ウラニッキ
You Fuzuki



 あしたのみらいのそのむこう(仮)1

「みーらーいー」
 学校指定の革靴の爪先を玄関のタイルにとんとん打ち付けながら、私はまだ二階にいる妹を呼んだ。
 また靴がきつくなっている。秋に新調したばかりなのに。このぶんだと身長も伸びているのかもしれない。……憂鬱だ。
「いまいくー!」
 慌てた声が階上から降ってくる。でも、しばらく待ってみても当人が降りてくる気配はない。
 私はため息をついた。憂鬱の種が、もうひとつ。
「おかーさーん!」
 朝食の皿を洗っている母に聞こえるように声を張り上げる。
「未来《みらい》につきあっとったら遅刻するー! うち、やっぱ先行くけえ!」
「やだー!! 待ってえや!」
 母が返事するより早く、だだだだだ、とすごい音を立てて未来が駆け降りて来た。
「いっしょに行くゆーて約束しとったじゃん、あすかちゃんのいじわるー」
 わたわたと靴を履きながら、未来はぷくっとほおをふくらませた。もう中学生になるというのに、まるで子供っぽい仕草。
 でも未来にはそういうのが似合う。私とは大違いだ。それはたぶん、二つの歳の差だけが理由じゃない。
 ちっちゃくて可愛くてぶきっちょの未来。
 私の憂鬱の種。
 そのぼさぼさ頭をぽんと軽く叩いて、私は真新しい指定鞄を取り上げた。
「ほら、行くよ」
「きゃっ、待って待ってぇ」
 玄関に手をかけて振り返ったら、エプロンで手を拭きながらやって来た母が、着替えて後から行くけんねと手を振った。
「いってきまーす!」
 新学期が、はじまる。

   *

 桜並木をてくてくと歩く。
 私の通っている、そして今日から未来も通い始める楠木台《くすのきだい》中学校は、バス通りから一本曲がって坂道を下った突き当たりにある。家の裏口はバス通りに直接面していて、そっちから行けばいくぶん近いのだけど、交通量が多くて歩道も狭いし、道路を渡るのに信号か陸橋を使わなくてはいけないので、私はほとんど使わない。それになにより風情がない。少し遠回りだけど公園沿いに歩いて短いトンネルを抜ければ、私が今歩いている、この桜並木の遊歩道に出られるのだ。
 今年の桜は少し遅いと、たしかニュースでやっていた。四月に入ってもう一週間になるのに、まだ満開ではないらしい。春特有の強い風に、つい制服のプリーツを押さえたのに、桜の梢はざわざわと鳴るだけで、ピンクの花びらが舞うことはなかった。
「やーんっ」
 未来が髪に手をやって、情けない悲鳴をあげた。
「どしたん」
「髪ー」
「どうせ最初っからぼさぼさなんじゃけ。少々変わらんよ」
「うう……」
「じゃけ早うから練習しときんちゃいゆーとったじゃろー?」
「練習しよったもん! でもあすかちゃんみたいにできんのんじゃもん……」
 ぼさぼさのおさげを両手でぎゅっとつかんで、未来は俯いてしまった。……ちょっと言い過ぎたかもしれない。
 背中まである茶色のくせっ毛を二つに分けて三つ編みにしてやるのは、三月までは私の役目だった。中学からは自分で編むこと、できないのなら短くすること、というのはずっと前からの約束だったのだが……。
 実のところ、春休みに何度か練習して、苦戦しいたのも知っている。今朝もたもたしていたのもそのせいだろう。見た目にはふわふわとやわらかそうなこの髪は、どうしてなかなか手強いのだ。
「……学校着いたら編み直しちゃるけえ、そんなしょげんさんな」
「ホント!?」
「その頭で入学式は風《ふう》が悪いじゃろ。入学そうそう妹がいじめられるゆうんもね」
「わーい、じゃけえあすかちゃん大好き! はよ行こうやあ」
「あんたぁねえ」
 苦笑して、途端に元気になった妹のあとを追い掛ける。
 春風がまた吹いて、私の髪を耳元で揺らした。

   *

 特別教室棟のトイレに入って、私は未来の髪を直してやった。
「はい、できた。もうあんまりいらいんさんなよ?」
「うん、ありがとう! あすかちゃん、すごいね。なんでそんなにぱぱっとできるん?」
「そりゃあ、ずーっとあんたの髪はうちが編んどんじゃけ。 自分のはよーやれんかもしれんわ。まあ、この長さじゃ編もう思っても編めんけど」
「髪、伸ばさんのん?」
 未来は首を傾げて私を見上げた。細いおさげがぶらんと揺れる。
「……短いのが好きなんよ」
「そうなん?」
「そ。ほら、クラス発表見てきんさい。そろそろ皆教室に入りよるはずよ」
「あすかちゃんは?」
「ついでじゃけトイレ寄ってく。三年は教室一階じゃけんね、あんたより時間あるわ」
「そっかー」
 こくんと頷いて、未来はぱたぱたと去っていった。
 一人残された私が、トイレの鏡に映っている。
 ついさっきの未来の笑顔を思い浮かべて、にこり、と笑ってみる。そしてすぐに後悔して目を逸らした。
 鏡のむこうから笑い返したのは、ふわふわした茶色の髪とくりくりした大きな二重の目とすべすべした桜色の頬の少女ではなくて、分厚い眼鏡をかけた地味な顔立ちの優等生だ。
 トイレに寄るなんて口実だ。新学期の一日目から、未来と並んでいるところを大勢に見られたいわけがない。未来をせかしてまで早い時間に家を出たのも、中庭のクラス発表を見もせずにまっすぐこっちのトイレに来たのも、本当はそれが理由だ。
 未来が嫌いなんじゃない。
 でも、未来といると憂鬱になる。
 神様がいるのなら、神様はどうして、私と未来を姉妹にしたんだろう。

2006年02月20日(月)
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