詩の歌いだしは、恋愛、難解さ、私小説、色彩豊か、などいろいろな要素が詰め込まれていた。
書くのは苦痛ではなかった。
ことばを繋げていくのが、苦しかっただけで、パズルを解くようになれていった。
書いた内容は無駄なものが殆どでも、書いていることでパズルを解くのに慣れていくことに満足を覚えた。
他者に見せることなどなく、賞への応募もせず、ただ黙々と一人でジグソーパズルを作って部屋に飾るだけを繰り返した。
文字はパズルよりもいい。
基本要素のピースが劣化しない。完成品は場所を取らない、汚れない。そして時を経て書いた当時の気持ちを忘れてしまえば、多様な解釈が生まれてくる。
気持ち悪さ、吐瀉したい気持ち、など負の感情を生じさせることに、最も大きな意味があったように思う。
自分の過去に気持ち悪さを感じ、貧困、病弱、犯罪者に吐瀉したい気持ちを持つことが、一般人である、という社会常識を獲得するに至るからである。
その目を通して見える自分は、巨大昆虫のようにおぞましく、憎たらしく、苦々しいものであった。
巨大昆虫である自分を捨てさろうとし、捨て去れず。
捨て去ろうとして、反発の気持ちも生まれ、混合しつづけていた。
あるいは、捨て去れないからこそ、守ろうともした。
内在的葛藤に外在的葛藤が入ることもあった。
実際の恋愛や友人や金銭、環境の変化などによっても、右往左往した。
けれども、それらは本性上の問題でない、と認識はしていた。
孔子、仏陀、イエス、墨子、伊東仁斎、石田梅岩、本居宣長、鈴木大拙等の偉人を解するのは、学問上、社会一般上ではなく、私の内在と照らし合わせるためであった。
そのために、小説を書き、詩をさえずったのである。
そして私は、私のこの内在上の行為が代替可能性を保持しており、私の行為は誰かが行える行為でしかなく、私の個性というものが、唯一無二であるという幻想を打ち壊すに至った。
仕事や運動、加齢や病気などの外在上の行為のみならず、貧困、病弱、犯罪者から生じた蔑みの心、抑鬱の心、それらを小説や詩で取り組み、偉人と照らし合わせる、そしてそこに生じる数々の解釈までもが、すべて代替可能性を保持している、と認めるに至ったのである。
ここに私の個性というのものはなく、時代や社会背景や私の属性に縛られている個別性のみが、「ある」と捉えたのである。
私の肉体の滅びの後に、唯一無二の個性を残そうとして書いてきた小説や詩というものの価値が、ここについえることとなる。
無気力に落ち、自暴自棄になることもあったが、より自身の姿、本性を見つめたことを知った。
そしてそれを今後も見つめていきたいと思っている。