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「 私とは行為である ーなぜ、私の替わりは誰かが可能である、のかー 」
2020年11月01日(日)



 金銭や恋愛、名誉などの外的葛藤のみならず、哲学的思索や抑鬱などの内的葛藤でさえも、代替可能性を持っていると、私は結論付けた。

 1つのは、技術史における発明において「誰かがいなければこの発明はなかった」という歴史が一切ない、という解釈に基づいている。
 アインシュタインの相対性理論でさえも「アインシュタインがいなければ相対性理論の発見はなかった」と言えない、という自然科学上の知見にも基づいている。人類の獲得しえる方法論上の最も強固な技術史や自然科学史における厳然たる事実から目を背ける訳にはいかなかったのである。

 もう1つは、これらの人類の発展史、あるいは宇宙、地上に存在する存在者一般、私自身の内的世界も含めて、斉一性に包まれており、再現性が存在しない、という点に基づいている。いみじくも、カール・ポパーが不完全ながら科学の法則の性質を示したように、人類の発展が現在とは異なる形がないがゆえに、再現性を証明できないのである。再現性を持つとした場合、マルクス・レーニン主義の「歴史法則」のように、同語反復を帯びてしまうのである。この点に目をつぶることはできなかった。

 以上から、私の外的葛藤や内的葛藤というものが、唯一無二である、という主張をする立場が瓦解したのである。
 そして、私は「個性はなく個別性のみが存在する」という主張を取るようになったのである。

 それゆえに、私、私の行う行為とは、代替可能性を持っている個別性が本質であると考えることとなった。
 私が唯一無二の個性がない、時代や社会背景によって規定される存在者でしかなく、私が選択しうるは代替可能性を持っているけれども行為でしかない。であるがゆえに私は行為にのみ存在しうる。行為にのみ存在しうるからこそ、個別性があるとしか主張しえない、となった。
 私が唯一無二の個性であると主張するためには、再現性を持つものと比較しなければならない。けれども、再現性も持つ歴史を人類は、可知範囲内に持つことができない。それゆえ、歴史と比べて私自身が唯一無二と主張することも叶わないのである。

 「私の替わりは誰かが可能である」

 という単純な結論を出すのに、何十年も掛かった。
 掛ったが、今は晴れ晴れという気持ちもある。


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