと思います。
三島自身がどこまで意識的だったかは、関係がありません。
重要なのは、登場時から彼のスタイルが完成していた。つまり、「変化しない」=「死んでいる」ということです。もう少し日常的に言えば、「老成」していたのです。そして彼自身は、その老成=五衰を肯定できなかった。「花ざかりの森」に対し、「私はもはやこの作品を愛さない」、若いくせに小ざかしくて嫌だ、とコメントしていたことからも、それがうかがわれます。
しかしそもそも、若いときから五衰していたとすれば、原初の居場所はもはやこの地上にはない。
三島はとにかく死ぬしかなかったのであって、楯の会も横の会も本当は関係なかったのでしょう。
若者の未熟さをそこまで崇拝するか、生きて汚れることはそんなに嫌か、とふつーの人間は思うことでしょうが、三島が戦中派だったことはポイントかもしれません。

さて。映画の方はまだ見ていませんが、はっきり言って「春の雪」は清顕の性格上、悲恋とは呼べず「自業自得」の話です。妻夫木聡がどういうキャラクタ設定で選ばれたのかわかりませんが、三島のある種の俗物性を考えるとき、あまり貴族に見えないキャストとなったのも、それはそれで正解かと思われます。三島作品はすべからく、「ゴージャスなキッチュ」なのですから。


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琳 [MAIL]