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■ 聖女の名前4 3校
「……ところで、幽霊って靴は脱げるのかしら?」 マンションの玄関口で、志乃は困ったような表情で自分の足元を見下ろした。花飾りのついた白いストラップシューズの隣には、すでに匡の脱いだ革靴が、爪先を扉に向けてきちんと揃えられている。匡とその相棒がこの夏から暮らし始めたのだという一室は、日本におけるマンションのごく標準的な仕様から外れないもので、当然ながら土足禁止だ。 「靴を脱ぐ幽霊というのは、あまり聞かないな。――というより、日本的な幽霊というものはそもそも足がないものだったと思うけど」 「そういえば、そうねえ」 「ま、そのまま上がってくれて構わない。汚すこともないだろうしね」 高都匡はひょいと肩をすくめると、先導するように居間へ足を向ける。志乃はもう一度、白い靴に目を落とした。 「とりあえず、試してみるわ。汚すことがないにしても、人様のお宅に土足で上がりこむのは気持ちが悪いもの」 しゃがみこんで靴の止め金に指を伸ばす。ぱちりと音がして、あっけなくストラップが外れた。 「あら」 思わず声が漏れる。匡が振り返って志乃の足元を見つめ、無言で片眉を上げた。 「外れちゃったわ」 「……そのようだね」 ともかく上がっておいで。そう言葉を残して匡はふたたび背を向ける。その一瞬、漆黒の瞳の奥で青い炎が揺らいだことに、2つめの止め金に手を伸ばしていた志乃が気づくことはなかった。
ジーンズのポケットから取り出した鍵を鍵穴に挿そうとして、瀬能朔は首をかしげた。鍵を持ったままドアノブに手を掛ける。 手首をまわしてみると、ノブはするりと廻った。出るときにはたしかに掛けたはずの鍵が開いている。 「高都が帰ってきているのか」 真田麻里亜が肩越しに覗き込みながら、そう声をかけてきた。 「らしーわ」 「出直そうか?」 「や、気にせんで。つーか、戻ってんなら今日のアレ、話しときたいしな。むしろいてくれると助かる」 「じゃあ、お言葉に甘えて」 麻里亜はにこりと笑った。それに笑い返し、朔はドアに向き直る。 (単に俺が笑われるだけだしなー) そこのところは胸の内にしまっておく。 片手に提げたビニール袋ががさがさと音を立てた。最近ろくな食事をしていないという話になって、麻里亜が夕食を作ってくれることになったのだ。その展開は一週間前に匡が仄めかしたそのままで、少なくとも麻里亜を帰したあとには散々からかわれることは間違いがない。間違いはないのだが、ここで麻里亜を追い返して状況が良くなるというものでもなかった。むしろ彼女の好意を無にしたことでねちねちと苛められることだろう。 この一週間、音沙汰ひとつなかったというのに、どうしてあの相棒はこうもタイミングが絶妙なのか――とは、朔は考えない。それが高都匡という人物だということを悟る程度には、彼との付き合いは長いのだ。幸か不幸か。 「たーだいま、っと」 もろもろのことをひとまず棚上げしながら鍵を回し、扉を開けて靴に手をかけ、しかしそこで朔はぴきりと固まった。 視線の先には見覚えのない、どう見ても女性用の、小さな白い靴。 続いて入ってきた麻里亜が、硬直している朔に戸惑いの表情を向けた。視線を追いかけて足元を見やり、わずかに眉をひそめる。 「……やっぱり、出直したほうがいいか」 「……………………えーっと」 どちらともなく顔を見合わせたところで、廊下の突き当たり、リビングに通じる扉が音もなく開いた。 「おかえり、朔。まりあもようこそ。なにをためらっているのか知らないが、入っておいで」 聞き取りやすいテノールが呼ぶ。 朔と麻里亜はもう一度顔を見合わせ、そこに互いによく似た困惑の表情を見つけると、それぞれにため息をひとつこぼして、無言で靴を脱ぎ始めた。
リビングはコーヒーの芳香に包まれていた。 それぞれデザインの違う4つのカップを、高都匡は優雅な手つきでガラステーブルに並べていく。 薔薇の花弁のような優雅な曲線を持つオフホワイトのカップセットが、ここでは麻里亜専用と決まっていた。ミルクコーヒーの柔らかな色がよく似合う。麻里亜のそれより色の薄い液体の入った、大ぶりで厚手のカップは朔のものだ。猫舌用に少し冷ましてあるらしく、立ちのぼる湯気の量もほかとは違っている。 南洋の海を思わせる濃い青に、金の縁取りがアクセントになった薄いカップの中身は、匡の好むブラックコーヒーだろう。そしてもうひとつ、泡立てたミルクを浮かべた可憐な花模様のカップが、この部屋にいる4人目の人物のために匡が用意したものだった。 「ありがとう」 少女は匡に軽い会釈を送って、にっこりと微笑んだ。 玄関に残された靴の印象そのままのの華奢な少女である。腕も足も柳のように細く、なめらかな頬はどこか病的に白い。 コーヒーの湯気越しに初対面の少女を観察し、違和感に麻里亜は眉をひそめた。 はじめに目に付いたのは服装だ。レースのカーディガンと薄いコットンのワンピースという出で立ちは、どう考えても、秋も深まり始めたこの季節にはそぐわない。 少女の指が添えられたスプーンに伸びる。動きを追うように視線を動かし、そして次の瞬間、麻里亜はほとんど落とす勢いでカップを戻した。 ガチャンと耳障りな音を立てたガラス製のテーブルには、少女の姿が映っていない。浅く掛けたソファに落とす影すらもない。 ――それは、つまり。 意識するより速く、右の手が牙月に伸びようとする。
「まりあ」
はっと顔を上げると、少女の隣の席に腰を下ろした高都匡が、まっすぐに麻里亜を見据えていた。 唇にわずかに笑みすら浮かべた穏やかな表情とは裏腹の、底知れぬ深い闇をたたえた瞳に、呪縛されるように麻里亜は動きを止める。 「紹介するよ」 瞬きのひとつで常の表情を取り戻すと、何事もなかったかのように落ち着いて座っている少女を、匡は揃えた指で指し示した。 「こちらは桐原《きりはら》志乃」 「桐原と申します」 深々と頭を下げる。 少女――志乃が顔を上げるのを待ってから、匡は何気ない口調で付け加えた。 「お気づきのとおりに幽霊だ。――俺が昨日殺した相手だよ」
「………………おまえ、なァ……」 朔が片手で頭を抱えた。 「そーゆー台詞をさらっと言うな、頼むから」 「どう言っても事実は変わらないのだから、シンプルに言うほうがいいと思うんだけどね、俺としては」 「あーハイハイハイわかった俺が悪かったその通りですもう言わない。……んで? どーゆー経緯でお前がえーと志乃サン? を殺して、んで志乃サンの幽霊がここにいんの」 「もちろんそれも説明するつもりだけれど」 匡はなだめるように片手を挙げる。 「その前に紹介の続きをさせてもらうよ。片方だけ紹介したままでは不公平だからね。志乃、これが瀬能朔」 「お話には聞いてます。匡の相棒さんね? どうぞよろしくお願いします」 「あー、こっちこそ……」 ふたたび丁寧な礼をした志乃に、朔は毒気を抜かれたような表情で会釈を返した。 「それから、こちらが真田麻里亜さん。古い友人の孫でね。この街の当代の守護者殿だ」 「『守護者』さん?」 「そのあたりも、あとで説明するよ」 「お願いするわね。麻里亜さん、はじめまして。ごめんなさい、驚かせてしまったわね」 「――こちらこそ、無作法を」 かたくこわばった唇を無理やり開き、麻里亜はかろうじて言葉を搾り出す。
(これは、ひとのかたちをして、ひとにあらざるもの) (“護り人”たる牙月の主が、その刃で屠るべきもの) (斬らねばならない) (ころさなければ、いけない) (それが、真田の務め)
くりかえし告げてくるのはかたわらの牙月なのか、それとも自らの心なのか。麻里亜には区別がつかない。 ……これまではなにも、迷わなくてよかった。
2006年06月24日(土)
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