| 2005年03月16日(水) |
優しさだけじゃ人は愛せないから |
新聞なんかで「生きる意味を見失った若者」という表現に出会う度に違和感を覚えるんだが、「見失う」というのは「今まで見えていたものがどこかへ消えて見えなくなる」という意味で、それじゃ「生きる意味」ってのは最初はあるものなのか。 赤ん坊にはそんな高度な自覚はあるまい。母乳よこせ、おしめが不愉快だ、眠い、ということを遠慮なく主張しているだけである。なら幼児ならあるのか。ある訳がない。小学校高学年あたりからそろそろ複雑な年頃になるが、複雑になるのは行動パターンだけで結局は赤ん坊と同じ、「不愉快から逃れて快楽を得る」ことを追求しているのだ。大人になっても同じである。ただ、大人になると「折り合いをつける」ことが上手くなるので(それが上手い人を大人と言うので)「不愉快だけどやる」とか「あえて快楽を遠ざける」という芸当ができるようになる。時には、「不愉快なんだか愉快なんだかよくわからんがどうでもよろしい」という神仙のごとき高度な境地に達することもある。ついでに、「快楽」の内容がどんどん不純なものになる一方で「不愉快」の内容がどんどん高品質になる。 「生きる意味」なんてもんは最初からない。逆に、1人1人に「生きる意味」があらかじめ用意されている社会の方が窮屈で不気味だろう。「生きる意味がない」というのは贅沢で幸せなことだと私は思う。 どっちかというと「俺って生きてる意味ねえなあ」と感じるのは、個人的で具体的な問題があるときじゃないだろうか。それはもう、当人と周辺関係者の問題であるから、マスコミがあれこれ言うことではない。 ネット心中も同じだ。「死んではいかん」というメッセージは当人の周辺関係者が言うべき台詞であって、第三者が説教するようなものではない。特に、「死ぬ気があれば何でもできる」は愚の骨頂である。(猪木が似たようなことを言っていたような) 第三者とは無力なものであり、「そりゃ―無理もない。遠慮せず死になさい」と慰めるくらいがせいぜいである。もし周辺関係者の誰にも「お前が生きてる方がありがたい」と言われないのであれば、それはそれで悲惨なので十分死ぬ理由になるのでは。 ちなみに題名はブルーハーツの「人にやさしく」より。けだし名言である。
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