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■ 聖女の名前 4
「……ところで、幽霊って靴は脱げるのかしら?」 マンションの玄関口で、志乃は困ったような表情で自分の足元を見下ろした。花飾りのついた白いストラップシューズの隣には、すでに匡の脱いだ革靴が、爪先を扉に向けてきちんと揃えられている。匡とその相棒がこの夏から暮らし始めたのだという一室は、日本におけるマンションのごく標準的な仕様から外れないもので、当然ながら土足禁止だ。 「靴を脱ぐ幽霊というのは、あまり聞かないな。――というより、日本的な幽霊というものはそもそも足がないものだったと思うけど」 「そういえば、そうねえ」 「ま、そのまま上がってくれて構わない。汚すこともないだろうしね」 高都匡はひょいと肩をすくめると、先導するように居間へ足を向ける。志乃はもう一度、白い靴に目を落とした。 「とりあえず、試してみるわ。汚すことがないにしても、人様のお宅に土足で上がりこむのは気持ちが悪いもの」 しゃがみこんで靴の止め金に指を伸ばす。ぱちりと音がして、あっけなくストラップが外れた。 「あら」 思わず声が漏れる。匡が振り返って志乃の足元を見つめ、無言で片眉を上げた。 「外れちゃったわ」 「……そのようだね」 ともかく上がっておいで。そう言葉を残して匡はふたたび背を向ける。その一瞬、漆黒の瞳の奥で青い炎が揺らいだことに、2つめの止め金に手を伸ばしていた志乃が気づくことはなかった。
ジーンズのポケットから取り出した鍵を鍵穴に挿そうとして、瀬能朔は首をかしげた。鍵を持ったままドアノブに手を掛ける。 手首をまわしてみると、ノブはするりと廻った。出るときにはたしかに掛けたはずの鍵が開いている。 「高都が帰ってきているのか」 真田麻里亜が肩越しに覗き込みながら、そう声をかけてきた。 「らしーわ」 「出直そうか?」 「や、気にせんで。つーか、戻ってんなら今日のアレ、話しときたいしな。むしろいてくれると助かる」 「じゃあ、お言葉に甘えて」 麻里亜はにこりと笑った。それに笑い返し、朔はドアに向き直る。 (単に俺が笑われるだけだしなー) そこのところは胸の内にしまっておく。 片手に提げたビニール袋ががさがさと音を立てた。最近ろくな食事をしていないという話になって、麻里亜が夕食を作ってくれることになったのだ。その展開は一週間前に匡が仄めかしたそのままで、少なくとも麻里亜を帰したあとには散々からかわれることは間違いがない。間違いはないのだが、ここで麻里亜を追い返して状況が良くなるというものでもなかった。むしろ彼女の好意を無にしたことでねちねちと苛められることだろう。 この一週間、音沙汰ひとつなかったというのに、どうしてあの相棒はこうもタイミングが絶妙なのか――とは、朔は考えない。それが高都匡という人物だということを悟る程度には、彼との付き合いは長いのだ。幸か不幸か。 「たーだいま、っと」 もろもろのことをひとまず棚上げしながら鍵を回し、扉を開けて靴に手をかけ、しかしそこで朔はぴきりと固まった。 視線の先には見覚えのない、どう見ても女性用の、小さな白い靴。 (……あーのーやーろー) 続いて入ってきた麻里亜が、硬直している朔に戸惑いの表情を向けた。視線を追いかけて足元を見やり、わずかに眉をひそめる。 「……やっぱり出直そうか」 「えーっと……」 顔を見合わせたところで、廊下の突き当たり、リビングに通じる扉が音もなく開いた。 「おかえり、朔。まりあもようこそ。なにをためらっているのか知らないが、入っておいで」 聞き取りやすいテノールが呼ぶ。 朔と麻里亜はもう一度顔を見合わせ、そこに互いによく似た困惑の表情を見つけると、無言で靴を脱ぎ始めた。
リビングはコーヒーの芳香に包まれていた。 それぞれデザインの違う4つのカップを、高都匡は優雅な手つきでガラステーブルに並べていく。 薔薇の花弁のような優雅な曲線を持つオフホワイトのカップセットが、ここでは麻里亜用と決まっている。ミルクコーヒーの柔らかな色がよく似合う。麻里亜のそれより色の薄い液体の入った、大ぶりで厚手のカップは朔のものだ。猫舌用に少し冷ましてあるらしく、立ちのぼる湯気の量もほかとは違っている。 南洋の海を思わせる濃い青と金の縁取りがアクセントになったカップの中身は、匡の好むブラックコーヒーだろう。そしてもうひとつ、泡立てたミルクを浮かべた可憐な花模様のカップが、この部屋にいる4人目の人物のために匡が用意したものだった。 「ありがとう」 にっこりと微笑んで、その少女は匡に礼を言った。玄関に残された靴の印象そのままのの、華奢な少女だ。腕も足も柳のように細く、赤みの少ない頬と合わせて、どこか病的なものを感じさせた。 おかしな服装をしていた。コートを脱いだものと考えても、レースのカーディガンと薄いコットンのワンピースという出で立ちは晩秋にはそぐわない。だが彼女のまとう違和感の原因は、そういったものとは根本的に違うところにある。 麻里亜は袋の布越しに牙月の柄をぎゅっと握りしめた。 (――なにを考えている?) 牙月が魔物を察知して鳴るのは抜刀している間だけだが、こうして触れていれば麻里亜はその波動を読み取ることができる。その波動が、目の前にいるのが人ではないと麻里亜に伝えてきていた。そう知って観察すれば、カップを取り上げる腕が、ガラスのテーブルにまったく映っていないことにも気づく。 隣に座る瀬能朔はどこまで察知しているのか、リビングに足を踏み入れてからひとことも発しないままだった。今も無表情にぬるいカフェオレを啜っている。 「高都――」 硬い表情のまま、麻里亜は差し向かいに座る青年の名を呼んだ。意図は充分に通じていただろうが、高都匡はそ知らぬ風で笑うと指をそろえて少女を指し示した。 「物騒なものは置いて、と言いたいところだけどね、まあいいか。紹介するよ、こちらは桐原《きりはら》志乃」 「桐原と申します」 コーヒーカップを口許から降ろし、少女は深々と頭を下げた。 少女――志乃が顔を上げるのを待ってから、匡は何気ない口調で付け加える。 「俺が昨日殺した相手だよ」 「――――」 「おまえねぇ……」 麻里亜は絶句する。朔が片手で頭を抱えた。 「そーゆー台詞をさらっと言うな、頼むから」 「そう言われても、事実だからね」 「あーハイハイハイわかった俺が悪かったその通りですもう言わない。……んで? どーゆー経緯でお前がえーと志乃サン? を殺して、んで志乃サンの幽霊がここにいんの」 「もちろんそれもいずれ説明するけど」 匡はなだめるように片手を挙げる。 「その前に紹介の続きをさせてもらうよ。志乃、これが瀬能朔」 「お話には聞いてます。匡の相棒さんね? どうぞよろしくお願いします」 「あー、こっちこそ……」 ふたたび丁寧な礼をした志乃に、朔は毒気を抜かれたような表情で会釈を返した。 「それから、こちらが真田麻里亜さん。古い友人の孫でね。この街の当代の守護者殿だ」 「守護者さん?」 「そのあたりも、あとで詳しく説明するよ」 「そう、わかったわ。……はじめまして、桐原で――」 「――高都!」 こちらを向いてまた頭を下げた志乃の声を遮って、麻里亜は声を荒げた。 牙月を握りしめた手が小刻みに震える。 触れているそこから、牙月は繰り返し伝えてくる。目の前にいるそれは人に非ず。それは、魔性に属するもの。真田の当主たる己が斬るべきモノ――。声なき声が幾重にも麻里亜を取り巻いて、息さえも満足にできない。苦しい。……苦しい。 こんな想いなど、したくないのに。 牙月を握ることが己の宿命ならば、迷いたくなどないのに。 「麻里亜」 やわらかな声が、麻里亜の名を静かに呼んだ。
2006年02月03日(金)
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