早瀬の呟き日記

2004年03月13日(土) 球体関節人形展

「イノセンス」連動企画の球体関節人形展を見てきました。
天野可淡の人形が沢山見られたのが何よりの収穫ですね。欲を言えば「マリア・クローチェ」(現在は閉鎖)のように近くで見たかったなと思いますが(他の作品は間近で見られるのですが可淡コーナーは柵があってあまり近づけないのでした)、いやいや、やはりあの鬼気迫る人形達は美しいです。CD-ROM欲しいなあ・・・。
他の展示作品も色々な趣向と作風で面白かったです。人形というかオブジェになっているものが多かったですね。私は純粋に人形なのが好きですけど。
何体か、とても心惹かれる人形がありました。ずっと見ていたいと思わせる、恍惚の表情を浮かべた少女、微笑する少女、眠っている少女。ああ、イノセンスだなあ、としみじみ思わせる子達でした。しかし、人の顔をしたものを沢山の人がじいっと近くで凝視している構図はなかなか奇妙で、こういう、外部の眼差しや言動に対する徹底的な受動性が人形のイノセンスなんだろうなあ、と思いました。それは、神のイノセンスにも似ている。神は何も語りません。そして、何も拒みません。教義は、神が求めたものではありません。イノセンスな神は、既にして死んでいるのです。神という概念が生まれるその前から。四谷シモン氏の男性像は長髪に髭、「これはジーザスだな」と直感的に思いました。
まだ映画を見ていないのですが、監督のコメント等を散見すると、ちょっと「イノセンス」の捉え方が違うのかなという感じです。「攻殻機動隊」の近未来世界では「人形になってしまったほうがいい」ということで、「人間性を持たないイノセンスな人形」になることは「人間性という幻想を捨てること」のようです。私は、それは別に「人形のイノセンス」ではないんじゃないかと思いますが。だって、徹底的に受動的な人間、他者の言動全てに対して無抵抗な人間が、あり得るでしょうか?
少なくとも、まだこの社会では、人間はイノセンスにはなれないし、なろうとするべきではない、と私は思います。人間はヴァルネラブル(傷つきやすい)ではあっても、イノセンスであることは、できません。その代償として、人形というイノセンスな存在が慰めとして与えられている。
やがて人間が人形に近づくとしたら、それは「イノセンス」でも何でもなく、ただ別の人間性を獲得するに過ぎないんじゃないでしょうか。その社会にはもう、人形というものは存在しないかもしれません。
まあ、映画を観てちゃんと解釈したらまた違った意見になるかもしれませんが・・・。
ミュージアムショップでは「イノセンス」ノベライズ版と、ドール特集の雑誌を購入。カタログは、天野可淡作品が載っていなかったのでやめて、ポストカードでも買おうかと思ったら、気に入った作品のは殆どなくて(売切れかな?)、しかもアングルが良くなかったので断念。そうそう、展示品の材料が明記されていてありがたかったです。参考になりました(笑)


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琳 [MAIL]