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■ 『その花の名前は』Century20編草稿2
桜にわずかに遅れて、その木は繚乱を迎えていた。 鬼の棲むという、死体が眠るという、花ばかりが先走って視界を染める桜の在りようと、それはずいぶんと違う。若葉の緑と花弁の白と、二つの色を同時に抱いた平凡な花木が、まるで世の理〔ことわり〕そのもののように見えた。 誘われるように庭に出て、瀬能朔はその木を間近に見上げた。 きりりとした眉と通った鼻筋が与える力強さを、いくぶん大きめの黒目がやわらげている。180を越す身長のほかにはとりたてて特別な容姿ではないが、神も瞳も黒くて日に焼けているせいだろうか、影の濃い印象があった。雑踏にいても目立つだろう。 「なんか、いいな、この木」 しばらく無言で見上げたあとで、朔はぽつりと呟いた。 らしくもなく感傷的なのは、相棒の気鬱がうつったのかもしれなかった。花の季節が来るたび、高都匡は少しだけおかしくなる。それでも朔の前ではいつもどおりに笑うのが気に食わなくて、喧嘩の果てに出奔してきてしまっていた。今年もまた桜が散るまで、ひとときの別離が訪れるのだろう。 新緑の頃にはお互いけろりとして、もとに戻るのもわかっているのだが。 「気に入った?」 背後からかけられた声に、朔は振り向いた。ラフな部屋着にカーディガンを羽織った格好で、笑いかける女は二十代半ば。容姿も服装も典型的なハイティーンの朔と並ぶと、少しばかり奇妙な取り合わせに見えることだろう。姉か、いとこか。それくらいの年齢差だ。 「朔が花が好きとは知らなかったわ」 「や、別にそーゆーわけでもねんだけどさ」 ぽりぽりと、朔は人差し指で頬を掻く。目の前の木に感じたものを、うまく言葉に表すのは難しかった。 「よくわからないけど。気に入ってくれたなら嬉しいわね。この庭の中であたしの一番好きな木なのよ」 「そーなんだ? 俺、初めて見た気がすんだけど」 「そういえば、今年は開花が早いわね。いつも朔が帰ってから咲くから。これ、梨の花よ」 「へえ」 朔は感嘆の声を口にのぼらせた。意外な身近さに加えて、感嘆の種はもうひとつある。 「てことはこれ、梨花子〔りかこ〕と同い年だったり」 「するのよ、ありきたりなことにね」 目の前の花の名前を持つ女は、肩をすくめて笑った。梨の花のようなとは、楊貴妃を讃えた言葉だったか。歴史に名高い美女に比するには、あまりに平凡な容姿の女だった。そういうところが、魅力でもあるのだが。 「でもいいじゃん、毎年自分ちの梨食えるんだろ。今度秋に来ようかな」 「残念でした。梨の大馬鹿十八年って知らない?」 「は?」 「桃栗三年柿八年、の続き。小学生の頃さんざんそう言ってからかわれたわよ。梨って実をならせるの難しくてね、うち、十八年どころか二十五年たってもいまだに実がなったためしがないわ」 「じゅうはちねんー? なっがいなそりゃ」 「長いわよ。生まれたばかりの子供が、高校を卒業しちゃうんだもの」 いとおしむように、実のならない木の肌を梨花子はやわらかく撫でた。 「二十五年なんかもっと長いわ。大学も出て、就職して、嫁きおくれて」 「……りか?」 「でも朔はずっと、そのままなのよね」
=================== まだまだ続きます。やべえなんか長くなりそうだよ……プロット3行なのに! なぜだ!
2003年08月01日(金)
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